人という存在は、どうしたところで自分の偏見や思いこみで物事を見てしまいがちです。(参照:「
自分の思っていることは、必ずしも相手の望んでいることではない」)
心のフィルターは、まるでコンタクトレンズのようにべったり瞳にくっついているので、自分ではなかなか気づきようのないものでしょう。しかし、こうしたフィルターを外す努力をしない限り、人は、本当の閃きと出会えないのではないか──そんなふうに感じることが、ままあります。
どんなに「自分は自然体である」と言う人でも、実際は様々なフィルターを纏っていたりします。自分は自然体だと思う前に、「果たして本当に、そうなのだろうか?」と自分を謙虚に疑う姿勢も必要なのかもしれない──私はそんなふうに、常々感じています。
「閃き」という言葉が世の中にはよく使われていますが、フィルターを取り除いていない限り、それは純粋な閃きとは言えない──そう思います。往々にして思いこみだったり偏見だったり、或いは「無意識に場の空気を読み込んで、ただ単に反応しただけ」だったりもするでしょう。そこを見抜かないと、人は大きな袋小路にはまってしまいかねない。それどころか、誰か他の人を無意味に傷つけるだけになってしまうかもしれない──。
もっとも怖いフィルターは、「周囲の風評」というフィルターです。このフィルターは人が無意識に持っているもので、しかも、それに気づかない人が多い。
とくに、日本の場合は顕著かもしれない。考察することなく情報を鵜呑みにするので、相手の本意がどういうものであるか、また、そうした状況下で相手がどういった心情になるかの配慮を欠く人が多い傾向も感じます。
おそらく、こうした問題の背景には「相手の本意なんて関係ない。まずは自分の保身だ」という心理が働くのでしょうね。
でも、本当にそれでいいのでしょうか。
この世に生きる以上、見えないところで誰かを傷つけたとしても「自分が平穏であればいい」──そう思う人は少なくないでしょう。
しかし、本来は
どこにでも目があります。いえ、言い方を変えるなら「物質的な目はなくても、霊的な目は存在する」とでも言うのでしょうか。どんなことでも、自分が行ったことであれば──それを自分が自覚していたにせよそうでないにせよ、魂に刻み込まれると、私は思います。「その場しのぎ」で回避したことが、結果的に誰かを傷つけていた場合、そのツケは自ずと魂となってから精算されることになるのだろう──そう思えるのです。
だったら、私は出来るだけ「魂の純度」に従いたい──そう思います。
自分を良く見せる為に嘘をついたりするぐらいなら、本音を語って痛い目を見た方がいい。どんな傷でも自分の中にやましいことがないのであれば、必ずや光輝く宝玉となることを、私は実感しているからです。
そういった生き方を貫こうとするには、この社会は本当に「生き辛い」と思います。
私は、今の日本社会が理想的とは欠片も思えないし、人類の行為や世界の在り方も問題がある──そう思います。言うなれば
フィルター中心の社会となっているからこそ、嘘は蔓延るし、裏切りも正当とされるし、「自分の利得」だけで人は動くようになるのだろう──と。
カヴァーロの本を読んでいると、「地球が何故、このような荒んだ環境となったのか。何故、このような環境にならざるを得なかったか」が分かるような気がしてきます。
おそらく、そうした原因の一端に「フィルター」というのが、大きく影響しているのでしょう。
フィルターがあるからこそ、私達の自己判断に委ねられます。そのフィルターを以下に除去した中で自分達が判断を下せるのか──創造主は、その答えを人間に求めているのかもしれませんね。
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