先程、書いた記事が――何故か「消えてしまいました」……。
いくら過去記事転載とはいえ……こういうことは「ショック」ですね……(T_T)。明日になったら、二つ掲載されてるかもしれないけれど、再度投稿します。また消えたら……フテ寝しますが。
今回は、非常に基礎的ですが重要な内容――「輪廻転生」についてです。スピリチュアルに詳しい方にとっては常識の範囲内かとは思いますが、改めて見つめ直す機会として、是非参照なさってください。
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2008年2月8日 過去ブログ「思考世界」より転載輪廻転生 「輪廻転生」という考え方は仏教でこそよく知られる思想ですが、教義上転生を否定しているキリスト教など西洋の人達からすれば、実に理解し難いものだったと思います。
今から十年程前に「前世療法」を世に知らしめ「転生」の知名度をいっきに上げたアメリカの精神科医
ブライアン・L・ワイス博士は、突如患者が想像を絶するような過去を語り始めた時にはかなり混乱したようです。疑念と、同時にそれを突き止めたいという思いの中で、熱心なクリスチャンだったという博士はかなりの葛藤を抱えたことだろうと思います。(詳細は「前世療法 著/ブライアン・L・ワイス博士 訳/山川 紘矢・ 山川 亜希子 PHP文庫刊」をご参照ください。医師という立場から客観的に書かれている分、実にわかりやすくてお薦めです。)
とはいえ、こうして転生の考え方が広く一般的になった今でも、プロセスそのものが解明されたわけではありません。何故、霊は転生を繰り返してまで向上を目指すのか――ということ自体も、まだ謎に包まれています。
霊、という背景を自然に受け入れられるようになると、逆に「転生というものは『なければおかしい』」という視点に立たざるを得なくなります。何故なら、「霊はあるけど、人間が死んだらそのまま霊も『消滅』!」という発想の方が遙かに無理があるからです。「それなら、最初から霊なんか不要じゃん」という話になってしまいますし、また「じゃぁ、生まれる時に霊はどこから来たの?」って話にもなります。それどころか、常に地球上の人口を上回る霊が、大量生産の如くして「ボコボコ」湧き出てこなければ理屈が合わなくなってしまいます。 それって、何だか妙だと思いません(笑)? そう考えるぐらいなら、自然界におけるエネルギーが循環するのと同じように霊も循環するのだ、とした方が納得しやすい気が、私にはしています。
輪廻転生についての詳細はスピリチュアル分野においても実に様々語られており、学術的に分析して掘り下げるというよりは、結構「思いつき」で語られているような節も感じられます。先日ここでもお話したように「同じ民族でしか生まれ変わらない」とか、「同じ遺伝の繋がりでしか生まれ変わらないという極論も見受けられる程です。
ちなみに、この「遺伝の繋がりでしか生まれ変わらない」という説は、少子化問題を抱える日本において大いに反論の対象です。
同じ遺伝でしか生まれないのなら、子供が出来ずに途絶えてしまった系譜はどうなるのでしょうか? そもそも遺伝は、どこで区切るのでしょうか? 遠い親戚は何親等まで認められるのでしょうか? ――突き詰めれば突き詰める程、議論の余地はありません。
また、同じ民族でしか生まれ変わらないというのも、遺伝説と同様です。もし同じ民族でしか生まれ変わらないというのなら、何故「国民の人口推移」というものが起こり得るのでしょう? 同じ民族の中でのみで転生するのであれば、絶対数は必然的に決まってくるはずです。そうなれば、国民総数の爆発的増加も、逆に爆発的な減少も「起こり得ない」ということになってきます。
もっとも、「民族」に限って言えば「同じ民族に繰り返し生まれ変わるケースが高い」というのは実際「あるだろう」と考えています。
それは、その民族性における「突出した文化」や「価値観」が「永いこと変わっていない場合」です。イスラム文化圏の人などは、その可能性が高いのではないかと思えます。あれほどひとつの信仰に打ち込めるというのは、ただ「生まれついた環境がそうだったから」というだけでは納得しきれない気もするのです。「変わらない」という歴史の中には、何らかの霊的要因(それらが、おそらくはここでも以前触れた民族魂の絡みもあるのでしょうが)が背後にあるような気がしてならないのです。
しかしいずれにせよ、霊的世界における法則性は、どうしたところで
物質界における私達の価値観では、理解しがたいものであると思われます。
それよりもむしろ、転生の要因は
「霊的特性における」――そう考えた方が理解しやすいのではないか、そう思えます。
霊的特性における原因――。
いわゆる「カルマ」です。
転生を支配するのは、民族でも遺伝でもなく、「カルマ」しかない――そう思ってしまうと、案外すっきり整理出来てしまうような気もします。
カルマを主体に考えれば、どの民族として生まれるか、どの種族として生まれるか、すべて「自由」ということになります。シュタイナーが言うように「どの種族にもいずれ受肉する」ことを考えると、現代においてはみんな「それぞれに、それぞれの国を経験済み」なのかもしれません。そして、そうやって様々な人が「様々な国の人生を経験済み」だからこそ、「グローバリズム」という発想も生まれてきたのかもしれません。そう考えると、現代の国際問題というものも至極納得出来るではないですか(笑)
ただ、ですね。
「カルマ」という法則性を考えた場合、以前から私には「ある疑問」が拭えませんでした。
それは、
「一体誰が、そのカルマをジャッジするのか」ということです。
仏教における輪廻転生などでは、その行き先を決める閻魔大王のような「裁く存在」がいます。
しかし、私は霊的世界を追究すればする程、そのような「裁きの存在は『いない』」気がしてならないのです。
理由は、「裁きの存在がいる = ある一点の法則性のみに霊界が支配されている」ということになってしまうからです。
もっとわかりやすく言えば、「裁く」という行為そのものが
某かの基準を設けなければ出来ない行為であるということです。
日本でも裁判員制度が注目されつつありますが、その裁判員ということを考えたって「な~んの考えもなしに」では出来ません。ある人は「法律」を遵守しようとするだろうし、ある人は「あくまで義理人情」に従おうとするかもしれないし、方法は様々であれ裁く以上は必ず
中心に据えるべき思想がなければ出来ないのです。
果たして霊界に、そのようなものがあるのでしょうか?
否。逆に言えば、
そのようなものがあるのは、霊界と言っていいのかどうか――私にはそれが疑問だったのです。
一体、カルマとは「何を基準にして萌芽するのか」。
さんざん考え倦ねた末、出た結果は――
思念なのではないかということでした。
以前、その考えの根拠になる話を読みました。エドガー・ケイシーが書いた「前世の記憶」に関する書物なのですが(手元にないので、抜粋出来ず……)、その中で「盲目の男性」の前世について書かれていたのです。
その男性は、前世において戦争で捕らえた捕虜達の「目を潰す」という役目をさせられていた、というのです。それがあまりに辛くて、その男性は捕虜達の目を潰しながら「罪悪感に苛まれた」そうです。
この内容は、ただ普通に読んでも「あー、この人はさんざん他人の目を潰してきたから、盲目となって転生したんだな」ということで納得出来てしまいます。
しかし、それではカルマが「平易な善悪論」で終わってしまう。
そうではなしに――ここでは
「罪悪感に苛まれた」というのがポイントになってくるのです。
罪悪感というのは、人間の感情の中でももっとも魂に浸透しやすい。何故なら、
「相手の赦しを得るまでは、その意識から解放されない」からです。解放されないが故に繰り返し繰り返し思い続けることで「目を潰した」という罪悪感が魂に刻み込まれ、カルマとなって来世にて芽吹いたのではないでしょうか。
だから、もし仮に。
仮に、その男性と同じ役目についていた人が他にいて、その人は「まぁーったく罪悪感を感じない人だった」としましょう。
たぶん――カルマとしては、「残っていない」はずです。
そんなことを言うと、多くの人が「そんなの不公平だ!」「真面目なヤツが馬鹿を見るじゃないか!」と思うでしょうが、そもそも霊界に「真面目なヤツが馬鹿を見る」という発想自体がありません。 「自分が損をする、得をする」という考えはいっさい「ナシ」に、ただひたすらに「罪悪感」と向き合うからこそ、それが「カルマとして萌芽する」のです。
ぶっちゃけちゃえば、その人にとって「同じ役目をしていた人が、盲目に生まれ変わったか否か」なんてことは「どうでもいい」ことなのです。ひとえに、「自分の罪悪感とどう向き合うか」が、霊的価値観においては重要なことなのですから。
とはいえ。
「じゃぁ、どんな悪いことをしても罪悪感さえ感じなきゃいいんだ!」などと、そうは問屋が卸しません。
何故かと言えば、「思念がカルマを作る」のだとしたら、
他人から受けた思念もカルマになるからです。
例えば、詐欺師でさんざん多くの人を傷つけてきたAさんがいたとして、Aさん自身は「自分が悲しめた人達」を間接的にしか知らないとしましょう。それでもやはり、多くの人が「Aに騙された!」という思念を残していれば、それはその人にとってカルマとして萌芽するはずです。
だから結果、「悪い人が得をする」なんて、そんな甘い法則ではないのです。でも逆に、何でもかんでも悲観的に捉えてクヨクヨしてしまう人は「火のないところに煙をたててしまう」かのように、要素はなくともたったひとつの思い癖からカルマを作ってしまう可能性は、否定出来ません。
なので、何にせよ「思考の管理」というのは重要なポイントとなってくると思われます。
ちなみに、ここに述べた思念は、必ずしも「自分が意識的に出来る範疇」のものを指していません。
先日お知らせしたような形での「自我」「霊我」という高次の視点における「カルマの萌芽」ということもあり得るようです。
それは、シュタイナー自身も書いていました。シュタイナーはあまり「輪廻転生」を詳しく掘り下げてはいないのですが(シュタイナーは著作「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」の中で、「前世を知ったところで、神秘学徒として何の意味もない」といったニュアンスのことを書いていることからもわかるように、前世や転生の法則性は認めても、それを掘り下げることに必要性は感じていなかったようです)、それでも「神秘学徒としての行を進めていくうちに、自分と対面する時が来る。その時、どのようなカルマが萌芽しているのかもわかる」としており、私達がこうして今生きている中ですでに「来世の準備は始まっている」という見方をしています。
確かに、前世に拘りすぎるのは「人生の過去に拘りすぎる」のと同じようにあまり意味を成しませんが、「自分という存在がただ平易に生きているわけではなく、膨大な霊的歴史を刻みこんでここに誕生している」と思うことは、人生の視野を広げる意味でも必要な体験である、そう思っています。
また、「カルマ」という考え方は、自分の人生そのものを見つめ直すのにも「いい視点」だと思えます。自分がどのような行為を人々に与え、どのような思いを伝えているのか、現実を見直すにもいい機会ですので、一度は「輪廻転生」および「カルマ」についての考察をしてみるのも、悪くないかもしれません(笑)。
━━━━━━━━━━━(過去記事転載・以上)━━━━━━━━━━━━━━
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【参考文献】
……今度は消えないでくれ~(願掛け)