【体験談9・最終回】復活。そして新たな目覚め

 不可視の力が復活し始めたのは36歳以降でしたが、はっきりと「ああ、これは幼少期の頃と似た体験だ」と実感出来るようになったのは、一昨年──38歳を過ぎてからでした。
 しかし、実際には36歳になる前すでに「その予兆」とも言うべき体験が、少しずつ──じわじわと、私の中で起こり始めていたのです。

 その一番最初のきっかけは、2003年の初夏──あと数ヶ月で33歳になる頃のことでした。
 その前年の7月に私は離婚していましたが、決して元夫を嫌いになって別れたわけではないので、とても辛い日々を送っていました。
 「自分で決めた道だから」と覚悟しつつも、約10年近く連れ添った相手を失うというのは、心の中に大きな穴がぽっかりと空いてしまったかのような空虚感を覚えるものです。
 その当時、とあるNPO関連の講演会企画に関わったり、ジャナーリズムの学校に通ったりなど、私自身は積極的に活動していましたが、心のどこかで「この穴を埋めたい」──そういう欲求はあったのだと思います。そうした隠れた思いが引き寄せあったのか、私は会社で知り合った男性と、つきあい始めました。

 しかし、彼はもともと地方から赴任していた人だったので、彼が地元に戻って遠距離となった途端、関係性がこじれてきました。
 自分が決めた道にたいしても中途半端なまま、私は「俗世と理想の狭間」を、激しく揺れ動いていたのです。
 私は毎日毎日、別れた夫のこと──そして、彼との板挟みで、ひどく精神的に消耗していました。

 そんなある日。
 夢の中で、私は「占い師」の元を訪れていました。
 その占い師の人は高齢の女性で、うつむき加減のまま、じっっと私の話を聞いていました。
 私は自分が抱えている悩み、葛藤をすべて打ち明け、老婆からの返答を待っています。
 ところが、老婆は無言のまま、何も言いません。
 怪訝に思い始めた私の前で、老婆はゆっくり姿勢を戻しました。
 次の瞬間。
 顔をあげた途端、クワッと目を見開き──。

「これから『大切な転機』を迎えようっていう時に、男にうつつなんぞ抜かしてどうする!」

 ──と、ものすごい勢いで罵倒されたのです。
 その瞬間、「ハッッ!」と我に返りました。
「お、怒られちゃった……」
 心の中に浮かんだ言葉は、その一言に尽きました……。

 普段なら「ただの夢」で終わるところを──この夢はあまりにインパクトが強く、忘れようにも忘れようがありませんでした。
 しかも、何よりも驚いたのは──前日までずっと別れた夫や彼のことで悩んでいた私が、まるで、別人のように「ケロッ」と、

「そうだ、そうだ。そんな場合じゃなかった──」

 と思い、突然立ち直ってしまったことです。
 あろうことか、その日中に携帯のメールアドレスを変更し、彼との連絡を自分から「断ってしまった」ではありませんか。
 何よりも、自分のその「極端なまでの変化」に、自分自身が驚いていました。
 ※以降、私は誰ともつきあったことがないし、異性を好きになることもなければ、再婚する気もまったくありません。私は、真理と地球の未来のために、生涯を捧げると堅く決意しているので、この決意を揺るがすことは死ぬまでない──そう確信しています。

 その夢を境に、私は不思議な夢を数々見るようになりました。
 数年経ってから思い返すと、「ああ。このことを言っていたのか」と思うような夢も多数ありました。

 その中で共通していたのが、「山の夢」でした。
 大きくそびえ立つ山の中腹に、一軒の山小屋があるのです。
 しかし、実際中に入るとそこはとても近未来的な雰囲気で、しかも、「地球の全歴史」がつまっている博物館、と言われました。
 私はそこでひとつの席に座り、誰かから色々な知識を教えてもらう──という夢を何度か見ていたのです。
 その他にも、象徴とされるような夢が数々ありましたが──ひとつひとつ挙げるとキリがないので、ここでは割愛します。

 現実面でも、大きく変化が起こり始めていました。
 時代は、すでに「イラク戦争」に突入していました。
 私は、自分の本来の目的を追いたい──と思いつつも、「自分のこともちゃんと出来ないような人間が、9.11の真相を追うなんて烏滸がましい」とも思っていた頃でした。
 二つの両極な思いにユラユラと揺れながら──少しずつ一本の道に集約されようとしていたのですが、当人にはまったく自覚出来ていなかったのが、2003~2005年にかけてのことだったのです。

 大きく私が変わることになったのは、2006年2月の話でした。
 その頃、私は友人関係でひどく悩んでいましたが、それと同時に、どんどん、自分の目指す理想からかけ離れている気がすると思い、にっちもさっちも行かなくなってしまったのです。
 「私」という船は座礁し、岩に乗り上げ、どうすればいいかもわからない状態でした。
 そして、私は──

 ──今までの自分を「死なせよう」。そして、「新たに再生」するんだ!

 そう決意したのです。
 勿論、「死ぬ」というのは肉体のことではありません。「精神的な意味で」です。
 どうやって精神を死なせるか──方法は様々でしょうが、私の場合は徹底的に、自分を否定し続けたのです。
 毎晩毎晩、寝る前に「自分の欠点」「今まで起きたことで、自分がやらかした失敗・挫折・後悔」あらゆる負の部分に焦点をあて、書き殴ったのです。
 毎日毎日それを繰り返せば、途中で「同じ欠点」が何度も浮上してきます。
 そうした欠点は「自分にとって、もっとも大きい意味があるのだ」とそう思い、何度も何度も繰り返し、思い浮かんだ欠点は漏らさないよう徹底して、書き続けたのです。

 ある意味、修行僧のような感覚かもしれません。
 ひたすらひたすら、自分に向かって問いかけ──長所には目もくれず、ひたすら「短所」だけを指摘していくのです。
 昨今のスピリチュアリストは、概ね「逆」をしていますよね。
 でも、私は「本当に強くなりたいなら、むしろ短所のみを書き出した方がいい」そう思います。
 どんな事例も、どんな出来事も、絶対に「他人のせい」には出来ない──すべて「自分の過ち」として捉えていくのです。

 とはいえ、これは万民にお薦めの方法ではありません。
 また、それを徹底的にやったからっといって、「欠点が皆無になるか」と言えばそんなこともありません。上記のような行為を半年間繰り返した私も、決して今「欠点がゼロ」になってるわけじゃありませんので(苦笑)。
 でも、私はそれで「いい」と思っています。
 完全無欠の人間なんて面白くも何ともないし、欠けている部分があるからこそ、補ってくれる仲間を必要とする──そこで人間の調和が生まれ、助け合いの精神が生じると、そう思えるからです。
 少なくとも、「自分の欠点を、徹底的に洗い出す」ことで、謙虚さが生まれます。
 私は約半年に渡って、「欠点を書き出す」という行為をしましたが──おかげで、人生観がだいぶ変わったように思えます。

 勿論、自分の欠点や人生の汚点を書き出すことは、猛烈な痛みを覚えます。
 時として、「本当に死にたい」──そう思うことも、何度もありました。
 そう感じた時、私は「坐禅」を組むようにしていました。
 出来るだけこころを空っぽにし、雑念は浮かぶがままにして、ある自分の「一部分」だけを「死」に至らしめるのです。
 そうすると、次第に雑念も浮かばなくなり──ただ、「存在」だけが浮き彫りになってきます。そうすると、「死にたい」という思いも消え失せるので、それからまた、新たに「欠点の書き出し」を始めるのです。

 私が何故、そこまで自分を追い詰めたのか──それは、ひとえに「目的を定めていても、そこに向かっていつまでも進めない自分への憤り」があったからでした。
 私は、本気で「地球の為に、生きたい」──強くそう思うようになっていたのです。
 そのちょうど一年ぐらい前から、私はヴィジョンで「世界中の景色」が脳裏に過ぎるようになっていました。それは、まさしく中学時代に夢の中で、地球のあちこちを飛び回った記憶の再生のようなものでした。

 そして、半年後──8月3日の誕生日。
 36歳になるその日に、私は「伊勢神宮参り」に行きました。
 そこでお参りをし、「再生する」ことを誓って、再度東京に戻ってきたのです。

 その時は、それから自分に大きな変化が起きるとは、予想だにしていませんでした。
 いえ──伊勢神宮はただ単に「きっかけ」に過ぎず、本来は明治神宮だろうが鎌倉八幡宮だろうが、どこでも良かったのかもしれません。
 ただ単に、「自分の人生(欠点)を見つめ直す半年間」が必要だっただけであって、それが出来ていれば問題なかったのかもしれません。
 或いは──生まれてくる前に私自身が、「こうなること」を設定していたのかもしれません。
 真偽はいずこにあるのか分かりませんが、それから数週間後──すでに、何かが変わり始めていました。 

 まず最初に訪れたのは──フラッシュ現象でした。
 それは、普通に歩いてたり、或いはPCに向かっている最中、目の前でかなりはっきりした光が灯る現象でした。
 あまり周囲で聞いたことがない事例なので、私は勝手に「フラッシュ現象」と呼んでいます。
 最初は、白内障の一種かと思っていました。
 しかし、「白い点」ではなく「明確な光」で、しかもそれの出現場所がバラバラであることから「白内障とは違うな」ということが分かりました。
 また、この光はただの白色ではなく「色がついている」のです。
 一番多いケースは「青」でした。その次が「紫」──勿論、白色もあります。また、赤や緑、複数の光が無数に絡み合って出現することもありました。
 最初は「ただの目の錯覚だろう」と、気にしなかったのですが──ある日、「外縁を青に縁取られた白色の光」が見えた時には、さすがに「これは、ただの錯覚ではない」と思いました。そんな不自然な光、人工的にだって作るのは難しいでしょう。

 それと同時期に──メンテナンス現象が起き始めました。
 これも、あまり友人以外の他の人に話したことがないので、照合のしようがなかった為、勝手に「メンテナンス現象」と名付けています。
 一番最初に起きたのは、風邪を酷くこじらせてしまい、発熱で寝込んでいる時のことでした。
 ひとり暮らしの人間にとって、病気は場合によって死に繋がりかねません。それこそ高熱で五日も寝込んだ日には、まず冷蔵庫の食べ物がなくなって餓死しかけてしまいます;
 私自身、立ち上がる気力もなくて「どうしようかな……」と悩んで寝込んでいた際。
 ふと、布団の横で女性が座っているのに気がつきました。
 何を話したか──まではよく覚えていないのですが、あれこれ話をした後に、いきなり頭頂部から「ゴォーッ」とすごい勢いで何かが流れ込んでくるのを感じたのです。

「うわっ! ちょっとこれ、やりすぎ!」

 当時私の寝室はロフトだったので、ロフトから転がり落ちるんじゃないかと心配した程でした。
 しかし──目が覚めると、不思議なぐらい体が軽くなっていて、熱も平熱まで引いていたのです。

「ありがたい夢だったな」なんて、その時は思ったのですが──
 それから頻回に、私が体調不良の時は誰かが来るようになったのです。
 私は、この現象を「確か、ずっと前に味わったことがある──」と思うようになりました。

 そう──幼少期の頃、不可視の存在達が遊びに来ていた「あの頃」と、まったく感覚が一緒なのです。

 だんだん、「これは、夢じゃないのかもしれない──」そう思い始めました。
 そして、37歳のある日──決定的な体験を、することになったのです。

 その日、私は両耳の内耳炎と外耳炎を悪化させてしまい、39度以上の高熱を出していました。
 左耳は外耳炎で完全に塞がってしまい、何も聞こえないような有様です。
 そんな中、人の気配を感じて私は目を覚ましました。

 なんと──目の前に、全身銀色の人が立っていたのです。
 これを言うとみんな、たいてい笑うのですが(苦笑)──例えて言えば「ペプシマン」にそっくりでした。
 まずその形状に驚きましたし、同時に「何故、ここにペプシマンが??」ということにも驚きました。
 さすがの私も、ペプシマンを見たのは「初めて」だったので──。

 すると、そのペプシマンは私の顔を両手で抑えると──なんと私の口の中から、体内に向かって、勢いよく飛び込んできたではありませんか!
「シュワ──!」ならず「シュルシュルシュル──すぽんっ!」です……。

 ……………………。

 何が起きたのか、しばらくよく分かりませんでした。
「高熱で幻覚を見たんだ。そうだ。そう思おう」──と、無理矢理納得した程です。
 この話を友人にした際、友人からは「アンディ・レイキーは、病気になると小さな天使が体の中に入ってきて治療してくれた──っていうから、それじゃない?」と言われたのですが……

 小さな天使──という割には、デカすぎです……。
 寝ていたところを見上げたので、明確には分かりませんが──最低でも180cmはあったと思います。
 アンディー・レイキーが描くような「ちっちゃい天使」がチョコチョコ入ってくるなら「可愛い♪」で済まされますが──
 ──ペプシマンでは、「ギャグ」にしかなりません……。
 ただ、ひとつだけ明確に言えることは──今までのメンテナンス現象同様、その日のうちに回復した──ということでした。(この現象は、今でも多々あります。先月、全身が炎症を起こした際も、静養しなかったどころかイベントまでやったにも関わらず((おそらく当日も、38度台の熱があったと思われます。左耳は外耳炎により、まったく聞こえていませんでした))、次の検査では「すべて正常値に戻っていた」のだからありがたい話です。)

 それからしばらくして、体外離脱現象まで復活しました。
 体外離脱が復活した経緯は、多岐に別れます。また、「どのように離脱するのか」というプロセスも、体感したことが複数回ありました。(詳細を書くと長くなりすぎてしまうので、またの機会にさせていただきます。)

 ただし、一度だけ──これは鮮烈な体験であり、同時に「今の活動をしよう」と決意するきっかけでもあったので、ここでご紹介しますが──
 体外離脱先で、「これから、戦争が起こるかもしれない」と言われたことがありました。
 私は驚いて、「それはどこ? 中東がきっかけ? それとも別の──」と食い下がりましたが、それ以上の時間滞在が私には出来ませんでした。
 普通の夢や瞑想と違って、私の場合は自我も一緒に連れて行っているので、「集中する」時間に制限があるのです。(専門用語を使えば「その次元と周波数を合わせる」ということなのかもしれませんが、自分で確証出来るものではないので、あえて「集中する」とだけに留めておきます。)

 まさかな──という疑い反面、相変わらず緊迫している中東の様子を見るに「でも──」という思いも過ぎりました。
 それに、中東だけではありません。戦争が起きたとしても、決して「え? あそこが?」って驚くようなところは、かえって少ないような気がします。

 私は、自分が聞いてきたことに半信半疑ながらも──「戦争が起こる起こらない云々ではなく、『これからの地球の未来を、意識して変えていくこと』そのものに意義があるのではないか」そう思いました。
 戦争が回避されたから「じゃぁ、地球の未来はどうでもいいや」というのは──ただの怠惰だし、依存心が強いだけに過ぎない、そう思えるのです。
 私達の人生が、ちょっと些細な出来事で左右されてしまうのと同じように、地球の未来も、私達の些細な行動ひとつで、左右されてしまうのではないか──そう私は実感しています。

 私は、自分の今までの人生を通じ「不可視世界の濃厚な時期」、そして、「可視世界のみにしか生きられない時期」、両者を体験した結果、「もっともバランスのとれる位置を、見出すことが出来た」──そう思っています。
 それは、言うなれば「色々な人から支えられて生きていることへの感謝」も含めてであったり、食事が出来ることも「自分が稼いで来たから、食べられるんだ」という考え方ではなく、「食糧を作ってくれた人達、そして、食糧として身を捧げてくれた動物達、野菜達への感謝」を含めることの大切さを知らしめています。

 私達はひとりよがりに生きているのではなく、
 人間だけで生きているのではなく、
 私たちが生きる前提として生命があり、
 この星に生きるたくさんの動物や植物たち、
 豊かな自然、
 太陽の恵みなどがあってこそなのだということを、思い返す必要があるのでしょう。
 そのことこそを、不可視の世界は「教えてくれます」。

 目には見えないけれど、「確実にある」ということへの証。
 それは、何もスピリチュアルに限ったことだけではありません。

 食糧になってくれた米や野菜が、大地で育成されていく姿が私達、消費者には見えません。
 パックになっている肉達や魚達が、かつてどんな姿でどんな生き方をしていたのか、大海原でどのように泳いでいたのか、私達、消費者には見えません。
 そして、世界のどこかで戦争が起きていても──飢餓で死んでいく子供達が毎日いたとしても私達は、情報を通じてしか知ることが出来ないのです。


 それは、私が直に「不可視の世界にいる住人達」から教わったわけではありません。
 「目に見えない」部分にこそ、多くの真実と現象が隠されているということを、不可視の世界にいる彼らが、「存在として」教えてくれたのです。
 私は、スピリチュアルの本当の意味は「そこにある」──そう思えるのです。

 目に見えないけれど、相手のことを思いやる優しさ──
 目に見えないけれど、今、社会で何が起きているのかを感じ取ろうとする配慮──
 そして、目に見えないけれど、地球がどれほど私達を慈しみ、守ってきてくれたかを思うこころ──

 それこそが「スピリチュアル(精神性)」であり、奇抜なことでも突出したことでも何でもない、思いやりと優しさで成り立つものなのだと、私はそう思っています。

  
 9回に渡って、私の今までの体験談をまとめてお送りしてきました。
 実際には、掲載していない体験談も多々あるのですが(長くなりすぎるので掲載しきれませんでした;)、私は本来奇抜さを求めているのではなく、常に「見えない存在(前述したような、食糧への感謝や、相手のこころを推し量ることなど)を思いやること」の方を大切に思っています。
 そうすることが結果的に、人間の意識の向上をもたらし──そして、本当の意味で「調和で包まれた世界」を生み出すだろうと、そう思っているからです。

 人類がそうなった時点で、おそらく「不可視の存在」は「可視」になるか──或いは「感じ取れる存在」になれるかもしれません。
 私達は決して分かたれた存在ではなく、可視も不可視ももともとは一体の存在なのですから──。


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【体験談8】可視世界のみに生きた14年

 霊感を失ったと同時期、私は「音楽」でも挫折を経験していました。
 とあるプロダクションの採用試験を受け、最終面接まで漕ぎ着けたにも関わらず──社長の価値観がどうしても受け入れられず、その場で対立してしまったのです。
 それは、音楽に対する挫折というよりも、現実世界を生きていくこと、そのものの挫折と言えました。

 霊感も失ってしまい、私は本当に、この先の人生をどう生きていけばいいのか分かりませんでした。
 模索し続ける過程の中、気がつけば私は、ひたすら「哲学書」を読みふけるようになっていたのです。

 私は高校時代から哲学書を読み始めていましたが、十代の頃に読んでも、あまりピンとは来ませんでした。
 宗教学や思想史そのものには幼少期から興味がありましたが(特に、子供時代に見たイスラム革命の印象は、大きかったと思います)、哲学そのものを食い入るように読むようになったのは、この時が初めてだったと思います。
 霊感を失った後の私にとって、哲学はまるで「人生の指針」とも言うべきものだったからです。

 哲学と言うのは、「智慧をロジック化したもの」です。
 本来であれば感性で捉えたものを、すべてロジックをツールに説明している──すなわち「不可視な智慧を三次元ルールで煮治している」のが哲学と言えるでしょう。(けっして、ただの脳内作業というわけではありません。)
 霊感や直感の鋭かった時代の私にとって、智慧をロジック化する意味はあまりなかったのかもしれません。
 しかし、「何も感じられなくなった──でも、何かあるのは、確実なんだ」という両者を股にかけた状態となってしまった私にとって哲学は、とても的を射た学問だったのです。

 私は短期間で、あらゆる哲学書を読みました。
 最初はニーチェ、キェルケゴール、ハイデッガーなどから入り、その後、カント、それから何故かいきなりギリシャまで時代を遡って、プラトンの「イデア論」にはまりました。
 哲学史も、途中でキリスト教との合流があったりなどで厳密な流れを組んでいるわけではありません。また逆に、科学や社会学との合流もあり、一律に「ここまでが哲学だ」と区切ることは不可能です。
 それでも、私はほぼ西洋哲学については網羅出来ました。
 勿論、もっと深くやろうと思えば出来るのですが──どうも「自分が求めているのは、これではないな」そう思ったのです。

 むしろ、私を魅了したのは──インド哲学でした。
 インド哲学については、分かりやすい本が「何ひとつ、なかった」のです。
 また、インド哲学を売り文句にしていても、実際読んだら仏教だったりなど、境目が非常に曖昧でした。
 インド最古の哲学とされている「ウパニシャッド」を読んだ際も、その曖昧な表現に首を傾げてしまいました。西洋哲学からインド哲学を見ると、本当に「もやもやとした銀河を遠目で見ている」ような感覚になってしまったのです。

 ──これは、独学で深めることが出来ない。

 そう思い、私は「インド哲学を学びたい」と強く思うようになりました。そこに、私自身が体験してきた数々の現象や「目に見える世界と、見えない世界との関係性」などが紐解かれているのではないか──そう思ったからです。
 その上、当時の私は中学時代に感じたような地球の役にたてるような仕事につきたいという思いもありました。
 真理探究と世界平和──。一見矛盾しているような目標ですが、私はこの二つの意識をもったまま、どうすればいいのかを模索しました。
 その結果、「大学に、進学しよう」と決意したのです。

 当時私は22歳になろうとしていたので、同い年の学生達はみんな4年生になっている頃です。4年の落差をつけて進学するわけですが、音楽をやっていた時も同い年の仲間なんてほとんどいなかったので(もっともみんな年上で、年下がほとんどいなかっただけですが)、年齢に対する拘りはいっさいありませんでした。

 私は、「まったく新しい人生」を22歳にして歩み始め、その翌年、大学に進学しました。
 私がその大学を選んだ理由は、大学の中にある研究所(この研究所はアジアとアフリカに対する研究所でした)に入りたい──そう考えていたからです。そうすることで、もうひとつの目標である「地球の役にたつこと」が可能になりそうな気がしていました。(余談※しかし、この目的も結局頓挫してしまいます。私が本当の意味で「地球のために生きる」ことと「真理探究」を合体出来たのは、ごくごく最近になってからでした。)

 やっとのことで自分の道に辿り着いた私でしたが──ここでもまた、大きな挫折が待っていました。

 大学生のほとんどは「遊ぶこと」に夢中で──真剣に真理を紐解こう、という人は皆無に近かったのです。(おそらく、学友達の中で未だに真理探究を目指しているのは、私だけだと思われます。もう10年近く連絡が途絶えているので、分かりませんが──)
 また、教授陣もおざなりに文献学を講じる程度で、真剣に自分で考察し、新たな分野を模索しようとする姿勢の人がいませんでした(唯一、ひとりだけプラトンの思想を独自に考察する教授がいました。この方はかなり有名な方でもあったのですがおじいちゃん教授だったせいもあり、もうディスカッションなどをするような状態ではなく「ひとり意識を投じている」ことの方が多い印象を受けました)。

 大学二年生になった頃、私は「自分がこのまま大学にいても、何ひとつ目標を叶えられないのではないか」と思い、大学を休学し「海外青年協力隊」に応募しようかを悩んでいました。
 思い切って説明会に参加したものの──ここにもまた、自分の求める答えはありませんでした。

 私が説明を聞きにいったのは1994年だったのですが、それはちょうどあの「ルワンダ紛争」の後でした。
 ルワンダ紛争について、私はあらゆるジャーナリズム誌を読んでいましたが、「何故、このような争いが続いているのか」そのこと自体が非常に疑問だったのです。
 しかし、いざ海外青年協力隊の説明会に参加しても──その私が抱いていた根本的疑問、「何故、人は争いをやめないのか」という答えは出ませんでした。
 その答えが出てからでないと、参加しても「私の目的は、達成されまい」──そう思えたのです。

 結局、私は申込みを見送り──大学でもう少し疑問を解く為の研究をしよう、そう決意し直しました。
 いわば、私は社会の傍観者になった気分でした。
「何がこれから起きていくのか。そして、『どうなっていくのか』を見極めたい」そんな思いがあったのです。

 そして──1995年。
 オウム真理教地下鉄サリン事件が起きてから、すべてのことが「一転」しました。
 それまでもてはやされていたカルト教団達も、いっきに評判は落ち──それと一緒に「精神世界」に関わる本が、いっせいに書棚から姿を消したのです。
 当時、オウム真理教信者がインド哲学科に多く所属していたことから、私の大学もかなり警察から目をつけられていました。実際、私の友人何名かは警察から職務質問され、ある友人の自宅には「近所から『オウム真理教じゃないか』と通報があった」と言って警察が来たこともあった程です。
 その翌年の就職内定率も、インド哲学科はいっきに低下したそうです。

 ──これは、一種の「差別」だ。

 そう思いました。
 私が、昨今スピリチュアルブームと言われていても自分が容易に自分の体験や精神に関する用語を口に出さなかったのは、オウム真理教事件で、人々が一斉に手のひらを返す様子をあからさまに見ていたからです。
 「不可視の現象」については、誰も共有出来ません。
 だからこそ、慎重に伝えていく必要があるのです。
 ましてや、「未来はかくかくしかじか、こうなるんだ!」「地球はアセンションした後、こうなるんだ!」とはっきり言い切ってしまえるものではありません。

 神でさえも決断出来ないものを、何故、ひとりの人間如きが断言出来るというのでしょう?

 カルヴァンの予定説が覆され、確実とされる未来は「何ひとつないんだ」ということを知った現状の中、「未来はこうなる」「数年後はこうなる」と断言することの危険性を、多くの方にご理解頂きたい──そう思います。
 断言すればする程、そこに摩擦が生じてしまいます。
 イメージすることはとてもいいことですが、「イメージすること」と「こうなる!」と断言するのとでは、明らかに異なります。前者は個々人の自発的行為によるもので、後者は「他者の言った言葉に依存するだけ」になってしまうからです。
 断言は「カルト教団」に繋がりかねない危険を含んでいますが、イメージはあくまでも個々人に委ねられています。
 その明確な差を、私はこの事件を通じて学んだように思えました。

 1990年代は、日本だけでなく世界中が、様々に揺れ動いた10年間でした。
 いえ──厳密に言えば、1989年。東西ドイツの統一、ソ連の崩壊、そして日本は昭和が終わるなど、この時からすでに時代の夜明けが象徴されていた──そう思います。
 1991年のイラク戦争に始まり、多くの紛争。
 そして、自然災害も含め、この10年間にあったことを書き出すだけでも大変なのではないかと思えるぐらい、世界的に様々なことがありました。
 不可視の世界から離れ、可視の世界のみに生きていた私にとって、「現実世界というのは、ここまでに目まぐるしい変化をするものなのか」と思わせた程です。

 しかし──よもや、それさえも凌ぐような世界的事件が勃発するなど、当時の私は予想だにしていませんでした。
 それこそが、あの9.11──21世紀最初の年である2001年に起きたのです。

 その日が、私にとって人生における、大きな転換期となってしまいました。
 当時31歳になっていた私は、可視の世界のみに生きていくすべを見つけ、普通に生活していました。もし、9.11がなければ──私は今でも、普通に主婦をこなしていたと思います。

 私は9.11を境に、「このままでは、世界は滅びてしまう」という強い危機感から、再び独身に戻って、9.11の真相と、同時に「どうすれば、世界を向上させることが出来るのか」を模索し始めました。
 私は、ただひたすら「どうすれば、これ以上の悲劇を止められるのか」そのことだけを意識して、生きてきました。
 しかし、それが回り回って──不可視世界との繋がりの復活に結びついてしまったのです。(体験談・最終回へ続く)


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【体験談7】失われた霊感

 私の高校時代は、生死を見つめさせられる体験と──同時に現実側面では、友情による葛藤の続く日々に明け暮れていました。
 私の通っていた学校が看護科だったという特殊性もあるのか、感受性の強い生徒が非常に多く、その分、情緒的に不安定な人達も見受けられました。私の友人も突然衝動に駆られ服毒自殺未遂をした程で、救急車で運ばれたことがありました。一命はとりとめたものの、何故突然そうした行動に出たのかは依然謎のままです。

※余談※
 私は例え友人といえども、本人から告げられるまでは、いっさい相手の深部に触れるようなことを訊いたり、口にしないタイプです。(お節介嫌い派、とも言います。人によっては「冷たい」と思うこともあるでしょうが、基本的に私はただ見守っているだけのタイプです。) 
 逆に、その子もいっさい私に愚痴ひとつ言ったことがありませんでした。
 趣味も価値観も違えば、同じクラスになったことさえない彼女と行動を共にする機会が多かった理由は、その子も自分同様、自虐的行為に及んでも他者を絶対に攻撃しない──その上、相手に依存するようなタイプではないことが、何となく伝わってきたからかもしれません。


 友情や周囲に翻弄される日々は、楽しくもあり──また、苦痛でもあります。
 どんなに自分が精神的に一定を維持しようとしても、外部によって一日の印象が大きく変わることなど多々ありました。まるで、天候ひとつで左右される船旅に出ているかの気分です。
 それに加え、私は霊的現象にも悩まされていたので、私の内面を大きく揺るがす原因は沢山ありました。それでも乗り越えられたのは「音楽」という生き甲斐があった──これに尽きると、そう思います。

 私は高校を卒業した後、一年間だけ看護婦で働きましたが、その後は試行錯誤に入っていました。
 音楽を純粋にやっていきたいという思いの反面、「色々なことを、経験してみたい」という衝動もあったからです。
 その為、あらゆる職業を体験しました。
 奇しくも、時代はバブル絶頂期。求人は山のようにあった頃です。3K職場(きつい・きたない・きけん)と言って、どんなに求人を出しても「集まらない」と嘆く企業もたくさんあった程です。今では信じられない状態ですね(苦笑)。
 音楽を勉強する傍ら、子供の頃に感じたようなとても素晴らしい体験をしたり(参照:天界の音楽)、様々な紆余曲折がありました。
 相変わらず霊現象は続いていましたが、それでも「自分の中で、何かが変わりつつある」のが実感出来ていたので、恐怖はほとんどなくなっていました。

 季節は瞬く間に過ぎて、私も気がつけば21歳になっていました。
 ある日──私は、東京で有名だという占い師に観てもらったことがありました。
 それは「たまたま」に近い感覚でした。ひとり遊びに行った先で不自然な行列を見かけ、そこに「占い師の看板」があったのです。
 私は様々な自分の体験を紐解く一環で、「占い」も研究していました。鑑定自体はほとんどやってもらったことがなかったのですが、占術の研究に関しては10歳の頃からしていたぐらいです。
 その為、占術の種類や方法については当時から非常に詳しかったのですが──そこに書かれていた占い技法は、今までに見たことのないものでした。

「霊感占い」

 これじゃ、何で占うのかまったく分かりません。
 何となく好奇心をおぼえたので、何時間待つことになるか分からない行列の一番後ろにつきました。待つことがさほど苦痛じゃない私は、鞄から本を取り出すと、そのまま読書に耽ったのです。

 ──ふと。
 視線を感じて、顔をあげました。ブースの中にいる占い師が、じっと私を見つめているのに気がついたからです。
 私は「偶然だろう」と思い、視線を再び本に戻しました。
 しかし、何度も視線を感じるので再度顔をあげたところ、またその占い師が列に並ぶ私のことを見ていたのです。

 私はとりわけ美人でもないし、背丈も高くなければ(むしろチビです)、スタイルがいいわけでもない──言ってしまえば「十人並み」の容姿です。
 ですので、何故あのように見られるのか分からなかったし、そういうことにも慣れていないので照れを感じました。意識しないよう、ひたすら読書に集中した程です。
 しかし、「何故、占い師が私のことを見ていたのか」──自分の番になってようやく、理由がわかりました。彼は、私が座るなり開口一番、こう言ったからです。

「あなた──霊感が強いね」

 正直言って、驚きました。
 私が質問を言う間もなく──用紙に生年月日を書き込もうとしている途中で、いきなりそう言われたからです。
 自分がひた隠しにしていた事実(当時、すでに何名かの友人には明かしていましたが)を指摘され、私はただ「はい、まぁ……」としか言えませんでした。
 はっきり肯定したわけではなかったのですが(当時から、そういうことを自慢したり得意げに話す人間が大嫌いだったからです。自分は絶対にそうなりたくない──そう誓っていました)、その占い師の人から告げられた言葉は……想定さえ出来ないような言葉でした。

「あなたの力は、これからますます大きくなる。その力を、もっと人々の為に使いなさい」

 私は言葉が出ませんでした。
 何故なら、相談内容は「これから、どうやって音楽活動をしていけばいいか」だったからです。音楽活動と霊感を使って人々の為に──では、雲泥の差どころの話ではありません。
 ですので、私ははっきり告げました。
「いえ──。私は、音楽をやっていきたいのですが──」
「だったら、音楽を続けながらその力を使えばいい」
 とりつく島もありません。

 占い師の言葉は、私の霊感の使い途に集約されていました。
 しかし、私は当時の(今もそうですが)霊感師のほとんどを信用していなかったので、どこぞの先生の弟子になるというのはまっぴらごめんでした。
 すると、その占い師はこう言ったのです。
「君の力は、占いにも使えるだろう。なので、私の弟子になりなさい」
「──はぁ……」

 全然私は、本気じゃありませんでした。
 しかし、その占い師はかなり本気です。「今日の夜、○○で会合が開かれるので出席する。あなたも、そこに来なさい」とまで言われました。
 私は笑って誤魔化すと、その場をそうそうに去りました。

 自分が何も言わないのに、彼には「私の力」が見えていた──その時点で、その占い師が「ホンモノ」であると、私は感じていました。
 しかし、当時の私はそうした「師弟関係」というのが大嫌いだったのです(これは今でもそうですが)。
 誰しもが教師にもなり得るし、弟子にもなり得る──万物から人は学び、事象からも人は学ぶ。賢者が幼子に学ぶことだってあるだろうというのが、私の考え方だったからです。一方的な「師弟」という上下関係の考え方自体が、私の肌にあわないものでした。

 ところが──。
 その占い師の言ったことが、「事実」となってしまったのです。

 それから一ヶ月もしない頃。
 私は、寝ている最中誰かに「足首」を捕まれました。
 その現象だけなら「いつものこと」で流せるのですが、いつもと違ったのは、まったく恐怖がなく──それどころか、その手が「闇に浮かぶ、光を放った黄金の手」に見えたことでした。
 その両手が私の足首を掴んだ瞬間、ものすごいエネルギーが私の全身に流れ込んでくるのが分かりました。まるで風船のように、いっきに膨らませられているような感覚です。

 この感覚は、幼い頃に味わったような感覚と「まったく同じ」でした。
 同時に、アメリカに短期留学していた際にメロディを耳にした体験とも近い感じです。

「ま、待って待って! それ以上やったら、私の肉体が弾け飛んじゃうよ!」
 そう叫びたくなるぐらい、何かが自分の中で膨張していくのを実感していました。

 その日を境に──霊を見る回数が激増しました。
 高校時代のような恐怖はありませんでしたが、あまりにはっきりとしているので、自分でどうすればいいのか分からずに困惑した程です。
 例えば──悪霊(あまりこういう言い方は好きではないのですが、妥当な言葉がないので……)が、私の布団の中に潜り込んで来た際、それを蹴飛ばした瞬間足に残った「毛髪の感覚(全身が毛で覆われていたのです。悪霊にこうした毛深い存在は割と多かったように記憶しています)」とか──
 ある家で泊まった際、その部屋からすごい剣幕ではじき出されそうになったこととか──
 友人と旅行した際、友人がトイレに行った間その子の布団に座っていた少女の姿が、可視と見紛う如くはっきり見えたりとか(友人に少女はまったく見えず、普通にそのまま寝てしまったそうですが)──
 あげれば、キリがありません。

 恐怖がなくなった分、私はかえって冷静にその現象を見つめ返すようになっていました。
 それと同時に、占い師に言われた言葉が脳裏に刻み込まれて仕方なかったのです。

「確かに──これほど強くなってしまったら、他者の為に役立てるべきかもしれない……」

 事実私は、高校時代に「伝えきれなかった辛い過去」がありました(参照:伝えられなかったメッセージ)。あの頃は分からなかったものも、今であれば分かるかもしれない──そう思うようになったのです。
 でも、その為にはやはり「熟練した存在」のもとで修行をする必要がありました。どんなに師弟関係が嫌であったにせよ、こればかりは独学出来ない。
 それに、独学は危険すぎる──そうも思いました。
 当時すでに多数の霊を見ていたので、おぼろげながら霊にも個性があるというのを実感していたからです。
 一律に同じ除霊は出来ないし、同じ方法で浄化は不可能だ──それぞれの霊にあった方法を示さなければならないということだけは、はっきり分かっていました。

 私は悩んだ挙げ句、占い師が示した通り「霊感を役立たせる道を選ぼう」と決意しました。
 人々の為だけではありません。迷った霊達の為にです。
 私は、自分が有名になるということにはまったく興味がありませんでした。名誉、肩書き、権威──そうしたものは、幼少時から「クソくらえ」と思っていたからです。そうしたヒエラルキーが、私は不自然だとさえ思っていました。
 私は純粋に、「迷って、自分にすがってくる霊を成仏させたい」という思いから、役立たせる道を決意したのです。

 ──ところが。

 それを決意した「翌日」。
 目覚めた私の視覚が、いつもより「クリア」になっていることに気付きました。
 クリア──というよりも、「物質の形状」が明晰に見えているという感じです。
 今までは、どこかその形状がぼんやりしていたように思えたのですが──妙にクッキリ見えるように思えたのです。
 当時の私の視力は、左目2.0、右目1.5だったので、突如視力があがった──ということでもなさそうです。

 最初は、何が起きたのか分かりませんでした。
 しかし、ひと月ほど経過してから、改めてその変化の実状に気付いたのです。

 私は、突如霊感を失っていました

 何故そんなことになったのか、今でも説明がつきません。
 しかし、明確に覚えているのは──視覚がクリアになったことに気付いて以降、それまで日に数回、頻回にあった霊的現象が「ピタッ」と治まったことにありました。
 見えなくなっただけじゃありません。「感じなくなった」のです。

 そのことに気付いて以来、しばらく私は困惑していました。
 しかし、それが「感覚」ではなく「事実」であることを実感したと同時に、私は絶望の底に叩き落とされた気分でした──。

 これほど数年間、辛い思いに耐え抜いて──ようやく、自分の力をコントロールする術が見つかりそうになった瞬間。いきなり「力が消失する」なんて──そんな酷い話ないじゃないか!
 私は誰にともなく、怒りをぶつけました。

 私に残されたのは、物質と表層的価値観にまみれた「可視世界のみ」でした。
 これがどれほど心細く、どれほど孤独なものか──表現のしようがありません。
 高校時代、恐怖と闘いながらようやくここまで辿り着いたのに──辿り着いて、ようやく助けてくれる存在の手を掴みかけたその瞬間、「その手を放された」ような感覚です。

 私は、自分の中に「力の残骸」を探すのに必死でした。
 しかし、そこに広がるのは何もない空虚な大地で、時折灯が見えたとしても、それは残り火のようにすぐ消えてしまうだけでした。

 突如盲目になった人のような気持ちで──私は、私の力を見抜いた占い師の元に行きました。彼と出会ってから、すでに一年が過ぎようとしています。まだそこにいることを祈って、私はその店に向かいました。
 しかし──彼は、私のことをまったく覚えていないどころか……まったくアテの外れた返答をしたのです。
 それは、私の能力がなくなったからなのか──或いは、彼の能力の限界だったのか、今でも答えは出ていません。

 何も感じられなくなった私からすれば、「あの頃は、幻覚の中で生きていただけなのではないか」という疑念さえ過ぎりました。
 しかし、自分の体感に嘘はつけません。自分で見てきたものは事実だし、味わってきたこともすべて事実だった──そうとしか、言いようがないからです。
 それでも、絶えず疑念は寄せては引き、また寄せては引きを繰り返すばかりです。

 すべては、意識の生み出した産物でしかない──そう言ってしまえば、それまでかもしれない。しかし、この答えは誰にもおそらく出せないでしょう。
 当時の私にひとつだけ言えたことは、「私はもう、可視の世界のみで生きるしかない」ということだけでした。

 そこから、私にとって「現実世界における試行錯誤」が始まりました。
 それは、力が復活する36歳前後──約14~15年近く続いた、新たな試練の時期です。

 当時は非常に辛かったですが──今にして思えば、納得出来ます。

 私は不可視の存在から解き放たれて、一度可視の世界のみで生きることが必要だったのでしょう。
 それまでの私の経験では、この現実世界(可視)における真実も見えなければ、不可視の世界における完全な参入もまた不可能だったのかもしれません。

 大切なのは、可視世界・不可視世界──両者をバランスよく受け入れることなのだろう、そう思います。
 目に見えないからといって闇雲に否定するのではなく、また、目に見えることだけを盲信するのでもない。
 その両者をうまく混合させることこそが、一番の真理に近いのではないか──そう思えます。
 まさしく、陰陽図そのものですね。「目に見えない世界」と「目に見える世界」が、互いにぐるぐると廻っていく──これも一種の二元性、と言えるかもしれません。

 私は21年間、「不可視の存在」と共に生きてきました。
 ですので、その後14~15年にかけて、今度は「可視の世界のみで」生きる必要があったのだろう──私はそう解釈しています。(体験談8に続く)


【お知らせ】
 すみません──、昨日もお休みを頂いてしまいました……。
 メールも相変わらず返信が遅れております。大変永らくお待たせして申し訳ありませんが、今しばらくお待ちくださいませ──。


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【体験談6】伝えられなかったメッセージ

【8月10日19時追記】
 本日、および明日11日は、諸事情により更新をお休みさせて頂きます。
 「体験談7以降」は、12日以降引き続き掲載致します。



【ご注意】
 今回の内容は、心霊現象に深く関わるものです。
 勿論、決してただ単なる負の想念としてや、恐怖を煽って楽しむ的なホラーを目的として書いているわけではありません。当時の私は本当に怖かったですが、でも、真実を知った今となってはとてもせつなく、むしろ口惜しい体験です。
 同時に「死という意味を考える、大きなきっかけになってくれた」と、彼に感謝さえしています。
 「死後」について考えるには大切な体験談と思い公開に至りましたが、感受しやすい方や心霊的な話は苦手という方は、ご遠慮頂いた方がいいかもしれません──。
 何卒、ご自身でご判断頂きますようお願い申し上げます。



 それは、私が高校一年の時──冬休みの前に起きた出来事でした。
 クリスマスもあと数日に控え、私は心なしかいつもより気持ちが浮かれていました。
 長距離の通学において音楽は道中仲間でしたので、私はその日も音楽を聴きながら窓の外を見ていました。

 私は昔も今も乗り物が大好きで、必ず窓際に座りたがる性質があります。
 その日私は、先頭車両の一番前──運転手席の窓から景色を眺める席に腰掛けていたので、ちょっとした特等席気分で外を眺めていました。
 そんな私を乗せて、電車がある駅に着いた時のことでした。
 その駅の先はすぐにトンネルで、小さな踏切をはさみ、またトンネルが続いています。小山の多い横須賀周辺では、このように小さなトンネルがいくつも続くことが多いのです。
 電車が駅に止まっている最中、私は音楽に夢中になりながら運転手席を通して前方を眺めていました。

 ふと、その時。
 トンネル向こうの踏切を、ひとりの少年が渡ろうとしていました。
 少年が何かを確認するような素振りでこちらを向いた際、遠目で私と目が合ったのです。彼がこちらを見ている最中、踏切のまた先に続いているトンネル内には、下ろうとする電車の光が見えました──。

 ──あの子、アブナイことするなぁ。踏切、下りてるだろうに。

 その時は、そんな程度にしか思いませんでした。私はすぐに意識を逸らすと、再び音楽に陶酔します。
 ところが。
 どうしたことか、まったく電車が発車しません。それどころか、にわかに車内が騒然となって、電車の中にいた数人の人達が慌てて外に出てしまったのです。

 ──何があったのだろう?

 さすがに気になった私はイヤホンを外してみましたが、特に車内放送もなく、何が聞こえてくるわけでもないので──諦めて、またイヤホンを耳に戻しました。
 ずいぶんと経ってから、そのまま電車は動き始めました。
「ああ、やっと動いたか」
 そんなふうに思いながら顔をあげた私の前に──異様な光景が広がっていました。

 先程の下り電車が、トンネルの中で停車したままだったのです。
 しかも、運転手席には誰もいません。
 何故、トンネルの中で電車が止まっているのか──何故、運転手席に誰もいないのか。私はよく分かりませんでした。

 私を乗せた電車は、何かを気遣うようにして、ゆっくり車体を動かしていきました。そして、下り電車の最後尾と先頭車両が並んだ時──。

 すべてが、明らかになりました……。
 そこには、先程の少年と思しき遺体があったからです──。
 手も足も、胴体もとどめていましたが──頭部だけが、ありませんでした。

 ──何てことだろう!

 私はまたもや、慟哭したくなるような衝撃に見舞われました。
 しかし、今回はいつもと何かが違うような感覚はしていました。大抵、その直前に何かを感じ取ったはずなのに、私は彼の事故については、「いっさい何も感じなかった」からです。
 当時は、自分が「音楽に夢中だったから」だと思っていました。
 しかし──実はそうではない理由があったということを、後から理解したのでした……。


 翌日の新聞で、その踏切の事故の件が掲載されていました。
 死因は「自殺」とされていました。
 でも、何となく私は踏ん切りのつかない思いも残っていたのです。

 ──自殺をするような人が、確認するような素振りで駅に止まっている電車を見るだろうか?

 私は、彼が轢かれる直前──彼と目の合った最後の人物だったはずです。だからこそ、「自殺をするような人が、果たしてそのような行為をするのかな」という疑問も残ったのでした。
 もっとも、私はそんな自分の考えを「気のせいだ」と打ち消しました。そして、このことはもう忘れよう──それが、彼にとっての一番の供養だ、そうも思いました。


 それから、しばらく経ったある日のこと。
 私は寝ている最中、酷い金縛りにあいました。
 空気はまるですべてに重りがついたかのようにどんよりと濁り、息苦しく、体も動きません。
 いえ、動かない──というよりも、誰かが「のしかかっている」のを感じたのです。
 私は無理矢理、体を起こそうとしました。必死に抗い、意識を出来るだけ明瞭にして「その正体」を突き止めようとしたのです。

 その時、私の目に見えたのは──私の腕を抑えつけている、「誰かの腕」でした。
 二の腕から先は何も見えず、肘から先の部分だけが、ただぐっっと私の腕を掴んで押さえ込んでいるのです。
 しかし、袖口のセーターの色を見た時、消えていた記憶が蘇りました。

 「事故を目撃した少年が着ていたセーターと、同じ色だ!」ということを。

 そして奇しくも──それは、ちょうど事故の一ヶ月後だったのです。
 今となってはそれが何日だったか、明確には覚えていませんが(事故自体は、12月21~23日のいずれかだったのは確実です)──当時ははっきりと、その日を記憶していました。忘れたくても、忘れようがありませんから。

 やっぱり、迷ってしまっているのか。自殺してしまったが為に──。
 私はそう思いました。
 でも、「彼が何を訴えてきているのか」までは、分かりませんでした。
 私はひたすら、心の中で彼に「死んでいること」を伝え、「どうか、安らかに眠れるように──」と祈ることしか出来ませんでした。


 たいていは、一回程度現象が起きても後には引きずらないケースが多いのですが、今回ばかりは続きました。
 それからまた、ちょうど一ヶ月後
 私が真夜中に目覚めたその瞬間──はっきりと少年の声が聞こえたのです。 

「死にたくねぇよ──!」

 それは、どこから聞こえたのか位置さえも分かるほど、明確な「肉声」でした。
 その場で誰かがいるかのように、「聴覚」が声を認識しているかのようでした。
 私は恐ろしくなって飛び起きると、すぐさま照明をつけました。
 部屋が明るさを取り戻した中で、ひたすら祈ることしか出来なかった──それほどまでに、怖かったのです。


 そして、事故からまる三ヶ月がたった日──。
 私は、今までにない、最も恐ろしい体験をすることとなったのです──。

 その日、私は寝ている最中、またもや金縛りにあっていました。
 ですが──今回の金縛りは、いつもと様子が違います。
 しかも、頭が、割れるように痛かったのです。
 体は「金縛りにあっている」というよりも、もう硬化した石のようになって身動きひとつ取れませんでした。

 ──何? 何でこんなに、頭が痛いの!

 しかも、私の周りで何やら声が聞こえます。複数の男性の声でボソボソと、遠くで喋っているようでありながら──でも、彼らが自分の周りを歩いているのがわかったのです。

 ──何? 一体何なの? 何がどうなったのか、説明してよ!

 私はそう叫びたい気持ちでした。
 私の周りを彷徨いている男性達は、何か相談しあっているような様子でした。その一部の声が「自殺か?」「いや、わからない」というニュアンスの話をしていたことも、記憶しています。

 ──もうやめてよ! 誰か、何とかして!

 そう思った──その瞬間。
 私の腕が、誰かに持ち上げられました。まるで、「どこかに運ぼう」としているかのように。 
 その触感は、明らかに「軍手」でした。
 使い古されたような軍手の感触も、私の中ではっきりと認識出来たのです。
 こうした体験で「触感」を味わったのは、この時が初めてでした。

 私はこの恐ろしい体験から抜け出そうと、必死に藻掻きました。
 僅かに光が見えた瞬間、私は自分の意識を呼び起こすと、恐怖が拭えないままの体を引きずって、ベッドから這い出た程です。

 私には、この現象がはっきりと理解出来ていました。
 私は、あの少年の「亡くなった場面」を、追体験させられたのです。
 もうこんな恐ろしいことを繰り返されていては、私もどうにかなってしまう──そうも思いました。
 また同時に、毎月の命日にメッセージを送ってくるというのは、余程何か伝えたいことが彼にはあるのだということも、理解していました。

 でも、私には彼のメッセージを理解するだけの力が、当時はありませんでした。
 まるで、ただの「ラジオボックス」です。
 受信はしても、こちらからの発信や意思疎通は出来ない──。
 私は、何とかしてこの状況をおさめなければ──と必死に策を練りました。

 そして──姉の友人である、霊感の強いAさんのこと(参照:負の想念が力を変えた)を思い出したのです。

 私は姉に事情を説明し、何とかAさんとコンタクト出来る機会を持てないかと相談しました。姉はすぐAさんに連絡を取ってくれ、Aさんが遠隔で霊視した後、再度私に電話してくれる──ということになりました。

 私は藁にもすがるような思いで、ひたすらAさんからの連絡を待ちました。
 それから数時間が経過してから、Aさんからの電話が架かってきたのです。
 Aさんは開口一番、私にこう言いました。

「その子──本当に、自殺なの?」

 私は正直に、「わからない」と告げました。
「自分も疑念はあるけれど、でも、新聞では『自殺』と報道されていました」
 Aさんはしばらく唸った後、こう続けました。
「彼の伝えてきたいことは、私にもあまりよく分からなかったけれど──でも、とにかく彼はひどく『混乱』していたよ。自分に起きたことを理解したくて藻掻いていた時に、霊感の強い由羅ちゃんの元を頼って来てしまったみたい」
「──彼は、どうなったんですか? もう大丈夫なんでしょうか」
「うん。しばらく説得に時間はかかったけれど、彼のおばあちゃんが迎えに来てくれたから、もう大丈夫だよ。これからは、もう由羅ちゃんに出てくるようなことはないから」

 私はその言葉を聞いて、心底安心しました──。
 そして、もうひとつ──ずっと思っていたことを、Aさんに打ち明けました。

「Aさんは、私が子供だった頃、『能力を封じ込めた方がいい』って言ってましたよね? それ、やってもらえませんか? 私はもう、こんな辛い思いをするの──本当に嫌なんです!」

 ──それは、心底の叫びでした。
 もうこれ以上、人の死を見るのも──
 そして、その人の訴えを聞いても「何も出来ない自分」というのも、嫌で嫌で仕方ありませんでした。
 しかし、Aさんから出た言葉は、残念ながら期待に沿うものではありませんでした……。

「もうここまで力が大きくなってしまったら、封じ込めるのは無理だよ。でも、必ず力が安定する時期が来るから、それまで耐えて」

 私はがっくりしてしまいました。
 ああ。一体どこまで、耐え抜けばいいのだろう──と。(しかも、この時のAさんの言葉の意味を、36歳以降になってから知ることになるとは、予想だにしていませんでした。)
 Aさんにも、彼のメッセージは伝わりきらなかったようですが、それでも、あれほどまでにアプローチしてきたということは絶対に何か、言い残したことがあったはずだと、私はそう思っていました。
 それが分からない自分も嫌だったし──「それが理解出来ないぐらいなら、こんな力ない方がいい!」
 どれほど、そう思ったことか。

 目の前で助けを求める人達を助けられないことほど、辛いことはありません。
 誰かがまるで意図的に、「助けられない苦しみ」を私に味合わせているのだろうかとさえ思えました……。


 そして──日々は、再び流れていきました。
 Aさんはその後も絶えず、私の状態を気に掛けてくれているようでしたが、その少年の一件ほど酷いことはなく、また、その体験を通じて私自身も恐怖を乗り越えた(というか、麻痺した──とも言えるのかもしれませんが)部分があったので、小学校時代の苦難の時期同様に、何とか自力ではい上がりつつありました。

 そんなさなか。
 思いがけないところで、すべての真実が明かされたのです。


 それは、高校二年生の冬の時期。たまたま通学路を一緒になった友人と、学校まで喋りながら歩いていた時のことでした。
 その友人が、ふとこんなことを漏らしたのです。

「──もうすぐ、友達の命日なんだ……」

 それは、本当に普通の会話の中でのことでした。
「──そうなんだ。その友達は、同い年?」
「うん、そう」
「──それは気の毒だね。何で亡くなったの?」
「事故で」
「事故? バイク事故か何か?」
「ううん。『電車』──」


 その瞬間。
 私の全身に、電撃が走ったような感覚がしました。
 私は硬直し、何も言えなくなってしまいました。何か直観めいたものが、私の奥底で蠢いていたからです。
 無言になった私を気にとめず、友人は話を続けました。


「警察は、『自殺だ』って言うんだけど──でも、私や他の友達は『絶対にそうじゃない』って、確信してるの。
 だって、彼は幼い弟と妹がいて、病気のお母さんもいて──それを理由に進学を諦めて、一生懸命働いていたような子だったんだもん。
 ちょっと不良だったっていう理由だけで、ちゃんと調べないで自殺にされちゃって──」

 私はそこで、友人の言葉を遮っていました。

「ねぇ──。もしかしてそれ、S駅近くの踏切の事故じゃない?」
 私がそう言った瞬間、友達は愕然としました。
「何で知ってるの!」


 その瞬間──私は通学路の途中にも関わらず、人目も気にせず泣きだしてしまいました。
 突然泣いた私を見て、友人は慌てふためいていましたが──哀しくて哀しくて、仕方なかったのです。
 何故なら、1年経ってようやく、彼が「何を伝えたかったのか」理解したからです。

 でも、そんなじゃ「遅すぎた」のです。
 彼は、伝えたいことが「いっぱいありすぎた」のでしょう。だから混乱し、私にもAさんにも、具体的に何を伝えたいのかがわからなかったのかもしれません。

 彼は、自殺なんかじゃない──明かな「事故」だったのです!
 彼が「確認するように見た」のは、踏切が下りている理由が駅で止まっている電車の踏切だということを確認する為だったのだと、ようやく分かりました。彼はよもや、反対側から来る下り線の電車の為に踏切が下りているとは、思っていなかったのです。
 彼は、「駅に止まっているから大丈夫だ」と安心して──踏切をくぐってしまっただけだったのです。 
 にも関わらず、それを自殺とされてしまったのです。
 残された弟、妹──そしてお母さんの痛みを思ったら、私は居たたまれなくなりました。

 考えてもみてください。突然、家族が亡くなって──その理由が「事故」「自殺」かでは、まったく意味が違うのです。
 遺族にとって、それは「同じ死ではない」のです!
 もしも、自分たちの為に身を犠牲にして働いてくれていた兄が死んだら──弟や妹は、何て思うでしょうか? お母さんは、何て思うでしょうか?
「自殺したのは、『自分たちのせい』かもしれない」
 そう思ってしまうかもしれないのです。

 彼が言い残したかったこと──「自分は、自殺じゃないんだ」というメッセージ。そして、自分がいなくなることで残された家族への想いなど、たくさんのことが詰っていたのです。
 彼の言った「死にたくねぇよ」という言葉──あれは、明らかに「家族への配慮だった」ということが、ようやく分かったのです。
 自分が死んだら、残された家族はどうなる?
 そんな想いがあったら──死んでも死にきれません。
 あれほど強いメッセージを私に送ってきたのは、当然のことだったのです。

 にも関わらず。
 私は、彼の追体験をしたのに──それを見抜けなかった……。
 私は、自分の鈍感さにも本当に嫌気がさして──悔しくて、そして哀しくて、涙が止まらなくなったのでした。

 突然泣き出した私に対して、どうすればいいのか分からなかった様子の友人でしたが──私は、思い切ってすべてのことを話しました。
 そして、はっきりとこう告げたのです。

「彼は『自殺じゃない』。明らかに『事故だった』んだよ。彼はそれを、私に告げたかったんだ──」と。

 友人は、しばらく無言のままでした。
 その友人は優等生で、理性で受け入れられるもの以外は信じない──というタイプの人でした。
 そんな彼女が、私にこう告げたのです。
「私……今まで、こうした心霊の話とか聞いても絶対に信じられなかったけれど……今の話は、すごく信じられる気がする。
 確かに、友達は自殺じゃないんだって──それが分かっただけでも、本当によかった……」と。
 私は、友人に「是非、彼のご家族にそのことを告げて欲しい」と言いました。
「自殺じゃない、事故だったんだよ」ってことを──。


 友人がそのことをご家族に告げたのか、私はあえて確認はしませんでしたが──でも、決して「悪いようにはなってないだろう」そう信じたいです。
 友人から聞いた彼の生き様は、本当に素晴らしいものでした。不良と呼ばれる存在ではあったものの、とても優しい人で、絶対に弱い者虐めをしたり乱暴をするような人ではなかったそうです。
 しかも、とても家族思いの、暖かい人でした。父親がいなくて病気がちのお母さんの代わりに、自分の進学を諦めて中卒で働いて、そんな中、幼い弟と妹の面倒をみていたなんて──本当に、今思い返しても立派だと思います。
 彼はきっと、今はもう不可視の世界で幸福な人生を送っているに違いない──私はそう、確信しています。

 もし「肉体が死んだら、すべて終わり」なのであれば──私がしたような体験は絶対に、起こりえなかったでしょう。
 もし、私のした体験が「ただの幻覚」だったのならば──よもや、友人の証言と一致するようなことは起こらなかったでしょう。
 彼は肉体を失った後も「尚」存在し、そして、私に「メッセージ」を伝えてきていたのです。

 死んだからって、終わりではないのです。
 むしろ、「そこから先の方が本番だ」と、私はそう思っています。
 その「本番」でどういった世界に行くかを決める為に、私達は今、この世という修行の場に来ているのだと、私はそう解釈しています。
 だから、どんなに辛くても「生きた方がいい」──。
 私は、死んだ後の世界が「どのようなものか」もこの目で見てきたから──そして、未練や負の想念を残して死んでいった人達の世界がどのようなものかも見てきたからこそ、実感してそう言えます(この体験は、また後日UPします)。

 修行は、どんなものであれ「辛くて当然」なのでしょう。
 むしろ、「辛い体験を笑って乗り越えられるようになる為に、自分たちはこの世に生を受けたんだ」──そう思った方が、私達にとって生きる勇気に繋がるように思えます。(体験談7に続く) 


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【体験談5】「死」と対面させられた高校時代

 高校進学先を決める際、「ゆくゆくは、地球の役にたてるような進路」を願っていたのと同時に、私は「家庭環境から解放されること」も強く望んでいました。
 私の父は、子供を「自分の思い通りにさせないと気が済まない」というタイプの人でした。
 長女だった姉などは、本来自分が進みたかった道とはまったく違った道を、否応なしに無理矢理受験させられていた程です。
 私は、両親が姉を雁字搦めにしているのを見て育っていたので、「自分は絶対に、そうされたくない」と思っていました。
 姉は両親に従順でしたが、私は徹底的に反抗しました。親の言いなりにしかなれない人生なんて、まっぴらご免だったからです。
 それは完全に「親のエゴでしかない」とも思っていました。
 本来の親の正しい愛は子供を自立させることであって、言いなりにさせることでもなければ「子供の人生を勝手に決めること」でもない──そう私は感じていたからです。
 私が望んでいるのは「私の将来」であって、「親の将来」ではありません。親の締め付けがどんどん厳しくなっていく中で「親の手の届かない遠くへ行きたい」と、私は強く願うようになっていました。

 そんな中、「ある高校に寮制度がある」という噂を聞き伝手ました。
 しかも、その高校は普通科でありながら看護科も学べるという高校で、日本でも有数とされる特殊な学校でした。また、受験制度も「ひとつの中学校からひとりしか受験出来ない」という、変わったシステムになっていました。要するに「内申書による推薦がある生徒以外、受け入れない」という姿勢です。

 今となっては「寮」という文句に吊られたのか──もしくは「看護師になれば、アフリカなどの地域に海外派遣される可能性も高い」と思ったのか、どちらが動機かは不明瞭です。
 ……でも、おそらく前者の理由の方が割合は大きかったでしょうね。
 父親も、その進学先については承認してくれました。
 父親が本来描いていた子供の将来は、「医者か教師だけ」だったのです。それ以外の将来は、すべて「NG」でした。
 でも、看護師というのも「将来的にも経済的にも安定しているから」という理由で、許可がおりたのです。呆れる程に打算的理由でしかありませんが、ひとまず私は自分の要望(親の望むものとは、まったく違う要望ですが)が通ったので、一安心でした。

 私以外にもその高校を目指したいとする生徒は大勢いましたが、幸いにも私は、その中学校からひとり選抜してもらうことが出来ました。
 ただし、残念なことにその学校の寮は附属の短大生のみが使用出来て、高校生は使用不可だ──ということが分かったのです。
 それでも、学区内の高校に通うよりは遙かにマシだと、私は思いました。
 父は高校の教師だった為、学区内であればどの高校に行っても父を知らない人はいませんでした。そんな環境で過ごすぐらいなら、寮がなくても「父親のことを誰も知らない、遠くの学校がいい」──そう思ったのです。

 こうして、私の遠距離生活が始まりました。
 その高校は神奈川県のほぼ中心(横浜市内)に位置していた為、電車を40分以上乗った上でさらに乗り換えて20分近くかかります。今まではほとんど電車など乗ったことのない私にとって、これは大きな日常の変化でした。

 そんなある日のことでした。
 私はいつもと変わらず、ラッシュの中で椅子に座りながら、窓の外を眺めていました。
 その時、何か車内放送が流れたようでしたが、私は音楽を聴いていたのでちゃんと聞こえていませんでした。別段特に気にせず、そのまま外を眺め続けていたところ──突然、異様な光景が目に映ったのです。

 まだ駅にたどり着く前だというのに、何人もの駅員の人達が線路の周りを右往左往していました。
 反対側を走る下りの電車は中途半端な位置で止まったままで、どことなく緊張感の漂う雰囲気だったのです。
 そして──その脇には……鮮血に染まった「人の遺体」があったのでした──。
 シーツがかけられていたのですが、風で飛んだのか──或いはきちんと直視出来ずにかけたのか、ほとんど露出していたのです。
 それは、哀しくも──人としての姿を、まったくとどめていませんでした……。
 男性か女性かさえも、全然分かりません。

 私の中で、一瞬にして悲痛な想いが過ぎりました。
 もう二度と、こんな光景は見たくない──強くそう思ったのです。
 ところが──私は、それ以来何度も、そうした場面に遭遇するようになってしまいました。
 まるで「死の意味を知れ」。そう言われているかのように──。

 私と同じように、遠距離通学のクラスメイトは大勢いましたが、私のように、頻回にそうした人身事故が起きた現場に出くわすような人はいませんでした。
 そして、私はただ現場に出くわすだけではなく──まだ死にきれていないと勘違いしている霊達のことも、目撃するようになりました。
 いわゆる「心霊」というものに対しての感受性が、大きく開かれてしまったのです。
 中学時代の三年間は無難に過ごしていたものの、高校時代以降私が出逢う不可視の存在達は、何かしらこの世に未練を残していたり、或いは助けを求めている存在ばかりになってしまったのです。
 それは、私にとって「死」と対面することを意味しているかのようでした。
 生前、死の意味を深く考えず──或いは「生命の本質の意味」を考えないで亡くなった人達の多くが、私にすがってきました。
 しかし、私はただの高校生です。
 除霊も出来なければ、供養も何も出来ず──ただただ、恐怖に怯えることしか出来ません。
 助けてあげたくても、彼らに私の声は伝わらないのです。お互い、一方的な会話の投げ合いだけをしているような感じでしかありませんでした。
 
 自殺は、ただ「自分を死なせる」だけではない──ということも、よく分かりました。
 周りの家族、身内、発見した人、色々な人達に、影響を及ぼすものなのだということも。その当時、私は遺体の第一発見者にもなっていた為、身内である奥様の痛みを思うと、「亡くなられた本人だけが辛いんじゃない。『残された方』だって、同じように辛いんだ」ということを、考えずにはいられなかったからです。(参照:無意味な法律は、魂のコミュニケーションまで奪いかねない

 今、日本は自殺大国と言われてしまっていますが、「こころの戦争状態」なのだと、そう思えます。
 日本は紛争もなければ、飢餓もありませんが──「自殺に追い込まれる命が多数ある」ということは、「精神という内側で、紛争が起きている」のと大差ないのではないでしょうか?
 何故、このような悲劇ばかりが、繰り返されるのでしょう──。
 きっとその理由は、あまりにもこの世界で正しく生命と死の意味が語られていないからなのだと、私はそんなふうに思えます。
 戦争が終わった後、日本は高度経済成長を経て奇跡的な経済復興を経ましたが──その一方で「大切なこころ」を置き去りにしてきてしまったのかもしれません。
 それは、「生命を慈しむ」というこころ──。

 生命は、宇宙から授かった大切なもの──大切な地球の一部です。
 それを、「辛い」というだけで捨ててしまうようなことがあってはいけないのだと、そう思えるのです。
 人がひとり自殺すれば、その分だけ地球を自殺に追いやっているんだと、そのぐらいの危機感を持って、もっと社会全体で自殺増加を食い止めるべきだと、私は本当にそう思います。

 昨日、偶然か──或いはサインのひとつだったのか、こんな記事を見つけました。

自殺者、11カ月ぶり増加

 私は、こうした報道を何度繰り返しても「結局、自殺者を止められない現状」の方に疑問を抱いているので、記事そのものには注目していませんでした。──が、目をとめたのは「コメント欄」の方です。

「その人間が死ぬ事で苦しみから解放されるならば、自殺してもいい」

 その考え方こそが、「間違った死の概念から来た考え方」ではないでしょうか?
 自殺する多くの人は、苦しくて──現実世界から逃げたくて、死ぬのはよく分かります。
 その辛さも、私自身が辛い人生を歩んできたからこそ、痛みもよく分かります。
 でも、だからこそ、現実世界だけがこの世界ではないということを、知って頂きたいのです。(私は今後、そうした「死後」についても、論理的に証明出来る方法を試みようと思っています。)
 この世界がどういう世界であれ、そのこと自体に意味はなく──「そんな苦悩の世界の中で、如何に理想的な生き方を目指すことが出来たか」。
 このことの方が遙かに尊いことだと、私には思えるのです。

 私は、何度も死と対面してきました。
 その中で、数々の霊障も受けました。
 そうした霊障を受けると、「自分も自殺したくなる衝動」に駆られるのです。
 これがどれほど恐ろしいものか──何て表現していいのか、わからない程です。
 確かに、現実社会は苦しいです。
 辛いです。
 でも、辛さばかりに注目しても、何も変わりません。
 それならせめて、「このおかしな社会を変えていこう」ということへ目を向けていった方が、遙かに建設的です。
 そうでなければ、同じ悲劇を何度も何度も、繰り返すしかなくなってしまうからです。

 今は、自殺に対するNPOなども多数あって、一部の人達が真剣に「自殺を食い止めよう」と働きかけていますが──おそらく「一部だけでは、足りない」のでしょう。
 社会全体が一丸となって、この問題に取り組んでいくしかないのだと──そう思えるのです。
 どんなに一部のNPOの人達が頑張っても、社会の中でエゴを突出させた人達も存在する以上、悲劇は繰り返されていくでしょう。
 本当に、ひとりひとりの個人レベルで、この問題と向き合っていくしか──解決法はないのかもしれません。

 私がこれほどまでに、自殺という問題に向き合うようになったのも──こうした「死と対面した時代」があったからこそかもしれません。
 そして、死に対する正式な理解というものがないからこそ、人は容易に命を投げ出すのでしょうし、同時に「亡くなった後、どこへ行けばいいのかわからずに迷う存在になってしまう」ということを、痛感させられたからかもしれません。
 私は、数多くの「どこへ行けばいいのかわからずに、迷う存在」を目の当たりにしながら──でも、「何もすることが出来なかった」のです。
 助けたくても、助けることが出来なかった。それが、どれほど口惜しいことか──。

 そして──そんな中で、私の人生の中でもっとも哀しく、無力を痛感する事件が起きてしまったのでした。(体験談6に続く)


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【体験談4】「エゴ」を知った小学時代と、「地球への愛」を知った中学時代

 私の小学校五・六年の時代は、本当に最悪な時期でした。
 楽しい想い出は何ひとつなく、苦痛な想い出ばかりです。
 その年代になって私は初めて「エゴ」というものを知りました。
 勿論、エゴという言葉で自覚していたわけではなく、人という存在は、虐めや排他的になることで「楽しみを味わう」ケースがあるということを目の当たりにさせられたのです。
 例えば、どんなに善意でしたつもりのことでも、無視をされている対象の人がした行為であったら「ありがとう」は禁句で、むしろその善意に対して「重箱の隅をつつく」のです。
 
 私が体験したことで、こんなことがありました。
 ある女子の筆箱(当時は「カンペン」と言って、鉄のケースで出来た箱に可愛い絵柄がプリントアウトされている筆箱が流行っていました)が、男子達に蹴飛ばされていたのです。
 私はクラス中の女の子からは無視やリンチ(放課後、無理矢理残らされて、あらゆる悪口、暴言を目の前で吐かれるのです。それも、数時間に渡って──)をされていても男子からは嫌われていなかったので、私がやめるように言うと彼らはすぐに従ってくれて、筆箱を私に渡してくれました。
 しかし、床でさんざん蹴られていた為、その鉄製で出来ている筆箱には細かな傷が残ってしまっていました。それでも、もっと酷いことになるよりは──と思い、私はその筆箱をクラスメイトに持っていきました。
 その子は瞬時に顔色を変えて、「傷がついてる!」と叫びました。
 「さっき、男子達が蹴っていたから──」と私が理由を述べると、さすがにその子は「ありがとう、止めてくれて」と言ってくれました。
 ところが──それから数分後。
 その子の所属するグループのリーダー格の子(当時、私に率先して嫌がらせをしていた子)が、数人の女子を従えて、私のところにやってきたのです。

「何で、あの子の筆箱をもっと早くに取り返してあげなかったのよ!

 ──明らかな程の言いがかりでした。
「気がついた時、すぐに止めたよ」
 私はそう言いましたが、彼女は息巻いてこう言いました。
「本当は、わざと気付いていて蹴らせていたんでしょ! 自分が良い子ぶりたくて! もっと早くあなたが止めていたら、筆箱は傷つかなくて済んだのに!」

 ──私はもう、怒る気にもなれなければ、哀しむ気にもなれませんでした。
 彼女が明らかに理屈をつけて、私を責めたがっているだけというのが、理解出来たからです。
 その子の横をみると、筆箱の持ち主は多少申し訳なさそうな顔で、その場に立っていました。私に対して、罪悪感があったのかもしれません。

 人間とは、本当に残酷なものです。
 とくに、理性や体裁のないうちは、果てしなく「残虐な行為」に出るものなのかもしれません。
 それは「依存心」と同じで、自分で自覚して止めないうちは、とめどもなく、衝動として出てしまうものなのかもしれません。
 祖母の、祖父に対する嫌がらせや虐めを毎日見ていた私にしてみれば、「こういう行為は、人間の基本欲求の中にすでに含まれているのかもしれない──」そうも思えたのです。

 もっとも、そうなってしまったのは、彼女たちだけの責任ではありません。
 祖母も、理由もなく祖父に嫌がらせをしていたわけではなく──自律神経失調症という病気や、また、実際祖父が若い頃は祖母に迷惑をかけていたその蓄積した恨みからなどで、そういう行為に及んでいたからです。
 同様に、彼女たちもそうした行為に出る「理由」があるというのを、私は子供心に分かっていました。何故なら──その子の母親を見れば、「何故、その子がそういった理不尽な虐めをするか」がすぐに分かったからです。
 大抵、そういう家の子のお母さんは異常な程教育熱心で、そして「うちの子に限って」の典型例だったのです。(特に、私の育った世代、私の住んでいる地域は、教育ママが非常に多かったのです。神奈川県は全国偏差値も高い方で、とにかく進学、とにかくお受験の風潮が、全体的にありました。)
 おそらく──無自覚の中で「ひどいストレス」と「プレッシャー」を、子供達は感じていたに違いありません……。
 私は、子供心に彼女達に同情をおぼえ、「どれほど、家庭というものが子供に影響を与えるのか」を実感した時期でもありました。私も、祖父や不可視の存在がなければ──おそらくは、彼女たちと大差のない人間になっていたのかもしれないのですから──。

 そんなふうに現実世界のエゴを知る一方で、不可視の存在はほとんど見えなくなってしまいました。
 11歳の時に「女性の霊」を見た後、しばらくの間は体験数が激減しました。おそらく、現実世界があまりにも辛すぎて、私の意識が三次元に囚われていたからなのでしょう──。
 次第に私は、そうした不可視の存在のことから意識が離れていき、「如何に、現実世界を問題なく生きるか」に意識が向くようになってしまいました。
 何故なら、「毎日、何かしらのトラブルや問題」があったからです。

 そんな地獄のさなかでも、私は決して登校拒否などにはなりませんでした。
「学校は戦場だ」と理解しつつも、乗り越えなければならない──と自覚していたからです。
 それに、登校拒否になったところで、家庭環境にも「逃げ場はなかった」のです。
 どちらにせよ、辛い環境の中で、私は「闘い抜く」ことしか、出来ませんでした。

 そうして、地獄のような二年間が過ぎ去った後、私は中学校に入学しましたが──ありがたいことに、問題ばかりの小学校時代を送ったクラスメイトとは違う中学校に行くことになっていました。
 その新しい小学校は、中学校と並んで二つ出来ていたので、本来であれば小学校の全員がその中学校に行く予定だったのですが──よく分からない理由で、その小学校のこれまた「ほんの一部」の生徒達だけが、隣にあった中学ではない「別の中学」に行く羽目となったのです。
 私は恵まれたことに、その「一割」のひとりでした。また新しい人達と出会うことになるわけですが、何故か不安はありませんでした。
 それどころか、「きっと楽しくなるに違いない」──そう思っていたのです。

 その予感は的中し、その中学校は小学校の時の地獄が嘘のようでした。
 一学年700人というマンモス校でしたが(全学年ではありません、一学年だけです。全体を合わせれば2000人ぐらいいたでしょう)いじめ問題もほとんどなく、目立った不良もいない、無邪気にみんなで和気藹々と楽しめるような、素晴らしい環境だったのです。

 地獄の二年間を乗り越える最中、不可視な世界と距離を持ってしまった私は、すぐに環境が変わった後再び関係性を戻せたわけではありませんでした。
 それどころか、地獄から天国にいっきに上ったような感覚だったので、現実世界も楽しくなってしまい、そちらに意識が向くようになっていたのです。

 勿論、霊的な体験がまったくなかったわけではありません。
 まるで「忘れないでね」という確認をするかのように、時折、そういう現象が起こることはありました。しかし、別段背筋が凍るような怖い思いをしたわけでもなく、ごくごく普通に、中学時代を過ごすことが出来たのです。(とはいえ、中学時代に体験した数々の出来事も、非常に説明のつかないものばかりでした。これはいずれ、別記事の体験談集としてUPします。)

 私の中学時代における最も大きな変化は──むしろ、直接的な体外離脱や不可視の存在を見ることよりも「夢」で象徴されることが多々ありました。
 中学生時代の私は、不眠症で悩まされていた頃の自分がまるで嘘だったように、やたらに寝てばかりいる子でした。
 今でも不眠症の自分は──当時の自分を振り返るに「何でこう、私は極端なんだろう??」と首を傾げずにいられないのですが──とにかく、眠くて眠くて、いつでもどこでも、眠れるような子供になっていたのです。それどころか、ご飯を食べている最中、お茶碗を持ったまま「居眠りしてしまう」なんていうこともあったぐらいです。

 そして、そうした夢の中で──私は決まって、美しい大自然を見ていました。
 今思い返しても、「何故、あの頃集中的に『地球の自然』を味わうようになったのか」の、理由は分かりません。別段、そうしたドキュメンタリーを好んでよく見ていたわけでもないのです。
 にも関わらず、あの頃見る夢は、決まって大自然の夢でした。

 私は夢の中で、大抵、無自覚に空を飛び続けているのです。
 そこに、私の自我はなく──自意識もないので、大自然を見てもただ「記憶しているだけ」です。
 海の上を飛んでいったり──アマゾンのような大森林の上を飛んでいたり、そうかと思えば、草原の上を走るインパラの群れを眺めていることもありました。

 そこには無数の生命があり、生命のないものは「皆無」と言えるぐらいの、自然あふれる世界だったのです。

 私は、自分が流れる雲になったかのように思えていました。
 当時の私は、夢の中でどこにでも行けたのです。
 見たことのないような変わった建造物を記憶したこともあったのですが、後からそれは「マヤのピラミッド」だったということを知ったりしたこともありました。

 そんな夢から刺激を受けて、いつしか私は「地球への愛」を抱くようになったのでした。

 勿論、私が地球に思いを馳せたのは、この時が初めてではありません。
 私が実際に地球の映像を初めて見たのは、7歳の時──宇宙博での会場でしたが、その美しさと、碧と緑が色混ぜられたビー玉のような愛らしい星に、言いようのない想いを抱いたのを覚えています。
 幼少期の頃も、私は地球儀が大好きな子供で、部屋を暗くしては懐中電灯を地球儀に照らし、その光の当たったところを「太陽の光が当たった昼」と仮定して遊ぶのがお気に入りというような子供でした。

 その頃の私は、宇宙と──そして、地球が大好きでした。
 小学校五・六年の頃に味わったエゴの地獄によって、すっかりそのことを忘れていましたが──再び、それを思い出したのが中学時代だったのです。
 そして、漠然と「地球の為に、何か役立つことをしたい」と思い始めたのも、ちょうどこの頃からでした。

 とはいえ、対象があまりに大きいので、何をしていいのか分かりません。
 その為、私は「アフリカに行って、砂漠化した地域を再び自然豊かな大地にすることが出来ないだろうか」などという突拍子のないアイディアを持ち、実際に図書館で「砂漠」について調べたり、植物の育成方法について調べたりしていたのだから、呆れたものです(笑)。

 その頃、私は中学校三年生に差し掛かっていたので、進路を決めなければならなかったのですが──「地球の役にたてる進路を選びたい」という思いしかありませんでした。
 もっとも、当時は国際学部もなければ環境学部もない時代だったので、私が具体的に進めるような学部は「皆無」といって等しかったのですが──。

 中学時代は比較的、私の不可視を感じ取る能力も安定していた頃でした。
 霊が見えることがあっても、その霊が強く私に何かを要求したり、憑依するようなこともなかったので、不可視の存在の「人間に近い版」と勝手に自分で認識するに止まっていました。

 そうした安定した時期は、中学の三年間続きましたが──高校に入った途端、再び能力は一気に暗転し、私の人生において今度は現実世界ではなく、不可視の世界で「辛さを味わう時期」が、始まってしまったのでした……。(体験談5に続く)



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【体験談3】負の想念が力を変えた

 幼少期の私にとって、不可視の仲間達は「心の支え」でもありました。
 おそらく、彼らの優しさなどを感じ取りながら、私は「体験談2」で書いたような「自己犠牲の本当の意味」を感じ取ることが出来たのでしょう。

 でも、実際の現実世界においては──私は本当に「孤独な子供」でした。
 唯一、祖父だけが私にとって大好きな存在でしたが、家族の中で誰ひとり、甘えられる人はいなかったのです。
 祖父は信心深い上に、とても心の優しい人でした。植物を愛し、その育成を楽しむような人でもありました。祖父が趣味でやっていた菜園に遊びに行くのは、子供時代の私にとって本当にささやかな喜びだった程です。
 しかし、その祖父を祖母は陰険な程に「嫌がらせ」──虐めをしていました。
 後から分かったことですが、祖母は自律神経失調症で、それが原因のヒステリック(あと、おそらく更年期障害もあったのかもしれません)を持っていたようです。それが理由か、或いはもともと祖母の気性の荒さもあったのかもしれませんが──祖父と、その祖父を慕う私に対して、冷たい仕打ちを繰り返すことが多々あったのです。

 当時、私の家は祖父の実家が資産家だった関係もあり、とても物質的には恵まれた家でした。(祖父母は母方です。父は婿だった上、実家は新潟の為、父方の親戚とはほとんど無縁でした。)
 お金も物も、いくらでも恵まれていたのですが──「こころ」と「愛情」にはまったく恵まれていないという、対称的な家だったのです。(家族でどこかに遊びに行くこともなければ、クリスマス会、お誕生会なども「いっさいない」ような家庭だったのです。)
 だからもし、私が不可視の存在と出逢うことがなければ──私は「優しさ」や「思いやり」を、祖父からしか学ぶことが出来ず、非常に心細い思いをしたことでしょう。
 しかし、不可視の存在がいてくれたおかげもあって、私は相乗効果で祖父の優しさを実感することも出来、「人にとってもっとも大切なのは、『物質的な価値』ではなく、『こころ』や『思いやり』なんだ」ということを知ることが出来たのです。

 家庭環境には恵まれなくても、そんな裏背景があったから不安はさほどありませんでした。
 勿論、夜の不可思議な分裂現象はともかくとしても、それでも、その頃は「怖いもの」というもの自体、まったく見えていなかったのです。
 また、当時の私は意図的にものを動かすという遊びも、普通にしていました。
 例えば、ベッドの中に入って「蛍光灯についた紐」を見つめます。見つめているうちに、それが次第に横揺れを起こし、ぶらぶらと自在に揺らすことが出来たのです。
 それは、眠りにつく前にやることがなくて布団に入ったままの私にとって、唯一の「遊び」でしかなく、それが「念力」とか「超能力」だのと言われていることを知ったのは、だいぶ後になってのことでした。

 そんなある日。オカルトブームのさなかで、「ユリ・ゲラー」のスプーン曲げが話題になりました。
 私は当時、ユリ・ゲラーにはまったく興味を持っていませんでした。(今でも、そうした超能力だのといったものには、いっさい興味がありません。)
 しかし、その頃は非常に流行っていて、クラスメイトの誰もがその話をするような時代だったのです。中でも、一番親しくしていた友人が「ユリ・ゲラー」にはまっていて、私に一生懸命「どういう経緯で、スプーンが曲がるのか」を説明してくれたのです。

「あのね、スプーンの先をこう持ってね、こすりながら『曲がれ曲がれ』って思うんだって。そうするとね、簡単に曲がっちゃうンだって!」

 私はその話を聞きながら、半信半疑でした。でも、「もしかしたら、私にも出来るかもしれない──」そう思ったのです。
 私は自宅に帰った後、こっそりスプーンを持ってきて実際に試してみました。
 すると──確かに、「曲がった」のです。
 最初は気のせいかと思いましたが、他の正常のスプーンと比べると、明らかに大きく歪んでいました。
 私は面白くなって、次から次へとスプーンを曲げて行きました。一回目よりも、数回重ねてからの方がだいぶ曲がるようになったのです。
 しかし──これは、絶対に隠しておかなければなりませんでした。
 何故なら、調子にのって10本近くのスプーンを、曲げてしまったからです……。
 当然、その日を境に親は「あれ? どうしてスプーンがこんなにないのかしら?」と訝しがっていましたが、私はひたすら内緒にしていました……。
(後日談ですが、私は絶対に親にバレてはまずいと思い、曲げてしまったスプーンを鍵付の引き出しに隠しておきました。ところが、18歳になって家を出た後、親がその机を処分する際、折れ曲がったスプーンがいっぱい出てきて、かなり肝を潰したそうです──)
 
 今でも、こうしたスプーン曲げについては「トリックがある」だの「合成だ」だの言われているそうですが──自分が実際にやっていたから、「トリックではない」という確信があります。
 ただし、これは本当に「純粋に信じられる人」しか出来ないのかもしれない──そう思いました。
 だから、例えばそれで売れてしまったが故に「スタンダードに、要求されるごとにスプーンが曲げられるか」といえば、答えはNOだと思います。
 本来、子供であればある程、そうした能力は普通に持っているのかもしれません。大人になって、見栄だの賞賛だの、プライドだのが見え隠れするようになると、そうしたことは「三次元の枠」にはめられて、困難になってくるのかもしれません。
 だから──超能力少年にしても、ユリ・ゲラーにしても、もともとは「そういう行為が出来た」のだと思います(もっとも私は、これは「誰にでも出来るものだ」と思っています)。
 でも、あまり表舞台に出ることが頻回になったせいで、余計な三次元の概念に囚われてしまい──出来なくなってしまったのではないか、そんな気がするのです。

 私自身、その頃はスプーン曲げだけでなく、いわゆる「透視能力」というのもありました。
 勿論、私自身はそういった自覚があったわけではありませんが、トランプの神経衰弱をすると、大抵の数字が「浮き上がって見えているように感じた」のです。勿論、「いつでも大勝ち」していました。
 そのことを姉に不審に思われ、理由を尋ねられた為、正直に答えました。姉は驚いて、色々と透視の実験をさせられる羽目となったのです。
 そのほとんど──9割以上が正答していたのを知り、姉はさらに驚いていました。そのことを、当時、姉の友人で非常に霊能力のあった人に話したそうです。

 その女性を、仮にAさんとしておきましょう。
 Aさんは非常に霊感が強く、手のひらにコインを乗せて「この中に、今から霊を封じ込めるよ」と言った後、そのコインを自在に動かすことが出来たそうです。
 姉も、自分の手の上でコインが勝手に動くのを見て、とても驚いた──という話をしていました。
 Aさんは、私のことを見た時から、「非常に霊感が強い」と感じていたようでした。
 それで、姉の話を聞きながらAさんは「由羅ちゃんはとても霊感が強い。でも、あのままではとても力が強くなりすぎて、危険な目に遭いやすい。今のうちなら、まだあの子の力を封じ込めることが出来るから、そうした方がいいんじゃないか」と言う話をしたそうです。
 姉からその話を聞いた時、私はまだそんなに怖い目にあったことがなかったどころか、むしろ「不可視の存在に、慰められてきた」ので、力を封じ込められてしまうのはかえって淋しいことでした。
 それに、スプーン曲げにしろ透視にしろ、私にとっては「面白い遊び」でしかなかったので、それを取り上げられるのも嫌だと、そう思ったのです。
 だから、私はそのAさんの申し出を断りました。

 ですが──後から、Aさんの申し出の意味を、痛感することになりました……。
 私はその時断ったことを、「心の底から、後悔するような事態」に陥ったからです──。

 私のそうした能力が少しずつ変化してきたのは、11歳前後の頃のことでした。
 実はその頃、現実生活の方にも多少の変化があったのです。
 まず、9歳の頃──小学3年生以降、私は小学校を移動することになりました。
 1・2年生の時は、自宅から歩いて20分ほどの学校に通っていたのですが、3年生以降になって、歩いて10分ほどのところに新しく小学校が出来たからです。
 その小学校に移動したのは、前の小学校のクラスメイトでも数名しかいませんでした。限定された地域の子と、あとは違う小学校に通っていた人達の大半が、その新しい学校に入ることになったのです。
 私は前の小学校が大好きだったので、変わりたくありませんでした。しかし、決まってしまったものは仕方ありません。
 自分たち以外のほとんどの人達はみな、同じ小学校から来ている為、学校移動とはいえ、何だか転校に近い感覚もありました。それでも、親しかった数名の友人と、それなりの学校生活を送ることは出来ました。

 ところが、小学校5年生以降になってから──急に、クラスで「虐め」や「リンチ」が流行始めたのです。
 ただでさえ、高学年の子供達というのは大人の残酷さを少しずつ担い始めている部分もあって、そういう虐めが流行るものですが、特に私のいたクラスは酷くて、毎日誰かしらが無視され、リンチされ──という状況でした。
 また、そのクラスになってから、大人でいうところの「派閥」が出来るようになりました。
 Bちゃんのグループだの、Cちゃんのグループだの──そして、別グループの人とは「遊んではいけない」という理解不能なルールまであったのです。

 私が、そういうのを「くだらない」と思うタイプの人間であるのは、皆さんもご存知の通りです。
 私は、そういう人間関係の愚かさに辟易していました。
「何故、同じクラスになった者同士、みなで楽しく遊べないのか」理解出来なかったのです。女子だけで言えば20名弱しかいないひとクラスの中で、何故、そんなくだらない派閥なんて存在するのでしょう?

 そう思っていた私は、気にせず「誰のグループにも所属せず」、誰とでも仲良くすることを心がけていました。
 また、当時「クラス中から無視されていた女の子」がいたのですが、その子とも普通に接していました。「無視する理由」なんて、どこにもないからです。

 そんなある日──私は、クラス中の「誰からも」口を利いてもらえなくなりました。
 私のことを「八方美人だ」と批判した人達から火種があがり、私が今度は「無視のターゲット」になったのです。

 私はもともと、誰とでも仲良くなれる反面、「ひとりでも平気」という精神の持ち主でした。家庭環境が恵まれていなかった分、「ひとりでいることには慣れっこ」になったという、幸か不幸か「精神が鍛えられていた」からでした。
 しかし、そうはいったところで「向けられる負の想念」というのは、とても苦痛なものでした。しかも、私は「何も、悪いことはしたつもりがない」──それどころか、「正しい」と思ったことをしてきたつもりでしたから。

 勿論、こういう状況を家族に相談出来るわけはありません。
 私は「たったひとりで」、この家庭環境と、クラスの環境に立ち向かっていかなければなりませんでした。
 そうしたストレスからでしょうか。
 それとも、そうした環境の中で、徐々に私の中にも「負の想念」が溜まっていったからでしょうか。

 ある日を境に──私は、物を自在に動かすことも出来なければ、透視能力も「なくなってしまった」のです──。

 コーニは、回数は減らしていたものの、時折遊びに来ていたのに──いっさい、遊びに来てくれなくなりました。
 不可視の存在も、体から抜け出て美しいところへ行く体験も、一気に回数を減らし、見るのは「悪夢ばかり」になったのです。
 そうではない、別の力が、私の中で目覚めてしまったのです──。

 それは、ある夏の夜のことでした。
 喉が渇いた私は、真夜中でしたが体を起こして、麦茶を取りに行こうとしました。
 その時、タンスの前に「不自然な光」が見えたのです。
 光──。
 いえ、「靄」ですね……。
 決して、私が今まで見てきたような「美しい光の存在」ではなかったのです。

 その靄は、タンスの前で蠢いていましたが──やがて、「うつむいた女性の姿」になって浮かび上がりました。
 その女性はとても哀しげで、同時に、何かを恨んでいるような姿だったのです。

 それは、私が産まれて初めて見た「霊」とはっきり言える存在でした。
 私が嫌いで見てこなかった「あなたの知らない世界」とか、「心霊写真特集」とかに出てくるような──ああいう番組で扱われるようなおどろおどろしい女性の姿が、私の目に見えたのです。

 私は、とても恐ろしくなってタオルケットを頭から被りました。
 喉の渇きなんてすっかり忘れて、とにかく「早くいなくなって!」それだけを願いました。
 
 その日を境に、私の能力はすっかり「変化」してしまいました。
 それは、私の能力がまったくなくなる21歳の時(その後、36歳で復活)まで、続くことになりました。
 そして──それは「恐怖の序の口」だったことを、後から私は嫌というほど、実感することになりました。

 そう。Aさんの助言どおり──私は、あの時「力を封じ込めてもらうべき」だったのです……。(体験談4へ続く)



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【体験談2】「自己犠牲」の本当の意味を知る

(※この体験談の目的は、「何故、私が地球の高次元化(アセンション)を目指すようになったのか」についてのご紹介をしたい為、体外離脱や特殊能力、霊感の体験談以外のこともお話したく思っています。次回「3」で、また詳しく((既存的には))超常現象と言われるものについての体験談をご紹介します。)

 不可視のものが見えていたり、「夢の記憶」と「部屋の記憶」が並列していることを実感していた幼少期に並行して、私の中で「大きな学び」がありました。
 それが、「自己犠牲の本当の意味」でした。
 勿論、五歳の子供がそんな難しい言葉を理解していたわけではありません。ただ、その当時に感じていたことを、後になってから解釈すると、どう遡ってもその頃に派生した「想い」だった──という結論に行き着きました。

 それは、幼稚園の時の話です。
 私が通っていた幼稚園は、仏教浄土宗のお寺が経営している幼稚園でした。(私の家族は、信仰深い人達では決してありません。確かにそのお寺の檀家ではありましたが、普通の日本人同様「お墓持つ為に、お寺に積み立てしなくちゃいけないから」という、あくまでも葬式仏教的な感覚しか持っていなかったのです。その為、私がその幼稚園に入っていたのも「ただ単に、近所だったから」という理由でした。ただし、私の祖父だけは非常に信仰心の厚い人で((浄土宗ではなく、「解脱の会」という仏教でも割と異端な信仰でしたが))、私はかなり祖父の影響を強く受けていたと思います。)
 その幼稚園では、何回か仏教にちなんだ「お祭りごと」がありました。4月8日は「花の日」といって、仏陀(お釈迦様と呼んでいましたが)の誕生日を祝う祝祭があったり、お月見の時も何かしらのイベントをやっていました。

 その「お月見の日」のイベントのことです。
 私達は、大きな広間(講堂のようなところ)に集められて、スライドを視聴することになりました。そのスライドは、以下のような物語でした。


 ある森に、仲良く暮らす動物達がおりました。
 その動物達のもとに、ひとりの修行僧(お坊さん)が現れます。その人は修行の身で食べ物がなくて、今にも餓死してしまいそうでした。
 動物達はみんなで相談しあって、「その人の為に、何か食べ物を探してきてあげよう!」と決めました。
 みんなそれぞれ、食べ物を探してはお坊さんの元へ向かいました。ところが、どうしてもウサギだけは、食べ物を見つけることが出来なかったのです。
 ウサギはお坊さんの元に行き、こう言いました。

「私だけは、食べ物を見つけることが出来ませんでした。ですのでどうぞ、私の体をお食べください──」

 そう言うと、燃えさかる火の中に、身を投じたのです。
 お坊さんは──実は「お釈迦様の化身」でした。自らの身を犠牲にしたウサギを哀れに思ったお釈迦様は、ウサギを月に上らせて──そして、今でもウサギは、月でお餅をついているのだそうです。


 私は、このスライドに魅入られていました。とにかくウサギの生き様に、深い共鳴を覚えたのです。
 当時の私にとって「それが、理想的な生き方だ」と、そう思えて仕方ありませんでした。

 大学でインド哲学を学ぶようになってから、実はその物語が仏陀の前世を物語にした「ジャータカ」という文集の一部に掲載されていることを知りました。
 また、手塚治虫の漫画「ブッダ」の冒頭にも、まったく同じ物語が入っています。
 私が幼稚園の時に見たスライドは、これらの「ジャータカ」に掲載されている物語を「お月見用」にアレンジされたものだったのだということが分かりました。(ですので、「ウサギが月で餅をついている」というのは明らかなアレンジです。ただ、食べ物を探せなかったウサギの為にそのアレンジを用いたとすれば、このアレンジを思いついた人は「とても心根の優しい人だな」と思います。)

 しかし、このウサギの生き方というのが──何故か、私の心の奥底にあった「なにがしかの想い」と共鳴しあって、いつでも強く輝いているのを実感していました。

 当時、私はアンデルセンの「人魚姫」の物語も大好きでした。
 これは、今はディズニーの「マーメイド」がメジャーになってしまった為、「ハッピーエンド」と誤解している子供も多いようですが、実際、人魚姫は「泡」になって消えてしまいます。
 人間の王子に恋をしてしまい、どうしても人間になりたかった人魚姫。しかし、魔女との契約で「声」を失ってしまったが為に、王子に出逢っても想いを伝えることが出来ません。
 しかも、その恋を実らせることが出来なければ、人魚姫は「泡」となって消えてしまうのです。
 「言葉を喋る」という、もっとも人間の基本的なコミュニケーションが出来ないまま、人魚姫は愛する王子が「他の女性」に恋をして、結ばれていくのを見ていなければなりませんでした。
 そして、王子が他の女性と結婚をする日の前日。
 泡となって消えていく運命にある妹を気遣った姉達は、「王子の心臓を、このナイフで突き刺しなさい。その血を足にかぶれば、あなたは人魚に戻れるから」と言って、ナイフを渡します。

 一度は、王子の命を奪おうとした人魚姫でしたが──やはり、それはとても出来ませんでした。
 そして、人魚姫は「泡」となって消えていく──というのが、私の持っていた「人魚姫」の絵本の物語でした。

 私は、この人魚姫の中にも「ウサギ」と同じ思い遣りの光を見ていました。
 人魚姫もウサギも、絶対に、後悔して消えていった(死んでいった)わけではないという確信が、子供心にあったからです。

 人魚姫が王子を刺せなかったのは、「殺すことが、怖かったから」ではありません。
 王子を、愛していたからです。
 そして同時に、他者を犠牲にして、自分が助かるという道を、絶対に選べなかったからに違いない──私は、そう思っていました。

 こうした生き方に「共鳴の光」を感じたからこそ、私は「イエス・キリスト」の物語が大好きだったのだと思います。
 「自己犠牲」という言葉、本当は正しい言い方ではないのです。
 何故なら、「犠牲」という概念は、被害者意識から来ている為です。
 そうではなく、彼らは「喜んで、身を捧げたのだ」と、私は信じています。
 イエス・キリストの「エリ・エリ・レマ・サバクタニ(神よ、神よ、どうして私を見放したのですか)」という有名な文言がありますが、私はイエスは、そんなことを言っていなかった──そう信じています。
 そんな受け身的な姿勢で、そんな「被害者的意識」で、自らを十字架にかけることなど、絶対にしていない──仮にそうだったら、2000年という時代の中で「彼の生き様」が多くの人達に影響するはずがないからです。

 【余談】私は、「イエスが、自ら望んで十字架にかけられた」ことを、何故か幼少期に信じていました。
 どの聖書も、そんなことは言っていなかったにも関わらず、「イエスは、自ら望んで身を捧げることを選んだ。そうやって自分の生き様を見せることで、人々に『善行の意味』を知らせる為に」そう思っていたのです。
 すると、それから30年近くたった2007年頃──ナショナル・ジオ・グラフィックで「ユダの福音書」が発見された──という報道がありました。ユダは裏切り者とされてきましたが、その福音書の中では、イエスはユダに向かい「自分を、パリサイ派の人達に通告しなさい」と命じていたのです。すなわち、「自らの身を捧げること」を、イエスが最初から承諾していたことが、そこには書かれていたのです(そう考えると、ユダもイエス同様「身を捧げたこと」になりますね。何故なら彼は、2000年間「裏切り者」のレッテルを貼られたわけですから──)。
 この福音書が、正式に聖典に含まれることはおそらくないかもしれません。しかし私は、「ユダの福音書が、一番真理に近いのではないだろうか」と考えています。


 一方、こうした「他者の為に、自らを捧げる」という学びを物語を通じてしていく中で、まったく真逆のものも、私は同時期に知りました。
 それは、アメリカの「ルーツ」という、黒人差別をテーマにしたドラマでした。
 おそらく幼児にとっては、とても難しい内容だったと思います。しかし、私は何故かこのドラマをよく見ていたのを覚えています。

 その中で、とても印象深い場面がありました。
 ある黒人青年が、不当な理由(その理由の詳細は、さすがに覚えていませんが)で、「焼死刑」になることが決まったのです。
 青年が生きたまま、火あぶりになっていくその場面を、白人の人達が眺めている──という場面が出てきました。そして、その中には──私と大して年齢の変わらない「白人の少女」が、お父さんの腕に抱かれて、青年が焼け死んでいくのを見ている、という場面があったのです。

 私は、真っ暗な谷底に突き落とされたような気分でした。
 何故、このような不条理なことが起きるのか──理解出来ませんでした。
 これはドラマなので、勿論脚色はいっぱいされていたでしょうし、実際に公処刑の場で子供がいる──ということは、そうそうなかったかもしれません(いや、大昔だったらあったかもしれませんが……)。
 でも、子供時代の私にとってそれは、鮮烈な記憶でした。

 他者の為に、自らを捧げる生き方
 その一方で、
 エゴの為に、他者の命を奪う生き方
 その両方を、同時期に見る結果となったのでした──。

 こうした体験が、今の私の生き方に「大きく影響している」というのは、言うまでもありません。
 上記あげた二つの生き方の違いは、明らかにこの次元における二元性を端的に描いているものだからです。
 幼児期には、たいてい「その人の人生のテーマ」となる学びが、ここ彼処に隠されていたりするものですが──私にとってそれは、この次元における「二元性」でした。一方では「他者の為に生きようとする博愛的生き方」、もう一方では「正義を歪め、侵略するエゴ」という、この二つは、今でも私にとって最大なテーマです。
 逆に言えば、後者の「エゴ」が解決しない限り──この「二元性」が解決する糸口が見つからない限り、絶対に、地球にとって恒久的な平和が訪れることが「ない」のですから。

 私達が、この地球の為に──人類の意識改革を推進させる為に、「誰にでも出来ること」があるとしたら──それは、ポジティブになることでもなければ、楽観主義になることでもない。

 如何に、他者や自分たち以外の生命のことを「思いやる」ことが出来るか──これに尽きるのだと、私はそう思います。(「体験談3」へ続く) 




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【体験談1】体外離脱の初期──夢の記憶と、部屋の記憶が並列していた子供時代

 私は今まで、自分の体験談を滅多に話すことはありませんでした。
 親しくなった友人の一部に話すことはあっても、どんなに長いつきあいの友達にさえ話していない体験談──両親は勿論、家族にさえ、ほとんど私は自分の体験談を喋らずに来ました。

 理由は──おそらく、心のどこかで恐れていたからでしょう。「精神異常者扱い」されるのを。
 事実、私はとてつもなく恐ろしい体験をした時、涙ながらに父に助けを求めたことがありました。父は顔色ひとつ変えず、こう言い放しました。
「お前は頭がおかしいんだ。今から精神病院に行ってこい」と。

 それ以来、私の数々の体験は、ずっと封印されてきました。ここ最近になってようやく、少しずつ解禁してきましたが──まだ、全貌は話したことはありません。
 それは、このブログでも──そして、本にも書いたように、体験談のみがひとり歩きして、その本質にあるメッセージを歪められるのが怖かったからです。
 この世界は、「歪んだ世界」です。赤色で出したはずのものが青色に変わっていたり、まったく悪気のなかったものがエゴで歪まされていたり──とかく変化してしまいます。
 だからこそ私は、今まで自分が体験してきたことを外に出すことを秘めていました。
 そうでなくても、今のご時世はちょっとした特殊能力があるというだけで、まるで教祖のような振る舞い方をしたり、傲慢に人を指図したりします。
 でも、本当に霊性の高い人であれば、決して人をランク付けしたり、見下したり、指図をしたりしません。私は自分がそうなるのは絶対に嫌だし、また逆に「自分がそうしているつもりはなくても、『傲慢だ』と思われること」も、怖かったのでしょう──。

 でも、今日になって「すべてを明かそう」という決意に至りました。
 大袈裟なことを言っていますが、私は別に、マオリッツオ・カヴァーロ氏やハワード・メンジャー氏など、数々のコンタクティ達が体験した程、素晴らしい体験をしたわけではありません。
 ですので、読む人によっては「こんなもの、たいしたことない」或いは「こんなことは起こりえない」そう言うかもしれません。
 或いは、「ただの自慢話だ」とか「自分を特別視しているだけだ」とか、そう思う人もいるかもしれません。

 でも私は、どう解釈されることも「もう、恐れるのはやめよう」──そう決意しました。
 私はきっと、何よりも「『自分』をどう解釈されるかが、怖かっただけなんだ」という気づきに至ったからです。

 私が本当にしたいことは、ここでも何度も書いたように高次元の探究──すなわち、この地球全体のアセンションです。
 でも、その探究をしていく過程を今後ここでお話する為にも、まずは「自分自身の体験談」を話す必要があるのかもしれない──そう思うに至りました。
 幼少期の頃からのことなので、連載としてしばらく続けていきます。アセンションの話はしばらくお預けとなりますが、しばしおつきあい頂けますと幸いです。


【体験談1】体外離脱の初期──夢の記憶と、部屋の記憶が並列していた子供時代

 私が自分のそういった体質に気付いたのは、ものごころついた時のことでした。
 勿論、それが「体外離脱」という現象であるなんてことは、子供だから分かりません。それどころか、「きっと誰にでもあるものなのだろう」ぐらいにしか、思っていなかったのです。

 子供時代の私にとって、「夜」はとてつもなく苦痛でした。
 まず「寝る」ということ自体が、苦痛で仕方なかったのです。
 何故──どうやって眠るのか自体、よく分かりませんでした。子供って「寝るのが仕事」と言いますが、母親にも「赤ん坊の頃から寝付きが悪く、眠りの浅い子供だった」とよく言われていた程です。(これは未だにそうです。その為、あまりに肉体的な負担がかかる場合は、睡眠薬を服用する程です。)
 しかも、私の場合はどんなに眠っていても「起きて、部屋を見つめている記憶」があるのです。
 子供の頃の私は記憶力が非常に良くて、見た夢のほとんど全貌を、次の日にはっきり覚えているような子供でした。
 しかし、不思議なことに「夢の記憶」があるのと同時進行で、「ずっと部屋の中を見つめている記憶」があるのです。
 その上、見つめている部屋の中に、見知らぬ訪問客が何人も訪れました。
 それがどういう人達だったか──もう今となってははっきり覚えていないし、おそらく意図的に記憶から消去した部分もあるのかもしれませんが、何人かは「自分がよく知っている存在」だったような気がします。勿論、実際に会ったことはない人なのですが。

 私は五歳まで両親と一緒の寝室でしたが、ある日、激しく泣いて「ひとりの部屋にして欲しい」と懇願しました。
 自分では「とにかく、ひとりの部屋になりたかった」ことだけは覚えているのですが、何故そう泣いてまで頼み込んだのか、理由は覚えていません。
 しかし──おそらくですが、私は寝ている最中も「意識がはっきりと起きていて、部屋の一部始終を見ていたが為」に、もしかしたら両親の秘め事(古い言い方ですね;)を見てしまったのかもしれません。
 今にして思えば、普通五歳という年齢で「ひとり部屋を希望する」というのは、不自然なことです。まだまだ親に甘えたい年齢でしょうから──。
 結局、私の願いは「半分だけ」叶えられました。
 半分だけ、というのは部屋は与えられたものの、「まだ五歳だから、ひとりで寝かせるのは心配」という理由で「寝る時だけ、祖母つき」だったからです。(祖母による監視は、九歳まで続きましたが、その後はようやく解放されました。)

 部屋が移動した後も、私の「夢の記憶」と「起きている記憶」の並列は続きました。
 ところがある日、あろうことかその「起きている自分」が、肉体を離れようとし始めたのです。
 そのたびに、寝ていたはずの私の意識が「ダメ!」と叫んで起きるようになりました。
 まるで、寝ているときは「人格が分裂している」かのようでした。
 夜のしじまの中で、寝ている肉体を後目に「起きている自分」は、絶えず私の肉体から離れようとしていました。そのたびに、もうひとりの自分がそれを止めようとする──という、果てしない葛藤が続いたのです。(私がそんな葛藤を夜の夜中に展開しているなんて、祖母は露程も知らず──です。)

 ところがある日。今までとは「ちょっと変わったこと」が起きました。
 祖母が違う部屋に移動し、ようやくひとり部屋を確保した数日後のこと。私は、完全に「起きている自分」と一致していたことがあったのです。
 ですので、自分が「起きているのか、寝ているのか」よく分かりませんでした。でも、明らかに体を半分起こして、じっと部屋を見つめていたのです。

 でも──何かが違う。
 何か、見え方が違うのです。
 これは夢なのか? 
 それとも──私は本当に起きているのか? 
 自分で自問自答を繰り返しました。
 もし起きていたら、自分は何をしようとしていたのだろう──?

 ふと、その時。
 目の前で、とても綺麗な光が過ぎったのです。
 それは、喩えて言えば「パレード」のようでした。天使のような存在や妖精のような存在や、表現のし尽くせない美しい人、美しい動物達が、私の前を行進していったのです。
 その瞬間、私は「夢か、現実か」なんて試行錯誤を投げ捨ててしまいました。あまりに神秘的であまりに美しいから、後をついて行きたくなってしまったのです。
 現実世界における幼少期の私は、とても辛い思いをしていました。詳しくは割愛しますが、あまり家族愛に恵まれていなかったのです。
 その為、私にとってはその「神秘的で美しい存在達」の方が、とても親交のある存在に思えました。自分をこの牢獄のような世界から、救い出してくれるに違いない──そんなふうに思って、つい、後を追って行ってしまったのです。

 ところが。
 しばらくその綺麗なパレードの後をついて行った私でしたが──突然、その人達が「ふっ」と消えてしまったのです。
 それは、一瞬にして夜景の灯が消えたかのような感覚でした。私は途端に、真っ暗闇にひとり、残されてしまいました。
 その時になってようやく、私は「肉体を離れてきてしまった」ことに気付いたのです。
 でも、私を助けてくれる存在は、どこにもいません。
 急に怖くなって、私はその場で大声をあげて泣き始め──その瞬間、「ハッ!」と我に返りました。それは、「起きた」という感覚よりも、「引き戻された」という感覚に近いものでした。自分の意志か──或いは、誰かが戻してくれたのかは、わかりませんが。

 私は当時、これを「ただの夢」と理解していました。
 それでも、「夢の記憶と、部屋を見つめている記憶の同時並列」や、起きている最中に時折見る「人とは明らかに異なる存在」など、数々の現象を自分でどう理解すればいいのかが分かりませんでした。
 私はこの奇妙な現象を、どうにか自分で「理解したい」──そう願っていました。しかし、心のどこかで「誰にも言ってはいけない」──そんな思いもあったのです。
 普通、子供であれば無邪気に何でも喋りそうなものですが、何故か、私は「絶対に口外してはいけない」という思いの方が強かったのです。

 ちょうどその頃、ワイドショーで「あなたの知らない世界」とか、心霊写真特集といった、おどろおどろしい恐怖番組が流行していました。
 私の姉は非常に怖がりなのですが何故かそういう番組が好きで、よく見たり、本を買ってきたりしていたのですが──私は、そういうオカルトやホラーが「嫌い」でした。
 何故なら、私が見ていた存在達とは、明らかに「異なっていた」からです。
 私に見えた存在──実際には不可視な存在──は、とても優しかったし、綺麗でした。
 だからこそ、私はそういったオカルト談からは「自分の体験を紐解くヒント」を求めませんでした。その変わり、宗教(特に、イエスの物語が大好きでした)や神話などに「ヒント」を求めたのです。
 勿論、どこにも答えはありませんでしたが──。

 私のすべての体験を「ようやく理解して、説明出来るようになった」のは、本当につい最近になってのことなのです。
 それまではずっと本当に自分でもよく分からないし、むしろ「ただ単に、精神的におかしいのかもしれない」と思うことの方が怖くて、ずっと否定し続けていたぐらいですから。
 私が「体外離脱」というはっきりとした自覚をするようになったのは、もっと後──三十代以降のことです。それまでは肉体を出て、自分で自分を見ているようなことがあっても、どういう現象かを説明出来ませんでした。

 ちなみに、幼少期。不可視な仲間は、寝ている最中だけでなく、実際にも見えていました。
 それは、私より少し年上の少年です。名前は「コーニ」と言いました。(もしかしたら「コニー」だったのかもしれませんが、私は「コーニ」と呼んでいました。)
 ここは日本であるはずなのに、何故か金髪の少年だったのです。しかも、私自身それに違和感を覚えていなかったどころか、もうずっと前からの友達だったように、親しくしていました。
 私はよく、コーニを絵に描いていました。五歳年上の姉に「これ、誰?」と聞かれた際、うまく説明が出来なくて「同じ幼稚園にいる好きな人」と答えましたが──勿論、それは意図的な「嘘」でした。
 コーニは10歳ぐらいまで一緒にいてくれましたが、私の能力が変化してしまった頃(この変化については、後日記事にします)、いなくなってしまいました。

 今でも、不可視の存在達は時折私の元に来ます。
 一時期能力が変化してしまった頃は、とても怖くて仕方なかったのですが(実際、怖い体験ばかりの方が多かったので)──今はもう、そんなことはありません。
 何故なら、世の中、本当は目に見えてないものの方が沢山あって、視覚で認知出来るものの方が数が少ないということを理解したからです。
 だから本当は、不思議なものなんて、何もなかったのです。ただ単に「人間が理解出来てない」というだけの話で。

 「見えるものだけ」しか信じない──既存の共有概念しか信じられない、という人達は今でも大勢います。
 時折、私はそういう人達が気の毒にも思えてしまいます。
 何故なら、ああいった人達は胸をはって堂々と「科学データの結果が、こう出たんだ」とそう叫びますが──もしそれが改ざんされている結果だったら、どうするのでしょう?
 もし、その結果に何かしらの異常があって、間違た結果だったら?
 そう考えたら、本当は何ひとつ、信用出来るものなんてないはずなのです。
 にも関わらず、不可視の世界を闇雲に否定するのは──愚かしいだけでなく、哀れなことです。
 歴史だって、同じです。
 本当に私達が、その歴史をこの目で見てきたわけではなく、文献や史実を総合的に捉えて「共有概念」として認識しあっているだけなのですから。
 その史実に最初から改ざんがあれば──私達は、すでに「何も見えてなかった」のと同じことになってしまいます。

 本当に信じられるものは──自分自身の中にある確固として信頼出来る真理の光、それだけなのかもしれません。(「体験談2」へ続く) 


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プロフィール

篠崎由羅(しのざきゆら)

Author:篠崎由羅(しのざきゆら)
1970年生。幼少期から哲学・宗教学に造詣を深める。思想および思想史、それに付随した国際事情に興味を抱いて独学を続け、大学ではインド哲学科専攻。東西問わず、両者の思想に渡り研究を深める。

現在は看護師として施設で勤務しながら、その傍らで執筆活動を続けている。2016年11月にYOU are EARTH改め「WE are EARTH」の活動を再始動予定。より良い未来の地球のため、全力を尽くす誓いをたてている。

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