飼いならされた家畜の国

 最近、様々なことが世界中で起きています。
 そうした出来事を見ながら、はたと日本を振り返ると「平和だなぁ…」と改めて思いますね…。
 そもそも、ブログを書いている余裕があるっていうこと自体が平和です。それって電気が通っているってことだし、回線が接続されているっていうことだし…。

 そうした日常をみて「ああ、幸せ☆彡 神様、ありがとう」で終われるなら、それで終わらせても結構だと思います。
 しかし──私には、どうも「そう思えない」…。

 例えば、です。
 もしも、あなたが「世界征服」を狙うとしたら…さて、どのようにしますか?
 某国のように「恐怖政治」で国民を縛り付けますか?
 それとも、某国のように神の名を利用してあらゆる暴力と残虐な行為を繰り返しますか?

 私だったら、「そうしないでしょう」
 恐怖政治は、絶対に覆されると歴史が証明してくれているからです。同じ過ちをしたところで、意味がないです。(ということは、某国は歴史から学んでいない、ということなのでしょうね。)

 もしも、私が地球征服を狙う悪党だとしたら……

 国民に「好きなようにさせる」でしょう。
 美味しい食事、お菓子も好きなだけふるまいます。
 娯楽にとにかくお金をかけて、みんなが楽しめるだけ楽しめるようにします。

 ゲーム? 引きこもり?
 大歓迎です!

 本? そんなものは、古臭い情報しかないので燃やしちゃいなさい。
 活字も読まなくていいです。だって、漫画や映画の方が短くてお手軽でしょ?

 哲学? そんなものは、古代の暇な金持ちが作り出した「ロジック遊び」でしかないので、そんなものは横におきましょう。
 それより、3Dのゲームは如何ですか? これなら、あなたがまるで人生を楽しめるようにして「第二の人生」をエンジョイできるんですよ。
 すごいでしょう? ほら。こんなにゲームで人を殺しても、あなたは殺人犯にならないんです。もし、自分がむしゃくしゃしたら、このゲームをしたら如何ですか?

 人間関係が苦手? いいんですよ、人間関係なんか。必要ないです、友達なんて作らなくていいですよ。
 それより、アバターは如何ですか? これなら、あなたの顔は見えないし、あなたの本名も分からないし、そこでなら人間関係を気遣わなくていいでしょう?

 え? 現実をもっときれいにみせたい?
 それなら、思う存分SNSを使って「自分の日常をアピール」されては如何ですか?
 ほら、リア充なんて言葉が流行ってるでしょう?
 みんな、あなたのことを心から羨むと思いますよ。


 私が世界を征服するなら「こうやって」征服します。
 娯楽さえ与えていれば税金払ってくれるンですもん、飼いならしやすいですよね。

 さて。こんなふうに餌を与え続けたら──どうなると思われますか?

 人は自ら「考える」ということを放棄し、
 書籍を読まないことにより、「思考探究」や「思考するための持久力」を失い、
 かつての偉人達からの智慧を学ばないことにより、今の人生の意味さえも考えなくなる。
 喧嘩しても本音を話し合える友人関係を築けないことにより、社会で生きていく力を失う若者ばかりが増えてしまう。


 飼いならされた家畜のような人ばかりの世界。
 こうなれば、支配しやすいのは「言うまでもない」ですよね…。

 これが、今の日本ではないことを──私は心底願いたいのですが…。
 正直、こうなってしまっている側面は否めないと思います。

 私は、これから先の未来に何が起ころうとも、最期まで「考える葦である『人間』」であり続けたいです。
 そのため、私は「SNS」みたいに気軽にブログをUPしません。
 自分の日常の戯言も書きません。
 全国民が「ゆとり世代」のような時代になりつつある中で、ひとり強固に「硬派」を貫きます!

 上記のような支配を企む悪党から「めんどくせぇな、こいつ」と思える存在でいようと思います(笑)。


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何故、人は宗教にアレルギーを示すのか

地下鉄サリン事件

1995年3月20日、地下鉄サリン事件。
この日を境に、私達の宗教に対する価値観は大きく塗り替えられたのかもしれない。


霊性や超現実を探究する人々にとって永らく障壁となっているものは、人々からむけられる「宗教に対するアレルギー」かもしれません。

宗教という言葉は、往々にして良い印象を持たれていません。
しかし、「何故、良い印象がないのか」を考察するまでにはあまり至っていないように思えます。

私は、大学で宗教学を学んだせいもあるのか、宗教という言葉にアレルギーはありません。
そもそも「宗教」という言葉が一般的にどう定義されているのか──簡単に調べてみますと…

【宗教】─広辞苑─
神または、なんらかの超越的な絶対者、あるいは卑俗なものから分離され禁忌された神聖なものに関する信仰、行事。又それらの関連的体系。帰依者は、精神的な共同社会(教団)を営む。原始宗教、民族宗教、世界宗教(仏教、キリスト教、イスラム教)他、多種多様の宗教がある。

【宗教】─wikipedia─
(語源)
日本語の「宗教」という語は、仏教学者の中村元によると、仏教に由来する。仏教において、「宗の教え」、つまり、究極の原理や真理を意味する「宗」に関する「教え」を意味しており、仏教の下位概念として宗教が存在していた。(中略)
原語のほうの英語 Religion はラテン語のreligioから派生したものである。religioは「ふたたび」という意味の接頭辞reと「結びつける」という意味のligareの組み合わせであり、「再び結びつける」という意味で、そこから、神と人を再び結びつけること、と理解されていた。


このように、宗教という言葉が示す元来の意味には、アレルギーを示すような意味合いが含まれてはいません。
では、何故人々は「宗教」という言葉に悪い印象における過敏反応を示すのでしょうか?
その理由は、過去の様々な事象におけることからの印象が尾を引いているからだと私は考えています。

例えば、オウム真理教の「地下鉄サリン事件」。この事件を経てから、異常な程の「宗教アレルギー反応」が現れたように記憶しています。
それまでは、宗教のアレルギーと言っても「勧誘がしつこい」とか「壺を売られる」といった、ごく些細なアレルギーしかありませんでした。
しかし、オウム真理教の事件が起きて以来、闇雲に宗教を否定する人達が増えたという印象が私にはあります。

宗教が問題視される場合、それは「盲信」という姿勢に問題があるのであって、宗教そのものに問題があるわけではありません。
オウム真理教の事件にしたって、教祖がどんなにおバカでも、信者が冷静にものごとを理解していれば、このような事件に発展することはなかったはずです。

宗教が問題なのではなく、「盲信」が問題なのです。

また、私のように霊性や超現実を探究したりスピリチュアリストと名乗る人の中で、「自分達は宗教ではない」と名乗る人々もいます。
それはそれで、立場を明確にする上では必要だとは思います。
しかし、私は自分の立場を三次元的価値観の中で分類した場合、宗教ではない、と断言出来る要素はないと感じています。何故なら、物質次元を超越した概念を探究する立場を明確にした言葉が、未だ存在しないからです。
また、「自分は◯◯ではない」という立場を強調することそのものが、違った形での盲信や偏見を生み出しており、宗教の間違った点のみを踏襲してしまうという、皮肉の孕んだ結果になるようにも感じます。

人は、多かれ少なかれ、何かを信じようとする生き物です。
その対象が「終わりのない日常」であったり、肩書きだったり、或いは学歴だったり金銭価値だったり、もしくは視覚化されたものだけを事実と認める科学的視点だったりもします。
私達はいずれにせよ何かを信じて生きざるを得ない存在であり、そうである以上、その対象に対して盲信してしまう危険性とはいつでも隣り合わせなのです。
盲信は、宗教に限ったことではないのです。

霊的真理を探究しようとする場合、多かれ少なかれ「宗教」と言われ忌み嫌われるリスクを考えなければならない──私はそう感じています。
ただし、そうされた場合に私達は「宗教ではない」と闇雲に否定してはならないと感じています。
闇雲の否定は、そうした偏見をさらに強める結果となり、また同時に、偏見の対象と同位置に立ってしまうものでもあるからです。

本来の宗教の定義に戻った場合、霊性を探究する存在は得てして宗教だったり哲学だったりするのだということを鑑みて、あくまでも私達は「自分の得た真理」に忠実であることが大切なのだと思います。
他者の言葉や偏見に左右されることなく自分がより高度な真理を求めようとしていれば、周囲の頑なな偏見もやがては解きほぐされていくだろう──私はそう願っています。


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霊的メタボリックシンドローム

 「メタボリックシンドローム」という言葉は巷でもよく聞かれる言葉ですが「もしかして…この人は今、霊的メタボ状態なんじゃないかなぁ…」と感じられる人がここ最近増えている気がします。

 メタボリックシンドロームとは生活習慣病から派生した内臓脂肪型肥満に、高血圧・高脂血症・高血糖の二つ以上を合併した状態をさしています。霊的メタボリックシンドロームというのは篠崎の造語ではありますが、「目に見えないエゴという贅肉がたくさんついてしまっている」──すなわち霊(魂)的に思考停止状態の人のことを指しています。

 前の記事にも書きましたように、宇宙の生命の原則は「動く」ということにありますので、存在している以上「動きを止める」ということは出来ません。上向きに動くか、下向きに動くかはその人の意識状態によりますが、いずれにせよ「自覚がなくても、人は常に動いている状態」にあるのです。
 自ら勢いよく動いていれば外敵からの侵入をある程度は防げますが、動きを止めている状態であれば隙だらけとなって、外敵から無防備な状態になってしまうでしょう。そうして「思考」に余計なもの(エゴ)を沢山つけて贅肉状態になってしまったことを霊的メタボリックシンドロームと呼ぶようにしています。
 いわば、霊(魂)の生活習慣病です。

 人間の生活習慣病は、食事・運動不足・喫煙・飲酒といった様々な因子がありますが、霊的な生活習慣病も同じような因子があるように思います。
 そのひとつに、ネットで気軽に情報を得られる環境というものが挙げられるように思います。
 ネットには様々な情報が載っていますが、私たちが何かを学ぶのに必要なプロセスは情報を見ただけでは得られません。
 本来知識というものは、その知識に到達するまでのプロセスや背景、段階など色々なものを含んでいます。しかし、ネットで得られた情報はあくまでも「結果」でしかなく、その結果に至るまでの過程や前提を踏まえたものではありません。
 ネットだけに頼っている人は、そうした過程や前提を吹っ飛ばして、結果だけを知ろうとします。
 ちょっと囓っただけで「すべてを網羅した」と勘違いする人が、この霊的メタボになりやすい傾向にあるように感じられます。そうした人は切磋琢磨する苦労を遠ざけて「過程や前提を吹っ飛ばして『結果』だけ」を求めようとするので、ちょっとしたことで傷つき、挫折してしまう──いわゆる「打たれ弱い人」になってしまう傾向があるように思います。打たれ弱いことでしばらく思考停止状態になると、またそこにエゴが入り込みやすくなる──この悪循環です。

 特にこうした状況は、20代の若い世代にほど起こりやすい印象を受けます。
 肉体的な生活習慣病は中年以降なりやすいと言われていますが、霊的な習慣病はもっとも霊的発達を遂げる時期である20代の方が起こりやすく思えるからです。
 ルドルフ・シュタイナーは霊的な成長を7年周期で捉えていますが、14~21歳まではアストラル体の成長時期であり、28歳までが自我の発達──すなわち「肉体・エーテル体・アストラル体・自我」の四つの過程の一段落が終了する重要な時期というのが20代と言えます。こうした時期に霊的な発達を遂げないことで、霊的メタボリックシンドローム──いわゆる「霊的思考停止状態」に陥るのではないか、そんなふうに感じています。

 また、先日若い世代に「承認欲求」が強くある──という記事を目にしました。その承認欲求が強くなりすぎてしまい、どこからもそれを充たされることのない状態で苦しんでいる人たちが増えている、というのです。
 私は学校で20代、30代の学生と一緒に勉強していますが、確かに若い世代の子達に「承認欲求が強くある」というのは感じます。周囲や他者の意見を尊重するというよりも、とにもかくにも「自分はこう思った」という主張をやたらに通そうとする人達も散見されるのです。
 自分がどう思ったかを伝えることはとても大切です。しかし、「相手が何故、そう思ったのか。そして、自分はそれに対してどう感じたのか」ということを意識しながら意見を主張することもとても重要なことです。ですが、この時期においてはあまりそういうことは関係ないのかもしれません。

 アブラハム・マズローは、欲求には五段階あると説明しており、一番低次の欲求を「生理的欲求」、その次の段階を「安全の欲求」、その次を「所属と愛の欲求」、その次に「承認(尊重)の欲求」、そして一番高次の欲求を「自己実現の欲求」としました。
 いわば承認欲求はこの「第四の欲求」に位置していると言えます。

 しかし、どんなに承認や尊重を渇望しても、自分が自分を承認しない限り、先に進めないのです。
 私にも、そういう時期が確かにあったような気がします。いわばそれが私にとってのモラトリアムな時期だったようにも思えますが、本能的にがむしゃらに藻掻き続け、動きを止めなかったおかげで何とか今に辿りついたような気がしています。

 人には必ず、モラトリアムな時期というのがあります。
 それは学生という立場であるなしに関わらず成人するための大切な通過儀礼であると私は考えています。
 しかし、それがあまりに長く続きすぎると、人は立ち上がるタイミングを見失ってしまうものかもしれません。時が経てば経つほど、動き出すことに勇気を倍持たなくてはならなくなるでしょう。
 
 霊も肉体も、物質かそうでないかの違いしかなく、結果的には「運動不足」は良くないのだと思います。
 承認を得たいにせよ、尊重されたいにせよ、まずはとにかく社会に出て切磋琢磨して、人間性を磨いていくことが大切だと感じる今日この頃です。


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日本人であるということ─「おかげさまで」という言葉の意味─

     

 
          foto-1.jpg
          撮影者:Chiharu Tsukidate様 

             闇ばかりの夜に、たったひとり放り込まれてしまったら 
                 あなたはそこで、光を見つけることが出来るだろうか
                 その光を、掴もうとするだろか
                 それとも、光なき世界に光を与えようとするだろうか
                 あなたの、その手で
                【JIN─仁─】第一話より


 数年前から、日本人は「アセンションの鍵となる」といった言葉がよく聞かれています。
 以前のブログにも書きましたように、私は「日本人だから特別」とか「日本は霊性が高いから、アセンションしやすい」とか、そういう言葉は信じていません
 地球にいる以上、誰でも平等にその機会はあるはずだし、誰もが地球にとって(宇宙にとって)大切な魂であることに変わりはないと、私自身はそう思っているからです。

 また「何かを特別視する人」は、逆に言えば「何かを蔑視する人」でもあります。
 特別視と蔑視は、ベクトルの方向が違うだけで「同じこと」を意味しています。
 日本人を特別視する以上は、逆に他の民族や国家の人達を「蔑視していないか」という視点に立たなければならない──私はそう思います。
 
 しかし、そうした視点とはまったく別にして、確かに日本人には「日本人としての素晴らしい点がたくさんある」と、そう感じることも多い今日この頃です。
 先日、2009年からTBSで放映していたドラマ「JIN─仁─」をDVDで観ていたのですが、このドラマには日本人の良さが凝縮されているように思えました。
 私は海外ドラマや洋画を好んでよく観るのですが、海外(主にアメリカ)の映画の場合は、ヒーロー(ヒロイン)は「ひとり」であることが多いのです。「君が世界を救うのだ」「あなたがひとりで戦うのです」といった内容が多く、誰かと戦うという場合でもその他大勢の人達と共にというよりは、友達と、恋人と、家族と等、身近な関係性で描かれることが多い印象を受けます。
 しかし、このJINに関して言えば、主人公の南方仁を様々な人達が支え、思いやり、気遣っているという場面が多々出てくるのです。
 JINというドラマは(ご存じの方も多いと思いますが)現代から江戸時代にタイムスリップしてしまった脳神経外科医が、西洋医学がまだ受け入れられていない江戸時代において葛藤を繰り返しながら、コレラや梅毒などの当時は不治とされた病気と闘っていく──という物語です。
 この物語の場面において、仁は「未来から来たスーパーヒーロー」のようなものですので、いわば「君が世界を救うのだ」という視点になってしまってもおかしくはなかったはずです。
 しかし、このドラマの中で仁は限りなく謙虚で、自分の果たした役目に対していつでも「みなさんのおかげで、手術を成功させることが出来ました」というような、他者への感謝を忘れない姿が見られました。
 私はこれを見た時に、「ああ……。日本人の良さって、こういうところにあるんじゃないのかな」と、そう思った次第です。

 「おかげさまで」という言葉。
 以前、シュタイナーの研究をしているドイツ人講師から「『おかげさまで』にあたる外国語はない」という話を聞いたことがあります。
 この言葉は、南方仁のように「自分は周りの存在や、その関係性によって支えられている」ということを実感した時にこそ出る言葉なのかもしれません。
 日本人が奥深くに持っている「日本民族の本質」とも言うべきものは、この「おかげさまで」に包括されているようなすべての生命、存在と調和し相互扶助することで、「今」という瞬間があるという意識なのかもしれません。
 そして、こうした「絆」の意識は、自分たちを包む全体ということを実感しているからこそ生まれてくるのではないかと、そんなふうに思えるのです。
 個からも、絆は生まれます。でも、そうした絆は、前述した海外ドラマのように「ヒーローはひとり」で、あくまでもそこから派生した絆でしかないかもしれません。
 でも、全体から派生した絆は、例え個になっても常に繋がっていることを意識出来る──それこそ「おかげさまで」という言葉が自然と口から出てくるような、そんな境地なのかもしれない……そんなふうに思えます。
 
 スピルバーグ監督の映画「太陽の帝国」では、憧れの気持ちから捕虜の立場を忘れてつい敬礼をしてしまうイギリス人少年に向かい、それに応えて三人の日本兵士が敬礼をする──という場面がありました。捕虜であろうと少年であろうと、立場に関係なく日本兵は礼儀をもって接していた…という印象深い場面でもあります。
 もちろん「映画だから」と言ってしまえばそれまでですが、監督の頭の中で「誰に対しても、日本人は礼儀を尽くす心を持っている」という発想がなければ、映画にさえ作成されていなかったと思います。
 こうした礼儀もまた、「全体に包まれたひとつ」という意識がなければ生まれてこないものでしょう。個から派生した場合、他者は「切り離された個」でしかなく、礼儀はおろか関心さえ寄せないということになってしまいかねないからです。そうした意味で考えても、「全体を意識出来るこころ──おかげさまで、という視点」は、とても大切なものであることが分かります。

 どの民族にも、どの国にも、その国の血筋を受けるということは魂という視点で考えても意味があるのだと、そう思います。日本人としての良さ、日本人の特質を意識しつつ、諸外国との絆を深めていけるようなそんな国でこれからもあり続けて欲しい──そう願っています。
 それこそ、私たちがこうして日々穏やかに過ごしていられるのは「すべてのおかげ」なのだから…。
  

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『最期の審判』前に酷似した現代日本社会

 ここ最近、現実社会の中で「意識の振り分け」がされているように感じることが多くなっています。
 それはあたかも、スウェーデンボルグが霊界で体験した「最期の審判」の日を前に、そこにいる霊魂達がどの階層に向かうかを選別されていた状況と似ているように思えます。

 スウェーデンボルグによれば、今から250年程前、霊界は「天界の三つの階層」と「霊界の三つの階層」、そして「地獄界の三つの階層」に分れており、その中でも「第一の霊界(霊界の中で一番最下層)」では善霊と悪霊が混ざりあって、とても混乱した状態にあったと言います。その第一の霊界にいた霊達をそれぞれ「第二以上の霊界の階層」もしくは「地獄界」へと振り分ける為に行われたのが「最期の審判だった」と記していました。
 そして、その審判が行われる前には、それぞれ高い階層にいる善霊達が降りてきて「その霊にとってどの階層が相応しいか」を調査したそうです。
 霊魂は人間と大差なく、善人ならず「善霊」を気取ることが出来るようです(私は「肉体があるかないか」の違いだけで、霊魂の法則性は人間界の法則性とほぼ「同じ」だと感じています)。人間の社会には「善人」を気取って相手につけこみ、自分のエゴを満たそうとする人達がいますが、霊界でもそれは起こり得ることだそうです。(むしろ、かえって普通の悪霊よりも善霊を気取る悪霊の方が「すぐに判別出来ない為に厄介だ」とも言われています。)
 そういう「善の皮を被った霊」達を暴いて霊界を整理する必要性があったのだとスウェーデンボルグは述べていましたが……最近の世の中をみるに、霊界での審判前に起きたような出来事──つまりその人が自覚できていない内面を顕在化させる動きがここ彼処に見られているような気がします。
 要するに「エゴの顕在化」と言うべきでしょか。

 でも、この「エゴ」──時代が進めば進むほど、どこに境界線を持てばいいのかが不明確になりつつあると、そう感じることがたびたびあります。
 要するに「ごくごく当たり前とされていた常識そのもの」が、実は歴史的に積み重なってきたエゴの集大成であることも考えられるからです。
 その一番分かりやすい例は「排斥」や「排他的な行為(言動や思考)」かもしれません。
 排斥の行為や排他的になることは、今までの歴史においては決して批判されてきませんでした。場合によってはそれが「愛国心」などと受け取られることもある程です(排他的な視点における国への愛など、あってはならないことです。それこそ「自分たちの国の為なら、他国の人の命などどうでもいい」という戦争を正当化する考えへと行き着くからです。)

 例えば……ごく最近、実際にあった話なのですが──30代の女性数人と会話をする機会がありました。ひとつの場で一斉に会話したのではなく、別の日にそれぞれ一人ずつ話したのですが、みなに共通する台詞が見られたのです。
 それが「私は自分の周りの人達さえいれば、他の人達がどうなっていようと関係ない」或いは「知人以外の他人に興味がないから、その人が生きていようが死んでいようが、自分に迷惑がかからないなら別にどうでもいい」という台詞だったのです。
 要するに目の届く範囲さえ平穏無事なら、あとはどうなっていようと自分には関係ないという考え方です。
 もっと分かりやすく言えば──マザー・テレサが「愛の反対語」としてあげた「無関心」と言えるかもしれません。

 こうやってその台詞だけをクローズアップすると、その女性達がいかにも「極悪人」というように思えてしまうかもしれませんが(笑)、決してそうではありません。ひとりひとりで見ればいい人だし、仲間内にはとても親切な人達なのです。だから決して、彼女たちの人格が問題でそういう発言に至った──というわけでは「ない」のです。
 では、何故こうした発言に至ったのかと言えば──これこそが上記に書いた「歴史的に積み重なってきたエゴの集大成」であり、今の日本社会における日本人達が抱えた問題であるように思えるのです。

 こうした「仲間内だけ無事なら、他はどうでもいい」という考え方、実は数百年前には「世界的にどの地域でも見られた考え方」でした。
 何故なら、数百年前には飛行機もなく、他の国への移動手段もそうそうない──そうであれば自ずと生活範囲や視野は限定されてしまって、その村だけが無事なら、遠く離れた地域で戦争が起きていようが飢餓が起きていようが「知らないで生きていける」からです。

 しかし、時代はそうではなくなりました。
 飛行機などの移動手段が発達しただけでなく、今やインターネットを使って世界の情勢はすぐに分かります。
 だから、諸外国においては「自分たちだけ無事なら」という考え方がだいぶ是正されてきているはずです。
 もともとヨーロッパやアメリカなどは、他文化や他民族と触れあう機会が多くある場所です。そうすると自分たちの身内に「他民族・他文化の人達」がいる可能性も高いわけで、そうなった中では無意識的に「他の国の文化、他の国の様子」に注意が向くようになるのでしょう。

 でも、日本は「未だに」その囲いが外されていないのかもしれない──「自分の身内以外はどうでもいい」という発言を複数回耳にして、私はそう感じずにいられませんでした。

 すでに高い意識を持っていて、展望を出来るだけ遠い未来へと向けている人達は、狭い範囲だけで凝り固まろうとする人達との「ギャップ」に苦しみ、葛藤を抱えることも多々あることでしょう。
 こうした状況こそが、スウェーデンボルグが見てきた「第一の霊界における『最期の審判前』の出来事」に酷似しているように思えます。

 狭い範囲で凝り固まろうとしてしまう人達自体に罪はなく、今までの時代や教育の積み重ねが「こういう価値観を生み出した」ということに、私たちは意識を向けなければならないのかもしれません。
 時代がどのような答えを出すかは分からない──でも、私は少しでも視野が狭くなってしまっている人達に「俯瞰的にものごとを見る」ことへの手助けが出来るのであれば、惜しみなくそれに協力したい──そう願ってやまない今日この頃です。
 
 
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◆mixiでも記事を更新しています(mixiで書いた内容は、ブログにての公開はありません)。◆
http://mixi.jp/show_profile.pl?id=36352495&level=4
記事公開は「マイミク限定」とさせて頂きますので、興味のある方はマイミク申請頂けますと幸いです。


 
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現在、推敲開始しております。大変お待たせして申し訳ございません。今しばらくお待ち下さいませ。
※携帯の方は「こちら」。

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日本人には難しい?──ポジティブになる方法──

 私は「想念の力」を、絶対的に信じています。
 一時期「引き寄せの法則」や、成功哲学で「思考は現実化する」などの言葉が流行りましたが、今にして思えばそれは当たり前のことでしかなかった──そう思います。
 想念は完全に高次の波動領域にあるわけではなく、その中間──物質世界と高次の狭間に存在する、いわば「水」のようなものです。寒いところでは水が氷となり(例:物質化)、暑いところでは蒸発して空気(例:高次波動)になるのと似たようなものなのでしょう。ずいぶん前に想念が重くなればなるほど(ネガティブの要素が濃くなるほど)物質化の法則から逃げられなくなるといった記事を書きましたが、それも結局のところ「エネルギーの方向性によって変わっていく」というだけのことであって、もとを正せば始まりは「想念」です。想念に「重み」が働いた結果が、この物質世界に表象している──と考えることが出来るかもしれません。

 しかし──ですね。
 仮にこの法則を当てはめたとしたら……実は「この次元においてポジティブになることの『困難さ』」にも行き着いてしまうのです。
 何故なら、もともとこの次元が「質量の加えられた世界」であるなら、最初から「ある程度の重み」というのが前提条件になってしまうからです。そうでないと、おそらくはこの次元にいること自体が困難になり、それこそ「さっさとアセンション」の状況になってしまいかねません(苦笑)。
 要するに、私たち人類はすでに最初の前提として、ある程度のネガティブ要素を持たされていると言うことも出来るのだと思えます。(もしかしたら、カヴァーロさんやハワード・メンジャー氏が言う「スターピープル達は、一定の短い期間((彼らにとっての短さなので、私たちにとっては軽く100年ぐらいだったりしますが))しか地球にいられない。それは、地球にいることが、彼らにとって害になるから」というのは、こうした物質化におけるリスクも絡んでいるのかもしれませんね。)

 一時期、ポジティブ思考がやたら推奨されていた時、私の周囲には「どんなに努力しても、どうしてもポジティブになれない」と嘆く人たちが複数見受けられました。
 実は「日本人」というのは、遺伝子的に「ネガティブ」な発想になりやすい──というのを聞いたことがあります。(鬱病や自殺の多さも、そうした民族の遺伝的背景が関係しているのかもしれません。)
 しかし、それは必ずしも悲観すべきことではないような気がします。ネガティブな要素があると、痛みに敏感になります。そして、自分も「痛みを知っている」からこそ、苦しむ人の心を知り、その辛い道程に共感出来るのですから。私は「痛みを知らない人間になる」よりも、どんなに辛さを引きずったとしたって、「相手の痛みを共に受けられる人間でありたい」──そう思っています。

 話を戻しまして──。
 当時、「ポジティブになれない」ことを嘆いていた人たちは、結局、有耶無耶のままに元の生活へと戻っていきました。
 しかし、そんな彼女たちが私は何だか「もったいない」気がしたのです。
 「ポジティブになれない」という事実を真正面から受け止めた彼女たちは、自分にウソをついてまでポジティブのフリをしてしまう人に比べたら、遙かに純粋で誠実なのですから。
 ポジティブになる、なれない以前に「自分にウソをつかない人」というのが、これからの時代は求められる──私はそう思います。スピリチュアルは決して「綺麗事」なのではなく、むしろ「泥沼をじゃぶじゃぶ、裸足で歩く行為に近い」と私は思っています。そのぐらい自分と向き合えるエネルギーと正直さを持った人こそが、本当のスピリチュアリストと言えるのではないか──そう思えるのです。

 では、そうした「最初から設定されているある程度の重み」や「遺伝的にネガティブになりやすい要素を持っている日本人」は、どうすればいいのか──という話なのですが。
 私は、すべてニュートラルに戻してしまえばいい、そう考えています。
 ものすごく辛い目にあっているさなかに、それを「ポジティブに転換しろ」なんていうのは──無理です、いくらなんでも(笑)。
 逆に言えば、「陰の極」から「陽の極」にいきなり転換するような状況と一緒なので、かえって摩擦が生じたり、抵抗が生じるのは無理からぬことなのです。
 そういう時、私はすべてを「ニュートラル」にしてしまいます。
 要するに、ただの現象に置き換えてしまうのです。
 方法は簡単です。まず「今、地球上にいる人の中で起きた最大限の哀しみ」を想像してみるのです。

 孤児で食べるものもなく、激しい雨の中でも道路に蹲っているしかない状態。
 或いは、豊かな場所にいたとしても、誰からも愛情を得られず、心が枯渇した状態。
 もしくは、紛争地域で目の前で親友を失ってしまった状態。
 事故で愛する家族を全員失ってしまった状態──あらゆる哀しみが想像出来ると思います。

 そして次に、「地球上にある最大限の喜び」を想像してみます。
 子供が生まれて初めてもらったクリスマスプレゼントかもしれないし、戦地に行っていた父親が戻ってきた子供の喜びかもしれない。
 もしくは──何も語れなくなるぐらい、美しい星空と広がる海、大自然の営みこそに喜びを感じるかもしれない。
 そんなふうに、想念の中だけで地球を旅すると──私は自分が抱えていた辛い想いが、「ニュートラル」に変わっているのを感じるのです。

 これほどまでに、地球には無数の出来事が存在する。
 そのすべてに良いも悪いもなく、ただ「起きている」だけなんだ……。
 そう気がつけば、起きた出来事そのものを「現象」として受け止めることが出来るでしょう。

 そこに行き着けば──もう無理に「ポジティブに考えなくちゃ!」と思わなくても、自然とポジティブな発想に転換されているものです。
 もしかしたら「地球上の最大限の哀しみ、最大限の喜び」を想像することで、地球と同じ視点に立って、現象を見ることが出来るからかもしれません。

 ポジティブでいられること──これが何よりも鍵なのは確かです。
 そして、これから(傍目には)厳しい時代が訪れた時に、「どれほど前向きな意識を維持出来るか」が問われてくるでしょう。
 しかし、「一瞬でもネガティブになってはいけないのか」と言えば──そんなことはありません。上記説明したように、もともとこの次元は「ある程度の重み」を設定しなければ存在し得ない部分があるので、心の隙がぐらついてネガティブになってしまうことだってあるでしょう。(生物学的にも、ネガティブよりポジティブになる方が「技術がいる」と言われているぐらいだし。←動物的本能が、ネガティブの要素をどうしても引きずってしまうそうです。)
 そうした時には、上記したようにまずはニュートラルにすると、心の平静が取り戻せる──私はそう確信していますし、私自身このやり方で何度も浮上してきました。
 よろしければ是非、皆さんもお試しください。


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「真四角な論理力」より「柔軟な人間力」が大切

 先日、ネットで面白い記事を見かけました。「正しい論理は危ない」という記事だったので、一体どのような論理が危ないのか興味を抱いて目を通したところ、それは実に的を射た内容でした。
 その記事には、思わず頷きたくなるような例も書かれていたのです。

 【正しい論理は危ない?】 
http://www.webdoku.jp/tsushin/2010/12/26/153938.html

 “正しい論理”は危ない?~『「金持ち」の不幸、「貧乏人」の幸福 』

 海外のジョークにこんなものがあります。

 ある精神病院で、入院患者が風呂場で釣り糸を垂れている。
「どうです、釣れますか?」
 すると、患者はこう答える。
「釣れるわけないじゃないですか、ここは風呂場ですよ」

 風呂場で魚が釣れるわけがない、というのはまさに正しい論理です。しかし、この論理を展開しているのは精神病院の入院患者、つまり狂人。このジョークは「正しい論理を使える人は狂っている」ということを言っています。

 「その典型がナチスドイツを率いたアドルフ・ヒトラーでしょう」。そう語るのは、書籍『金持ちの不幸、貧乏人の幸福』の著者・ひろさちや氏。演説であれほどまでにドイツ国民を熱狂させたヒトラーの論理には、欠点はあっても、意味不明なところはありませんでした。しかし、人間らしい当たり前の感覚はなかったのです。

 そこが危険なポイントだと、ひろ氏は警鐘をならします。たとえば、1人の人間が1時間かかって穴を掘ったとします。同じ穴を2人の人で掘ったら30分、3人だったら20分を要しました。では、120人で穴を掘ったら、30秒で穴は完成するでしょうか?

 120人だったら30秒で一つの穴を掘れるというのは、論理的には間違っていません。しかし、ひとつの穴を120人がかりで掘るなんてできません。論理としてはごもっともですが、人間らしい感覚を持っていたら、「でもね......」となるところです。この「でもね......」が"人間の論理"なのだとひろ氏は言うのです。

 ひろ氏は、同書のなかで「正しい論理」ほど、危険なものはないと何度も繰り返します。正しい論理が、必ずしも人間らしい論理とは限らないのです。



 私はこの記事に、深く同意してしまいました。
 同時に──不安が芽吹いたのも否定は出来ません。

 皆さんもご存知のように、昨年から裁判員制度が導入されました。
 施行後一年弱ではまだまだ黎明期と言ったところですが、裁判員制度になった後の判決で、なかば不安を煽るようなものもないわけではありません。
 先日「日本の未来の為に、今、必要なこと」にも書きましたが、日本人に論理力が欠けているというのは言われて久しいことです。
 もっとも、ここで言う「論理力」というのは、上記書いてあるような「正しい論理」ではありません。抜粋した記事にもあるように灰色である現実の中で、判断をする力のことであり、情緒と深く結びついた論理性──いわば洞察力であり、「人間の論理」です。
 洞察力が発揮される前提というのは、多くの情報と、比較出来るだけの多数の例があってこそだと思います。私は司法書士の勉強をしていた際六法全書とさんざん向き合いましたが、判例というのは本当に数え切れない程沢山あります。
 もし私が仮に裁判員として出なければならなくなったら、「どれほど多くの情報と照らし合わせればいいのか」でまず不安になると思います。人が裁かれる場で、「120人で穴を掘ったら、30秒で穴は完成する」というような思考でいては絶対に「まずい!」からです。

 しかし、ここ最近の裁判員制度の兆候を見ていて、「もうすでに、そうした論理に陥っているのではないか」と思わせるような判決がいくつかありました。
 勿論、裁判員となった方のご苦労は、心中お察しします。また、仕事などを休んで出席しなければならないなども考えれば、多くの負担があることも想定出来ます。
 ですが、そうした多くのことを抱えた中で、冷静な判断というのは出来るものなのでしょうか? 私だったら、とても重荷です。しかも死刑求刑されるような罪状であれば、尚更です。

 この裁判員制度。どうしても「勇み足すぎた」ように思えるのは──私だけでしょうか?
 本当はもっと議論し、ただでさえディスカッションやディベートが苦手な日本人の論理力を挙げてから踏み切るべきだったのではないかと、今更ながら思うことが多々あります。
 こういうことを言うと、「アメリカでは陪審員制度があるじゃないか」という反論があるかもしれません。でも、上記リンクした記事で引用した内容にもあるように、アメリカ人の論理力と日本人の論理力では、最初から「開き」があるのです。民族性というものを重んじるのであれば、日本には日本にあった裁判の方法を模索した方がいいように思えるのです。

 不思議なことなのですが、論理力に欠けている人ほど、上記引用した「論理上では正しいけれど、現実的に考えたら不可能」或いは「人間的に考えたら、それはおかしい」ということでも、平然と掲げる傾向があります。
 以前、このブログでも紹介しましたが、通勤電車に乗っていた母子を無理矢理下ろしたOLの話──。このOLは、きっと「自分は、間違ったことをしていない」そう思っているでしょう。
 でも、「人間としては、間違っている」──私はそう思います。

 もうひとつ、その事例と似た内容をご紹介します。
 これはずいぶん前に記事になっていた内容ですが、「デジタル万引き」という件が題材にされていました。
 デジタル万引きというのは、いわゆる携帯などで写真を撮り盗むということを示しているようです。勿論、本当の万引きのように文字通り盗むわけではありません。ですが、その是否について物議が醸されたようです。

 きっかけは、とある女性がインターネットの質問コーナーに、自分の体験談について意見を求めたところから始まりました。
 その女性は、書店で「料理のレシピ」を立ち読みし、その中で気に入ったレシピを携帯で写真に収めていたそうです。
 それに気付いた店主が、「そういうことはやめてください」と指摘しました。するとその女性は、「あともう少しで終わるのだから、少しぐらい待ってください」と言ったそうです。
 その結果、店主とその女性は口論となりました。やがて店主は「出て行ってください!」と肩を掴み、その女性は追い出されたそうです。
 そのことに憤った女性が、「私は犯罪を犯したわけでもないし、法律に違反しているわけでもないのに、そのような不当な扱いを受けた」と怒りのコメントを書いたのです。

 みなさんは、これについてどう思いますか?
 「犯罪じゃない」──それで済む問題なのでしょうか。
 確かに、女性の言っていることは「正論」かもしれません。法律の条文にも、そういったものはないでしょう。
 でも、法律に規定がないから、何をやっても許されるという考え方は、とても「恐ろしいもの」ではないでしょうか?

 「じゃぁ、駄目な理由を言ってよ!」
 何でも杓子定規にしか考えられない人というのは、そういうでしょう。
 しかし「駄目な理由がなければ、何をやってもいい」と言ってる時点ですでに、白か黒の論理だけで、物事を判断している証拠なのです。
 先日の記事にあげた「論理力」は、こうした「白か黒だけに囚われること」における論理性のことを言っているのではなく、もっと魂の本質に触れた洞察力のことを言っており、同時に日本人が、数学は得意(白か黒論理)であることも指摘しています。
 そして、上記引用した「正しい論理」は「数学的論理(穴掘りの事例は、まさに数学的論理です)の危険性」を指摘しています。

 哀しいかな、この女性のように「正しい論理(数学的論理)」で現実をはかろうとする人は、増えてきているように思います。
 でも、本当に大切なのはそうした論理力ではなく、洞察力でもって、相手を思い遣る「人間力」です。
 合理性を追求し、裁判員制度などを設けてはみたものの、まだまだそうした「人間力」における教育が不十分なのではないか──そんな危惧が拭えない昨今です。


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第七章(1)27日公開しました。
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日本の未来の為に、今、必要なこと

 藤原正彦「祖国とは国語」より 

 情報を伝達するうえで、読む、書く、話す、聞くが最重要なのは論を俟(ま)たない。これが確立されずして、他教科の学習はままならない。理科や社会は無論のこと、私が専門とする数学のような分野でも、文章題などは解くのに必要にして充分なことだけしか書かれていないから、一字でも読み落としたり読み誤ったりしたらまったく解けない。問題が意味をなさなくなることもある。かなりの読解力が必要となる。海外から帰国したばかりの生徒がよくつまずくのは、数学の文章題である。読む、書く、話す、聞くが全教科の中心ということについては、自明なのでこれ以上触れない。
 それ以上に重大なのは、国語が思考そのものと深く関わっていることである。言語は思考した結果を表現する道具にとどまらない。言語を用いて思考するという面がある。
 ものごとを考えるとき、独り言として口に出すか出さないかはともかく、頭の中では誰でも言語を用いて考えを整理している。例えば好きな人を思うとき、「好感を抱く」「ときめく」「見初める」「ほのかに想う」「陰ながら慕う」「想いを寄せる」「好き」「惚れる」「一目惚れ」「べた惚れ」「愛する」「恋する」「片想い」「横恋慕」「相思相愛」「恋い焦がれる」「身を焦がす」「恋煩い」「初恋」「老いらくの恋」「うたかたの恋」など様々な語彙で思考や情緒をいったん整理し、そこから再び思考や情緒を進めている。これらのうちの「好き」という語彙しか持ち合わせがないとしたら、情緒自身がよほどひだのない直線的なものになるだろう。人間はその語彙を大きく超えて考えたり感じたりすることはない、といって過言ではない。母国語の語彙は思考であり情緒なのである。
(中略)
 漢字の力が低いと、読書に難渋することになる。自然に本から遠のくことになる。(中略)
 読書は過去も現在もこれからも、深い知識、なかんずく教養を獲得するためのほとんど唯一の手段である。世はIT時代で、インターネットを過大評価する向きも多いが、インターネットで深い知識が得られることはありえない。インターネットは切れ切れの情報、本でいえば題名や目次や索引を見せる程度のものである。ビジネスには必要としても、教養とは無関係のものである。テレビやアニメなど映像を通して得られる教養は、余りに限定されている。
 読書は教養の土台だが、教養は大局観の土台である。文学、芸術、歴史、思想、科学といった、実用に役立たぬ教養なくして、健全な大局観を持つのは至難である。
 大局観は日常の処理判断にはさして有用でないが、これなくして長期的視野や国家戦略は得られない。日本の危機の一因は、選挙民たる国民、そしてとりわけ国のリーダーたちが大局観を失ったことではないか。それはとりもなおさず教養の衰退であり、その底には活字文化の衰退がある。国語力を向上させ、子供たちを読書に向かわせることができるかどうかに、日本の再生はかかっていると言えよう。

 アメリカの大学で教えていた頃、数学の力では日本人学生にはるかに劣るむこうの学生が、論理的思考については実によく訓練されているので驚かされた。大学生でありながら(-1)×(-1)もできない学生が、理路整然とものを言うのである。議論になるとその能力が際立つ。(中略)
 これと対称的に日本人は、数学では優れているのに論理的思考や表現には概して弱い。日本人学生がアメリカ人学生との議論になって、まるで太刀打ちできずにいる光景は、何度も目にしたことだった。語学的ハンデを差し引いても、なお余りある劣勢ぶりであった。
 当時、欧米人が「不可解な日本人(inscrutable Japanese)」という言葉をよく口にした。不可解なのは日本人の思想でも宗教でも文学でもなく(これらは彼らによく理解されつつあった)、実は論理面の未熟さなのであった。少なくとも私はそう理解していた。科学技術で世界の一流国を作り上げた優秀な日本人が、論理的にものを考えたり表現する、というごく当たり前の知的作業をうまくなし得ないでいること。それが彼等にはとても信じられないことだったのだろう。
 日本人が論理的思考や表現を苦手とすることは今日も変わらない。ボーダーレス社会が進むなか、阿吽の呼吸とか腹芸は外国人に通じないから、どうしても「論理」を育てる必要がある。いつまでも「不可解」という婉曲な非難に甘んじているわけにはいかないし、このままでは外交交渉などでは大きく国益を損なうことにもなる。

 数学を学んでも「論理」が育たないのは、数学の論理が現実世界の論理と甚だしく違うからである。(中略)
 現実世界の「論理」とは、普遍性のない前提から出発し、灰色の道をたどる、というきわめて頼りないものである。そこでは思考の正当性より説得力のある表現が重要である。すなわち、「論理」を育てるには、数学より筋道を立てて表現する技術の修得が大切ということになる。
 これは国語を通して学ぶのがよい。物事を主張させることである。書いて主張させたり、討論で主張させることがもっとも効果的であろう。筋道を立てないと他人を説得できないから、自然に「論理」が身につく。読書により豊富な語彙を得たり適切な表現を学ぶことも、説得力を高めるうえで必要である。
 日本人が口舌の徒になる必要はないが、マイクをつきつけられた街頭の若者、スポーツ選手、芸能人、などが実質のあることをほとんど何も言えないのを見るにつけ、国語教育について考えさせられる。

 現実世界の「論理」は、数学と違い頼りないものであることを述べた。出発点となる前提は普遍性のないものだけに、妥当なものを選ばねばならない。この出発点の選択は、通常情緒による。その人間がどのような親に育てられたか、これまでどんな先生や友達に出会ったか、どんな本を読み、どんな恋愛や失恋や片想いを経験し、どんな悲しい別れに出会ってきたか、といった体験を通して培われた情緒により、出発点を瞬時に選んでいる。
 また進まざるを得ない灰色の道が、白と黒の間のどのあたりに位置するか、の判断も情緒による。「論理」は十全な情報があってはじめて有効となる。これの欠けた「論理」は、我々がしばしば目にする、単なる自己正当化に過ぎない。ここでいう情緒とは、喜怒哀楽のような原初的なものではない。それなら動物でも持っている。もう少し高次のものである。それをたっぷり身につけるには、実体験だけでは決定的に足りない。実体験だけでは時空を越えた世界を知ることができない。読書に頼らざるを得ない。まず国語なのである。



 かなり長文転載しましたが、これはとある国語の問題文に使用されていたものを掲載しています。自分が常日頃感じていることがそのまま書かれていたので、是非皆さんにもと思いご紹介した次第です。

 以前の記事で、「私たちは思考する際に母国語に頼らざるを得ず、自ずと母国語に宿る民族性の影響を受けている」といった内容を書きましたが(すみません;どの記事だったか失念しました)、上記転載した内容も全般を通じて「日本人としての母国語の大切さ」と、および「国語力を培う必要性」が訴えられています。
 言葉というのは(ここでも書かれているように)ただの表現ツールではなく、思考作業の土台とも言うべきものです。
 語彙力が少なければそれだけ思考する視野が限定されてしまうのは無理のないことですし、他者との交流においても誤解が生じやすくなってしまいます。
 ここでは国語の重要性が訴えられていますが、何も国語というのは「学校で習うものだけ」ではなく、いつでもどこでも自らの自主性で修得出来るものです。
 むしろ、学校の国語の時間だけに頼ると、本当の意味での国語力はつかないでしょう。ここで挙げられるような「論理力」を育てるには、自主的に本を読むこと、そしてその内容を「自分なりに咀嚼し、理解するよう励むこと」だと思います。

 最近は論理力不足だけでなく、若い世代における誤字が多々見受けられるようになった印象を受けます。
 先日も、とある掲示板で「永遠と同じ表示がされたまま」という一文を見かけ、首を傾げてしまいました。
 おそらく当人は「延々と同じ表示がされたまま」と言いたかったのでしょうね(笑)。「えいえん」と「えんえん」では、意味もニュアンスも違います。
 勿論、ブログなどでちょっとした誤字をしてしまう──ということは、よくあることでしょう。私もいっぱいあると思いますし(苦笑)、「ついうっかり」というのがあるのは仕方ないことです。
 しかし、「うっかり誤字」と「間違えた漢字を、正しい信じ込んでいる」のでは、まったく意味合いが違います。
 それから、音読の習慣が最近は減ったせいもあるのか、漢字を「間違えて読んでいる人」も増えています。
 例えば、「如」という漢字がありますが、これには「如実(にょじつ)」や「如才(じょさい)ない」というように二つの読み方があります。
 しかし「如実」は知っていても「如才ない」は知らなかったのか、「にょさいない」と読んでしまうようなケースの人を見かけることが増えたのです。(これはひとつの例でしかなく、実際には「如」に限りません。多種の漢字でそういう傾向が見受けられます。)
 やはり同じように若い世代に集中しているので、もしかしたら教育体制が変わったからなのかもしれませんが──。

 もっとも、そうなってしまったのは若い世代に問題があるのではなく、そうした体制の中で教育をしてきた、今の大人達の責任であると、私は思います。
 安易に若い世代の考え方や価値観を批判するのではなく、そうした社会体制にしてきたことそのものを一考すべきだと、常々そう思います。
 責任は常に「今、自分たちに」感じるべきであって、他者に転嫁すべきものではありません。また、時代の犯人捜しをするような無意味な時間を取るよりも、それならこれから先、どうすればいいのかを建設的に考えた方が、遙かにいいでしょう。

 転載内容の前半にあるように、日本人は昨今大局的な見方に欠けていると感じることが多いです。
 政治の在り方にしても、どんなに討論を重ねたところで「国民不在の政策」に過ぎないように感じるのは何故でしょうか? 明らかに大局的な視野が欠けているからだと思えるのは、私だけでしょうか?

 私はここ数ヶ月の間で、急激に日本が「岐路に追い込まれている」ような感覚を受けています。
 私は決して日本を卑下しているわけではないし、日本の将来を意味もなく悲観しているわけではありません。
 日本民族には、確かに素晴らしい気質や性質があります。
 でも、その「良さ」を認識すると同時に、「今の自分たちに足りないもの」を冷静に見つめ、受け入れる姿勢が必要だとそう思えるのです。
 お気楽な日本民族優越思想に走っている間にも、刻一刻と時間は過ぎていきます。
 本当に「ただ優れただけ」の存在であれば、そもそも転生自体「しません」。
 ここに生きているという以上、必ずやみんな「優れた側面」もあり、同時に「まだ欠けている部分」もあるはずなのです。
 その「欠けた部分」を客観的に見つめ、大局的な視点でもって「どう改善していけばいいか」──改めてそれを考え直す時機に来ていると思う今日この頃です。


【参考文献】
祖国とは国語 (新潮文庫)祖国とは国語 (新潮文庫)
(2005/12)
藤原 正彦

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何故、日本は自殺者数が減らないのか?

 ここしばらく、日本は自殺大国として記録を維持し続けています。
 でも本来、物質的にこれほど恵まれている国はないだろうに、一体何故そういう国で自殺者が多いのだろう……と、途上国や紛争多発地域の人達は首を傾げたくなることでしょう。

 何故、経済的に恵まれた日本で自殺が多発しているか──理由はいくつか挙げられますが、その中でも大きな要因と思えるのが「こころの空洞化」です。
 これは、ある意味「日本の試練」とも言うべきもののような気がします。
 かつて日本民族は、(このブログでも何度も書いたように)とても繊細な感受性を持っていました。季節感豊かで、四季折々の情緒を表現し、また音を言葉化する才能にも恵まれていました。
 しかし、第二次世界大戦ですべてを失ってからというもの、日本に入ってきたのは物質の豊かさだけが語る幸福感でした。勿論、当時それは「人真似」ならず「国真似」──アメリカに準じたものでしかありません。
 いつしか私たちは、季節の移ろいや「その時だけのとっておき」というものを退け、「年中、いつでも食べられるもの」「年中、いつでも手に入れられる環境」といったものばかりを推奨し、気がつけば「我慢」という言葉さえも忘れてしまったような気がします。

 本来、旬の食事は「季節を愛しむ心」や、「自分たちが自然のリズムの中で生きている」ということを思い出させてくれたのに、そうした「旬」さえもが、日本の習慣から奪われてしまいました。
 そのせいで、スーパーにはいつでも秋刀魚があり、すいかもあり、メロンの隣でみかんが売られている始末。おそらく、子供達の中には旬というものを感覚ではなく「暗記」で覚えざるを得ない子達が、増えているのではないでしょうか。
 こうした「いつでも均一化された生活」が生み出すのは、虚しさであり、心の空洞化です。
 また、均一化されてしまった生活の中では「我慢」という場面に出くわすこともそうそうなくなり、気がつけば我慢は「ストレス」という形で語られてしまうようになりました。
 勿論、そうした空洞化だけが自殺の直接的な原因とは限りませんが、多かれ少なかれ「間接的要因にはなっている」と、そう思います。

 ここ最近の不景気が自殺者数に拍車をかけているとも言いますが、仮にこの不景気が直接的原因であるならば、日本よりも失業率が高いアメリカはさらに自殺者が増加していて不思議はないですし、日本よりももっと貧しい国々の方が自殺者数が増加していておかしくないはずです。
 すなわち、こうした日本の自殺者数が物語っているのは、外的影響ばかりではなく、内面的なものが大きいと、私には思えるのです。

 私は、日本の風土と国民の関係性を、よく「管理された水槽の中で飼われている熱帯魚」に例えることがあります。
 日本の風土が「管理された水槽」で、「熱帯魚」が国民。
 熱帯魚は美しいですし、とても繊細です。しかし、その分ちょっとでも環境が厳しくなれば、それを乗り越えることが出来ず、死んでしまうでしょう。清浄器が働かなくなれば瞬く間に水槽は濁ってしまいますし、酸素も少なくなってしまいます。
 今、日本に起きているのはまさに「その状態」のような気がするのです。

 しかし今、時代の中で起きているのは「グローバル化の波」です。
 アメリカから起きたグローバリゼーションに関しては批判も多く、反してナショナリズム化しようとする国々が目立つようになりました。
 ですが、時代は明らかに逆の向き──「国際的に開かれる動き」の中にあります。どう考えても、このままみながナショナリズム化して鎖国状態になるようなことはあり得ないし、不可能だからです。どんなに「移民反対」だのと言ったところで、少子化問題、高齢化問題が進む国においては移民に頼らざるを得なくもなってくるでしょう。
 そうした中で入ってくるのは、管理された水槽の水ではなく、「厳しい海水である可能性が高い」のです。

 そうした時代を乗り越えていく為にも、個々人が「強さ」を身につけることが大切だと、私は思います。
 本来、そこに必要なのが「精神世界」なはずです。先に書いたように、今の自殺者数増加は外的な影響ばかりではなく、蔑ろにされ続けてきた「内面の問題」の方が大きいからです。
 死も、苦も、その正体が何かを模索することなく、安易な言葉として一人歩きしてしまったこと自体、私たちが如何に精神における影響を考えずに生きてきてしまったかの証明なのですから。

 苦悩は「相対的」であり、絶対的ではありませんが、
 死は「相対的」ではなく、絶対的なのです。


 その差を、自殺をすぐに考える人達は理解していないのではないか──そう思えます。(もし「この意味が分かりづらい」と思った方がいましたら、是非、ご自身の中で解答を出してみてください。そうすることが、強い精神を生み出す為のきっかけにもなるはずです。)

 もっとも……。
 増加する小学生の自殺に関しては、こうしたことを強調出来ないのが辛いところです。小学生ではまだ何もほとんど「分かっていない状態」の方が多いので、そんな過程で自殺してしまうというのはこれは「本人の意志」というよりも「メディアの影響が強い」ようにも思えます。
 もし、本気で「自殺減少」に働きかけたいと社会が思っているのなら、ものの試しに「自殺に関する報道を、いっさいしない」ということをしてみたらいいように思います。
 そうすれば、本当の自殺者数というのが見えてくるようにも思えますので。それでもまだ3万を超えるようであれば──その時は、多くの人が精神的に強くなれる方法を、模索した方がいいのかもしれません。


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(お詫び)月・木は更新日ですが、都合により一週間更新をお休みします。次回更新日は13日(月)です。
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空気を読む

 KY──という言葉を耳にするようになってからさほど経っていませんが、短期間でこれほど周囲に浸透した言葉も珍しいように思います。
 もともと流行語にはあまり興味のない私ですが、何故かこの「KY」に関しては割と普通に使っているような気がします。テレビでコメンテーターなどが的の外れたことを言ってたりするのを見ながら「KYなコメントだよなぁ」なんて呟いたりなど、利用頻度はかなり高めかもしれません。
 おそらく、みなさんも同じではないでしょうか。通常の流行り言葉よりも、何故か自然に使ってしまう「KY」という言葉。
 実はそれほど、日本人が「空気」というものを身近に感じていることの証なのかもしれません。日本人ほど「空気」という言葉に敏感な民族性も、そうそういないのではないかと思える程です。

 先日、「空気の研究」という論文を発表した山本七平氏のことをご紹介しましたが、日本人が「空気」というものにどれほど従順だったかについては、特筆するまでもないでしょう。
 また、以前の記事で「日本人は伝導体気質(液体気質)」と書きましたが、結局この「伝導体気質」になるには取り囲む空気に敏感である必要性があったからなのかもしれません。というよりも、「伝導体気質」であるが故に「空気を読む」のか、「空気を読んでいた」から「伝導体気質」になったのか──どちらが先かは、分かりかねますが。
 そして面白いことに、戦後を境に教育や文化、生活スタイルがまったく変わっても、日本人の中にある「空気を読む」という習性は「変わってない」から不思議です。特段そういう教育を受けたわけでも、家庭環境の中で「空気を読みなさい」と教わったわけでもないのに、何故、私たちは無意識のうちに「空気を読む」という習性を身につけたのでしょうか?

 民族の特性は、「文化だけに馴染むのではなく、風土や言葉に馴染む」と、私は考えています。
 私たちは母国語として日本語を使いますが、日本語を使っている以上日本語の文法を無視した論理構造を思い浮かべることは不可能ですし、また日本語の単語にないものを表現するということも不可能です。その理由は、私たちが何かを表現したり伝えようとする時にはどうしても言葉に頼らざるを得ず、そうである以上、自分が使っている言語による拘束というのは自ずと受けてしまうからです。(そういう意味で、文章書きは真理を伝えるのに制限が多いです。むしろ画家などの方が、率直に表現出来るかもしれません。)

 日本人がいつのまにか身につけた「空気を読む」という特性も、もしかしたら「日本語」や「風土」の中に芽生えさせる要因が含まれているのかもしれません。英語などの場合ですと非常に文法がしっかりしていて、語順が違うだけでも相手に通じないことがあったりします。しかし、日本語は多少語順が違っても、雰囲気で──それこそ空気で相手の言いたいことを理解することが可能です。
 そう考えると、この「空気を読む」という習性は、日本語を使っている時点で自ずと身についたものなのかもしれませんね。風土の生み出した「季節感」もまた、日本人の「空気に敏感な感性」を生み出すことに一役買っているような気がします。

 今の時代のように「何かが変わっていく流れ」にある中で、日本人の持つ「空気を読む」という習性は、うまく活かせばとてもいい働きをするように思えます。
 しかし、逆に「悪い廻り」の方で感受してしまうと、悪循環になってしまう危険もあります。固形物に汚泥を落としても一点の染みだけですみますが、液体に汚泥を落とすと瞬く間に浸透していくのと同じことです。
 いいものも浸透が早く、悪いものも浸透が早い──それが、「空気を読む」特性を持った日本人のサガと言えるものかもしれません。

 そうした「液体気質」をうまく活かすには、「深海の意識」でいることが大切だと思います。
 先に挙げたように、液体気質の特徴として「いいものも、悪いものも浸透しやすい」というのであれば、もうひとつの特性である「流す」という作用を活かすことも出来るはずです。嵐の中、水が濁ってしまう時には深海の意識と繋がり、平常心でその嵐を受け流す──まるで「柳の強さ」のようですが、それが元来「空気を読む日本人」の、もっとも分かりやすい長所なのではないでしょうか。

 KYという言葉が流行った根源には、「空気を読める感受性」を持った自分たちの民族性が描かれているのだと、私は思います。
 その良さをうまく活かしながら、これからの時代──国の在り方、そして、国際社会との在り方を考えられるような生き方をしていきたいものですね。 


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プロフィール

篠崎由羅(しのざきゆら)

Author:篠崎由羅(しのざきゆら)
1970年生。幼少期から哲学・宗教学に造詣を深める。思想および思想史、それに付随した国際事情に興味を抱いて独学を続け、大学ではインド哲学科専攻。東西問わず、両者の思想に渡り研究を深める。

現在は看護師として施設で勤務しながら、その傍らで執筆活動を続けている。2016年11月にYOU are EARTH改め「WE are EARTH」の活動を再始動予定。より良い未来の地球のため、全力を尽くす誓いをたてている。

【篠崎編集担当】


【篠崎の著作本】

アセンション真実への完全ガイド―2012年のイベントホライズン (5次元文庫 し 2-1)アセンション真実への完全ガイド―2012年のイベントホライズン (5次元文庫 し 2-1)
(2010/06/09)
篠崎 由羅

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【第Ⅱ部に篠崎の質問文が一問一答形式で掲載されています】
クラリオン星人コンタクティが体験した アセンション[量子転換]のすべて  宇宙人の人類DNA大変革プログラムクラリオン星人コンタクティが体験した アセンション[量子転換]のすべて 宇宙人の人類DNA大変革プログラム
(2010/10/31)
マオリッツオ・カヴァーロ

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【インタビュー本第二弾】
クラリオン星人から日本人へ 緊急ハートサポート  YKAM 2012:宇宙創造者からの救いの手(超☆ぴかぴか) (超☆ぴかぴか文庫 3)クラリオン星人から日本人へ 緊急ハートサポート YKAM 2012:宇宙創造者からの救いの手(超☆ぴかぴか) (超☆ぴかぴか文庫 3)
(2011/09/22)
マオリッツオ・カヴァーロ

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