2012年を超えて、その先の未来へ──

 現在、6月に出版予定の文庫本原稿の推敲、および加筆に集中しています。
 今回出版される文庫本はメインがエハン・デラヴィ氏のワークにおける解説であり、同時に他著者の方(主にマオリッツオ・カヴァーロの体験談を転載しています)との内容を比較することで、今まで探究されてきた2012年問題──例えばフォトンベルトについてやニビルについてのことなどを、より掘り下げようとする意図の元に書かれています。

 このブログを読んで下さっている方からすると、「篠崎がフォトンベルトやニビルのことを言うなんて、珍しい」と思われるかもしれません。ブログランキングの紹介にも書いてあるように、私自身は2012年に何が起こるかよりも、その先の未来を考えたいというタイプだからです。
 しかし、未来を考える為には「現在」を見つめる必要があります。現在言われていることを無視して、その先の未来を論じることは出来ません。

 2012年、ポールシフトが起きた時に(実際に起るかどうかはさておき)宇宙船が助けに来て、ある一部の人が救われるとか、そのレベルにない人は取り残されるとか、色々なことが言われていますが、正直言って「そんなこと、どうでもいい」と、私は思っています。
 地球の危機に、地球を傷つけた人類が生き延びて、何になるのでしょう。家族のいる方は本当に大変だとは思いますが──地球規模で考えた場合、私達はあくまでも「生命の一部でしかない」という現実は、心のどこかで覚悟しておくべきだと思います。

 それに私は、他力本願が嫌いです。常に自分の意志で、自分の決意の中で生きていきたい。そうでなければ、何故創造主は人間に「自由意志」を与えたのでしょうか? 
 自由意志は、自己責任と付随して初めて存在するものです。そうである以上、都合良く宇宙船が助けに来て、「善人だけ助けてくれる」なんてことはどうにも理解しがたいのです。(30年もUFOとコンタクトしているカヴァーロでさえ、「それはない」と言っていました。「異星人は人間の意志を尊重するので、過干渉するようなことはあり得ない」と。)
 そんなことを言ってしまうと、宇宙船の救出を待ち望んでいる人達の夢を壊してしまうかもしれませんが、そうした「見えない未来に夢を抱くこと」よりも、まずは今という現実の中で、可能性ある限りの理想的未来を構築する努力をした方が、遙かにいいのではないでしょうか?

 未来に何が起こるのかなど、誰にも分からない。
 分からないからこそ、私たちはその未来を「想像し、創造する機会に恵まれている」のです。
 その際、私たちが独力で未来をより良きものに変えていけるのか、はたまた今まで以上に荒んだものになってしまうのかは、ひとえに「今を生きる私達にかかっているのだろう」と、そう思えるのです。 
 ポールシフトが起ころうと、フォトンベルトに突入して地球の生命体が崩れようと、「今」私たちが生きているという現実は誰も変えようがありません。
 そうである以上、私は「このまま人類が存在し続け、未来を新たに構築していく可能性」に賭けて生きていきたい──そう思っています。
 アセンションをするもしないも、それを選ぶのは「人類次第」だと、私には思えます。より現実的な働きかけをもってシステムを変えていくことで、人々の意識も変わっていくのだとするなれば、それこそが本当のアセンションだと言えるのではないでしょうか?

 私は「2012年が過ぎた未来」を考える為に、「今、言われている2012年の現象」と向き合うべくして、今の文庫本を執筆しています。
 その中でも、色々と理解出来たものがありました。以前も少し書いたように、ひとつの問題の視点を変えるだけで「実は科学的にもそれが証明されていたり」など、決してただ単に精神世界、オカルティズムというだけで一掃出来る問題ではなかったということも理解出来たのです。

 ただ、私の「ワーク」は、そこで終わりません。
 いわば、これが私にとっての「スタート」です。
 私の本当の目的は、「如何に地球が、理想的な文明社会になれるか」です。
 文明をもう二度と、私たちは捨てることが出来ません。必ずしも原始的な生活に戻ることが、人間の進化として正しいことではないのです。仮にそうだとしたら、高度知的生命体(異次元人)というものも存在するのは矛盾してしまうことになるからです。

 文明と自然のサイクルを「いかに共存させ、いかに調和させるか」というのが、私たち人類の「これからのテーマ」なはずです。
 そして、私は今回の文庫本を出版した後は、全力を尽くして「地球人類は如何にすれば、理想的未来を構築出来るのか」の答えを探したい──そう思っています。秋頃を目処に、もう一冊原稿を準備する予定でいます。
 
 おそらく、2012年を境に、いっきにアセンションの問題から手を引いてしまう著作人達も多いでしょう。
 しかし、私のゴールは「地球が住みよい環境になるまで」なので、私はこの問題から手を引くつもりはありません。私の文章を表層的にしか読まず、「なんだ、お前は未だにアセンションとか言ってるのか」と批判を受けることも覚悟の上で、私は自分のライフワークを探究し続けます。
 自分自身が「地球の未来を創造する」道を選ぶと決意した以上、その決意を私は絶対に撤回などしたくないからです。
 アセンションというのはたった一瞬で起こることでもなければ、全人類規模で共有出来る問題でもないのです。
 それは、今回の文庫本にも詳しく書いてあります。「時間という概念がトラップである以上、私たちの意識下においてそれを認識するか、しないかでしかない」のです。そして、それを言うならすでに「2012年は始まっている」という自覚を持っている人達は、私の周りで少なからず存在します。

 意識下における変化である以上、私たちはその現象に気づくか、気づかないか、ただそれだけなのです。
 私はすでに、その変貌を感じています。そして「だからこそ」、地球人類がより良い理想世界に到達出来る道を模索したい──強くそう願っています。


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歴史は「共有知識」でしかなく、誰も体感出来ない

 これはイギリス取材旅行の最中、コーンウォールにある「セント・マイケル・マウンテン」に行った時のことでした。
 フランスの「モン・サン・ミッシェル」は有名な観光地ですが、そのイギリスヴァージョンと言うべきものかもしれません。カトリックの元修道院で、一定の時間になれば満ち潮が町への道を閉ざし孤島となってしまうそんな建物の中で、多くの修道院達が神に祈りを捧げたのかと思うと、私はいいようのない感動に溢れました。そこにあるのは人々の清らかでありたいという願いと、再び神と合一したいという願いに彩られた空間であるかのように感じられたからです。
 傾斜のある道を、修道院の人達は一歩一歩上っていき、その中で何を思ったのだろう──そんなことを考えながら、私は無言で歩いていました。

 ふと、その時。違和感のあるものが目についたのです。
 それは、見た限り「大砲」でした。陸地に向けて設置されており、修道院には似つかわしくない──まるで砦のような雰囲気です。
 私は奇妙に思って、同行していたエハン・デラヴィ氏に尋ねました。エハン氏はその際、この修道院の歴史は非常に複雑で、ただ修道院として機能していたわけではないこと、およびヘンリー8世の統治時代に全カトリック教会を潰すよう命令が出て、多くの修道院達が殺されたこと、貿易に利用されたり砦として大砲が設置されていたことなどを説明してくれました。
 私は何とも言えない気持ちになって、大砲が向いている先を見つめました。
 穏やかな青い海は静かに凪いで、そよぐ風の先に見えるのは美しい岬です。そんな光景に何故、このような物々しい大砲があるのかと思ったら──とても哀しく思えたのです。

 建物の中には、色々な史実を示す絵画もありました。どこの国か明確には分かりませんでしたが、アフリカの部族らしき人達をイギリス兵が攻撃している絵画もありました。下には「スーダン」と書いてあったので、スーダン戦略の様子を絵画にしたものなのでしょうか。

 たったひとつの建物の中に、多くの歴史が包括されている様を、私は実感した気がしました。日本のこうした宗教的建築物(寺院など)では、こうした歴史的絵画が飾られているケースはほとんどありません。あっても掛け軸程度ですが、このセント・マイケル・マウンテンでは博物館のような展示場も数々ありました。

 私はそうした展示物を見ながら「歴史の意味」を考えていました。
 私はここに来た当初、この建物は修道院達のものだけだという思いの中で散策していました。しかし、実際はもっと血なまぐさい、哀しい歴史も数々あったのです。
 一昨日の記事にも書きましたが、私たちは意識下にあるもの以外、それが事実とは認識出来ません。共有されて初めて、それを「事実」と知ることが出来るのです。──いえ、正確には事実と仮定しているだけに過ぎません。何故なら、私たちはその歴史で起きたことを、この目ではっきり見ることも出来なければ、体験することも出来ないのだから。

 そう思った際、私は、どう足掻いたところで、「私」という殻を破ることが不可能なのだという事実も悟りました。
 何故なら、私は自分の意識の中であらゆるものを数珠繋ぎしながら把握していくのが精一杯で、それも「篠崎由羅が誕生し、今に至るまでの意識の中でしか対応出来ないもの」だからです。
 例えば「1192つくろう、鎌倉幕府」と覚えて、1192年に鎌倉幕府がたてられたことを覚えていたとしたって、それは私が中学生の時に覚えた時の記憶でしかなく、実際に1192年に鎌倉幕府が出来たのを「この目で見たわけではない」のです。

 一昨日の記事に書いた「現象と意識の関連性」に戻りますが、私たちはこうした現象を「自分の体験で行う」のは時間が有限である以上限界があるので、聞いた話、見た話、読んだ話で記憶の照合をしていきます。
 でも、それはあくまでも記憶の照合にすぎず、真実であるかどうかはまた別問題なのです。
 私はそうした意味でも、科学的見地や歴史に対して少し疑念を持っているところがあります。勿論、それを最初から「嘘だ!」と否定することはありませんし、すべてにおいて猜疑心をもって「隠謀論だ」と唱えることもありません。

 ただ、私たちはいつでも常に、それが本当に真理に基づいているのか否かを検証するだけの意識を持つことが必要なのではないか──そう思えるのです。

 そうした意味で、歴史というのは私たちに「色々なメッセージ」を投げかけてくれている──そう思います。これは文庫本の方に詳しく書いてありますが、私は「時間の感覚」というのも、真理から人を遠ざけてしまうトリックのひとつだと思っています。ある学者は「何千年前に○○が起こった」といい、他の人は「いや、違う。もっと数千万年前の出来事だ」といい、いざコンピューターに解析かけたら「違う、これは○百年前だった」と結果が出る──このようなことは、世界中にまだまだ沢山あります。
 時間が相対的である以上、歴史の感覚も「必ずしも一律ではない」と、私には思えるのです。どんなに精密な機械でそれを出せたとはいえ、その根拠や整合性がとれない以上は「それを真理として受け入れること」は出来ないのではないかと、私にはそう思えます。

 イギリスは伝統を大切にする国なので、歴史的にとても古い建造物がたくさんあります。
 そこに蓄積されていく時間のメモリアルを、私たちは「想像」出来ても「体感」は出来ないのです。
 だからこそ私は歴史が尊く思えるし、神聖なものにも思えるのです。
 人間は科学に頼りすぎて傲慢になってしまった。時間の概念も歴史の産物も、本来私たちは「100%確実に体感して知ることは出来ていないのだ」という謙虚さを、もっと持つべきなのではないでしょうか。


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2010-04-29 | 真理 | トラックバック(0) |

マナーは規律ではなく「人間性の顕れ」

 「現象と意識の関連性」についてまだ連載途中ですが、先日強烈に痛感したことがあったのでそちらを記事にします。
 旅行者にとってのマニュアル本(?)でメジャーな「地球の歩き方 ロンドン編」で、興味深いことが書かれていました。

「イギリスでは、ドアを開けた時後に続く人がいると、先に行った人が開いて待っているのが常識」

 出国前にそれを読んだ時、「こんな当たり前のことが、わざわざ地球の歩き方に書いてある」ということが、とても不思議でした。扉を開けた際、後続の人に扉を開けて待っているというのは、マナーでも何でもない思い遣りとして当然のことだと、私は思っていたからです。
 しかし、「日本の街中が必ずしもそうではない」ことは、みなさんもよくご存知のことと思います。だから、「待つのが常識」と言われても「日本と大差ないのだろう」ぐらいにしか思っていなかったのです。

 ところが、イギリスでは本当に扉を開けて待っていてくれる人が「ほとんど」でした。
 ほとんど──いえ、私があった限りでは100%でした。
 勿論、私もそうしました。日本で何度もそういうことしてきましたが、「ありがとうございます」「すみません」と挨拶してくれた人はほぼ半数です。多くの人が扉を開けて待っていても、当たり前のようにして何も言いません。
 しかし、イギリスで扉を開けて待っていると、全員と言っても過言でない人達がみな「Thank you」と笑顔で言ってくれました。

 この差は一体、何なのでしょうね──。

 ロンドンは世界的な大都会なので、みんながみんな英国人ではないでしょう。私たちのような観光客も大勢いたはずです。その証拠に、大英博物館のエレベーター内で白人のグループと一緒になったのですが一方はイタリア語、一方はフランス語、英語喋ってる人達が皆無という奇妙な光景に出逢った程です。
 だから、「扉を開けて待つ」というマナーは必ずしもイギリスに限ったことではなく、もしかしたら「万国共通の常識」なのかもしれません。

 しかし、今の日本はどうでしょうか?

 私は、駅構内で見かける「マナー広告」というのが嫌いです。
 何故なら、あの広告ほどマナーというのは外部から規制されるものだということを押しつけている広告はないからです。
 とはいえ、ああやって呼びかけるしかない程「日本人のマナーが低下している」のは事実でしょう。私自身、帰国してすぐに驚いたのは「マナーの悪さ」でしたから。

 成田空港からエクスプレスに乗り最寄り駅についた後、私は大きなスーツケースを引きずりながら、エレベーターに乗ろうとしていました。私の後ろには、ベビーカーに赤ちゃんを乗せたご夫婦がいて、私もそのご夫婦も、エレベーターに乗ろうとしていたのです。その駅にはエスカレーターがないので、重いスーツケースを持っている私も、そしてベビーカーを引いているご夫婦も、手段はエレベーターしかなかったのです。
 エレベーターの前には、手ぶらのおばさん(50代~60代ぐらい)がいました。ちょっとしたハンドバックは持っていたものの、その他に荷物はなく、しかも足腰も丈夫そうです。
 まぁ、エレベーターは万民のものなので誰が使うのも構わないのですが──驚いたのは、私とそのご夫婦がエレベーターに乗ろうとしているにも関わらず、扉の「開く」を押そうともしなかったことです。

 当然、エレベーターは閉まりかけていました。私は重い荷物を引きずりながらその場で走り出し、中に入って「開くボタン」を押しました。その配慮にご夫婦は気づいてくれたようで、「ありがとうございます」とお礼を言ってくれました。
 私は唖然としておばさんの顔をマジマジ見てしまいました。
 しかしおばさんは、何も悪びれた様子はありませんでした。
 彼女の中には「荷物を持っている人達」「ベビーカーを引いた人達」がエレベーターに乗るしかないこと、そして、その人達の為に「エレベーターを『開く』で待つ」という発想そのものが、欠如していたのかもしれません。

 私は、そのおばさんに悪気があったとは思っていません。
 ただ、明確に言えることはマナーというのは規律ではなくて、その人の人間性がすでににじみ出ているのだということです。
 どんなに綺麗事を言っている人でも、その人の動作一つ、言葉遣い一つで、その人の人間性ははかりしれます。勿論、疲労が溜まっていたりストレスが溜まっているとそこまで配慮出来ないこともあるでしょうが、本当の大人というのはどんなに疲れていても、どんなにストレスがあっても、だだっ子のようにそれを公共の場でさらしたりはしません。その時点で、その人の人間性が「子供であることの証明」だと、私には思えるのです。

 私がこういうことを言うと、中には「そんなに自分の一挙手一投足、全部に神経まわしてたら疲れちゃうよ」という人もいます。
 でも、本当のマナーというのは、気疲れしないものです。何故なら、それは人間性がすでで表現されているからです。
 よく使う「氷山の例」と似たようなものです。人間性という「海面下の自分」があったとしたら、海面から出ている氷山は「それらが表出した部分」でしかありません。いちいち気を遣って「お年寄りに席を譲らなくちゃ~」とか「一日一善しなくっちゃ~」と言ってる時点で、すでに無理があるのです。
 本当に人間性が確立していれば、悩むことなく席を譲れるし、人の迷惑になるような行為はしないし、相手が求めるものをごく自然に行うことが出来るはずです。

 マナーは「教わるもの」ではありません。
 自分で培うものだと、私は思っています。
 だからこそ、マナー広告としてあのように小うるさく貼りまくるのはどうかと思います。「それが出来てない」時点で、すでに日本人の人間性に問題があるという視点に、私たちは立つべきなのではないでしょうか?

 海外に行くと、それが本当に実感されます。
 勿論、海外がすべていいわけではありません。日本にだっていいところはあるし、海外にも悪いところはある。
 でも、ひとつだけはっきりしていることは現代日本人は、マナーということをはき違えているのではないかということです。
 マナーは「人間性」であって、「規律ではない」のです。

 後続する人の為に扉を開けて待つのは「規律で決められている」から、そうするのですか?
 お年寄りに席を譲るのは「規律で決められている」から、そうするのですか?
 荷物を持っている人の為にエレベーターを待つのは「規律で決められている」から、そうするのですか?
 それが規律でなければ、マナー広告がなかったら、誰もしなくなるのですか?
 そうではなく、相手の為に良かれという思い遣りから生じた行為でしかないと、私には思えるのです。

 最近、駅で携帯を使っているのを注意したら逆ギレされて殺されたとか、化粧しているのを注意したら逆ギレされたという事件もよく聞きます。
 しかし、私は本来「これはマナーではない」と思っています。
 もっと正確に言えば、マナーは人間性である以上、注意のしようがないのです。本人が気づき、自発的に変えていくしかない。
 注意した人は、正義感などの強い人だったのかもしれませんが──亡くなった方にこのようなことを言うのは大変申し訳ありませんが、私が思うに「それが『余計なお世話だった』と言われてしまっても、仕方ない部分がある」と思います。
 その方は「マナーは規律だ」と思っていたのでしょうね。
 でも、そうではありません。「人間性」です。
 だから、エレベーターで待たない人、席を譲らない人、電車の中でジベタリアンする人達に向かって、私たちは注意を促すことは本来出来ないのです。「彼らが気づくのを、待つしかない」のだと。
 そして、唯一出来ることがあるのだとすればそれは、日本における人間性の向上を、根本的に考え直すことしか出来ないのだと、そう思えるのです。

 日本は本当に、色々な意味で「岐路に立たされている」──そう実感する昨今です。


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2010-04-28 | 社会 | トラックバック(0) |

現象(時間/空間)と意識の関連性

 4月9日からのイギリス取材旅行(場所はイギリスの最南端であるコーンウォール州です)の最中、篠崎は思索を深める絶好の機会に恵まれました。(空港閉鎖以降、ロンドンでの滞在中はちょいとバタバタしてましたが──;)
 今回の旅行でもっとも大きな気づきとなったのは、時間と空間の関係性および次元の存在意義についてでした。後者の次元については、6月に出版される文庫本の方で詳しく書きますので、「時間と空間の関係性」についてのみ少しずつブログで記事にしていきたいと思っています。

 私は「時代の変化」を前にして、今起きている諸問題、次元の意味、私たち生命の存在する目的、様々なことと向き合いたいという思いが強くありました。
 そして、その中でも最も大きな障壁として立ちはだかっていたのが「時間と空間」という概念。
 多くの人は、「時間は流れていくものだ」という概念が強くあるようですが、私はどうも「そうじゃないのではないか」という疑念がいつでもあったのです。時間が流れているように感じられるのは「自分に記憶があるから」に過ぎず、その記憶における照合さえなければ、時間が流動的であるかどうかさえも自覚出来ないのではないか、と。

 例えば、あなたがある「記憶障害の病気」になったと仮定してみてください。
 その病気は、「今、していること」しか自覚出来ないとします。
 今、あなたはこうしてブログの記事を読んでいます。しかし、読み終えた後何か違うことをやったら、数分前に読んでいたブログのことなど忘れてしまっていたとしましょう。すべてのことは「今、この瞬間」にやっているだけのことでしかなく、明日もなければ、昨日もない。記憶が出来ないからこそ、「今」しか認識出来ないと、仮定してみます。
 そんなあなたを不憫に思った身内の人が、あなたのことをカメラでずっと録画していたとしましょう。記憶出来ないあなたの代わりに、ビデオで「あなたの一日」をメモリーにしておいてくれるのです。
 それを見せた人は「ほらね、あなたはこうやって一日の24時間という流れの中にいるのだよ」そう説明するでしょう。しかし、それを見たあなたには「24時間という流れの中にいること」そのものが、実感出来ないはずです。何故なら記憶が自分には存在せず、実感できる感覚は「今」しかないのだから。そんなあなたからすれば、「時間の流れ」というのは、「今」を数珠繋ぎにしたものでしかない──いわば「点の集合体」でしかないように感じられるはずです。

 私はその考えに行き着いた時、時間も空間も、すべては意識の産物でしかないということを改めて実感しました。
 私たちは時間と空間を「把握している」のではなく、あくまでも意識の生み出した記憶で照合することにより、それを認識しているだけに過ぎないのだと。

 一番いい例は「歴史」でしょう。
 時代史にしろ、歴史にしろ、私たちは「教科書で教わったこと」だけを「事実だ」と思って認識していますが、本来、教科書に掲載されていない事件や史実は、もっと沢山あったはずです。
 なのに何故、私たちは教科書に載っていることしか知らないのでしょう?
 答えは簡単。「私たちの意識上に、それが『ない』から」。
 意識上にないものは、その人にとって「存在しないこと」と同義なのです。
 私たちは、自分で意識したもの以外認識することは出来ません。逆に言えば、どんな客観的な事実であったとしても意識の中でねじ曲げられてしまうようなことがあった以上は、その事実自体、その人の中で抹消されてしまうのです。
 時間も空間も意識における産物でしかなく、そこでおきた現実も、その人の中で如何に捉えられたかということだけでいくらでも様変わりする。私たちはそれほどまでに不安定なマトリックスで生きているにも関わらず、「目に見えるものだけが真実」と思いこんで、疑わないのです。
 何とも皮肉な話ですね──。

 時間も空間も、私たちは互いの記憶や意識と共有しあうことにより、それが事実であることを確認しあいます。
 例えば、旅行に行った者同士、「昨日行った○○は、とても楽しかったね」「そうだね、すごく良かったね」など、今はすでに目の前にない過去のものも、記憶を意識上で呼び起こすことにより互いに確認しあうことが出来るのです。
 しかし、もし一方が記憶障害を持っていたとしたら、どうでしょう?
「昨日行った○○は、とても楽しかったね」
「え……、昨日、そんなところ行ったっけ?」
 おそらく、「楽しかったね」と話しかけた方は、とてつもなく不安に駆られるはずです。「え? 私の記憶が間違っているのかな」と、自分の思い出を疑ってしまうかもしれません。
 こうしたことは、事件におけるアリバイなどでもよくあることです。以前本当にあった話なのですが、強姦事件で容疑者として捕まってしまった人は、事件の時間は家族と一緒にテレビを見ていました。しかし、一緒にいたはずの家族でさえも、刑事からあまりに強い口調で問われた為か自分の記憶に自信が持てなくなってしまい、「もしかしたら──いなかったかもしれない」と言ってしまったのです。それでアリバイが証明されず、逮捕されてしまったという気の毒な事件がありました(後日無罪が確定し、釈放されましたが)。
これはアリバイを証明出来なかった家族が悪いわけではなく、人の記憶が「どれほど曖昧であるか」──そして、「どれほど、他者との共有に頼っているか」の証明であるようにも思える次第です。

 私たちは無意識に「時間や空間についてを、互いの記憶で共有しあっている」為、その事実について改めて掘り下げたり思い返す人はそうそういないかもしれません。
 しかし、本来「時間も空間も意識下において認識されていくものであり、それは相対的である」ことに気がつけば、世の中の見方も大きく変わってくるような気がします。
 同時に、私たちが見せられている報道、学んだ歴史、定説とされている科学理論が「必ず正しいと言えるのかどうか」という疑問も湧いてきます。何故なら報道や歴史、定説における役目の一部は「共有意識として人の意識の自由を拘束すること」を含んでいるからです。常に「これはあくまでも、真理の一側面に過ぎない」という視点でもって、多くの事実と向き合う必要性があるのだろうとつくづく実感する次第です。

 現象と意識の関連性については、ひとつの記事だけでまとめられるものではないので、今後少しずつ同じテーマで連載を続けていきたいと思っています。


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2010-04-27 | 真理 | トラックバック(0) |

ようやく帰国しました

 昨晩、二週間ぶりの我が家に帰宅しました。
 本来は一週間で帰国する予定が、意外な結末(笑)。しかし、この「おまけの一週間」というのが私にとって「本当に意味のある一週間だった」ということを実感し、改めて自分の変化に驚いています。
 さすがにまだ疲労は取れていないので、今日はご挨拶のみにしておきますが、明日からは今までどおりガンガン記事を書いていきます。イギリスにて思索の時間を設けられた為、今までとは違った視点で時代の問題を見ることが出来るようになったので、そうしたことも少しずつこのブログで皆様に披露していこうと思っています。

 不在期間にも関わらずランキングボタンのクリックをして下さった皆様、メールを下さった皆様にも、心から感謝しております。
 皆様の暖かいお心に応える為にも、これから今まで以上に充実した記事を書いていきたいと思っていますので、どうぞこれからもよろしくお願いいたします。

 ある意味、この二週間で篠崎は「大きく生まれ変わった」──というか、「一皮むけた(?)」感があります(笑)。
 自分が本当にやりたいことに集中する為に何が必要で、何が不必要なのか、それを選択する「いい機会」でもありました。
 「命の洗濯(せんたく)」は「人生の選択(せんたく)」に繋がる──何とも面白い話ですね(笑)。

 一皮むけた(?)篠崎のこれからの記事も、どうぞ皆様楽しみにお待ちくださいませ。

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イギリス空港閉鎖により、帰国延期のお知らせ

お久しぶりです、篠崎です。
9日、ロンドンに入って以降、無線の繋がらない状況が続いておりましたが、本日宿でやっと繋がった為、連絡出来るようになりました。
報道で言われています通り、現在イギリスの空港はすべて閉鎖されています。私も現在、ロンドンのヴィクトリアという街で足止めを食らっている状態です。旅行会社が代わりのフライトを探してくれている最中ですが、19日になるまでどうなるかが不明です。

頂いたメールに返信出来ない状況が続いておりますが、何卒ご容赦ください。帰国し次第、改めて連絡いたします。


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お知らせ & 謝辞

 イギリス行きを目前に控え(9日出国です)、現在明けても暮れても原稿執筆に追われている篠崎です。
 締め切りは今月の20日ですが、出国前に「全体の第一稿」だけでも済ませたいので、猛スピードでまとめている最中です。
 私が執筆する際、最重要視するのは「全体像」であって、部分情報ではありません。その為、全体の中で論旨がまとまってないとなるとそこを突き止めるのにえらく時間がかかってしまい、あれやこれやと試行錯誤を繰り返しております。

 そんなわけで、このブログも、エハンさんのブログ「シンクロニシティ」も更新が滞っておりますが、何卒ご容赦くださいませ。
 その分、皆様にご納得頂けるような文庫本の準備を進めたいと思っています。
 また、篠崎は9日~16日までイギリスに行きます。イギリスではその地のルポをするので、これもまた仕事です。帰国したら再度文庫本の「総仕上げ」に入るので──もしかしたら4月は、更新頻度がもっとも下がる月かもしれません……。

 しかし、それは「地球の未来をよりよくする為の、さらなる探究をしている為」であり、決して日常に埋没しているからではありません。(というか、今や私の日常は完全に「地球の生命の在り方」と直結してしまったので、それを抜きに考えられない──というレベルかもしれません。人づきあいも、そういう話が出来る方のみに限定しつつあるような状況ですし──もしや、これも一種の棲み分けなのかもしれませんが。((勿論意図的にではなく、自然とそうなってしまっているという──)))
 諸々の原稿が一段落ついたら、必ずや今までどおり毎日、皆様に情報発信をしていきます。
 また、この4月中も時間が出来た時に「ぽこっ」と更新している可能性もありますので、これからも遊びに来て頂けますと幸いです。その際、「ポチッ」とランキングボタンを押していって頂けますと、とっても心の支えになります(笑)。

 ブログは更新出来ていなくても、心は今まで以上に地球の未来を模索し、常に人類の進化を真剣に考えています。
 私はコメント欄を設けていないので、読者の皆様全員と交流することは出来ていませんが、それでも、毎日来てくださっている80名前後の皆様と心は繋がっている──そんな思いがしてならない昨今です。
 そんな思いがあるからこそ、24時間仮眠しか取らない状態でもひたすら突っ走ることが出来るような「パワー」を、私に与えてくれているのだろう──そう思える今日この頃です。

 しばらく更新が途絶えたり、時間が空いたら更新されたりの繰り返しですが、何卒気長にお待ち頂けましたら幸いです。

【お知らせ】
現在執筆を優先している関係で、メールのお返事が遅れております。時間が空いた時に少しずつ返信しておりますので、今しばらくお待ち下さい。

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※4月5日、春の食材更新。月水金と更新中☆

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パラレルワールドが存在する理由

徳間書店 マオリッツオ・カヴァーロ/著「クラリオン星人はすべてを知っていた」より

 こうして私は知ったのです、コスモスは自らのクローンを生成すると。始原の原子、水素と光のマグマをまき散らしながら、急激に自分自身のコピーを創っていくのだと。鮮やかな赤い巨星、二重星、三重星、四重星は、太古の荘厳な舞踏で回転するように荒波の中を滑っていき、時を紡いでいくのです。(P99)



「時は存在せず、空間はまやかしだ。一本の紐から別の紐へと移動するのは、我々だ。まるで狂った光子のように、我々は空間を生み出しながら虚無を横断する。時が流れるような間違いがあれば、我々は再度誕生するべく瞬く間に憔悴する。……法則というものは見せかけに過ぎぬ。なぜなら、均衡とは不変ではなく、何であろうと永遠に同類あるいは同一ではあり得ないからだ。全ては恒常的に刷新されていくのだ。万物は波であり、螺旋である。そして球体は、潮流が複製するものを内包する」(P110)



 運命とは、宇宙の秩序に基づき、複数のパラレルワールドが予め設定されているということです。翻って、自由意志とは、パラレルワールドの中でどんな選択をするかという決定権が与えられているという意味です。
 また、カルマというのも、その言葉につきものの古くさい神秘主義的なベールをはぎ取れば、明確になります。それは、選択がもたらした結果を一貫して集約する<容れ物>に過ぎません。
 さらに、人間が行うひとつひとつの選択が、時空構造に何ら影響を及ぼさないということも分かりました。とはいえ、選択をする人間は、連続した別のパラレルワールドに自分の意識を移動させています。これはすなわち、無意識のうちに自らの選択を、ほかのパラレルワールドにも反映させている、ということにほかなりません。
 だからといって、世界が変わるのではありませんでした。要するに、人が自らの意識を別のパラレルワールドに移動させると、パラレルワールドに住むもう一人の自分が啓蒙され、その運命が変わるというだけのことです。ちなみに、パラレルワールドにいる自分が、もともとの世界にいる自分よりも時間的に先行していると考えてはなりません。どちらも、同じ時を生きているのです。
 私たちはいたる所に存在し、過去にも未来にも生きています。この世界のみならず、異次元の世界だってそうです。……現在や過去、未来をも含めてです。私たちはすべての場所にいて、あらゆる姿をしています。私たちはただ、そのことを認識していないだけです。自意識(エゴ)が影のように寄り添い、私たちの目をくらませているからです。(P268~269)




 一部分の抜粋ですので、文脈的に分かりづらいかもしれませんが、マオリッツオ・カヴァーロが書いていた「パラレルワールド」に関して重要だと思えた箇所を引用しました。
 カヴァーロの文体は(おそらく意図してでしょうが)難解な言い回しが多いので、とっつきにくい印象もあるかと思われます。しかし、そこを辛抱強く読み解く努力をすると、現代科学よりも遙か先端を示唆しているのだということが実感出来ます。
 最新物理学の分野で「パラレルワールド」を提唱している学者としては、ミチオ・カク博士が有名でしょう。彼は次元のフリーズという話をしていますが、それはまさしくカヴァーロの言う「マルチ・ユニバース」に該当するものだと私は考えています。

 宇宙は、まるで湧き上がる泡のように無数に存在し、ただひとつではないという説が、最近ではメインになりつつあります。しかしそれは「次元」という境界で切り離されているので、私たちには認知出来ないものとなっているのでしょう。
 しかし──私はここで、ふと疑問に思ったことがありました。
 それは、何故、無数に誕生する必要があるのかということです。

 私は本を読む際、あやふやなところをそのままにして読み進める──ということが出来ない人間です。
 勿論100%の熟知までは行きませんが、疑問に思ったことはその場で徹底考察して「その時の自分なりに解釈」出来ないと、先に進めないのです。(こういう人間なので、講義を受けるよりも本で独学する方が得意だったりします。講義を受けていると、疑問に思ったところにずっと立ち止まっているだけで先に進んでしまいますから──)
 私は冒頭に書いた「コスモスは自らのクローンを生成する」というところで疑問を抱き、その先に進めなくなりました。

 何故、クローンが必要なのでしょうか?
 次から次へと生み出すのであれば、「まったく違うもの」の方がいいに決まっています。
 何故、同じものが必要なのでしょう?

 その上、私たちには(上記抜粋記事に寄れば)パラレルワールド上で「どのような選択をするか」という自由意志を与えられているのです。
 何で、そんなまわりくどいことをするのでしょう?
 最初から「宇宙の秩序に基づくパラレルワールド」を誕生させるのであれば、人間にも自由意志など持たせない方が遙かに安全です。そうであれば、私たちは自然を脅かすこともなければ、環境を破壊することもなく、宇宙と共に生きることを意識することなく普通に望むことが出来たでしょう。

 クローンをつくる程「種の保存」を優先するのであれば、最初から自由選択など与えなければいいのではないか?
 私はそこを疑問に思い、先に進めなくなりました。
 しばらく考えあぐねた末……ある結論が出てきました。

 私は長年にわたって小説を書いていますが(今は忙しくて、まったく書いていませんが)、書いている最中にコピーを取ります。
 それは勿論、小説の内容を間違って紛失させない為です。
 しかし、それをあえて──同時に「複数」コピーをしたとしましょう。そして、そのコピーをそれぞれ同時期に(って、時間軸のある三次元では不可能ですが、仮に──ということで想像してみてください)執筆スタートするとしましょう。

 おそらく、小説を書いたこと──或いは漫画を描いたことがある方なら感覚が分かると思いますが、小説の登場人物というのは決して作家の意図どおりに動くわけではないのです。
 私は2004年から2年間ほど、携帯の公式コンテンツで連載を持っていたことがありますが、その作品の主人公はまさにそうでした。どんなに作者がストーリー通り話を進めようとしても、主人公が言うことをきかないのです。結果的に主人公の望むままに話を進めたら、私が最初に想定していた物語より遙かに深く、意義のあるものになっていたのです。

 創作を体験したことがないと「何を馬鹿な」と思うかもしれませんが、作品というのは不思議とそういうものなのです。絵も、音楽も同じです。自分が意図したよりも悪い出来になる時もあれば、想像を絶するほどいい出来になることもあります。そうしたものを生み出すポイントは「自分は作り手である」というエゴをなくし、空っぽになることです。そして、メロディの生み出すまま──登場人物の動くがままに任せると、作家の予想を超えた作品に仕上がることがあるのです。

 今挙げた例は、「三次元という限定された枠(ひとつしか認識出来ない枠)」に過ぎませんが、これをもっと視野を広くして、「作品を同時期に、書き進めた」としましょう。
 そうすると、登場人物が各の選択によって、ラストシーンも変わってきます。しかし、「その物語の世界観」には変化がありません。あるのは「自由選択によって結末が変わる」というだけの話です。
 たとえば、身近な例で「シンデレラ」を挙げてみましょう。
 シンデレラが12時の鐘が鳴り終わる前に、素直に「ごめん! 門限あるから、私帰るわ」と、王子とのダンスをさっさと切り上げていたら──どうなっていたでしょうか? シンデレラは普通に家に戻って、「ああ、王子様とのダンス素敵だったわ~」と一生思い出にひたりながら生きていくことになったでしょう。
 もしくは、約束を放置してあのままダンスを続けていたら、どうなっていたでしょうか。魔法は瞬く間に解け、ドレスがみすぼらしい服装に変わってしまったかもしれません。その後も王子の愛が貫かれたかどうかは、読者の皆様の想像に委ねます──(笑)。
 しかし、どんな結末になったところで、シンデレラの世界観に影響がないことは、お分かり頂けると思います。

 ちょっと卑近すぎる例ではありますが、仮にそう考えると「パラレルワールドが存在する理由」が、何となく分かる気がするのです。
 宇宙は、偉大なる創造(クリエーションの場)だと言いますが、まさしく「ありとあらゆる結論を、自由選択によって体感する場所なのだ」と言えるのではないでしょうか? 
 そして、その「あらゆる結論」を体感させる為に、コピーを作成するのではないだろうか──そのように、私は感じました。
 少なくとも、私が作者だったらそうします──っていうか「実際、そうしてました」。私の書く小説の登場人物は破天荒なのが多いので(苦笑)、ストーリーが破綻しないよういくつかコピーをとって加筆、修正することが多々ありましたので。
 もしかしたら、宇宙も同じ感覚なのかもしれません。

 私たちは、この「自由選択」の存在に心から感謝すべきなのでしょう。悩むからこそ、迷うからこそ、人は強くなれるし、さらなる成長を望めるのですから。
 そう思えば、不安や恐怖が「如何に些細で馬鹿馬鹿しいものか」がお分かり頂けるかと思います。
 私たちが日常で抱えている問題なんて、宇宙にしたら──それこそ、マルチユニバースで考えたら、取るに足らないちっぽけなものなのかもしれませんしね。
 今の私が悩んでいる頃、別の次元の私はおおはしゃぎで野原を走り回っているかもしれない──そう思うと、悩むのが馬鹿馬鹿しく思える今日この頃の私です(笑)。

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プロフィール

篠崎由羅(しのざきゆら)

Author:篠崎由羅(しのざきゆら)
1970年生。幼少期から哲学・宗教学に造詣を深める。思想および思想史、それに付随した国際事情に興味を抱いて独学を続け、大学ではインド哲学科専攻。東西問わず、両者の思想に渡り研究を深める。

現在は看護師として施設で勤務しながら、その傍らで執筆活動を続けている。2016年11月にYOU are EARTH改め「WE are EARTH」の活動を再始動予定。より良い未来の地球のため、全力を尽くす誓いをたてている。

【篠崎編集担当】


【篠崎の著作本】

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