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“正しい論理”は危ない?~『「金持ち」の不幸、「貧乏人」の幸福 』
海外のジョークにこんなものがあります。
ある精神病院で、入院患者が風呂場で釣り糸を垂れている。
「どうです、釣れますか?」
すると、患者はこう答える。
「釣れるわけないじゃないですか、ここは風呂場ですよ」
風呂場で魚が釣れるわけがない、というのはまさに正しい論理です。しかし、この論理を展開しているのは精神病院の入院患者、つまり狂人。このジョークは「正しい論理を使える人は狂っている」ということを言っています。
「その典型がナチスドイツを率いたアドルフ・ヒトラーでしょう」。そう語るのは、書籍『金持ちの不幸、貧乏人の幸福』の著者・ひろさちや氏。演説であれほどまでにドイツ国民を熱狂させたヒトラーの論理には、欠点はあっても、意味不明なところはありませんでした。しかし、人間らしい当たり前の感覚はなかったのです。
そこが危険なポイントだと、ひろ氏は警鐘をならします。たとえば、1人の人間が1時間かかって穴を掘ったとします。同じ穴を2人の人で掘ったら30分、3人だったら20分を要しました。では、120人で穴を掘ったら、30秒で穴は完成するでしょうか?
120人だったら30秒で一つの穴を掘れるというのは、論理的には間違っていません。しかし、ひとつの穴を120人がかりで掘るなんてできません。論理としてはごもっともですが、人間らしい感覚を持っていたら、「でもね......」となるところです。この「でもね......」が"人間の論理"なのだとひろ氏は言うのです。
ひろ氏は、同書のなかで「正しい論理」ほど、危険なものはないと何度も繰り返します。正しい論理が、必ずしも人間らしい論理とは限らないのです。
藤原正彦「祖国とは国語」より
情報を伝達するうえで、読む、書く、話す、聞くが最重要なのは論を俟(ま)たない。これが確立されずして、他教科の学習はままならない。理科や社会は無論のこと、私が専門とする数学のような分野でも、文章題などは解くのに必要にして充分なことだけしか書かれていないから、一字でも読み落としたり読み誤ったりしたらまったく解けない。問題が意味をなさなくなることもある。かなりの読解力が必要となる。海外から帰国したばかりの生徒がよくつまずくのは、数学の文章題である。読む、書く、話す、聞くが全教科の中心ということについては、自明なのでこれ以上触れない。
それ以上に重大なのは、国語が思考そのものと深く関わっていることである。言語は思考した結果を表現する道具にとどまらない。言語を用いて思考するという面がある。
ものごとを考えるとき、独り言として口に出すか出さないかはともかく、頭の中では誰でも言語を用いて考えを整理している。例えば好きな人を思うとき、「好感を抱く」「ときめく」「見初める」「ほのかに想う」「陰ながら慕う」「想いを寄せる」「好き」「惚れる」「一目惚れ」「べた惚れ」「愛する」「恋する」「片想い」「横恋慕」「相思相愛」「恋い焦がれる」「身を焦がす」「恋煩い」「初恋」「老いらくの恋」「うたかたの恋」など様々な語彙で思考や情緒をいったん整理し、そこから再び思考や情緒を進めている。これらのうちの「好き」という語彙しか持ち合わせがないとしたら、情緒自身がよほどひだのない直線的なものになるだろう。人間はその語彙を大きく超えて考えたり感じたりすることはない、といって過言ではない。母国語の語彙は思考であり情緒なのである。
(中略)
漢字の力が低いと、読書に難渋することになる。自然に本から遠のくことになる。(中略)
読書は過去も現在もこれからも、深い知識、なかんずく教養を獲得するためのほとんど唯一の手段である。世はIT時代で、インターネットを過大評価する向きも多いが、インターネットで深い知識が得られることはありえない。インターネットは切れ切れの情報、本でいえば題名や目次や索引を見せる程度のものである。ビジネスには必要としても、教養とは無関係のものである。テレビやアニメなど映像を通して得られる教養は、余りに限定されている。
読書は教養の土台だが、教養は大局観の土台である。文学、芸術、歴史、思想、科学といった、実用に役立たぬ教養なくして、健全な大局観を持つのは至難である。
大局観は日常の処理判断にはさして有用でないが、これなくして長期的視野や国家戦略は得られない。日本の危機の一因は、選挙民たる国民、そしてとりわけ国のリーダーたちが大局観を失ったことではないか。それはとりもなおさず教養の衰退であり、その底には活字文化の衰退がある。国語力を向上させ、子供たちを読書に向かわせることができるかどうかに、日本の再生はかかっていると言えよう。
アメリカの大学で教えていた頃、数学の力では日本人学生にはるかに劣るむこうの学生が、論理的思考については実によく訓練されているので驚かされた。大学生でありながら(-1)×(-1)もできない学生が、理路整然とものを言うのである。議論になるとその能力が際立つ。(中略)
これと対称的に日本人は、数学では優れているのに論理的思考や表現には概して弱い。日本人学生がアメリカ人学生との議論になって、まるで太刀打ちできずにいる光景は、何度も目にしたことだった。語学的ハンデを差し引いても、なお余りある劣勢ぶりであった。
当時、欧米人が「不可解な日本人(inscrutable Japanese)」という言葉をよく口にした。不可解なのは日本人の思想でも宗教でも文学でもなく(これらは彼らによく理解されつつあった)、実は論理面の未熟さなのであった。少なくとも私はそう理解していた。科学技術で世界の一流国を作り上げた優秀な日本人が、論理的にものを考えたり表現する、というごく当たり前の知的作業をうまくなし得ないでいること。それが彼等にはとても信じられないことだったのだろう。
日本人が論理的思考や表現を苦手とすることは今日も変わらない。ボーダーレス社会が進むなか、阿吽の呼吸とか腹芸は外国人に通じないから、どうしても「論理」を育てる必要がある。いつまでも「不可解」という婉曲な非難に甘んじているわけにはいかないし、このままでは外交交渉などでは大きく国益を損なうことにもなる。
数学を学んでも「論理」が育たないのは、数学の論理が現実世界の論理と甚だしく違うからである。(中略)
現実世界の「論理」とは、普遍性のない前提から出発し、灰色の道をたどる、というきわめて頼りないものである。そこでは思考の正当性より説得力のある表現が重要である。すなわち、「論理」を育てるには、数学より筋道を立てて表現する技術の修得が大切ということになる。
これは国語を通して学ぶのがよい。物事を主張させることである。書いて主張させたり、討論で主張させることがもっとも効果的であろう。筋道を立てないと他人を説得できないから、自然に「論理」が身につく。読書により豊富な語彙を得たり適切な表現を学ぶことも、説得力を高めるうえで必要である。
日本人が口舌の徒になる必要はないが、マイクをつきつけられた街頭の若者、スポーツ選手、芸能人、などが実質のあることをほとんど何も言えないのを見るにつけ、国語教育について考えさせられる。
現実世界の「論理」は、数学と違い頼りないものであることを述べた。出発点となる前提は普遍性のないものだけに、妥当なものを選ばねばならない。この出発点の選択は、通常情緒による。その人間がどのような親に育てられたか、これまでどんな先生や友達に出会ったか、どんな本を読み、どんな恋愛や失恋や片想いを経験し、どんな悲しい別れに出会ってきたか、といった体験を通して培われた情緒により、出発点を瞬時に選んでいる。
また進まざるを得ない灰色の道が、白と黒の間のどのあたりに位置するか、の判断も情緒による。「論理」は十全な情報があってはじめて有効となる。これの欠けた「論理」は、我々がしばしば目にする、単なる自己正当化に過ぎない。ここでいう情緒とは、喜怒哀楽のような原初的なものではない。それなら動物でも持っている。もう少し高次のものである。それをたっぷり身につけるには、実体験だけでは決定的に足りない。実体験だけでは時空を越えた世界を知ることができない。読書に頼らざるを得ない。まず国語なのである。
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