篠崎は「映画を観るのが好き」で、しかも
気に入った作品を、飽きることなく繰り返し観てしまうというのは何度かこのブログでも書いたとおりですが──最近、「パイレーツ・オブ・カリビアン」の三作目に再び目覚めてしまい、忙しい中時間をあけては繰り返し観ています。
私がこの映画ですごく好きな場面は、海賊達が敵を前に心をひとつにして、立ち向かっていく場面です。子供向けの娯楽映画とはいえ、私はこの場面がとても好きで、それで繰り返し観てしまうんですよね(苦笑)。
今まで数多くの映画を観てきた中で私が感動してしまう場面は、決まってこうした
自分達の命を捧げてでも、他者や、信念の為に闘う人々が出てくる場面でした。私はこういう場面を前にするたびに、
「何故、戦争というものがあったのだろう」という、その裏背景を考えずにいられなくなるからです。
この世がすべて、二つの対立概念から成り立っている──というのは、何度か書いてきたとおりです。
光と闇という根源的な対立──陰と陽という対立こそが、この世を生み出した根本概念だとしたら──
一見「闇」だと思えるようなことにも、実は「起こる意味があったのではないか」そんなふうに感じたのです。
戦争も、ただ生み出す悲劇ばかりではなくて、そこには「戦争が必要だった(学びの為に必要だった)理由」があるのかもしれない──そんなふうに思えたのです。
そのひとつとして、上記したような「自分達の命を捧げてでも、他者の為に生きようとする学び」。
私は「自己犠牲」という言葉がとても嫌いです。善を押しつけられている──そんなふうに感じるからです。
本当に自分達の命を捧げるような勇気を持った人は、
最初から自分が犠牲になっているつもりなんか、欠片もないはずです。 犠牲という考え方自体、どこか被害者意識が潜んでいるように思えます。それよりも「自分がやりたいから、そうするんだ」──そういう考えの方が、遙かに自然だと思えるのです。
人は、本質で「善」を感じ取る能力がある──私はそう思います。
だからこそ、誰に教えられたわけでもないのに、「何かを守る為に、命を賭けられる」ということに意義を見いだせるのでしょう。
人はどんなに富を持っていようと、どんなに素晴らしい恋人がいようと、どんなに自慢できる肩書きがあろうと──結局、一番大切なものは
「命」です。その根源たるものを捧げられるか否か、ということを問う為には、確かに「戦争」という「学びを含んだもの」が必要だったのではないか、そんなふうに思えたのです。
とはいえ。
人類はもう、二つの大きな戦争を経ており──今でもまだ紛争が続いています。
それどころか、自爆テロのように
美徳であるはずの精神を、かえって悪用するようなケースも出てきてしまっています。
これはもう、「その学びを終える時期」に来ているサインなのかもしれない──そんなふうにも思えます。
ひとつの学びを終えたら、次の学びへと人は移っていくものです。
人はどうしたところで、変化をしていく存在。その変化を拒否していては、成長もない。
私たちは、今までの歴史における「さまざまな課題」を終了させて、新たな第一歩を踏み出さなければならない時期に来ているにも関わらず──そこで足踏みして、ただ地団駄踏んでるだけなのかもしれません。
この件についてはもう少し掘り下げたいテーマなので、また後日改めて記事にします。
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