私が小学生だった頃、周りは何だかよく分かりませんが
塾ブームでした。
篠崎の父親は高校の物理教師で、教師としての意地があったのか何なのか分かりませんが、私達姉妹を塾に入れようとは絶対にしませんでした。なので、友達がみんな「塾」に行っている中、私はひとりで勉強をしているしかなかったのを覚えています(って、子供時代は勉強が大嫌いで、教科書を開きもしない子供でしたが((苦笑)))。
でも、そうした環境はとどのつまり、私の同級生のお母さんが
ハンパない教育ママであることの証明でもありました。
私の幼なじみは、幼稚園の時に九九を最後まで言えなかったことが理由で、朝から夕方まで押し入れに閉じこめられたそうです(これって、今だったら虐待とか言われそうですよね)。
テストが返されると、互いにみんなが覗きあっては「○○ちゃんは80点ね」「あの子は50点だったみたい」と言ってそれを親に告げ口し、それがPTAの話題になったり、ひどい時は虐めの対象になるなど──何ともおかしな世界でした。
また、教師側も教師側で、変わった人達も大勢いました。
私の学区は、ちょうど全共闘世代に活動した人達から教師になった人もたくさんいました。そういう教師を、親たちは「アカ先生」と呼んでいたのですが、子供には「何がアカなのか」分かりません。「アカ」と言えば「赤」、或いは「垢」ぐらいしか思い浮かばないですから。
「あの先生は『アカ先生』だから、近づいちゃ駄目よ!」
そんなふうに言われたこともありましたが──何故か私は、親たちが「アカ先生」と言って嫌う先生こそに好かれるケースが多く(たぶん、子供ながらに主張のある生意気な作文を書いていたからでしょう)、何とも板挟みな気分でした。
子供にああいう思いをさせるのって如何なものかと、本当に思います。
勿論、「子供の教育をすべて預ける」ことを思えば、その先生のことであれこれ不安が出てくるのは仕方ないでしょう。しかし、それを子供に言われたって、子供はどうすればいいのやら──先生に向かって「お母さんが、先生をアカ先生って言ってました!」なんて言えやしません(まぁ、その先生だったら笑って許してくれそうな人でしたが──)。
しかし、ここ数年はまたさらに事情が変わって──今度は
先生が鬱病になるケースが増えているのだとか。
モンスターペアレンツなんて言葉もよく耳にしますが、私は自分の子供時代から今に至る教育環境の流れを見ると「何をしてんだか・・・・・・」って感じで、溜息を吐きたくなります。
教師の鬱病が増えているというのは、私自身も新聞記事だけでなく、実際に見聞きしていました。私の知人で教師をやっている人が複数名いて、その人達がどれだけ苦労しているかも知っているし、また、以前電話相談をしていた時も、若い教師の方からの相談が多かったからです。その相談内容のほとんどは、生徒のご両親に関するものでしたが。
確かに、教師の不祥事も多いのは事実なので、「安心して任せられない」──そういうのはあるのでしょう。
でも、お互いにお互いが
教育のあら探しをして何になるのだろう──そんなふうに思うことがままあります。
教師側は両親に対して神経質になりすぎて、両親は教師の教育に神経質になりすぎて──しかも、何か問題があったら学校側はそれをもみ消そうとする始末。
企業が腐っているのは、今に始まったことではないですが──教育もそれでは、なにをかいわんやです。
私の周囲には子供を育てているお母さんも多いですが、「公立は教育に期待が出来ないので、私立にいれる」と言っている人も少なくないです。
でも、中には「頭は良くても、経済的な事情で私立に行けない子」というのもいることでしょう。そういう子は、どんどん掃きだめとなっていく公立に入り、将来を潰すしかなくなってしまうのでしょうか?
本来はもっと、
子供にあった教育環境に対する選択の自由があるべきではないでしょうか?
最近は小学生の不登校なども多く、私の知人にも不登校の子供を抱えるお母さんが複数人います。
でも、そういう子のほとんどはとても感受性が鋭い子で、何か大きな問題を抱えているような子ではありません。むしろ、豊かな才能を学校で伸ばしきることが出来ず、さらにそうした個性が周囲の子供達からいじめの対象になったりで、結果的に学校へ行けなくなってしまうケースがあるようです。
私は、そういう子の話を聞くたびに「無理に学校に行かせる必要は、ないんじゃない?」そう答えます。その子が無理に学校に行くことでその子の天性の才能を潰したり、或いは酷い心的ストレスを抱えて自殺するようになる方が、余程怖い──そう思えるのです。
だったら、通信教育なり他の方法をとった方がいいし、何かしらの手段を講じることが出来るはず──そう感じます。
私がここで何度も叫んでいる「循環」が廻ることで、こうした問題もいずれはクリアされていくことでしょう。
本当に勉強したい子こそが「勉強の出来る環境」を与えられるべきで、
怠けたい子には、「怠けずにいられるぐらい、楽しめる何か」を与える環境が必要なのだと思います。(ちなみに、怠惰というのは環境から生じるのであって、子供の時分は誰もが「怠惰」ではないと私は思います。3歳までの時期に何も構ってあげなかったり、何の刺激を与えないと怠惰癖がつくかもしれませんが、本来、霊性の本質で考えたら「怠惰」というのは不自然な流れ方であって、本質とは異なる──と思えるからです。)
極論を言ってしまえば──本当は、
世の半数近くの大人達を、教育機関に廻す必要性があって、社会の循環を促す営利的仕事をする人は「半数以下」でいいのではないかと、私は思っています。
本当に大切なのは
「子供の教育」です。
子供は「未来をつくる存在」だからです。
「教育の根源」がしっかりしていれば、社会が揺らぐこともない──大人達が情けなくなる必要性もない。私達30代以降(って、あともうちょいで40代ですが)に「情けない大人」が多いのは、「情けない教育」を受けてきたからだろう──そんなふうにも思えるのです。
国を変えたいと思ったら、まずは「教育」から変えるべきではないか──そう思います。
もっとも、日本は「ゆとり教育」という苦い経験があるので、そういう教育改革には引け腰でしょうね。でも、逆に言えば
ゆとり教育を教える「教育者達」にゆとりがなかったら、最初から意味がないじゃんという気が、当時から強くしていました。そもそも「ゆとり」とは何なのか。何を主旨とし、何を目的とした教育方針だったのか。何を改革する為に、その案を提示したのか。そうしたこともすべて不透明なまま切り出し、不透明なまま「失敗だったね~」って言われているに過ぎないような気がしています。
根本的に、日本の教育の在り方自体にどこか「歪み」がある以上、どう足掻いたところで何も変わらない──そう思えるのです。「今の子供達の教育を変えたって、その結果が現れるのは数十年先だ!」なんてちまっちいこと叫んでないで、少しは遠くを見据えた改革案を出すべきなのではないか、そう思います。
それは何十億の投資だの、事業仕分けだのが必要なことではなく、
たった僅かな意識の持ちようだけで変わってくるだけの、簡単なことだと思うのです。
「教育が変わらなければ、国も変わらない。そして、未来も変えられない」──そう意識しているだけでも、今よりはだいぶマシな未来が開けてくるのではないかと、そんなふうに思います。
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