心にやましいことがなければ、天は必ず導いてくれる

 ここ三日間、自分のペースが取り戻せない篠崎です(苦笑)。
 おそらく、ブログを読んで下さっている読者さんの中には「篠崎にしては短い記事が続いているな。何かあったのかな」と疑問に思っている方もいたかもしれませんね。
 事情はお話出来ませんが、まぁ、「ひとつのヤマ場は越えた」ということだけ、お伝えしておきます。

 最近思うのですが、人が何か決断したりする時は、周りの意見や評価よりも、まずは「自分の心にやましい点がないか、どうか」が重要なのかもしれない──そんなことを実感しています。
 もしやましさがなければ、天は必ずや導いてくれる──。
 どんなに酷い目にあっても、どんなに悲惨な目にあっても、真理に忠実であろうと生きる者は必ずや導きの光が見えてくる。誰に理解されなくても、目に見えない存在達は必ずやそれを見ていて、助け船を出してくれるものなのだろう、と。

 何か問題が起こった際、自分の信念にただ向き合えば──自ずと、道は開かれる。
 どんな嵐の中でも、ただ耐えてじっと自分の声と向き合っていれば、いずれ嵐は遠ざかる。
 もめ事の中にあっても、ひたすら冷静さを保ち続ければ、人は必ずや嵐の雲間を発見出来るものなのでしょう──。

 人間として地上に生きる以上、様々な人達と接触して生きていかなければなりませんが、どんなに話し合いしたくても「最初から立ち位置と見え方が違う場合、話し合いは平行線上にしかならない」ということはままあります。
 先日書いた「フィルター」のように、私たちは気づかないだけで、沢山の思いこみ、偏見の中で判断をしているのですから。
 自分でそれに気づく謙虚な姿勢を持ち、かつ「いかにその偏見を取り払う努力をするか」ということが、本来はとても大切なことなのかもしれません。

 目に見えている部分は、宛てにならない。
 如何に私たちは、「目に見えている部分を超えて、その人の本質を見抜けるか」──これこそが、大切な学びなのでしょう。
 私はまだまだ、修行中の身です(苦笑)。
 


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2010-02-28 | 真理 | トラックバック(0) |

この世に戦争がある理由

 篠崎は「映画を観るのが好き」で、しかも気に入った作品を、飽きることなく繰り返し観てしまうというのは何度かこのブログでも書いたとおりですが──最近、「パイレーツ・オブ・カリビアン」の三作目に再び目覚めてしまい、忙しい中時間をあけては繰り返し観ています。
 私がこの映画ですごく好きな場面は、海賊達が敵を前に心をひとつにして、立ち向かっていく場面です。子供向けの娯楽映画とはいえ、私はこの場面がとても好きで、それで繰り返し観てしまうんですよね(苦笑)。
 今まで数多くの映画を観てきた中で私が感動してしまう場面は、決まってこうした自分達の命を捧げてでも、他者や、信念の為に闘う人々が出てくる場面でした。私はこういう場面を前にするたびに、「何故、戦争というものがあったのだろう」という、その裏背景を考えずにいられなくなるからです。

 この世がすべて、二つの対立概念から成り立っている──というのは、何度か書いてきたとおりです。
 光と闇という根源的な対立──陰と陽という対立こそが、この世を生み出した根本概念だとしたら──一見「闇」だと思えるようなことにも、実は「起こる意味があったのではないか」そんなふうに感じたのです。

 戦争も、ただ生み出す悲劇ばかりではなくて、そこには「戦争が必要だった(学びの為に必要だった)理由」があるのかもしれない──そんなふうに思えたのです。
 そのひとつとして、上記したような「自分達の命を捧げてでも、他者の為に生きようとする学び」。
 私は「自己犠牲」という言葉がとても嫌いです。善を押しつけられている──そんなふうに感じるからです。
 本当に自分達の命を捧げるような勇気を持った人は、最初から自分が犠牲になっているつもりなんか、欠片もないはずです。 犠牲という考え方自体、どこか被害者意識が潜んでいるように思えます。それよりも「自分がやりたいから、そうするんだ」──そういう考えの方が、遙かに自然だと思えるのです。

 人は、本質で「善」を感じ取る能力がある──私はそう思います。
 だからこそ、誰に教えられたわけでもないのに、「何かを守る為に、命を賭けられる」ということに意義を見いだせるのでしょう。
 人はどんなに富を持っていようと、どんなに素晴らしい恋人がいようと、どんなに自慢できる肩書きがあろうと──結局、一番大切なものは「命」です。その根源たるものを捧げられるか否か、ということを問う為には、確かに「戦争」という「学びを含んだもの」が必要だったのではないか、そんなふうに思えたのです。

 とはいえ。
 人類はもう、二つの大きな戦争を経ており──今でもまだ紛争が続いています。
 それどころか、自爆テロのように美徳であるはずの精神を、かえって悪用するようなケースも出てきてしまっています。
 これはもう、「その学びを終える時期」に来ているサインなのかもしれない──そんなふうにも思えます。
 ひとつの学びを終えたら、次の学びへと人は移っていくものです。
 人はどうしたところで、変化をしていく存在。その変化を拒否していては、成長もない。
 私たちは、今までの歴史における「さまざまな課題」を終了させて、新たな第一歩を踏み出さなければならない時期に来ているにも関わらず──そこで足踏みして、ただ地団駄踏んでるだけなのかもしれません。

 この件についてはもう少し掘り下げたいテーマなので、また後日改めて記事にします。


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フィルターを外す努力の必要性

 人という存在は、どうしたところで自分の偏見や思いこみで物事を見てしまいがちです。(参照:「自分の思っていることは、必ずしも相手の望んでいることではない」)
 心のフィルターは、まるでコンタクトレンズのようにべったり瞳にくっついているので、自分ではなかなか気づきようのないものでしょう。しかし、こうしたフィルターを外す努力をしない限り、人は、本当の閃きと出会えないのではないか──そんなふうに感じることが、ままあります。

 どんなに「自分は自然体である」と言う人でも、実際は様々なフィルターを纏っていたりします。自分は自然体だと思う前に、「果たして本当に、そうなのだろうか?」と自分を謙虚に疑う姿勢も必要なのかもしれない──私はそんなふうに、常々感じています。
 「閃き」という言葉が世の中にはよく使われていますが、フィルターを取り除いていない限り、それは純粋な閃きとは言えない──そう思います。往々にして思いこみだったり偏見だったり、或いは「無意識に場の空気を読み込んで、ただ単に反応しただけ」だったりもするでしょう。そこを見抜かないと、人は大きな袋小路にはまってしまいかねない。それどころか、誰か他の人を無意味に傷つけるだけになってしまうかもしれない──。

 もっとも怖いフィルターは、「周囲の風評」というフィルターです。このフィルターは人が無意識に持っているもので、しかも、それに気づかない人が多い。
 とくに、日本の場合は顕著かもしれない。考察することなく情報を鵜呑みにするので、相手の本意がどういうものであるか、また、そうした状況下で相手がどういった心情になるかの配慮を欠く人が多い傾向も感じます。
 おそらく、こうした問題の背景には「相手の本意なんて関係ない。まずは自分の保身だ」という心理が働くのでしょうね。

 でも、本当にそれでいいのでしょうか。

 この世に生きる以上、見えないところで誰かを傷つけたとしても「自分が平穏であればいい」──そう思う人は少なくないでしょう。
 しかし、本来はどこにでも目があります。いえ、言い方を変えるなら「物質的な目はなくても、霊的な目は存在する」とでも言うのでしょうか。どんなことでも、自分が行ったことであれば──それを自分が自覚していたにせよそうでないにせよ、魂に刻み込まれると、私は思います。「その場しのぎ」で回避したことが、結果的に誰かを傷つけていた場合、そのツケは自ずと魂となってから精算されることになるのだろう──そう思えるのです。
 だったら、私は出来るだけ「魂の純度」に従いたい──そう思います。
 自分を良く見せる為に嘘をついたりするぐらいなら、本音を語って痛い目を見た方がいい。どんな傷でも自分の中にやましいことがないのであれば、必ずや光輝く宝玉となることを、私は実感しているからです。

 そういった生き方を貫こうとするには、この社会は本当に「生き辛い」と思います。
 私は、今の日本社会が理想的とは欠片も思えないし、人類の行為や世界の在り方も問題がある──そう思います。言うなればフィルター中心の社会となっているからこそ、嘘は蔓延るし、裏切りも正当とされるし、「自分の利得」だけで人は動くようになるのだろう──と。

 カヴァーロの本を読んでいると、「地球が何故、このような荒んだ環境となったのか。何故、このような環境にならざるを得なかったか」が分かるような気がしてきます。
 おそらく、そうした原因の一端に「フィルター」というのが、大きく影響しているのでしょう。
 フィルターがあるからこそ、私達の自己判断に委ねられます。そのフィルターを以下に除去した中で自分達が判断を下せるのか──創造主は、その答えを人間に求めているのかもしれませんね。


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※イベント当日は、上記のフィルターを「枠」に置き換えた話なども織り交ぜる予定です。

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2010-02-25 | 真理 | トラックバック(0) |

子供を「親の所有」ではなく「世界の共有」へ

 「親孝行」「親子愛」という言葉の妄想から未だ解き放たれない日本でこういうことを書くのは、まだまだ早いかもしれません。
 しかし、前々からずっと理不尽に思っていたことなので──少しずつ記事にしていきます。

 私は以前から何故、親が子供を育てなければならず、子は親の面倒を看なければならないのか、疑問でなりませんでした。
 こういうことを言えば、おおかたの人が「当たり前だろう、産んで育ててもらったのだから」と言うでしょう。しかし、私が言いたいのはそうした表層的な疑問ではありません。何故、親とか子という絆ばかりに頼り、もっと広い視野での関係性を講じないのだろうということなのです。
 例えば──Aさんは、親に恵まれなかったとしましょう。両親はいるものの、Aさんの教育には熱心ではなく、それどころか自分達の道楽や享楽に耽るのみ。Aさんはその中で苦労と闘いながら、それでも必死に自分で自分の人生を歩んでいました。けれども、Aさんが中年期を越えた頃、両親が相次いで病気に。今度はそれを、Aさんが介護しなければなりません。Aさんは自分の才能や資質を満足して探究したり、伸ばすことさえなく、気がつけばもう晩年期となってしまっていました。親の苦悩に始まり、親の苦悩で終わる──そんな一生涯。
 こういう喩え話は──実は「例え」ではなく、「実際にあちこちで、ある話」なんだと思います。社会の表面に浮上しないだけで、「子供が親を看るのは当たり前」という概念に縛られたまま、どこへ訴えることも出来ず、ただ闇に葬り去られてしまっているのでしょう。
 私はこういう話を聞くと、居たたまれない気持ちになります。
 スピリチュアリストなどが良く口にする「どんな環境も、その人が選んで生まれてきた」なんて、口が裂けても言えません。
 「環境を選んで、生まれてきている」──それは確かに、そうなのでしょう。
 しかし、それは辛い逆境の中で堪え忍んでいる人から発する言葉であれば重く意義あるものとなりますが、のほほんと平穏な生活を送っている人が言ったところで、ただ「善を押しつけているだけ」に過ぎない、そう思うからです。
 相手の受けている痛みに目を向けることなく、ただ舌先三寸で綺麗事を言ったところで「何の慰みにも、解決にもならない──」私はそう思っています。

 こうした不公平感はある種、恵まれない国に生まれた魂と豊かな国に生まれた魂との「差別感」と似たものなのかもしれません。しかし、こうした「所有感」と言いますか──「境界概念」こそが、社会に大きな閉塞感をもたらせているように思えるのは、私だけでしょうか。

 境界概念──。
 すなわち、「○○の国」「○○の家庭」といった、限定された枠。
 ここに拘り続ける以上、未来は伸びることなく凍結してしまうのではないか──そんなふうに思えるのです。

 おそらく、人類がこれから先も地球で豊かに未来を築いていけるなら、まずはこうした人間として生きる基本原則となってしまった様々な概念を取り払う必要性があるでしょう。
 そんな概念は挙げれば山ほどありますが(例えば、ここに挙げた「親子関係における限定枠」もそうですが、「犯罪を犯した者は罰するのが当たり前」という概念もそうでしょう。何故「更正」ではなく「罰する」なのでしょうか?)、結局は固定化されたものこそが、安定であるという発想が定着してしまっているからなのかもしれません。

 今まで世界は戦争が繰り返されていて、最近の大戦が終わってからまだ65年しかたっていません。
 それどころか、小さな紛争は未だに繰り返されている始末。
 こうした状況下にあると、人は「固定化された安定こそが、理想の環境」と思ってしまうものなのかもしれません。
 しかし、人類はそうした古い学びの殻を破って、今こそ「新しい世界に旅立つ準備」に取りかからなければならない時代に突入した──そう思えるのです。
 
 戦争や紛争というものは、明らかに境界概念や所有欲から発せられています。
 日本を見たって、すぐに分かります。日本があちこち藩として分れていた頃は、戦争が絶えなかった。しかし、ひとつの国になったら「何でそんなバカバカしいことをしていたのだろう」と逆に首を傾げたくなるはずです。
 諍いは「最初に分離ありき」だと、私は思います。
 諍いがあったから、分離した──のでは、ないはずです。

 もし、そのようにして地球から国境がなくなったとしたら──その時こそ、すべてにおける「正当な循環」が行われるのかもしれない、そう思います。
 そうであれば、私が冒頭に書いたような疑問、理不尽で不当な差別などは、当然なくなっていくのでしょう。
 私は、子供というのは親だけが育てるべきだの、子供は親孝行するのが当たり前ということ自体、すでに旧い考え方になっている──そう思います。
 それは、これだけ児童虐待や子供を育てられない親が増えているところからも、窺えます。
 何故知識人達は、そうした現象をみて無理に旧知の知識や情報にあてはめようとするのでしょう。
 そうではなく、そうした考え方が、今はもう限界に来ているという証拠なんだという発想には行き着かないものでしょうか?

 時代はすでに、新しいシステムを感知して少しずつ変わってきています。
 こうした「親子の問題」「親の倫理観が問われる時代」というのは、決して親となる世代の問題だけではなく「新しく社会システムを見つめ直しなさい」という合図なのだと、私は思えるのです。
 今までの価値観では、どうしても「子供は親の所有」という概念が強かった。そうではなく、もっと地域や共同体が、積極的に子供と触れあい、子供の教育を「親だけに委ねない」というシステムを考えていく必要性があるのだと、そう思います。

 そして──ゆくゆくは。
 私は、子供は「親元から離れ、その子の才能に応じた教育機関で育てられる」ことが最も理想的である──そう考えています。
 これは「教育が変わらなければ、国も変えられず、未来も変わらない」で書いたことにも繋がりますが、本来子供というのは未来を担う存在であり、世界の共有エネルギーだからです(あまりこういった物質的置き換えは好きではないのですが、妥当な言葉がなかったので──)。
 子供の個性に応じた教育をするには、親だけでは不足してしまいます。その道の専門家とも言うべき教育者達が、別途行うものなのだと──そう思えるのです。
 今は時代が速くなっているので、今までは大差なかった親世代と子供世代の考え方が、まるで天地の差のようにどんどん開けてしまうでしょう。そうした時、親は自分の生活と別途に子供の教育に携わることは、難しくなってしまいかねない。
 「少子化問題」を注目する前に、「今、すでに生まれてきている子達の教育について」も、もっと考えていくべきなのではないでしょうか? 少なくとも、今までの方針では通用しないぐらい、感受性の鋭い魂がどんどん生まれてきているのですから。(5歳以下の子供を持つお母さんであれば、そのことが何となく実感出来るかもしれません。)

 私達は一日でも早く、「自分達を縛ってきた旧い法則性」に気づき、そこを打破して、「新しい時代の風」を取り込む必要性がある──ここ最近、強くそのことを実感しています。


【お知らせ】

 先日、「循環」について記事にしましたが(「循環こそが、時代を変える!」)少しずつ、篠崎の中で掘り下げが進んでいます。
 今回の記事も「所有概念の打破」がテーマになっていますが、私自身が今の時代を見るに、やはりそれがひとつの鍵になっているように思えてならないのです。
 また、それは社会レベルだけではなく、個人レベルにおいてもそうです。とどのつまり、「エゴ」というのは所有したいという思いにすべて結びついているようにも思えるからです。(所有は、形あるものとは限りません。名誉欲や目立ちたいという欲も、結局は「自分が評価を得たい」という──これも立派な「所有欲」です。)
 日本社会だけでなく、世界──すべてを腐敗させてしまうのが「所有=止」というあり方。
 これを大きく変えていくには、「循環=流」を熟知する必要がある──私はそう思って、ここ数ヶ月試行錯誤を続けています。

 今、少しずつ「方向性」が見えてきています。
 世の中の問題点は「複雑そう」に見えても実は「単純」で、すべてを突き詰めればひとつの問題点にしか行き着かないということが、思索の結果行辿り着いた答えです。
 そして、その「ひとつの問題点」こそが──「所有=止」。

 それを打破する為に、私達はどういう「意識」でいるべきか、どういう「行動」をするべきか、「何を青写真」とすればいいのか──この辺りについて、3月21日にはトークしていきたいと思っています。
 また、私自身は参加者の特典本原稿も執筆しなければなりませんが、この準備も今すでに、少しずつ着手しています。(原稿の準備をしながらの方が、トークのテーマもまとまりやすいからです。)
 結構、大がかりなテーマです。さすがは我らが顧問・未来派コーチの西山いずみさん(笑)だけあって、最も今の時代に必要で、かつ、最もみなが見落としがちなテーマをもってきたなぁ──って感じです。

 循環は、ただ単純に「サイクル」と考えるだけでなく、その本質は非常に「奥が深い」です。
 それどころか、「すべての生命に平等な社会」を目指すには、「循環なくして、何とする」というぐらい基本的なことです。逆に言えば、「それが基盤になっていない既存システムの社会」は──時代が進むにつれ、完全に膠着するか、或いは壊死するか・・・・・・どちらかしかないでしょう。

 今まで私が主体でやってきた講演会やイベントとは「まったく違った意気込み」で、今回は臨む──その覚悟でいます。


 

 ※参加者特別限定冊子には、「循環」をテーマにした「理想未来世界の青写真」についても掲載しますので「これからの時代が、どのように変化するか」興味のある方にお薦めです。
 私も、具体的に「理想未来世界の青写真」を記事にするのは初めてなので──少しドキドキしています(笑)。



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情報に踊らされないよう、自己判断力を鍛えるべし

どこに消えた「新型インフルエンザ」
http://news.nifty.com/cs/headline/detail/gendai-02044713/1.htm

 「YOU are EARTH」機関誌第一号、エハンさんの取材の中で、同じようにこの「インフルエンザ」の件が触れられています。取材時は10月31日。まだまだ「インフルエンザ過熱報道」が続く中でのことでした。(詳しくは、取材記事「2012年に向けての心構え」にて。)
 この記事をお読み頂くと分かるように、どんな仕掛けをしても、見抜かれるのが早くなっているのは確かだと思います。私自身、上記の記事を見つけた時「うわ、早いな。もう記事になってる」と驚いたぐらいですから。

 少しずつ、人々は「何が正しくて、何が間違っているのか」感じ取るようになってきているのだと、そう思えます。
 どんなに人々を惑わすつもりで何か操作したところで、みんなどこかで「違和感」を持っている──。「何か変だ、本当にこれはそうなのだろうか?」「そこまで何故、過敏になるのだろう──」そんなふうに、疑問を持っている人達が少なからず存在する──これは、今までの社会の流れとは明らかに何かが変わりつつある証拠なのではないかと、そんなふうにも思います。
 少なくとも、私の周囲(哲学にも精神世界にも興味がない、一般的人々)でも「インフルエンザ、インフルエンザって騒いでいるけれど、どう考えたって流感と大差ないじゃん。いくら死者が出ているとはいえ、ちょっと大袈裟すぎじゃない?」と冷ややかな目で見る人達が複数いました。確かに東京では多くの人達がマスク姿で行き交ってはいましたが、せっぱ詰まるものは何も感じない──といった印象でした。
 でも、いざちょっとでも風邪を引くと会社側の方が過敏になり、発熱している──なんて話をしようものなら、その場で「隔離されそう」な勢いだったところもあったそうです(笑)。有給があるなら、ある意味それは「いい休暇どころ」って感じなのかもしれませんが、有給がない人にとっては迷惑な話ですよね。

 冒頭の記事が指摘しているように、桝添厚労相の慌てぶりは私も目にしていました。「ちょっと演技がかっている(国民の身を案じるいい人、的な)」という穿った見方までしてしまいましたが、勿論彼だけの責任ではないでしょう。結局は冷静に対処出来るか出来ないかという、個々人の判断力にかかってくるのですから。

 これから先も、こうしたことは多々起こってくるような気がします。
 今回はインフルエンザでしたが、違った形、違った様相で、またもや何かが押し寄せてくるかもしれない──。
 そうした時、私達はあくまでも冷静に、自分自身の力でその情報と対峙することが必要となってくるでしょう。宛てに出来るのはマスコミでもネットでもなく、「自分の直感」。自分の判断力に、頼るしかない。そうでないと、外部の情報では「踊らされてしまう危険」があるからです。(勿論、私も「正しいことを言っている」とは限りませんよ((笑))。ここからすでに、「みなさんの判断力訓練」はスタートしています。)

 どんな状況におかれたとしても、私達は自分を取り乱すことなく、「冷静に情報と向き合う必要性」があるのでしょう。
 そうすれば、私達はどんな危機的状況におかれたとしても、そこに翻弄されることなく、自分自身でその危機を乗り越えて行けるのかも知れない。

 今から10年以上前に起きた(スイスかフランスか、ちょっと失念しましたが)スキーゲレンデに向かうトンネル内での火災。
 あの時人々は、下からもうもうと上がる煙に恐れをなして、みんな頂上を目指して逃げたそうです。しかし、上を目指して逃げた人達はほとんどが焼死し、一部、その中でも勇敢に火をかいくぐって「下」へと逃げた少数の人達だけが生き残ったそうです。
「火は上に昇っていく。下った方が危険は少ない」
 燃えさかる火と人々の絶叫、そんな危機的場面で、そこまで冷静に考えられる人はそうそう多くないでしょう。ほとんどの人が上に向かって走っていく中、彼らは「自分達の判断」を信じて、火に向かって下に降りる決断をしたのです。

 私達に必要な姿勢は、周囲の状況に押し流されてしまうことではなく──あくまでも自分の直感と判断を信じる、これに尽きるのかもしれません。


***お知らせ***

 本日、YOU are EARTH教育部門にて、食育ブログが公開されました。

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 「食育? 篠崎ブログと、色が違う」──などと、思わないでくださいね。
 ブロガーである古雅さんは小さな子を二人育てるお母さんですが、視点がとても鋭く、社会的な視野も持たれている方です。こちらの食育に関する記事をお読み頂ければ、「色が違うだけで、篠崎と本質は似ている」ということが、お分かり頂けると思われます。
 古雅さんのブログでは、「レシピ」や「栄養に関する豆知識」を中心に、週三日(月水金)更新されます。レシピも、とても美味しそうなものが集まっていますので、是非(男性の方は是非、奥さんか彼女に──ご自分で、でもいいですが)作ってみてくださいね(笑)。

***************


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2010-02-22 | 社会 | トラックバック(0) |

個性の尊重こそが、「全体調和」へ至る道

 今までの価値観の中では、社会や国などを尊重する「全体調和」をはかるには、「個性を排斥するしかない」と考えられがちでした。
 そうした考え方は独裁国家において顕著に表れていたと、そう思います。人間が「国の歯車」だけになってしまい、個性を抑圧し、周囲にあわせることこそが美徳とされていました。
 それは、第二次世界大戦前後の日本も同じでした。
 ──いえ。ある意味、つい最近まで日本はそうした風潮があったかもしれません。

 「個性を大切に」ということが教育関係者の間で言われるようになって久しいものの、その言葉が言われ始めた1980年後半は「では、何が個性なのか?」「個性というのは、奇抜で突出したものでなければならないのか?」ということさえも曖昧なまま、ただ言葉だけが流布されていたような印象を受けます。
 本来、個性というのは誰にでもあって、「没個性」なんてこと自体あり得ない話です。(仮にそんなことを言う人がいたとしたら、「それを言う本人の感性が鈍い」だけです。相手の個性を感じ取るだけの感受性がない、というだけのことで。)
 また、「どの個性がいい」ということもありません。「隣の芝生は青く見える」といいますが、本来個性は「その人の役目(自分が『こうありたい』と思う姿)」に応じてあるのであって、どんなに他者と比較したところで意味はありません。「自分が、どうありたいか」でしかないからです。

 数年前、「自分探し」という言葉が流行りましたが──自分というのは「探すものではない」、「決めるもの」だというのが、私の姿勢です。
 そもそも「自分探し」という時点で、本来の自分を「外側」に探してしまっています。それじゃ、眼鏡を頭にかけたまま「私の眼鏡、どこいった?」と探しているのと同じことです。自分は探すものではなく「自分で決めるもの」であり、「自分で気づくものだ」と、私はそう思うのです。
 そして──この「自分である」ということこそが個性であると、私は思っています。何も奇抜である必要性もなく、また、変人である必要もない──ただただ「自分である」というだけでいい。
 だから本来、「個性を活かす」というのは、「自分らしさを出す」というだけの簡単なことだと、私は思うのです。
 すごく単純で、しかも素朴なことでしかないのだ、と。

 しかし、こうしたごくごく自然で素朴なことさえも「許されない時代」がありました。
 今にして考えれば、本当に恐ろしいことですが──それが当然のように行われた時代が、今まで長々と続いてきました。
 そして、そうした個性の排斥の生み出した結果が──今の社会問題に直結する、私はそう思えるのです。
 
 1990年代前半。日本は「カルト宗教ブーム」とも言えるぐらい、多くの新興宗教活動が行われていました。「朝まで生テレビ」などでも、そうしたカルト宗教家や研究者を集めた議論などが行われたこともありました。
 しかし、それがいっきに終息したのが──ここでも何度か記事にした「オウム真理教による地下鉄サリン事件」。これをきっかけに、急激な勢いで新興宗教の活動は社会の舞台から姿を消したのです。
 その代わりに出てきたのが・・・・・・サブカルチャーブーム、とでも言うのでしょうか。(私は見ていなかったのですが)アニメ「新世紀エヴァンゲリオン」などが大ヒットとなり、ここから「アダルトチルドレン」という言葉が急激に広がりを見せました。

 私はこの両者の時代、どちらにおいても「共通項」と言えるのが──排斥された個性を取り戻そうとする働きだったと思えるのです。
 前半のカルト宗教ブームでは、いずれにせよみなが「今、ここにある」という現実を受け入れられず、それを宗教の中に垣間みて、また、後半のサブカルチャーブームでは、「アダルトチルドレン」という言葉によって、「現実を受け入れられない自分を、肯定する」という作用が働きました。
 また、2000年代前半は、「自己啓発」或いは「セラピー・ブーム」。そして、後半は90年代前半のカルト宗教ブームを凌ぐ程の「スピリチュアル・ブーム」。
 これもまた、同じように「個性を求めようとする人達の声」が投影されているように、私には思えるのです。

 個性とは──「自分である」という最も大切な基軸です。
 これを失われたら、誰だって「おかしくなります」。
 でも、これを平気で奪ってきたのが「今までの日本社会」だったのでしょう。だからこそ、人々は命を軽視するようになって安易な殺人に走ったり、猟奇殺人に走ったりなどが繰り返されたのかもしれません。

 2008年あたりから、また少し様相が変わりました。
 もっとも、この2年間の動きは、上記例にあげた20年間の比にならないぐらい、動きが速く感じられます。
 それに、1997年に神戸で起きた酒鬼薔薇事件からずっと続いた「少年による猟奇殺人」が、ここ2年ほどの間で減少しているように思うのは私だけでしょうか? 1997年から2000年代前半にかけては「また?」って首を傾げたくなるぐらい立て続けに起きていたのが、ここ最近はまったく目にしなくなった気がします。マスコミが騒がなくなった──ということはまずないでしょうから、おそらく「事実、ここ数年『起きていない』」のでしょう。

 今、少しずつこうした「個性の大切さ」──そして「自分は、こうありたいんだ」ということを決められる人達が増えてきている、私はそんなふうに感じることがあります。
 これもまた、ある意味時代が変わる黎明期を象徴しているのかもしれません。
 本来、こうした「個性の尊重」は、「全体調和(世界平和)」に至る大前提です。個性の尊重があるからこそ、他者への思いやりや同情が生まれ、また同時に、「みなと調和していこう」とする精神も生まれるのですから。
 個性の確立はもとより、それを大切にするという精神が広がることで、大きく時代も変わっていくのだろう──そんなふうにも思う次第です。


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新たな時代に必要なのは、「予測」ではなく「青写真」

 昨日は思いがけない突発的な事故(?)により、ブログが更新出来ませんでした。
 と申しますのも、先日部屋でコップを割ってしまい、すべて破片を片付けたつもりだったのですが一部残っていたらしく、それを踏んでしまう──という粗相をしてしまったのです……。
 ただ踏んで怪我しただけならまだしも──奇妙なことに「踏んだ」と思われる破片が発見されず。
 また、痛み方が異常だったことから「これはもしかして、破片が中に入っているのではないか」と思いきや──案の定。整形外科でレントゲン写真を撮ってもらったところ、右足小指の下──それも結構、傷口よりも奥深く──に、ガラスの破片が写っていたのです。
 切開して取り除いてもらったものの、未だに片足の生活(苦笑)。当分は不便を強いられそうです。

 一見すると厄介な事態ではありますが──考えてみたら、意外にそうでもなく。私にしてみれば、「ちょっとラッキーだったかも」なんて、あれこれ思ってみたりします。
 ここ最近出歩く用事や突発的に出なければならなくなることも多く、じっくり思索したり、本を読む時間がまったくなかったんですよね。なので、これはかえって「いろいろ思考を深めるには、いい機会かもしれない」などと、前向きに考える始末(笑)。
 いや、でも確かにそうです。
 自分にとって大切な仕事であれば出歩くのも無理ないですが、2月に入ってからというもの、野暮用で出なければならないことも多く、疲労していたのは確かです。だからきっと、この怪我は本当の仕事に戻りなさいというメッセージなのかもしれません(笑)。

 そんな話は、さておき。
 今日、病院の待合室でP.F.ドラッカーの書いた「ネクストソサエティ」を読んでいました。
 書かれていた内容のほとんどは2001年の9.11以前に執筆されたものだったせいもあるのか、些か情報が古くなっている感はありました。
 古い──というよりも、「すでに指摘されている時代は到来してしまっており、そのまま突き進んでも解決策は出てこない。もっと斬新な視点が必要な時代となった」という印象を強く受けたのです。当時のドラッカーでさえも、現代の様相は予測出来なかったのかもしれません(まぁ、約10年前ですからね)。もしくは、時代の変化がさらに加速化しているのか──。

 社会学や経済学、および経営学にしてもそうですが、おおむね「データーからの類推」や史実における比較で成り立っています。
 勿論、どの学問もすべては「かつての論文」から抽出されていることを思えば、すべて「統計データに頼るしかない」のは当然のことではありますが──もはや、時代はそうした領域に「ない」ように感じたのです。そうした過去からの類推に頼り続ける以上、時代の流れから置き去りにされてしまうのではないか、と。
 それは必ずしも、「過去のデータに頼るな」と言っているのではなく、過去を踏まえた上で、もっと違った発想の転換が必要なのではないかそんなふうにも思えたのです。

 私がこうした社会学系における論文を見ていて非常に不満を感じるのは、結局のところそれは「こうなるだろう」という予測でしかなく、画期的な対策を講じたアイディアではない、ということです。
 今の人類に必要なのは「こうなるだろうという予測」ではなく、「こうなることを目指そうという、未来の青写真」だと思えるのです。どんな社会であれば、人々は平穏に暮らせるのか──自然環境との共存が出来るのか──そうした青写真は、言ってしまえば「新システム」とも言うべきもので、いわば私達人類が目指す「手本」とも言うものなのかもしれない。
 まぁ、それがまた変に「マニュアル化」しすぎても、結局また今までの社会同様「元の木阿弥」となってしまうので、そこは少し緩めて考えた方がいいでしょう。でも、いずれにせよ「目指すべき理想社会」というものの提案が、もっと現存社会学者からあがってもいいように感じることは多々あります。(考えるのが仕事なんですから((爆))。学会に出るばかりが仕事ではないはずです。こういう窮屈さも、私が大学院や研究職に「つきたくない」と思った理由のひとつだったりもしますが──。)

 私は現在、自分自身が知り得た理想的世界の青写真と、および世界の時代史にある減少を結びつけながら、あれこれと「新たなシステム」を模索しています。
 それがどのようなものか、現段階でははっきり提示出来ませんが、ひとつだけ明確に言えることは、目に見えるものと、目に見えないものが完全に融合した世界となるだろうということです。
 言ってしまえば、物質世界と霊的世界(精神世界と言ってもいいですが)。本来これらは「両者ひとつ」のものであって、分離させて考えること自体が、不自然なのです。そのことに気がつけば宗教の不自然さに気がつくし、また、チャネリングだのといったことを商売にしている人達も激減(と言うよりも、皆無に)なるでしょう。何故なら、誰もが「自分達の直感」の中に生き、それを「言語化」し、かつ「物質化」する能力が持てるからです(物質化というのは、何もいきなり目の前に物が現れる、ということではありません。発明を通じてこの世に顕在させる力も、立派な物質化です)。
 そういう世界では、自ずと社会や国に対する概念も変わってくるはずです。また、個性と社会の関係性も然り。社会は個性を抑圧せず、同時に、個性は自らを表現することで全体との調和をなす──両者が「相互扶助」の関係であることを、存分に発揮出来る世界となると思えるのです。
 
 今、時代は少しずつでも「そうした方向性」に向かいつつある──そんな気がしています。だとしたら、旧態依然の方法論でどんなに学術的予測をたてたところで、それはすべて外れてしまうでしょう。
 私達に必要なのは、予測ではなく、目指すべき新天地の地図です。そうした理想世界の青写真が脳裏に描かれていれば、私達はどんな強固な予測でも、それを打ち崩して、新たな時代に到達することが可能になる──そんなふうに、私は思っています。


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愛とは「ただ、そこに在るもの」

 まだ現在も、4歳甥っ子との同居生活が続く篠崎(笑)。
 昼間階下に行こうものなら捕まって離してくれず、仕事にならないので(子供にどんなに「私は自営業でね、お家で仕事しているんだよ(滝汗)」って説明しても、そうそう理解はしてもらえません; 家にいれば誰だって「遊び相手」です;)、甥っ子が寝ている時に仕事をし、甥っ子が起きている最中は「寝る」という、昼夜逆転の生活をすることに決めました。(寝ているというのが分かると、起こすことまではしないので──)

 しかし・・・・・・それでもそうそう、うまくは行かず(涙)。
 今日も深夜3時に起きて、この時間まで仕事をしていましたが・・・・・・酷く泣き叫ぶ声がしたので、仕事を中断せざるを得ませんでした。
 慌てて降りていってみたところ、どうやら父親(甥っ子にしてみれば祖父)に叱責されたようなのです。
 公園に連れて行っていたものの、水たまりで甥っ子は遊びたがって──それを祖父が止めたにも関わらず、甥っ子がそれをはねのけて水たまりに入ったことで、祖父が「叩いた」らしいのです。
 ──事情は分かります。
 私の父親は元教師ですが、高校の教師を目指したのも「子供が嫌いだから」という理由な程の人で──私が子供だった頃も、休日にどこかへ連れて行くなんてことがなかったような人ですから。もともと、子供が苦手なのです。親らしいことを、したことがなかったから。
 でも、命に危険なことをしたならともかく、ただ水たまりで遊んだだけで叩かれてしまったら、子供は怯えて当然です。ましてや、男の子なのだから──水たまりで遊びたくもなるでしょう。「悪いことを叱る」のと、「ただ大人の都合で叩く」のでは、根本的に意味が違います。私の父が「後者」だったのは──言うまでもありませんでした。
 甥っ子があまりに興奮して泣きやまないので、私はただ黙って、じっと抱いていました。
 何も言わずに、「泣かないの」とあやすこともなく、「思う存分、泣かせてあげよう」──そう思って、ただただ、抱きしめていたのです。
 すると、ようやく落ち着きました。ある程度落ち着いたので、私は仕事に戻ろうと思ったら──

 ──今度は、離れてくれなくなりましたが・・・・・・orz。←それでゲームにまでつきあわされた徹夜明けの人;

 甥っ子が小さいながらも、色々なことを我慢しているのが、私にも分かります。
 大人の都合の狭間に立たされ、母親が不在な理由も、何故自分が母の実家にいるのかも、子供心に分かっているのでしょう。
 私はそんな甥っ子が、とても不憫に思えます・・・・・・。
 辛い思いをしている子供は、きっと世の中大勢いる。だから、甥っ子をひいきするつもりもないのですが──やはり、私の目の届くところにいる以上、甥っ子の満たされない想いはしっかり受け止めたい──そう思いました。

 興奮して泣きじゃくる甥っ子を抱きしめながら、ふと、私はこんなふうに思いました。
 愛の本質は、何も変わらない──と。
 愛には、色々な言い方があります。「慈愛」「異性愛」「欲愛」・・・・・・友愛、親子愛、などなど。
 でも、それらはただ「形が違う」だけで──「愛の核にある部分は、すべて同じなのではないか」、そう思ったのです。

 多くの人は「愛にはそれぞれ、種類がある」──そう思っているかもしれません。
 でも、本来、異性に向ける愛だろうが、夫に、妻に向ける愛だろうが、子供に向ける愛だろうが──すべての源は「ひとつ」なのかもしれません。
 それは、言葉にならない、想い。
 私が甥っ子を抱きしめていた時、何も「考えていませんでした」。
 「徹夜明けなのに~」とか、「早く泣きやまないかな~」とか、
 或いは「何でこんなに泣いてるんだろう」とか、「よしよし、泣かないの」とも──

 何も思わず──そこにあったのは、ただただ、包み込む想いだけでした。

 愛って、そういうものなのかもしれません──。
 理屈でもなく、言葉でも定義出来ず、
 ただ「感じ取るもの」。
 ただ「そこにあるもの」。

 そう言えば、今から十年以上前に、こんな質問をされたことがありました。
「あなたは、どうやって愛を知ったの?」
 私が「愛を知っている」のかどうかは、分かりません。愛って、概念ではないし定義出来るものでもないから。
 ただ、私は途方もない感動を体験して知っていたし(詳しくは「天界の音楽」にて)、愛は無形のものでしかない──そんな想いはありました。
 だから、私はこう答えました。

「私が愛を知っているかはどうか、わからない。でも、私が無性に感動するようなことは、今までに何度かあった。それは、大地から芽吹く草の芽を見た時だったり、暖かな日差しを頬に受けた時だったり、静かな風の音を聞くような時──つまりは、『地球に愛されている』ってことを感じた時、かな」

 その答えはあまりに抽象的すぎたようで、相手に伝わっていなかったようですが(笑)。
 でも、私は甥っ子をただ抱きしめていた時に「同じこと」を感じました。
 愛は、「ただある」ことであり「ただ包む」ことであり──
 「相手の存在に対する、全肯定なのだ」と──。

 そう考えると──。
 泣きじゃくる甥っ子のように、幼くて愚かな私達人類を、地球はいつでも、優しく包み込んでくれているのかもしれませんね(笑)。


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2010-02-18 | 真理 | トラックバック(0) |

自分の思っていることは、必ずしも相手が望んでいることではない。

 篠崎は現在、身内間で起きたトラブルにより、「両者の言い分」というのを聞く──いわば調停役みたいな立場に立っています。
 こういう立場にいると、本当に色々なことが見えてくると言うか──如何に人は、自分のフィルターを『真実』と思いこんでいるかが実感出来ます。

 喩えて言えば──ある人のフィルターは「情が基盤」だとします。
 愛や想いを言葉にしなくても、その行動、態度、すべての中にその人は「情」を見るわけです。何故なら、その人のフィルターは最初から「情」から出来ているから、思考するよりも先にフィルターが「情」におけるふるいをかけるからです。
 しかし、もうひとりの人のフィルターは「如何に自分が楽出来るか」だとします。
 そうすると、相手の行動、態度、そういったものから「相手の情」をふるいわけることがなくなります。逆に「言葉」ではっきり伝えられない限り、その人には「届かない」ことになってしまうのです(まぁ、最初から「自分が楽出来るか」というフィルターが最初にあると、どんなに言葉で伝えたところで、それは必ず「自分にとってメリットか、デメリットか」にしか変換されない為、無意味と言えば無意味なのですが──)

 世の中のもめ事の多くは、すべてこうした人それぞれに、フィルターがあるのだということが誤解されているところから生じている──そんなふうに思います。
 例えば、私がAさんを「かくかくしかじか、こういう人だ」と思った時、その時点ですでに私のフィルターを通じて見ています。Aさんの本質を、私は見ているわけではないのです。
 だからこそ私は、自分だけの意見で「○さんって、こういう人ね!」と決めつけたくはありません。それは、私自身の「フィルター(思いこみ)」でしかない場合もあるからです。
 だから、私は何かを判断する場合、あらゆる角度でそれを調べ──同時に、他の人の意見も参考にするようにしています。

 直感──というのは、そうしたフィルターが「いっさいかけられてない、純粋な閃き」ですが、それが本当にフィルターがかかっているか否かは・・・・・・誰にも分からない、そう思います。
 その直感を「信じるか否か」は自分でしかないし、誰にも判断出来るものではない。ただ、「出来るだけ、自分のフィルターは透明にするよう努力したい」・・・・・・いつもそう、私は思っています。

 話が少し逸れましたが。
 身近にある問題は然り、国の問題は然り、すべてがこうした「個々人のフィルター」によって行き違い、誤解、そうした諸問題を起こしているのだろう──そんな気がしてならない昨今です。
 また、これは厄介なことに、国が違うと「言語の違い」というフィルターまでかかってしまう。そうすると、二重・三重・四重にもフィルターが出来てしまうので、価値観の相違、行き違い、けんか、もめ事──これらが続発しても「無理はないのかもしれない」、そんなふうにも思えてしまいます。

 戦争をなくそうと叫ぶのは簡単ですが──確かに、それを「なくす」為のフィルター除去は、とても大変なんだということを、痛感することも多いです。

 でも──。
 そうしたフィルターは、実は「こころの外側の部分」にあって──本当の核・・・・・・もっとも中枢にある「想い」は、実はみな、大差がないのではないかそうも思うのです。
 それこそが、私が先日書いた「YOU are EARTHの活動意義」にもあるような、少しずつでも、人は意識改革がされているということに繋がります。
 もし、そうした「ひとつの正しい真理」が存在せず、みんながみんな個々バラバラに生きているのが真理ならば──未だに世界のどこかでは残酷な処刑がなされ、あり得ないような生け贄があり、私達が想像出来ないような憎悪に満ちた国があっておかしくない。
 でも、今の世界に「そういうところはほとんどない」ことが、私達が、ひとつの真理に導かれつつある証拠なのかもしれない──そうも思うのです。

 身近のもめ事を見ていて、あまりにも平行線のやりとりを眺めていると──「身近な人間同士がこの状態では、確かに国家間の問題を片付けるなんて難しいよなぁ」なんて、思わず苦笑したくなることがあります。
 しかし、「今、すぐ」という目で見ずにいれば──どんな問題も、必ず解決するのかもしれない。
 私は、この問題の当事者に、「すべては、互いのフィルターの違いが問題なんだ。もう少し、相手のフィルターを意識してはどうか?」という話などもしました。
 人はどうしても、「私がこう思っているんだから、相手もそう思っているに違いない!」そんなふうに思ってしまいがちですが──そうではないです。
 相手には相手のフィルターがあり、自分が思っているからといって「必ずしも相手がそうとは限らない」──。
 そういう「小さな気づき」から、私達は学び始める必要があるのだろうな──そんなふうに思う今日この頃です。



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2010-02-17 | 真理 | トラックバック(0) |

YOU are EARTHの活動意義──それは「精神の在り方」から始まる

 私は、「YOU are EARTH」の活動を説明する時、「ぐっっ」と喉に詰まることがあります(苦笑)。
 まぁ、既存のビジネス感覚で言えばセミナーや講演会の企画をしたりという「情報提供」ですが、根底にある活動目的は地球の未来を創造することです。
 その為の情報提供──セミナー、講演会企画などを行うのが具体的な活動内容なのですが、そういう言い方をすると「宗教団体」とか「啓蒙活動」と勘違いされることも多々あるからです。(勿論、まったくそんなことはありません。それは、このブログを読んで下さっている読者の方が、一番理解してくださっていることと思います。大体、哲学を学術的にしっかり勉強した人は宗教家になんてなりませんって((笑))。「宗教という在り方はすでに『旧い』」というのを、痛感しているはずだから。)

 「YOU are EARTH」という言葉から分かるように、地球の問題は個々人の意識レベルに直結しており、同時に、個々人の在り方が地球の未来を左右するということが、私達の活動における基盤です。
 しかし、そうした意味が今現在の社会では「あまりまだ、受け入れられていないのだな」と思うことが、ままあります。
 まぁ、それもある意味仕方のないことですね。今まで日本は「物質崇拝主義」で数十年間来ていたのだから。昨日のブログに書いた内容と連動しますが、それこそ「学歴」「大企業」「肩書き」、そうした目に見えるものばかりに価値を求める時代が、数十年続いていたのだから、急に変わろうとしたところで無理があるのはやむを得ません。
 1945年に戦争が終わり、「ゼロからの再スタート」を強いられた日本。「豊かさこそが幸福」という錯覚の中、高度経済成長を経て、バブル崩壊の1991年に至るまで──約46年間。その「枠」は、そうそう簡単に打ち破れるものでもないでしょう。
 それに加え、「資本主義のあり方」そのものを見直す必要性が問われるようになってからはほんの数年。まだまだ今は、改革の黎明期ですものね。
 構造改革だの政権改革だの、あちこちでそうした言葉は流布されていますが──改革を促す際に最も大切な基盤が「抜け落ちている」そう感じることが多々あります。

 それは「精神」。
 改革という視点に立つ場合、もっとも根底にくる基盤は精神の在り方でなければならない──私には、そう思えるのです。
 すべての活動において「精神の在り方」は絶対的に必須です。今までの時代は、何かの活動をするとなるとすべて「マニュアル」──方法論から入りました。
 しかし、それでは意味がありません。どんなに外側を整えたところで、内面が確立していなければ意味がないのだと、私には思えるのです。そうした「方法論の失敗」は、すべて「万民の平和の為に」と行われたはずの改革が決して成功していないことからも窺えます。人々の意識が変わっていない限り、どんなにシステムを整えたところで「元の黙阿弥」なのです。

 では、どうやって精神の在り方が変わるというのか──多くの方が、疑問を持つことでしょう。
 私は、決して難しいことではないそう思っています。
 例えば──人類はかつて、残酷な処刑を実行していました。「股裂きの刑」や「椅子に括り付けたまま池に沈める」など、「何故、そこまで残酷になれるのか」と首を傾げたくなるようなことが行われていました。
 そうした事例を取り上げて、「人間はもともと、残酷な生物なのだ」という人もいますが──それは違う、私はそう思います。
 こうした処刑がなくなった経緯は、時代を経て、様々に環境が変わっていくことで、自ずと人々の意識改革がなされてきた証拠だと、私には思えるのです(おそらく、死刑も廃止されることでしょう。もっと違った更正の方法が打ち出されると、私は感じています)。
 人々の意識が自ずと変わってきているというのは、歴史を振り返れば「いくらでもわかります」。日本の戦国時代を振り返ったってそうでしょう。何で、こんなちっちゃな国で領土を奪い合って戦争していたんだ、馬鹿馬鹿しい──そう思う人達は、今の時代大勢いるはずです。

 私達は自覚するにせよしないにせよ、人類史上、今に至るまで、少しずつでも意識改革はなされているのです。
 だったら、今を生きる私達が少しでも「地球と自分達のつながりを意識すること」で、未来が変わる可能性は十分に──いえ、ほぼ間違いなく「起こりえる」、私はそう確信しています。
 だとすれば、私達の活動が投じる「一石」は、どんなに小さな小石であっても「とてつもなく大きな一石」になる可能性だってあり得るのです。

 私は、ただ目先のこと──数年先だけを見据えて、今を生きたくはありません。
 勿論、今、この瞬間を大切に生きるというのは、とても重要なことです。これがなければ、明るい未来もないと言っても過言ではありません。
 しかし、今というこの瞬間が、遠い未来にも影響するという意識の在り方も大事だと、最近実感することが多々あるのです。
 勿論、「今、正しい」と思われていることが、未来永劫「正しい」とは言い切れません。これもまた、歴史が証明している事実です。しかし、少なくとも「今を、正しく『あろう』」とする精神の在り方は、自ずと道を修正し、本当の真理に通じるよう導いてくれるものなのだと思えるのです。

 すべての活動において、基盤となるのはこうした「誠意」──「正しくあろう」とする精神の在り方だと、そう思います。
 それがエゴかどうか、ジャッジする必要なんてない。「正しくあろう」という意識を持つだけで自ずとエゴは遠ざけられるものなのだ──そう感じることが多い昨今です。



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教育が変わらなければ、国も変わらず、未来も変えられない。

 私が小学生だった頃、周りは何だかよく分かりませんが塾ブームでした。
 篠崎の父親は高校の物理教師で、教師としての意地があったのか何なのか分かりませんが、私達姉妹を塾に入れようとは絶対にしませんでした。なので、友達がみんな「塾」に行っている中、私はひとりで勉強をしているしかなかったのを覚えています(って、子供時代は勉強が大嫌いで、教科書を開きもしない子供でしたが((苦笑)))。

 でも、そうした環境はとどのつまり、私の同級生のお母さんがハンパない教育ママであることの証明でもありました。
 私の幼なじみは、幼稚園の時に九九を最後まで言えなかったことが理由で、朝から夕方まで押し入れに閉じこめられたそうです(これって、今だったら虐待とか言われそうですよね)。
 テストが返されると、互いにみんなが覗きあっては「○○ちゃんは80点ね」「あの子は50点だったみたい」と言ってそれを親に告げ口し、それがPTAの話題になったり、ひどい時は虐めの対象になるなど──何ともおかしな世界でした。

 また、教師側も教師側で、変わった人達も大勢いました。
 私の学区は、ちょうど全共闘世代に活動した人達から教師になった人もたくさんいました。そういう教師を、親たちは「アカ先生」と呼んでいたのですが、子供には「何がアカなのか」分かりません。「アカ」と言えば「赤」、或いは「垢」ぐらいしか思い浮かばないですから。
「あの先生は『アカ先生』だから、近づいちゃ駄目よ!」
 そんなふうに言われたこともありましたが──何故か私は、親たちが「アカ先生」と言って嫌う先生こそに好かれるケースが多く(たぶん、子供ながらに主張のある生意気な作文を書いていたからでしょう)、何とも板挟みな気分でした。
 子供にああいう思いをさせるのって如何なものかと、本当に思います。
 勿論、「子供の教育をすべて預ける」ことを思えば、その先生のことであれこれ不安が出てくるのは仕方ないでしょう。しかし、それを子供に言われたって、子供はどうすればいいのやら──先生に向かって「お母さんが、先生をアカ先生って言ってました!」なんて言えやしません(まぁ、その先生だったら笑って許してくれそうな人でしたが──)。

 しかし、ここ数年はまたさらに事情が変わって──今度は先生が鬱病になるケースが増えているのだとか。
 モンスターペアレンツなんて言葉もよく耳にしますが、私は自分の子供時代から今に至る教育環境の流れを見ると「何をしてんだか・・・・・・」って感じで、溜息を吐きたくなります。
 教師の鬱病が増えているというのは、私自身も新聞記事だけでなく、実際に見聞きしていました。私の知人で教師をやっている人が複数名いて、その人達がどれだけ苦労しているかも知っているし、また、以前電話相談をしていた時も、若い教師の方からの相談が多かったからです。その相談内容のほとんどは、生徒のご両親に関するものでしたが。

 確かに、教師の不祥事も多いのは事実なので、「安心して任せられない」──そういうのはあるのでしょう。
 でも、お互いにお互いが教育のあら探しをして何になるのだろう──そんなふうに思うことがままあります。
 教師側は両親に対して神経質になりすぎて、両親は教師の教育に神経質になりすぎて──しかも、何か問題があったら学校側はそれをもみ消そうとする始末。

 企業が腐っているのは、今に始まったことではないですが──教育もそれでは、なにをかいわんやです。

 私の周囲には子供を育てているお母さんも多いですが、「公立は教育に期待が出来ないので、私立にいれる」と言っている人も少なくないです。
 でも、中には「頭は良くても、経済的な事情で私立に行けない子」というのもいることでしょう。そういう子は、どんどん掃きだめとなっていく公立に入り、将来を潰すしかなくなってしまうのでしょうか?

 本来はもっと、子供にあった教育環境に対する選択の自由があるべきではないでしょうか?
 最近は小学生の不登校なども多く、私の知人にも不登校の子供を抱えるお母さんが複数人います。
 でも、そういう子のほとんどはとても感受性が鋭い子で、何か大きな問題を抱えているような子ではありません。むしろ、豊かな才能を学校で伸ばしきることが出来ず、さらにそうした個性が周囲の子供達からいじめの対象になったりで、結果的に学校へ行けなくなってしまうケースがあるようです。

 私は、そういう子の話を聞くたびに「無理に学校に行かせる必要は、ないんじゃない?」そう答えます。その子が無理に学校に行くことでその子の天性の才能を潰したり、或いは酷い心的ストレスを抱えて自殺するようになる方が、余程怖い──そう思えるのです。
 だったら、通信教育なり他の方法をとった方がいいし、何かしらの手段を講じることが出来るはず──そう感じます。

 私がここで何度も叫んでいる「循環」が廻ることで、こうした問題もいずれはクリアされていくことでしょう。
 本当に勉強したい子こそが「勉強の出来る環境」を与えられるべきで、怠けたい子には、「怠けずにいられるぐらい、楽しめる何か」を与える環境が必要なのだと思います。(ちなみに、怠惰というのは環境から生じるのであって、子供の時分は誰もが「怠惰」ではないと私は思います。3歳までの時期に何も構ってあげなかったり、何の刺激を与えないと怠惰癖がつくかもしれませんが、本来、霊性の本質で考えたら「怠惰」というのは不自然な流れ方であって、本質とは異なる──と思えるからです。)

 極論を言ってしまえば──本当は、世の半数近くの大人達を、教育機関に廻す必要性があって、社会の循環を促す営利的仕事をする人は「半数以下」でいいのではないかと、私は思っています。
 本当に大切なのは「子供の教育」です。
 子供は「未来をつくる存在」だからです。
「教育の根源」がしっかりしていれば、社会が揺らぐこともない──大人達が情けなくなる必要性もない。私達30代以降(って、あともうちょいで40代ですが)に「情けない大人」が多いのは、「情けない教育」を受けてきたからだろう──そんなふうにも思えるのです。

 国を変えたいと思ったら、まずは「教育」から変えるべきではないか──そう思います。
 もっとも、日本は「ゆとり教育」という苦い経験があるので、そういう教育改革には引け腰でしょうね。でも、逆に言えばゆとり教育を教える「教育者達」にゆとりがなかったら、最初から意味がないじゃんという気が、当時から強くしていました。そもそも「ゆとり」とは何なのか。何を主旨とし、何を目的とした教育方針だったのか。何を改革する為に、その案を提示したのか。そうしたこともすべて不透明なまま切り出し、不透明なまま「失敗だったね~」って言われているに過ぎないような気がしています。

 根本的に、日本の教育の在り方自体にどこか「歪み」がある以上、どう足掻いたところで何も変わらない──そう思えるのです。「今の子供達の教育を変えたって、その結果が現れるのは数十年先だ!」なんてちまっちいこと叫んでないで、少しは遠くを見据えた改革案を出すべきなのではないか、そう思います。
 それは何十億の投資だの、事業仕分けだのが必要なことではなく、たった僅かな意識の持ちようだけで変わってくるだけの、簡単なことだと思うのです。
 「教育が変わらなければ、国も変わらない。そして、未来も変えられない」──そう意識しているだけでも、今よりはだいぶマシな未来が開けてくるのではないかと、そんなふうに思います。




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理想は「他者」にではなく「自己」に求めるもの

 先日、「へぇ──」と考えさせられるコラムを目にしました。
 その内容は、宮崎駿監督の映画「崖の上のポニョ」に関するもので、上映当時、宗介の母親であるリサに対する「批判」が殺到した──というものでした。
 まぁ・・・・・・言う人は「言うだろうな」という気はします。
 作品を見た方はご存知でしょうが、宗介は母親も父親も名前で呼んでおり(それはこのブログでも書いたことがありますが)、そこに親としての権威はありません。(でも、親に必要なのは「親子愛」であり、「権威ではない」というのも、このブログで書いたとおりです。)批判の内容は「車の運転が乱暴」とか、「夫が帰らないことで感情的になるのは如何なものか」、或いは「子供にインスタントラーメンを食べさせるなんて、どういうことだ」など、そういった批判が多かったそうです。
 しかし、そのコラムではあの作品に、理想の母親像を求めること自体が筋違いなのではないかと言ったことが書かれていました。
 それは確かに、一理あるでしょう。
 しかし、私がそこで引っ掛かったのは、それなら、理想の母親像というのはどういうものなのかということです。

 理想の母親像──。
 巷でよく耳にする言葉ですね。大抵、夫婦関係が破綻する前にはそうした言葉が飛び交います。「理想の妻像ではなかった」とか「理想の夫にはほど遠い」とか・・・・・・。
 しかし、そうした言葉を使う方に是非ご一考頂きたいのは、では、あなたは「理想の自分像」になれているのですかということです。
 私は正直言って、「崖の上のポニョ」のリサに違和感はありませんでした。むしろ、あそこまで「ハチャメチャ(笑)」なお母さんだからこそ、宗介は立派に育っているのではないでしょうか?(宗介の年齢設定は5歳だそうですが、とてもじゃないけれど私の甥っ子と1歳違いとは思えないぐらい大人です;)
 まぁ、創作された物語に対してそうした人間像を論じるのも、それこそ筋違いかもしれませんが、あまりにも簡単に「理想の○○像」と言われることに私はどうも抵抗を感じてしまいます。

 本来「理想」というのは自己に求めるべきものであって、
 他者に求めるべきではない
のではないでしょうか?

 人は、昔からこうした「理想」を追い求めて来ました。
 童話「青い鳥」なども、鳥に象徴されてはいるものの、結局は「理想」を探していたのと同じことだと思えるのです。
 30代後半の世代の女性であれば、「花の子ルンルン」というアニメ番組があったのをご存知と思います。放映当時、私は「ルンルン」という軽いノリの名前が嫌いで(変なことを嫌う子供ですよね;)見ていなかったのですが、再放送の時に改めて見て「あ、このアニメ面白いかも」と思い、全話、夢中になって見たのを覚えています。
 このアニメは、主人公のルンルンが「七色の花(虹色の花だったかな?)」を探して世界全国を旅する──という話なのですが、結論としては「青い鳥」と同じです。
 青い鳥も、チルチルとミチルが冒険をしながら青い鳥を探しますが──結果的に「自分の家にいた」ことに気づきます。
 この教訓は、色々な見方が出来るでしょう。
 まずひとつは、理想というのは、実は身近にあるものなのだということ。それは、おそらく多くの人が行き着く教訓だと思います。

 でも、私はもうひとつの見方の方が重要じゃないかと思えるのです。
 すなわち、行動をしなければ、結局その理想に気づけなかったということです。

 「青い鳥」に置き換えて言うなれば、チルチルとミチルが「あれだけの冒険」をしたからこそ、青い鳥が家にいたことに気づいたのであって、また、「花の子ルンルン」で言うなれば、ルンルンが「あれだけの旅と出逢い」をしたからこそ、七色の花が庭に咲いていたことに気づいたのだ──という。

 理想は「身近にある」というのは、確かに一理あるでしょう。
 しかし、それに気づくか気づかないかは、如何に自分が行動したかなのではないか──私には、そう思えるのです。
 だからこそ、他者や外部に「理想の母親像・父親像」「恋人像」を求めるのであれば、そういう人を得る為に、まずはどれだけ自分が理想に近づいているのかの方が大切なのではないかと、私は思えるのです。
 ましてや、世間的価値観から押しつけられた理想の母親像なんて、窮屈に決まっています!
 麻薬で逮捕された元アイドルの酒井法子さんは、「理想のママドル」という言葉が窮屈だった──と言っていたそうです。世間の目で自分の枠が決められてしまうなんて・・・・・・何とも気の毒な話ですよね。

 他者に理想を要求する時は、是非とも「どれだけ自分が理想的な人物か」を考察してから述べて欲しいものだな──なんて、ついそんなふうにも思ってしまいました(笑)。
 


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2010-02-13 | 真理 | トラックバック(0) |

お金は酸素!【循環こそが、時代を変える!:パート2】

 「賞味期限切れ商品」を使い廻したとして、あちこちの企業の代表者が頭を下げている記者会見場面を目にしてから──2年ほどでしょうか。
 「食の安全はどこに行ったのか」という見出しが──今は一点。
 「食の安全」よりも「安価」に人は飛びついているそうです──。

 中国の冷凍餃子問題が起きた時、私は某大手食品メーカーの冷凍食品受注センターにいました。
 その時期、冷凍食品の売り上げはかなり低く、営業達も相当苦労した模様です。
 あの頃の風潮など今はまったく消え失せ、人は安ければいいという価値観に流れているそうですが──

 ──果たして、それでいいのでしょうか?

 勿論、私自身主婦の時代がありましたので、家計の為に「ついつい安いもの」を買ってしまうことが多々ありました。スーパーの「お買い得」の曜日はきちんと心得ていて、その日を狙って買い物になどもいったものです。
 ですが、今の状態はそうした「少しでも家計を節約」というレベルではなく、企業側も身を削る思いで安価に下げ、それに消費者が群がるという仕組みです。
 本当に、そこまで景気が悪いのでしょうか?

 ある報道番組で、非常に安価な食材を売っている中小企業の社長をインタビューしている場面がありました。悲痛そうな顔で、その人はこう言いました。
「いや──もう、正直身を削ってます。これ以上、下げられないところまでやってます。でも、そこまでしないと売れないんです」
 彼らにも、生活はあるでしょう。生活する以上、ある程度の利益は必要です。でも、消費者が安価に流れ過ぎるが故に、中小企業の人々は、それに応じた対応をしなければならなくなるのでしょうね・・・・・・。

 食の安全から一転して、食の安価。
 まったくもって「付和雷同」です。

 これもまた、昨日書いた「循環」の問題に関わってくる──私はそう思います。
 循環が滞っているということは、どこかでそれを、蓄えて出そうとしない人もいるのでしょう
  
 新たな時代に向かう為には、まずこうした「お金」の問題もクリアにしていかなければなりません。
 よく、精神世界系の本ではお金はエネルギーだと言いますが・・・・・・私は「不適当な説明だ」と思います。
 だって、今までにもすでに私達は「エネルギーを奪い合って、戦争を繰り返している」のですから。原子力だって「原子エネルギー」です。「お金はエネルギー」と言ってしまうと、それは結局奪い合いを肯定していることにしかならないと、私には、そう思えるのです。

 もっと「いい喩え」が他にある──私はそう思います。
 それは、酸素です。

 空気──と言ってもいいのですが、日本語の場合「空気」というと別の意味で捉えられることが多いので(KYとかね;)、あえて「酸素」と言わせて頂きます。
 地球(地球の自然、樹々)は毎日、毎分、毎秒、酸素を供給してくれています。その供給に差別はありません。国もなければ、民族もない──みなに平等に、供給してくれています。
 そうやって平等に供給された酸素を、人々が争って奪い合ったら──何とも滑稽だと思いませんか?
 ある国では酸素ボンベを持ち歩き、その上「高原の酸素」だの「森林の酸素」だの、プレミアまでついていて、それを浪費し、余らせていたとしましょう。
 でも、別の国では──その酸素が他の国に独り占めされているが故に、呼吸困難で死んでいく人達が大勢いたら──あまりに不平等ではないでしょうか?

 地球が供給出来る酸素の量には限界がありますが、それでも、本来は全員に行き渡るものであることは、誰でも承知しているはずです。
 みんな、誰しもが「呼吸が出来ている」ことを、知っているはずです。

 お金も、それと本来は「同じこと」なのだと──私には思えるのです。

 今、世界不況と言われていますが──世界から一斉に、お金がなくなるわけはありません。
 もしかしたら「どこかに、集中している箇所(異常な儲け方をしている場所)があるのではないか」と、私は思っています。
 私は「陰謀論」という考え方が嫌いです。なので、そういう悪の組織の仕業だとか、そういうことを言うつもりはありません。すべては「エゴ」から生じているのであって、組織がたとえ存在していてもそれ自体が問題なのではなく「エゴそのもの」が解決されない限り、問題は解決されないと思っているからです。
 でも──もしも、その私の予測が外れていないのであれば・・・・・・私達は、「一体、この世界不況を生み出したのは何なのか」に向き合う必要があるのであって、いたずらに「デフレ日本」といった言葉に踊らされてはならない、そう思うのです。

 デフレという言葉が飛び交えば飛び交う程、人は保守的になり、循環を遠ざけます。
 循環を遠ざければ遠ざけるほど、流れが滞ってすべてに制限がかかってしまう──。
 何が正しくて、何が間違っているのか──私達はそれを見抜く「目」を、私達自身で自ら培う必要があるのでしょう。
 ここ最近、ひとりひとりが目覚める必要性を、本当に痛感しています──。



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2010-02-12 | 社会 | トラックバック(0) |

循環こそが、時代を変える!

 先日、人間の存在意義を、考える機会が多いということを書きましたが、そこから派生して生命の在り方について思いを馳せることが多くなりました。
 「時代の夜明け 共生の世界」でも書いたように、私達はあまりにも自分達の都合に応じて環境をねじ曲げ過ぎてしまったのではないか──それが故に、多くの社会問題(詳しくは「無縁死も虐待も、すべては既存システム崩壊の現れ」)が浮上しているのではないか、そんなふうに思えるのです。

 私達は一体、何を間違えてしまったのでしょうか──。

 ひとつはやはり、所有が原因だと思います。
 それは、「時代の夜明け」で書いたように「海まで境界線をつけられた世界地図」で充分表されています。大地はひとつなのに壁を越えたことで命を奪われたり、銃撃戦が行われたり──そうした行為は「支配」と「所有」というエゴの中から生じられた行為だと、私には思えるのです。
 こんな話を、聞いたことがあります。
 ある湖は、外部から一滴も水を入れなければ出すことのない、本当に孤立した湖でした。そこの水は失われることはないけれども、循環のないその水で生命は誕生せず、まるで死んだように濁っていた──と。
 そして一方の湖は、ある川の下流にあり、また他の川へも繋がっていました。そこは絶えず水が流れては巡っていくので生命が繁殖し、魚たちが生き生きと暮らしていた、というのです。

 所有は結果的に、何も生み出さない──。「何も失うことがなくても、同時に、何も生まれない」のでしょう。
 しかし、循環は「失うと同時に、入ってくる」──それは絶えず、生命の流れを象徴するかのように流動していくのでしょう。

 聖書にあった5タラントの喩えも、似たようなものですよね。三人の兄弟がそれぞれ5タラントを父から預かり、上の二人は商売などでそれを増やしたものの、末っ子は土に埋めてずっと閉まっておきました。帰宅した父は、何もせずにただ所有した末っ子を叱った──という話ですが、一見すると「どうしてお金を守った末っ子が怒られなくちゃいけないの?」という疑問を持つかもしれませんね。
 この話を聞いた日本人の多くの人が、「理不尽だ」と言ったそうです。
 それはそうでしょう。日本人は、貯蓄が大好きですから(笑)。
 お金を貯めることに美徳を感じる人が、多い印象を受けます。
 最近の若い人はそうでもないでしょうが、私より上の世代には結構多かったりします。おそらくそれは、戦後──「物のない時代」の影響を受けた背景もあるのではないかなと、そんなふうにも思います。

 ですが、本来この地球上にあるものはすべて借り物でしかありません
 私達は、すべてを地球から借りているのに過ぎず、ここを去る時は「必ず返して行かねばならない」のです。
 そう考えると、所有ということの意味が──私は根本的に「崩れていく」のを感じます。

 命が廻っていくように、季節が廻っていくように、
 そしてまた、時代が廻っていくように──すべて「循環することこそ」が、自然の法則なのではないでしょうか?
 現在は世界不況と言いますが、それでもまだ途上国に住む人達よりは遙かに恵まれています。毎日三食ご飯を食べて、寝床だってあります。
 それすらも与えられなかった人達がいるということは、最初から、世界の循環が偏っていたことの証拠なのではないでしょうか?

 だとしたら──私達は、今こそ「循環」ということを考えるべき時代に突入しているのだと、そう思えるのです。
 日本人は保守的な人が多く、「変化」を恐れる人達が多いです。
 でも・・・・・・はっきりと申しましょう。
 変化は、絶対に避けられない。私は、そう思っています。
 だったら、「自分から変化の波に、乗ればいいじゃないか」──そう思うのです。
 変化を恐れていたら、どんなに小さな変化でも衝撃を受けるでしょう。
 でも、「自分から変化を受け入れたら」──それは、素晴らしい飛躍に他なりません。
 大空を羽ばたく渡り鳥の群れは、強い突風が来た時、それに抗おうとはしません。抗えばおそらく、その翼を傷つけることになるからでしょう。彼らはその風を利用して、さらに高く飛び立つよう心得ているのです。

 私達人類も、今、まさに「その時」に来ているのではないでしょうか?
 所有ではなく、「循環」という視点を持つ──。
 そうすることで、私達はこれからの時代の変化にも応じられる強さを持てるのではないでしょうか?

 3月21日のトークイベントでは、そうしたテーマを中心にお話したいと思っています。



 この「循環」という考え方は、私自身が新たな時代における重大要素のひとつになると実感しているものです。
 ですので、今から当日までは「循環に関するあらゆること」に意識を向け、それを原稿に書き起こそうと思っています。
 当日の音声おこしと同時に、私自身が「循環について模索した内容」を冊子にしたものを、参加者の方全員に郵送します。(販売はしません。あくまでも、参加者特典という形ですので──)
 あと若干数空席がありますので、新たな時代のキーワードを知りたい方には、是非ご参加頂きたく思っている次第です。


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子供は、親だけじゃなくて「みんな」で育てよう!

 昨日は朝から深夜まで紛争状態で(いえ、本当に文字通りの「紛争」です・・・・・・)──ブログがUP出来ませんでした。
 紛争──。そうですね、アフガニスタンでもない、イラクでもイランでもない──あえて言えばやんちゃ坊主紛争と言いましょうか。
 現在、私の家には4歳の甥っ子が来ているのですが──これがまた、今までに見たことがない程の「やんちゃ坊主ぶり」で・・・・・・上にいる三人の甥っ子、姪っ子とはまったく違う、ハチャメチャさだったりします(苦笑)。
 私は自分に子供がいないせいで、やはり母親としての視点は欠けていると思います。
 どちらかと言えば男性的(父性的)な視点が強いと思うので──どんなに子供好きであっても、何か「真剣に仕事をしている」最中に邪魔をされたりすると・・・・・・つい怒ってしまいます。昨日も、FAX機器の修理をしている最中あれこれちょっかいを出してきたので、適当にあやしながら修理に集中していたら──途中で「殴りかかってきました」(汗)。
 こういう時、母親ってどうするんでしょうね?
 私は、どうしても「仕事に集中している時、ちょっかいを出されるのが嫌」なタイプなので、真剣に(もともと感情的な人間ではないので、冷静にですが)怒ってしまいました。

「今、私は真剣に仕事をしているの! もう少し、相手のことを考えなさい! 何故、待つっていうことが出来ないんだ!」

 ちょっと4歳の子供相手には、難しい叱り方だったかもしれませんが、「怒られた」ということだけは分かったようです。
 その後、私に対して「こっちに来ないで!」「あっちに行って!」「大嫌い!」と連発していたので(苦笑)、怒られたことは自覚したんでしょうね(苦笑)。
 しまいには、私が食べようと思って手を伸ばしたパンを隠して「食べちゃ駄目!」とまで言い出しました。「これはママが買ってきたパンだから、食べちゃ駄目!」と(苦笑)。
 こりゃ、育てる母親も大変だな──なんて思いながら、私は仕事に戻りました(笑)。
 昨日は丸一日外出していたので、仕事も大量に溜まってます。それを片付けていた、数時間後──23時頃のことです。
 私がPCで仕事をしている最中、やたらに泣き声が聞こえるから気になって階下に降りたところ、甥っ子がえらく泣き叫んでいました。
 ひどく興奮状態で泣きながら、激しく咳き込んでいます。
 ちょっとその様子が異常に思えたので、「ちょっとこの子、大丈夫? 具合が悪いんじゃないの?」と姉に尋ねました。もともと甥っ子はアレルギー喘息がある子だそうで、いつものことだと姉は言っていたのですが──。
 それにしても、私の目からは普通に見えませんでした。
 泣きじゃくっているから、余計鼻水は詰まって息が出来ず、咳き込んで苦しそうです。鼻で息が出来ないから口で息をしようとして、それで咳き込んでいる──の繰り返しでした。
 幼い子が泣きながら咳き込んでいるのを見ると、本当に何をしていいのか分かりません。私はとにかく、甥っ子の背をさすり続けました。
「深夜の救急病院に、連れて行った方がいいかもしれない──。これじゃこの子、苦しくて一晩中寝られないよ」
 そんな話をしている最中、甥っ子は涙をいっぱい溜めた目で、じっっと私を見つめていました。
 そして、こう言ったのです。

「お姉ちゃん、パン、食べた・・・・・・?」

 いきなり何を言うのかと思って、私はしばらくきょとんとしていました。
 すると、こう続けたのです。

「ママの買ってきたパンね、あれね、食べていいからね」

 その言葉を聞いて、私は何だか胸が熱くなりました・・・・・・。
 この子は、「怒られたことで自分が不機嫌になり、理不尽にした行動」をちゃんと理解しているんだ──と。そして、私が今一生懸命「自分に尽くしてくれている」のを分かったから、その怒りを解放して、謝罪に変えた言葉を伝えようとしているんだ──ということが、分かったからです。

 子供には、大人のように理論や筋道たった言い訳など出来ません。その場の感情で感じたことを、ただ素直に伝えてくるだけです。
 でも、甥っ子の心の中にあった「自分を怒った人には、パンを食べさせない!」っていう意固地になっていた自分をどこかで把握していて、それを「撤回する」ということを覚えていたんだな──と。

 子供って、やっぱり素晴らしい存在だと──そう思いました。
 大人であれば、一時的な感情や不機嫌でやった行為など、他のことをやっているうちに忘れてしまいます。しかし、子供はそれを覚えていて、それを撤回することも出来る筋道を持っているのだなと、そんなふうにも思ったのです。

 子供は、決して理不尽じゃない──ただ単に「理屈を通して説明出来るだけの知識がないから、ただ単に大人の目からはそれが唐突に見えるだけであって、子供には充分『理由があるんだ』」っていうことを、その時実感しました。
 しかし、育てているお母さんは色々なことに精一杯だから(そりゃそうですよ。いつ体調不良になるか分からないし、熱を出せばいきなり高熱になるし、気が抜けません)、そこまで気が回りません。
 だから、どうしたって子供を感情的に叱りたくもなるでしょう。私だって、あのやんちゃ坊主を「一生涯育てろ」と言われたら、土下座して「頼むから、勘弁してくれ」って言うと思いますもの(苦笑)。

 だからこそ──。
 だからこそ、周囲の目が必要なんだっていうことを、私は実感しました。
 私は、姉に甥っ子の本心や、私から見た甥っ子の行動の理由などを説明しました。姉からすると、「もうとにかく、ただのハチャメチャな子」という思いだったみたいなので、私の意見は意外だったようです。
 自分で自分のことが分からないように、子供のことも、親では分からないことって多々あります。
 だからこそ、周囲──そうした教育団体、コミュニティが「親だけに子育てを任せず、みんなで育てていこうとする意識が大切なんだ」と、改めて痛感しました。

 新しい時代には、もっとそういうことが自然に行われているかもしれません。
 そうすれば、子供の教育をどうしていいか分からず虐待に走る母親や、パチンコ屋で熱中して子供を熱中死させてしまう事件などもなくなるはずです。(あれは、本当に母親だけの責任でしょうか? どの記事を見ても「今時の母親は本当に駄目だ」的な言い方をしている場面や、そういう行為をしてしまった母親個人を責める報道ばかりですが、本当にその人だけが悪いのでしょうか? そうした価値観を彼女に根付かせたのは、一体誰でしょうか? そうした風潮を産んだのは、どの社会ですか? もういい加減、誰かが起こした事故を「他人面」で報道するのは、やめてもらいたいものです。何故、もっと改善策を見いだす道を見いだそうと努力しないのか──疑問でなりません。)

 子供はもっと、色々な同世代の子供達や、それを見守る大人達と触れて育っていくのが一番いいと──私はそう思います。
 そうでないと、親だけでは見落としてしまう部分って絶対にあります。それは、親だと「身近」になり過ぎてしまって気づけない部分なのだろうと思えるので、決してそれは親が劣っているとか、そういう問題ではありません。

 少子化問題を掲げるのであれば、「もっと『みんな』で、子供を育てようよ!」そういう視点をまずは育てた方がいいのではないでしょうか? 


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2010-02-10 | 教育 | トラックバック(0) |
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プロフィール

篠崎由羅(しのざきゆら)

Author:篠崎由羅(しのざきゆら)
1970年生。幼少期から哲学・宗教学に造詣を深める。思想および思想史、それに付随した国際事情に興味を抱いて独学を続け、大学ではインド哲学科専攻。東西問わず、両者の思想に渡り研究を深める。

現在は看護師として施設で勤務しながら、その傍らで執筆活動を続けている。2016年11月にYOU are EARTH改め「WE are EARTH」の活動を再始動予定。より良い未来の地球のため、全力を尽くす誓いをたてている。

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