【体内離脱プロセス・3】集合無意識の層を超えた、向こう側にあるもの

◆謝罪文◆
 昨日は徹夜した状態で外出し、帰宅が遅かった関係もあって、疲労により更新が出来ませんでした……。
 前回の記事で「明日更新します」と書いてしまったせいでご足労おかけしてしまった皆様には、心からお詫び申し上げます──。


 思想家の作業は、ただ「ものを考える」だけではなく、不可視のものを、ロジック化(言葉化=三次元化)する作業である──と、私はそう思っています。
 どのような形で表現することが、もっとも適切で、もっとも分かりやすいのか──哲学は「難解だ」とされるのは本来誤解であって、真理であればある程、万民にわかりやすく伝えられるべきことなのではないかと、私自身は考えています。(そういった意味でも、ルドルフ・シュタイナーは偉大な人だと思わずにいられません。今まで誰もやっていなかった不可視の世界を言葉で表現し、あれだけ分かりやすく構造化出来たのですから。)

 私自身も出来る限り分かりやすいように書くよう努めていますが、多少自分でまだ不透明な部分があったり(すべての真理を悟っていたら、今頃とっくに即身成仏です((笑)))曖昧なところもあるので、100%うまく皆様にお伝え出来るかどうかは確信が持てません。
 それでも、出来る限りのことを尽くしてみよう──そう思っています。

 人が何かを考える際、私はどう考えても「頭(脳)だけが動いている」とは思えないのです。
 それはこのブログでも何度も書いたように、「想念は、脳の電気信号だけで反映されているわけではない」からです。
 逆に言えば、先にそうした想念があって、それが結果的に脳内の刺激を起こす可能性は考えられます。卵が先か、鶏が先かではないですが、そうした意味では「先に想念ありき」なのだと、私には思えるのです。

 わかりやすい例えで言えば、何か感動する映画を観て、ぐわっと涙がこみ上げてきた時。
 人は「額」を抑えずに──からこみ上げるのを感じませんか?
 私は何せ激情家なので(苦笑)、「崖の上のポニョ」のオープニング「海のおかあさん」を聴いただけで、泣けてしまうような人間です。
 でも、その感動は「頭」から来るのではない──「胸のあたり」から、いっきにこみ上げてきます。

 そう考えると、人は想念を肉体の全身で持って受けとめ、また感じている可能性があるのではないか、そんなふうに感じるのです。
 チャクラの担う意味もそこに繋がっていて、脳だけにすべての想念が集約されているわけではないのではないか──そう思えるのです。
 そうすると、想念はどのような形で、どのように人に作用してくるのか──そこが非常に疑問となってきますよね。

 肉体の臓器の位置やチャクラの位置に拘ると、それはまた「三次元の空間概念」に囚われてしまうのでいったんリセットして頂くとして──上記したように、私たちの想念が頭に限らず、隈無くあちこちに存在するとした場合。
 それにも、一定性の法則性が含蓄されているはずです。

 それこそが、私が以前記事にした「意識の階層化と夢の関連性」で表現したような想念の地層状態なのではないかと思えるのです。
 そしてそれは、決して「わたくし」という個体だけのものではなく、共有しあっているはずです。(だからこそ、エハンさん((ジョン・クレイグさん))のよく言う「シンクロニシティ」ということが、昨今多々起こりえるのでしょう。それは「わたくし」という個体が同時期に何かを感じた「個別のタイミング」ではなく、一定の想念層以降は、集合無意識としてすべて繋がっているからではないかと、そう私は想定しています。)

 「夢」が「異次元の扉」であることは、そうなると言うまでもない、当然のこととなります。
 とある研究家のひとりは(ごめんなさい……。誰だったか、今は名前を失念しちゃいました……)「夢という無意識下のものと、霊界などはまったく別ものである」としていましたが、別ものという見方よりもその入り口と考えた方が妥当ではないか──私はそう感じるのです。

 私自身も、この確信はその「二日間における、奇妙な夢の連続性」を体験するまでは持てませんでした。この研究家のいうように、「夢と体外離脱というのは、決してイコールにならないだろう」そう思っていたのです。
 なら──「夢」とは一体、何だというのでしょうか? 何故、起こり得る現象なのでしょうか?

 実は、私が霊感を失っていた21歳から36歳頃までの間、私を始終悩ませていた現象がありました。
 あの頃はまったく、そうした不可視の存在を感じ取ることが出来なかったし、示唆的な夢を見始めるまでは、夢も本当に「ただのカオスの状態」の夢しか見たことがなかったからです。

 ところが、私はいつも眠りにつこうとして意識がなくなろうとする瞬間──常に、雑多な様々な人々の声や言葉、話しかけが聞こえてきて、目が覚めてしまうということが続いていたのです。
 もう霊感がなくなってから数年以上経っていたし、私の周囲にいる人達もインド哲学を探究していたとはいえ、そうした現象については割と否定的な考え方(あくまでも、アカデミズムに思想を探究しようとする人達)が多かった為、私自身も理性的な解析の仕方をしていました。

 当時私が考えていたのは、「夢とは、脳の海馬(かいば)で蓄積された記憶が整理される際に見える現象である」とするならば、私が聞こえるこの雑多な人々の声や言葉は、私が無意識下で、街中などで聞いた人達の言葉や話し声を脳が捉えており、それが反芻されているだけなのだろう──そう結論づけたのです。

 私に聞こえてくる多数の声は、決して私に話しかけているわけではないのです。それこそ、普通に街中を歩いていたら見知らぬ友達同士がしているような対話だったり、グループ同士の対話だったり、そんな感じだったからです。

 しかし、しばらくして「やっぱり、それだけでは説明がつかない」ということに気付きました。
 何故なら、「私がしばらく外出していない時も、その現象は続いたから」です。
 もし、本当に「その日に街中で聞いた人達の言葉が、ただ単に反芻されているだけ」だとしたら、外出しない期間は「その現象が起こらないはず」です。
 にも関わらず、やはりその現象は起きていました。
 しかも、もうひとつ疑問に気付いたのです。

 それは、対話ではない──明らかに「ひとりごと」と思える言葉が複数聞き取れたからです。

 街中で耳にした記憶が反芻されるだけだったら、ひとりごとの声が反芻されるわけがありません。街中にそんなでっかい声でひとりごと言ってる人が大勢いないことは、言うまでもないからです。

 ところが──後日になって、私と「まったく同じ体験をしている人がいた」という話を聞いたのです。
 それは本当に偶然でしたが、私がたまたまその話を友人にしている最中、友人に「あなたと同じことを言ってる人が、以前テレビで報道されていた」と言われたのです。

 私自身はそのテレビを見ていないので、友人の証言を元にすることしか出来ないのですが──何でもその人は老齢の警察官(刑事だったかもしれません)で、非常に検挙率の高い人だった──というのです。
 それは、いわゆる(かつてあったFBIの超能力捜査官みたいなノリで)霊感により、犯人逮捕に繋がった──というのだそうです。
 そして、その人は毎日、私と同じように「眠りにつく前、無数の人々の声や話し声を聞く」ことがあり、その中から時折「犯人らしい人の声」や「犯行現場で起きただろう声」などを見つけることがあり、そこから犯人を割り出していた──ということを、友人は教えてくれました。

 これは人伝の話ですので、私自身は確証しきれていませんし、また、10年以上前の話なので検索のしようもありません。
 ただ、あくまでも推察ですが、この刑事さんの言ったことや私自身が体感した「寝る前に聞こえる多数の声」というのは集合無意識化の想念の階層に蓄積された記憶を、音声化して捉えている現象ということが出来るような気がします。
 集合無意識の想念を、音声として捉えると話し声や独り言のように聞こえ、ヴィジョンとして捉えると、夢のように現れるのかもしれません。

 そこで──いよいよ私自身が体感させられた二日間の夢なのですが……。
 一日目に関しては、本当に夢を見ては目が覚め、また夢を見ては目が覚めを、何十回繰り返したかわかりません。しかもそれが5分起きや10分起き感覚なので、こちらは頭がおかしくなりそうでした。
 翌日はその中でも10個近く覚えていたのですが──今となっては、印象深い3つの夢しか覚えていません。

 ひとつは、またもや「音声」でした。
 しかし、これは明らかに「私に話しかけている声」だったのです。
 それも、ここ最近ずっと続いている現象ですが、「何かを教えてもらっている」ような感じでした。指導してもらっている──とも言うべきでしょうか。
 しかし、その中で「えっ? ちょっと待って。ここはこういう意味?」と自分で解釈しようとした瞬間、三次元的な意識が目覚めてしまい──同時に目が覚めたので、夢も終わってしまいました(その間、眠りについてから約10分ほどでした。)

 その次に印象に残っている夢は──
 狭い通路を、ひたすら・ひたすら・ひたすら、ネズミが走っていく──。
 ただ、それだけです。
 私は外部からそれを見ていて、ネズミが走っているのは金色の煉瓦で包まれた細い道なのですが、そこをただ黙々と、ネズミはまっすぐまっすぐまっすぐ、走っていくのです。

 ──それだけの夢。
 目が覚めた後、何の感慨も感想も浮かびませんでした……。

 他にも多数の夢を見させられたのですが、最後に見た夢があまりに意味不明すぎで、そのショック(?)からか、他の夢はすべて忘れてしまいました……。

 そこは、緑の草原の岬で、向こう側には美しい碧い海が広がっていました(こういう場面は、私の夢に多々出てきます)。
 その草原に──ひとりの青年が立っているのですが……その青年は、何故か「アメリカンフットボール選手の格好」をしていたのです。
 アメフト選手姿の青年は、アメフト用のヘルメットの中にある青い瞳(明らかに白人男性でした)でじっとこちらを見つめ、何故か、深々とお辞儀をしたのです。
 目の前には私が立っていたのですが、私も意味不明なことにスーツ姿の男性で、腕を組み、その選手の姿を見てまるで「よし!」と言っているかのように「うむ」と深く頷き──

 ──そんなどこぞの青春映画の一幕みたいな場面で、目が覚めました。



 ………………。


 まったくもって理解不能です。
 私がアメフトに興味もなければ、試合を見たこともない──それこそ、「まるで知らない社会のこと」ぐらいの認識しかないのは、言うまでもありません。
 この夢で私は何だかどっぷり疲れてしまい、寝るのを諦めて、朝まで起きていることにした程です……。

 そして、その翌日。
 またもや多数の夢攻撃にあっていました。
 ところが──私は前日とは違い、その夢を「まるで、自分が抜け出して映画を観ているかのような感覚」で見ていたのです。
 前日の夢は、確かにネズミが走っている姿などを客観視していましたが、それでも私自身「夢の中の登場人物(それこそ、煉瓦の一部だったとか)」という感があったのです。
 アメフト選手の意味不明な夢も、自分もその中の登場人物でした(スーツを着た男性って……某映画のエージェントじゃないんだから;)。
 しかし、その日に関しては夢を客観視している自分がいたのです。
 そして、その時に気がついたのです。

「夢というのは、積み重なった想念の階層のどこにアクセスするかによって異なるだけで、その動きはアットランダムであるが故に、ストーリー性がカオスのような状態に感じられるのではないか」と。

 そう感じた時、これはちょっと表現のしようがないのですが──まるでゼリー状に何層にも重なったイメージが、私の脳裏に浮かびました。
 そこにあるのは私ひとりの想念ではなく、それこそ「無数の人の想念」であることが何となく感じられた──その時。

 突然、場面が変わりました。
 そこは、私が体外離脱した際に、何度か行ったことのある場所でした。
 イメージとしては、白と、黄金色(決してまぶしい程ではなく、午後の日差しが黄金色に輝いて見えるような感じです)に統一された世界でした。

 そこに、ひとりの男性が立っていました。
 私は、名前は知りませんが(基本的に体外離脱先で、私は相手の名前は聞きません。でも、誰かをすでに私は認識しているようです)、何度か会ったことのある男性でした。
 そして、彼にこう言われました。

「ついに、ここまで来たね。
 君は、『道なき道を、自分で切り開くという難しい選択』をして、試行錯誤しながら、ようやくひとつの答えを見つけようとしている。
 体験は、ひとつの知識を生み出し、その知識が、また誰かの刺激になり新たな情報へと結びつく──君は、その模索をずっと繰り返し、今、ここにようやく辿り着いたんだよ」
と。

「君が慕う人(名前は言いませんでしたが、私は直感的にカヴァーロさんのことだと思いました)のように、肉体を持って異なる次元にアクセス出来る人達もいる。君が知らないだけで、そうした人達は他にもいるんだ。
 また逆に、君が師と仰いだ人達のように、思考を使って辿り着こうとした人や、或いはシャーマニックな能力を使ったり修行の道程を辿った者達もいる。
 方法は、どれでも一緒だ。何を使っても、辿り着くところは同じなんだよ。君のように、自発的な努力によってそれを成そうとするケースも含めて、ね」 
 

 私は、今にして思えば「質問したいことが、たくさんありました」。
 しかし──この時は、何故かそれが「出来なかった」のです。
 通常、体外離脱した先で私は質問をしてくることが多いのですが、それは自意識と共に行っている場合に限るのかもしれないと、その時に思いました。
 私はこの時、自意識を切り離し、想念を「集合無意識」として感知していました。要するに、私はその「全体の一部」ではあっても、自意識というものからはかけ離れてしまっていたのでしょう。
 勿論、これは私の訓練不足でしかないのかもしれません。
 或いは、もっといろいろ学ぶ必要があるからなのかも、しれませんが──。

 その後も、しばらく彼から色々な話を聞きました。自意識はないので(面白いことに、私自身の「存在」は感じても、私は「その場にはいない」というのも感じました。まるで彼は、透明人間に話しかけているような感じです)、ただ受ける(記憶する)ことしか出来ませんでした。
 その後に言われたことは、私個人に関わることでしかなかったので、ここでは割愛しますね。 

 私はこの体験を通じ、体内離脱と、体外離脱は「同じところ」に行き着くということを感じました。
 夢は本当に「異次元の窓」であって、決してただの記憶の脳内整理だとか、そんなものだけではないのでしょう。
 逆に言えば、普段「個々」で分れて生活している自意識でしかない私たちが、唯一、他者の意識と共有出来る貴重な時間とも言えるかもしれないのです。

 そう言えば──。
 このことを書いていて、6年ほど前に見た夢を急に思い出しました。まだ不可視を感知する能力が復活する前──ちょうど、不思議な夢を見続けている頃のことです。
 このことに多少関わるような感があるので、それをご紹介して、今回の連載の締めとさせて頂きます。


 私は、真っ暗闇の中ひとりでいました。
 ほのかな明るさだけを頼りに歩くのが精一杯で、周りに障害物があるのか、何があるのかまったくわかりません。
 その明るさの中で、私は「誰か、人とぶつかった」のに気付きました。
 すると、その人がいきなり私に「襲いかかってきた」のです。

 私は恐ろしくて、無我夢中で抵抗しました。
 そして気がつくと、抵抗しているうちに相手のことを殺してしまったようなのです。
 ほのかな明るさの中で、足下に倒れる男性の遺体をみた瞬間、私の中で「なんてことをしてしまったのだろう!」そんな痛烈な叫びが飛び出しました。

 次の瞬間。
 場面は変わっていました。
 今度は、砂漠のようなところです。
 そこに、大勢の人達がひれ伏して、何かをしているのが見えました。
 その行為が何か、私には意味がさっぱり分かりませんでした。

 また場面が変わりました。
 今度は、人通りの多い街中です。頭の上から衣装を被った人達(現実には見たことがないので、表現のしようがないのですが)が大勢行き交う中で、大きな建物を前に豪勢な衣装を身に纏った人達と、商人らしき人達が何か話をしているのが見えました。
 その建物の中は、どうやら聖堂のようでした。
 宗派は──まったくわかりません。
 いずれにせよ、人々の祈る姿が見えたのです。

 次々と、場面が変わっていきます。
 しかし、そのどの場面も、すべて「祈り」が出てきました。
 彼らは、何に向かって祈っているのだろう──。
 そう考えている間に、ふと私の意識の中で、

「神は、どこにいるのだろう」
 ──そういう問いかけに変わりました。

 やがて私は、ただ移動していただけの状態ではなく「神は、どこにいるのか」という問いかけだけで動き始めました。
 そうしてまた、沢山の場面を移動した──その後。

 突然、今までとはまったく違う──はっきりと明るい空間に辿り着きました。
 そこには、大きな聖堂が建っていました。
 聖堂──というよりも、「門(ゲート)」と言った方が近いでしょう。

 そこの前には大勢の人がいて、門の中に入りたがっています。
 しかし、門の前には門番らしき衛兵が二人立っていて、中には入れてもらえそうにありません。
 私は、「神は、どこにいるのか」という問いだけを胸に、その門番の前に近づいた──その時。

「お前は入って良い」

 そう言われ、門の中に通されました。
 中は、ガランとした広間でした。紺碧に象徴された空間だったような気がします。
 そこには、私の前にも中に入れてもらったと思しき、四名ほどの人が立っていました。その人達の前にはさらに大きな門があって、どうやら、その向こう側に「何かがある」らしいのです。

 私は一番最後に入ったので、一番手前側に立ちました。
 すると、どこからともなく声がして──ひとり、またひとり、ゲートの向こうへと呼ばれていきます。

 私は少しずつ、恐怖を感じ始めました。
 いえ……。今にして思えば、畏怖に近かったのかもしれませんが。
 「ここは、まだ私に早すぎるのではないか」──そんな気がしたのかもしれません。
 また、同時に疑念も湧きました。

 神は、そんな容易く会える存在なのか?
 このゲートの先に神がいるということは、安易な人格神とでも言うのだろうか?
 いや、そんなことはないんじゃないか。
 私は、騙されているのではないだろうか。
 このゲートの向こうに、私が求める神など、いないのではないだろうか。

 そんなふうに思った──その時。

「今、お前のその問いに、答えることは出来ぬ!」

 背後から、力強い声がしました。
 白装束に身を纏った、力強い女性(女性でしたが──本当に男性的な威厳を感じさせました)がその場に立っていました。
 その女性は私の目を見つめ、少しだけ表情を和らげると、こう告げたのです。

「お前が『二回目』にここに来れた時、その答えは明かとなるだろう──」 

 その直後、目が覚めたのでした──。



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【体内離脱プロセス・2】二元性の限界

 私はよく、何故、この次元は二元性で成り立っているのかについて思案することがあります。
 私個人としては、その理由が「この次元が電気的宇宙であり、プラス・マイナスという分離した因子から派生しているからではないか」と推測していますが(詳しくは、自著「アセンション真実への完全ガイド (5次元文庫)」電気的宇宙論の章をご参照ください)、だったら何故、この次元を「電気的」にする必要があったのか──そこがどうにも腑に落ちないのです。

 高次元は「一元性である」ということを先日書きましたが、最初からそういう次元の構成が出来るのだとしたら、何故、わざわざ争いや抗争、分離の絶えない二元的な次元を創る必要があったのか──もし「神」と呼ぶべき存在が私たちのこの次元を創ったのであれば、その意図は何なのか──私は常に、そこが引っ掛かっていました。

 そうした中で、この「体外離脱」「体内離脱」という両者の違いも、ひとつのヒントとして、大きく関わってきました。。
 この二つは決して違うものではなく、左回りで行くか、右回りで行くかの差でしかない──とどのつまり、すべてはコインのように「裏と表で構成されているに過ぎないもの」を二元性として仮定しているだけに過ぎないのでしょう。

 もしかしたら──対立・抗争などを元にした二元性で構成されたかの理由そのものが、どんなに分離されているように見えても、もとは「ひとつ」なのだということに、自ら気づかせる為の舞台設定に過ぎなかったのかもしれません。
 最近はよく「ワンネス」という言葉が使われますが、それは、本当の意味での対立・抗争・矛盾、あらゆる対局した二元性の極地を味わって「初めて」、重みのある言葉になるような気がします。
 本来のワンネスという意味はあらゆる個体差、あらゆる相違、あらゆる価値観の差、すべてを含めて『それでもひとつ』だということを指し示しています。
 それを理解出来なければ──ワンネスという言葉は、恐ろしい殺戮の暗号になりかねない危険を含んでいます……。

 誰もが同じ思想でなければならない、
 誰もが同じ神を信仰しなければならない、
 誰もが同じ価値観でなければならない、
 誰もが同じことをしてなければならない──
 それは、ワンネスではなく「独裁でしかない」ことは、言うまでもありません。


 数年前のことですが、あるスピリチュアリストの人に「ワンネスの本当の意味」として上記のような説明をしたところ、彼女は憤慨して叫びました。
「当たり前よ! ワンネスはそういう意味じゃないわよ! みんながひとつ、みんなが平和になれるのがワンネスなのよ!と。
 そして、そう言って数分も経たないうちに──こうも言ったのです。
「イスラム教の人達の魂って、みんな地獄に墜ちるんだってね。だから、いつも紛争が絶えないんだって!」

 ──こんな酷い偏見のどこが、ワンネス思想なのでしょう?

 哀しいかな、この女性は自分の言った言葉の矛盾に、まったく気がついていませんでした。
 私ももう、あえて指摘はしませんでしたが。(私の場合、「言っても無駄だ」と分かった場合、同意も反意も示さず、ただ無言になるクセがあります。)

 ※余談※イスラム教の人達がどれほど敬虔で友好的な人達であるかは、私がこのブログで何度も書いたとおりです。
 私は無宗教ですが、彼らの土地、彼らの領地に入れば、イスラム教の教えの通りに行動し、彼らが尊重するコーランを同じように尊重します。それはイスラム教を信じる方々への礼儀であり、人間としての最低限のマナーだと思うからです。
 そして、彼らも決して私たちを無宗教だからといってバカにしたり、勧誘しようとはしません。「イスラム教の素晴らしさ」を語ってはくれても、無理強いはしないのです。その点、日本の新興宗教は遙かに学ぶべき点がたくさんあると思いますね。
 日本や欧米でイスラム教を批判する人は結構いますが、もっと深く彼らの教義や価値観を知ってから言うべきだと思います。


 本来は、誰もが──どんな思想を持っていようが、価値観を持っていようが、個人の幸福と、身近な愛する者との関係性と、そして全体調和の為に一体となるのが「ワンネス」という意味だと、私自身は思っています。
 その意味を「まったく知らない状態に生まれ、まったく異なる環境の中で学んでいき、最終的に『最初から知っている高次元の存在達』と同じレベルに達することが出来た」としたら──それはものすごく大きな学びになりますよね。
 その「学び」の為に、抗争・対立を含む二元性のこの次元が誕生したのだとしたら──全力を尽くして人類自ら、創造主が提示した「二元性」の課題を乗り越えるべく、立ち上がる必要があるのでしょう。

 少し前置きが長くなりましたが、体内離脱の実例を挙げる為にはまず「二元性」という問題と対峙しなければならなかったので、そこを先に説明しました。
 体内離脱をしていくに際してまず障壁となるのが多元化した想念──いわゆる「雑念」だからです。

 雑念が生まれる理由は、この次元が二元性だからに他ならないだろう──私はそう思います。
 このあたり、もっと私も突き詰めて調べたいと思っているのですが一元性から誕生した存在には、そこから分離する思考がないのではないかと、私はそう仮定しているのです。
 「1」は、果てしなく「1」のまま。
 でも「2」は、そこにすでに「1」の要素を二つ含んでしまっている為、分離も融合も出来るが故に、増殖も可能になっていきます。
 私たちはそうした二元性の世界に誕生しているが故に、私たちの想念(思考)は多種多様の色、形、方向性に散っていってしまいます。

 私が教わった禅は臨済宗ですが、臨済禅ではとくに「問答」を中心に行います。(※これ、道元禅とはまったく種が異なりますのでご注意ください。道元禅の方は「ただ坐る」それだけです。)
 どんな立派な僧侶でも、最初はみんな「見習い」です。だから、当然雑念は「浮かびまくり」です。
 そうした場合、徹底して以下の言葉を脳裏で繰り返すそうです。

 「わたしはたれ(誰)ぞ・わたしはたれぞ・わたしはたれぞ……」

 そうすると、色々な思念がさらに浮かびます。中には子供時代の想い出や、すっかり忘れていた遠い過去のことなどが蘇るかもしれません。
 次の段階で、こう唱えるそうです。

 「これをみている(考えている)のはたれぞ・これをみているのはたれぞ……」

 今挙げたのは本当に「入門の入門編」あたりのほんの入り口なので、本来はもっと深いのですが──こうした徹底した問いかけが、臨済禅では繰り返されていきます。
 私も、これは実際にやりました。
 勿論、何十年もその道一本でやってきた和尚に比べたら爪の垢にも満たない程度でしかありませんが──その際に、「自分」というのがただの認識に過ぎず「存在だけ」になった──ということを体験しました(これが、例の「再生しよう」として徹底して自分の欠点を書き出した際に体験した坐禅です:参照「復活。そして新たな目覚め」)

 これらは、通常の仏教の禅に関する本や瞑想に関する本に書かれていることなので、多くの方も目にした記憶があると思われます。
 なのですが──私が体感した体内離脱は、それとそっくりではあるものの、形(表現の仕方)が違うという印象を受けました。

 まず、雑念の仕組みが、実はいくつもの階層に分れており、どのポイントにアクセスするかによって異なるのではないか──ということが感じられたのです。
 例えば、誰もがみんな色々な体験、思い出、辛いこと、トラウマ、たくさん抱えていることと思います。
 それらは「同じアストラル層にインプットされるのではなく、その出来事の振動数(周波数)に応じた階層にインプットされるのではないか」ということに気付いたのです。(記憶というのは脳ですべて賄うものではない、ということは昨日の記事でご説明したとおりです。)
 そして、そうした階層の一部一部が見せるものは本当に「カオス」としか言いようがないムチャクチャさで(笑。←詳しくは明日書きます。私が見た夢のあまりのバカっぷりに、みなさんも笑われると思います)、辻褄あわないどころか「意味わからん!」ことだらけです。

 これは、私という「個体の思念」だけでは絶対に説明出来ない現象だと、私自身は考えています。
 つまり、夢の中で集合無意識下にアクセスすることにより、自分では想定出来ないまったく不可思議な夢を見たりすることが起こり得るのだろうと思うのです。
 ですが、その集合無意識も、まだ「三次元の枠」の中にあります。逆に言えば、「三次元」という水槽の中に満杯に入った水が「集合無意識」と言えるのかもしれません。

 私はそれらをいくつか垣間見た後(二日に渡って見させられました。一日目はそれこそ数えたら50はいくだろうというぐらい多数の夢を見させられ、ほとんど眠れなかった程です……)、最終的に「体外離脱で行った場所と、同じ世界」に行きました。
 この続きについては、明日ご説明致します。


【お知らせ】
先日お知らせしたコミュニティですが、9月1日頃公開予定です。楽しみにお待ちください。
尚、またもやお返事が滞っております; どうか気長にお待ちくださいませ……。


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【体内離脱プロセス・1】「想念は脳の電気信号だ」と信じている人達へ

 今回記事にする内容は、昨日軽く触れました「体内離脱」についてなのですが、多少特殊──というか、様々な前提、喩え話をおきながら説明する必要があると判断した為、今回も数回にわたって連載しながらお話します。(一番最後に、私が離脱先に至った経緯とその先で見た世界、言われた言葉などをご紹介します。)

 世の中には人間の想念も思考も、すべては脳の電気信号に寄るものだと叫んでいる学者さんもいらっしゃいますが──それはとても古い考え方だと思います。
 今、海外の学者達はそういった旧世代の考え方を改め、もしかしたら、最初に何かしらの意識体があって、それが脳神経を通じて三次元的に具現化されているだけなのではないだろうかという考え方が主流になりつつあるようです。

 以前このブログでもご紹介しましたが、面白い実例なので、もう一度ご紹介します。
 前の職場の同僚が、有名インテリアデザイナーの友人からこんな話を聞いたそうです。
 彼は世界的に有名なデザイナーだったので、招かれる招待客もみな「一流レベル」の人達です。そこに、かつてのソ連で「宇宙飛行士をしながら、宇宙物理学を研究している」という人に会ったそうです。
 彼は、そのデザイナーさんに「君は、ダライ・ラマを知らないか?」と、そう聞いたそうです。
 唐突な質問で驚いた上に、勿論知り合いではないので、彼は「知らない」と正直に答えました。
 すると、その飛行士兼宇宙物理学者は、こう言ったそうです。

「もう、我々の宇宙物理学では『どうやって宇宙が誕生したのか』まで分かってきている。でも、問題は誰が、その宇宙を創ったのかということだ。ダライ・ラマなら、その答えを知っているかもしれない──と思ったのだが……」と。

 某番組で頭っごなしに否定しているO教授が聞いたら、何て答えるのでしょうね(笑)。
※余談※某教授も実際は国際科学研究に関するディスカッションやパーティに参加されているはずだから、色々な方をご存知のはずでしょうに──それでも、彼のあの頑なな「否定派」の姿勢は、彼のポリシーなのか、或いは、「ただのパフォーマンス」なのか。一体、どちらでしょうね。
 前者であれば、私は納得します。それはO教授の価値観なので、それを貫こうとする信念はどんなに方向性が違えど、その信念は敬服に値するからです
 しかし、ただのパフォーマンスやお金稼ぎの為に「人々の真理探究に対する情熱を削いでいる」のだとしたら、これは許さざるべき行為ですね。


 このように、日本ではまだまだそうした研究を真剣にしている方が少数──もしかしたら「皆無」かもしれませんが、世界のあちこちには、アカデミックな視点で「研究をしよう」としている人達も大勢います。
 そうした人達にとって、もはや「想念は脳の電気信号だ」なんて考え方自体が旧世代すぎて、ナンセンスになりつつあります。

 例えば──皆さんに、ひとつ質問をさせて頂きます。

 目の前に、リンゴを想像してください。

 さて、浮かびましたでしょうか?
 目の前に「想像してください」となった時、概ね人はヴィジョンが「まるでスクリーンに映る映像」のように見えて、目の前がおろそかになることが多々あると思います。
 目の前にはPCや、エディターファイルが開かれているのに、それはあたかも「目に入っていない」かのように見えて、「想像物」に意識を集中させているはずです。

 想念が脳の電気信号であるとするならば、何故、そこまで明確に「人の視界」までをも左右する程の力があると言うのでしょうか?
 私はむしろ、「想念はもっとべつのものから派生している為、あたかもそれが三次元に具現化しているように見えてしまう」ということの方が答えとしてしっくり来る──そう思えるのです。

 では、次にもうひとつ質問です。

 先程あげたリンゴの色は、何色でしたか?

 中には「みどり」と答える人もいるかもしれませんね。
 真っ赤──とか、津軽リンゴ、とまで答えてくれる方がいるかもしれません(笑)。
 でも、もしこれが「脳の電気信号に過ぎない」とすれば、こんなに多種多様の答えが、果たして出てくるでしょうか?
 また逆に、常に「リンゴはスーパーの安売りのしか買ったことがない」という方がいたとして、その方が生まれて初めて「信じられないぐらい美味しいリンゴ」を食べたとしましょう。

「なんてことだ! リンゴって、こんなに甘かったのか!」

 そう感じたとき、電気信号でしかない場合はそこで「どのようなシナプスの変化が起こる」というのでしょう?
 また逆に、その人は「すごく甘いリンゴ」を食べたのがその時1回限りで、あとはずっと「いつものスーパーのリンゴ」に戻ってしまったとしましょう。
 その時また、シナプスは何らかの動きをするのでしょうか?

 そうやって理詰めで行けば行くほど、「想念は電気信号だ」という考え方には大きな矛盾が生じるのです。

 これらを矛盾なく、分かりやすく説明しているのが、ルドルフ・シュタイナーです。
 以前、軽く紹介しましたが、彼は「肉体・エーテル体・アストラル体・自我(と日本訳は書かれていますが、本来は霊的個性と言うべきかもしれません)」の四種に分れており、その中でもアストラル体は、「悟性魂・感覚魂・意識魂」の三種に分れる──と説明しています。

 まず、「リンゴ」を認識するのは「悟性魂」です。
 その後に、それを食べて「美味しい!」「すっぱい!」「かたい!」色々な感情を生み出すのが「感覚魂」です。
 そして、「あの美味しいリンゴを、また食べたい」とか、或いは「私ひとりじゃ勿体ない。みんなにも食べさせたい」そのように、「ひとつの行動に対して、どのような反応を示すか」が「意識魂」の働きです。

 こういう流れで行けば、「違うリンゴを食べるたびに、シナプスの動きに変化が生じて云々」という矛盾は解決します。
 むしろ、シュタイナーの言う「アストラル体」を視野に入れれば、無限大に記憶が広がると言っても過言ではありません。
 よく、年をとると「物覚えが悪くなる」「記憶力が悪くなる」と言いますが、実際にそれは「脳は電気信号だから、許容範囲を超えると入らなくなってくる」と勘違いしている科学者の言動に惑わされているに過ぎない──そう思います。

 脳細胞の成長は25歳までで、そこから先は「下降する」という──あれも違うと、私は思います。
 何故なら、私の記憶力や速読力、習得率は、25歳を超えてからの方が、より大きく成長したからです。
 霊の成長は肉体の衰弱と必ずしも比例しません。私たちが記憶したり、何かを体験した場合それを心の中で掴んでいるのは明らかに脳ではなく、アストラル体(霊体)なのです。
 脳は、喩えて言えば端末でしかなく、メインコンピューターではありません。メインコンピューターはむしろ「霊的個性(シュタイナー日本語訳で言うところの自我)」なのだと思います。
 勿論、端末を大切にしておかないと、どんなに高度な電算処理をしたくても出来ないので、脳の健康を保つのはまず第一条件ですが……。←自分自身への戒めの言葉:

「想念は脳の電気信号だ! 夢も、電気信号でしかない!」
「死んだらすぐに人は無になる。死後の世界なんて存在しない。死んだら終わりだ!」


 そういう考え方が、今、まさに「時代のどん詰まりを生んでいるのだ」ということを、そう叫んでいる方々は自覚がないのかもしれませんね。
 でも、実際は意識というものにも階層(振動数・或いは周波数)があって、それはある一定の三次元枠にはまっていたとしても、仕組みとしては霊界やその上の次元と大差ないということを、私は自分の体感で実感してきました。
 明日はそのあたりのことも、詳しくご説明したいと思っています。


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意識の階層化と夢の関連性

 小康状態ではありますが、少しずつ回復している篠崎です。
 最近痛感するのですが、真理探究というのはなかば「スポーツ」に似たような体力の使い方をするように思えます。
 読書も持久力と耐久力が必要だし、類似した事例を見つけた瞬間「あれはどこに書いてあったっけ?」とすぐさま違う本を探す瞬発力も必要。
 先月の30日より全身が炎症を起こすという症状に陥ってから、少しずつリハビリをしているものの、まだまだ以前のように本を読み込むことも、数冊に渡って文献比較しながら執筆する体力も戻っていないようです。
 まぁ、慌てず騒がず(?)、じっくり回復に時間をかけていこうとは思っておりますが──。

 肉体はそんな感じで「のんびりまったり」上昇しつつありますが、意識レベルはもう休むことなく、ひっきりなしに動いているような有様です。
 それどころか、39度台の熱を出して全身金縛り状態にあった時が一番、考察には適していたような気さえする程です。
 よく「高熱を出すと、人は幻覚を見る」と言いますが、実はそうではなく「肉体の呪縛から離れることによって、より高次の意識体に目覚めやすい状態になる」──いわば「変性意識状態になるだけなのではないか」と、そんなふうにも思っています。
 私自身、今まで何度か大病をしてきた中で「思考がもっとも活発になっている」時は、何故か病気の時だから不思議です。肉体の制限がかかる分、意識が自由になるのでしょうかね。(とはいえ、それを文章なりにまとめるには肉体が復活してからでないと出来ないので、結局、不便は不便なのですが──)

 今回の病気をきっかけに私が集中して考察するようになったのは、意識の階層化についてです。
 以前、「自己意識の中にも、振動数における『差違』がある?」にて「意識も、次元のように階層があるのではないか」という話をしましたが、私自身はほぼそれを確信に近い状態で実感しています。
 この次元には「時間」というものが存在するが故に、どうしても人は「時系列」でものごとを捉えがちです。
 本来は「ただの座標軸」を表しているのに過ぎないものたちを「一本の線」で繋げるだけで、そこにはあたかも「横軸における流れ」があるように錯覚してしまいがちなのが人間の脳と言えるでしょう。しかし、本来そのように「線で繋げないまま」でいたとすれば、それは「ただの点の集積」でしかないのです。

 私がそれを痛感したのは、夢の中でした。
 夢は、ストーリー性があるかのように流れていく夢もあれば、意味もなくアットランダムに流れる夢もあり──本当に多種多様です。
 しかし、それは「脳が作りだしている夢」として認識するのではなく、眠っている私たちがアクセスする焦点の、ランダムな移動と考えたら──どうでしょうか?
 従来言われていたような夢の解釈が、まったく異なった形で現れてくるのではないでしょうか?

 例えば──綺麗な地層を思い浮かべてみてください。
 その表面は草に覆われていて、深くなるにつれ様々な鉱物が積み重なっているとしましょう。
 草に覆われている「表面的な部分」を顕在意識とします。で、その下の地層部分を潜在意識だと例えましょう。
 様々な地層というのは、その人の潜在意識に存在する、自覚出来ない意識階層だとします。これをもっと具体的に言うとすると──エハン・デラヴィ氏の訳した「パワーか・フォースか」という本がありますが、あそこに書かれているような「数値レベルでの意識」を連想してみてください。
 人はどんな環境でも、どんな状況でも「同じ反応をとるか」と言えば──答えは「NO」です。意識を数値レベル化したところで、ある日によっては低い反応を示したり、またある日によっては高い反応を示したりと、マチマチになるだろうと私は思っています。
 それは曖昧な表現をすれば「気分によって違う」ということなのかもしれませんが──とどのつまり「何故、その気分による違いが生じるか」と言えば、それこそがこの地層のように積み重なった意識階層の、どの部分にアクセスするかによって異なるからだと、私はそのように考えています。

 人は、決して「一定」ではないのです。
 理性によってある程度フラットに見せることは可能ですが、常に自分が「どの意識階層にアクセスしやすいか」によって、その人の精神的な生活というのは大きく異なるのです。心理学などで扱うように決して大まかな分類分けなど不可能ですし、同時に、○○占いというようにその人を完全に分類化することも不可能です。「傾向として、その気質は『ある』」という括りが出来るというだけの話でしかなく、本当にその人自身をはかり知ることなどは出来ません。

 私たちは日常生きているだけでも、こうした「潜在意識下にある階層」にアクセスしていますが、それが顕著に表れるのがなのではないか──私はそのように考えています。
 夢は、無秩序で無意味に展開するような感じを受けることがままあります。しかし、それは「夢が展開している」のではなく、夢を見ている私たちの意識が、どの地点に移動したかというだけの差でしかないように思えるのです。

 夢が移動しているのではなく、「意識の座標軸が移動しているだけ」──何とも大胆不敵な発想ですが(苦笑)。

 でも、そう考えないと「夢という行動そのものに、意図がある」ことを認めざるを得なくなります。そちらの方がよほど理不尽ですし(そうしたことについては、あまり学説でも触れられていません)、それよりも「寝ている私たちの意識が、潜在意識下にある階層の、どの部分にアクセスしているかで見る夢が変わる」と考えた方が遙かに分かりやすいような気がします。
 そうすることによって、「現実としか思えないほど、リアルな明晰夢」を見る人達のことも説明がつきます。
 また同時に、他者と同じ夢を見る──或いは他者の見ている夢を見るなどといった現象についても、説明がつくのです。
 夢は本来「自己意識」として、この次元特有の「私(わたくし)」という箱の中に詰った意識階層だけにアクセスして起こる現象です。が、それが「私」という枠を飛びこえてアクセスすると、他者と同じ夢を見たり、或いは他者の見ている夢を見るといった現象が起きるのでしょう。
 「私(わたくし)」という現象は、この三次元における特有の所有概念でしかない──私はそう感じています。その次元を飛びこえて「他の次元とアクセスする」ということは、意識を階層化して考える限りは「至極当たり前のことである」と、私はそのように感じています。

 私自身、全身が炎症を起こすという地獄のさなかで「客観的に意識の動きを見つめる自分」がどこかに存在し、その自分自身が記憶した夢を分析するに「それらはただ夢として流れていたわけではなく、私の中における意識階層の『どこ』にスポットを当てていたかに過ぎない」ということが実感出来ました。
 また、それを「飛び抜けて」違う次元にアクセスすることもありましたが、夢という潜在意識を通って異次元にアクセスした場合、離脱体験とは異なり「自我を持っていけない」ということが判明しました。
 自我を持っていないから、私は「ただ、そこに存在するだけの者」となるのです。
 何のアクションも出来ず、質問も浮かばない──起きてからそれを思い出すまでは、体験したことさえ覚えていないのです(ある意味、こうした「夢」を通じて離脱しているにも関わらず、自我がないのでそれを記憶していない人達が実際には数多く存在するのではないか、と思った程です。 注※とはいえ、夢の中には「自我をもって見る夢」もあるので、その延長線上で離脱が起きた場合は事情が変わってきます。ただ、私が個人的に感じることとしては、仮に自我のある夢を見ている最中に離脱をした場合、「肉体を離れる」ことも体感出来てしまうので、通常の体外離脱と何も変わらなくなるだろうと予測しています。

 この辺りのことはまた長くなりそうなので(笑)、後日機会があれば説明いたしますね。

【Jさん】
ご心配おかけして、申し訳ございません。7日だけは復活しましたが、その後はしっかりちゃっかり休ませてもらったので、大丈夫ですよ(笑)。


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夢の探究(1)─お酒との関係性─

 先日、「自己意識の中にでさえ振動数(周波数)による階層的な差異があるのではないか」ということを記事にしましたが、最近私はそれが「夢」に反映されているのではないかと思うようになりました。

 夢についての研究は、ユングやフロイトもしています。
 ユングは集合無意識など比較的「トランスパーソナル」的研究もしていましたが、そうは言ってもやはり「霊性(魂)に応じた意識の振動数における差異」とまで絡めて研究していたわけではありません。そう考えると、未だかつて「夢と霊性が、結びつけられて研究された試しがない」と言うことが出来るでしょう。(まぁ、こうしたことが言われるようになったのがつい最近なので、当たり前といえば当たり前ですが──)

 私が何故そのようなことに気がついたかと言うと、私自身が毎日、夢を明確に記憶しているからで(特に夢日記などはつけてない為、1日~2日たつと忘れてしまいますが)その中でも明らかな程、意識レベルに差がある夢というのをたびたび見る機会があったからです。
 夢も、肉体の制限を強く受けます。決して、夢は「肉体から引き離された無関係なもの」ではありません。
 例えば、夢で「怖い顔をしたおばあさんが、胸を上から押さえつけてくるような悪夢」などを見た場合、目が覚めてみたら、実際に「自分の胸に乗っかって、おデブな猫ちゃんが寝ていた」なんてことがあったります。※私の実例です。
 これは明らかに、「胸にかかった猫の体重」が、夢に影響したケースと言えるでしょう。

 しかし、こうした「肉体の影響」からはまったく説明がつかないような体験──というのも勿論あります。
 例えば、夢というのは大抵「自我がない」ケースが多いようです。
 自我がないからこそ、「見た夢の内容を忘れてしまう」のでしょう。(私も、自我のない夢はあまりはっきり覚えていません。)
 しかし、明晰なほど「自我」を持って夢を見ている場合、大抵と言っていいほどその内容を記憶しています。それどころか、酷い時は「これは今、寝ている最中に見ている夢だ」と自覚していることもある程です。

 よく、脳の研究者などが「夢というのは、その日のうちに一時的に海馬に記憶させた記録を整理する為、大脳皮質に映し出された幻影と考えられている」というようなことを言ったりしますが、それは違うように思えます。
 何故なら、受験生の方などは特に実感していると思いますが──もし「海馬に記憶させた記録の整理」で夢が再生されるなら、その日に受けた講義が何度も何度も複製されていいはずですし、受験期間の1年間は「受験に絡んだ夢」しか出てこなくなるはずです。
 しかし、別段受験時にも(ごくたまに、講義を受けているような夢を見たとしたって)毎日毎日、繰り返し受験内容の夢を見るわけではありません。夢は「その日にやった行動」と「必ずしもイコールではない」──もっと説明のつかないものなのだと、私自身は思います。

 また、夢分析などで一律心理学的な判断を及ぼすのも「ちょっと的外れ」な気がします。
 フロイトは「空を飛ぶ夢は、性行為に対する衝動の現れ」と言ったことがあるそうですが、私は子供時代、ふつ~に「空を飛ぶ夢」を見ていました。むしろ「空を飛ぶのが、当たり前」と思っていた程です。(その為、公園でブランコに乗って遊んでいる最中「飛べる」と勘違いして、上から真っ逆さまに落ちて大怪我をした──という武勇伝((?))さえあります。)
 5歳にもならない幼児が、性行為に対する衝動があったとでも言うのでしょうか?

 夢は心理学や脳生理学で「説明出来るものとは違う」──そう思います。
 もっと複雑で、何層にも渡る「自己意識のミルフィーユが現象化したもの」なのだと──そう思えるのです。

 例えば、シュタイナーは「超認識レベル(アストラル体などで認識出来る意識)」と「夢」を明確に分けていました。
 夢は「無意識下」のものであり、霊的なものとは「別である」としたのです。
 私は、その理由がわかるような気がします。私自身、それは何度も体験しているからです。

 先程も言ったように、通常、夢の中では「自我がない」ケースが多いようです。
 勿論、私もそういう夢を見ることが多々あります。しかも私が「自我のない夢」を見る場合──その時は、大抵「今(意識のある状態)の自分だったら、絶対にあり得ない行動や態度」を示すことが多いのです。
 その為、目が覚めた後に「凹む」ことも多いです(苦笑)。「何であんなことしたんだろう」みたいな(笑)。まるで、酒に酔った勢いで「みっともないこと」をしてしまったかのような感じで。

 ふと、そんなふうに思った時。
 実はこの「お酒」というのが「自我のない夢」と関連性があるのではないだろうか、という仮説に私は行き着きました。

 お酒は、人の理性を壊します。少量であれば問題ないですが、大量のアルコールがどのような醜態に行き着くか──多くの方がすでに目にした機会があることと思います。
 私は滅多に、人前ではお酒を飲みません。親しい間柄の友人であれば飲みますが、それでも「ビール500ml」がせいぜいです。
 本当はもっと飲めるのですが、「理性が壊れた状態で話しても、面白くないから」それ以上は飲まないようにしています。
 なのですが、たまに深酒し過ぎたりすると──決まってその日に見る夢は「自我のない夢」なのです。しかも、自分では想定出来ないような行動や、言動をとる──。(お酒が入った日には、体外離脱はまず起きません。この関連性は、今ひとつ謎なのですが。)
 
 それに関わるネタなのですが、イギリスのコーンウォール滞在中、「エデンプロジェクト」という巨大な植物園に行きました。
 その際、このような銅像を見かけたのです。

   wain-god.jpg

 真ん中にいる牛は「ワインの神様」だそうで、周囲を踊る女性達は「ワインの神様を称えて、変性意識状態の中、素っ裸で踊りまくっていた」のだとか。
 被っているのは「動物の毛皮」のようですね。それ以外は全裸のようです。

   cow.jpg

 この写真は、そうした女性達が森の中で動物を捕まえて、引き裂こうとしている銅像です。
 果たしてこれ、女性である必要性があるのでしょうかね……。乳房はあるものの、顔は明らかに「男性」でした。

 神様を称えているには「野蛮な銅像だなぁ……」と思ったのを、覚えています。
 その上私は、こういった行為は明らかに「お酒の影響ではないか」と、そうも思いました。意識レベルの高い状態で、このような醜く残酷な行為を、出来るわけがありません。
 それに、マオリッツオ・カヴァーロ氏の話によると、高次元であるクラリオン星には「アルコールがない」そうです(「スターピープルの叡智」より)。
 コカや麻などはあるそうで(もっとも、これは高次元の火星における話ですが)、これらは地球同様「聖なる植物」として扱われているそうですが、アルコール(と煙草)に関しては、クラリオン星人からみると「悪癖」に区分されるそうです……。
 煙草好きなカヴァーロ氏は肩をすくめていましたが、寝酒が習慣の私も、一緒に肩をすくめなければなりません(苦笑)。

 少し話は「お酒」に偏り過ぎましたが。
 私は自分の体験談を分析するにつれ、「自己意識もミルフィーユのように何層にも分れていて、肉体(脳)の状態によって見る夢が変わったり、離脱が起ったりするようだ」ということが分ってきました。
 例えば「集合無意識で見る共通する夢」などがあるとしたら、それはDNAにインプットされた「人々の共有概念」である可能性も否定出来ません。
 そうなってくると、夢を細かに分析するだけでも、離脱のプロセスなどが分ってくるかもしれないのです。
 非常にこれは面白いテーマなので、息抜きがてら掘り下げていこうと思っています。

※お願い※
 私は「お酒」は飲むものの、人前ではまず飲むことがありません。(ごく親しい間柄の、同性の友人のみに限定しています。)そういったお誘いについてはいっさいお断りしておりますので、恐れ入りますが何卒ご了承ください。


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○写真提供:井上貴子さん○ 【SITE】Photo Gallery
◆お知らせ◆
2010年6月29日~7月18日まで、東京にある池尻大橋駅(田園都市線)から徒歩5分のカフェ「まんまるの木」で、貴子さんの写真展が行われます。
貴子さんの撮る写真は、とても心が癒されます。詳しくは「こちら」でご確認ください。


          tree.jpg  

◇上記は貴子さんに掲載許可を頂いた私がお気に入りの樹の写真。
一見「屋久島」にある樹かななんて思っちゃいますよね? でも、違うんですよ。さて、どこにあるんでしょうね(笑)。

※エハン氏ブログ「シンクロニシティ」6月16日、更新しました。

※入場券、4日より配送開始しました。※
◆お申し込みは7月1日23:59までです。ご希望の方は、お早めにお申し込みください◆

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自己意識の中にも、振動数における「差違」がある?!

【まえがき】

 昨日のブログを書いた後、いつもメッセージを下さる方から興味深いコメントを頂きました(Jさん:時間の都合上、許諾なく一部情報を開示してしまいますことをお許しください。)
 その方が「体外離脱の研究」に言及されていたのを読んだとき、ふと、私の中で「そうだ──。私は今まで、まるで逃げ隠れするようにこういった情報を開示してこなかったけれど、本来であれば自分が体験しているからこそ、その責任を負う意味でも検証・考察結果を公開すべきなのではないか?」という思いに至ったのです。

 私が何故、そうした体外離脱体験などを安易に公開しないかは──今までに何度も書いたように「体験談ばかりがひとり歩きしてしまい、その体験の中に含まれた本質を見失われてしまうのではないか」という危惧があったこと。
 それともうひとつは、(10年に渡るネット活動をやっていると、ケースは違えどたびたびこういうことは起るのですが)「私のことを変に崇拝してしまい、特別視してしまう人が出てくるのを避ける為」でした。
 私はもともと「人、崇拝主義」ではないし、「崇拝されるのも大嫌い」です。
 人はみな「独立して生きるべき」というのが私の主義で、逆に言えば「独立しなければ、人類に未来はない」とまで断言出来る──そう思います。
 肉体の臓器がきちんと私たちの生命活動を維持してくれているのも、臓器や細胞が「互いに独立している」からであって、仮に依存しあっていたとしたら生命活動は維持出来なくなります。人類もそれと同じで、依存し合うことなく「独立して、だからこそ互いに助け合う関係性を維持できる」のだと、私はそう確信しています。
 精神世界系には、特に「拝まれたい主義」の人が多いようですので、結局「拝まれたい人」が「拝みたい人」を引き寄せて、某ブログのようなカルト教団を思わせるような流れになってしまうのでしょうね。(もっとも「拝まれたい」という人たちは、絶対に自分では否定しますが、行動を見ていれば「一目瞭然」です。本当に孤高と真理のみに向き合おうとする人は、やたらめったら交流関係を広げようとしないはずですし、意見を言われても激高しません。私が冷静に反論したにも関わらず激高した人は、大学時代から数えても約8~9割と言っても過言ではないでしょう。そういう人は、真理よりも「自分崇拝主義」の典型例だと、私は思います。)

 そういったブレーキが今まで自分にかかっていたものの、昨日Jさんから頂いたコメントを読みながら、「ただ『黙秘を続ける』というのも、形を変えた真理の冒涜かもしれない」──そう思うようになりました。
 その為、以前はまったく書くのをやめてしまった「目に見えない現象」についての体験談を、少しずつここで明かしていきます。
 しかし、私はそういった体験談を「ただ野放し」にするようなことはせず、必ず考察、検証を入れた上で開示していきます。ですので、ひとつの体験を書くのに「複数回連載がまたがる」こともあるかもしれません。
(そうした「検証の試み」については、すべてカテゴリー「体験談からの仮説」に入れていますので、改めて参照したい時はそこからご確認ください。)


【自己意識の中にも、すでに振動数における「差違」がある?!】

 私が今、高次元の探究(地球がアセンションを果たせるのか、否かの探究とも言うべきなのでしょうか)するにあたって大前提としている考え方が物質も意識もすべて、エネルギーの振動数の差違によって変異するというものです。
 振動数がどれほど無数にあるかは──数値が無数にあるのを想像すれば安易にご納得頂けることと思います。
 YOU are EARTHや、その他デザインの仕事を多々お願いしている774さんと、よくこうした周波数の差を「音階」に例えることがあるのですが、これはまさしく言い得て妙だろう──そう思っています。
 例えば、

 ●ド レ ミ ファ ソ ラ シ ド

 これはCメジャースケールと言われ、日本語ではハ長調です。
 しかし、これが「レ」から始まったとします。

 ○レ ミ ファ(♯) ソ ラ シ ド(♯) レ

 Dメジャースケールとなり、日本語ではニ長調と呼ばれます──が。
 上記●と下記○では、同じ音幅であるにも関わらず、音のイメージがまったく違うことが分かります。
 例えば、●でのミと○でのミは、同じ音でも、それぞれのスケールによって「違う役目」をしています。●のミは第三音であり、○の方では第二音です。

 私は、振動数が違うと異なる世界というのは、こうした音階に似たものがあるのではないだろうかそう感じています。

 例えばここに、「世界の組成要素」を組み込んでみたとしましょう。
 ルドルフ・シュタイナーの「神智学」を参考にしますが(余談ですが、シュタイナーが神智学者だと信じ込んでいる人たちが精神世界系研究者の方にも非常に多いのですが、彼は「人智学(アントロポゾフィー)者」です)、物質世界を組成する基盤である鉱物界を「ド」としましょう。
 そして、エーテル界(植物界)を「レ」。
 アストラル界を「ミ」。
 自我(自己意識、ハイヤーセルフなどと言った方がいいかもしれない)を「ファ」としましょう。
 さらにハイヤーセルフがアストラル体を律したもの(霊我)を「ソ」。※これはちょっと分かりづらい説明かもしれませんが、要するに「ハイヤーセルフが、完全に人間の低次な感情もコントロール出来る状態」というふうに想像してください。
 さらに進んでハイヤーセルフがエーテル体を律したものを「ラ」(エーテル体の修練は「習慣性にある」とされています。──が、すみません。それを「何て呼んでいたのか」ど忘れしてしまったので、ここでは割愛します。)
 そして、それがついには物質界に及んで「肉体」までをも律したものを「シ」としましょう。
 
 これが「私たちの次元における地球の『ドレミファソラシ』」だとしましょう。
 じゃぁ、この振動数(周波数)が「一音」あがっただけで──どうなるでしょうか?
 同じ音階(法則性=宇宙の法則性)を貫く為に、シャープを使うという裏技が出てきますが、それ以外も「基盤だったド」の音がなくなってしまいます。

 ──実は、シュタイナーは「高次元には鉱物界が『ない』」としています。
 それは、この音階でも明かです。
 すなわち物質の元素である振動数が変わっただけで、存在出来なくなるものが出てくるということです。
 でも、それは理屈で考えなくても「当たり前」なことかもしれません。

 そう言えば、子供の頃「面白いおもちゃ」がありました。
 父がどこか海外の山岳地帯(?)に行った際のおみやげだったのですが、ホースのようになっていて、それをグルグル回して「音を鳴らす」というものです。
 ゆっくり回すと低い音が鳴り、早く回すと高い音が鳴ります。
 その回す速度を調整しながら、音楽を奏でる──というものです。

 もしも「物質組成」が「振動数」により派生しているとすれば、上記したピアノの音階の如くそれは「あがればあがる程、消えていく振動数の次元もある」ということになるのでしょう。
 そして、これは「意識」においても同じです。
 自分自身に謙虚になれる方であれば、「私はいつでもフラットで、誰に対しても平等で、感情的になることなく、とっても寛大なの!」絶対に断言できないということを理解しているはずです(笑)。子供の頃によく、「ワタシ、嘘ツカナイ~」と腕をあげて言った友人に対して皮肉っぽく「今、『嘘つかないっていう嘘』ついた~!」とからかうのに似たような感覚ですが。
 人間であれば多かれ少なかれ、人間的な問題を抱えているはずです。
 そして、そういうもののもっとも顕著なものが──夢という無意識の領域に表されていると、私は思うのです。

 私は子供の頃からずっと、「自我を完全に持ったままの夢」というのと、「自我のない夢」という二者をみることが多いタイプでした。(体外離脱をする際には、必ず「前者」になります。)
 しかし、「自我のない夢」の自分というのは、起きてから思うに「普通の自分だったら、絶対にこんなこと言わないしやらないよな~」ということが多々あったりします。

 みなさんはどうですか? 夢の中の自分の行動と、自分の日常の行動は「必ず一致」していますか?

 詳しい説明は省きますが(これは検証と考察が進んだ際、改めて詳細を公開します)、私にはよく「メンテナンス」と私自身が勝手に名付けた行為が行われることがあります。
 この現象を自覚し始めたのは今から5年前で、それから今までにも数十回──二ヶ月に1回は最低でもメンテナンスが入るような形になっています。
 しかし、この時の私は大抵「自我のない場合」が多いのです。
 いえ──自我がない、というよりも「記憶できるだけの自我はあるのに、手のつけられないワガママっこになっている」──と言った方がいいのでしょうか(笑)。
 つい最近のメンテナンスは、今から一週間前にありました。
 その時私は、真理の探究に煮詰まっていただけでなく、人間関係でも色々と悩んでいて、言ってしまえば「どん詰まり」状態でした。そんな状態で寝ていれば見る夢もろくな夢じゃないのは当然で──まぁ、この夢については覚えていないのですが、ふと目が覚めた時、「自分の肉体から、霊体(霊体──という言い方は、ちょっと妥当じゃないかもしれません。意識の振動数が肉体の振動数と「ずれてしまった」と言った方がいいかもしれませんね)が浮き出ている」のを実感しました。
 その時にメンテナンス(大抵、男性二人か、或いは男性二人、女性一人の計三人などです)が始まり、私の意識は肉体から水平にはがされ「スーッ」と上にあがっていきました。(診察台が上にあがるような感覚です。)
 ところが──その時の意識振動数の自分は明らかに抵抗ばかり繰り返していて、例えて言えば「病院に連れていかれて泣いて暴れるやんちゃ坊主」みたいな感じだったのです。
 しかし、レーザー光線のようなものが全身を通るにあたって徐々に心は落ち着いていき、人間関係における問題も「あれ? なんだかスッキリしちゃったぞ」という気持ちに至った際──再び「スッ」と肉体に意識が戻されました。

 私は瞬時に飛び起きて、周りを見回しました。──が、私の三次元的視覚には、何も見えませんでした(本当はまだ、そこにいたのかもしれませんが)。

 もし、通常の私の自我状態であれば、間違いなく私はその場で彼らに「お願いだから、一緒に連れて行って欲しい!」と懇願したでしょう(笑)。いや。もしかしたら変に達観して「自分で選んだ道だから」と思ったか──(苦笑)。
 でも、それを思い返すと、「なるほど。意識レベルも、振動数によって階層が異なるのかもしれない」そんなふうにも思えたのです。

 いやはや──最新物理学を探究しようと思えば、説の多さに「キリがなさすぎ」て頭が混乱しますが、本来であれば「目に見えない世界(精神世界とかスピリチュアルと言うのに最近抵抗があるので、こういう言い方にしていますが──他に何かいい呼び方がないか、現在探している最中です)」も非常に奥が深く、素粒子や宇宙の構造を探究するのと「同じぐらい」高度な問題です。
 昨日のブログに書いたように、研究者がもっと謙虚な姿勢でこうしたすべてを「一元論」で唱えられるようになれれば、人類の思考力は飛躍的に進化するのかもしれませんね──。

──5月30日 2時16分追記──
 上記、「意識の振動数によって、階層が分れるのかもしれない」という部分は少し説明不足でした。
 何故そのように感じたかと言うと、意識の振動数が高い時ほど(要するに、だだっ子になってない時は)、メンテナンス中に認知出来る記憶がより詳細になっているからです。
 私自身の意識の振動数が高い(もしくは安定している)時は、メンテナンスに来ている人の性別や顔の特徴まで分かるのですが、上記の時は分からなかったのです。
 おそらくその理由は、「意識の振動数がその時は低かった為、詳細を記憶することが出来なかったのではないか」と、私自身は推測しています。


◆Jさんへ◆
(仮説:体外離脱のプロセス)
私が思うに、体外離脱は「肉体を構成する物質の振動数(周波数)」と「意識の振動数(周波数)」が「ズレてしまう」ことにより、それが原因で起るのだと思われます。
勿論、滅多なことでこれはずれることなどないですし、普段は「チャクラ」の部分で紐付けがされているようです(これは実際に私が離脱で体験した内容ですので、もう少し考察と検証が進んだ後説明します。ここでは軽く受け流しておいてください)。
そう言えば、ヘミシンクも結局「異なる耳から違う周波数の音を聞かせること」により体外離脱を促しているはずです。そこに何かヒントがあると思われますので、よろしければ参考になさってみてください。



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※今の時代に必要なメッセージが、随所に籠められたDVDです。※

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プロフィール

篠崎由羅(しのざきゆら)

Author:篠崎由羅(しのざきゆら)
1970年生。幼少期から哲学・宗教学に造詣を深める。思想および思想史、それに付随した国際事情に興味を抱いて独学を続け、大学ではインド哲学科専攻。東西問わず、両者の思想に渡り研究を深める。

現在は看護師として施設で勤務しながら、その傍らで執筆活動を続けている。2016年11月にYOU are EARTH改め「WE are EARTH」の活動を再始動予定。より良い未来の地球のため、全力を尽くす誓いをたてている。

【篠崎の著作本】

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