ファシズム化しつつある日本社会

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※自由の暴走は無秩序だが、行き過ぎた管理はファシズムへと繋がる


今日、とても驚いたことがありました。
地域名は伏せておきますが(以下、A市B地区とします)、非常に「ファシズム再来」の危機感を持たずにはいられないような場面に遭遇したのです。

A市B地区は、「学歴の高い人が多く住んでいる」というのが住民の誇りで、かつ大企業に勤め、1000万円以上の年収は「当たり前」という裕福な人(といっても、世界的に見たら「プチ裕福」ですが…)が住んでいることを自慢にしているような地区でした。
しかし、その裏では教育ママ…いえ、「教育モンスターママ」の熾烈な争いが繰り広げられ、かつ、学校と教育モンスターママ達における周辺住民に対する圧力もかなり酷いものがありました。(おそらく学校側は意図していなくても、モンスターママ達の言いなりにならざるを得ないという状況なのでしょう。)

そんなB地区で今日コンビニに寄ったところ…妙な違和感に気づきました。
なんと、酒類が1本も置いていないのです。
その横には、店主と思しき人の一筆が書いてあり「事情により、しばらく酒類の販売を中止します」と書いてありました。

その理由は、「クリスマス、お正月による未成年者への販売防止」でした。
見たところ、どこのコンビニにも置いてある「成人雑誌」さえ、そこには置いてありません。B地区に詳しい人から聞いたところによると、そこの地域には「自分達の都合優先で圧力をかけるお母さま方団体」がいるそうです。
 
私は心底「ぞっ…」とさせられました。
別に私は「酒類販売」や「成人雑誌」を置くことを推奨しているわけではありません。
そうではなく、一店舗の営業方針にさえ口出しする団体がいるということ自体に、恐怖感を覚えたのです。
恐怖感──いえ、嫌悪感に近いかもしれません。

この行き過ぎた「管理社会」を、皆さんはどう思いますか?
正直、こんな行為に出た団体は「おバカ」としか思えません。
成人雑誌をどんなに禁じても、見たい未成年者は「あの手この手」を使って、潜り抜けてネットを見るでしょう。酒類だって、よほど欲しければどんな手段を使ってでも手に入れるでしょう。ぶっちゃけ、今の時代は大人より、子供の方が遥かにネット社会に精通していて、頭が廻るのですから。

むしろ、「販売制限」をかけられたコンビニの方が気の毒です。完全に売り上げは「落ちる」でしょう。ある意味「被害者」と言えます。「店舗、建てる場所を間違えたね…」と、慰めてあげたい気分です。
クリスマス、お正月と言えば「一番、酒類が売れる時期」です。
クリスマスならシャンパン、お正月なら日本酒など、準備しておいても足りなくなってコンビニに飛び込む人は少なくないでしょう。
その時期に、「販売中止」を強いられるんですよ?
むごいとしか言いようがありません。

ですがもし、この「き〇がいじみた管理体制」について違和感なく受け入れられたり、或いは「別にどうでもいいことだから」と思うとしたら…その人は間違いなく「日本病(参照:こちら)」にかかっています。
また、そういう「ワケの分からない圧力」をかけてくる人たちは、日本病を通り越して「ファシズムの元凶」と言えるでしょう。「自分たちがやっていることが正しい」と思ってやっていたら、彼(彼女)らはもう重病です。
 
日本は思想の基盤がないせいか、何事においても極端に偏りがちです。
教育の中で「倫理」「哲学」を学ぶ機会もなく、信仰心を知る機会もなく、ただ高学歴と一流企業に入ることだけを目標に育った子供は、一体大人になってからどこへ向かうのでしょうか?

余談ですが。
仮に私が悪の親玉だったり、イルミナティの一員だったとして…「世界の中で『奴隷』を推奨するとしたら、どの国民を選ぶ?」と聞かれたら、一番先に「日本人」というでしょう。
頭はいいけれど、ずば抜けて天才というよりも平均して秀才的
民族的な血筋として忠実な精神も宿っている。
その上、「恥」を重視した歴史が長いので、周りを見ずに意見する者がいるわけでもない。また仮に、そういう意見をする者がいても多くの者は追随しない。
その上努力家で責任感も強く、仕事をやる上では完璧にやりこなす。でも、主人に抗うことはないだろう。

そういう理由で、「奴隷にするのだったら、日本人を」というのはすごくよく理解出来ます。
仮にそうなったら、私は容赦なく「NO!」と言いますけれどもね(苦笑)。

ファシズム化した社会において、アウトローは「正義」なのかもしれません。
私はいつの時代も、どんな時代になってもアウトローで居続けようと思います。


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2017-12-19 | 社会 | トラックバック(0) |

行き詰まる社会~一刻も早く求められる意識改革~

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                                 Photo by (c)Tomo.Yun )
           ※社会に暗雲が立ちこめようとも、それを「ひとつの警告」と捉えれば恐怖はなくなる。
             「何も出来ない」と無力に思うのではなく、「自分に何が出来るだろうか」という視点で捉えれば、
             社会の試練は、個々人の霊性を開かせる「大きなチャンス」と言い換えることが出来るだろう。


 病院勤務になってからは電車に乗る機会も激減していたのですが、昨年末から今週にかけては東京まで外出する用事が多く、久しぶりの電車生活を楽しんでおりました。

 ところが──。

 そのうちのほぼ毎日、どこかしらで人身事故が起きていることに気がついたのです。
 最近では各路線で振り替え輸送に関わる駅などがあった場合、電光掲示板で他路線の人身事故もお知らせするようになった為、「その関係で増えているように感じるだけではないか?」と思ってもみたのですが…どうやらそういうわけでもなさそうです。
 東京まで行かずとも「ちょっと隣町まで」という感じで電車に乗っても、その路線で人身事故による遅延。
 先日は、私が電車に乗って帰宅した1時間後に、家から歩いて3分ほどの最寄り駅で人身事故がありました。

 飲み会シーズンだったので、お酒に酔った方の接触事故も多いのかもしれませんが、それにしても頻回すぎる印象を受けます。
 それで、「人身事故における自殺の比率」についてネットで調べてみたところ、興味深い記事がありました。

(参照)鉄道の路線別人身事故・自殺発生件数の推移(関東)
 http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/6851.html

 このグラフを見ると、人身事故自体が増加の傾向を辿っていることが一目出来ます。その増加の背景には、もしかしたら高齢者で徘徊してしまう方の増加なども含まれているのかもしれません。(実際、認知症の方が踏み切り内に入ってしまって事故になるということも増えていると聞いています。)
 しかし、「自殺の比率」で見た場合、2002年からずっと60%超えで横ばい状態が続いていることが分かります。
 人身事故の10件のうち6~7件が「自殺」ということになります。

 年間自殺者が3万人と言われて久しい日本ですが、状況はあまり大きく変化していないように見受けられます。
 それどころか、これからも増えていく危険があるのではないかと感じさせる側面もあります。

 昨年末にNHKスペシャルで放映された「子どもの未来を救え─貧困の連鎖を断ち切るために─」の中では、連鎖されていく貧困の中で苦しむ母子家庭や女性達が取材されていました。
 その現状は、同じ女性として聞いているだけでも胸が痛くなり涙が出る程、あまりに辛く、厳しいものでした。

 中には、そうした生活苦の不安から自殺未遂をしてしまう方もいるとのことで、経済苦がどれほどその人の全人的な苦痛を生み出しているかを実感させられました。

 驚くべきことに、日本における子どもの6人に1人が、貧困ライン(1人世帯122万円未満)以下で暮らしているそうです。
 そうした生活が子どもの成長や精神状況にも影響を及ぼし、無力感に苛まれたり虐めの対象になったり、或いは不登校に繋がったりしていくのは想像に難くありません。(ちなみに、こうした日本の貧困の状況は、先進諸国の中でも第四位だったりします。一人世帯の貧困率に関して日本は1位だそうです。あれだけ移民を受け入れているアメリカを抜いて貧困率が高いということは、雇用に関してなど様々な問題が複合的に絡んでいそうですが…ちょっと驚きです。)

 減少しない自殺者数、貧困世帯の増加、高齢社会問題など、日本は数々の問題を抱えています。
 世界各国も問題を抱えていますが、日本も同じです。
 日本は決して、世界と比較して恵まれているわけでも、守られているわけでもありません。ただ単に、日本人は国民性として「我慢してしまう」傾向があり、貧困に追い込まれている人や自殺する程悩んでいる人達は、内面に問題を抱え込んでしまい社会に訴えることがないから、気づかない人が多いというだけなのでしょう。
 問題から目を背ければ背ける程、自分達人類が意識を変えていかなければならないという気づきは遠ざかり、いつまでも臨界点を突破出来なくなります。そうしたことの方が、私は「問題となる」ようにも思えます。

 ポジティブ推奨派の人達はこうした社会の問題から「目を逸らした方が良い」と考える人もいますが、私はそうは思いません。
 問題ばかりに意識を向けすぎると「問題だけ」が目につくようになり、解決策さえ見えなくなってしまうことがありますが、冷静な目で同時多発的に起きている問題を見つめ、地球が置かれている現状を知るということ自体は、とても大切なことだと考えています。

 社会は決して「楽観的に捉えられる現状」ではありませんが、それはある意味、私たちが意識のシフトチェンジをすることで、新たな道を切り開く為のチャンスでもあると言えるでしょう。
 今、社会や世界でどのような問題が起きていて、私たちに何が求められているのか──この2015年という1年は、その「気づき」を与える年になるのではないか、そんなふうにも感じている次第です。


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2015-01-10 | 社会 | トラックバック(0) |

時代と意識の変遷─1990年代から現在に至るまで─

 私は以前から「人の意識は時代からの影響を受け、また同時に、時代にも影響を及ぼしている」と考えていました。
 「人の意識が時代の影響を受けるというのは何となく分かるけれど、時代に影響を及ぼすというのはどういうことだろう?」とお考えの方もいるかもしれません。「人 対 時代」と考えると分かりづらいかもしれませんが、対個人で考えればすぐに想像がつくことと思われます。人同士の影響が「一方通行しかあり得ず、相手方からは何の影響もない」などと考える人は、おそらく皆無に近いでしょう。それと同じで、対象が人でなかったにしても──例えば社会、環境、文化など──影響力というのは常に相互作用を起こしているものなのです。

 そうした意味で考えると、今という時代──人々の意識レベルは時代の進化に呼応しながら「大きく変わっていった」ようにも思えます。
 
 そう言われても、あまりピンと来ないかもしれませんので、時代の変遷──および、私自身が触れてきた精神世界とを比較しながら、例を挙げて説明します。
 時代を今から「15年ほど前」に遡らせてみましょう。
 1996年辺り──この頃の日本で精神世界は「閉ざされていた」と言えます。
 多くの方もご存知のように、1995年に起きたオウム真理教事件の影響を受け、ヨガ教室や精神性のことを語る人達がいっきに陰を潜めた時代です。
 代わりに浮上してきたのは、終わりのない日常を受け入れるという皮肉(というか諦め?)をどこか含んだかのような現実主義。
 また片方では、現実(日常)を受け入れられない少女達が「援助交際」「リスカ」といった自傷行為をすることで、自己のアピールをするような時代。改めて振り返ると、「何かが歪んだ時代」だったように思います。
 人の中に「ぽっかり」と空洞が出来てしまったかのような、そんな時代。
 何故そんなことになってしまったのか──私はその原因が「バブル期」にあったのではないかと推測しています。
 この時代に特徴づけられるのは「物質崇拝主義」。高学歴、高収入といった「お金」の損得で価値観が決まったような時代。そのくせ個性なんてものはなく、むしろ少しでも周囲と違った意見を言おうものなら白い目でみられるような時代でした。
 勿論「自分さがし」なんて言葉さえ流行ったことはありません。と、いうよりも──物質が豊かだった為に、「内面を磨く」ことなんてしなくても、何でも手に入った時代だったからなのでしょう。
 しかし、人間は「パンのみに生きるにあらず」です。内面と向き合うことなく、意識を高めることなど出来はしません。
 そうした空虚感を抱いた感受性の鋭い人達が、1990年前後に活動が盛んになった新興宗教に惹かれていった側面は否定出来ないように思います。

 だからある意味において、オウム真理教が事件を起こす「前」までは、かろうじてまだ人々の精神性のバランスは保たれていたような気がします。
 あの事件が起きて以来、精神性の探究はことさらに日の目を浴びることがなくなりました。勿論、それでもコツコツ研究や活動を続けていた人達はいますが、一番気の毒だったのは「現実生活に虚しさがあるけれども、その答えをどこに求めていいのか分からない」と感じる人達だったような気がします。
 本来私たちは、日常と非日常の間を行ったり来たりしながら、自分の霊性や意識の方向性を定めていくものなのです。にも関わらず、「非日常を完全否定」されてしまったが故に、行き場のないこころが自傷行為に走ったり自殺をする人達を増加させていった傾向にあるのではないか──私はそう感じています。

 一方、オウム真理教の影響ですっかり精神世界は廃れたのかと言えば、決してそんなことはなく──2000年頃、「前世療法」をテレビ番組が取り上げたことをきっかけに、再び注目を浴びるようになりました。
 私が記憶しているところによれば、一番最初に注目されたヒプノセラピールームは「大槻ホリスティック」だと思います。
 このルームは大槻ご夫妻による運営ですが、奥様の大槻麻衣子さんは「前世療法」を執筆した精神科医ブライアン・L・ワイス博士から直々に指導して頂いた方で、本も何冊か出版されています。前世療法をしている数少ないルームとして、今から11年前に取材記事が載っていたのを覚えています。
 それから数年の間、「前世」に関わる本の部数が伸びてきました。一時期影を潜めていた精神世界の本は、2000年になってノストラダムス関連の本と入れ替わるようにして新たに広がっていったのです。
 また、新たに成長しはじめた精神世界に関するイメージは、今まで精神世界にまとわりついていたような「暗いイメージ」「おどろおどろしいイメージ」が払拭され、とても明るいものへと変わっていきました。

 それから2003~2005年ぐらいまでの間に、精神世界(スピリチュアル)の活動は分派、および成長していきました。1990年から1995年頃までも、確かに精神世界は羽振りを利かせていましたが、その頃はむしろ宗教的特色の強いものが目立っていたのです。しかし、一度根絶状態になってから復活してきた精神世界は、まるで垢抜けたかのようにさっぱりしていて、普通に生活している人達でも簡単に手に取れるような「気軽さ」があったのです。
 この頃、「転生」や「霊魂の存在」を信じていつつも、周囲からの否定で堂々と認めることが出来なかった人達は、大いに安堵したことでしょう。
 また、多くの批判は出たものの、江原啓之氏による貢献は大きかったと思います。彼がテレビ番組に出ることで、それまでは「死」について考えなかったような人でも考えるようになり、「霊は怖いものだ」という考え方から「身近な存在なのだ」という考え方へ変わり──そして「命の普遍性」についても考えるきっかけを与えてくれたように思います。

 そうした意味においても、表層的に江原啓之氏の活動を批判することは「出来ない」と、私は思います。
 彼の存在がなければ、ここまでスピリチュアルという言葉は浸透しなかったでしょうから。
 確かに、色々と問題はあったと思います。私自身、100%江原氏の言動や行動を評価出来るとは思っていません。
 しかし、本来こうした「目に見えない世界の智慧」は、いつまでも精神世界を探究する一部の人達だけに明かされた智慧であってはいけないはずです。
 ひとりでも多くの人がその智慧に触れる為には、江原氏のような活動も必要だった──私はそう思います。多くの精神世界活動家がいても、ここまでスピリチュアルという考え方を一般化出来たのは「江原氏あってのこと」だと、私はそう評価しています。

 このようにして、2001~2005年まではいわば、「現実だけが、すべてではない」「死の向こう側にも世界が続いている」ということを気付かされる時代だったように思います。
 しかし、人類の意識はすでに、この時期を足がかりに新しい局面を迎えようとしていました。

 2006年頃から、人々の興味は「前世」に留まらず、「アセンション」へと移行しつつあったように思います。
 私が初めてアセンションという現象について知ったのは2004年ですが、その頃は別段強く興味を持っていませんでした。2006年頃からブログなどで急に「アセンション」が騒がれるようになり、根拠のないお祭り騒ぎが嫌いな私は、従来の反骨精神からか「アセンション否定論者」をずっと名乗っていたぐらいです(苦笑)。
 
 ここでひとつ、興味深い「意識の変遷」が見受けられます。
 2000年代前半では、人々の関心は「前世」や「死後の世界」にありました。
 いわば「現実世界」を超えたものの、それでも範囲は「地球」に限定されていました。孫悟空で言うならばお釈迦様の手を超えた「向こう側」──いわば「地球上での転生という枠組み」を超えた「向こう側」には、まだ発想が行き着いていなかったのです。
 ところが、2000年代後半になって「アセンション」が注目を集めるようになってからは、人々の意識は「地球上での転生」を飛びこえ、「宇宙での転生」をも意識するようになりました。

 たった10年間で、人々の焦点は地球上の転生だけではなく、宇宙の果てにまで及ぶようになったのです。

 普段生きている中で、そうした「意識の変遷」はなかなか気づけないかもしれません。日常の中で生きていると、「今、感じている自分」が10年前から変わらなかったように錯覚してしまいますが、いざこうして振り返るとそこには想像を絶する程の「進化」があったことを思い知らされます。
 特に、「今まで霊魂とか死後の世界とか考えたことなかったけど、今ではすっかり精神世界抜きの生活は考えられない」という人は、是非、10年前の自分と今の自分を比較して頂きたく思います。おそらくは、何かひとつの問題点をとったとしても、10年前の自分と今の自分では感じ方が違うはずです。
 それは「性格が変わった」とか「温厚になった」ということだけでなしに、「自分の生きる世界がひとつの星から宇宙にまで広がったから」ということが出来るような気がします。

 見つめる世界が広ければ広い程、人の思考は深くなります。
 世界は何も変わっていないように見えますが、こうやって個々人の意識進化を目の当たりにすると、「少しずつでも成長しているのかもしれない」という希望が持てますね。 



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2011-10-02 | 社会 | トラックバック(0) |

物質世界という名の檻

 父の死に関して、多くの方からメールを頂きました。
 お心遣い、誠にありがとうございます。本当はきちんとお返事したいのですが、しばらくの間は時間が取れないと思うので、この場での御礼にてかえさせて頂きます。

 最近、「人間社会における死」についてよく考えています。
 普通の「死」であれば、前回の記事にも書きましたように、三次元における拘束からの解放と私は考えています。しかし、「人間社会における」という前提がつくと──話はまったく、変わってきてしまうのです……。

 今現在、私は「死そのもの」と向き合う間もなく、ただひたすら葬儀準備に追われています……。
 亡くなったのは23日ですが、すぐ連絡したにも関わらず斎場の予約がとれなかったので、通夜が一週間延びてしまったのです。
 その為、告別式が終わりすべてが完結するまで、かなりの時間が出来てしまったという──。(余談ですが、妙に最近「亡くなる方」が多い気がします……。私の近所の斎場も、毎日通夜なり葬儀がされている程です。かなり高額な斎場なので、今までそんな頻回に葬儀がされているところなど見たことないのですが──。ある意味、これも2012に向けてのひとつの流れなのだろうか、などと感じています。)

 父が危篤になってから亡くなるまでよりも、亡くなってからの方が「忙しい」気がします……。
 何よりも「葬儀の準備」が大変で──経費を削減しつつ、でも「多くの弔問客(金はないクセに、人脈だけはある親なので;)」が見込まれる為、帳尻あわせるのでてんやわんやです。

 しかし──。
 そうした葬儀の対応に追われる中で、ふと思うのです。
 葬儀とは、果たして「誰のため」にあるのだろうと。
 私は前からそのことを疑問に思っていましたが、自分が直接的な体験をするまでは「遺族のためにやるのだろう」と、そう思っていました。
 まぁ、「死を自覚していない故人に、気付かせる為」というのもあるでしょうが──私が思うに、最初から死を自覚出来ていない故人の場合、葬儀程度では「自覚しないだろう」と思います。おそらくは、まるで他人事の顔して遺族席に座っているような気がしますので(事実、そういう例が沢山あるのだと、霊感のある僧侶が語っていたのを思い出しました)。
 だから葬儀はむしろ、「故人との決別を自覚するよう、遺族のためにするのだろう」と、そう思っていたのです。

 なのですが──。
 いざ自分が直接的な遺族になって思うのは、「故人との決別をするのであれば、葬儀なんて厄介なことしない方が、遙かに心の整理がついていい!」ということでした……。
 葬儀の段取りだの弔問客への配慮だの──ぶっちゃけ三次元の拘束ばりばり!で、今になっても「何のためにするのか」まったく分かっていないまま、周りの意見に押し流されて動かしているといった感じです(「周りの意見に動かされるなんて、篠崎らしくない」とお思いの方もいるでしょう。ですが、残念ながら故人は「死に必ずしも達観していた」とは言えない父であり、喪主は母なのです。そうである以上、彼らが重んじる世間の慣習に、私も従わざるを得ないのです──。)

 はっきりいって──かなり「しんどい」です……。
 すごく協力的になってくれている親族がいるからこそやっていられるようなもので、それもなければ、「葬儀の意味」について模索する為、山奥の庵にでも籠もってしまいそうな勢いです(……籠もっているうちに、葬儀が終わってしまいますな……)。
 葬儀やそれに纏わる慣習は、そこに住む人達の「地域性」や「伝統」を意味するものでしかなく、直接的に故人の霊魂への浄化に繋がるかといえば、そうではないようにも思います。また、これだけ信仰心が薄くなった社会においては、「この宗派のもとで、旅立ちたい」という思い入れもそうそうないでしょうし、ますますもって「葬儀とはなんぞや?」という思いに駆られます。
 以前注目された映画「おくりびと」は残念ながら見ていないので、もしかしたらそこに「葬儀における意義」があるのかもしれませんが──どう百歩譲っても、私にとってこうした儀式は物質世界における区切りでしかなく、あまり「意味がない」ように思えてならないのです……。
 少なくとも、今回の一件を通じて私は「自分が死んだ時の為に『散骨』の申込みをしておいて(最近では、死亡保険のように事前に申込みしておけるシステムがあるようです)、遺書にも『葬儀をしないでいい』と残しておこう」と、つくづく思いましたが……。

 本来、誰かの負荷になるような儀式というのは、筋が違っているのではないかと感じます。
 結婚式にしたって、「節目」とは言いますが、そんなものは自分で自覚すればいいだけの話であって、わざわざ披露するものでもない──世間ではよく「いきなり結婚式に呼ばれて、金がかかって困る」なんて意見も聞きますが、そんなふうに周りに迷惑をかけてしまうものを「する必要性って、あるのだろうか」と私は疑問でならないのです。

 勿論、周囲が「自主的に」というのであれば、話は別です。
 黒澤明監督の映画「夢」に出てきたように、「死んだ人を、村人総出で踊りながら送り出す」というのは、なかなかいい姿勢だなと思いました。
 あの作品に書かれていた死は決して「ネガティブ」ではなく、「今までお疲れ様」という意味で、まるで旅人を見送るかのように笑ってみんなで送り出すというスタイルで、個人的に「すごくいいな、こういうの」と感じました。
 こういう葬儀であれば、送られる方も幸せだろうし、送る方も「楽しい」でしょう。また逆に、そんな葬儀に参列した側も「こんなふうに自分も見送られたいから、精一杯頑張って生きよう」というモティべーションに繋がるかもしれません。

 どうせ儀式をするのであれば、みんなが幸せになるものであって欲しい──そう思います。
 今ある葬儀のシステム、これだけ永く慣習として残っている以上は「必ずや、意味がある」のだと思えます(もっとも、江戸時代などのシステムは上記紹介した「夢」に近いシステムだったのかもしれません。唯物的視点が入ることによって、葬儀の意味も変わってきたのかもしれませんが──)。
 しかし、様々に時代が変わってきて、「肉体に宿っている時だけがすべてではなく、むしろ、その時の方が『かりそめ』かもしれない」と思われるようになった「今」も、多くの負荷をかけて葬儀をしていく意味があるのだろうか──と考えずにいられません。
 これらはあくまでも「物質世界のシステム」であって、故人の霊魂をさておいた「表層的は廻り」でしかないように思えてしまうのです……。

 今まさに、私は「物質世界の檻の中」に閉じこめられているような感覚です。
 自分ひとりの問題であればはね除けられますが、多くの人達の思いが絡んでいる以上、そうも出来ません。
 おそらくは、これもまた私の「学び」なのでしょう。自分の価値観とは大きく異なる渦の中で、その「つなぎ目」を辿りながら今を生きている──といった今日この頃です。


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2011-05-26 | 社会 | トラックバック(0) |

「人を裁く」ということ

 一週間ぶりの更新です。
 この間ほとんどまともな文章を書いていなかった為、なかばリハビリがてらの更新ですが、何卒ご容赦くださいませ──。

 ブログを更新していなかった期間は「アウトプット休養期間」でもあったので、その分インプット──情報収集に時間をかけていました。
 それだけでなく、自分の身近なことでもあれこれ悩みが尽きなかったせいか、高次元に関することを思索するというよりも、身近な案件に関することを考えることが多かったように思えます。ある意味、私にしては珍しく、どっぷり三次元に浸かった期間とも言うべきでしょうか(苦笑)。

 そんな私が隈無く目にしていたのは──あろうことか、元俳優・押尾学の法廷ライブでした。
 普段は芸能人なんてまったく興味を示さない私が、珍しく今回この記事を読むに至った理由は、逐一法廷ライブが公にされていた為です。被告本人にしてみれば不本意なことかもしれませんが、司法を考える上ではとてもいい機会でした(オウム真理教事件など、一部法廷ライブが公にされたこともありましたが、初公判からずっと公開されるのは初めてのように思います)。

 もう10年以上前の話ですが、私は元夫の薦めにより「司法書士資格」を目指していたことがありました。
 当時は法科大学院(ロースクール)などもなかったので、司法書士が受かった後、司法試験にもチャレンジしたい──そう思っていました。司法書士受験中に少しだけ司法試験の問題をかじったこともありますが、重箱の隅をつつくような司法書士試験の選択問題に比べたら、司法試験の論述の方が遙かに自分の質にあっているようにも思えた程です。

 そんな思いをかつて抱いたことがある分、この法廷ライブは「あらゆる視点を多角的に味わえるもの」でもありました。
 被告に否定的になることもなく、また、被害者に過剰な同情をすることもなく、冷静に見つめることが出来たように思います。
 なのですが──私が疑問を抱かずにいられなかったのは……「明らかに、弁護側と検察側の意見が食い違っている」ことでした。
 勿論、法廷なんていうのは最初から「対立する場」です。なので、弁護側と検察側の意見が衝突するのはごくごく当たり前のことなのですが、私が疑問だったのは万が一自分の信念に偽った論証をしなければならなくなった時、一体どうするのだろうということだったのです。

 そう考えた際、実は法廷というのは、正義を重んじる場ではなく、あくまでも権利関係でどちらが有利かで判断される場なのではないだろうかと、そんな疑問が拭えなくなりました。
 確かに、現在の司法においては、物的証拠や証人の証言に頼らざるを得ません。しかし、もしそれらにいっさい頼れなかったとしても「絶対に無罪である」と確証出来る罪状においてはどうするのでしょうか。もしくは逆に、「明らかに有罪である」という被告を弁護しなければならなくなった際、どうするのでしょうか。
 本当の正義は文字面だけで判断出来るものではなく、もっとニュートラルなものなのではないか、そんなふうに思えるのです。私が仮に裁判員なりでお声がかかったとしたら、私は背反する審理の狭間に板挟みとなってしまうのではないか──そんな不安さえも過ぎりました。

 今から二十年以上前の映画ですが、「告発の行方」という作品があったのをご存じでしょうか。
 この作品はレイプ事件に基づいた裁判の流れをひとつの映画作品として描いているのですが、顛末のどんでん返しには唸らずにいられません。
 視聴者は「事件当日に、何があったか」を断片的にしか知らされない中でストーリーは進んでいきます。いわば検事役と同じ視点で、何も見えない状態の中を「果たして、被告は有罪なのか否か」を判断させられるのです。
 しかし、事件の全貌がラストで明らかになった瞬間──すっきりしない思いが、急激にわき上がってきます。
 本当に審議は、正しかったのだろうか──と。

 言わば、いつでも私たちは本当の真実からは遮断された中で、審議をしなければならない立場にあることを思うと、責任重大すぎて、荷が重く感じられます。
 おそらく今回の事件が法廷ライブで逐一報道された理由は、ただ単なる物見遊山でなしに、裁判員制度がスタートして以来、有名人における初めての裁判だったからだと思われます。
 しかし私は、自分の判断によって人の一生が大きく影響をするような行為を出来るだろうか──そんな不安も過ぎります。それほどまでの権利が、果たして自分にあるのか──私がかつて司法試験をあきらめた理由と、今再び対峙させられたような気がした次第です。

 勿論、だからといってすべての犯罪について玉虫色の結末で終わらせるわけにはいきません。いずれにせよ、何らかの線引きが必要なのは確かです。
 そう思うと、裁判官など法曹界に関わる人達はとても責任重大の任務についているし、また、その責任重大な任務を金欲しさや権威欲しさに浪費するようなことを絶対にしてもらいたくない、そうも思います。

 17日が判決の日だそうですが、今回の裁判における結末はどうなるのか──最後までじっくり拝見するつもりです。



【お知らせ】
コミュニティサイトの製作が、著しく遅れております。9月下旬頃を目処に作業を進めておりますので、今しばらくお待ちくださいませ。公開しましたら、改めてご連絡致します。


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2010-09-14 | 社会 | トラックバック(0) |

「宗教を知らない人」が、安易に宗教を批判することへの異議

 私はどの宗派にも属していない「無宗教」です。
 いえ──むしろ、私自身が接してきた不可視の存在や、宇宙の叡智を心の奥底から信頼しているので、無宗教、というよりも「地球上のどの組織にも属さない、一匹狼」って言った方がいいのかもしれません。

 実際には、私は10歳の頃から「出家願望」を強く持っており、俗世を捨てて精神の高見を目指す──ということを望んでいました。
 その気持ちは34歳頃(まだ能力が完全復活していなかった頃)に再び急激なほど大きくなり、とある自称チャネラー(有料)の人に「自分は出家すべきか、それとも俗世に残るべきか」を相談したことがあった程です。
 その方が、今もネットで活動されているかはわかりませんが──はっきり言ってインチキでした(苦笑)。
 写真を送り、メールでの鑑定だったのですが、私の質問内容とはまったく関係ない返事(明らかにコピペ内容ですね。同文をみんなに送っていると思います)が返ってきて、しかも「あなたは霊障を受けてはいません」とか、まったくトンチンカンな返答だったのです(苦笑)。
 「そんなこと、聞いてないっつーの!」みたいな。
 「ちゃんと文章読め、文章!」とキレたかったです。

 まぁ──インチキと決めつけてしまうのは、申し訳ないかもしれませんね。
 ただ単に、最近流行のスピリチュアルにのって自分も霊感があるんだと勘違いしてしまっただけの人でしかなく、悪い人ではなかったのでしょう。
 とはいえ、鑑定料1万5千円──。痛い勉強でしたね(苦笑)。
 ただ、私だからまだ良かったですが、お子さんとか愛する人を亡くし、本気で藁にもすがる思いの中申し込みされた方がいたとしたら──あのインチキ返答は「気の毒すぎ」です。
 その方に悪気はなかったにせよ「廃業」されていることを、願う次第です。
 傷つく人が増えない為にも、
 そして同時に、「その方自身が、これ以上過ちを犯さない」為にも。

 ※余談※
 みなさん、くれぐれもお気をつけくださいね。未だにこうした「自称チャネラー」は大勢います。
 インターネットの世界は「言ったモン勝ち」な世界なので、大袈裟に自分の能力を誇張し、さも高貴な神、さも高貴な存在が守護霊としてついているなんて言っている方は「要注意」ですよ。
 私は、このブログで体験談をお話しましたが、一度も、私についている「ガイドの話」についてはしていません
 理由は、「する必要がないから」です。
 必要なのは、ガイドがあ~せ~こ~せ~言ったことよりも私自身の「行動でしかありません」。ガイドがどんなに立派なことを言ったところで、自分が何ひとつ行動出来ていなければ、無意味なのです。
 どんなに立派なガイドがついていようが──それが大天使だろうがイエスだろうが、お釈迦様だろうが、そんなこと自体は「どうでもいいこと」で、大切なのは「本人が何を望み、何を考え、何をしようとしているのか」それに尽きます。

 

 私がそれほど出家願望があったのに、何故、出家しなかったのか──理由は簡単。
 「一門に下る」ということに、抵抗があったからです。
 私は、「真理の全貌」がみたい。その為には、ある一部分のみに属して、そこの深みだけを研究しても「決して全貌は見られないだろう」──そう思ったのです。

 人間の肉体で、例えてみましょう。
 キリスト教(プロテスタントもカトリックも、ひとまず一緒に考えたとして)が「内科」、
 仏教の浄土宗が「胃腸科」、
 禅宗(正式には道元禅と臨済禅がありますが)が「整形外科」、
 真言宗が「呼吸器科」、
 イスラム教が「神経外科」だったと、仮にしましょう。(※宗教は実際にはもっといっぱいありますが、長くなるので割愛します。あと、科の例えは思いついたものを順不同に書いただけなので、意味はありません。)

 その中で、私は「禅宗をやりたい!」として出家したとします。
 でも、そこで学べるのは「整形外科」でしかありません。
 勿論、呼吸器科の人や胃腸科の人に比べたら、かなり本格的に「人間の骨格」には知識がつくでしょう。

 でも、それは人間の一部分でしかなく、真理の全貌では「ない」のです。

 それが、私にとっての「迷いの一因」でした。
 私がしたいことは「多角的に見る」ことであって、ひとつのところから──例えて言えば、「井の中の蛙」になって大海を知らないまま、天の深きを知ることが「目的ではない」からです。

 こんな面白い例がありました。
 私が大好きな「デイリーポータルZ」というNiftyのサイトがあるのですが、その中でずいぶん前に「河原で穴を掘ろう」という企画があったのです。
 30を超えた男性二人が、黙々とシャベルで穴を掘っていきます。
 その時に、二人は「あることに気付いた」のです。

 よく「広く浅く」「狭く深く」というが、あれは嘘だ。深く掘る為には、「広く」掘らなければならない──と。

 実際に自分が穴を掘る場面を想像したとしても、確かに、「深い穴」を掘ろうと思えば、絶対に間口を広くさせなければ、深くまで掘れません。
 これはある意味「真理にも、あてはまるのではないだろうか」──そう思いました。
 間口を狭く、狭くしてしまえばするだけ、「真理の深みには、達することが出来ない」。
 だからこそ私は、現在最新物理学に限らず、日本の古代史(主に縄文時代の史実と蝦夷の行き先を調べています。いずれ詳しいことは、このブログでご紹介します)など、あらゆる異なった分野から切り込みを入れています。

 それだけ間口を広げても──辿り着く真理は「たったひとかけら」なのでしょう。
 ひとかけらの真理を探究する為に「100倍の努力」をしたって、私は惜しくない──そう思います。

 そんな理由から、私は「出家する」ということを断念しました。
 それは「私の道ではない」そう思ったからです。
 私はそこまで徹底して考えた挙げ句に「宗教は、自分の道ではない」と決めたのです。
 しかし、最近は「多少の情報を聞きかじった程度で宗教批判をする人」が多い印象を受けます。
 宗教がなんたるかを知らない癖に、無闇に宗教批判をする──これは、一種の排斥や差別に近いです。

 確かに、キリスト教などはローマの国教に取り入れられ、聖書の改ざんがされたあたりから「政治に利用」されるようになりました。
 しかし、それは「宗教」のせいですか?
 そうではなく、「それを悪用しようとした政治家達の悪意」の方が問題なのではないでしょうか?

 ヨーロッパ暗黒時代、ペストや流行病で次々と人が亡くなっていった際、教会は「免罪符」を発行し、そこで多額なお金をとって「これがあれば病気にならない」というようなことを言いました(って、これって、今でもスピリチュアルで普通にされていますよね。「このパワーストーンを持ってると幸運になれる」とか; やってることが大差ない、と思うのは、私だけですか?)
 それをしたのは確かに教会側ではありましたが、宗教の信仰をしている人達「そのもの」に問題があったわけではありません。

 いつの時代だって、そうやって何らかの権威を利用して、人々を支配しようとしてきた人達は少なからずいました。
 しかし、それを十把一絡げで「宗教は悪い!」とする姿勢──それもまた、早計だと思うのです。

 キリスト教信者の中には、到底、私たち一般人では真似出来ないぐらい「立派な行為」をしている人達が大勢います。
 それこそ無名で、亡くなっても日本の新聞記事にさえ掲載されませんが、聖書の研究をしている一部の牧師達は、アフリカにある「エイズ専門患者」だけを看病する教会を立ち上げ、そこで無料奉仕をしていました。
 ところが──何の罪もない彼らは、村人達に「エイズ患者を庇っている」という理由だけで、全員(ボランティアの牧師を含め)焼き討ちにされた──という事件が、今から5年以上前にあったのです。
 私はたまたまコラムで読んで知りましたが、報道はされてないので、多くの方がこの事件を知らないでしょう。

 また、ルワンダ紛争時には、クリストファー神父という方が、国連職員としてルワンダに派遣されていましたが──キャンプに残された2500人以上のツチ族達をおいて国連軍が撤退しようとした時、ただひとり、神父だけがその場に残った、ということもありました
 その心境を、想像できますか?
 キャンプの周囲には、今にも殺害を待ち望む人達が「ピーピー」と笛を吹きながら踊っていて、周囲には、ツチ族の方達の遺体が横たわり、暑い気候の中で死臭が漂う──人々の阿鼻叫喚を前に、神父は「そこに残る」ことを決意したのです。
 それは、ひとえに彼が、心から神を信じていたからでした。
 彼の信仰は、「神はきっと助けてくれる」──そんな甘いものではありません。
 神父は殺されるのを覚悟でその場に残り、ひとりでも多くの子供達を助けようとして──その途中フツ族に見つかってしまい、自分の教え子によって、殺されたのでした……。

 こういう人達は、キリスト教の信者の方に「とても多い」のです。
 イエスの生き方同様に、「自らも、喜んで善行に身を捧げよう」とする人達。
 そういう人達の生き様に敬意を表すこともないまま、昨今のスピリチュアリストは安易に「キリスト教批判をしすぎではないか」そう思うと、憤りを感じることもあります。

 大切なのは、「教義を信じること」ではなく「神(真理、或いは宇宙)を信じて、『如何に自分が行動するか』」だと、私はそう思うのです。

 私は、確かにこれからの時代宗教は、必要なくなってくるだろう──そう思っています。
 一元性に立ち返れば、自ずと「分裂されているものが、融合されていくから」です。
 しかし、「ひとつの文化」としてキリスト教文化なりイスラム教文化が残るのは「あり」なのではないか、そう思います。

 本当にこれからの世の中を良くしていきたいと願うのであれば、確かに、「今まで歴史上の問題点」に着眼するのは必要なことですが──同時に、「よく知らないものを、安易に批判する」という姿勢もとどめるべきだと、私はそんなふうに感じる昨今です。 


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2010-08-23 | 社会 | トラックバック(0) |

無意味な法律は、「魂のコミュニケーション」さえ奪いかねない

 最近、参院選が近づいているせいか、あちこち選挙活動の活発化が目立ちますね。
 一昨日などは、街頭演説で二者が合流してしまい、一触即発の事態になりかけた──なんて記事も見かけました。
 しかし、おかしな話ですね。何で国民を代弁しようとする代表者達が、一触即発になりそうな緊張感を生み出すのでしょうか? 
 その時点ですでに、まだ人格の未発達を露呈しているように感じるのは、私だけでしょうか?
  国会中継などでも、大の大人がとっくみあいしたり罵りあいしたり野次とばしたりしているのを見ると、つい私は苦笑してしまいます。
 「パイレーツ・オブ・カリビアン」という映画、皆様は観たことがありますでしょうか? 有名な映画なので、一度はご覧になった人もいるかと思いますが──あの三作目に「海賊王達の評議会」が行われる場面があります。
 9人の海賊王と代表者達が一堂に集う大事な場面なのですが──意見の食い違いがおこった途端、そこからはもう大乱闘。
 敵である東インド会社が迫り来るという危機的状況を前に、海賊達は自分の主義主張を押し通そうと、争いまくるばかり。
 それを見て、ヒロインのエリザベスは「……呆れた」と呟きますが、ジョニー・デップ扮するジャック・スパロウは、吐き捨てるようにこう返します。
「これが『政治』さ」 
 ──上記のような記事を読むと、私は「現状の政治家も、海賊達と大差ないのでは?」と、苦々しく思ってしまいます。

 主義主張というのは「突き通せばいい」というものではなく、相手の言い分にも耳を傾け、合意出来る点を探すことに意味があるはずです。そういう政治家の方達には是非、「止揚(アウフヘーベン)」という意味を充分理解した上で、国民の代表になってほしい──そう思います。
 「若者の政治離れ」と、まるで若者が政治に無関心であるかのような責任転嫁をするに、自分たちは理念ある活動が出来ているのかを、まずは考えてみて頂きたいと、願ってやみません。

 そうした政治家達から発した無意味な法律が、かえって国民の自由度を失ったり「こころを失わせる結果」になることもあります。
 そのいい例が個人情報保護法です。
 これは2003年に成立し、2005年の4月から施行されました。この法律は個人を特定出来ることについて、漏洩しないという目的からたてられたものですが──実際問題、どうでしょうか? 
 未だに続く漏洩の現状「おれおれ詐欺」の増加
 まったくもって、役に立っていません。
 この法律が出来た背景のもっとも大きな一因は政治家スキャンダルに対する圧力だったという説が有力ですが、法律施行前と後を比べて「何も変わってない」──むしろ窮屈になった事実を思えば、政治家側の一方的な都合でしかなかった、と言われてしまえば「なるほどね」で納得出来てしまうような気がします。

 例えば、皆さん。よく聞く「○○銀行の個人情報が何万件流出してた」「○○企業の個人情報が流出していた」となった際、仮に自分がその「流出された一人」であった際に、何らかの保護があったでしょうか?
 おれおれ詐欺にしたって、一体どこで流出しているというのでしょう? 
 あれは決して、「電話帳をみて、手当たり次第かけている」わけではなく、「かなり念入りに」情報を調べています。でなければ、「どこどこの家の子供は男で、何歳ぐらいで、今はひとり暮らししている」なんてことが、分かるはずないからです。

 個人情報の保護というのは「プライバシー」として慮るものであって、法律で保護するものではないと、私はそう思います。
 本来、「相手を尊重する」というのは「当然の思い遣り」として教育で賄うべきであって、法律ですべきものでは「ない」のではないでしょうか?
 こころで配慮すべきものをただ「法律」という表面的なもので拘束すれば、「本当に大切な場面で、表向きの法律だけが尊重されてしまい、こころのコミュニケーションを奪う危険がある」──そう思えるのです。

 私がこのように考えているのには、ある深い理由があります。
 思い出すと今でも涙が溢れてくる──とても「辛い過去」です……。

 それは、高校三年生の時のことでした。
 校庭で友人三人と昼食を食べていた私は──あろうことか、「自殺遺体の第一発見者」になってしまったことがあったのです。
 その方は、中年男性でした。校庭にある桜の木で──首を吊って、亡くなっていました。
 警察の話によるとすでに死後数日経っていて、その間、校庭をみんなが使っていたにも関わらず誰にも発見されずに、滅多に校庭などに出ない私によって、何故か発見されたのでした。(※余談 以前、私は「幼少期から体外離脱を繰り返す体質だった」ということを書きましたが、13歳以降21歳まではそうした離脱よりも「霊感」として強く表れてしまった頃だったのです。その為酷い霊障にも悩まされましたが、それ以前に、こうした「遺体を発見する」或いは「自殺の一部始終に遭遇する」という「人の死に直面させられたこと」が何度もあったのです。)
 私が第一発見者だった為、警察署で5時間近くに及ぶ事情聴取なども受けました。
 私はすべてを丁寧に答えましたが、心に重いものを感じながら帰路についたのを、今でも覚えています。

 それから数日後。
 見知らぬ方から、一枚の封書が届きました。
 「誰だろう? 初めて見る名前だな」と思いつつ封を開け、達筆な書面を読んだ途端──私は驚きの声をあげずにはいられませんでした。

 ──それは、私が遺体で発見した方の「奥様からの手紙」だったのです……。

 自殺されたご主人は、長いこと鬱病にかかっていたそうです。その為、奥様もかなりご苦労をされたようでした。
 発見される数日前から行方不明になってしまっており、捜索願いなども出していたそうですが──奥様はご主人の状態が分かっていた為、心のどこかで「覚悟」をしていたそうです。
 そして、亡くなった数日後──私が、ご主人を見つけたのでした……。

 奥様は、このようにつづっていました。
「発見される日が早く来ることを願っていましたが──まさか、学校の校庭で自殺していたなんて。
 年若いあなたが受けた心の傷を思うと、私は胸が痛んでなりません。
 一日も早く、忘れてくださいね……」


 私はこの手紙を読みながら、声をあげて号泣しました。
 学校に関わる手紙でもあったので、担任の教師にだけ見せたのですが──同じように、先生も泣いていました。

 ──奥様の思い遣りと痛みに、胸を打たれたからでしょう。

 本当に辛かったのは、残された奥様だったはずです。
 一家の大黒柱を失って、色々な問題、悩みだってあったはずです。
 にも関わらず、発見した私のことを「誰よりも」気に掛けて下さっていたのです。
 私はその奥様の優しさに、深く感動しました。(前にも書いたように)高校当時は非常に「荒くれていた」ので(苦笑)、人の「温かい優しさ」に、私こそが触れさせてもらえた──そう思えたのです。

 奥様は、警察署で「第一発見者の方に御礼とお詫びがしたいので、名前と住所を教えて欲しい」と聞き、それで手紙を送ってきてくださったそうです。
 そして中には──「図書券」まで、入っていました……。

 私は今でも、この奥様の幸福と──そして、ご主人が成仏なさっていることを、心から願ってやみません。
 それと同時に、私の住所と名前を教えてくれた警察官の方の配慮にも、心から感謝しております。

 「個人情報保護法」が成立した後は、こうしたやりとりもないのでしょうか?
 この奥様のように、「第一発見者の方に、御礼とお詫びがしたい」と言われた時に、「いや、それは個人情報だから教えられません」と、突き放すのでしょうか?

 もし仮にそうであるのなら──それは「こころある人間の行為ではない!」、私は強くそう訴えます。
 身内が自殺してしまい、その遺体が発見された時──自分の心の整理をする意味でも、「第一発見者の人に、連絡を取りたい」と思うのが「人のこころ」というものではないでしょうか?
 それを法律で阻害するようなことがあるというのは、「あってはならない」そう思います。

 私は以前、体外離脱した先で「ここ(高次元)には法律というものが存在しない」と聞いたことがあります。
 「誰もが全体調和の為に自らの個性を発揮できるから、法律を規定する必要さえないのだ」と。
 法律で規制しなければならないというのは、こころの規制が出来ていない──他者や全体を思い遣ることが出来ていない証拠だと、私は思います。
 参院選で過熱するのはいいですが──政治家立候補の方は是非、そういうことも念頭に措いて活動してほしい──心からそう願う次第です。  


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2010-06-27 | 社会 | トラックバック(0) |

誰がこんな社会にしたの?

 昨日の「恐怖に打ち勝つ」という記事に、少し関連するかもしれませんが──。
 今日、私は「とても嫌なこと」がありました。
 詳細については、私以外の個人にとってもプライバシーにも関わる為書けませんが、簡単に言えば、最初のきっかけは「私自身のプライバシーを侵害されたこと」が原因でした。
 しかし、実際のところはもっと根の深い問題であることが後から判明し、場合によっては法にも引っ掛かる問題であることが分りました。まぁ、とどのつまり「窃盗罪」なのですが──それ自体は、私が直接的な被害を受けたわけではありません。

 ですが、それが「自宅内」で起きたことだった為、私は即、自室に「鍵」をつけることにしました。
 泥棒でしたら、ある意味「不運」ということもあるでしょうが──今回の場合は常時その危険がある状態なので、私は急遽、その処置をする決意をした次第です。(どのみち、あと半年もしたら家を引越す予定なので、それまでの辛抱ではありますが──)
 せっかく気分良く執筆の仕事がはかどっていたというのに、いっきに「奈落の底」に突き落とされた気分でした(苦笑)。
 今日は徹夜明けだった関係もあって疲労もたまっており、「少し寝てから、仕事をしよう」と思って──息抜きにDVD、「ロード・オブ・ザ・リング」の三作目「王の帰還」を見始めました。

 私が持っているDVDは「スペシャル・エクステンデッド・エディション版」なので、上映ではカットされた部分がかなり入っています。その為、当時の映画の冒頭でも入っていたのかはわからないのですが──私が観ている「王の帰還」冒頭には、「何故、純粋な民だったスメアゴルという青年が、指輪に魅せられてゴラムになったか」が描かれています。
 スメアゴルは、その日、デアゴル(原作を読んでいないので、これが弟なのか友人なのかは不明ですが──)と一緒に釣りを楽しんでいました。その際、デアゴルが誤って湖に転落してしまい──その湖の底で「指輪」を発見するのです。
 デアゴルは一瞬で指輪に魅せられましたが──それは、スメアゴルも同じでした。最初は冗談半分の奪い合いが途中から本気になり、最終的にスメアゴルは、デアゴルを殺してしまいます。
 指輪はスメアゴルのものとなりましたが──スメアゴルは殺人の罪で追放され、そしてゴラムとなったのです。

 私は、スメアゴルであったゴラムが──とても気の毒でした。
 誘惑に勝てなかった──ある意味「恐怖に勝てなかった」のと同じ意味があるかもしれませんが、それが故の顛末に、同情の念を禁じ得ません。
 そして、それを見ながら──私は今日、自分に起きたことを振り返って考えていました。

 罪を犯す人は、必ずしも「その人だけの責任」なのでしょうか?
 それをさせてしまうだけの要素を作ってしまう環境にも、問題があるのではないか──私はそう思ったのです。

 人は、誘惑に弱い存在です。
 スメアゴルとデアゴルが、指輪の誘惑に負けてしまったように、人は簡単に「誘惑」という罠に引っ掛かってしまいます。
 だから、目の前に──すぐ手の伸ばせるところに「お金」があれば、黙って取っていってしまったとしても……文句は言えないのではないか、と。(これ、海外では「文句言えない」です。管理してない方のミス──と言われてしまいます。)
  
 本来、そうなった場合その責任を出来るだけ早めに追及して、「これ以上、その人が罪を重ねないようにすること」こそが、本当の思い遣りではないでしょうか?
 そういった意味で、私は「防犯」というのはとても大切だと思います。それは、自分を守る意味だけでなく、相手に「罪を犯させない」という意味においても必要なことだと、そう思えるのです。
 にも関わらず、それを有耶無耶にして誤魔化して──後で文句だけ言うなんていうのは、言語道断だと思います。相手が若い子であれば尚更のこと、これ以上「過ち」を繰り返さない為にも、はっきりと叱責することが、大人の義務であり役目である──私はそう思います。

 しかし、最近の親──いえ、私の親世代なので、すでに祖父母世代でしょうか。
 何故か「面倒くさがって」そういうことを叱責したがりません。
 その子の将来がどうなったとしても、「自分には関係ない」と言いたいのでしょうか?
 もしくは、「今の子は、キレて何するかわからないから何も言いたくない」とでも言うのでしょうか?

 でも、そうさせたのは一体、どこの大人達なのでしょう?
 マスコミも評論家も、さも自分は無関係を装って「今時の子は、すぐキレる」と言いますが、そういう社会を作ったのは「そんなコメントをしているあなた達、大人じゃないんですか?」と、私は聞きたいぐらいです。
 
 ロード・オブ・ザ・リングにおける「指輪」を作ったのは、冥王サウロンですが──
 「誘惑に弱い若い世代」を作ったのは、現在40~60代の「大人達」です。
 冥王サウロンはそもそも「悪の権化」なので責任の取りようもないですが(っていうか、支配したかったわけですしね;)、本来であれば若い子達の批判をする前に、もっと大人達が反省すべきことがあるのではないか、私はそう思わずにいられませんでした。

 徹夜明けの上に、ちょっと気分的に滅入る事件だったので、かなり感情的でお見苦しい記事となってしまいましたが。
 責任を放棄する前に、もっと大人達は「自分たちの行為を省みる必要性」があるのかもしれない──40歳目前に控えた自分も含め、そう思わずにいられない事件でした。


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2010-06-12 | 社会 | トラックバック(0) |

世の中問題は多々あれど、「核はひとつ」

 今日は半日かけて、文庫本のゲラを修正していました。まだ完成はしていないのですが、残り僅かですので期限までには余裕で間に合いそうです。6月に出版されますので、その際にはまた改めてお知らせ致します。

 今回の文庫本は「2012年」と「アセンション」をテーマに書いていますが、問題点を掘り下げる為に社会問題や国際問題にも数々触れています。
 自分の原稿を読みながら改めて思ったのですが──すべては本当に「フラクタル理論」でしかなく、社会や世界に通じる問題点も「個人レベルにおいても充分出ている」と、そんなふうに感じました。
 例えば──今日、数人の人から「現状における悩み」を聞く機会があったのですが、両者共に思い通りにならない現状を、相手を支配することによって変えようとしている(或いは、周囲にそういう人がいる)ことが判明しました。
 ヒステリックになる人というのは、例外なく「周りを自分の思い通りに支配したい」というエゴが暴走しているタイプばかりです。そもそも「自分の思い通りにさせたい」という欲求がなければ、ヒステリックになることもありません。「アフリカの子供達が、パンも食べられずに飢えて死んでいる!」という事実に対してヒステリーを起こす人というのは──おそらくそうそういないでしょうから(仮にいたとしたら、そこまで他者のことを「自分のことのように思える」という意味で素晴らしいと思いますが)。

 人々が抱えている問題の「ほとんど」は、大抵「自分の思い通りにならない」ということに尽きるような気がします。
 そして、そういう「思い通りにならない」というフラストレーションがあちこちで爆発しているのが、「現代日本社会」のような気がします。

 最近、鳩山内閣の支持率が下落しているという記事をよく目にしますが──私は鳩山首相に問題があるのではなく、「安易に意見を撤回する国民にも問題がある」と、そう思います。
 これだけ支持率が落ちているということは、「選挙当時、民主党に一票をいれた人たち」もみんな手のひらを返しているということでしょう。
 しかし、まだ選挙から一年も経っていないのに、簡単に手のひらを返すということはどういうことでしょうか? それこそ、「自分の思い通りにならない」という理由でヒステリーになる人と大差ないのではないでしょうか?

 5月3日、山川夫妻の講演会をした際、控え室で鉱矢さんからこう質問されました。
「あなたは、鳩山首相に対してどう思いますか?」
 それに対して、私はこう答えました。
「私はもともと、『どの政党であれ、首相の座についた以上は出来る限りフォローしたい』という考え方をしています。誰が首相になったって問題点はあるし、誰がやったって批判は出るでしょう。そうであるならば、その首相のやり方そのものを批判するよりも、応援する立場を取りたいと思っています」と。
 一見煮え切らない返答のように思えるかもしれませんが、私はいつでも「個人に対する批判」というのはしないよう心がけています。(私が個人を名指しで批判する時は、余程相手の行為に問題があるか、或いは「社会的に悪い影響を及ぼしている」と実感した時のみです。)
 ましてや、一国の首相に対してどうこう言うのは烏滸がましいです。
 それに、日本が「こうなっている」のは鳩山首相の責任でしょうか? 今、普天間基地問題などが二点・三点しているのは、鳩山首相がすべて悪いのでしょうか?
 それは「責任転嫁」というものです。
 勿論、現政権に対する問題点は数々ありますが、その責任は鳩山首相だけのものではありません。それこそフラクタル理論で言えば「日本の政治家の姿勢」は、イコール「日本国民、ひとりひとりの反映」でもあるのです。本当に「日本を変えたい」と思うのであれば、政治家にすべてを委ねるのではなく「自分でも国の状態を意識する努力」が必要なのではないでしょうか?

 世の中、数多く問題はありますが──結局のところ「問題点の核は『ひとつ』に過ぎないのかもしれない」と、そう思います。
 それは、「他者の尊厳を忘れ、自分のエゴばかりを通そうとすること」。
 でも本来、他者の尊厳を忘れると言うことは、同時に「自分の尊厳も、見失っていること」に等しいのです。だからこそ、人はエゴを貫いても貫いても満足することがなく、まるで餓鬼のようにがむしゃらに「満たされること」を外部に求めてしまうのでしょう。

 抱えている問題を解決する為には、まず「自分と向き合うこと」から始めるのが一番なのかもしれません。
 もっとも、「ヒステリー」を起こしている人に向かってそう言うと、必ずと言っていい程「私は私のこと、ちゃんと分かってるわよ!」という返答になると思いますが──(苦笑)。
 人間は「分かっている」と言えるほど単純な存在ではないので、「分かっている」と言える人ほど「分かってない証拠」だったりもするのが──何とも皮肉な話ですね。

 人の内面が暴露されていく時代となり、これからますます、エゴの強い人は「エゴ」が表面化し、不安ばかり抱えている人は「不安」が現実化していくことになっていくような気がします。
 そうならない為にも、私たちは刻一刻と刻まれていく時間の中で、常に「自分と向き合う努力」をする必要があるのかもしれませんね(笑)。

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エハン・デラヴィ氏ブログ「シンクロニシティ」にて、近日内にネット配信番組レポート予定です。




※今の時代に必要なメッセージが、随所に籠められたDVDです。※

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2010-05-22 | 社会 | トラックバック(0) |

マナーは規律ではなく「人間性の顕れ」

 「現象と意識の関連性」についてまだ連載途中ですが、先日強烈に痛感したことがあったのでそちらを記事にします。
 旅行者にとってのマニュアル本(?)でメジャーな「地球の歩き方 ロンドン編」で、興味深いことが書かれていました。

「イギリスでは、ドアを開けた時後に続く人がいると、先に行った人が開いて待っているのが常識」

 出国前にそれを読んだ時、「こんな当たり前のことが、わざわざ地球の歩き方に書いてある」ということが、とても不思議でした。扉を開けた際、後続の人に扉を開けて待っているというのは、マナーでも何でもない思い遣りとして当然のことだと、私は思っていたからです。
 しかし、「日本の街中が必ずしもそうではない」ことは、みなさんもよくご存知のことと思います。だから、「待つのが常識」と言われても「日本と大差ないのだろう」ぐらいにしか思っていなかったのです。

 ところが、イギリスでは本当に扉を開けて待っていてくれる人が「ほとんど」でした。
 ほとんど──いえ、私があった限りでは100%でした。
 勿論、私もそうしました。日本で何度もそういうことしてきましたが、「ありがとうございます」「すみません」と挨拶してくれた人はほぼ半数です。多くの人が扉を開けて待っていても、当たり前のようにして何も言いません。
 しかし、イギリスで扉を開けて待っていると、全員と言っても過言でない人達がみな「Thank you」と笑顔で言ってくれました。

 この差は一体、何なのでしょうね──。

 ロンドンは世界的な大都会なので、みんながみんな英国人ではないでしょう。私たちのような観光客も大勢いたはずです。その証拠に、大英博物館のエレベーター内で白人のグループと一緒になったのですが一方はイタリア語、一方はフランス語、英語喋ってる人達が皆無という奇妙な光景に出逢った程です。
 だから、「扉を開けて待つ」というマナーは必ずしもイギリスに限ったことではなく、もしかしたら「万国共通の常識」なのかもしれません。

 しかし、今の日本はどうでしょうか?

 私は、駅構内で見かける「マナー広告」というのが嫌いです。
 何故なら、あの広告ほどマナーというのは外部から規制されるものだということを押しつけている広告はないからです。
 とはいえ、ああやって呼びかけるしかない程「日本人のマナーが低下している」のは事実でしょう。私自身、帰国してすぐに驚いたのは「マナーの悪さ」でしたから。

 成田空港からエクスプレスに乗り最寄り駅についた後、私は大きなスーツケースを引きずりながら、エレベーターに乗ろうとしていました。私の後ろには、ベビーカーに赤ちゃんを乗せたご夫婦がいて、私もそのご夫婦も、エレベーターに乗ろうとしていたのです。その駅にはエスカレーターがないので、重いスーツケースを持っている私も、そしてベビーカーを引いているご夫婦も、手段はエレベーターしかなかったのです。
 エレベーターの前には、手ぶらのおばさん(50代~60代ぐらい)がいました。ちょっとしたハンドバックは持っていたものの、その他に荷物はなく、しかも足腰も丈夫そうです。
 まぁ、エレベーターは万民のものなので誰が使うのも構わないのですが──驚いたのは、私とそのご夫婦がエレベーターに乗ろうとしているにも関わらず、扉の「開く」を押そうともしなかったことです。

 当然、エレベーターは閉まりかけていました。私は重い荷物を引きずりながらその場で走り出し、中に入って「開くボタン」を押しました。その配慮にご夫婦は気づいてくれたようで、「ありがとうございます」とお礼を言ってくれました。
 私は唖然としておばさんの顔をマジマジ見てしまいました。
 しかしおばさんは、何も悪びれた様子はありませんでした。
 彼女の中には「荷物を持っている人達」「ベビーカーを引いた人達」がエレベーターに乗るしかないこと、そして、その人達の為に「エレベーターを『開く』で待つ」という発想そのものが、欠如していたのかもしれません。

 私は、そのおばさんに悪気があったとは思っていません。
 ただ、明確に言えることはマナーというのは規律ではなくて、その人の人間性がすでににじみ出ているのだということです。
 どんなに綺麗事を言っている人でも、その人の動作一つ、言葉遣い一つで、その人の人間性ははかりしれます。勿論、疲労が溜まっていたりストレスが溜まっているとそこまで配慮出来ないこともあるでしょうが、本当の大人というのはどんなに疲れていても、どんなにストレスがあっても、だだっ子のようにそれを公共の場でさらしたりはしません。その時点で、その人の人間性が「子供であることの証明」だと、私には思えるのです。

 私がこういうことを言うと、中には「そんなに自分の一挙手一投足、全部に神経まわしてたら疲れちゃうよ」という人もいます。
 でも、本当のマナーというのは、気疲れしないものです。何故なら、それは人間性がすでで表現されているからです。
 よく使う「氷山の例」と似たようなものです。人間性という「海面下の自分」があったとしたら、海面から出ている氷山は「それらが表出した部分」でしかありません。いちいち気を遣って「お年寄りに席を譲らなくちゃ~」とか「一日一善しなくっちゃ~」と言ってる時点で、すでに無理があるのです。
 本当に人間性が確立していれば、悩むことなく席を譲れるし、人の迷惑になるような行為はしないし、相手が求めるものをごく自然に行うことが出来るはずです。

 マナーは「教わるもの」ではありません。
 自分で培うものだと、私は思っています。
 だからこそ、マナー広告としてあのように小うるさく貼りまくるのはどうかと思います。「それが出来てない」時点で、すでに日本人の人間性に問題があるという視点に、私たちは立つべきなのではないでしょうか?

 海外に行くと、それが本当に実感されます。
 勿論、海外がすべていいわけではありません。日本にだっていいところはあるし、海外にも悪いところはある。
 でも、ひとつだけはっきりしていることは現代日本人は、マナーということをはき違えているのではないかということです。
 マナーは「人間性」であって、「規律ではない」のです。

 後続する人の為に扉を開けて待つのは「規律で決められている」から、そうするのですか?
 お年寄りに席を譲るのは「規律で決められている」から、そうするのですか?
 荷物を持っている人の為にエレベーターを待つのは「規律で決められている」から、そうするのですか?
 それが規律でなければ、マナー広告がなかったら、誰もしなくなるのですか?
 そうではなく、相手の為に良かれという思い遣りから生じた行為でしかないと、私には思えるのです。

 最近、駅で携帯を使っているのを注意したら逆ギレされて殺されたとか、化粧しているのを注意したら逆ギレされたという事件もよく聞きます。
 しかし、私は本来「これはマナーではない」と思っています。
 もっと正確に言えば、マナーは人間性である以上、注意のしようがないのです。本人が気づき、自発的に変えていくしかない。
 注意した人は、正義感などの強い人だったのかもしれませんが──亡くなった方にこのようなことを言うのは大変申し訳ありませんが、私が思うに「それが『余計なお世話だった』と言われてしまっても、仕方ない部分がある」と思います。
 その方は「マナーは規律だ」と思っていたのでしょうね。
 でも、そうではありません。「人間性」です。
 だから、エレベーターで待たない人、席を譲らない人、電車の中でジベタリアンする人達に向かって、私たちは注意を促すことは本来出来ないのです。「彼らが気づくのを、待つしかない」のだと。
 そして、唯一出来ることがあるのだとすればそれは、日本における人間性の向上を、根本的に考え直すことしか出来ないのだと、そう思えるのです。

 日本は本当に、色々な意味で「岐路に立たされている」──そう実感する昨今です。


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2010-04-28 | 社会 | トラックバック(0) |
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プロフィール

篠崎由羅(しのざきゆら)

Author:篠崎由羅(しのざきゆら)
1970年生。幼少期から哲学・宗教学に造詣を深める。思想および思想史、それに付随した国際事情に興味を抱いて独学を続け、大学ではインド哲学科専攻。東西問わず、両者の思想に渡り研究を深める。

現在は看護師として施設で勤務しながら、その傍らで執筆活動を続けている。2016年11月にYOU are EARTH改め「WE are EARTH」の活動を再始動予定。より良い未来の地球のため、全力を尽くす誓いをたてている。

【篠崎編集担当】


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