「こころ」の籠もってない感謝想起への疑義

 今日は少し、道徳的(?)な記事です。

 昨今、スピリチュアリストの間には、「ありがとう」という言葉を言い合うことが流行のようです。
 「毎日、生かされていることに感謝しましょう」
 それは本当に、素晴らしいことだと思います。私たちがまるで当然のように受けている恩恵、ひとつひとつに目を向けることの大切さに気付かせてくれる言葉だからです。

 ですが、皆さん──。
 それを実践する前に「まず」ちょっと考えてみては頂けないでしょうか?
 「ありがとうございます」という時、本当に「こころ」を籠めて言えているのかどうか、と。

 「ありがとう推奨派」の人たちの中には、「こころなんか籠めなくていいから、とにかく『ありがとう』と言えば、後からこころはついてくる」という意見もあります。
 ……が、それは明らかに間違いだと思います。
 それって、言い方を変えれば、赤ちゃんにミルクをあげるのに「とりあえず、飲ませておけばいいのよ」、家族にご飯を作るのに「とりあえず、作っておけばいいのよ」って言ってるのと同じことではないでしょうか?

 「こころの籠もってない感謝」に、一体どれほどの重みと意味があるのでしょう?

 言霊というのは正直なものなので、「腹とはまったく違うもの」を思っているにも関わらず上滑りな言葉だけどんなに繰り返しても、決してそれは連動しない──私はそう思います。
 それどころか、ますます「心の裏表」が分れる羽目になり、本人はうわべだけを自分と思いこんでしまい、こころの奥底では平気で「まったく違うことを思える」ようなことになりかねない気がします。
 おそらく、皆さんも今までに何人か会ったことがあるのではないでしょうか?
 「この人、口ではこう言ってるけど──心の中で何考えているのか、わからない」
 「口では笑っているけれど、目が笑ってない」──そんな人達を。
 上滑りの言葉は、その人の心を置き去りにしてただ鎧のようにその人自身を着飾り──ついには「鎧だけで、中身が何もない」という自体にまでなってしまうのではないかと、私はそう思うととても恐ろしいです……。

 私は「感謝」をする前にまず、「『こころ』を意識することの方が先決」だと、そう思います。
 とどのつまり、「思いやり」です。
 感謝は「受け身」です。
 「してくれて、ありがとう」
 「与えてくれて、ありがとう」。
 でも、そこから先に進むことがありません。
 でも、「思いやり」は違います。
 それは「自発的な行動」となり、同時に相手から感謝されることさえ期待しない、無償の愛となります。

 「思いやり」があれば、自然に「感謝の心」も芽生えます。
 しかし、どんなにうわべだけの「感謝」をしても、「思いやり」は芽生えません。
 感謝は、皮肉や相手を傷つける為にも使用出来ます。
 例えば──掲示板のコメントなどで、見かけたことはありませんか? 口論になった相手に向かい、「○○さんを生かせて頂いて、ありがとうございます」と。
 口論になった相手に向かって使う言葉でないことは、すぐに分かります(苦笑)。もし本人が「心から思っての感謝」であれば、わざわざ相手に見えるようにそれを書かないはずです。これほどまでに憎悪の籠もった攻撃的な「感謝」の使い方を、私は見たことがありません。文章は、思いの外読み手に「書き手のこころ」を伝えるものだったりするからです。

 しかし、思いやりは最初から、皮肉や、相手を傷つける為に使用など出来ません。
 何故なら、「攻撃心」が最初から「思いやりには存在しない」からです。
 上記の口論の末、もしその人に「思いやり」が欠片でもあったら、もっと優しく、相手を傷つけないで済む言葉が残せたはずです。 

 日本人は茶道、武道など「作法」を重んじる文化が強かったせいか、どうしても「こころが後付」になってしまう傾向が強い気がします。
 本来、作法は「こころありき」の前提があったからこそ、「それをより美しく、かつ、より洗練にする為にあったのだろう」と私は推察しています。思いやりやこころの抜けた作法は、ただの「動作」に過ぎません。
 感謝も、そのような扱いになってしまっているのではないかと──私は非常に危惧しています。
 本当に、こころから「ありがとう」と言っている人と、そうではなく口先だけで「ありがとう」を言っている人を──周りは結構見抜いているものですよ。
 
 マザーテレサは、そこまで「感謝」を強調したでしょうか?
 ガンジーは、そこまで「感謝」を強調したでしょうか?
 キング牧師にしたって、宮沢賢治にしたって、みなに共通して言えることは「他者に思いやりを持つこころ」があったということであり、決して「ひとり歩きした感謝」ではなかったはずです。

 そして、もうひとつ──私が「感謝」に関して危惧している一面があります。
 それは「ありがとう」という言葉で、すべての事象をALL OKにしてしまう危険性です。
 いつも私は、「だったらその言葉を、紛争が絶えず、銃声が響き渡る中でこそ言ってみて欲しい」と思います。「ありがとう」という言葉はまるで結界のように、「自分さえ良ければいい」という考えに陥らせる側面もあるように、私には思えるのです。

 勿論、本来の「感謝」はそんな意味ではありません。
 しかし、そういった「ありがとう」の悪い影響力が出てしまわない為にも、私は「こころの育成の方が先決」だと、そう思うのです。
 それは、すごく簡単なことだと思います。
 それこそ、先日イギリスから帰国した際に書いたような些細なこと──店に入る際後続する人がいたら「ドアを開けて待つ」とか(そうしてもらった時に出てくる「ありがとう」は、ホントの意味での感謝ですよね)、料理をする際「食材になってくれる野菜達」や、それを育ててくれた人たちに思いを馳せながら作るとか──すごく小さな、簡単なことだと思うのです。
 感謝は「思いやり先にありき」であって、そのあとに後続するものなのだと──私は思います。「こころ」が空っぽな状態で「ありがとう」を言われても、言われた方だって嬉しくはないし、決して言霊の籠もった「ありがとう」にはなりません。

 最近、「それはあくまでも方法論であって、目的にしてはいけないもの」が、「目的」にされてしまっているケースが多々あると思うことがままあります。
 「感謝」も、そのうちのひとつかもしれません。
 感謝想起は、あくまでも「思いやりという行為上、派生する過程」でしかなく、「目的であってはいけない」と、そう思うのです。 
 常に最終的な目的にたつべきものは、「どれだけ他者を思いやれるか」であり、フラクタル理論で考えれば「自分をどれだけ、大切に出来ているか」ということにも繋がります。
 そして、「自分をどれだけ大切に出来ているか」というのは──結果的には、「毎日に、どれぐらい『こころ』を籠めて生きているか」に尽きるのだと──私はそう思う次第です。


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「意識と物質」における振動数の差違─追加説明─

 昨日、体外離脱について軽く「物質と意識の振動数の差違によって起るのではないか」ということを書きましたが、ちょっと説明が唐突過ぎたかもしれません。
 よく「気」だの「エネルギー」だの、言葉としては馴染んでいても「その正体が、何なのか」までは、未だに考察されていないように思います。しかし、とどのつまりそうした「気」だの「エネルギー」だのというのも、結局は「振動数の速度(密度、とも言えるかもしれませんが)」によって異なるものであり、物質と目に見えない(視覚が感知できない)ものの差は「質量が加わるか加わらないかの違いでしかないだろう」と、私は推察しています。
 五感における視覚、聴覚といったものは、限られた振動数のものしか感知していないというのは、皆さんもご存知の通りです。
 例えば「光」に対しても、虹に象徴される色以外の「詳細な光」までは視覚で認知出来ません。
 だからこそ、私は「五感だけに頼って、それ以外のものは『ALL NOTHING』にされてしまうこと」を危惧しているのです。
 本来、科学者達は、「私たちの五感には限度があって、実際にはこれだけの光や音波、物質などが存在するんだ」ということを、もっと分かりやすく説明していくべきなのではないかと、常々考えている次第です。(そういう学者が出てきたら、絶対に応援しちゃいますね。)

 少し話は逸れましたが。
 そうした意味で考えれば、物質も意識もまったく同じ構造で出来ているということが出来るでしょう。
 振動数(周波数)の違いと、そこに質量が加わるかによって「五感で認知出来ないものとなるか、否か」その差が生じるだけに過ぎないような気がするのです。
 その為、体外離脱というのも「肉体を組成する振動数」「意識を組成する振動数」分離した時に起るのだろうと、私自身は推察しています。(何故ずれるのかまでは、私も考察は進んでいませんが、ただ「ヘミシンク」などでやっている行為はそうした「ズレ」を意図的に起こしているのだと思われます。)
 事実、UFOコンタクティーのカヴァーロは、肉体を持ったまま宇宙船に乗せられた際、何か装置のようなものを使って「肉体の原子の周波数を75%ほどあげられた」と言っていました。(75%というのは、かなりデカいですね。)
 同じく、ハワード・メンジャーもUFOに乗った際、装置で何か光を当てられたと言っていました。彼の場合はまだ1950年代の話なので、周波数だのアセンションだのという言葉もまったく世に出ていない時代です。にも関わらず、カヴァーロの言っていることと一致していることには本当に驚くばかりですね。

 この二人の体験談に共通して言えるのは、肉体を持ったままでも、原子の振動数(周波数)が変わることはあるんだということの証明に近いと思います。
 同時にそれは、私自身の言う「意識にも振動数があり、その領域によって高低が生じる」ということにも繋がるように思いますし、同時にその裏付けであるようにも感じています。
 こうした「意識の振動数」ということを「科学的に証明できないから却下」というのはあまりにナンセンスな話で、ここまで誰もが認知している「意識(「霊体」も含)」について未だ科学的に証明出来ないことの方を恥じるべきなのであって、それを頭ごなしに否定しかしない学者は「旧世代の存在」としか言いようがない──ちょっと辛口ですが(笑)、そんなふうに思える次第です。
 
 では、「本当に、アセンションというものがあるのか、どうか」という問題ですが──。
 それは、「東海大地震は本当に来るのですか?」とか「東京直下型地震は、いつ来るのですか?」という質問と同じようなものなので──「私には分かりません。たぶん、気象庁も分らないと思います」としか言いようがないです……。
 よくNASAなどに色々質問する人たちを見かけますが──(まぁ、NASAが極秘情報を握っているという噂もありますが)、本来「それはNASAに聞かれても困っちゃうよ~」ってことも多いんじゃないかという気がします……。

 ですが、理論的に──先程のカヴァーロや、ハワードの体験談から推測するに何かのきっかけで、惑星の周波数が変わる可能性は否定出来ないのではないかという気はしています。
 カヴァーロは、対談本、および著作の中で「今から30~35年後(1986年当時)に太陽の周波数が変わることによって、地球は大きなダメージを受けることになる」という話をクラリオン星人から聞いています(詳しくは、6月9日に発売される文庫本に詳細を書いてあります)。
 「何を馬鹿な」と鼻で笑う人たちも多いかもしれませんが、実は最近注目されているプラズマ宇宙論(徳間書店刊では「電気的宇宙論」となっていますが、意味合い的にもプラズマの方が私は分りやすいしなじみ深いので、こちらで今後は表記します)では太陽系は誕生当時から軌道が固定されていたわけではなく、非常に不安定だったということを提唱しています。
 そうした「新説」をいっさい否定する人たちは「たかだか数十年しか生きていない自分の人生の中で『定説だ』とたたき込まれた情報だけを鵜呑みにし、真理がどうであるかという考察を横にのける」という、非常にもったいないことをしているとしか、私には思えません。もし仮に、そうした「新説」が真理だとしたら──

 ──明日にでも、気がついたら地球は「木星のお隣」に引っ越しているかもしれないのです。
 ※余談ですが、かつて地球は木星のそばの軌道にあったという説もあります。  

 冗談はともかく。
 宇宙というのは「固定されたもの」という概念が人間には強くあり(おそらくそれは、人間がもともと「変化を好まない保守的な傾向があるから」なのかもしれませんが)、だからこそ新たな情報、既存の定説を覆すような情報にはやっきになって否定する傾向があるわけですが(地動説、天動説などはその典型例ですね)、いつでも結果的に異端と呼ばれたものが真理であったことの方が確率的にも高いわけです。
 
 先日、「高次元へは洞察だけで行ける」と言いましたが、わざわざ体外離脱しなくても、「意識の振動数が、高次元の振動数と一致すれば、その次元の状況を考察することは可能」だと、私は思っています。私自身、体外離脱も「好き勝手に出来る」わけではなく、「お呼びがないと行けない」ので、それ以外についてはすべて「自分の考察」で紐解こうとしています。

 ですので、結局の所は「意識(こころ)の在り方」から入るのだろう──私はそのように思います。
 人間だから、悩むことなんていくらでもあるでしょう。私だって、そのようなことは沢山あります。それどころか、たぶん公にしたら多くの人が「えっ?!」って驚くようなこともいっぱいやらかしてます(苦笑)。
 私は、どんなに「意識レベルを高くあげよ」と言えども、「嘘をついてまで、自分が達観した人間のフリをしたくない」──そう思っています。あくまでも自分に正直に──そして、自分に正直になれば同時に他者にも誠実になれるので、「まずはそこからでいいのだろう」、そう思います。
 変に背伸びをして、「私は宇宙愛を感じてます~」だの「宇宙レベルの精神の持ち主です~」だの、そんなところまで行く必要はないと、つくづく思うのです。(私は宇宙の偉大さを実感している分、逆に、口が裂けてもそんな大それたことは言えません──;)

 ちなみに。
 私の個人的な直観では──2012年にしろ、アセンションにしろ、「もう始まっているのではないかな」と感じることがあります。
 まぁ、文化祭で例えたら、文化祭の当日はまだ「三日後」だけど、その為の準備で学校中「文化祭が始まったようなお祭り騒ぎになっている」という感覚でしょうか。
 ある日「ふと」、気がついたらすべてが変貌していた──ということが、起こりえるのかもしれませんね。 


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2010-05-30 | 真理 | トラックバック(0) |

自己意識の中にも、振動数における「差違」がある?!

【まえがき】

 昨日のブログを書いた後、いつもメッセージを下さる方から興味深いコメントを頂きました(Jさん:時間の都合上、許諾なく一部情報を開示してしまいますことをお許しください。)
 その方が「体外離脱の研究」に言及されていたのを読んだとき、ふと、私の中で「そうだ──。私は今まで、まるで逃げ隠れするようにこういった情報を開示してこなかったけれど、本来であれば自分が体験しているからこそ、その責任を負う意味でも検証・考察結果を公開すべきなのではないか?」という思いに至ったのです。

 私が何故、そうした体外離脱体験などを安易に公開しないかは──今までに何度も書いたように「体験談ばかりがひとり歩きしてしまい、その体験の中に含まれた本質を見失われてしまうのではないか」という危惧があったこと。
 それともうひとつは、(10年に渡るネット活動をやっていると、ケースは違えどたびたびこういうことは起るのですが)「私のことを変に崇拝してしまい、特別視してしまう人が出てくるのを避ける為」でした。
 私はもともと「人、崇拝主義」ではないし、「崇拝されるのも大嫌い」です。
 人はみな「独立して生きるべき」というのが私の主義で、逆に言えば「独立しなければ、人類に未来はない」とまで断言出来る──そう思います。
 肉体の臓器がきちんと私たちの生命活動を維持してくれているのも、臓器や細胞が「互いに独立している」からであって、仮に依存しあっていたとしたら生命活動は維持出来なくなります。人類もそれと同じで、依存し合うことなく「独立して、だからこそ互いに助け合う関係性を維持できる」のだと、私はそう確信しています。
 精神世界系には、特に「拝まれたい主義」の人が多いようですので、結局「拝まれたい人」が「拝みたい人」を引き寄せて、某ブログのようなカルト教団を思わせるような流れになってしまうのでしょうね。(もっとも「拝まれたい」という人たちは、絶対に自分では否定しますが、行動を見ていれば「一目瞭然」です。本当に孤高と真理のみに向き合おうとする人は、やたらめったら交流関係を広げようとしないはずですし、意見を言われても激高しません。私が冷静に反論したにも関わらず激高した人は、大学時代から数えても約8~9割と言っても過言ではないでしょう。そういう人は、真理よりも「自分崇拝主義」の典型例だと、私は思います。)

 そういったブレーキが今まで自分にかかっていたものの、昨日Jさんから頂いたコメントを読みながら、「ただ『黙秘を続ける』というのも、形を変えた真理の冒涜かもしれない」──そう思うようになりました。
 その為、以前はまったく書くのをやめてしまった「目に見えない現象」についての体験談を、少しずつここで明かしていきます。
 しかし、私はそういった体験談を「ただ野放し」にするようなことはせず、必ず考察、検証を入れた上で開示していきます。ですので、ひとつの体験を書くのに「複数回連載がまたがる」こともあるかもしれません。
(そうした「検証の試み」については、すべてカテゴリー「体験談からの仮説」に入れていますので、改めて参照したい時はそこからご確認ください。)


【自己意識の中にも、すでに振動数における「差違」がある?!】

 私が今、高次元の探究(地球がアセンションを果たせるのか、否かの探究とも言うべきなのでしょうか)するにあたって大前提としている考え方が物質も意識もすべて、エネルギーの振動数の差違によって変異するというものです。
 振動数がどれほど無数にあるかは──数値が無数にあるのを想像すれば安易にご納得頂けることと思います。
 YOU are EARTHや、その他デザインの仕事を多々お願いしている774さんと、よくこうした周波数の差を「音階」に例えることがあるのですが、これはまさしく言い得て妙だろう──そう思っています。
 例えば、

 ●ド レ ミ ファ ソ ラ シ ド

 これはCメジャースケールと言われ、日本語ではハ長調です。
 しかし、これが「レ」から始まったとします。

 ○レ ミ ファ(♯) ソ ラ シ ド(♯) レ

 Dメジャースケールとなり、日本語ではニ長調と呼ばれます──が。
 上記●と下記○では、同じ音幅であるにも関わらず、音のイメージがまったく違うことが分かります。
 例えば、●でのミと○でのミは、同じ音でも、それぞれのスケールによって「違う役目」をしています。●のミは第三音であり、○の方では第二音です。

 私は、振動数が違うと異なる世界というのは、こうした音階に似たものがあるのではないだろうかそう感じています。

 例えばここに、「世界の組成要素」を組み込んでみたとしましょう。
 ルドルフ・シュタイナーの「神智学」を参考にしますが(余談ですが、シュタイナーが神智学者だと信じ込んでいる人たちが精神世界系研究者の方にも非常に多いのですが、彼は「人智学(アントロポゾフィー)者」です)、物質世界を組成する基盤である鉱物界を「ド」としましょう。
 そして、エーテル界(植物界)を「レ」。
 アストラル界を「ミ」。
 自我(自己意識、ハイヤーセルフなどと言った方がいいかもしれない)を「ファ」としましょう。
 さらにハイヤーセルフがアストラル体を律したもの(霊我)を「ソ」。※これはちょっと分かりづらい説明かもしれませんが、要するに「ハイヤーセルフが、完全に人間の低次な感情もコントロール出来る状態」というふうに想像してください。
 さらに進んでハイヤーセルフがエーテル体を律したものを「ラ」(エーテル体の修練は「習慣性にある」とされています。──が、すみません。それを「何て呼んでいたのか」ど忘れしてしまったので、ここでは割愛します。)
 そして、それがついには物質界に及んで「肉体」までをも律したものを「シ」としましょう。
 
 これが「私たちの次元における地球の『ドレミファソラシ』」だとしましょう。
 じゃぁ、この振動数(周波数)が「一音」あがっただけで──どうなるでしょうか?
 同じ音階(法則性=宇宙の法則性)を貫く為に、シャープを使うという裏技が出てきますが、それ以外も「基盤だったド」の音がなくなってしまいます。

 ──実は、シュタイナーは「高次元には鉱物界が『ない』」としています。
 それは、この音階でも明かです。
 すなわち物質の元素である振動数が変わっただけで、存在出来なくなるものが出てくるということです。
 でも、それは理屈で考えなくても「当たり前」なことかもしれません。

 そう言えば、子供の頃「面白いおもちゃ」がありました。
 父がどこか海外の山岳地帯(?)に行った際のおみやげだったのですが、ホースのようになっていて、それをグルグル回して「音を鳴らす」というものです。
 ゆっくり回すと低い音が鳴り、早く回すと高い音が鳴ります。
 その回す速度を調整しながら、音楽を奏でる──というものです。

 もしも「物質組成」が「振動数」により派生しているとすれば、上記したピアノの音階の如くそれは「あがればあがる程、消えていく振動数の次元もある」ということになるのでしょう。
 そして、これは「意識」においても同じです。
 自分自身に謙虚になれる方であれば、「私はいつでもフラットで、誰に対しても平等で、感情的になることなく、とっても寛大なの!」絶対に断言できないということを理解しているはずです(笑)。子供の頃によく、「ワタシ、嘘ツカナイ~」と腕をあげて言った友人に対して皮肉っぽく「今、『嘘つかないっていう嘘』ついた~!」とからかうのに似たような感覚ですが。
 人間であれば多かれ少なかれ、人間的な問題を抱えているはずです。
 そして、そういうもののもっとも顕著なものが──夢という無意識の領域に表されていると、私は思うのです。

 私は子供の頃からずっと、「自我を完全に持ったままの夢」というのと、「自我のない夢」という二者をみることが多いタイプでした。(体外離脱をする際には、必ず「前者」になります。)
 しかし、「自我のない夢」の自分というのは、起きてから思うに「普通の自分だったら、絶対にこんなこと言わないしやらないよな~」ということが多々あったりします。

 みなさんはどうですか? 夢の中の自分の行動と、自分の日常の行動は「必ず一致」していますか?

 詳しい説明は省きますが(これは検証と考察が進んだ際、改めて詳細を公開します)、私にはよく「メンテナンス」と私自身が勝手に名付けた行為が行われることがあります。
 この現象を自覚し始めたのは今から5年前で、それから今までにも数十回──二ヶ月に1回は最低でもメンテナンスが入るような形になっています。
 しかし、この時の私は大抵「自我のない場合」が多いのです。
 いえ──自我がない、というよりも「記憶できるだけの自我はあるのに、手のつけられないワガママっこになっている」──と言った方がいいのでしょうか(笑)。
 つい最近のメンテナンスは、今から一週間前にありました。
 その時私は、真理の探究に煮詰まっていただけでなく、人間関係でも色々と悩んでいて、言ってしまえば「どん詰まり」状態でした。そんな状態で寝ていれば見る夢もろくな夢じゃないのは当然で──まぁ、この夢については覚えていないのですが、ふと目が覚めた時、「自分の肉体から、霊体(霊体──という言い方は、ちょっと妥当じゃないかもしれません。意識の振動数が肉体の振動数と「ずれてしまった」と言った方がいいかもしれませんね)が浮き出ている」のを実感しました。
 その時にメンテナンス(大抵、男性二人か、或いは男性二人、女性一人の計三人などです)が始まり、私の意識は肉体から水平にはがされ「スーッ」と上にあがっていきました。(診察台が上にあがるような感覚です。)
 ところが──その時の意識振動数の自分は明らかに抵抗ばかり繰り返していて、例えて言えば「病院に連れていかれて泣いて暴れるやんちゃ坊主」みたいな感じだったのです。
 しかし、レーザー光線のようなものが全身を通るにあたって徐々に心は落ち着いていき、人間関係における問題も「あれ? なんだかスッキリしちゃったぞ」という気持ちに至った際──再び「スッ」と肉体に意識が戻されました。

 私は瞬時に飛び起きて、周りを見回しました。──が、私の三次元的視覚には、何も見えませんでした(本当はまだ、そこにいたのかもしれませんが)。

 もし、通常の私の自我状態であれば、間違いなく私はその場で彼らに「お願いだから、一緒に連れて行って欲しい!」と懇願したでしょう(笑)。いや。もしかしたら変に達観して「自分で選んだ道だから」と思ったか──(苦笑)。
 でも、それを思い返すと、「なるほど。意識レベルも、振動数によって階層が異なるのかもしれない」そんなふうにも思えたのです。

 いやはや──最新物理学を探究しようと思えば、説の多さに「キリがなさすぎ」て頭が混乱しますが、本来であれば「目に見えない世界(精神世界とかスピリチュアルと言うのに最近抵抗があるので、こういう言い方にしていますが──他に何かいい呼び方がないか、現在探している最中です)」も非常に奥が深く、素粒子や宇宙の構造を探究するのと「同じぐらい」高度な問題です。
 昨日のブログに書いたように、研究者がもっと謙虚な姿勢でこうしたすべてを「一元論」で唱えられるようになれれば、人類の思考力は飛躍的に進化するのかもしれませんね──。

──5月30日 2時16分追記──
 上記、「意識の振動数によって、階層が分れるのかもしれない」という部分は少し説明不足でした。
 何故そのように感じたかと言うと、意識の振動数が高い時ほど(要するに、だだっ子になってない時は)、メンテナンス中に認知出来る記憶がより詳細になっているからです。
 私自身の意識の振動数が高い(もしくは安定している)時は、メンテナンスに来ている人の性別や顔の特徴まで分かるのですが、上記の時は分からなかったのです。
 おそらくその理由は、「意識の振動数がその時は低かった為、詳細を記憶することが出来なかったのではないか」と、私自身は推測しています。


◆Jさんへ◆
(仮説:体外離脱のプロセス)
私が思うに、体外離脱は「肉体を構成する物質の振動数(周波数)」と「意識の振動数(周波数)」が「ズレてしまう」ことにより、それが原因で起るのだと思われます。
勿論、滅多なことでこれはずれることなどないですし、普段は「チャクラ」の部分で紐付けがされているようです(これは実際に私が離脱で体験した内容ですので、もう少し考察と検証が進んだ後説明します。ここでは軽く受け流しておいてください)。
そう言えば、ヘミシンクも結局「異なる耳から違う周波数の音を聞かせること」により体外離脱を促しているはずです。そこに何かヒントがあると思われますので、よろしければ参考になさってみてください。



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研究者はもっと「クレイジー」になろう!

 今日は出版二作目の参考に使う物理学用語の資料を、大量にプリントしていました。
 私は哲学科出身故、どうしても「言葉の定義」に対して慎重──というか、神経質なところがあり(考察するにおいて言葉の定義を間違えてしまったら、根本的に論旨がずれてしまうので。マカロンのことを『消毒薬の種類』と定義してしまったら、周囲とまったく話がかち合わなくなるのと同じように……。←そんな間違い方するヤツは、私しかいないでしょうが;)、「次元」という言葉の使われ方について、もう少し自分で掘り下げたいと強く思っていたのです。
 そもそも「高次元」を語るのに「次元の定義」が曖昧では──お話になりませんしね(苦笑)。

 ところが。
 どうやらそもそも、この「次元の定義」そのものが最初から曖昧であるということが分かってきました。
 wikiの一部を以下、転載します。

────────
次元(じげん、dimension)は、空間の広がりをあらわす一つの指標である。座標が導入された空間ではその自由度を変数の組のサイズとして表現することができることから、要素の数・自由度として捉えることができ、数学や計算機において要素の配列の長さを指して次元ということもある。自然科学においては、物理量の自由度として考えられる要素の度合いを言い、物理的単位の種類を記述するのに用いられる。

直感的に言えば、ある空間内で特定の場所や物を唯一指ししめすのに、どれだけの変数があれば十分か、とも言える。たとえば、地球は3次元的な物体であるが、表面だけを考えれば、緯度・経度で位置が指定できるので2次元空間であるとも言える。しかし、人との待ち合わせのときには建物の階数や時間を指定する必要があるため、この観点からは我々は4次元空間に生きているとも言える。
(wikipedia「次元」参照 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AC%A1%E5%85%83
────────


 これを読んで、「って結局、どっちなんじゃい!」と突っ込みたくなった人は、私だけではないと思います。
 科学雑誌のニュートンでも、以前、次元について特集雑誌を組んでいましたが、そこでも明確な次元の定義は避けており、むしろ「次元の考え方は、これしかないんだ」という大前提に立ってさえいるような印象を受けました。
 しかしこの後、こうした説明書きもありました。

────────
また、転じて次元は世界の構造を意味することがある。
────────


 ──なるほど。
 要するに、次元という言葉には「二つの定義」があって、どちらが先でどちらが後かはともかくにせよ「まったく異なる理解を示す」ということが後付により理解出来ました。
 しかし──だとしたら、(前々から申しておりますように)やはり私たちのいる次元を「三次元」という言い方にするのは、不適当な気がします。
 上記の説明であると、物理的に原子が移動する自由度において「三次元」という解釈になるのでしょうが、ここの説明書きにもあるように、この観点に「哲学的要素」を組み込んでしまうと、「二次元かもしれないし、四次元かもしれないし??」という問題が出てきてしまいます。
 結局、ここでも問題なのは物理学や科学として認識されていることも、結果的に人間の意識を介してでしか出来ることではない以上、そこに哲学的な解釈をいれずに説明は不可能ということであり、同時に物質面も意識面も一元的な問題に過ぎないというところに立ち返るしかないのだと、私には思えるのです。

 だとすれば──今まで既存科学にしろ既存物理学にしろ、定説ばっかりに拘りすぎて、もっと違った角度で新たな理論を構築するという姿勢に欠けていたのではないか、そんなふうにも思えるのです。
 もっとも、最近で言えばたびたびこのブログでも挙げている「リサ・ランドール博士」はもっとも斬新な理論を掲げているひとりと言えますが、ただ、「既存物理学の次元の考え方への疑問」でも書いたように、上記した次元の考え方では、どう転んでも異次元説には結びつかないように思えて仕方ないのです。
 そこを打破しない限り、本当に博士が探している「異次元への答え」には到達出来ないのではないか──私は5月16日当時にその記事を書いた時は「ただの直観」でしかありませんでしたが、改めて次元の定義を掘り下げた際に、ことさらそのことを実感した次第です。

 人間というものは、やはり「閃き」によって導かれている生き物だと私は思います。
 でもおそらく、研究者や学者という立場になればなる程、閃きを尊重できないというジレンマに陥る──私はそう思います。
 私の友人で、東大の大学院で博士課程にいる人が何人かいました。非常に優秀で、とても斬新な視点を持っているにも関わらず──彼女たちは共通して「それを、公には発表できない」と、そう言っていました。「女性である」というのも、もしかしたらマイナス面だったのかもしれませんが(余談:女性に差別的な国は、イスラム国家を除いたら「日本がダントツ」だと思われます)必ず男性陣に「へりくつ」で叩かれてしまうのだそうです。
 仮に、日本に「リサ・ランドール博士」のような才色兼備の研究者が出ないのは「男性陣のへりくつ」が理由だとしたら──なんとも勿体ない話ですね(苦笑)。

 私は「アウフヘーベン(止揚)」という言葉が大好きで、それは「対立する意見なり考えが統合され、まったく新たな意見(考察結果)が生まれる」ことを示す哲学用語です。
 今まで精神世界、或いは物質世界という「二元論」で対立してきたものが──前者は哲学、心理学、後者は物理学や科学という存在が、仮に統合され「新たな考察結果」に至れたとしたら──それこそ素晴らしいことだと、私は今からワクワクしています。

 分離は、「いつまでたっても対立する為にある」のではなく、「いつの日か統合される日の為に存在する」のだと、私は頑なに信じています。
 その為には、今は互いに「相容れない」とされる物理学の分野と精神・思想の分野が「統合」される日の為に──今いる研究者達は「もっともっとクレイジーに、新たな理論を展開する必要性がある」──と、強く私は確信しています。


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2010-05-28 | 真理 | トラックバック(0) |

高次元へは「洞察」だけで行ける!

 ここ最近、私はほぼ「確信」に近い状態で「異次元(高次元)」の実在を感じています。※詳しくは「既存物理学における次元の考え方への疑問」もご参照ください。
 それは特別にチャネリングだの、薬草を飲まなくたって、考察を深めることだけで、誰にでも出来ることです。
 事実、ルドルフ・シュタイナーはそういったものにいっさい頼らず、あれだけの優れた霊視をしていました。
 ただし、その為にシュタイナーは徹底して、三次元の物質構造を理解しようとしたのです。
 例えば、目の前に「鉛筆」をおいて、五分でもいいからそれに意識を集中させます。おそらく常人であれば、1分もしないうちに雑念が入り、鉛筆に対しての意識はほとんど削がれてしまうでしょう。
 しかし、その雑念に囚われることなく──彼は「ひたすら」、鉛筆が「どういった工程を経てここにあるのか」「どんなルートでここまで来たのか」「この素材となった樹はどこにあって、樹齢何年なのか」など、そのようなことまで徹底して考えたそうです。
 自然に生える草花を見る時も、「ただ花を愛でるのではなく、その花の地中に隠れた根がどのようになっているのかまで、想像を及ばせよ」と言いました。
 ──すさまじい洞察力ですよね(笑)。現代人には、受け入れられない性質かもしれませんが……。

 シュタイナーが常に言っていたことは、「認識の果て(三次元の認識)を超えることは、洞察によって可能である」ということでした。
 私もそれには、深く同意します。
 むしろ、機械や薬草に頼ってしまうことの方が「危険」のように思えるのです。
 何故なら、すでに「生まれつき、高次元へ体外離脱してしまう体質の人」というのも世の中には存在するからです。
 そうした人たちからすれば、そういう体験は「日常的な普通のこと」でしかなく、特別なことでも何でもありません。それを「特別視してしまう」という時点ですでに「エゴ」が働いている証拠だし、そんなエゴの働いた状態で「人工的な高次元に行こう」なんて言ったって、行ける場所はたかが知れてしまうだろう──私はそう思うのです。

 そこまで高次元に拘るのであれば、「まずは自分の意識レベルを、徹底してあげることの方が先決」だと、私は思えるのです。
 それはとっても単純なことです。「嘘を吐かない」とか「約束を守る」とか、「人に誠実である」とか──そんなごくごく日常的で、些細なことばかりです。
 でも、残念ながら「高次元に行く!」だの「僕は高次元に行ったんだぞ!」と公言している方々の人間性が「決してイコールではない」ところが……どうも私は「あなたの見てきた次元は、ちょっと違うのでは?」という気がしてしまうのです……。
 絶対に、人間性と次元は「イコール」です。高次元に行ったという人がお金に意地汚かったり、異性にだらしなかったり、人に不誠実であったり「するわけがない」と、私は思えるのです。
 それは(次回作に細かく説明してありますが)「次元の組成が周波数(振動数)から生じている以上、同じ振動数(高次元なら、そこと同じ意識の振動数)の者でなければその場に存在することさえ不可能になるからだろう」と、私は考えています。

 次元は複数にまたがって存在する為、意識レベルの周波数が「高ければ高いほど」行ける場所も高くなります。
 しかし、意識レベルが低ければ、当然行ける場所も低いのです。
 とはいえ、低いからといってそこが「地獄のような場所か」と言えば──そんなことはないでしょう。
 スウェーデンボルグは、「悪霊ほど、善霊のフリをする」と言っていました。これは、世の中と大差ないですね(苦笑)。本質というのは決して見た目ではわからず、時間をかけて──或いは、ふとしたきっかけが原因で「暴露されてしまうもの」なのだと思えます。

 私自身はもともと「検証・考察タイプ」なので、「直感を受けたからといって、すぐにそのまま情報を公開する」ということが嫌いな人です。どのような直感や体験も、すべて「自分で検証し、『公開出来る』と判断したもの以外」は、公にすることがありません。
 しかし、私自身には上記したような異次元体験が複数ある為──だからこそ、自分自身の中で「徹底して、その事情を考察しよう」と試みている次第です。
 勿論、既存の物理学や知識だけでは、紐解けないことも数多くあるでしょう。しかし、それは「時代においてはやむを得ないことだ」と、私は思っています。
 でも、「やむを得ないから諦める」というのは、また全然話が違います。私はどんなに「この先の未来において、また時代において真理が流転したとしても、今の自分の全力を尽くして『自分が体験した高次元のシステムについて』を考察、検証したい」と強く願っています。

 私は数々のUFOコンタクティーの本を読みますが(何故なら、彼らの見てきた異世界が、私の見てきたものとほぼ同じだからです。私自身が、自分の体験の裏付けをしたくて、彼らの本を読みあさっているのだろうと思います)、いつも思うのは「ただの体験談」として語られるだけの時代は、もう終わったということです。
 以前はアダムスキーや、或いはハワード・メンジャーぐらいしかいなかったにも関わらず、少しずつ彼らと同じような体験をしている人たちがあちこちに出てきています。(もっとも、歴史的にみても「ダントツですごい!」と思えるコンタクティーは、マオリッツオ・カヴァーロですが。6月に出版される文庫本でも、数多くカヴァーロの文献を引用しています。彼の言っていることと、物理学者の言っている内容が複数一致していたので、どれだけカヴァーロの体験がすごいことだったのかを読者のみなさんも改めて実感出来ることと思われます。)

 私たちはもう、「既存の科学で証明されている、されていない」といった権威主義を捨てて、「まだ何も言われてないけれど、でも、こういうことはあるかもしれない」という謙虚な姿勢の中で、様々な現象を見つめる時代に差し掛かっているのだと思えます。
 どんな時代においたって、新たな真理を唱える人はみな「クレイジー扱い」されました。ガリレオはもとより、ライト兄弟にしてもそうだし、アインシュタインだってそうです。
 アインシュタインの言葉、「その時代において『クレイジー』とされない発明なんて、何の価値もない」──私はそのとおりだと思います。

 何でも鵜呑みにして、付和雷同的に情報に振り回されるというのも問題ではありますが、自分自身でしっかり咀嚼し、ひとりひとりが考察出来るようになれば──科学は今までと違った「新しい進展の仕方」をするのかもしれませんね。


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 いつも暖かいお言葉、誠にありがとうございます。すべて拝見しており、とても心の支えとなっております(笑)。
 多忙の身故、お返事が出来なくて大変心苦しいのですが、この場を借りて御礼を申し上げます。
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2010-05-27 | 次元 | トラックバック(0) |

生命の尊さ

 私はもともと多趣味ではないので、唯一の趣味であった「執筆」「読書」が仕事となってしまった今、趣味と言えるのは「DVD(映画)鑑賞」ぐらいです。
 一度ぐらい「私の趣味は『スキューバーダイビング』です」とか「『ガーデニング』です」とか言ってみたいものですが──運動能力にはまったく恵まれてない篠崎。スキューバーダイビングなんてさせた日には「ホントの意味でのダイビング(※要するに『二度と浮かんでこない』)」になりかねないし、植物音痴でもある為、雑草とハーブの区別さえつかず「これ、カモミールよ!」と言いながら、まったく違う雑草をつきだしかねないという──そのぐらいの「専門バカ(真理探究以外、何も出来ない)」です。
 余談ですが、私が人間性においても尊敬している古雅貴美子さんのブログ「みんなで循環☆健康レシピ」にあった「ケークサレ」というのも、「初めて聞いた」ってぐらいの情報音痴です。
 古雅さん曰く「ケークサレは、最近流行」らしいのですが──(どう聞いても「毛ぇ腐れ」にしか思えませんでした)。
 ちなみに「マカロン」のこともつい最近になって知ったぐらいで、それまではずっと「殺虫剤の親戚」か、或いは「消毒薬の名前」だとばかり思っていました──。

 そんな篠崎にとってDVD鑑賞は本当に唯一の息抜きで、毎日寝る前に必ず何かしら観ています(ちなみに、テレビはまったく観ません。蛇足が多すぎる上に、欲しい情報をダイレクトに入手出来ない上、CMが集中力を阻害する為気が散ってしまうので)。
 今日は久しぶりに「チャーリーとチョコレート工場」を観ていたのですが、その中で「おや?」と思う場面がありました。
 この映画作品の中には五人の子供が出てくるのですが、チャーリー以外はみんな「難癖」のある問題児(というか、現代っ子の典型)ばかりだったりします。
 そのうちのひとりに「ベルーカ・ソルト」という女の子が出てくるのですが、この子が両親にめちゃくちゃ甘やかされて育ったせいで、「欲しいものは、何でも手に入れないと気が済まない」という性質だったりします。
 そんな執着心から、ウィリアム・ウォンカがしのばせた「ゴールデン・チケット」も父親に命じて手に入れるのですが、この子が「やたらにペットを飼っている」ことが象徴される場面が出てきます。

 その場面というのは、ウィリアム・ウォンカの「チョコレート工場」内にある「ナッツルーム」で「胡桃を分別するリス」を見かけた時のことなのですが──そのリスを欲しいとせがむベルーカに対して、ウィリアムは「売り物じゃないんだ」と言って拒否をします。自分の思い通りにならないと気が済まないベルーカは「自力でリスを奪おう」として──そこからエピソードが進む、という展開なのですが、まぁそこから先については、興味ある方は是非実際の作品でお楽しみくださいませ。

 私がこの場面を観ていて感じたのは、「生命の尊さ」についてでした。
 ベルーカは自分が飼っているペットを片端から名挙げしますが、そこには「ペットに対する生命の尊厳」など、欠片も感じさせません(まぁ、甘やかされて育ったという設定だから当然なのですが)。
 でも、そういうベルーカのような人というのは──この「ペットブーム」の時代において「多数、いるのではないか」そうも思ったのです。

 私が以前働いていた会社の上司が大の犬好きで、その犬好きが高じて「犬のマッサージ師」の資格をとり、現在仕事の傍ら「ボランティアで、犬のマッサージの仕事」をしています。
 しかも──それは決して「飼われた犬」ではありません。
 里親を待っている──昔でいうところの「保健所の犬」相手のボランティアです。
 彼女(すでに今は個人的なつきあいをしているので、上司ではなく三人称で呼ばせて頂きます)曰く、犬にも感情があって、「マッサージをしてくれる相手」というのをきちんと見抜いているそうです。彼女が来るとちぎれそうなぐらいしっぽを振って「マッサージしてして!」って寄ってくるんだそうです。

 でも──その犬たちは……里親が見つからなければ、寿命が尽きるまで狭い檻の中にいるか、或いは保健所にいくしかないのです……。
 「そう思うと、マッサージしながら涙が出そうになる」と、彼女は辛そうに話していました。

 私はもともと「ペット」という言葉の響きが、どうも好きになれませんでした。
 それはどうしたところで「人間優位」な言葉で、人間も動物も、地球から生まれた兄弟なんだという意識を欠けさせるように感じるからです。
 ちなみに、私自身は大の動物好きなのですが──ペットは飼っていません。理由は、私自身が「いつ何時、引越ししたり長期取材に出るかわからない」から、その間淋しい思いをさせられないという理由と、もうひとつは「死に別れが辛いから」だったりします。
 私もかつてはインコを飼ったり、巣から落ちてしまったツバメの雛を育てていたりしました。ただ、ツバメの雛は育てることが出来ず、助けた二週間後ぐらいに三匹とも死んでしまったのですが(獣医さんに聞いたところ、巣から落ちた雛などは拾わない方がいいそうですね。場合によっては親鳥が連れ戻す可能性があるから、そっとしておいてあげた方がいいということを後から聞きました)。
 私は子供の頃から、そうした死に別れが辛くて仕方なくて──未だに生死を達観出来ない自分がいるのだなということを、改めて痛感させられます。
 また逆に、「それを達観出来ない方が、人間として生きているうちはいいのかな」という気もするのですが──。

 私にとって、動物も「家族の一員」です。
 きっとそういう気持ちは、ペットを飼われている方の多くが感じられていることだと思われます。
 でも──片方では「商品」として扱われている動物達が数多くいるというのは、誠に哀しいことですね(これは捨て犬、捨て猫という問題以前に、ブリーダーが金儲け主義で仕入れすぎて、処分出来ずに捨てるという裏事情の方が大きいとは思います)。 
 それこそ、上記「チャーリーとチョコレート工場」に出てくるベルーカのような感覚の子や人もいるとしたら……それは、現代社会の病巣としか言いようがないかもしれませんね。

 今、口蹄疫の問題で多数牛が処分されているようですが──私たちは、「共に生きる仲間」として動物達を意識することを忘れてしまっていたような気がします。だからこそ、こういう問題が今になって多発しているのかもしれません。
 それは安直に「ベジタリアンがいい」だの「肉食だからいけないんだ」という問題ではなく、他の生命達と共に、私たちは生きているのだという謙虚な姿勢を思い出すことが最も大切なテーマなのではないかと、そんなふうに思える昨今です。


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【参照】
チャーリーとチョコレート工場 [DVD]チャーリーとチョコレート工場 [DVD]
(2009/07/08)
ジョニー・デップフレディー・ハイモア

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2010-05-26 | 雑談 | トラックバック(0) |

6月9日に文庫本が出版されます。

 6月9日、5次元文庫から篠崎の文庫本が出版されます。

              hyousi_convert_20100525211630.jpg

 これは──本当に、自分ではかなり試練とも言うべきチャレンジでした(苦笑)。出版決定が3月19日、初稿入稿予定が4月20日と、一ヶ月もない有様。その上、4月9日からはイギリス行きが決まっていて、さらにアイスランドの噴火により10日も足止めを喰らってしまい、執筆は思うように進まず──。

 初稿はイギリスから、「まっっったく読み直しもしていない」まっさらな状態のものを送らなければならなくなってしまったので、かなり担当の方にはご迷惑をおかけしてしまったことと思います……。
 でも、改めてゲラを読み返して思ったのは──「現時点で私が伝えたいことのほとんどは、この中に含めることが出来たかな」という思いです。
 もともと、この本の目的はエハン・デラヴィさんから依頼されていた「エハンさんのワークまとめ」といった意味があった為、私のライフワークである(このブログでも時折書いているような)「高次元システムの(人類進化、地球環境向上の方法における)探究」にはほとんど触れることが出来ませんでした。
 しかし、これはすでに「二作目」の中でメインテーマとしておき、現在構成に入っている段階です。

 今回出版される本は「2012年問題が何故、ここまで注目されるようになったのか」という社会的な問題や人間の心理的な問題などにも触れており、同時に「既存科学で言われていることと、精神世界で言われていることは決して矛盾することなく、ひとつの真理をどの角度から眺めているかという差だけに過ぎないんだということにも、繰り返し言及しています。
 それらが分かりやすく読者の皆さんにも伝わるよう、実際の文献を多数引用して比較しながら解説しています。「何だかみんな2012年がどうとか、アセンションがどうとか言ってるけれど、詳しいことはよく分からない」という方々にも一読頂けましたら幸甚です。

 6月9日に出版されますので、また改めてお知らせ致します。

 2012年──というか、現在の「次元」で起きている現象については(2012年も、とどのつまりは現象のひとつですので)ある程度自分の答えが明確化された気がします。
 しかし、(このブログでも何度も書いているように)私が求めているのはその先の未来であり、地球の恒常的な平和への探求です。
 今回の本はひとまず一区切りつきましたが、これからは「その先の未来(高次元の在り方)」について、全力を尽くして模索していきたい──そう思っています。

 ※疲労が溜まっているせいか、どうも記事にキレがありませんね; すみません; 体力回復し次第、また頑張ります──。

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世の中問題は多々あれど、「核はひとつ」

 今日は半日かけて、文庫本のゲラを修正していました。まだ完成はしていないのですが、残り僅かですので期限までには余裕で間に合いそうです。6月に出版されますので、その際にはまた改めてお知らせ致します。

 今回の文庫本は「2012年」と「アセンション」をテーマに書いていますが、問題点を掘り下げる為に社会問題や国際問題にも数々触れています。
 自分の原稿を読みながら改めて思ったのですが──すべては本当に「フラクタル理論」でしかなく、社会や世界に通じる問題点も「個人レベルにおいても充分出ている」と、そんなふうに感じました。
 例えば──今日、数人の人から「現状における悩み」を聞く機会があったのですが、両者共に思い通りにならない現状を、相手を支配することによって変えようとしている(或いは、周囲にそういう人がいる)ことが判明しました。
 ヒステリックになる人というのは、例外なく「周りを自分の思い通りに支配したい」というエゴが暴走しているタイプばかりです。そもそも「自分の思い通りにさせたい」という欲求がなければ、ヒステリックになることもありません。「アフリカの子供達が、パンも食べられずに飢えて死んでいる!」という事実に対してヒステリーを起こす人というのは──おそらくそうそういないでしょうから(仮にいたとしたら、そこまで他者のことを「自分のことのように思える」という意味で素晴らしいと思いますが)。

 人々が抱えている問題の「ほとんど」は、大抵「自分の思い通りにならない」ということに尽きるような気がします。
 そして、そういう「思い通りにならない」というフラストレーションがあちこちで爆発しているのが、「現代日本社会」のような気がします。

 最近、鳩山内閣の支持率が下落しているという記事をよく目にしますが──私は鳩山首相に問題があるのではなく、「安易に意見を撤回する国民にも問題がある」と、そう思います。
 これだけ支持率が落ちているということは、「選挙当時、民主党に一票をいれた人たち」もみんな手のひらを返しているということでしょう。
 しかし、まだ選挙から一年も経っていないのに、簡単に手のひらを返すということはどういうことでしょうか? それこそ、「自分の思い通りにならない」という理由でヒステリーになる人と大差ないのではないでしょうか?

 5月3日、山川夫妻の講演会をした際、控え室で鉱矢さんからこう質問されました。
「あなたは、鳩山首相に対してどう思いますか?」
 それに対して、私はこう答えました。
「私はもともと、『どの政党であれ、首相の座についた以上は出来る限りフォローしたい』という考え方をしています。誰が首相になったって問題点はあるし、誰がやったって批判は出るでしょう。そうであるならば、その首相のやり方そのものを批判するよりも、応援する立場を取りたいと思っています」と。
 一見煮え切らない返答のように思えるかもしれませんが、私はいつでも「個人に対する批判」というのはしないよう心がけています。(私が個人を名指しで批判する時は、余程相手の行為に問題があるか、或いは「社会的に悪い影響を及ぼしている」と実感した時のみです。)
 ましてや、一国の首相に対してどうこう言うのは烏滸がましいです。
 それに、日本が「こうなっている」のは鳩山首相の責任でしょうか? 今、普天間基地問題などが二点・三点しているのは、鳩山首相がすべて悪いのでしょうか?
 それは「責任転嫁」というものです。
 勿論、現政権に対する問題点は数々ありますが、その責任は鳩山首相だけのものではありません。それこそフラクタル理論で言えば「日本の政治家の姿勢」は、イコール「日本国民、ひとりひとりの反映」でもあるのです。本当に「日本を変えたい」と思うのであれば、政治家にすべてを委ねるのではなく「自分でも国の状態を意識する努力」が必要なのではないでしょうか?

 世の中、数多く問題はありますが──結局のところ「問題点の核は『ひとつ』に過ぎないのかもしれない」と、そう思います。
 それは、「他者の尊厳を忘れ、自分のエゴばかりを通そうとすること」。
 でも本来、他者の尊厳を忘れると言うことは、同時に「自分の尊厳も、見失っていること」に等しいのです。だからこそ、人はエゴを貫いても貫いても満足することがなく、まるで餓鬼のようにがむしゃらに「満たされること」を外部に求めてしまうのでしょう。

 抱えている問題を解決する為には、まず「自分と向き合うこと」から始めるのが一番なのかもしれません。
 もっとも、「ヒステリー」を起こしている人に向かってそう言うと、必ずと言っていい程「私は私のこと、ちゃんと分かってるわよ!」という返答になると思いますが──(苦笑)。
 人間は「分かっている」と言えるほど単純な存在ではないので、「分かっている」と言える人ほど「分かってない証拠」だったりもするのが──何とも皮肉な話ですね。

 人の内面が暴露されていく時代となり、これからますます、エゴの強い人は「エゴ」が表面化し、不安ばかり抱えている人は「不安」が現実化していくことになっていくような気がします。
 そうならない為にも、私たちは刻一刻と刻まれていく時間の中で、常に「自分と向き合う努力」をする必要があるのかもしれませんね(笑)。

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2010-05-22 | 社会 | トラックバック(0) |

太陽黒点の謎

 一時期顔を覗かせていた黒点が、ここ二週間ほどまた姿を見せなくなりました。

 【参照】太陽黒点情報 

 今月の初旬──1日から8日頃までは20~最大で70前後あった上、Mクラスの太陽フレアも発生したのですが、それが終わった途端「ピタッ」と無表情を維持しています。
 これは、常態と捉えていいのか──はたまた、「嵐の前の静けさ」と捉えるべきなのか……。

 太陽黒点の増減には周期がある──というのは、最近では周知のことになりつつありますが、実は無黒点状態が60年以上続いた時期というのもありました。
 一番最近の長期無黒点状態はマウンダー極小期と言われ、1615年~1745年にかけてと言われています。
 黒点の研究そのものの歴史は、決して古くありません。それでも、上記60年間が「世界的に冷害に見舞われた」ことは、史実を調べても明らかなようです。
 一番有名なのは、イギリスのテムズ河が凍った──という話です。絵画でも、スケートをやっている子供達の絵が残っていたりしますよね。
 その他、北米でも冷害に悩まされたという記述があり、北半球全域に渡った影響だったということが推測されます。
 また「当時の日本はどうだったのか」を歴史事典で調べたところ、やはり「寛永の大飢饉(1642年)」がちょうどこの時期にかかっていました。
 1615年というのは江戸時代に入ったあたりの頃で、その初期のあたりからすでに「農作物が不作による飢饉」はあちこちで起きていたらしく、特にこの「寛永の大飢饉」が最もピークで、餓死者も多数出た模様です。

 確かに、江戸時代は「飢饉が多かった」という話は、私が学生時代にもよく聞いていました。「それだけ政治が不安定だったのかな」なんて思いきやそうではなく、どうやらこの「マウンダー極小期」にかかっていたことが原因なのかもしれません

 だとすると、この2007年あたりから3年に渡って続いている「無黒点状態」は、この時期と同じ周期に入っている──という示唆なのでしょうか?

 私個人の見解としては、それにつき「YES」と判断するのは早計のように思えます。
 何故なら、こうした無黒点状態は他にもあったとされ、シュペラー極小期(1420~1530)、ウォルフ極小期(1280~1340)、オーアト極小期(1010~1050)と、マウンダー極小期もいれたら1000年の間に4回もあったことになるからです。※これは私が調べた限りにおいてですので、本当はもっとあるのかもしれませんが。
 この年代をみればすぐお分かり頂けるように、非常に期間が「まちまち」です。周期と呼ぶには、あまりにも不安定な気がします。

 また、無黒点状態が続いていることで「冷害」に及ぶのであれば──三年続いている今、温暖化はおろか、とっくに冷害になっていてもいいのではないでしょうか?
 しかし、未だに温暖化の傾向はなくなったわけではありません。
 今日、私が住んでいる横須賀は異常な程「蒸し暑かった」です(室温計は28度でした)。でもこれは横須賀だけの現象ではなく、どの地域でも「真夏日」を記録したようなので、局所的な問題とは言えなそうです。
 まだ5月の下旬だというのにこの有様というのは、明らかに陽気が不安定化している証拠な気がします。これは、無黒点状態による冷害とは「イコールにならない」気がして仕方ないのです。
 また、実際に黒点が出ている時は非常に多数出ています。冒頭で書いたように、今月初旬は「70前後」出ていましたし、去年の10月には「300前後」という巨大な黒点が現れたこともありました。

 だとしたら、これは「無黒点周期」ではなく──「嵐の前の静けさ」と言った方が、妥当なのでしょうか?

 いずれにせよ、地球の生命はすべて「太陽」の恩恵を受けて生きています。
 その太陽に変化がある時は、地球の生命「みな」に変化がある時だと考えていいはずです。
 そうであるならば、ただ黙って太陽の在り方を眺めていくしか──人間に残された道はないのかもしれません。
 大自然に逆らうよりも、「大自然の変化」と共に生きることの方が、遙かに人間にとっては幸福なのかもしれませんね。 


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2010-05-21 | 真理 | トラックバック(0) |

言動の責任

 私が大好きな映画「コンタクト」の中で、非常に印象深い場面があります。
 この作品はカール・セーガンのSF小説を元にしており、1997年に上映されました。主人公のエリー(ジョディ・フォスター)はSETI(地球外知的生命体)の存在について研究する天文学者で、ひたすら異星人からの交信を待ち続ける──という話です。(※以下、青字部分は映画の詳細に触れています((ほぼネタばれです))ので、読みたくない方は飛ばしてお読みください。)

 様々な試行錯誤と人間ドラマを繰り広げた末、エリーは念願の「コンタクト」を果たしますが、それは物的証拠のない──いわば「誰にも共有出来ない、個人的真実」でしかありませんでした。
 しかも、他の人たちが共有した事実は「エリーを乗せたポッドは、ただまっすぐ落下した」という現実だけだったのです。先日も言ったように、「情報の真偽を問わず、共有意識において多く認識されたものは、常に真実とみなされてしまう」わけですから、それだけでエリーの実験は「失敗だった」と見なされてしまいました。(共有意識というのは「民主主義((多数決))」なんですよね((苦笑))。)
 エリーは「自分は科学者である」という誇りを常に持っていた為、「物的証拠が何もない」という現実がどれほど説得力のないものかを痛感していました。しかしそれでも、自分の体験した真実に、嘘はつけなかったのです。
 国際協力の下で資金を集めたプロジェクトだった為、アメリカは非難の的となり、その捌け口はすべてエリーに向けられました。そして結局、エリーはその言動の責任を追及されるべくして、裁判にかけられてしまいます。
 調査員に「交信はねつ造で、体験したこともすべて『幻覚だった』と認めますか?」と詰め寄られ、エリーは言葉を失います。科学者であるという彼女のプライドは、そこで闇雲に自分を正当化することを選ばず、はっきりと自分の立場を弁え「幻覚だったか──と聞かれたら、そうかもしれません」と答えます。
 しかし、その後でこう付け加えました。
「ですが、どんなに証明出来なかったとしても、私の中にある確固とした体験が物語っているのです。あの体験をもとに、私は『変わりました』。その真実だけは、否定出来ません」──と。


 エリーは、保身の為にただ闇雲に自分を肯定することもなく、また逆に、調査員の言動に迎合することなく、きちんと「自分の真理」を貫きました。
 これこそ「自分の言動に責任を持っている姿勢」だと、そう思います。私はこうしたエリーの姿勢がすごく共感出来るし、同時に「自分もかくありたい」と願っています。

 昨日の記事にも繋がりますが、昨今、精神世界では本当に色々なことが言われています。
 私は、そのどれも否定しません。そんなことを、私がとやかく言う権利はないからです。
 しかし、「言っている人の『姿勢』」について意見することはあります。
 例えば、他者の尊厳を侵すような言動──個人の人生、或いは過去に生きた歴史上の人物の名を連ねて「この人は霊的次元が低い」だの「この人は幽界レベル」だのランクづけをするような人は「論外」だと思います。
 人は誰しも「宇宙の子供」であり「地球の一部」であって、そこに優劣はありません。「ワンネス」という言葉をしょっちゅう使う人たちが「魂のランク分けをする」なんて、矛盾極まりないどころか「もっての他」です。そういう人は「個性における差違」をはき違えているとしか思えません。
 論じる姿勢について、私は「YES・NO」はっきり言いますが、「誰それの言ってることは正しい」だの「間違ってる」だの、そういうことはまず言わないし、これからも言う気はないです。
 しかし、ひとつだけ明確に言えることがあるとしたら──常に自分の言っている言葉に対して、言動の責任を負うべきだということです。

 上記のエリーは、「いち科学者」として、そのプロジェクトに関する責任を追及されました。
 しかし、精神世界の人たちが責任を追及されることは「ほぼ皆無」でしょう。
 勿論、お金の絡む詐欺罪などであればともかくとしても、「誰それの講演会に参加したけれど、その効果が見られない」とか「占いでこうなると言われたけれど、それが外れた」という理由で訴えられることはほぼないはずです。

 ですが、「だからこそ」──精神世界に関わる人(とくに執筆家やブロガーなどの発信者)は「自己責任において、慎重な言動を心がけるべき」だと思えるのです。

 私が安易に既存科学批判が出来ないのは、「科学者達は、常にそうした過重な責任の中で闘っている」ということが分かるからです。
 昨日引用したリサ・ランドール博士の言葉にもあるように、「探究は、喜びと絶望の繰り返し」といったニュアンスの言葉の意味も、そこに含まれているでしょう。
 もし、大きなプロジェクトで国家予算をかけて実験したにも関わらず、その結果が出なかったら──それは本当に絶望どころの話ではないでしょう。私だったら、実験前の数日間は興奮と緊張で絶対眠れなくなるはずですから(苦笑)。食事だって喉を通らないだろうし、部屋の中をうろうろ、うろうろ──「檻の中の(ちょっとノイローゼ入った)クマ状態」になっていると思います。

 だって、想像してみてください。
 国民の税金を使った実験をしたにも関わらず、「失敗に終わった」となったら──どこに逃げ場を求めればいいのでしょう? どんなに辛い心を誤魔化そうとしたところで、誤魔化しきれるものではないはずです。(しかしだからこそ、安易に事業仕分けで「研究費用」を削る姿勢はどうかと思います。科学者がただでさえプレッシャーを感じている中、未来をかけて実験しているのだから少しぐらい応援してあげるべきではないでしょうか。そんなに仕分け仕分け言うのなら、政治家達の月給すべてを公表してやるのが本当の公平ってヤツではないでしょうか?)

 それだけでなく、科学者という立場は「仮説が実は間違っていた」ということになれば、学会でもつまはじき者になります。すなわち「生きる術(すべ)」を断たれてしまうわけです。
 そこまでの危険を冒してでも、新しい学説を唱える学者というのは本当に勇気があると思うし、素晴らしいと思います。(そういう意味でも、私はランドール博士のことを評価しています。それは、博士の学説と自分の持論が異なるとか、そういったレベルの話ではないからです。) 

 でも、精神世界はどうでしょうか?
 そうしたプレッシャー、責任がどこにあるでしょうか?
 簡単にUFOの到来を唱え、いざその日になっても何もなかったとして──その言動の責任は負えるでしょうか?

「そんなこと言ったら、何も言えなくなるじゃないか」
 そういう反論もあるかもしれません。
 しかし、そうした反論に対して私は、「言動の責任を負う覚悟がないのなら、最初から『何も言うな』」と返すでしょう。
 責任を負うというのは、何も「頭をまるめろ」とか「切腹しろ」とか言ってるわけじゃありません。そこまで追及されるのであれば、私だって怖くて何も言えませんよ(笑)。
 そうではなく、「自分の発信している情報に、どれほどの信憑性があるのだろう」という「謙虚に検証する姿勢を持つ必要性がある」というだけのことです。
 そして、いつでも新たな真理に向き合う柔軟性を保ち、「非があれば、それを素直に受け入れ変わっていく姿勢が必要だろう」と、私はそう思っています。

 もう何十年も前の話なのですが、とある新聞が「偽の情報を流した」ということで裁判沙汰になったことがありました。
 しかし、それは結局「訴え棄却」で原告が敗訴したのです。
 その理由は、(名前は伏せておきますが)訴えられた新聞が「大袈裟なスクープネタで有名なスポーツ紙」だったからです。要するに裁判官は「この新聞に、情報の信憑性を求めても仕方ない」──そう判断したのでしょう。

 科学者が「情報の信憑性を求められる大手新聞」だとしたら、精神世界の人たちは上記した「スポーツ紙」に過ぎないのかもしれません。
 でも、私は「いつまでもそのままでは、世の中何も変わらない」──そう思います。
 勿論、都市伝説や心霊スポットのような「不思議大好き」「オカルト大好き」「何かよく分からないけど、怖い体験したい」という類の情報だって必要でしょう。しかし、いつまでも精神世界が信憑性の追求されない、アテにならない情報でいるのは間違っている──そう思えるのです。
 その為には、精神世界に関する記事や本を執筆する「発信者」である人たちが、科学者を見習って、もっと「言動に責任を負おう」という自発的な態度が必要だと、私はそう思います。
 勿論先日も書いたように、私自身は「原子を破壊させる実験」を懸念視していますし、実験の中には賛成しかねるようなものも数々あります。「次元の考え方」に私が疑義を抱いているように、既存科学で「これは違うのではないか」と思うことも多々ありますが、学論に対して異議を唱えたとしても、私は「言動に責任を持たざるを得ない科学者の立場」というものは敬意を表さずにいられません。
 安直に既存科学を「科学信奉主義」として批判するよりも前に、もっと「科学者の姿勢」についてを、私たち精神世界の人間は見習うべきなのかもしれないと、そう思っている次第です。


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2010-05-20 | 真理 | トラックバック(0) |

「真理に向き合う」ということ

 最近、私は「真理に向き合う」という意味をよくよく考えさせられます。
 かつての仏教の修行者にせよ、哲学者にせよ、ただひたすら「森羅万象の法則を知りたい」或いは「生老病死に括られるようなこの世界(次元)を打破したい」という純粋なまでの願いだけで、自分と向き合い、時には酷く傷つくことがあっても、ひたすらその道を歩き続けてきたのだと思います。

 でも、現在の世の中は──どうでしょうか?
 「真理」に向き合おうとしている人は、どれほどいるのでしょうか?

 勿論、前々回動画としてご紹介したリサ・ランドール博士や、物理学を研究している学生さん達など、分野は違えども「ひたすら真理を知りたい」としている人たちは少なからずいます。(ランドール博士の学論については賛成しかねる部分はありますが、彼女の「純粋なまでの探求心」については、私自身高く評価しています。動画にあった彼女のコメント、「『あ、これだ!』っていう閃きに喜び浮かんだと思ったら、次には突き落とされたり──その連続だ」というその気持ちは、痛いほどよく分かります。それこそ、真理と向き合いたいとする人が必ず通る関門だと思うので。)
 しかし、その他──ことさらに、精神世界の分野に関して言えば、そこまで本気で真理と向き合う為の努力をしている人って、果たしてどれほどいるのでしょうか?(これは「多くの著作本」を書いている、著名人と言われる人達、全員への問いかけです。)
 お金になるとか、「精神世界は、証拠がとれない分適当なことを言っても責任追及されない」とか、そんな軽々しい気持ちで向き合っているのなら「迷惑だから、やめてくれ」と、私は叫びたい。ある意味それは、「人々(読者)が抱く真理探求心への冒涜だ」とも思います。

 昨日の記事でも書いたように、私たちは「エネルギーが硬直して結晶化された世界」の中に生きているだけで、本質は「もっと自由なエネルギー体」のはずなのです。
 にも関わらず、そうした「自由なエネルギー体」の代表者たるべき存在でなければならない精神世界分野の人間が、「物質世界の牢獄」の法則に翻弄されてどうするというのでしょう。
 この世の中、精神世界にはまったく興味も持たず、競争社会・淘汰主義のビジネス世界の中でひたすら生きて、ただ「今」という時間をこなすだけこなし、虚しさの中にいながらも「その虚しさの理由も気づけない」という人たちだって大勢います。「何かが違う」そう思いながら日々を過ごしつつ、漠然とした不安に包まれている人だって、少なくないでしょう。

 そういう人たちが、何か答えを求めようとした時。
 一番身近にある世界こそが「精神世界」のはずです。
 カルト教団、宗教団体が答えをくれないことぐらい、そうした人たちはもうすでに分かっているからです。「これだけ多くの本が精神世界の棚に並んでいるんだから、何かいい本があるかもしれない」そう思って、探し求める人も多いでしょう。
 入門編に関しては、日本はある意味「他の国より充実している」かもしれません。「神との対話シリーズ」や、山川夫妻が訳した多くの書物もそうですし、そこで何か自分なりの発見を見いだせる人たちがいるかもしれません。

 しかし、そこから先は「行き詰まり」です。
 私は6月に出版される文庫本を書くにあたって多くの書籍を読みましたが、「本当に、真理を探究する気があるのか、或いはただの儲け主義でしかないのか」と疑問に思うものも数々ありました。
 おそらく、そうした人たちは2012年を境に全員消えてしまうか、或いは「今までの自分を棚上げして、まったく違うことを言い出すか」のどちらかでしょう。生活の為にそうしたことを書いていたに過ぎず、本当の真理──本当の人類の向上の為に書いていたわけではないのなら、そうした人の正体は2012年──いえ、それよりも早く来年あたりにはすぐ見えてくるはずです。

 ある意味今は、そうした「本当の真理を求める人」と「そうでなく、あくまでも儲け主義だった人」の振るい分けにかかっているのかもしれません。
 私自身は、ひとつの疑問──今は、この次元の謎を紐解くということに全霊を尽くしていますが──が浮かんだら、それに対してまた次の疑問、さらに次の疑問という湧き出方をしているので、尽きることがありません。
 本当の意味での探究者というのは、「そういうもの」なのだと思えるのです。時期が来たから「はい、さいなら」と出来るわけでは決してない。その時期が終わろうが何しようが、果てしなく「疑問に食いついていくもの」なのだと、そう思えるのです。
 何故なら、「三次元に生きる以上、疑問は絶えることがない」から。
 もし「ああ、すべて解決した」という時が来たら、それは自分が覚った時か、或いはアセンションでもして高次元に行き、そこで答えを知ったかのどちらかしかないでしょう。

 私のこうした姿勢を、「堅苦しい」「苦労性」などという人たちも一部います。
 ですが、あえて言えば真理を探究するのに、苦労なくして出来るわけがありません
 仏陀は、鼻歌まじりで真理に辿り着いたでしょうか? 
 シュタイナーは、ダンスを踊ってる最中にあれほどの叡智を得たのでしょうか?
 もちろん、仏陀に関しては「苦行の最中に覚ったわけではない」とはいえ、ミルク粥をもらったその瞬間も「それまでの積み重ね」がなければ絶対に至れなかったはずです。仏陀が毎日遊び呆けていたとしたら、ミルク粥をもらっても気づきには至らず、「なんだよ、くっさいメシだな~」で終わってしまったかもしれません。
 苦労というのは、「している最中に何かがある」のではなく、「それを積み重ねることにこそ、意味がある」のだと、私には思えるのです。

 もっとも、「今はそういう時代ではなくて、もっと気楽にしていれば分かるのよ~」というお手軽スピリチュアル派の人たちも少なからずいます。
 私は、そういう人たちの在り方も否定はしません。
 ただ、それは「個人差でしかない」としか言いようがないでしょう。
 例えば、そういう「もっと気楽にしていれば、真理は簡単に分かるのよ~」という人が、「本当に、私覚ったのよ!」と言い出したとしましょう。
 では、その人に「万民に分かるように、すべてを説明出来るか」と言えば──答えはNOなはずです。
 その人は「その人のレベル」で理解しただけであって、「万民のレベルに置き換えて、理解したわけではない」。
 みなが分かるようにその真理を理解するのは──ことさらに、それを三次元レベルに、結晶化したレベルに置き換えるには、どうしたところで労力は避けられないのです。 
 そして、私は「自己満足の為に、真理を知りたい」のではなく、「三次元のロジックとして、それを明かしたい」と思っています。だからこそ、果てしなく疑問と向き合いながら突き進んでいるのです。
 それが、「探究者の真の在り方」だと、私はそう確信しています。

 ……って、やれやれ。
 とあるきっかけがあったとはいえ、篠崎にしては珍しいぐらい感情的な記事になってしまいましたね(苦笑)。
 お目汚し、失礼致しました──。
 

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2010-05-19 | 真理 | トラックバック(0) |

「アセンション」という言葉が流行った理由

 また、私はこんなことも悟りました。人間の祖先たちは、相対的で見せかけに過ぎない時空が連なる区域に追放され、神の崇高なるビジョンを失ってしまったのです。つまり、永遠なる変幻自在の宇宙に存在するマルチユニバースという、絶対的現実を認識できなくなったのです。幾度にもわたる再プログラムの後、人間は、結晶化したエネルギーの限定的で虚構に過ぎない次元に拘束されてしまい、古代の叡智から遠ざけられ、物質に支配された陰鬱な牢獄に放り込まれてしまったわけです。

 上記は、マオリッツオ・カヴァーロ著「クラリオン星人はすべてを知っていた/徳間書店刊」の119ページから引用しました。
 この本は今年1月末に購入して以来、もう何度も読み返していますが、そのたびに新たな発見、新たな気づきがあるから驚かされます。
 私が引用した箇所は、物質で構成された三次元を理解する上で、とても参考になる部分です。
 例えば、「相対的で見せかけに過ぎない時空」という言葉。時間は個々別々の意識において変化し、決して絶対的ではない──ということはこのブログでも何度も書いたことですが、「空間が相対的ではない」というのは、あまりピンと来ないかもしれませんね。でも、これだって簡単な想像ですぐにご理解頂けると思います。
 また、「客観的事実として用いれば、時間も空間も絶対的である。意識という歪んだ眼鏡を使うから、相対的に見えるんだ」そういう反論もあるかもしれません。
 しかし、この世を認識することにおいて、「意識」を通じずに出来ることが果たしてあるでしょうか。どんな科学者であったとしたって「自己意識」を通じて以外、どんなことも把握出来ません。だからこそ、「共有した認識」ということで、統計的に出されたデータに頼らざるを得ないのです。そのデータを使ってもひとつの学論に絞れず、多岐に渡ってしまうことこそ、すでに「どんなものごとも、個々人の意識に頼らざるを得ない」ということの証拠にもなり得るのではないでしょうか?
 さらに、この「時空が連なる区域」というのも意味深ですね。私は前回記事にしたリサ・ランドール博士の唱えた「五次元に膜のように浮かぶ三次元宇宙」のことを思い返してしまいました。まさしくこれは「時空が連なって」います。そしてそれは、並行世界と似た意味とも捉えることが出来るでしょう。

 そして、何よりも私が唸らされたのが結晶化したエネルギーでした。
 これは、原子の仕組みを考えたらすぐに納得出来ます。

 「原子とは19世紀前半に提唱され、20世紀前半に確立された、元素の最小単位。その実態は原子核と電子の電磁相互作用による束縛状態である。(wiki参照)」

 束縛状態。
 つまりは「結晶化」です。
 物質は、「結晶化した原子」を「さらに結晶化したもの」です。
 そう考えると、ルドルフ・シュタイナーが投げかけた「問い」に対する答えが、何となく分かる気がします。

 シュタイナーは、「人間の肉体は、生きている間は決して腐ることはない。しかし、死んだ途端、ウジがわいて腐り始める。生きている人間と遺体との間に、どのような差があるのか」という疑問をずっと抱いていました。
 そして、シュタイナーは「目に見えない作用が、肉体(人間に限らず、生命すべて)に働いている」ことに気付いたわけですが、上記の引用文から「結晶化したエネルギー」というのはすでにエネルギーの滞っている状態であるから、それを流動させておかないと腐敗したり劣化するということが想定出来ます。 
 要するに、私たちは「結晶化したエネルギー」で構築された世界の中、生かされている存在ということになるのでしょう。
 勿論、「硬直状態にあるエネルギー」が、生命の主体でないことは容易に理解出来ます。言ってしまえば、肉体は「ただの鎧」です。
 そこには何の意志もなく、目的もなく、ただ「あるだけ」の存在。
 それを意志づけ、目的づける「生命の主体」こそが、目に見えることのない「私たちの意識」であり「精神」でもあるのです。

 私たちは今まで、「結晶化して形になったもの」ばかりに囚われ、本当に大切なものを忘れてしまっていたのかもしれません。
 それこそ、引用文にあげた「物質の牢獄」にいたのでしょう。
 そう思えば、「何故、アセンションという言葉が巷に溢れているのか」が理解出来ます。
 現象は、すべて無意味で起こることなどありません。ただアットランダムに起きていると思うのは、その人自身に気づきが足りていないからでしょう。本来、どのようなものごとにも必ず意味があって、特にこうした「情報」には顕著に意味があると、私は実感しています。
 何故なら、情報は人の共有意識に、多大な影響を及ぼすからです。
 先日記事にしたように、歴史も科学データも、結果的には「人々の共有意識の基盤とさせるべく認識対象」でしかありません。ですから、仮にその歴史や科学データが「まったくの嘘八百」だったとしても、「共有意識に浸透させちゃえば、怖いものなし」なのです。
 逆に言えば、共有意識への浸透は「真偽を問わない」のです。
 常にニュートラルで、どんなものでも受け入れてしまう。だからこそ、とても「怖いもの」でもあるのです。
 そういった「間違った情報が、人々に悪い影響を及ぼしてきた事実」など、ここで列挙しないでもすぐにご想像頂けることと思います。

 だからこそ、どんな情報であったとしても、「必ずそれが溢れるには、意味がある」そう思えるのです。
 作為的だろうと、或いは作為せずに「見えざる者の手による意図」であろうと、どのみち意味があることに変わりはありません。
 私は、上記のような引用例、および物理学における次元の解釈を進めるにあたって、アセンションという言葉が流布される目的は、人々の意識進化を促進させる目的があったのだろう──そう思っています。
 そして、「何故、意識進化が必要なのか」──その理由は、もうお分かり頂けたと思います。
 私たちの次元が「結晶化された物質の牢獄」でしかないのであれば、主体は「意識」。
 意識が変われば、その牢獄から「自ずと解き放たれる」わけです。
 逆に言ってしまえば、意識が変わると「2012年」を待たずとも、アセンションを待たずとも、「牢獄から解放される」のかもしれません。

 すべては「意識のあり方次第」なのだと、改めて実感させられました。
 こうした意識に辿り着くには、修行したり聖地廻りをする必要など「何もない」──そう思います。
 思考ひとつで、いつでも切り替えられるものなのだろう、と。
 勿論、それには方法論などありません。人それぞれ、個々別々のやり方があるでしょうから。
 ただし、「意識」というひとつのキーワードが重要な時代となってくるのだろう──つくづくそれを噛みしめた次第です。


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既存物理学における「次元」の考え方への疑問

 ……インテリ階層に喧嘩売ってるようなタイトルですが(苦笑)。

 今日、調べものをしていたところ偶然辿り着き「リサ・ランドール博士」の動画を見ました。

 「リサ・ランドール 異次元への招待

 名前と功績は知っていたものの、BSで特集をしていたのは知らなかったので、ついつい全部見てしまいました。
 博士が異次元を提唱していることまでは風のたよりで(?)耳にしていましたが、こういう提唱の仕方だとは知らなかったので思わず考えさせられました。
 この動画の中で「素晴らしいな」と思ったのは、博士も含め、出てくる学生さん達の「目の輝き」でした。
 本当に真理を知りたいとする純粋な思いが全身から感じられて、異なる分野とはいえ、私も嬉しくなった程です。とくに、「人間の起源を知りたい」として宇宙物理学を紐解こうとしている学生さんの姿には心打たれました。彼は「物理学」という分野に胡座をかかず、「本当に自分は知っているのだろうか」という謙虚な疑問の中で模索している姿に、私は「ああ、どういった分野であれ、真理を知りたいという人たちはみんな純粋なんだ」と、そんな思いを抱いた程です。

 しかし──そうした輝きはさておき、博士の提唱している「次元の考え方」については、私はどうにも鵜呑みが出来ませんでした。
 と、いうよりも既存科学で言われている次元の考え方そのものに、私は引っかかりを覚えて仕方がないのです。
 これは、文庫本巻末にも掲載したのですが、「一次元は点、二次元は面、三次元は立体……」という考え方そのものが、破綻しているように思えるのです。それはあくまでも「三次元である私たちの視点から捉えた物事に過ぎず、本来の次元の考え方からはずれているのではないだろうか」と。

 私自身は、「次元は、その次元を構成する物質の『もっとも最小物質』における振動数による差違ではないか」と考えています。
 これは「超ひも理論」に絡んでくることなので、多少ランドール博士の考え方とは異なるのですが、私は、今の科学における次元の考え方だと、どうしても矛盾ばかりを抱えてしまうように思うのです。
 例えば、博士の異次元説は(この動画を参照した限りでは)「三次元宇宙全体を、五次元宇宙が包んでいる」という解釈になります。それは「三次元宇宙の外側」という「空間(距離感)」に頼っているもので、結果的に異次元の存在を「三次元的思考の枠組みの中で捉えている」ようにしか思えないのです。
 もっとも、博士の言う「他の三次元宇宙も、五次元の中に並行して存在する」という考え方には至極同意出来ました。同時に、「重力エネルギーだけが、五次元内に移動する」というのも、分かる気がします。それが「重力エネルギー」に断定出来るかどうかはさておき、何かしらのエネルギーのみが三次元から「移行できる」というのは、理解出来ます。
 また、非常に「なるほど、そうか!」と理解出来たのは、「三次元は、五次元の中で膜のようになっている」という考え方。これはとても私自身納得出来たし、カヴァーロの体験談にあった「パラレルワールド」の構成を想定するいいきっかけとなりました。
 でも──どうしても「それが、三次元宇宙全体の『外側』にある」というのが、腑に落ちないのです。

 この理論は、従来の次元の考え方から言えばとても妥当性があるものですが、超ひも理論の視点で考えれば「必ずしもそうとは言えないのではないか」という疑問が出てきます。
 次元というのは「順番に並んでいる」ようなものではなく、「同時多発性」なのではないかと、そんなふうに思えるのです。
 すなわち、もし博士が提唱しているように「五次元が三次元を内包している」のであれば、それは「外側」にではなく、「階層的に重なっているのではないか」──そう私は感じています。
 これは「超ひも理論」のように「振動数による構成」を考えないと成り立たない説ではありますが、五次元が「三次元宇宙の外側にある」というふうに考えるよりも、「物質を構成する最小要素の振動数による差違で、次元が成り立っている」とするなれば、それはすでに「今、ここ」に重なっている──と考えられるような気がしますし、そうであれば、カヴァーロ氏の体験してきた数々のものは、理論上説明出来るような気がしています。

 もっとも、そうであったとしても「三次元は膜のようなもの」という考え方には同意出来ます。おそらく、「膜」のような形で重なり合っているのだろう──そう思えるので。
 また、実際に博士が提唱するような「三次元宇宙(正式には三次元に限らず、物質で構成されている宇宙──と、私は考えています)」の外側に「何らかの異次元が存在する」のは事実かもしれません。でも、それは五次元というよりも、「もっと高次元レベルのもの」なのかもしれない──そんなふうにも思いました。
 理論物理学は「数式のみの勝負」とは言うものの、その数式自体が「三次元の思考」から生じているのであれば、私は「異次元の探索に至れないのではないか」という思いもしています。
 仮に至れるのであれば、それは「どんなに数式で証明しようとしても、絶対に不可能という領域に至れてこそ、初めて」なのではないかと──そう感じるのです。
 三次元の数式で証明出来るうちは、「まだまだ、三次元の膜の中を出きっていない証拠」なのかもしれません。

 余談ですが。
 スイスにある「CERN」という施設の実験内容に、私は疑義を抱いてしまいました。
 動画の中で「原子を衝突させる」という項目がありましたが、フラクタル理論の考えで言えば、「そうした原子の中にも、私たちと同じような(勿論、認識出来るレベルではないとはいえ)宇宙の存在があったとしたら」とついつい考えてしまうのです。
 仮にそうだとしたら、原子を破壊させることは「ひとつのミクロコスモスを、崩壊させることになるのではないか」と。
 勿論、自然現象の中でそのようなことは多数起こっているとはいえ、「人工的にそれをするか、しないか」では意味が違う気がします。
 そんなことを言っていては、科学は進歩しない──そう反論されそうですが、もし「今までの進歩の仕方が、どこかボタンの掛け違いをしてしまっていた」のだとしたら、どんなに実験したとしても、それは不毛な結論に達してしまうのかもしれない、そんな気もする次第です。


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2010-05-16 | 次元 | トラックバック(0) |

負(マイナス)を受け入れる大切さ

 この次元を紐解くに際して「電気」という基盤を想定すると、必ず「二元論にならざるを得ない」ということは、今までの記事で何度かご紹介してきました。
 私にとってこの発見はとても大きく、同時に「そうであるならば、世界に対してもっと違ったアプローチ法があるのではないか」という気づきにも至った程です。

 例えば、「善・悪」という対極の考え。或いは「ポジティブ(正)・ネガティブ(負)」という考え方。
 数年前まで、成功哲学の類では「ポジティブシンキングが重要。ネガティブはNG」という価値観が主流でした。それに対して、今度は「いや、ネガティブこそが成功の秘訣だ」という意見も出てみたり。まったくもって「いたちごっこ」な状況が続いたのです。
 しかし、実際は次元が最初から分離要素で構成されている以上、二元論は前提になってしまっていると仮定したら、どうでしょうか? この仮定に立てば、「ポジティブが良くて、ネガティブが駄目」という考え方は「最初から、この次元の構成そのものを否定していることに繋がる」ということに、気付かされます。
 性善説・性悪説にしても、「どちらが正しい」というのではなく「どちらも正しかった」という気づきに至れます。
 戦争・紛争が「何故終わらないのか」ということに嘆くのではなく、そういう性質の次元なんだという事実を受け入れた上で、「では、どうすればよいのか」という視点に立つことも出来ます。
 理由・原因が分からない状態で改善を求めても、堂々巡りしてしまうだけです。「根底からその性質があった」という事実を受け入れてから改めて考えると、前進する気力も湧いてくるというものでしょう。

 そういったケースは、神話や伝承などでも描かれています。
 例えば、エジプト神話のオシリスの物語。オシリスは人々に叡智を伝え、様々に貢献した存在でしたが、義理の弟であるセトに嫉妬されて殺されてしまいます。
 聖書のカインとアベルの物語もそうです。善人であった弟アベルを、兄のカインが嫉妬して殺害します。
 そうした話を聞くにつれ、「もしこうした伝承が事実であったとしたならば、どうしてこうした殺害や嫉妬が歴史的に繰り返されているのか」嫌気がさします。(仮に事実でなかったにせよ、こうした発想が古代からあったという事実はぬぐい去れません。)
 しかし、「人間には最初から二元的な分離要素が働いていて、嫉妬や摩擦、対立は本能的に存在する」という前提に立てば、見方も全然変わってきます。

 私たちに必要なのは「負を引き寄せない」だの「否定する」といったものではなく、「『もともと、この次元における前提の性質だった』という事実を受け入れた上で、それを乗り越えること」なのでしょう。
 どんなトラウマも、最初から否定していては乗り越えられません。まずはいったん「受け入れて」から、そこを乗り越えていくことが大切なのだと、私には思えるのです。
 電気というのは「摩擦」を生み、それを人間の感覚に置き換えれば「痛み」となります。「痛い」と感じることは、「この次元において、生きている証」とも言えるものなのでしょう。それを否定することなく受け入れて、「痛みを含めた全体像」を見ることが出来れば、私たちは一歩前進した人間となれるのかもしれません。

 ひとつ、面白い事例がありました。
 イタリア在住のUFOコンタクター、マオリッツオ・カヴァーロが、「クラリオン星では『カタストロフィー』がなかった」という証言をしていたのです(「スターピープルの叡智」徳間書店刊)。
 これについて、私はすぐに納得出来ました。
 地球上では、すでに何度もカタストロフィー的災害があったのは、考古学や地質学でも証明されています。それが「なかった」ということは、明らかに次元構成が違うという証だと思えたのです。
 例えば、カヴァーロは「クラリオン星は、高次元にある」と言っていましたが、高次元が「光子(フォトン)」を原子として成り立っているのであれば、電子という「プラス・マイナス」の二極から生じている次元よりも遙かに安定しています。電気は「摩擦・対立・衝突」によって初めてエネルギーを生じますが、光子は「それそのものがエネルギー」なので、摩擦や対立を必要としません。カタストロフィーが「エネルギーの増幅」によって起こるのであれば、光子が原子である高次元では「カタストロフィーは最初から起こりえない、安定した次元」ということが出来るでしょう。

 そう考えると、私たちは「最初から、この次元の法則性を理解して生まれてきていた」のかもしれません。
 今でも、この世界には多くの哀しみや痛みが蔓延し、今でもそれが噴出しています。
 しかし、それと同時に「そうした痛みを緩和したい」とする人たちも激増しています。負を受け入れてそれを乗り越えることが出来た人たちは、きっとこれからも増加し、後者のような「痛みを緩和する役目」に廻っていくことでしょう。

 すべてはまず「何故、そうなのか」という理由を知るところから始まる──私はそう思います。  
 そうした意味で、「この次元が、もともと二元的な構成になっていること」「人類には潜在的に、次元の要素である二面性があること」を受け入れることは大切なことなのかもしれない──最近つくづく、実感する次第です。


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時間は「連続的な流れ」ではない。

 昨晩、「スタートレック2009」をDVDで視聴しました。
 Blue Ray Diskだった為か非常に映像が綺麗で、まずはそちらで驚きました。普段はDVDに含まれている別作品の宣伝などカットしちゃう私ですが、ついつい全作品のCMを観てしまったぐらいです。
 映画は、本当に進歩してますね──。それこそ、ここまでCG効果が進歩してしまったら、あとは「3D」ぐらいしかないんじゃないかと思います。(もしくはシミュレーションタイプで、自分も映画の中に入っちゃえるシステムとか((爆))。←3Dからいきなり飛躍しすぎ。)

 私は「新スタートレック・シリーズ(ピカード船長のシリーズ)」は見ていたのですが、その前のスタートレック(宇宙大作戦)は見ていません。今回の2009は「第一作目」のカーク船長とスポック博士が若い頃の話だったので、「内容について行けるかな」と疑問だったのですが、まったくそんな心配は無用でした。
 と、いうのも、(これは本当に、エイブラムス監督は「うまい手を講じたな」と思いましたが)この作品は並行世界(パラレルワールド)を題材としていて、ここに登場するカークもスポックも「第一作目に出てくるカークとスポックでは『ない』」という設定だったのです。
 なので、事前に第一作目を知らない人でも、充分楽しめる作品になっていたというわけです。
 しかも、原作のスポックと、ロミュラン人のネロは出てきます。この二人が「ブラックホールに巻き込まれ、タイムスリップをしてしまい、過去に来てしまった」という内容なのですが、この映画の中で過去は「連続的な過去」ではなく「別の並行世界」になっていたわけです。

 これは非常に斬新で、同時に「現在における『時間のとらえ方』に、とても準じている」と感心しました。

 タイムスリップを題材にした作品で有名なSF映画といえば、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」ですが、これは「時間を連続的」に捉えている作品です。
 過去に飛んだ主人公のマーティは過去であれこれ大騒動することにより、未来に戻った際「色々な変化が起きている」ことに気がつきます。これはこれで、とてもユーモアのある作品なのですが、本来「過去に戻って、過去を改変する」ということ自体は理論的に無理だと思えるのです。

 それは、時間の概念そのものに関係していると思えます。
 以前、このブログでも書いたように、私たちは過去や思い出を「記憶」の中でしか保存出来ていません。存在するのは「今」という瞬間でしかなく、私たちの記憶が「それを連続的なフィルム」として認識しているのに過ぎないのです。
 私が思うに、時間というのは瞬間・瞬間で存在するだけの、泡沫みたいなものでしかなく、それは決して連続しているわけではない──例えて言えば、まるでそうした泡沫があちこちに交錯するように関わり合って実感出来るのが「時間の流れ」というものなのではないかと、そう感じるのです。

 ですので、映画「スタートレック2009」のように、「タイムスリップして戻った過去が、実は連続的流れの一地点である『過去』ではなく、並行世界における別の過去だった」というのは、とても理に適っているような気がします。
 よく「過去に干渉すると、未来を変えてしまうのでタブーだ」という設定などがSFにも多いですが、それは「タブー」なのではなく、もともと「不可能」なのだと思えるのです。もしも過去を変えたとしたら、それは「別の並行世界が生じる」だけの話で、こちら側は何の変化もない──そういうケースに陥るだけのような気がするのです。

 これも、「次元の謎のひとつ」に関わってくる問題だと思います。
 私自身は、「空間・時間」というこの両者が「固定されたものだ」という観念に囚われていると、次元の答えそのものを紐解けないような気がしています。
 時間も空間も、実は自在に変化するもので、それを「連続的・固定的」に捉えているのは、あくまでも「人間の意識におけるもの」でしかないのだとしたら、世の中に対する見方も大きく変わって来るかもしれません。

 以前、タイムスリップの話をしていた際に、「タイムスリップを研究しているチームが、それを実際に行って成功した」という話を聞きました。そして、そのうちのひとりは「二万年前のある地点」に飛ばされ、その場にあった芝生を握りしめて戻った──というのです。ところが、戻った瞬間に握りしめていた芝生は「その場で風化し、粉々になった」そうです。
 私はこの話を聞いて、首を傾げずにいられませんでした。
 これこそ、時間を「連続的流れ」という三次元的固定観念に囚われている証拠のように思えたからです。
 もしも本当にタイムスリップが可能だとしたら、それは「一瞬」で行われることなので、二万年前の芝生に風化が起こるというのは矛盾しています。
 もし芝生が風化するのであれば、一緒に飛んだ本人も「その時の流れ」を刻み込んでその場でミイラにならなければ、理屈にあいません。「二万年前の芝生だから、風化した」というのは、どう考えても後付された言い訳でしかなく、ロジックが破綻しているようにしか思えないのです。

 タイムスリップを可能にするとすれば、それは「空間をねじ曲げる」、或いは「次元を自在に操れる」ようになって初めて出来ることのような気がします。
 勿論、だからといって次元を操って過去に行けたとしても、上記書いたように「そこで変えた過去が、自分のいた時点の未来を変えていることになることはない」だろうと思います。
 時間は連続的ではなく、空間が示すような「一種の座標軸」に過ぎず、そこを私たちが転々とただ移動しているだけに過ぎないのだとしたら──それであれば、辻褄があうような気はします。勿論、移動している私たちは気付くことはないでしょう。何故なら、脳内で「記憶の照合」をとるから、不自然だということも分からないでしょうから。

 何だか最近の私は、どんどん「壮大な問題」にはまっていっているような感ありです(苦笑)。
 しかし、不思議な感覚ですが──壮大になればなる程、「すべての問題」が見えてくるような気がします。
 例えば、人類に不平等すぎる差別があること、紛争が絶えないこと、自由を約束されていながら不自由に強いられる現代人の生き方、絶滅を止められない生物達、何故人類が、他の自然や生命と調和した共存が不可能だったか──など。
 それらの問題も、こうした「次元」「時間」「空間」の問題の中に「凝縮されて詰っている」ような確信があるのです。

 ひとつの問題だけに向き合っていると、「その問題」に関わる視点でしか向き合えません。
 以前、私が「中東紛争問題」に真摯に向き合っていた際には解けなかった「答え」が、一見無関係とも思えるような「次元の紐解き」に行き着くことで、少しずつ何かが「見え始めている」のです。

 これも、一種のフラクタル理論と言えるものなのかもしれません。
 あちこちに起きている問題も、実はその根っこが「ひとつ」で、そしてそれを大きくしてみれば、「問題を解く鍵は、その大きな全体像の中にすべて含まれている」ということなのかもしれない──。

 面白い時代になってきた──そんな気持ちでワクワクしている、今日この頃です。  



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2010-05-12 | 次元 | トラックバック(0) |
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プロフィール

篠崎由羅(しのざきゆら)

Author:篠崎由羅(しのざきゆら)
1970年生。幼少期から哲学・宗教学に造詣を深める。思想および思想史、それに付随した国際事情に興味を抱いて独学を続け、大学ではインド哲学科専攻。東西問わず、両者の思想に渡り研究を深める。

現在は看護師として施設で勤務しながら、その傍らで執筆活動を続けている。2016年11月にYOU are EARTH改め「WE are EARTH」の活動を再始動予定。より良い未来の地球のため、全力を尽くす誓いをたてている。

【篠崎編集担当】


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