2012年にとって大切なのは「年」ではない。

 まだまだ相変わらずの執筆地獄を送っております。今日はさすがにパスポートの申請に行かねばと横浜中区くんだりまで出掛けたら、何だかグッタリ疲れてしまいました……。この程度のことで疲れるなんて、運動不足すぎですね(苦笑)。

 おかげさまで2012年に関わる情報は、ひととおり網羅しました。
 映画「2012」も見て、さらに「もうひとつの2012年映画」とも言われている「ノウイング」も観ました。感想は──2012よりは好感持てますが、舞台における視野がいっきに「2012」よりも狭まり、「ひとつの家族+予言を残した家族」の二組だけがクローズアップされているせいか、どことなく無理強い感もありました。おそらく精神世界系のアセンション論を知っている人であれば、「2012」よりも「ノウイングの方が視聴後の気持ちも幾分スッキリ(?)するかもしれませんが──残念ながら、この映画も惜しい点は多々あります。三つ星(☆☆☆★★)ってぐらいでしょうか。(私的に、2012は一つ星です。)

 そんな話はさておき。
 いくつか2012年に関わる資料を読みあさっていて疑問──というか怪訝に思ったことがありました。
 それは、○年にアメリカの経済がこうなる・○年にこういうことが起こるといった予言じみたものも含まれていたことです。
 名前は伏せますが、この方は最初、別の理論で2012年に関する講演会や活動を始めたはずです。何故、このような占い師もどきのことを言い出したのか、非常に疑問でなりません。
 それだけでなく、そういう根拠のない予言じみたことを流すことで、それを聞く側の人を混乱させたり情報混乱を起こす危険性を考えないのでしょうか?
 その方が言っていることのすべてを、嘘だと否定するつもりはありません。
 しかし、そもそも2012年の意味をはき違え、時代の見方を勘違いしていないかと、私は肩を落とすと共に、不愉快な気持ちでいっぱいになりました。

 詳しくは文庫本の方に書きますが、多くの人は「2012」という数字に囚われすぎです。
 三次元は「時間と空間の次元(二元論の次元)」であるということを、忘れてしまってはいませんか?
 時間というのはただ人間が決めただけの枠でしかなく、本来まったくもって無意味なのです。時間は相対的であって、絶対的ではない。むしろ、「2012年」という年号だけに拘ることで本当に時代が示したかった重大な意味を、見落としてしまう危険性があると、私には思えるのです。

 時代にとって本当に必要なのは「年号」ではなく「史実だけ」です。
 ルネッサンスが西暦何年に起きたのか、具体的な年数が必要でしょうか?
 産業革命が西暦何年の何月何日に起きたのか、きっちり覚えている必要があるでしょうか?
「ムシゴロシ(645年)は大化の改新」と覚えていたとしたって、その時にあった事実に何か変化があるでしょうか? 実は後世の歴史家が「いや~、正確には644年に起きたんだけど、受験生が覚えやすいようにムシゴロシに変えてみたんだ~」なぁんて事実が発覚したところで、大化の改新で起きた事実とそこから先日本に影響した史実に、何の変化があるでしょうか?

 大切なのは「年号」ではない。その時期に何があったのかを「知ることだけ」です。

 それで言うなら、私はもう「2012年は始まっている」──そう思っています。
 勿論、ハリウッド映画ばりのはっちゃめっちゃなことが起きてはいませんが、私たちの「意識」の中で、新たな時代を生み出そうとするものが少しずつ芽生えているように思えるのです。
 アメリカの経済がさらに悪化するだの、雇用が悪化するだの──それが何だというのでしょう?
 それなら、「今」だって充分そうじゃないですか。

 私は、今の時代を「良い」とは欠片も思いません。
 私は1970年生まれなので、いわゆるバブル世代です。でも、バブルは現代以上に、私にとっては地獄でした。
 精神世界というものもこうやって思想や哲学とリンクしたものではない、表層的なオカルトや「不思議大好き少年・少女」のものでしかなく、かといって意味もなくブランド志向に走れる程物質に興味はなく、あの頃「音楽」という支えがなければ、私はとっくにこの世から消えていなくなっていたと思います。(だから私は、自殺する人の気持ちや鬱病の人の痛みが分かる気がするのです。スピリチュアリストを名乗っていてそういう仕事をしているにも関わらず、「鬱なんて、ただの逃避よ」と平気で言える人間の精神が私には理解出来ません。そもそもそう言える時点で、「鬱で苦しんでいる人の痛み」を分かってない証拠でしょう。それのどこが、スピリチュアルなのでしょうか? そういう人達がいるから、鬱病の方が増えていくのだと私は思えます──。)

 1991年のバブル経済崩壊後、「陽はまた昇る」と言われつつも、当時よりさらに厳しい不景気が日本を襲っています。
 私は簡単に「陽は昇る」と言えない──そう思います。日本人は、今まで自分たちがしてきてしまった行為(企業戦士などと言って家庭よりも会社を重んじるような人々を輩出し、全体主義を強いて来たこと。個人における尊重よりも、周りや社会の意見ばかりを押し通してきたこと。親子というのを独立した関係とみず、子供を自分の所有物のように振る舞ってきた人達が多かったこと((こうしたことが、現代の児童虐待が減らないカルマとして浮上していると思えます)))それらを省みることがない場合、いつまでも日本は立ち直ることが出来ないままかもしれません。

 勿論、それはアメリカや他の諸国も同じです。言ってしまえば、「狂ってしまった三次元のルール」をもう一度見直すのが「今」──この2012という暗号のように思えるのです。

 私は「2012」と「アセンション」という言葉が1セットになって世に普及していることに、着目しています。これ自体に、とても意味があるのだと──。
 私は現実主義者なので、いきなりみんなの体が光っちゃってるとか、物質が全部光るようになっちゃうとか、そうは言いません。(そんなことになった日には、ディズニーランドのエレクトリカルパレードは廃業です。)
 そうではなく、意識の変革と時代の一致というものを、私は掘り下げていきたい──強くそう思っています。

 私たちは「すでに」、もう新たな第一歩を踏み出しているのだと──そう思います。
 これからは本当に、1日1日を大切にする必要があるだろう──自分に刻み込んだその1日1日の重さが、自ずと「自分の未来を決めていく」──私はそう、思っています。

【お知らせ】
現在執筆を優先している関係で、メールのお返事が遅れております。
来週中には執筆に一段落つけますので、今しばらくお待ち下さい。

【皆様にお願い 22:09追記】
現在篠崎は、執筆の資料として今年1月に放映されたBS-TBSの「2012年特集(浅川氏やドン・アレハドロ氏が出演していた特集番組)」が録画されたビデオ、或いはDVDを探しています。(2日間の二夜連続放映だったはず。見たかったのですが、普段テレビを見ないタイプ故、テレビ環境が不完全でして──。←とどのつまり、BSが入らなかった。)
もしお持ちの方がいらっしゃいましたら、メールフォームからご一報頂けますと幸いです。



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三次元のフィルター

 しばらく更新が途絶えておりました──。
 文庫本執筆の関係で頭が「思索MODE(別名インプット状態)」となってしまい、筆の進みが滞っておりました。私のパターンから憶測するに、ある一定の答えが自分の中で見いだされると一気に「執筆MODE(アウトプット状態)」になるので、今はそのタイミング待ちです(苦笑)。
 そんなこんなで、頂いたメールやメッセのお返事が滞っており、申し訳ございません。今しばらくお待ちくださいませ。

 先ほど、プリンターのインクが切れたのでフラフラと近所にある(いや、近所ではないな。歩いて30分はかかるので)大型電器ショップまで買い物に行ってきました。
 見上げると、闇夜に浮かぶ黄色くて丸いお月様。「ああ、今日は満月だったのか」などと、改めて思い返しました。
 時刻は20時過ぎ。星も瞬いておかしくない時間ですが、横須賀の住宅地は街灯がありすぎるせいか、星は数える程度しか見えません。しかも、その輝きも何だか心もとない──。

 去年の1月頃、私は異常な輝きをした月と星々を目にしました。
 確か──1月二週目の土曜日だったと思います。その日は職場の友人達と東京丸の内で食事をした日なので、覚えていました。寒いビル風が吹く中、凍えて歩く私たちの真ん前に、大きな「銀色の月」が浮かんでいたのです。
 銀色──いえ、「青い銀色」とも言うべきか。
 言いようのない輝きをした月を見上げ、私も含め友人達一斉に叫んだのを覚えています。

「なんて綺麗! こんな綺麗な月、見たことない!」

 その翌日が、満月でした。その日の夜も、私は外が異様な明るさに輝いているのを不審に思い野外に出てみると、前の日と同じく輝く程の月が辺りを照らしていたのです。

 これまでに何度も月を見上げてきたというのに、こんなに綺麗な輝き方をしている月を見るのは初めてだ──そう思いました。
 そしてそれは、月だけではない──星々も、そうだったのです。夕方光る金星の明るさは、まるで1.5倍は明るくなったかのように見えました。
 当時の私は精神世界のことに疎かったので、「銀河生命エネルギーが注がれている」だの「フォトンがどうの」だのということはいっさい知りませんでした。そういった先入観のない私でさえ、「あり得ない程の美しい星空」を体感して驚いていたのを、今でも新鮮な気持ちで思い出せます。

 残念ながら、今日の月はそういった月とは違う──普通の月でした。「あの時期だけ、何であんなふうに輝いていたのだろう」と、今さらながら不思議です。1月~4月頃まで、輝いていたように記憶していますが、気がついたら普通に戻っていたように思います。
 これは精神世界で言うところの「銀河生命エネルギー」の影響かもしれませんが、それとは別に「電磁波の影響」と見る物理学者もいます。
 私は、どちらも「同じこと」だと思います。そもそも、電磁波をあてて体を健康にする機械だって売っていることを思えば、電磁波が「生命エネルギー」でも、不思議でも何でもない。むしろ当たり前とさえ思えるのです。

 精神世界は既存科学を否定し、
 既存科学は精神世界をバカにして、
 「どっちもどっち」のように思えるのは、私だけでしょうか──。

 帰り際、そんなことを思いながらふと見上げると、星が頼りなさげに輝いていました。
 しかし、その星を見つめる「私の目」も、三次元という有限の世界におけるフィルターがかけられていて、真なる姿を見ているわけではないのです。
 私たちが必死に観測するのは、「三次元のフィルターがかけられた宇宙」でしかなく、本質を見ているわけではない。科学者や学者達には「私たちはどう足掻いたところで、お釈迦様の手を抜け出すことが出来ない(三次元のフィルターを抜け出すことが出来ない)のだ」という謙虚さが、必要なのでしょう。
 それを認めて初めて、「お釈迦様の手の先にある世界」を、垣間見ることが出来るようになるのかもしれませんね。 


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2010-03-30 | 真理 | トラックバック(0) |

2012年問題の真偽

 篠崎は現在、文庫本出版の情報収集の為に2012年に関するあらゆる文献、およびその反論・肯定論にあたっています。
 「映画2012」の影響もあってか、あと2年後に迫った2012年に一体何が起こるのかを知りたがっている人が、ここ急激に増加しているようにも思えます。
 書籍でも沢山、こうした2012年関連、およびアセンションに関わる著作は出回っていますが、残念ながら「チャネリング」を主流とする本が9割方で、その論拠は非常に曖昧です。
 チャネリングは、このブログで以前からも書いていますように、その情報を100%鵜呑みにするのは非常に危険です。
 とはいえ、その方法を否定はしません。何故なら、チャネリングを元に素晴らしい芸術作品や建築物を残したルドルフ・シュタイナーのような人もいるからです。
 しかし往々にして、こうしたチャネリングと純粋な「閃き」の境界は不明瞭です。(閃きは「天からの授かりもの」だと、私は思っています。)チャネリングという名称を使わずに「閃き」とした方が誤解もないし、情報の混乱も防げるのではないか──そんなふうに思うこともままあります。

 私が現在行っている作業は、「チャネリングによって書かれた内容」と、「現実的に起きている物理現象、気象現象、および社会経済問題」を照らし合わせ、そこにリンクさせていこうとする試みです。
 どんなに「これは素晴らしい、絶対的な確信だ!」と思える啓示でも、必ずや三次元的情報においての検証は必要不可欠です。
「何を言う! 高次元の情報を、こんな三次元ごときで証明出来るか!」
 そう反論する人もいるでしょう。
 そうです、それは事実です。私も前の記事で書いたように、「次元を超える問題は、三次元の知識だけで必ずしも証明されない」というのは確かな話です。
 しかし、証明できないから検証する努力を放棄するという姿勢は、まったくの別物です。
 私は、精神世界に起きている現象と物理的現象は「表裏一体である」と考えています。そうである以上、自分自身に閃きとして起こったことは、何かしら物理的現象として現れているか、その予兆があるはずなのです。

 たとえば、俗に言う「フォトンベルト」などは、私はラヴィオレット博士の提唱した「銀河ウェーブ」に相当するものだろうと思っています。
 勿論、これらは必ずしも同じものとして一致するわけではありません。前者、フォトンベルトの提唱者は「チャネリングにより受けた」といい、後者、ラヴィオレッテ博士はあくまでも物理学の研究成果によってこの銀河ウェーブを発見したからです。(銀河ウェーブとフォトンベルトに関する詳細については、時間の都合上割愛します。)
 勿論、微妙に違いはあります。前者は「プレアデス星団にある光の粒子」とされ、後者は「銀河の中心部から」とされていて、それは天文学的な位置で推測する限り「ズレ」が生じてしまうのです。
 しかし、だからといって「前者はウソだ!」と退けるのもまた早計です。
 何故なら、高次元では時間や空間の概念がないので、指定された場所もまた「必ずしも三次元の位置とは限らない」からです。

 またもや「三角錐(さんかくすい=底が円で、とがった形のもの。真横から見ると三角に見える)」で例えてみます。しかも、それが透明な素材で出来ていると想像します。
 三角錐の頂点が灯るような仕組みになっているとしましょう。底である円の部分だけからみると、それは「中心」で光っているように見えるでしょう。
 でも、ある人は円ではなく「三角形」が真理だと思っていたとします。そうすると、その人は中心が光っているのではなく「三角形の頂点が光っている」ようにしか見えません。

「円の中央が光っている」
「いや、違う。三角形の頂点が光っている。」
「違う。そもそも、宇宙は円だ」
「そうじゃない。宇宙は三角形だ」

 この両者の食い違い──実は、「どちらも正解」です。
 底から見れば「中央」だし、三角形側から見れば「頂点」に見える、だから「視点を全体的に向けると、どちらも同じことを言っている」のです。
 私は、フォトンベルトと銀河ウェーブに限らず、「精神世界で言われていること」と「物理学的に言われていること」が、どちらも共にこの「円錐の過ち」をしているように思えてならないのです。

 2012年問題には、他にもいろいろなことが言われています。
 そもそも、私は2012という数に拘っている時点で、間違っているのではないかと思うこともあります。
 私は色々調査を進めるにあたって、時間、空間という概念そのものが三次元の限界枠で、それをとっぱらわない限り思考は自由にならない──そう感じ始めています。
 だとしたら、年号だの日付など、そんなものに拘っている時点で「すでに私たちは、真理から遠ざかりつつあるのではないか」そんなふうに思えてきたのです。

 1999年の予言も「外れた」という人が多数いますが、私は「実現した」と確信しているひとりです。(この辺りについては出版される本に詳しく記載されていますので、そちらでご参照ください。)
 多くの人が「1999年7月7日」という時間の指定に囚われすぎていますが、予言やこうした未来を知らしめる言葉にとって大切なのはむしろ「象徴や本質」であって、文章の上っ面に書かれた文言のほとんどは「無意味なものだ」と私は思っています。局所ばかりに拘ることで本当に大切だったメッセージを見落とすというのは、もっての他だと──そう思えるのです。

 2012年というのも、私は同じように感じます。
 何が起きるかが大切なのではない、そうした現象やメッセージを前にして、「私たちに何が出来るかを考えることの方が、遙かに大切なのだ」と。
 少なくとも、今や世界全体が「既存システムではどうにも行き詰まってしまう」ことはみなが理解し、実感しているはずのことなのです。
 そうした現実問題を切り離して、2012だのアセンションだのを唱えることは「絶対に出来ないはず」なのです。
 現実も精神世界もすべてはひとつです。どちらを切り離して考えることは出来ないし、また、どちらかだけを重視するのも過ちです。
 両方を見比べ、その中で「隠された真理のパズルピースを見つけ出すこと」こそが、これからの人類にとって必要なことなのだ──強くそう感じている次第です。


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すべては「真理の一側面」でしかない

 先週から突如始まった執筆地獄ですが、ありがたいことに順調に進んでおります。
 とはいえ、私の周りは散乱した資料、本、書き散らしたメモ書きなどで、酷い惨状──。ついつい、卒論に追われていた頃のことを思い出してしまいました。

 本当にやりたかった研究は担当教授から却下され、うんうん唸って「妥協できるテーマ」を提出したのですが、それが「覚りのプロセス」に関するものでした。(私は宗教社会学といった「思想が社会に与える影響」をメインにしたかったのですが、そういうゼミが残念ながらなかったので──)
 無事教授のGOサインを頂いたものの、こちらの研究はあくまでも二次的なもので自分の興味対象ではなかった分、すごく不満をためてのスタートだったのです。
 そんな状態ではスムーズに筆など進むはずがなく、大量にコピー資料だけ積み重ね、どう書いていいものかを悩みに悩んだ挙げ句、提出期限ギリギリになってようやく書き上がり、飛び込むように届けました。
 書き上げた時は「重荷がおりたような爽快感」がありましたが、自分的には不満のある論文が何故か大学側に評価されてしまい、表彰が決定した時は──正直な話、複雑な気持ちでした。
 むしろ、申し訳なく思えた程です。
 どんなに高い評価を頂いても、「自分が本当にやりたい研究」でなければ嬉しくないものなのだなと、あの頃を思い返して苦笑してみたり。
 大学院に進もうかどうしようか悩んでいた頃も、「この大学(というよりも、文献学の範囲にしか過ぎない思想)で研究を深めても、意味がないのではないか」と悩んだ末、結局断念しましたが──今にして思えば「大正解」だったのかもしれません。

 最近よく思うのですが、「既知の情報や知識だけで、すべてが紐解ける」というのは、科学の傲慢なのかもしれない──そんなふうに感じます。
 科学?
 いえ、どちらかと言えば「三次元独特の傲慢」なのかもしれませんが。
 私の大学時代も、新たな可能性や比較を論じることが出来ず、非常に窮屈な思いをしました。
 例えて言えば、壁に貼ってある絵を見て「この絵には『人』が描かれている!」「他には『樹』が描かれている」「この小さな染みは、虫か?」「いや、それは鳥だ」といった表面的で凝り固まった部分しか論ぜず、「その全体像の絵から想定出来る世界観」や「その絵を元に、まったく違った予想をたててみる」といった枠をこわす研究というものを否定する傾向があったのです。
 学術というのは常に好奇心の探究であるべきだというのが、私の信念です。
 すでに構築された文献学の上をなぞって、ああだこうだと論じたところで──何も面白くありません。それこそ「既知の情報をただなぞっているだけ」に過ぎなくなってしまいます。
 それでは、新たな発見も冒険的な試みも、生まれてはきません──。

 そうした意味では、すでに「アカデミックな機関」において新たな発明や発見は「出てこないのではないか」そんなふうにもふと思いました。
 もっとも、私が大学生だった頃からすでに15年ほど経ってしまっているのだから、今の時代はまったく違った形になっているかもしれません。
 しかし、大学などの機関に限らず既知の情報、既知の知識以外、受け付けませんといった価値観は多くの人々に浸透していて、それこそが「科学万能主義」とも言えるおかしな思いこみを生み出しているのではないか──そんなふうにも感じる次第です。

 現在、篠崎は文庫本の原稿を執筆するにあたって、精神世界系の本はもとより、科学的データとの照らし合わせなど、あらゆる角度での分析を試みています。
 何故なら、どんな情報であったとしても三次元にある以上100%の真理なんて存在せず、すべては一側面に過ぎないということを、実感しているからなのでしょう。
 それはあたかも、ある人が「ここにあるのは三角形だ!」と主張したものに対して、もう一人が「いや、これは円だ」と主張するようなものです。
 局所だけを見て「三角形と円の共通項」だの「円の中に三角形が含まれる」だの論じたところで、意味がない。何故なら、全体を見てみたらそれは円錐かもしれないからです。

 2012年やアセンションに関する問題はとくに、局所だけでなく「全体を見る視点」が必要です。
 何故なら、これらの問題が「すでに三次元を超えている以上、今ある知識や情報だけで解こうとするには限界があるから」です。
 かといって、こうした話を「三次元的なロジックに置き換えず、ただ野放しにする」というのも、勿体ない話です。
 多くのこの手の本はチャネリングの内容に基づいている為、非常に主観的な内容が多く、その他書籍との比較などは概ねなされていないのが現状です。
 しかし、そうした比較をせずにアセンションについて懐疑的になるのも、或いはむやみに受け入れてお祭り騒ぎするのも、両方とも「同じ過ちを犯している」──そう思えるのです。

 私が調べてきた中で、「用語が違うだけで、これは同じことを言ってるのではないか」と思われるものもいくつかありました。精神世界に関する内容はどうしても主観に頼らざるを得ないせいか、用語における定義づけが曖昧です。そうした特徴も、読者に混乱をもたらす原因のひとつになっているようにも見受けられました。

 時代が差し迫った中、私たちに求められるのは「すべては真理の一側面に過ぎず、自分は未だ全体を知っているわけではないのだ」という謙虚な姿勢なのかもしれない──。
 大量に積み重なった本を前にして、ひとりごちる篠崎でありました。


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2010-03-26 | 真理 | トラックバック(0) |

人はそこまでエゴイストとは限らない──映画「2012」の感想

 一昨日、篠崎はDVDで映画「2012」を視聴しました。
 しかし、あまりの稚拙さと短絡さに、観ていて気分が悪くなった程です。
 そもそも、この映画を作成したローランド・エメリッヒ監督は「インディペンデンス・デイ」や「デイ・アフター・トゥモロー」などを制作しており、ディザスター監督第一人者とされています。両者共に視聴しましたが──感想は、「2012」と同等。メッセージ性の無さに、溜息を吐きたくなった程です。
 まぁ、CG効果などは確かにすごかったですが──「あそこまでやる必要性が、果たしてあるのだろうか?」と疑問でした。完全なお遊びエンターテイメントに過ぎません。

 この映画に、理念や思想はあったのでしょうか?
 私には「悪戯に視聴者を怖がらせるもの」でしかなく、サスペンスやホラーに匹敵するレベルでしかないように思えました。
 まぁ、こうしたテーマを映画作品にするのは否定しません。しかし、するならばせめてもっと、視聴者側に希望、或いは何か考えさせるメッセージを与えるものにして欲しいものです。
 
 ただ──。
 ひとつだけ、この作品で考えられることがあるとすれば……私たちは、こうした危機を感知した際、「どのように生き、どのように死と立ち向かうか」ということ以外に何もない──そう思います。
 嘘か本当か知りませんが、事実映画と同じように「エリート救出作戦」なるものがあるとも聞きますが、「好きにすればいい」そう思います。
 本当の人間性がIQや試験で決まると思ったら、大間違いです。そんな人類の生き残りなど、どうせたかが知れています。今までの人類と同じ過ちにはまり、「何の為にあれだけの犠牲者が出たのか」を教訓とすることなく、何度も同じ轍を踏む結果となるのでしょう。
 似たような映画で、今から10年以上前の作品「ディープインパクト」の方が、遙かに私的には共感出来るものでした。
 これは惑星の接近によって、地球上の大陸ほとんどが津波に襲われるというものでしたが──主人公のジャーナリスト(名前忘れました;)は、生き残る為の「方舟乗船チケット」を手に入れます。
 しかし、彼女は生きたいと願う自分のライバルに自らチケットを譲り渡し、自分は乗船の拒否をします。そして、彼女は対立していた父を赦し、父と肩を抱きあいながら、津波に呑まれていきました。

 人間の価値は、この映画が語るように「どれほど長く生きられたか」ではなく、「如何に生きたか」ではないでしょうか?

 「2012」では、主人公が家族を守ろうとする姿が過度に描かれ過ぎているせいか、かえって強烈なエゴを感じて不快な気分にさせられました。
 本来であれば「美しい家族愛」と思えそうなところを、あまりに家族を守ることだけに執着している姿を見ることで、かえって「家族愛も、度が過ぎればただのエゴとなる」ということを思い返さずにはいられなくなるのです。
 多くの人達の犠牲、痛み、死が「そこにはあったのだ」という謙虚さがまったく感じられず、そうした意味でも「人間の心理や絆を、表層的に描いた作品」としか思えませんでした。

 もし、このような事態が予測出来たとしたら──果たして、人はどうするでしょうか?
 これは、余命告知に近いものがあると思います。
 この映画のようにパニックになって、逃げ惑う人もいるでしょう。でも、多くの人は冷静に自分の時を見つめ、愛する者達と時間を共に過ごそうとするか、或いは自分の人生を見つめ直す時に使うかもしれません。
 何故なら、それは「自分の寿命を知りたい」とする人々の心に、すでに現れているからです。
 自らの終わりを知ろうとする人たちに、どうして「生の執着」があるでしょうか? 
 みんながみんな「生に執着しているわけではない」──私はそう思います。

 地球の危機に、ちっぽけな人類が生き残って何になるのでしょう?
 地球の細胞であり、地球を母とする存在であれば、共に生き、共に滅びるのが道なのではないでしょうか?
 悪戯に死を恐れ、生に執着することは果たしてどれほど意味のあることなのでしょう?
 子供を持っているお母さんであれば、子供を危機にさらしたくない──そう思うでしょう。
 気持ちは痛い程わかりますが、私たちは等しくみな「死の危険」に曝されています。
 どんなに平和な時代であっても、必ずや人は死に逝く。これだけは、絶対に避けられないのです。
 だったらむやみに死から逃避するのではなく、そこに向き合い、生命の本質を考えた方が──或いは、愛の本質を考えた方が、遙かに有意義ではないでしょうか?

 こうした映画を観ると、決まって思い出すエピソードがあります。私が中学生の時、英語の教科書に載っていたエピソードです。
 それはタイタニック号の話で、「子供を連れた母親」の為に、救命ボートに乗船していた女性が「席を譲った」というものです。
 彼女は、席を譲る際にこう言ったそうです。「私には、子供がいません。ですのでどうぞ、この席を使ってください」と。
 後から調べたところ、その女性は「学校の教師」だったそうです。
 どんなに我が子がいなかったにしたって、彼女にだって家族はいたことでしょう。夢だってあったことでしょう。しかし、自分の席を譲れたその女性の「生き様」にこそ、私は「死を前にした人々がする行動」に対する真の学びがある──そう思いました。

 誰もがエゴ丸出しなわけではない、誰もが自分ひとり助かりたいわけではない。
「いざという時に命を差し出せる勇気と思い遣りが、人間の中にはあるのだ」と──。

 こうした娯楽映画が出ることで、かえって人の意識が恐怖に包まれ、死を闇雲に恐れるようになることが私は本当に口惜しいです。
 人はそこまで愚かで、無力な存在ではないはずです。
 恐怖は人の心を麻痺させ、そこから先を考えさせようとしない麻薬のようなものです。このような作品の描く恐怖に心奪われ、真理から目を背ける人がひとりでも減らないことを、心から祈るばかりです。


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※本日、「母への手紙」更新。

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2010-03-24 | 雑談 | トラックバック(0) |

二極化した次元─電気的宇宙論─

 昨日は執筆ペースがダウンしていた為、ブログが更新出来ませんでした。今日は何とかペースを取り戻し、ノルマを早めに終わらせることが出来たので、無事ブログ記事が書けます(笑)。
 と、言いますか──。これだけ寝ても覚めても読書&執筆三昧だと、さすがに「何か違うこと」がしたくなります(苦笑)。
 まったく「関係ないこと」。山を歩くとか、海岸線を散歩するとか──或いは、猛スピードであちこち走り回るとか(ただでさえ運動不足のところをいきなり走り回ったら、心臓発作とか起こしそうで怖いですが──)。
 篠崎の自宅は神奈川県の郊外とも呼ばれる横須賀故、山もあれば海もあるので散歩には最適なのですが、何故か今日は急に気候が寒くなったので、寒がりな篠崎は外に出られませんでした・・・・・・(篠崎の「寒い」判定基準:15度以下。ちなみに、「暑い」の判定基準:24度以上。←暑がりだし寒がり。ただの根性無し──)。

 そんな雑談はさておき。
 現在、篠崎は「電気的宇宙論」の概念にはまっており、その仕組みについてあれこれ思案中です。資料もすでに取り寄せているので、近日中には詳しい内容をさらに掘り下げられると思われます。
 この電気的宇宙論を掘り下げると、この次元における仕組みが何となく掴めるような気がします。地球外生命体といいますが、最近私は「この次元においては、地球外生命体は存在しないのではないか」というような気もしています。仮に存在するとしても、私たちと「同レベルの進化」しかしていないので、自分たちの惑星以外に知的生命体がいるかを模索することが出来ない、言ってしまえば地球人と同じようなことをしているのではないか、と。(なので、俗に言う宇宙人と呼ばれる存在は「異星人」ではなく、正確には「異次元人」と呼ぶべきなのかもしれない──)
 要するに、私が今の段階で実感している「電気的宇宙論」というのは、次元における物質組成要素のように思えるのです。いわば、「私たちの知っている宇宙」の仕組みを明かすものであり、同時に、私たちの存在意義にも通じるものなのではないかと、そのように実感しています。

 とはいえ、私は物理学者ではないし天文学者でもありません。
 私がこの「電気的宇宙論」にこの次元の根拠が隠されているのではないか──と思った原因は、電子の仕組みが、人間の思考性によく似ているからです。
 それだけではなく、思考性が似ているということは同時に「社会の仕組み」にも投影されます。そこから推し量る「人間の存在意義」というのが、今まで自分が抱いていた疑問を埋めてくれる鍵のようにも思えたのです。

 例えて言えば──。
 電子には「マイナス」と「プラス」があるのは、誰もがご存知のとおりです。これらが作用しあうことで摩擦が生じたり、摩擦が生じることでエネルギーが生じたりと、私たちは電気の恩恵に浸って生きているのに等しいです。
 これによく似た関係図として「陰陽図」が挙げられます。日本人は「電気」と「気」という言葉を使っていますが、非常に電気の本質をよく見抜いていたのではないか──そんなふうにも思います。
 物質世界で電気がどれほど重要視されているのかは、言うまでもありません。私たち人間の脳も「電気信号」だと言われています。(しかし、私がもっと重要だと感じているのは脳を包む「脳髄」──すなわち「水」にあると思っていますが、このあたりのことを書くと長くなるので、機会があった時に改めます。)

 しかし、先ほど挙げたように電気の特徴として「最初にプラスとマイナスありき」という現象を抜いて語れません。 もし、物質の組成がすべて「最初にプラスとマイナスありき」であるのだとしたら、その物質組成で出来ているこの次元も、最初から分離ありきで、やむを得ないのではないか──そのように感じたのです。

 でも、それで考えると──理不尽なことが、すべて解明されていくように思えます。
 例えば、私たちの世界で何故ここまで戦争や紛争が続くのか。何故、対立や抗争を避けられないのか。
 それらは、この次元を構成する要因である「電子(プラスとマイナス)の構造」故なのではないでしょうか。
 私は、人間が肉体にある以上、思考も物質からの影響を避けられないと考えています。(肉体にどこか悪いところがあって、たちまち精神がふさぎ込んだり、社会で嫌なことがあって鬱になったりなど、そうした例は挙げればキリがない程です。)
 だとしたら、物質の構成要素が最初から「分離ありき」なのであれば、人間の思考性がどうしたところで「分離(抗争・対立)」に行き着いてしまうのは、やむを得ないことのように思えたのです。

 では、この次元では「諦める」しかないのか──。
 私は「そんな必要はない」と思っています。
 分離はあくまでも「エネルギーを引き起こす前の前提」でしかなく、その後に「エネルギー」が生じて光を灯すのと同じように、人類の思考も、対立から融合へと至ることが出来るのではないかと、そんなふうに感じています。
 それは、ヘーゲルの言う「アウフヘーベン(止揚:対立するものどうしが、新たな形で合一すること)」に近いものかもしれません。

 この次元においては、「分離」がひとつの構成要素なのだ──そう思うと、何だかひとつの謎が解けたように思います。
 例えば外部の誰かの隠謀で「分離させられた」とか、魂の課題の為に「分離させられた」という考え方だと、何となく腑に落ちないものが残るように私は思えるのです。
 そうではなく、次元の構成要素として、最初から「分離ありき」だった──こう思ってしまった方が、幾分すっきりしないでしょうか(笑)?
 性善説、性悪説と言いますが、どちらも正しくて、どちらも間違い。善悪という結果ではなしに、「分離する性質がある」ということを前提に踏まえてしまえば、何とわかりやすいことでしょう──。

 そう考えると、陰陽五行などを説いた古代中国の賢人達は「次元の要素を見抜いていたのではないか」と思わずにいられません。
 陰陽──これは先ほどもいった電子の在り方。そして、そこから「万物が派生する」という考え方は、まさしくこの電気的宇宙論に繋がるものがあるのではないでしょうか?
 陰陽はただの「気」ではなく、物質が組成される構造を表していた──そう考えると、「何故、異性愛が尊重されるのか」もよく分かります。それはただの社会理念や道徳上の問題ではなく、「物質組成の一因と同じ」だからです。
 だから、もしかしたら次元の構成要素が「もっと違うところ」であれば、同性愛も異性愛も関係なくなる可能性だってありますよね(笑)。それどころか「両性具有」になる可能性もあります(ひとつの物質組成で誕生している次元であれば、そうなるでしょう。そういう構成要素になる可能性があるかどうかは、別として)。

 こうして改めて推し進めていくと、私は人類のシステムと向き合うには、まずその舞台となった物質世界の因子を紐解く努力が必要なのだろう──そう思うことが多くなりました。
 ただ人間の思想──哲学や理想を探求したところで、それを物質世界にリンクすることは出来なくなる。まずは、物質世界の組成を理解する必要があるのだろう──と。
 何故なら、人の思考性はどうしたところで、物質世界の「限界」に縛られる傾向にあるからです。私たちは「自由意志」を持っているといいながらも、実は「決められたルート」の中でしか動けていない事実を悟る必要があるのでしょう。それこそ、「自分はどこにでも行ける」と思っていた孫悟空が、実はお釈迦様の手の内側から出られていなかったのと同じように。

 対立概念が最初からこの次元の構成要素だとしたら、対立そのものに善悪は存在せず、「それもひとつのエネルギーを出す必要な要因だった」ことに気づかされます。
 とはいえ・・・・・・そうなってくると、この「三次元」という言葉。
 対立する次元という意味で「二次元」っていう言葉に置き換えた方が妥当のように思えてしまうのは、私だけでしょうか(笑)。



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2010-03-22 | 真理 | トラックバック(0) |

「陰謀論」という考え方の罠

 以前、山川鉱矢さん・亜希子さんご夫妻と講演会に関する打ち合わせをした際、「陰謀論について、どう思いますか?」と聞かれた──ということを記事にしました。
 それにつき、私は「ない」というニュアンスの答え方をしたと書きましたが、今回はさらにもう少し掘り下げて記事にしたいと思います。

 現在、私は2012年に関する執筆をまとめている最中ですが、そうするとどうしてもこの「陰謀論」という問題と対峙せざるを得なくなります。
 陰謀論──闇の組織とされる存在が「いる」と言う人達は、精神世界系では結構な数存在します。
 しかし、私はあえて「いない」という側に立っています。
 というよりも、もっと正確に言えば「そういう考え方を、したくない」というのが正しい答えかもしれません。

 確かに、世の中に「悪」とされる存在があるだろうことは認めます。
 また、「どんな悲劇でも、必要だった」と楽天的に語れる程、私はこころを失っていません。他者への痛みや苦悩を自分の痛みのように思えないようになったら、人間はどんなに進化したところで「いずれは滅びる」そう思います。
 本当に大切なのは、上滑りな同情ではなく「他者の痛みを、どれほど自分の痛みとして感じられるか」なのではないか──そう思えるのです。
 そういった意味では、世の中の「悪」とされる出来事は、私達に本当の痛みを教えてくれます。
 突然の事故に子供を失ったり、愉快犯に殺された親御さん達は、絶対にこう叫ぶでしょう。
「何故、家の子なんだ!」と。
 その叫びを、本当の意味で受け取ることは──私達が当事者でない限り……それは無理です。
 しかし、「その痛みを感じる」ことは、出来るはずです。
 それは、理屈ではなく──「こころで感じる」ものです。
 だから、私はどんなに文章で綺麗事を言ったり、チャリティやボランティアを呼びかけている人でも、世の悲劇や紛争の場面を見て「胸を痛めない人」というのは──本当の善人と言えるのか、非常に疑問視してしまうことがあります。
 本当の善人は、いつでも「他者の苦悩」を身近に感じ、そして、語るよりも前に「行動しているから」です。

 そういった意味で、私は「戦争や世の悲劇は、人類の学びにとって必要なものだったのではないか」そうは思います。
 だからこそ、「陰謀論」という言葉で何に対しても疑念を持つ姿勢は危険だと、そう思うのです。
 例えば、第二次世界大戦時、日本に「真珠湾攻撃」を仕掛けた裏工作があったから、何だというのでしょうか?
 起こった悲劇に、何の変わりがあるのでしょうか?
 多くの兵士達が遠い地で命を落とし、未だに遺骨として戻れない現状に、何の影響があるのでしょうか?

 9.11が仮にアメリカ側の自作自演だったとして、それで何が変わるのでしょうか?
 崩れ落ちるビルの中に取り残され、恐怖の中で死んでいった人達の魂が、それで報われるのでしょうか?
 未だに続く中東の紛争に、終止符を打てるのでしょうか?

 本当に大切なことは、「犯人捜し」なんかではない。
 今、「自分たちに何が出来るのか」を探すことなのではないでしょうか?

 もうひとつ、私はこの「陰謀論」という言葉が嫌いな理由があります。
 それは、必ず「悪役」をつくるからです。
 第二次世界大戦でも、日本は負けて戦犯とされる人達が処刑されました。
 しかし、負けたから「戦犯」にされたのであって勝っていたら、「本来は英雄扱いされていた」という矛盾に気づくべきです。 
 靖国神社には戦犯がまつられているから、参拝に云々という批判をよく聞きますが──私はそのことに対して疑問に思うのは、「あなたは戦争の責任を、戦犯とされる人達だけに負わせているのか?」ということです。

 負けたから「戦犯」とされた人々──勝てば「英雄」となっていた。
 その過ちや矛盾に気づけず、何故戦犯だけを責められるのでしょうか?
 本来であれば、「見て見ぬフリをして、知らぬフリをしていたマスコミ」や官僚達にも、責任があったはずです。でも、彼らの多くは戦犯として処刑されず、生き残っているでしょう。
 そうした人達への責任は、何故追及されないのでしょうか?

 「隠謀論」や「犯人捜し」は、その人個人にすべての責任を押しつけ、起きた事象を誰ともシェアしあおうとしないという、大きな問題点があるのです。
 確かに、大きなエゴが蠢いて世の中をおかしくしている事実は認めます。
 しかし、それは誰にでもあるものであって、特定の組織だけにあるものではありません。
 隠謀論を突き詰めていくと、結局は「世の中をおかしくした責任を、どこかの誰かに押しつけるもの」でしかなくなってしまう。その時代や環境で起きた事象の責任を、みんなで分かち合うという視点を失ってしまう──私は、それが「もっとも憂うべきこと」なのではないかと、そう思うのです。

 先日、エハンさんのブログにて「原住民は、環境の変化を自分たちの責任と考える」という記事を紹介しましたが、私達にも、そうした謙虚な姿勢が必要なのではないでしょうか?
 世の中に「隠謀がまったくない」とは言いません。
 しかし、それを言うなら多かれ少なかれ、誰のこころにも潜んでいます。
 まずは、そこから向き合うことが必要なのではないでしょうか。



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2010-03-20 | 真理 | トラックバック(0) |

急遽、出版が決まりました。

 タイトルはまだ仮名なのですが、2012年に関するエハン・デラヴィさんの本における問題提起をさらに煮詰めた本(要するに、私がシンクロニシティでやっているような解説みたいな感じで)です。

 アセンションに関してはチャネリング本が多く、その論拠が薄弱なものが多々ありますが、エハンさんの本は非常に「科学的データ」やかつての偉人達の発見に基づいていて、非常に現実的です。
 にも関わらず、どこか「色もの」扱いされてしまっていることに私は以前から「憤り」を感じていたので、その挽回の意味もあっての執筆です。

 また、(これはエハンさんも同じ気持ちなのですが)私はこうした精神世界に関することを特別視するのが嫌いです。
 何故なら(このブログでも何度も言っているように)すべては「表裏一体」の関係で、「目に見えるもの」「見えないもの」という二元論で語られること自体、そもそも矛盾しているからです。そうしたことも、著書の中で訴えていきたい──そう思っています。

 出版は徳間書店・五次元文庫からですが──おそらくそうは思えないぐらい(笑)「リアル」で現実的見地に基づく内容となるはずです。
 というか、「そうさせてみせます」。
 スケジュールは半端ない程の厳しさで──本来は4月20日が入稿なのですが、篠崎は来月9日から16日まで、イギリスで取材旅行(ルポルタージュ)をしてきます。
 帰国してすぐに原稿地獄は出来ないので(というよりも、帰国後はすぐにルポの記事執筆に入らなければならないので)、そのまでにあげなければならないとなると──私の中では「6日」が目処だなと思っています。

 もともと速筆タイプではあるのですが、ここまで凄まじいスケジュールは初めてです(笑)。
 とにかく、出版社に迷惑をかけるわけには行かないので、死ぬ気で頑張ります──。(まぁ、もともと篠崎は小説家時代から「締め切り厳守タイプ」だったので、心配はないと思いますが──)

 ただ、その関係で毎日UPしていたブログの更新がたまに途切れることになると思います。
 私は「完全に執筆スケジュールを組んでから」執筆するタイプなので、1日に予定していたノルマが終わらなければ地獄を見てるだろうし、余裕でノルマが達成出来れば、ブログをUPしているだろうし──といった感じです。

 おそらく、巷で売られているアセンション本とは「異色」のものになると思いますので、是非、楽しみにお待ちください(笑)。
 また時折、こちらでもお知らせなどをUP致します。


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僅かな希望─自然との共存─

 たった今、ブログ「シンクロニシティ」を更新しました。
 今回は──かなり「難しかった」です。今回の章の中には「複数のメッセージ」が籠められていたので、まずそのどれに絞るかでも悩みましたし、また、絞った後も「どうしても、両者を一緒に書くことが出来ない(長くなりすぎるので)」と判断し、テーマ別に分割することにしたのです。
 でも、「それでもかなり、長くなってしまった」感はありますね(苦笑)。今頃エハンさんの方に「最近、ブログが長すぎる!」ってクレームが言ってたらどうしよう(笑)。

 そんな冗談は、さておき。

 私は今回、地球巡礼者の(5)を見ながら、何度も「人類と地球の調和」について考えていました。
 地球巡礼──。
 このテーマを深くつきつめていくと、実はとてつもなく壮大で、しかも「考えるべきテーマがいっぱい詰っているのだ」ということに気づきます。
 何故なら、地球の現状に留まらず、私達人類が犯してきた過ちも振り返り、「自分たちの歴史を見つめ、改めて自分たちの存在意義を知る」という必要性があるからです。
 私はその中でも、特に人類と自然との共存を思案せずにいられませんでした。

 私は神奈川県の横須賀に生まれ、横須賀で育ちました。
 ここは母方の実家ですが、母方の先祖は鎌倉時代以降ずっとこの地に住んでいたので、親戚もほとんどみな、この地に集結しています。
 その為、お盆やお正月などに「帰省する」という体験がありませんでした。
 父の実家は新潟県佐渡島なのですが、ほとんど行ったことはありません。私が二歳の時に父方の祖母が亡くなったので、その関係もあって行かなかったのかもしれませんが──人生において二回しか、佐渡島の里帰りをしたことがない程です。
 私は首都圏で暮らし、引越しをしても東京や埼玉どまり──言ってしまえば「地方の暮らし」を、まったく知らないのです。
 ですから、「本当の自然」というのは──旅行先や、留学先でしか体験したことがありません。
 日本の中に「本当の自然が残されているのか」と言えば──それは疑問ですが、それでも、山に囲まれ、木々と共に暮らし、大地の息吹を感じて生きている人達はきっと大勢いることでしょう。
 私は、そういう人達の暮らしがとても羨ましいです。
 知らないからこそ、「どうやればいいのか」が、見えてこないのです。

 「どうやって、人類と地球(自然)が調和出来るのだろう」──そのことを、今回の章を繰り返し見ながら、ずっと考えていました。

 私は、必ずしも「かつての生活を取り戻すのが正しい」と思っているわけではありません。
 アウフヘーベン(止揚)ではないですが、まったく正反対のものが相対した時はそれを超えた新しい形になるのが望ましい──そう思うからです。
 最近、日本でも「江戸時代の頃の暮らし」がいいとされ、見本とされるケースもあるそうですが──だからといって、今、日本が「あの頃に戻れるか」と言えば、答えはNOです。
 どう足掻いても、変化したものを「元に戻すこと」は不可能なのです。

 だとしたら──私達人類に残された、新しい自然との共存方法は何だろう、そのことをずっと考えています。
 今でも考えています。

 でも──「答えは・・・・・・出ていません」。

 その時、偶然にして携帯の着信音が鳴りました。
 見ると、山崎文子さん(ureのミラクルなクリスタルアート)からのメールでした。
 その内容を読んで、私は驚かずにいられませんでした。

「先ほどまで倉本聰さんのラジオドラマのメイキングやってて、急に私の心が落ち込みました……。
"人間が自然と決別をした時、全てが終わる…"と。
 立っていられないくらいの落ち込みです・・・・・・」


 文子さんは、(このブログでも何度かご紹介しましたが)龍泉洞を発掘したお父様を持ち、岩手の豊かな自然の中で生きてきて、樹々の息吹を感じていられるような方です。
 その方と私の思いが「まさにシンクロ」していたことを思い、とても不思議だったと同時に──

「これは、今の地球にとって、とても『大切なメッセージ』なんだ」

 そう思いました。
 「人間が自然と決別をした時、すべてが終わる」──。
 そうでしょう、まさしく──そうなのでしょう。
 私が今日向き合っていた問題も、そこに立ち返ります。

 私は、1%の希望があるのであれば──最後まで「諦めたくない」。そういう人間です。
 でも、もしも──もしも、人類が自らの選択で自然と決別したならば・・・・・・
 その終末を、「甘んじて受け入れる」覚悟はあります。
 自分一人助かろうなんて、そんな気はさらさらありません。
 私も「人間」である以上、人間としての責任を全うしたい──助かることよりも、それを願うでしょう。

 塞ぎ込んだ気持ちのまま振り返った際──ナショナル・ジオ・グラフィックにおまけでついていた「地球のポスター」が目につきました。
 それは「夜景の写真」で、電飾のあるところは「白く」浮き上がっています。
 日本は首都圏を中心に「真っ白」で──メインの都市もほとんどが真っ白。

 もし、この写真が「すべて真っ白」になったとしたら──その時は、「すべてが終わる」時なのかもしれません。

 でも、人類が「そこまで愚かでない」ことを、私は信じたいです。
 人類だって「自然から生まれた」のです。いわば、自然は「母なる存在」のはずです。
 それを、物質として──資源として見るようになってから、すべてがおかしくなったのです。
 だったら、「その意識の在り方を、変えるしかない」

 1%でも望みがあるのであれば──私は諦めず、「新しい自然との共存方法を探したい」
 強く、そう願っています。


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答えは「自分で探すもの」

 今日は篠崎、何だか放心状態です(笑)。

 現在、エハン・デラヴィさんの活動を集約した執筆本の準備をしていて、今日、その序文下書きと目次の草案を送ったところなのですが──起きてから送るまでの三時間あまり、めっちゃ集中していたみたいでして──。送り終えた途端「伸びきったゴム」のようになってしまい、他の仕事に手をつけたくても手がつかず、仕方なく「少し寝て、リセットをかけよう」と思いきや、昼寝どころかハンパない爆睡をしてしまっておりました(苦笑)。
 今日は夕方から、YOU are EARTHの仕事を委託しているデザイナー・774さんとの打ち合わせが入っていたのですが、もぉ全然夕方どころの話ではなく(笑)、スカイプ通話で打ち合わせが開始出来たのは21時半過ぎてのことでした。

 今でもまだ、「眠い」です(笑)。
 一体、私は何をこんなに疲れているのでしょう──(苦笑)。

 そんな話は、さておき。
 私は現在、そんな事情でエハンさんの本や、2012年に関する他著者の方々の本、それに関わる資料をあさっている最中ですが、こうした「2012年に関する著書」の中で、ある共通した特徴を感じることが多くなりました。
 それは、著者がすでに、ある程度の「答え」を提示してしまっているケースが多々あるということです。

 例えば、「地球は2012年にこうなる」「霊界が消滅している」「ポールシフトが起こる」「人類はこうなる」などなど──。
 かたや、エハンさんの本のほとんどは問題提起で、答えはほとんど出していません。
 私は両者を読み比べていた際、本当に正しい書籍の在り方は、エハンさんのように「問題提起」だけに留めるべきなのだと、そう思ったのです。

 日本人はどうも、「答えを他者に求める人が多い」──そう感じることが多々あります。
 占術やヒプノなどもそうですが、「退行催眠などを受けて、自分で探していく」ことよりも「あなたは前世、こうこうでした」と他人から言ってもらえる方が納得する、という方が多いように見受けられます。
 そうした癖がどうしても日本人の中にあるのか、そうなるとこれだけ2012年の情報が氾濫していると「どれが本当なの?」と混乱してしまう人も多いと思います。
 それは事実でしょう。
 でも、あえて言いますと──

 答えは、書籍にあるのではなく「自分の中」にしかないのです。

 日本人の特徴として、「周りがこう言っているから、自分も安心する」という特徴があるように思えます。
 まぁ、それは否定はしません。私だって、人生の中で多々経験していく中で「これでいいのだろうか」と不安に思っていた際、同じように周囲の友人から言ってもらえることで安心出来ることは、沢山ありますから。
 でも、それが過度になってしまえば──ただの付和雷同になってしまいます。

 情報が氾濫している──今は確かに、そういう時代です。
 でも、「それでいいのだ」と、私は思えるのです。
 情報が氾濫することが悪いことなのではなく、それを選別する目を、自分で養う必要があるのだと。
 数少ない情報だけしかない中で選別することに比べれば、「そうでない状況下の中で、選別した方が遙かにいい」。
 そして、何を選び、何を答えとしたかは「あなたにしかない、あなた自身の大切な答え」であって、誰にも侵食される必要のない「大切な気づきとなるはず」なのです。

 私はエハンさんの本を読みながら、「本来の書籍の在り方はこうであるべきなのに、それが日本人の思考に必ず合っているかどうか」と言われれば首を振らざるを得ないことを、とても残念に思っています。
 こればかりは、「民族性の違い」ということで、仕方がないことなのでしょう。
 それは、DVD「地球巡礼者」においても、同じことです。
 あのDVDはとても素晴らしいメッセージを打ち出しており、見る側に様々な問題提起をしています。それを自分できちんと思考できるか、出来ないか──それは本来、制作者側が考えることではなくて、見ている視聴者側が決めることなのです。

 私がよく耳にする、「大嫌いな言葉」があります。

 「だから何なの?」

 「何なのかは、『あなたが決めるべきこと』でしょう?」──私はいつも、そう切り返します。
 何故、もっと自分で決めようとしないのか。
 何故、もっと自分で答えを探そうとしないのか。
 何故、何でも他人に答えを求めるのか。
 情報がこれだけ多い中で、「何を自分の答えとし、何を自分の標とするか」は、個々人が決めるべきことです。
 それが、本当の独立個人と言うべきものなのでしょう。

 遠回りをしたっていい。
 「違った情報」を信じてしまっていて、改めて「あ、これは自分に合ってなかった」と訂正したっていい。
 そうした「道順こそ」が、自分自身を決めるルートなのだと、そう思います。
 書籍や情報ばかりに「答え」を求めず、自分の中で模索し、さまざまな情報を検討した結果「自分は、これがいいと思う」と選ぶこと──それが本来、人間には大切なことなのだと私には思えるのです。

 とは、思いつつも──。
 私も、日本人の悪い癖で(笑)、このブログにしても著書にしても、ある程度の「答え」を導き出してしまう癖が染みついています。
 本当はこの癖、何とかしたいのですが──長年染みついた癖はなかなか抜けないものですね。
 でも、あえて言うなれば──私は自分が導き出した答えを、100%の真実であるという姿勢で訴えたことは一度もないということです。
 だからこそ、批判がくればそれに対して理解しあえるよう、相手の言い分と自分の言い分を整理します。
 一方的に相手を否定するようなことはしません。(そりゃ、確かに相手が感情的になって「まったく論点のずれたことばかり指摘している」ような、話にならない相手でしたら別ですが──。そういう人には、私もグサリと厳しいことを言ってしまいます。)
 この世に生きる以上、100%の真実なんか、あり得ません。
 それどころか、あの世にいっても「ない」かもしれない(笑)。
 それは本当に、絶対的な「宇宙さえをも取り巻く神の領域」になってこそ、ようやくたどり着けることなのかもしれない。

 だから、まずは「100%の真実か、否か」なんて──そんなことを問い沙汰す必要性は皆無なのです。
 それよりも、「自分なりの答えを、みつけること」
 そして、その答えに自分が正直であるか──ということ。

 情報が氾濫した時代の中で、人々に求められる課題は「そこ」なんだなと──つくづくそう実感する昨今です。


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2010-03-17 | 真理 | トラックバック(0) |

YOU are EARTHの在り方

 昨日は諸事情で外出しており、8時間ほど歩き回っていた為、帰宅したら疲労困憊状態(苦笑)。
 そんな事情により、急遽ブログをお休みしました。
 本当はエハンさんブログ「シンクロニシティ」の更新日(1日おきを、個人的には予定しています)だったのですが、お休みさせて頂いた次第です。(先ほど、更新しました。「アースピルグリム(4) 宇宙でさえもが、巡礼者」)

 昨日はYOU are EARTHの活動に協力してくれている敦子さんと歩き回りながら、あれこれ色々なことを思い返していました。
 2月に、YOU are EARTH内で変革があった──という話をしましたが、その意義についてを、自分なりに考察していたのです。
 どんなものごとも、必ず「起こる意味」があります。
 そして、その背景には「学び」があります。
 では、その学びとは一体何だったのか──私は、ずっと模索していました。

 そして、行き着いた答えは──。
 YOU are EARTHの在り方を、根底から今まで間違えていたのだということでした。

 以前、このブログでも少しお話しましたが──その変革があった後、私は「スタッフ」という呼び方を変えて「活動関係者」という言い方にしました。(参照:http://you-are-earth.com/page/about.html#parsons
 それは、スタッフというのは「組織の一員」というスタンスであり、私が望む形とは「違った」ということに、気づいたからです。

 私たちは、あくまでも独立した個人です。
 そして、活動に協力するもしないも、個人の自由でしかない。
 組織や団体として「束縛する」という在り方そのものが、旧世代の考え方だったのだ──そう気がついたのです。

 先日、マウリッツォ・カヴァーロ氏の新刊「クラリオン星人はすべてを知っていた」の中で、「クラリオン星人達の中には司令部や司令官といった存在はなく、みなが独立した意識の中で全体調和を担っている」という記事があったことをご紹介しました。
 これからの時代必要な「全体調和」は、まさにそれであり──それは「スタッフ」だの「従業員」だの「活動員」だのという言葉で縛られるものであってはならないのだろう、私はそう思いました。

 YOU are EARTHの本当の在り方。
 それは、所属するとか、しないとか、そんな問題ではなく、関わる誰もが「名乗れる活動」でありたい──そう思いました。
 篠崎を個人的に知らない人が、YOU are EARTHを名乗ってもいい。
 以前関わっていてやめた人だって、名乗ればいい。
 道行く知らない人だって、名乗ってもいい。(そら犯罪に使われるのは困りますが、そいつぁ別問題ですンで──;)

 それこそが、「YOU are EARTHという活動」の真の在り方なのだと──私は昨日、そう気がついたのです。

 今日、「シンクロニシティ」でも書きましたが、私たちは大切なことを忘れて今を生きています。
 それは、私たちは、「何も所有していないのだ」ということ。
 この体も、着ている服も、お金も、PCも、すべては「地球からの借り物」です。生まれてくる前に貸し与えられ、そして、この世を去る時には返していかなければならないもの。

 そうであるならば、「活動そのもの」だって「同じ」だと──私はそう思ったのです。

 私はもと小説家でしたが(「売れ『なかった』小説家」と言った方がいいかな((苦笑))←一時期、ちぃと売れただけで)、小説を書いていた時も、ずっとそう思っていました。
 「私が書いている作品は、『私のものではない』。創造の泉から、借りているものでしかないのだ」と。
 だから、著作権云々というのにあまり拘ったことはありませんでした。盗作だの何だの訴訟になっている話題を聞くたびに、私は何だかとても「クリエイターとしてはあるまじき、支配的な姿勢」を感じてしまうこともありました。(特に、松本零士氏の一件はショックでしたね。かつてファンだったからこそ、余計に──)

 私たちが唯一所有しているものがあるとしたら、それは「存在」でしかない。
 存在と、記憶と、経験から学んだ思考──いわゆる霊性に積み上げられたものたち。
 しかし、本来はそれさえも実は「すべてのものと共有している」のに過ぎないのだと、私は感じています。

 でも、そうやってどんどん「存在意義」を広げていってしまうと、大抵、人の思考は混乱してしまうでしょう。何故なら、三次元はそういう世界だからです。
 だからこそ、まずは「自己の確立」が必要なのでしょう。
 だからこそ、まずは「私(わたし)」という言葉が必要だったのでしょう。
 自分の存在意義──自分が何者であるか、自分は何をしようとしてここにいるのか──それらを思い出した後に、私たちは「すべてのものと共有していた事実」に立ち返るのかもしれません。

 「あなたは地球」──YOU are EARTH

この言葉は、「地球がすべての生命に自らを提供してくれている姿勢」と同じようにして、枠をもたず、自由に存在し、自由に活動すればいい──そう思いました。
 組織化だの法人化だの、そんなこと自体が「馬鹿馬鹿しい」。
 それ自体が、旧世代のものでしかなかった。「資本主義システムが崩壊しようとしている」中、旧世代と同じ方法をやっても「堂々巡りするだけ」です。

 私は、そのことを2月の変革期に学んだのだな──改めて、そう思いました。
 やはり、どんなことにも「すべて意味があり、課題があり、学びがある」のです。
 そのことに気づいた時、人は初めて謙虚な気持ちになり、すべてのものごとに感謝する──そんな姿勢に立ち返るのかもしれません。


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2010-03-16 | 雑談 | トラックバック(0) |

天国に入れるのは「子供のような心」を持つ者

 今日はちょっと、雑談的な内容です。

 現在篠崎は二つの執筆作品を抱えている為、朝から晩まで読書をするか、或いは思考しまくりです。
 そうすると──何て言うのか、すごく子供になりたくなることがあるのです(笑)。
 理論なんて関係ない。
 ロジックなんてどうでもいい。

 ただ「感じる」──それだけがしたい。

 昨日そんな境地に立たされた私は、久しぶりにDVDの新作をあさってみようと思いつきました。
 大抵私が観たくなる映画(DVD)は、何かしらテーマ性があったり、メッセージ性、ドキュメンタリー性ある作品が多かったりします。ここ最近気になっていたのは革命家チェ・ゲバラの半生を描いた作品か、或いはメル・ギブソンが監督したマヤ文明の映画(名前忘れました;)だったのですが──何故か昨日はそれを手にすることなく、私が手にした作品……。
 それは──

 ディズニー映画「魔法にかけられて」
 http://www.disney.co.jp/movies/mahokake/


 たぶん、個人的に篠崎を知っている人はみんな「えっ! あんたがそんな映画観るなんて、一体どうしちゃったの!」と叫ぶに違いありません(笑)。
 娯楽映画というだけでなく、とても「ロマンティック」な作品イメージがありますからね。
 つきあったばかりの恋人同士が観に行ったり、或いは夢見る女の子同士が観に行くような感じの映画で──例えて言えばアキバ系の人(失礼!)がひとりで観に行ったり、篠崎タイプの人がひとりで観に行く系の映画ではないでしょう。(余談ですが──私はひとりで映画を観に行くことが多いのですが((出掛けている最中、突然思い立って映画館に入るパターンが多いので、人を誘う余裕ナシ))女ひとりで映画を観に行くと、結構「変な目」で見られることも時折あります。
 男性諸君。女性だって、普通に映画を「ひとりで観たい人」はいるものなんですよ。別に、たいした意味があってのことではないので、黙ってそのままにしてやってください──。※最近は出不精になって、DVDで済ませることが多くなりましたが、20代の頃はホントに嫌な想いをさせられました……) 

 この映画、「ただのロマンティックな映画か」──と言えば、そんなこともなく……「どちらかと言えば、大人向けの映画作品だな」と思いました。
 有名な映画なのでストーリーを知っている方も多いと思いますが、この作品はヒロイン・ジゼルが、愛するエドワード王子との結婚式の日、悪い魔法使いに騙されて、「幸福が永遠に続くことのない悲惨な世界」へと送られてしまうところから始まります。
 そして、送られた先というのが──

 それが──現代のニューヨーク(笑)。

 人々が向ける白い目と、冷たい対応。そして、冒頭に出てくる場面は「離婚訴訟」。
 ジゼルを助けるロバートは弁護士で、しかも奥さんに逃げられた挙げ句、再婚間近。だけど、子供に遠慮して思うようにデートも出来ないそんな日々を送り、再婚相手には誤解をされるし、口を開けば「僕たちは、大人の関係だから」。

 これ──どう考えても「子供向け作品じゃない」ですよね(苦笑)。

 でも、観ていて思ったのは──「じゃぁ、大人らしいって、一体何だろう」ということでした。
 ただ感情を抑えて、理性的に振る舞い、表面上は何の問題もなく「平穏」なフリをしていること──それが「大人」なのでしょうか?
 だとしたら、イエス・キリストは何故、「天国の門に入れる者は、子供のような心を持った者でなければならない」と言ったのでしょう?
 子供というのは、ただ野放図で無茶苦茶で、ワガママなことをしているだけの存在ではなく──無垢で、素直で、そして「感じる心」を持った存在のことを喩えているのではないでしょうか?
 だったら、どんなに大人になったって、「無垢で素直で、感じる心を大切にすること」なんて──本当は簡単なはずですよね。

 ちなみに。
 この映画、予想していた結論とは──私的には「意外な顛末」でした。
 途中で「あ~、もしかしてそうなるのかなぁ」とは思ったけれど──「こういうオチか!」と、ちょっと面白かったです(笑)。
 ディズニー特有のご都合主義や、「無理矢理ハッピーエンド感」があったのは否定出来ませんが、この作品はストーリー性云々というよりも、子供のように純粋なこころを思い出させてくれる作品だったから、それで充分なのかもしれない、そんなふうにも思いました。

 私達大人は、どうしても「理性」を尊重しがちです。
 でも、本当に大切なのは「感じること」ではないでしょうか。
 勿論、そこに「エゴ」が入ると、それは「ただの偏見」や「思いこみ」でしかありません。
 でも、純粋な感動には、「エゴの入りようがない」。
 あるのは──揺り動かされるこころと、そして「涙」だけです。

 涙は「こころの欠片」──私はそう思っています。
 人は嬉しくても泣くし、
 哀しくても泣くし、
 悔しくても泣くし、
 怒っても泣く。

 涙を失ったら──人は人でなくなるし、それをしないことを誇るのは「魂を亡くしたことを誇るのと、同じことだ」と、私はそう思います。
 映画の中で、ヒロインのジゼルはとてもいいことを言いました。

 「私、あなたのせいで『怒ってます』! 
 ええ、すごく『怒ってるわ』!
 こんな気持ち、感じたの初めてです!
 でもね……とても素敵なの。
 とても、素敵な気持ちなの……」


 この意味が、お分かり頂けるでしょうか。
 例えて言えば──ジゼルは、私達三次元よりも「高次元の存在」だったとしましょう。
 だとしたら当然、彼らは「怒りという感情」を知らないでしょう。
 怒りは「負の感情」ですが、負であると決めたのは、誰でもない、私達人間です。
 でも、それを負でも正でもない──何のジャッジもせずに受け入れれば、それはただの「こころの感じた、ありのままの表現」でしかない。
 ジゼルの言葉は、そんな負とされる感情でさえも、いい・悪いをジャッジせず、ありのまま受け入れる姿として描かれていた──そう思えたのです。
 子供というのは、素直に怒り、素直に泣く。そこに「いいか、悪いか」の判断はない。

 もしかしたら──怒りを「悪いこと」と「決めつけてしまうことこそ」が、私達の感情を締め付けている幻覚に過ぎないのかもしれませんね。

 アダルトチルドレンとよく言われますが──それは結局「満たされない子供の欲求」のように思えます。
 要するに、「感じること」を押し殺されすぎて、発散出来ず──それが癒されないまま残ってしまうという。
 でも、大人になったって、老人になったって、私達はこころの持ち方ひとつでいつでも子供に戻れるのだと、私は思います。
 例えば、大人になってからスポーツを思う存分する人とか、純粋にはしゃいで遊ぶ老人とか──彼らの笑顔の中には、「無垢な子供の笑み」が含まれているように、私には思えるのです。
 私達は、どんなに年齢を経たとしたって、いつでも子供に戻れるのです。自分の意識の在り方次第で。
 この映画は、そんなすばらしさを教えてくれました。

 私は、インテリと呼ばれることを望まない。
 賢人である必要もない。
 ただ「純粋な子供でありたい」──。
 本心で、そう願ってしまいました(笑)。


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2010-03-14 | 雑談 | トラックバック(0) |

これは「私たちが望む世界ではない」

 本日、エハン・デラヴィさんのブログ「シンクロニシティ」更新しました。
 現在はDVD「地球巡礼者─アースピルグリム─」の解説をカテゴリーごとに行っていますが、私はその解説をする為に最低「3回」は見直すようにしています。
 私はもともと好きな映画作品を繰り返し見るという話をしましたが、何かひとつのメッセージを拾おうとする場合、多角的な解釈をする為に、繰り返し観るというのは、非常にいい方法だからです。
 何かを解説しようとする際に、一方の視点だけでは書けません。自分の中に浮かぶ疑問、それに対する問いの答えを求めながら書くには、何度か繰り返す必要があるからです。

 今回の(3)は──その中でも、特に繰り返して観ました。
 それは、あまりにも重大なメッセージが籠められていたからです。
 (1)や(2)は、主に宗教的な在り方、歴史、精神の在り方がメインでした。
 しかし、(3)ではその意識の在り方が、ダイレクトに社会や政治、経済に影響することが描かれていたからです。

 とくに、人類学者ウェイド・デイヴィス氏の言う金融破綻の原因には、唸らずにいられませんでした。
 以前、「イスラム金融」の話を軽く触れたことがあったと思います。イスラム金融は1970年代に誕生し歴史は浅いのですが、利息を取らないという、今までの融資ではあり得ない方式をとっています。
 しかし、(詳しくはブログ・シンクロニシティに書いてありますが)現代社会の経済問題がその利息から派生しているとなれば──本当に私達は、一刻も早くその問題と対峙しなければならないのではないでしょうか。
 経費削減だの、そんなレベルの問題ではないのだとそう感じます。そうではなく、明らかに滞っている流れをまず解消することから入るべきなのでしょう。

 滞らせている存在が何か──その正体は、まだ見えていません。
 しかし、時代の暴露は本当に早い。どんなに綺麗事を言っていても本音が違う人の正体がばれるのも、本当に早い。
 だから、近いうちにそれさえも、明らかになる時が来るのかもしれませんが──。

 今回の章の中で、物理学者ナシム・ハラメインの言った言葉が、とても印象的でした。
「私たちは、気づかなければなりません。『これは、望んでいた世界ではない』と。そして、自然との調和のため行動を起こすのです。互いに支え合えば、事態はすぐに快方へ向かうことでしょう」

 そうです。
 今ある社会は、決して「望んでいた世界ではありません」。
 最近のスピリチュアリストの中には、「自分達の周りだけ、望んでいる世界になればいい」と考えている人も多いです。
 波動が違う人とは、「一緒にいられなくて当然だ」と。
 でも、それは違います。
 それは結果的に「エゴイスト」の考えに繋がり、再び分離を呼び起こし──同じ歴史を繰り返すだけです。

 じゃぁ、どうすればいいのか。
 「地球になる」ことを目指すしかない──私はそう思います。

 地球は、「この人、僕にあわないからいらない」と消すでしょうか?
 地球は、「この国、僕の好みじゃないから沈めちゃえ」なんてことをするでしょうか?
 豊かな大地をアスファルトで覆われ、大気を汚染され、海に汚水を流し──それでも、必死に生命をはぐくみ守ろうとしてくれたのが「地球の在り方」です。
 すなわち、地球はいっさい、自然に反しているという理由だけで排斥などはしてこなかったのです。仮に地球がそんなエゴイストであれば──人類なんて、とうの昔に全滅していたでしょう……。

 勿論、自然淘汰はありました。
 それは、地球が望んだというよりも──生命の「選択」です。
 だとしたら……人類にも「淘汰」はあるかもしれません。それは、否定出来ません。今だって、多くの人達が紛争で死に、災害で死に、疫病や飢えで死んでいるのですから。
 死を、恐れることはありません。
 でも、「哀しい死」を少なくさせる努力は必要です。

 「これは、私たちが望む世界ではない」
 それを私たち全員が気づいた時、新たな未来となる「青写真」が必要です。
 それは、人々の共存共栄──利益主義ではない公益の世界。子供達の未来と教育を最優先する世界。
 自然と文明が共にあり、生命を互いに慈しみあえる世界。

 地球がそうなれたら──それこそが「アセンション」なのでしょうね。


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【参照】DVD「地球巡礼者─アースピルグリム─」







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私達は誰もが、アーティストとして地球に生まれている

「私たちがこの世界に生まれている以上はね、誰にでも役目があるの。
 その役目が大きい、小さいなんて、そんなものは関係ない。どの生命も、どの人生も、すべて素晴らしい。
 私たちはね、誰もが『アーティスト』として、地球に生まれたのよ」



                  顔写真 

 山崎文子さんは、そう語りました。
 山崎文子さんとの出逢いは昨年のこと。「なにみえ」のブロガーであるじぇいどさんからご紹介されました。
 最初はただのご縁ぐらいに思っていたのですが──実は、とても「深い縁があった」ことに、あとから気づいたのです。
 それは、「龍泉洞」。文子さんのお父様は、この龍泉洞の発掘者だったのです。(くわしくは「人間の理想像はデクノボー」をご参照ください。)
 私にとってあの泉は、本当に神秘の泉でした。
 そして、それだけでなく私が一番惹かれたのは──あの美しい泉を発掘されたお父様の「生き様」
 村おこしの為に必死に働き、いざ事故が起こったら「それみたことか」と後ろ指をさされ、どれだけ苦しかったことでしょう──。
 人間とは、本当に「都合のいい生き物」です。自分の思いこみ、偏見で相手を非難し、何かあれば「それみたことか」と批判する。
 しかし、いざそれが本当に素晴らしいものだと分かったら──手のひらを変えるでしょう。きっと文子さんのお父様を非難した人達は、あの美しい龍泉洞を見た後「意見を覆した」ことでしょうね。(でも、どんなにこの世でずるい生き方をしていても、自分という魂はそれを記憶している──自業自得という言葉は、「自分の行いは、自分でしか償えない」という意味なのかもしれません。)

 文子さんと私の出逢いを深く繋げたのは「龍泉洞」ですが、文子さん自身はもう長いこと「ハートアート」という独自のセミナーをされています。
 アートセラピーは巷にごまんとありますが、「生命の息吹」というハートアートを目指しているのは文子さんしか私は知りません。しかし、この「生命の息吹」というのは──実は「自分達が地球の細胞である」ことを思い出すことに直結しているのです。

 実は(ご存知の方もいるかもしれませんが)5月1日に、ハートアート第一回目を企画していました。
 この企画は、私のたてたものではありませんでした。私は他にも多数企画を抱えていたので、他の方の企画については完全にお任せしてしまっていたのです。(しかし、それは代表責任者たるもの、無責任な行為だったと──今では反省しています。)
 しかし、12月から決まっていたはずの企画があまりに動かず──しかも、2月に入ってからYOU are EARTH内で大きな変革が起こってしまいました。
 その為、私は、完全個人事業主としてやっていくことを決意し、他に協力してくれている仲間達も「スタッフ」ではなく「活動関係者」という形に変えました。(でも、これで結果的に正解だったと思います。スタッフだの従業員だのというのは既存企業の在り方であって、未来の在り方ではありません。細胞ひとつひとつは依存せず確立していても、相互扶助の関係で協力しあいながら肉体という組織を作り上げていくのと同じように、私もまた同じようにして、自分は「独立個人」として生き、私の生き方に協力してくれる方、賛同してくれる方々と手を取り合って生きていこう──そう決意出来たので。)

 そんなこんなで、あと2ヶ月しかないにも関わらず、企画がようやくまとまったのが「先月の末」でした。
 「駄目だ──。これは、絶対に間に合わない!」
 正直に白状すると──私はそう、思っていました。
 しかし、私には「ずっと前から決まっていた企画を、やめることは出来ない」そんな思いが強くあって、ずっと葛藤していたのです。

 だけど──心とは、伝わるものなのでしょうか……。
 3月4日、山崎文子さんとお会いした際、彼女がこう言って下さったのです。
「由羅さん。今回は延期しましょう。もっときっと、何か案やいい方法があるはずだから」と。

 その言葉に、私は救われました。
 文子さんと会った時、私は本当にボロボロの状態だったのです。執筆しなければならないものも大量にある中、その他にも抱えた責任の中で押し潰されそうな状態でした。
「由羅さんの気持ちは嬉しいけれど、きっと今はまだ時期尚早なのよ。だから、今回は延期しましょう」
 確かに、それはそのとおりでした。
 私は11月からずっと走り続けていて──本音を言えば「少し休みたかった」のです。
 それは、遊びに行くとか、そんなものではなく──「ひとりになって、じっくり色々なことを考える時間が欲しかった」。
 文子さんは、そんな私の本心を見抜いていてくれたのでしょう──。

 私はその言葉を聞いた時、
 今までに誰もが体験したことがない程の、ハートアートの企画を考えよう、そう決意しました。
 私は、文子さんの言った言葉が、とても大好きなのです。

「誰もがみんな、アーティストとして地球に生まれたんだよ」という、この言葉。 

 うまいとか下手とか、何でそんな見た目ばかりに人は拘るのでしょう。
 本当に大切なのは、如何にこころを表現するかのはずなんです。
 文子さんのハートアートは、それを思い出させてくれる最高の技法だと──私はそう思っています。

【ハートアートの実践例です:生徒さんが書かれた作品】燃える夏(私の大好きな絵です)

絵の写真

※文子さんの「ハートアート」に関する取材記事は、2回に分けてサイトで連載予定です。連載が決まりましたらお知らせしますので、楽しみにお待ちください。


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2010-03-12 | 真理 | トラックバック(0) |

もうこれ以上、神に依存するな!

※注意※
現在、篠崎は「激怒!」しています。心臓の弱い方、少し鬱気味な方、ペースメーカーを使用されている方、妊娠中の方は目の毒になる危険もございますので、お読みにならによう薦めします。



 ちょっと「おいおい、勘違いも甚だしくないか?」という記事を目にしたので、そのことについて書かせてもらいます。
 今から数年前、宇宙に願えば何でも叶えてくれるという天使を使って、自分の思い通りの人生を歩める──そんなスピリチュアル本が沢山出ておりました。
 まぁ、人生「思い通りにならないこと」なんて山のようにあります。勿論、私にだってあります。
 しかし思い通りにならない人生があるからこそ、人は思いがけない喜びに出会った瞬間、『感謝』という大切な気持ちを味わえるのではないでしょうか?

 私はこの手の「天使にお願いをすれば~」「神様に、具体的にお願いをすれば~」という考え方が大嫌いです。
 それは、この世を創造した神への依存でしかなく、自立ではないからです。(日本人特有の現世利益主義、他力本願ですね。)
 神が人類を創造したのは自立こそが目的である──私はそう思っています。
 それは、子供と親の関係性とも似ています。
 親が子供に出来る最大のことって──「自立させてあげること」ではないでしょうか?
 どんなに英才教育を受けさせても、どんなに予備校に金をつぎ込んでも、そこで胡座をかいて精神を自立させることなく、「完全に親に依存することしか出来ない子供」となってしまったら、どうでしょうか?
 それは、本当にその子にとって、良い人生でしょうか?

 私はこの手の「宇宙にお願いすれば~」「神にお願いすれば~」という考え方は、これからの時代に、とても危険だと思えるのです。
 これから訪れる時代は「自己の確立」です。宗教画にあるように、ルシファーをミカエルが踏みつけている絵画──シュタイナーは「人類がああやって、自己の選択の中で生きていくことを望んでいる」それは事実だろうなと、そう思いました。

 もうずいぶん「○○にお願いを~」というスタンスはなくなってきたかと思っていたのですが、未だに残っていたとは──思わず、溜息を吐きたくなりました。
 そういう方々に、逆に聞かせてください。

 あなたひとりが幸せになって、他の世の中の誰もが苦悩の中にいても──あなたは「私って、幸せ!」と言い切れますか?

 狭い日本の中でさえも、今や雇用問題で苦しんでいる人達が大勢いる中で、「欲しい金額を具体的に想定すれば、神様は必ず準備してくれます」なんて、確信持って言えるのですか?
 世の中には、本当に大勢のレベルの方がいます。100円を道ばたで拾って「やった~! 助かった~」と喜ぶ人もいれば「何だ、これっぽっち」と放り出す人だっているかもしれません。
 人それぞれのレベル、人それぞれの価値観を視野に入れず、、安易に「神に具体的にお願すれば」というのは、あまりに安易で子供じみています。
 それに、そういうことを言う人の多くが、この世における幸福しか探求していない
 もし本当に高次元体の人であれば、絶対「安易な願望法は唱えないはず」です。少なくとも私が知り合った人達はそうでしたし、カヴァーロの本に出てくるクラリオン星人も、ハワード・メンジャーがコンタクトした人も「言っていなかった」そう思います。

 何故なら、この世は学びの場であり、ただ「遊びに来ているわけではなく」、
 しかも、豪邸に住もうが金持ちになろうが、精神の成長がない者に天界の扉は開かれないことを、熟知しているからです!
 どうか、この記事を読んで同意してくださった方は、安易な「願望成就法」などにひっからないでくださいね。(在る意味、ネットビジネスに近いものを感じるなぁ──)

 数年前、新月リストが流行りましたが、今、もうすでに「下火」です。
 そうかと思えば、また同じようなことが出てきて──その繰り返し。
 人類は、いつになったら、自分の人生を自分で決められるようになるのでしょうね?
 もういい加減、神様が「じりじり」しているような気がしてならない昨今です。



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プロフィール

篠崎由羅(しのざきゆら)

Author:篠崎由羅(しのざきゆら)
1970年生。幼少期から哲学・宗教学に造詣を深める。思想および思想史、それに付随した国際事情に興味を抱いて独学を続け、大学ではインド哲学科専攻。東西問わず、両者の思想に渡り研究を深める。

現在は看護師として施設で勤務しながら、その傍らで執筆活動を続けている。2016年11月にYOU are EARTH改め「WE are EARTH」の活動を再始動予定。より良い未来の地球のため、全力を尽くす誓いをたてている。

【篠崎編集担当】


【篠崎の著作本】

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