本当に悪戯? カナダの川の水が蛍光色に。

 現在「更新お休み期間」ですが、あまりにも驚愕する記事を見かけた為、皆さんにご紹介します。

 カナダ西部のゴールドストリーム川で、川の水が蛍光色になるという気味の悪い現象が起こったそうです。

【カナダの川の水が不気味な蛍光色に、見慣れぬ光景に目撃者は「ショック」 byナリナリドットコム】 
 http://www.narinari.com/Nd/20110114867.html

 あり得ない光景ですよね……。
 ただ──哀しいかな日本人の習性。不謹慎にも見た瞬間、「なんか、バス○リンみたい……」と思ってしまったのですが(苦笑)──記事の文末にも書いてあるように、事実日本の入浴剤に使用されている物質が見つかったとか。

 環境には無害と言うものの、本当にこれはいたずら行為なのでしょうか? 
 リンク先の動画を見て頂ければ実感出来ますが、「人為的いたずら」の割にはあまりに規模がでかすぎます。止水ならともかく、これほど大きな川をどうやったら一斉に染められるというのでしょうか?
 仮に、実際に「入浴剤」を投げ入れると想像してみてください。一体、どれほどの入浴剤を投げ入れれば、これほど大きな川が見事に染まるというのでしょう? 私はいつも入浴剤を入れるタイプなのですが、ちっちゃな浴槽程度でも同じ色ぐらいに染めようと思えば、結構の量を入れることになります。勿論、入浴剤に使われている量は微量でしょうが、それにしても「一体、どれぐらい入れたの?」という疑問が拭えません。

 「約3時間に渡り、400メートルの範囲」って、あまりに広大すぎです。学校のグラウンドを想像してみてください。たいてい、グラウンド一周分が「200メートル」です。その2倍の範囲で「3時間」ですよ?(その後、「1時間ほどで消えた」という新聞記事のコメントもありますが、どのみち止水ではない流水に1時間、400メートルはあり得ないです)。
 噴水の方は分からなくもないですが(同じ水を、何度も使い廻しているでしょうから)次から次へと流れてくる川に対して、ほぼ全体的に染めることがどうすれば可能なのか──すごく疑問です。
 この現象を「人為的いたずら」と断定してしまうのは、何だか早計なような気もしてしまいます。
 おそらく「環境に害がない」為、さほど大騒ぎされていないのかもしれないという気もしますが、もし「いたずら」であるのなら、「どれほどの量入れ込めば、このような現象が可能なのか」を知りたいですね。 記事にもあったように「放射能かと思った」という心配、すごく良く分かりますし──それに、「蓄積された微量な化学物質が、偶然にも化学変化してしまった可能性」なども疑ってしまうとキリがないので、その辺りのことをもう少し詳しく調査して欲しいと思った次第です。
  

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2011-01-13 | 雑談 | トラックバック(0) |

カタツムリの哀しい思い出

 私はナショナル・ジオ・グラフィックチャンネルが大好きなのですが、残念ながら今の環境ではケーブルで見ることが出来ません。
 しかし、そういう人達への助け船か──ありがたいことに、GYAOでナショジオ専用の無料動画特集があります。(こちら→http://gyao.yahoo.co.jp/p/00787/v09415/)今日は本日配信終了予定の「ミクロの世界へ大冒険!」を視聴していたのですが(とてもいい作品でした。分かりやすい内容で、子供でも充分楽しめます。本日配信終了でなければ、ご紹介したかったところです)その中でカタツムリが出てくる場面がありました。

 その瞬間。
 哀しくて、そして憤りを感じてしまう思い出が蘇ってしまいました……。

 それは、私が中学二年生の時のことです。
 その頃の同級生で、女子からも男子からもからかわれる対象の子がいました。
 今時で言う「いじられキャラ」っていうのでしょうか──? 虐めとは言い難い、でも、からかいの割にはタチが悪いという行為も多々されていて、私はそれが虐めなのかどうなのかの判断がつかず、よく悩んだものです。
 その子のことを、仮にAちゃんとしておきます。
 Aちゃんはパッと見(言葉は悪いですが)ちょっと抜けているような印象があって、そこがいじられキャラのターゲットになっているところでもあり、かつ、Aちゃんの「人の良さ」を表すものでもありました。

 ある日、Aちゃんは学校に来る途中で「カタツムリ」を見つけたといって、連れてきました。
 Aちゃんはもともと亀やおたまじゃくしなど、思春期の女の子には敬遠されがちなペットを飼っていたので、Aちゃんにとってカタツムリは琴線に触れる愛らしい存在だったのでしょう。
 私も、子供の頃から動物や昆虫が好きだったので、Aちゃんのその優しさにはいつでも感心していました。男子の話や芸能人の話、深夜ラジオ番組のことや性行為についてなど、そんなことばかり口にするような生徒達に比べたら、はるかにAちゃんは純朴で、穢れない存在のように思えていたのです。
 他の女子達は、みんな「カタツムリ! 気持ち悪い~!」と大騒ぎしていました。本心で大騒ぎしていたのか、それとも好きな男子の気を引きたくて(笑)そう言っていたのかは分かりませんが、Aちゃんの「カタツムリを連れてきた」という行為は、周囲にとってまたもやからかわれの対象になってしまいました。
  
 もっとも、そこまではいつも見られる光景でした。
 ただ、何かの拍子に、私もAちゃんも、そしてその場にいた私と親しい間柄の人達は、Aちゃんの机と、机の上にいたカタツムリから目を離してしまっていました。

 次の瞬間──。
 誰が最初に気付いたかは、今となっては覚えていませんが、誰かの「あっっ!」という大きな叫び声に私たちは我に返り、Aちゃんの机に視線を戻しました。

 すると──。
 カタツムリがいたはずの場所に、国語辞典がどかりと置かれているではないですか。
 その下のカタツムリがどうなっているか、想像に難くありません……。
 Aちゃんは、悲鳴にも近い声をあげました。
 それと同時に、一斉にあがる笑い声──。

 私は、猛烈に怒りを感じました。
 Aちゃんへした行為だけじゃなく、カタツムリの小さな生命を蔑ろにした行為そのものが、「許せなかった!」のです。
「誰だ、こんなことしたの! 出てこい!」
 あまりの怒りに、私は絶叫せずにいられませんでした。クラスメイト達はみんな、「私じゃない」「俺じゃないよ」と半笑いで誤魔化します。
 あの場で、本心から激怒したのは──たぶん私だけだったと思います。もしかしたら私と同じように怒りを感じた人もいるでしょうが、少なくともその怒りを表に表したのは、私だけでした。
 私は、周囲にいるクラスメイトにも失望しました。半笑いということは、今、目の前で悪戯に殺された生命に対する尊厳など、欠片も感じていないという証拠です。私はこの怒りをどこにどうぶつけていいのか、まったく分かりませんでした。

「早く辞書をどかしなよ! 生きてるかもしれないよ!」 
 女子のひとりが言いました。
 とてつもなく残酷な言葉だと──そう思います。何故なら、どう考えたって生きているわけがないのですから……。
 ちなみに、その辞書はAちゃんの辞書でした。私たちが目を離した隙に、誰かがAちゃんの辞書を、カタツムリの上に落としたのでしょう。
 Aちゃんは「そうだね、そうだね、生きているかもしれないね」そう言って、慌てて辞書を外しました。

 その先は──言わずもがな……です。

 哀れなカタツムリの死骸をみて、「生きてるかもしれないよ」と言った子は、大声で笑いました。
 狼狽しているAちゃんを見て、またみんなが笑います。
 居たたまれなくなった私は、再び叫びました。
「一体誰がこんなひどいことしたんだよ! Aちゃんとカタツムリに謝れ!」
 すると、Aちゃんがボソッとこう言いました。

「いいよ、由羅ちゃん。ごめんね……。あたしがいけないの。あたしが、連れて来たりしたから──」

 私は、Aちゃんに何て言っていいのか──言葉が見つかりませんでした。カタツムリの亡骸は、ティッシュにくるまれ……その後どうなったのかは、覚えていません。
 ただ、今でもカタツムリを見ると、その時のことを思い出すのです。

 ──こんなことが、あっていいはずがない。
 あの後、私は怒りを通り越して、とても哀しくなりました。
 何故、小さな生命を物笑いの種に出来るのか、本当に理解出来なかったのです。
 いえ、もしかしたら「カタツムリの命程度で、ピーピー言う方もおかしい」そういう意見もあるかもしれませんね。
 こればかりは、論議したところで「答えは出ない」そう思います。生命の尊厳は「理屈」で理解するものではなく、「魂で感じるもの」だから。魂で感じられないと言う以上、説得の術はありません。

 あれからもう26年もの歳月が流れ、当時のクラスメイトも立派な大人になっています。子供を育てている人も大勢いるでしょうし、場合によっては当時の私たちぐらいの年齢の子がいる人もいるでしょう。
 生命を軽んじられたカタツムリと、それを奪われたAちゃんの傷を、彼ら・彼女らは覚えているのでしょうか?
 Aちゃんの辞書をカタツムリに落として、素知らぬ顔を出来た人は、そのことを覚えているのでしょうか?
 どんな小さな生物にも生命が宿っていることを、今の彼らは感じているのでしょうか?

 答えは分かりません──。
 でも、私だけはせめて、自分自身が生命を慈しむことはもとより、自分の周りにいる人達にも、生命の大切さを伝えていきたい──そう改めて実感させられる、そんな思い出です。


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(お詫び)月・木は更新日ですが、都合により一週間更新をお休みします。次回更新日は13日(月)です。
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2010-12-08 | 雑談 | トラックバック(0) |

「このような時代」にこそ、心の余裕を。

 最近多忙な日々を送っている関係で、なかなか更新が出来ず申し訳ございません──;

 11月に入ってからというもの、またもや時間の流れが一段と速くなっているような感がありますね。
 その関係で焦りを感じられる方もいるかもしれませんが、私的には「何も焦る必要はない」──そう思います。中には「早急な目覚め」を叫ぶブロガーさんもいらっしゃるようですが、私の立場として明確に言えることは、このブログでは読者の方を煽るようなことや、「目覚めなければならない」的な言葉を「使いたくない」ということだけです。
 
 そもそも目覚めというのは、もっと「静か」に訪れるものだと、私は思います。
 ふとした「気づき」──。それこそが、目覚めだと思うのです。
 かつての僧侶達が至った「覚りの瞬間」は、決して「劇的!」ではなかったと思います。仏陀にしたって、苦行の最中に「ふとした日常のひとこま」の中で、覚りに至ったのですから。
 目覚めというのは、そうした当たり前の日常にこそ、あるものなのかもしれません。
 それは、木の葉が風にそよがれる中で起こるかもしれないし、青い空を横切るように飛行機雲がまっすぐ伸びていくその瞬間に、起こるかもしれない。
 私たちが普通に起きる時だって、けたたましい目覚まし時計によって起こされるよりも、小鳥たちの小さな囀りで目覚めた方が遙かに気分がいいのと同じように、精神の目覚めだって他者から言われるよりも、自らの「気づき」で至る方が遙かにいいだろう──私は、そう思っています。
 そして、これからの時代はそうした「自発的な気づき」こそが大切になってくる──そう思えるのです。

 自発的な気づきに必要なことは、多くの情報や知識を拾い集めることではなく、ほんの些細な現象に対して、如何に感受性豊かに受け取れるかということなのかもしれません。
 何度もここで書いた例ではありますが、かつての日本の歌人達はそうした意味で「とても優れた感受性を持っていた」と思います。
 時間の流れが速くなっているからこそ、遠くまで澄んだ青空を仰ぎ、太陽の光を受け、木々の小枝のささやく音や小鳥のさえずりに耳を澄ます──そんな心の余裕が必要なのだと思う、今日この頃です。


【お詫び】
なかなか「地球の未来」の連載が再開出来ず、申し訳ございません; 今しばらく、お待ちくださいませ。

【お知らせ】
最近、ブログについているメールフォームを使用してメールを送って頂くと、時折「文字化け」する現象が続いています。「必ず文字化けする」というわけではなく、送って頂いた方によって文字化けしたりしていなかったり、或いは後半が文字化けしたりという状態になっているので、理由が分かり兼ねるのですが──。
もしも、篠崎からの返信希望でメールをお送り頂き、まだ返信が届いていないようなことがありましたら「文字化けしてしまっている可能性」がありますので、恐れ入りますが「y-shinozaki☆you-are-earth.com」(☆→@に変換)までご一報ください。


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2010-11-11 | 雑談 | トラックバック(0) |

昆虫料理

※今日は少し息抜き(?)というか、雑談記事です。

 最近、私を洗脳するかのように、あちこちで「昆虫料理」という文字を見かけたり、或いは話題に上ったりします。
 先日話題に上がった内容としては、「子供時代、結構『蟻』とかを普通に食べる子いたよね──」でした。
 これは冗談でも何でもなくて、本当の話です。逆に「今時の子供達の間で、そういう子っているのだろうか?」と疑問に思う程です。
 ある友人曰く、私たちの共通の知人が幼稚園児代に蟻を見つけるたびに捕まえては食べていたと言います(勿論、「ナマ」です)。
 その知人はとても優秀な子で、学問だけでなく芸術にも秀でた才能を持っていました。勿論、そのような教育を施せる家庭環境に育っている以上、食事が不自由だったわけでは決してありません。一体、どこで蟻が美味しいということを知ったのかは謎ですが、食べるものに困って蟻を食していたわけでないことは確かです。
「なるほど──。天才児というのは、普段の食事も違うものなのかな」なんて思った私でしたが、意外にもその知人のような行為をしていたという話がそこかしこにあり、「蟻、常備食!」な真相が垣間見られたりした程です。

 確かに、イナゴなどは私が小学生時代まで普通に食卓であがっていましたし、今でも佃煮屋さんなどに行けば普通に売っていると思われます。昆虫を食べる習慣を持つ国自体、世界的に見れば決して少なくはないし、たまたま私たちが食していないというだけで、意外にも昆虫食って普通なことなのかもしれません。
 かといって、何の先入観もなしに「食べなさい」と言われて、すぐさまその場で食べられるかどうかは別にしても──蛙を食べたり、或いは蛇なども食べることを思えば、昆虫食ぐらい「どうっていうこともない」のかもしれません。
 昨今、蜂が大量消滅していることや、昆虫が全体的に減っていることを思うと、あれこれ思いめぐらすものもなきにしもあらずですが、人間はいずれにせよ何かしら食して生きなければならないという哀しい宿命がある以上、生命からの恩恵を受けなければなりません。
 万が一、今後環境の影響で農作物の生産料が激減するようなことがあったら──

 ──食卓の主役が、昆虫に変わることがあるかもしれませんね……。

 とはいえ心なしか、感情移入出来る家畜よりも、昆虫の方が魚や野菜に近い感覚で「食するのに抵抗がない」ような気もします。
 昆虫は果たしてアストラル体を有する動物に分類されるのか、或いはエーテル体を有する植物に分類されるのか、これ自体が疑問です。
 あれこれ掘り下げて考えていくと、アストラル界でもエーテル界でもない、また違う分類に分けられるような気もしてしまいます。シュタイナーは「動く生物は、例外なくすべてアストラル界を共有している」と言っていましたが、何故か昆虫に関しては「アストラル体──キミにもあるの?」と突っつきたくなるから不思議です。(アストラル界でも、エーテル界にギリギリ近い境界線なのかもしれませんが。)

 篠崎の活動YOU are EARTHでは、食育を研究している栄養士・古雅貴美子先生にご協力頂いています。
 早速、古雅先生にもこの「昆虫料理」のネタを振りましたので、是非いつか食育の視点で「昆虫食」について意見を聞いてみたいと思います。
 もし興味のある方がおりましたら、楽しみにお待ちくださいマセv



【参考】古雅先生の食育ブログ
 簡単に出来て栄養のある簡単食育レシピを紹介されています。10月12日にはレシピお持ち帰りの出来るセミナーも予定しておりますので、興味がおありの方は是非ご参加ください。(試食も出来ます。)
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2010-09-23 | 雑談 | トラックバック(0) |

「自分の欠点を自覚する」ということ

 昨今、スピリチュアリストの中で長所だけを見なさいとかポジティブに考えましょうとか、或いは「ありのままでいいのよ~」とか、そういう言葉をよく耳にします。
 それそのものを、私は「悪い」とは言いません。
 でも、場合によってはそれが甘やかしになってしまう場合も、あるのではないかそう感じることも多々あります。

 私が離婚直後、本当にあれこれ苦悩したのはすでに記事に書きましたが(【体験談9】復活。そして、新たな目覚め)、その時、あるセラピストの方に「私は自分を変える為に、自分の『欠点を知りたい』んです」と言ったことがありました。
 返ってきた言葉は、「あなたは充分素晴らしいので、そのままでいいですよ」──という曖昧な答え……。
 ……まぁ、セラピストと言うのは「癒すのが仕事」なので、その方にしてみれば本当に親身になってくれた言葉だったのだろうと、そう思います。
 でも、それは当時の私には、物足りない言葉でした。
 その方は親切心だったのでしょうが──かえって「その場しのぎで誤魔化された」かのように感じてしまった点も否めません。
 だって、「何が素晴らしいのか」「何がいいのか」具体的に提示しているわけではありませんからね。
 それじゃ、納得出来ない人も多いような気がします。

 結局三年後──私は半年間にわたって、欠点を書き出すという行為を繰り返したおかげで、そこから立ち直ることが出来ました。
 結果的にそれは自力でやったことであり、「その試行錯誤が功を奏した」そうも思っています。
 「欠点を真正面から見つめる」、これが、私にとっての必要な行為だったのでしょう。
 でも、実はこれ──この時が、初めてではないのです。


 それは、私が中学三年生の時のことでした。
 卒業式に、在校生に向かって「詩の朗読」をする人達を数名募集する──という企画があったのです。
 私はもともと「目立つのが大嫌い!」(マジです)なので、勿論ハナっから興味ありませんでした。


 ※余談※実は中学時代、学年主任からしつこいほど「生徒会長に立候補しろ!」と突かれたこともありました。
 「2000人からなるマンモス校、しかも大正時代から続くこの中学校において、歴代初の女生徒会長になれるんだぞ! お前には、それほどの器がある!」と、毎日放課後に足繁く通っては口説かれたのですが──最後まで「私は目立ちたくないので、嫌だ!」と言い張りました。そのぐらい、人前に立つのが嫌いな人間なのです。←そんな私が「11月3日に講演会」なんて、ホントに鼻で笑っちゃいます。勿論、やるからには精一杯、ありったけの情報と知識を伝授しますが、こういう形のイベントは今回で最後にするつもりです。



 ところが、友人のAちゃんは中学入学時からその「卒業式で朗読をする」のに憧れていて、「絶対に立候補したい!」というのです。
 しかも、「ひとりで応募するのは怖いから、由羅ちゃん、つきあってくれない?」というのです。

 自分が行くのは嫌でしたが──友人から頼まれたら、さすがに「嫌」とは言えません。
 それに、「絶対、自分は選ばれないだろう」とも思っていたし(練習だっていっさいしてなかった程だから;)、軽い気持ちで参加しました。

 すると──あろうことか私が朗読者に選抜され……
 皮肉なことに、三年間もその夢を追ってきたAちゃんは、落選してしまったのです……。

 朗読者の発表があった後、私はクラスに戻りました。
 別段自分が受かったことについて何も感じていなかった為、普通に友人と談笑していたのです。
 しかし、いつまでたってもAちゃんが戻ってきません。

「Aちゃん、遅いね。どこ行ったのかな」
 そんなふうに言いながら、私は他の友人と待っていたところ──やがて、Aちゃんが戻ってきました。
 その姿を見て──私は「ハッ」と息を呑みました。

 おそらく、その時のAちゃんの様子に気付いたのは、その場にいた「私だけ」だったと思います。
 Aちゃん自身、ひたすらそれを隠し通そうとしていたでしょうから。

 Aちゃんは、泣いていたのです……。

 おそらく、トイレに籠もって、涙がひとしきり流れるまで待って、平常心が保てるようになるまでひとりでいたのでしょう。でも、何度もこすった目が赤くなっていたので──私はすぐに、Aちゃんが「泣いていた」ことに気付いたのです。
 そこまでAちゃんは、その役に立ちたかったのでしょう。
 その為、私は即座にこう言いました。

「あのさぁ──私、ホントに目立つの苦手でさぁ……。もし良かったら、Aちゃん、代わりに卒業式の朗読してくんないかな」

 それは、当たり前のことですよね。だって、最初から私は「つきあい」での参加でしかなかったし、練習もいっさいしていなかった。何日も練習をかけたAちゃんに対して、これでは申し訳が立ちません。
 しかし、プライドの高いAちゃんは──黙って首を振りました。

「選ばれたのは『由羅ちゃん』なんだよ。でも、私は落選したの。どんなに由羅ちゃんが目立つの嫌いでも、受かった以上は、その役目を全うしてちょうだい」と。

 私も──思わず、泣きそうになりました。
 そのまま、力強くAちゃんをハグしたかったぐらいです。 

 私はその日以来「自分が本当にやりたいわけではないことを、軽々しく請け負う自分」に、ホントに嫌気が差しました。
 自分を責めて、責めて──そして、「こんなふうに、軽はずみな行動をする前に、必ず冷静になれるよう、左手の小指に黒いハートマークを書こう!」そう決めたのです。

 子供の思いつきでしたので、続いたのは数ヶ月でしょうか(苦笑)。
 でも──先日、私はとあることで自分を責め苛んだ時、そのことを「思い出した」のです。

「そうだ! あの時みたいに、自分の欠点が出そうになったら、必ず左手の小指を見よう」と。
  
  201008242036000_convert_20100824213304.jpg
   ※私は携帯で写真を撮るのが下手なのでブレてしまった為、小さな画像でお送りします;

 ちなみに、この黒いハートは「油性ペン」で書かれています。
 水性だと、アイスコーヒーのコップなどを持っただけで、すぐ落ちてしまうからです。
 ホントは「タトゥー」にしようかなと思ったのですが、タトゥーとして半永久にするよりも、消えかかったら、毎日書き込む行為の方に意味があるような気がしたので、タトゥーにするのはやめました。

 35歳の半年間、欠点を書き連ねた私ですが、人間である以上はなかなか欠点など消えません。
 私はどうしても、「一歩引いて、冷静に考える」という視点に欠けているきらいがあるのです。
 だから、何か憤りなりを感じたら──まずは一歩引いて冷静に考える為、「左手の小指に書いた黒いハート」を見よう、そう思っています。

 私は「地球の恒常的平和」を求めていますが、それは、結果的に「自分自身の恒常的平和」とイコールなのだと、そう思えるのです。
 地球が恒常的平和になったのに、個々人が「不穏」だなんて──そんな矛盾はあり得ませんよね(笑)。
 だから、逆に言えば「個々人の恒常的平和があってこその、地球の恒常的平和なのだ」と、私はそう思うのです。

 でも、その為には「自分のことを、甘やかしてばかりいてはいけない」──そう思います。
 最近の若い人達の中には、会社の面接などで「長所を書いてください」と言われても「欠点しか浮かばない」という人が多いそうです。
 ──が、厳しいことを言うようですが、それは、本当の意味で欠点と向き合ったことがないから、欠点しか浮かばないのだと、私は思えるのです。
 一度、徹底的に欠点と向き合えば、それが実は「長所の裏返しだった」ということに気付かされることも多々あります。
 架空の理想像でしかない自分を追い求め、等身大の自分を見つめてないからこそ、「自分には欠点しかない」──そう思ってしまうのだろうと、私には感じるのです。

 自分の欠点を自覚するということは、同時に「自分の個性を見つけること」でもあり、「自分の長所を改めて発見できること」でもあるのです。
 昨今は何でも「ポジティブに」と言いますが、三次元に「光と闇」が存在する以上、「闇がどういうものなのか」を知ってこそ、初めて「光の本当のありがたさ」や「意味」が分かるはずなのです。

 もし、「自分の中にある光と闇に向き合いたい」──そう思った方は、是非、「左手の小指に黒いハートマーク(色は何でもいいと思いますが、水性はあまりお薦め出来ません。とくに主婦の方は「水仕事」が多いので。注意※でも、最初のうちは「水性」にしておいて、自分の決意を確認してからの方がいいかもしれません。後悔してからでは遅いので;)」の実践をしてみるといいかもしれません。

 闇の向こうにこそ、光の輝きが見える──世の中、そんなものなのかもしれません。


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2010-08-24 | 雑談 | トラックバック(0) |

ある有名著者への意見書

 この記事を書こうかどうしようか、長いこと悩みました。
 私は以前も書いたように「他者を批判しない主義」です。
 しかし、「社会に害を成していると思える意見には、個人批判をせずに、その人の意見(著作)について堂々と反論する」という姿勢で常にいます。
 そして、今回私がしようとしていることは、とある方の著作に対する「反論」です。
 最初はその本のタイトルも掲載していましたが──それは控えることにしました。
 おそらく、一度でもその方の本を読んだことのある方であれば、名前を出さなくてもすぐに分かるだろうし、また、どんな著作であれ、その人が一生懸命書いたものであるのであれば(そうであると、私は信じたい)、それを批判する権利など、私にはないからです。

 ですが、あまりにも今回の本は「目に余りすぎ」でした。
 しかも、この方は精神世界系ではかなりの有名人です。
 本もだいぶ売れているようですが、私は心から「読者のみなさん、もっと洞察力をもって自分で思考することを試みてください!」と心から叫びたい気持ちでいっぱいなのです。

 私のブログや本を読んで下さっている読者の皆さんは、もともとすでに考察する力をお持ちの方が多いので(それは頂く感想や質問文を拝見すれば、すぐに分かります)、もしかしたら私が今から叫ぶことは、すでに皆様もお気づきのことかもしれません。
 しかし、やはり「どうしても間違っている」と思ったことをこのまま見過ごすことは出来ないので──あえて指摘することを決意しました。
 著者の名前は……出そうか悩みましたが、その方を信じている人達を不用意に傷つける意図はないので、あえて伏せさせていただきます。
 でも、私が一番伝えたい相手は──本当はこの本を書かれた著者の方、ご本人にです。
 私が悪戯な中傷や批判目的で書いているのではなく、純粋に真理探究を目指す立場として書いているのだということが、その方に伝われば幸甚です。

(その方の著作「A」における疑義((著者はB先生とさせて頂きます)))
●次元の考え方における間違い
 

 この著作Aには「二次元に高さが加わって三次元になっている」と書かれています。
 しかし、それは既存の物理学において指摘されている次元の考え方の基盤にもなっていない、とても中途半端な表現です。(参照:「既存物理学における次元の考え方への疑問」)
 そもそもB先生は、次元の概念が多種あること自体、調査されているのでしょうか?
 次元というのは物理学用語においては「座標」を表す空間の認識を示すものであって、精神世界や世界の構築を示す次元という概念とは根本的に違うのです。それは今や精神世界においては常識的になりつつあることなのですが、これほど有名な活動をされている方がそうした「基本的なこと」をご存知ないというのは、如何なものかと思います。
 精神世界における次元の定義は「物質組成における因子をつかさどる振動数(周波数)」により生じるものと考えられており、それに応じて「UFOが3.5次元」だったり「目に見えない異次元の存在」があったりするのです。
 これは物理学的な座標とは「まったく異なる考え方」です。
 もしそういう説明を「初心者向けに端折った」というのであれば、せめて注釈をつけるべきではないでしょうか?


●宇宙人とのコンタクトに関する検証の甘さ 

 ご本人は「宇宙人に会って色々なことを教わった」と言っていますが、その内容の検証があまりにも甘過ぎです。
 ご自身が宇宙人から聞いた事実と(残念ながら、私が読んだ本には、その宇宙人に会った経緯も、どういうシチュエーションだったのかも、いっさい書かれていませんでしたが。本来他の著作に書いてある為割愛したなら「○○著作を参照」と書いておくべきでしょう)、他のUFOコンタクティーが言っている事実を検証することなく流通本として店頭販売するというのは、無責任な行為ではないでしょうか?
 ちなみに、私はマオリッツオ・カヴァーロさんの体験談、およびハワード・メンジャー氏の体験談、最近出版されたヴラド・カペタノヴィッチ氏の体験談などを照合し、その上で、「マヤの伝承」やグラハム・ハンコック氏の書いた「神々の指紋」、ウォレス・ソーンヒル博士の「電気的宇宙論」との検証をした上で、彼らが体験した「UFOコンタクティー体験」が事実のものであろうという確信を得ました。
 どんなに断片的であったとしても、真理に基づいた体験というのはまるでパズルのピースの如く「共通項」が見いだせるものです。
 しかし残念ながら、彼らの共通した事項と著作「A」に書かれているB先生の書かれている事実に、共通項は見られませんでした。
 せめて、もっと具体的、かつ事象を明確に書くべきではありませんか?


●断定的な言葉が多いものの、その根拠がまったく書かれていない。

 論説というのは通常、他の文献を参考にした場合は参考にした著者、および文献名などを明記しなければなりません。(日本の場合はあまりうるさくないのですが、欧米では罰金刑になる程の罪です)。
 しかし、B先生の本はあまりにも「断定的な言い回し」が多いのにも関わらず、参照とした本の文献名がいっさいありません。(巻末にさえ、一覧はありませんでした。)
 通常、調査した結果を載せる場合は必ずそれに応じた文献名や、それを唱えた学者の名前が掲載されるはずなのですがそれさえもないとなると「すべて、この方の持論でしかない」ということになってしまいます。
 しかし、それはとても「危険」です。
 ただのエッセイであれば良いですが、「アトランティスの大陸が存在した時代」を特定するのは非常に問題です。それは今現存で生きている「誰にとっても」断定出来ることではなく、憶測で述べることしか出来ないことだからです。(しかも、アトランティスという名が世に知られたのは、プラトンの「国家論」で記載があったからです。要するに史実上のものではなく、出所はプラトンの著書なわけです。それに対して「○○頃にアトランティスが存在した」と断定するのは、読者を混乱させる大きな一因となってしまいます。)
 あれほどの体験をしているカヴァーロ氏でさえも、そういう時期の特定をする時は「○○から聞いたところによると」と明記していますし、ルドルフ・シュタイナーも「霊視した結果によれば」という前提が必ずあります。
 著作Aに書かれている内容を読者が鵜呑みにしてしまったら、どう責任を取られるおつもりなのでしょうか?


●「禊が起こる時期」として「2012年12月22日」と断定してしまっている。

 このブログにも、そして文庫本にも再三書いたことですが、暦という数字で2012を断定するのは、とても危険です。
 しかし、この方ははっきりと「2012年12月22日から三日間かけて、地球の禊を決行することに至った」と断言してしまっています。
 この言動の責任を、どうとるつもりなのでしょうか。(大体想像つくのは──その時期を過ぎてから「私の(私たちの)努力の甲斐あって、神々の禊ぎはなくなりました!」とか言うのかもしれませんが──残念ながら、そういう手で満足出来るほど、読者は愚かではありません。)
 この方は政治学の勉強はされているようですが、哲学や神秘学、宗教史や宗教学については「まったくご存知ないのではないか?」と疑いを持たずにいられない程です。
 数値の概念は本質ではなく、あくまでも2012という問題は「今、私たちが置かれている状況そのもの」でもあるのです。
 2012を解決できるのは政治的問題ではありません。霊性による問題でしかないのです。


●根拠のない日本人擁護説

 著作Aの中で、日本人は「キリストの精神レベルが1000であれば、日本人の精神レベルの平均は600というぐらい、非常に高い」ということを書かれていますが──それはちょっと自画自賛過ぎだと思います。(意識レベルを数値化した「パワーか・フォースか」の本でも指摘されていますが、500~700レベルがマザーテレサやガンジーなのです。日本にそんなにいっぱい、マザーテレサやガンジー、ネルソンマンデラのような人がいるでしょうか?)
 もし本当にそんなに精神レベルが高い国であれば「これだけ政治がぐちゃぐちゃ」になっているでしょうか?
 年間三万人という人が、自殺するでしょうか?
 私も確かに日本民族の「精神性の高さ」には注目していますし、だからこそ「日本人の精神改革」という本を書こうと思っている程ですが、それは決して「今の現代日本人のレベルを良し」としているからではなく、従来の良さを取り戻す為に書こうとしているのです。
 しかも、日本人が堕落したのを「闇の権力者達のせい」にしていますが、それこそ、「一部の人にすべての責任をなすりつけているだけ」の言動です。
 闇は、本来誰にでもあるものですし、そういう自覚がなければ、いつなんどき「同じ罠」にはまるかわからないはずです。(参照:隠謀論説への反論
 
 それなら──B先生。あなたは、「自分はそれだけ、完全な善人なのだ」と断言出来るのでしょうか?
 人間としての過ちは、何もないと断言出来るのでしょうか?


●食糧危機を回避する為の「食料維持」に対する活動について●

 この活動もまた、結果的に「地球のアセンションやカタストロフィーを、他人事にしか眺めていない証拠」であり、同時に「自分たちは助かりたい」というエゴでしかないことに気付かれていないが故のことのように思えます。
 もしB先生が多額な会費を集め、食糧危機に備えるとしても、全世界の人々が助かる程の備蓄ではないはずです。(仮に本来そうするのであれば、それは「個人が会費でウン万円払って済む」問題ではなく、それこそ映画「2012」ではないですが、もっと国家予算的にかかる金額のはずです。あの映画同様、それこそ10億ユーロなんて平気でかかることでしょう。)
 何故、地球の危機をそれを招いたのは私たちなのだから、その責任を甘んじて受け入れようという気になれないのですか? どう見ても、この活動は「自分たちは生き残りたい」とするエゴから派生しているとしか、私には思えません。
 
 また、この活動がどこまで浸透しているか──どこまで軌道しているのかは不明ですが、万が一食糧危機が起こらなかった場合に、今までのカルト教団同様に批判の対象になってしまう危険は念頭に措かれているのでしょうか?
 数年前、「世の中からお金がなくなる」として、ネットマネーで運用しようとした「円天(参照:エル・アンド・ジー)」の会長は、B先生同様、高次の存在から「この世の中からお金がなくなる」ということをメッセージで受けて、こういう事態になったことも、もとジャーナリストであったB先生であれば、当然ご存知のはずです。

 どんなに高次元のシステムが素晴らしくても、この次元は「摩擦や対立が生じている次元なのだ」という自覚を、絶対に失うべきではないと思います(事実、私も高次元システムを探究していますし。でも、だからこそ慎重に検証を重ねています。安易に実現出来るものではないからです)。
 もし、この会に参加されようと悩んでいる方がいるのでしたら(ネットで調べたところ、会費が相当高いのだとか)──私は、「それなら是非、『今日食べるパンがなくて困っているアフリカの子供達』や『産廃のゴミ山に住むインドやフィリピンのストリートチルドレン達』に寄附すること」の方をお薦めします。未来来る食糧危機に備える前に、すでに飢餓で苦しんでいる子供達が大勢いる問題を解決することの方が、遙かに優先すべき事柄ではないですか?


●結果、本の目的が達成されていたのかという疑問

 この本は「アセンション後」をテーマに書かれたようですが、私が読んだ限り、どこにも高次元におけるシステムについて書かれていなかった印象を受けました。
 本の主旨、目的から外れてしまい、憶測が飛び交っている割には確信を濁らせているような印象です。
 勿論、未来を断言することは出来ないのだからそれは仕方がありません。
 しかしそれ以上に、内容があまりに支離滅裂すぎて、一貫性がないように思えたのは残念です。本来「アセンション後」をテーマに本をまとめるのであれば、高次元のシステムがどのようになっているのかについて触れるべきではないでしょうか?

 ここまで書けば、もしかしたら「あ、このB先生ってあの方のことかな?」と勘づいた読者の方がいるかもしれません。
 が、それでもあえて名前は伏せさせて頂きます。ご質問頂いて、仮にその答えが正しくても「あはははは~」と笑って誤魔化すだけなので、あしからず(笑)。(違っていた場合は、はっきり「違います」と答えますが。)
 ただし、私はどんな時でも「反論」はしても、その人自身の否定は絶対にしません。
 ですので、この方自身の経歴については敬意を表していますし、立派に活躍されてきた方だなとは思っています。
 ただ、人生にはいつでも「罠」があります。しかも、こうした精神世界、スピリチュアルには「ありとあらゆるところ」に罠があると言っても過言ではありません。あのルドルフ・シュタイナーや、大霊能力者のスウェーデンボルグでさえ、「よくよく注意しなければ、霊界や目に見えない世界の探究は傲慢の罠にはまる」と言っていました。
 私自身も常にそのことを気をつけたいと思っていますが、是非、このB先生も(せっかくあれだけの経歴があるのですから)気をつけて頂きたいものだなと、つくづく思います。

 でも、私はB先生ばかりが問題だと思っているわけではないのです。
 「このような矛盾の多い内容を、何の疑問も抱かずに平気で出版する出版社こそに問題がある」──そう思います。
 本当に知的財産とも言えるような高度な内容、ウォレス・ソーンヒル博士の「電気的宇宙論」が販売数を伸ばさず、B先生のような「何を根拠に書いているのか、まったく不明」な本や無責任なチャネリング本ばかりが販売数を伸ばすのは、それは必ずしも読者のせいだと言えるでしょうか?
 そうではなく出版社側の姿勢に問題があるのではないか──私はそう思います。
 いい本は、書評次第でいくらでも販売数を伸ばします。もう12年以上前に出版されたダイアモンド博士の「銃・病原菌・鉄」が、今になって店頭ベストセラーになっているのは「書評の影響力」です。(ここで注意しておきたいのは、Amazonなどの書評は「あまり参考にならない」ということです。場合によっては著者の知人のサクラが書いているケースがある、というのも耳にしました。こうした場合に参照にすべき書評は「新聞紙」や「雑誌」などの書評です。私はもっともっと、本格的な目をもつ書評家の方が出て欲しいと思っています。※私自身も、来月から別サイトで書評コーナーを設置予定ですので、よろしければご参照ください。)

 このままでは、本当にいい本が世の中から消え失せ、みな思考を放棄した「電子書籍ばかりに飛びつくロボット化した人類」の時代が来てしまいかねません。
 何でもかんでもポジティブに捉えるのではなく、今ある問題点をしっかり直視した上で、どう改善していけばいいのかを考える重要な時期に差し掛かっている──私はそう思っています。
 その為には、出版社の方々にも是非「名前が売れている」という理由だけで出版するようなことはせず本当にいい内容を書いている本なのか、どうかを検証する目を持って欲しい──そのように心から願う次第です。
 そして執筆家側も、「本というのは、色々な人の力、および紙という資源──森や木々の命の上に成り立っている」ということに敬意を表し、一文一文を大切に書いていただきたいと思っています。


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2010-07-28 | 雑談 | トラックバック(0) |

賢人は歴史から学び、愚人は経験から学ぶ

 早いもので、明日はエハン・デラヴィ最後のイベント「2012ルネッサンス─時代の夜明け─」です。
 もう半年以上前から(正確には去年、機関誌の取材をしてからなので──8カ月前からか;)準備していましたが「あっっっ!!」という間でした。
 その間、ただ「あっっっ!!」と声を出していたわけではなく──本当に色々なことがありました
 嬉しいこと、楽しいことは勿論ですが……辛いことも、たっっっっくさんありました。
 いつも疑問なのですが、成功哲学や自己啓発系の本って自分はこぉんな苦労なく成功したんだよ~という話が多いように思うのですが(私は哲学や人間の思想に絡む本は、自分の志向にあうあわない関わらず、ひととおりすべて目を通す主義なのでザッと読み通した中、そういう印象を受けました)、そんなことありませんって! 苦労のない成功なんてあり得ないし、仮にあったとしても、それはむしろ「苦みのない珈琲」みたいに味気ないものでしかありません。 

 むしろ、過程における苦労や辛さ、努力が「あるからこそ」成功の喜びがひときわ大きく、感動も大きくなるのではないかとさえ、私は思えるのです。

 今だから書けますが、私は去年の10月から今に至るまでのこの8ヶ月の間に、「ノイローゼ」になるまで自分を追い詰めた時期がありました(もうだいぶ前ですが)。
 私は他者に弱音を吐かない(っていうか、意地っ張りだから吐けないンですよね;)主義なので、たったひとりで悶々としつつ──「自殺」という文字が脳裏を過ぎったことさえあった程です。
 ですが、今はその時のことを思い返すと「ああ。あれって試練のひとつだったんだな」そう思いました。

 「さぁ、お前は『どちらを選ぶ』?」と。
 お前の信念か?
 周りの意見か?
 さぁ、どちらを優先する──?

 私は自分の信念を選びましたが──それで「大正解だった」と確信しています。そうでなければ、私が今味わっているような充実感を、絶対味わうことがなかっただろうから──。
 だから、その時関わった人達、みんなに心から感謝しています。
 私の「選択という試練の場」を提供してくれたのだなと、そう素直に思えたので。(不思議なのですが、ひとつの学びが終わると、人間関係そのものもガラッと変わりますね。もっとも、今の私は「真理探求」だけに集中したいので、どのお誘い、他者様の紹介についても、すべてお断りさせて頂いています。今は真理とだけ向きあいたいので、何卒ご了承願います。)

 人って、不思議なものです。
 書籍や講義だけでなく、人はやっぱり「人から」学ぶものなんですよね。
 人から学ぶ──すなわち「経験から学ぶ」という意味でもあるでしょう。

 子供の頃、父親(物理教師。私とは犬猿の仲です。※私は確かに戌年ですが、父は申年ではありません。って、関係ないか;)から
「賢人は歴史(父がここで言いたかったことは『ただの歴史』ではなく、要するに『書物』などの文献のことを示していました)から学び、愚人は経験しなければ学べない。だからお前は後者の愚人(バカ)だと言われたことがありました。
 当時まだ12歳ぐらいでしたが、私はその時はっきりと、
「それなら良かった(笑)。私は、バカでいいから、経験で学んだ方が遙かにいい。経験しなければ、人に教え伝えることが出来ないからね。本読んだ程度で知ったかぶりするようなヤツになるぐらいなら、痛い思いしてでもその辛さを人に伝えられる道を私は選ぶ!」皮肉たっぷりに言い返し、親子げんかに発展した──ということがありました。(父親にとって私は、未だに「理解不能な存在」みたいです((苦笑))。子供時代から私は、言い回しが「理屈っぽい」ところがあり、結構そんな私を嫌う教師も多かったですね。※何故か全共闘世代で活躍していたという先生達には、可愛がられていました……)

「賢人は歴史から学び、愚人は経験からしか学べない」 

 いいんじゃないでしょうか。私は今でも、後者の「愚人でありたい」そう思います。
 それに、「本当に賢人が歴史(知恵)から学んでいるのなら、とっくに世の中は良くなってなくちゃおかしい」とさえ思います。
 「私は、すべてを知っている賢人だ」──そう思った途端、知識はその人の頭の中に「何も入ってこなくなります」
 コップだって同じことですよね? 
 水が満杯に入ったコップに、さらに水を注ごうと思いますか? 絶対「空の方」或いは「もう少し容量の入りそうなコップ」にいれるはずです。
 それと同じことだと、私は思えるのです。
 私は愚人と言われることは、何とも思いません。むしろ、「自分は無知である」ことを常に自覚し、もっともっと、新しい智慧を吸収したい──そう思っています。


 ところで。
 話は、まったく変わりますが。 

 このイベント前に──何と、篠崎は大病(?)を患ってしまいました(苦笑)。
 実を言うと、二日前の30日──私は突然の腹痛に襲われ、6時間痛みに耐え抜いた末、ついに我慢出来なくなり、救急車で救急病院に搬送されたのです。
 原因は不明ですが、おそらく「大腸内の炎症だろう」とのことでした。要するに大腸の襞が炎症をおこし、盲腸みたいに腫れてしまう──という。
 白血球の数値が異常上昇し、熱が38度から引かず、激しい痛み──間違いなく「炎症だ」と断言されました。
 しかもその場で、「即入院」を言い渡されました。
 しかし、私がこの状況下で入院出来ないだろうことは、きっと皆さんもお分かり頂けると思います。
 それで私は、「絶対に入院は困る!」と駄々をこね──先生と20分以上交渉した結果、

 ●死んでも文句言わない。
 ●薬はきっちり飲む。
 ●暴飲暴食は絶対にしない。
 ●自己責任ですべて管理する。


 という条件で、釈放(?)されました。
 母親が救急車に同乗していたので、母も診察室に通されました。
 先生からひととおりの説明を受けた後、私からも「先生はここまで言ってくださっているのに、私が入院を拒否しているのだから、これは私の自己責任だ。今、私が入院するわけにはいかないんだ」と説得したところ──さすがに、母は涙を浮かべていましたね(苦笑)。
「どうして、こんな子になったのかと──自分でも不思議なのですが……」と「こんな子扱い」されてしまいましたが(苦笑)、ひとまず入院は回避出来ました。
 私はかなり精神力がタフなので、気合いをいれると集中力が持続するのですが──抜けた時が怖いですね。5日に再診の予定が入っているのですが、まぁ、その時の状況に任せようって感じです。

 余談ですが。
 私が点滴を打っている最中、母が私にこう告げてきました。

「実は一昨日……あなたのお茶碗を割っちゃったのよ。その時、すごーく嫌な予感がして。きっと、この病気のことだったのね──」
「………………」

 ──って、私の「お茶碗」割っただと!!
 (ど~りで最近、見かけなかったはずだ) 
 聞いてないぞ、そんな話!!

 
 と、突っ込もうと思ったのですが(こういうことにならなかったら、黙ってるつもりだったようですね──絶対)、母の気持ちを考えたら、責めることも出来ませんでした。

 愚人は、経験から学ぶ──。

 いや。むしろ、経験ほど、素晴らしい教師はいないそう思います。
 私は(前も書いたように)自分が病弱な分、同じように病気の人の痛みを分かち合えることが出来るので──。
 それこそが人間らしい生き方なのだ──私はそう思う次第です。


◆お知らせ◆
(1)7月1日、23:59をもちましてエハン・デラヴィさんのトークイベントの受付を終了いたしました。
   沢山のご応募、誠にありがとうございます。(現在、228名様分受付完了しております。)
   今日、エハンさんブログ「シンクロニシティ」を更新しておりますので、もし「キャンセル待ち希望」などの方がおりましたら、ブログ「シンクロニシティ」の方で詳細をご確認ください。

(2)11月3日、篠崎のトークイベント「メタモルフォーゼ─今こそ、変容の時─」を企画しています。
   詳細は近々掲載予定ですので、今しばらくお待ちください。

(3)本日から篠崎は東京で前泊する関係で、ブログの更新は3日、4日とお休みを頂きます。
   5日には簡単に講演会レポートを致しますので、楽しみにお待ち下さいませ。
   


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2010-07-02 | 雑談 | トラックバック(0) |

生命の尊さ

 私はもともと多趣味ではないので、唯一の趣味であった「執筆」「読書」が仕事となってしまった今、趣味と言えるのは「DVD(映画)鑑賞」ぐらいです。
 一度ぐらい「私の趣味は『スキューバーダイビング』です」とか「『ガーデニング』です」とか言ってみたいものですが──運動能力にはまったく恵まれてない篠崎。スキューバーダイビングなんてさせた日には「ホントの意味でのダイビング(※要するに『二度と浮かんでこない』)」になりかねないし、植物音痴でもある為、雑草とハーブの区別さえつかず「これ、カモミールよ!」と言いながら、まったく違う雑草をつきだしかねないという──そのぐらいの「専門バカ(真理探究以外、何も出来ない)」です。
 余談ですが、私が人間性においても尊敬している古雅貴美子さんのブログ「みんなで循環☆健康レシピ」にあった「ケークサレ」というのも、「初めて聞いた」ってぐらいの情報音痴です。
 古雅さん曰く「ケークサレは、最近流行」らしいのですが──(どう聞いても「毛ぇ腐れ」にしか思えませんでした)。
 ちなみに「マカロン」のこともつい最近になって知ったぐらいで、それまではずっと「殺虫剤の親戚」か、或いは「消毒薬の名前」だとばかり思っていました──。

 そんな篠崎にとってDVD鑑賞は本当に唯一の息抜きで、毎日寝る前に必ず何かしら観ています(ちなみに、テレビはまったく観ません。蛇足が多すぎる上に、欲しい情報をダイレクトに入手出来ない上、CMが集中力を阻害する為気が散ってしまうので)。
 今日は久しぶりに「チャーリーとチョコレート工場」を観ていたのですが、その中で「おや?」と思う場面がありました。
 この映画作品の中には五人の子供が出てくるのですが、チャーリー以外はみんな「難癖」のある問題児(というか、現代っ子の典型)ばかりだったりします。
 そのうちのひとりに「ベルーカ・ソルト」という女の子が出てくるのですが、この子が両親にめちゃくちゃ甘やかされて育ったせいで、「欲しいものは、何でも手に入れないと気が済まない」という性質だったりします。
 そんな執着心から、ウィリアム・ウォンカがしのばせた「ゴールデン・チケット」も父親に命じて手に入れるのですが、この子が「やたらにペットを飼っている」ことが象徴される場面が出てきます。

 その場面というのは、ウィリアム・ウォンカの「チョコレート工場」内にある「ナッツルーム」で「胡桃を分別するリス」を見かけた時のことなのですが──そのリスを欲しいとせがむベルーカに対して、ウィリアムは「売り物じゃないんだ」と言って拒否をします。自分の思い通りにならないと気が済まないベルーカは「自力でリスを奪おう」として──そこからエピソードが進む、という展開なのですが、まぁそこから先については、興味ある方は是非実際の作品でお楽しみくださいませ。

 私がこの場面を観ていて感じたのは、「生命の尊さ」についてでした。
 ベルーカは自分が飼っているペットを片端から名挙げしますが、そこには「ペットに対する生命の尊厳」など、欠片も感じさせません(まぁ、甘やかされて育ったという設定だから当然なのですが)。
 でも、そういうベルーカのような人というのは──この「ペットブーム」の時代において「多数、いるのではないか」そうも思ったのです。

 私が以前働いていた会社の上司が大の犬好きで、その犬好きが高じて「犬のマッサージ師」の資格をとり、現在仕事の傍ら「ボランティアで、犬のマッサージの仕事」をしています。
 しかも──それは決して「飼われた犬」ではありません。
 里親を待っている──昔でいうところの「保健所の犬」相手のボランティアです。
 彼女(すでに今は個人的なつきあいをしているので、上司ではなく三人称で呼ばせて頂きます)曰く、犬にも感情があって、「マッサージをしてくれる相手」というのをきちんと見抜いているそうです。彼女が来るとちぎれそうなぐらいしっぽを振って「マッサージしてして!」って寄ってくるんだそうです。

 でも──その犬たちは……里親が見つからなければ、寿命が尽きるまで狭い檻の中にいるか、或いは保健所にいくしかないのです……。
 「そう思うと、マッサージしながら涙が出そうになる」と、彼女は辛そうに話していました。

 私はもともと「ペット」という言葉の響きが、どうも好きになれませんでした。
 それはどうしたところで「人間優位」な言葉で、人間も動物も、地球から生まれた兄弟なんだという意識を欠けさせるように感じるからです。
 ちなみに、私自身は大の動物好きなのですが──ペットは飼っていません。理由は、私自身が「いつ何時、引越ししたり長期取材に出るかわからない」から、その間淋しい思いをさせられないという理由と、もうひとつは「死に別れが辛いから」だったりします。
 私もかつてはインコを飼ったり、巣から落ちてしまったツバメの雛を育てていたりしました。ただ、ツバメの雛は育てることが出来ず、助けた二週間後ぐらいに三匹とも死んでしまったのですが(獣医さんに聞いたところ、巣から落ちた雛などは拾わない方がいいそうですね。場合によっては親鳥が連れ戻す可能性があるから、そっとしておいてあげた方がいいということを後から聞きました)。
 私は子供の頃から、そうした死に別れが辛くて仕方なくて──未だに生死を達観出来ない自分がいるのだなということを、改めて痛感させられます。
 また逆に、「それを達観出来ない方が、人間として生きているうちはいいのかな」という気もするのですが──。

 私にとって、動物も「家族の一員」です。
 きっとそういう気持ちは、ペットを飼われている方の多くが感じられていることだと思われます。
 でも──片方では「商品」として扱われている動物達が数多くいるというのは、誠に哀しいことですね(これは捨て犬、捨て猫という問題以前に、ブリーダーが金儲け主義で仕入れすぎて、処分出来ずに捨てるという裏事情の方が大きいとは思います)。 
 それこそ、上記「チャーリーとチョコレート工場」に出てくるベルーカのような感覚の子や人もいるとしたら……それは、現代社会の病巣としか言いようがないかもしれませんね。

 今、口蹄疫の問題で多数牛が処分されているようですが──私たちは、「共に生きる仲間」として動物達を意識することを忘れてしまっていたような気がします。だからこそ、こういう問題が今になって多発しているのかもしれません。
 それは安直に「ベジタリアンがいい」だの「肉食だからいけないんだ」という問題ではなく、他の生命達と共に、私たちは生きているのだという謙虚な姿勢を思い出すことが最も大切なテーマなのではないかと、そんなふうに思える昨今です。


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【参照】
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2010-05-26 | 雑談 | トラックバック(0) |

人はそこまでエゴイストとは限らない──映画「2012」の感想

 一昨日、篠崎はDVDで映画「2012」を視聴しました。
 しかし、あまりの稚拙さと短絡さに、観ていて気分が悪くなった程です。
 そもそも、この映画を作成したローランド・エメリッヒ監督は「インディペンデンス・デイ」や「デイ・アフター・トゥモロー」などを制作しており、ディザスター監督第一人者とされています。両者共に視聴しましたが──感想は、「2012」と同等。メッセージ性の無さに、溜息を吐きたくなった程です。
 まぁ、CG効果などは確かにすごかったですが──「あそこまでやる必要性が、果たしてあるのだろうか?」と疑問でした。完全なお遊びエンターテイメントに過ぎません。

 この映画に、理念や思想はあったのでしょうか?
 私には「悪戯に視聴者を怖がらせるもの」でしかなく、サスペンスやホラーに匹敵するレベルでしかないように思えました。
 まぁ、こうしたテーマを映画作品にするのは否定しません。しかし、するならばせめてもっと、視聴者側に希望、或いは何か考えさせるメッセージを与えるものにして欲しいものです。
 
 ただ──。
 ひとつだけ、この作品で考えられることがあるとすれば……私たちは、こうした危機を感知した際、「どのように生き、どのように死と立ち向かうか」ということ以外に何もない──そう思います。
 嘘か本当か知りませんが、事実映画と同じように「エリート救出作戦」なるものがあるとも聞きますが、「好きにすればいい」そう思います。
 本当の人間性がIQや試験で決まると思ったら、大間違いです。そんな人類の生き残りなど、どうせたかが知れています。今までの人類と同じ過ちにはまり、「何の為にあれだけの犠牲者が出たのか」を教訓とすることなく、何度も同じ轍を踏む結果となるのでしょう。
 似たような映画で、今から10年以上前の作品「ディープインパクト」の方が、遙かに私的には共感出来るものでした。
 これは惑星の接近によって、地球上の大陸ほとんどが津波に襲われるというものでしたが──主人公のジャーナリスト(名前忘れました;)は、生き残る為の「方舟乗船チケット」を手に入れます。
 しかし、彼女は生きたいと願う自分のライバルに自らチケットを譲り渡し、自分は乗船の拒否をします。そして、彼女は対立していた父を赦し、父と肩を抱きあいながら、津波に呑まれていきました。

 人間の価値は、この映画が語るように「どれほど長く生きられたか」ではなく、「如何に生きたか」ではないでしょうか?

 「2012」では、主人公が家族を守ろうとする姿が過度に描かれ過ぎているせいか、かえって強烈なエゴを感じて不快な気分にさせられました。
 本来であれば「美しい家族愛」と思えそうなところを、あまりに家族を守ることだけに執着している姿を見ることで、かえって「家族愛も、度が過ぎればただのエゴとなる」ということを思い返さずにはいられなくなるのです。
 多くの人達の犠牲、痛み、死が「そこにはあったのだ」という謙虚さがまったく感じられず、そうした意味でも「人間の心理や絆を、表層的に描いた作品」としか思えませんでした。

 もし、このような事態が予測出来たとしたら──果たして、人はどうするでしょうか?
 これは、余命告知に近いものがあると思います。
 この映画のようにパニックになって、逃げ惑う人もいるでしょう。でも、多くの人は冷静に自分の時を見つめ、愛する者達と時間を共に過ごそうとするか、或いは自分の人生を見つめ直す時に使うかもしれません。
 何故なら、それは「自分の寿命を知りたい」とする人々の心に、すでに現れているからです。
 自らの終わりを知ろうとする人たちに、どうして「生の執着」があるでしょうか? 
 みんながみんな「生に執着しているわけではない」──私はそう思います。

 地球の危機に、ちっぽけな人類が生き残って何になるのでしょう?
 地球の細胞であり、地球を母とする存在であれば、共に生き、共に滅びるのが道なのではないでしょうか?
 悪戯に死を恐れ、生に執着することは果たしてどれほど意味のあることなのでしょう?
 子供を持っているお母さんであれば、子供を危機にさらしたくない──そう思うでしょう。
 気持ちは痛い程わかりますが、私たちは等しくみな「死の危険」に曝されています。
 どんなに平和な時代であっても、必ずや人は死に逝く。これだけは、絶対に避けられないのです。
 だったらむやみに死から逃避するのではなく、そこに向き合い、生命の本質を考えた方が──或いは、愛の本質を考えた方が、遙かに有意義ではないでしょうか?

 こうした映画を観ると、決まって思い出すエピソードがあります。私が中学生の時、英語の教科書に載っていたエピソードです。
 それはタイタニック号の話で、「子供を連れた母親」の為に、救命ボートに乗船していた女性が「席を譲った」というものです。
 彼女は、席を譲る際にこう言ったそうです。「私には、子供がいません。ですのでどうぞ、この席を使ってください」と。
 後から調べたところ、その女性は「学校の教師」だったそうです。
 どんなに我が子がいなかったにしたって、彼女にだって家族はいたことでしょう。夢だってあったことでしょう。しかし、自分の席を譲れたその女性の「生き様」にこそ、私は「死を前にした人々がする行動」に対する真の学びがある──そう思いました。

 誰もがエゴ丸出しなわけではない、誰もが自分ひとり助かりたいわけではない。
「いざという時に命を差し出せる勇気と思い遣りが、人間の中にはあるのだ」と──。

 こうした娯楽映画が出ることで、かえって人の意識が恐怖に包まれ、死を闇雲に恐れるようになることが私は本当に口惜しいです。
 人はそこまで愚かで、無力な存在ではないはずです。
 恐怖は人の心を麻痺させ、そこから先を考えさせようとしない麻薬のようなものです。このような作品の描く恐怖に心奪われ、真理から目を背ける人がひとりでも減らないことを、心から祈るばかりです。


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エハン・デラヴィ氏ブログ「シンクロニシティ」にて、「地球巡礼者」解説連載中です。




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※本日、「母への手紙」更新。

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2010-03-24 | 雑談 | トラックバック(0) |

YOU are EARTHの在り方

 昨日は諸事情で外出しており、8時間ほど歩き回っていた為、帰宅したら疲労困憊状態(苦笑)。
 そんな事情により、急遽ブログをお休みしました。
 本当はエハンさんブログ「シンクロニシティ」の更新日(1日おきを、個人的には予定しています)だったのですが、お休みさせて頂いた次第です。(先ほど、更新しました。「アースピルグリム(4) 宇宙でさえもが、巡礼者」)

 昨日はYOU are EARTHの活動に協力してくれている敦子さんと歩き回りながら、あれこれ色々なことを思い返していました。
 2月に、YOU are EARTH内で変革があった──という話をしましたが、その意義についてを、自分なりに考察していたのです。
 どんなものごとも、必ず「起こる意味」があります。
 そして、その背景には「学び」があります。
 では、その学びとは一体何だったのか──私は、ずっと模索していました。

 そして、行き着いた答えは──。
 YOU are EARTHの在り方を、根底から今まで間違えていたのだということでした。

 以前、このブログでも少しお話しましたが──その変革があった後、私は「スタッフ」という呼び方を変えて「活動関係者」という言い方にしました。(参照:http://you-are-earth.com/page/about.html#parsons
 それは、スタッフというのは「組織の一員」というスタンスであり、私が望む形とは「違った」ということに、気づいたからです。

 私たちは、あくまでも独立した個人です。
 そして、活動に協力するもしないも、個人の自由でしかない。
 組織や団体として「束縛する」という在り方そのものが、旧世代の考え方だったのだ──そう気がついたのです。

 先日、マウリッツォ・カヴァーロ氏の新刊「クラリオン星人はすべてを知っていた」の中で、「クラリオン星人達の中には司令部や司令官といった存在はなく、みなが独立した意識の中で全体調和を担っている」という記事があったことをご紹介しました。
 これからの時代必要な「全体調和」は、まさにそれであり──それは「スタッフ」だの「従業員」だの「活動員」だのという言葉で縛られるものであってはならないのだろう、私はそう思いました。

 YOU are EARTHの本当の在り方。
 それは、所属するとか、しないとか、そんな問題ではなく、関わる誰もが「名乗れる活動」でありたい──そう思いました。
 篠崎を個人的に知らない人が、YOU are EARTHを名乗ってもいい。
 以前関わっていてやめた人だって、名乗ればいい。
 道行く知らない人だって、名乗ってもいい。(そら犯罪に使われるのは困りますが、そいつぁ別問題ですンで──;)

 それこそが、「YOU are EARTHという活動」の真の在り方なのだと──私は昨日、そう気がついたのです。

 今日、「シンクロニシティ」でも書きましたが、私たちは大切なことを忘れて今を生きています。
 それは、私たちは、「何も所有していないのだ」ということ。
 この体も、着ている服も、お金も、PCも、すべては「地球からの借り物」です。生まれてくる前に貸し与えられ、そして、この世を去る時には返していかなければならないもの。

 そうであるならば、「活動そのもの」だって「同じ」だと──私はそう思ったのです。

 私はもと小説家でしたが(「売れ『なかった』小説家」と言った方がいいかな((苦笑))←一時期、ちぃと売れただけで)、小説を書いていた時も、ずっとそう思っていました。
 「私が書いている作品は、『私のものではない』。創造の泉から、借りているものでしかないのだ」と。
 だから、著作権云々というのにあまり拘ったことはありませんでした。盗作だの何だの訴訟になっている話題を聞くたびに、私は何だかとても「クリエイターとしてはあるまじき、支配的な姿勢」を感じてしまうこともありました。(特に、松本零士氏の一件はショックでしたね。かつてファンだったからこそ、余計に──)

 私たちが唯一所有しているものがあるとしたら、それは「存在」でしかない。
 存在と、記憶と、経験から学んだ思考──いわゆる霊性に積み上げられたものたち。
 しかし、本来はそれさえも実は「すべてのものと共有している」のに過ぎないのだと、私は感じています。

 でも、そうやってどんどん「存在意義」を広げていってしまうと、大抵、人の思考は混乱してしまうでしょう。何故なら、三次元はそういう世界だからです。
 だからこそ、まずは「自己の確立」が必要なのでしょう。
 だからこそ、まずは「私(わたし)」という言葉が必要だったのでしょう。
 自分の存在意義──自分が何者であるか、自分は何をしようとしてここにいるのか──それらを思い出した後に、私たちは「すべてのものと共有していた事実」に立ち返るのかもしれません。

 「あなたは地球」──YOU are EARTH

この言葉は、「地球がすべての生命に自らを提供してくれている姿勢」と同じようにして、枠をもたず、自由に存在し、自由に活動すればいい──そう思いました。
 組織化だの法人化だの、そんなこと自体が「馬鹿馬鹿しい」。
 それ自体が、旧世代のものでしかなかった。「資本主義システムが崩壊しようとしている」中、旧世代と同じ方法をやっても「堂々巡りするだけ」です。

 私は、そのことを2月の変革期に学んだのだな──改めて、そう思いました。
 やはり、どんなことにも「すべて意味があり、課題があり、学びがある」のです。
 そのことに気づいた時、人は初めて謙虚な気持ちになり、すべてのものごとに感謝する──そんな姿勢に立ち返るのかもしれません。


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2010-03-16 | 雑談 | トラックバック(0) |
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プロフィール

篠崎由羅(しのざきゆら)

Author:篠崎由羅(しのざきゆら)
1970年生。幼少期から哲学・宗教学に造詣を深める。思想および思想史、それに付随した国際事情に興味を抱いて独学を続け、大学ではインド哲学科専攻。東西問わず、両者の思想に渡り研究を深める。

現在は看護師として施設で勤務しながら、その傍らで執筆活動を続けている。2016年11月にYOU are EARTH改め「WE are EARTH」の活動を再始動予定。より良い未来の地球のため、全力を尽くす誓いをたてている。

【篠崎編集担当】


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