成功は「努力の副産物」でしかない

 最近は下降気味ですが、一時期「成功哲学」という言葉が流行りました。(昨今はむしろ、「引き寄せの法則」ですかね。って、もっとインスタントな手抜きになってるってことなのかもしれませんが──)
 成功哲学のプログラムそのものは、今から100年以上前、鉄鋼王と呼ばれたアンドリュー・カーネギーから依頼されて、25年もの歳月をかけてナポレオン・ヒルが体系化させたものです。今でもナポレオン・ヒルの著作は多く出ていますし、プログラムやセミナーも多々あります。
 
 私が「成功哲学否定論者」というのは、このブログでも時折書いているのでご存知の方も多いかと思います。
 何故なら、成功というのは、あくまでも「結果」でしかなく、大切なのは過程の方だ──私はそう思っているからです。
 そして、成功は方法論ではないと、そう思えるのです。どんなにナポレオン・ヒルがそれを体系化したところで、同じ方法をとっても「成功する人」「しない人」が必ずいたはずです。
 何故なら、このブログでも何度か書いたようにこの次元はすでに「二元性」を含んでいるので、そうである以上「成功と失敗は、必ずセットになっているから」です。
 ということは、「成功者がいる」一方の裏には、必ず常に、虐げられ続ける者達もいるのです。
 その両者を見ずに──或いは「その人達は、自ら成功しようとする意志のない怠け者なんだ」という決めつけて「自らの成功のみを願う」というのは、エゴでしかありません。

 もっとも、本来の原則で言えば「成功」も「失敗」も両者ともにニュートラルなものでしかなく、それそのものに「善悪の基準」はありません。
 要するに、その人自身がその成功を「いい」と思えるか「悪い」と思うか──或いは失敗を「成功のステップ」とみるか、「絶望」として捉えるか、その差でしかないでしょう。
 ということは、成功も失敗も一時的な結果論でしかないと言えるわけです。
 だからこそ、私はこうした言葉に「必要以上に囚われること自体」を懸念しているし、「それは、その人の人生を見失うきっかけにもなりかねない」そう思えるのです。

 私にとって「成功」は、自分がどれほど努力を重ねてきたかという延長線上にある、副産物でしかありません。
 本当に大切なのは「自分が目指すべきゴール」に向けて、どれほど誠実に、どれほど誠意をこめて「努力できたか」ということでしかない──そう思うのです。
 物語の例で、挙げてみましょう。
 私が大好きな映画「ロード・オブ・ザ・リング」では、主人公のフロドが「悪の権化ともされる指輪を、滅びの山まで捨てにいく」という重い任務を背負います。
 でも、もし「成功」だけを意識するのであれば、フロドが「指輪を無事に捨てた」という事実だけがクローズアップされてしまい、その他の登場人物達の苦悩──フロドを支え続けたサムの友愛や、悪役として登場したものの結果的に「フロドの使命」に一役担ったゴラム、使命半ばにして命を落としたボロミア、その他、フロドの使命に関わった大勢の人達の苦悩や人生は、無意味なものと化してしまいます。
 あの物語にとって大切なのは「フロドが使命を全うした」という結果ではなく、「そこに行き着くまでの過程だった」と、私には思えるのです。

 人生だって、同じです。
 「終わりよければ、すべてよし」──笑って死ねる人生であれば最高だと、人はそう言いますが、それは結局、心根の正しい努力をしつづけたからこそ「笑える」のではないでしょうか?
 どんなに成功者と人から呼ばれ、大金を稼ぎ、自家用ジェットを乗りまくっても、「こころ」が満たされないまま死んでいけば──それは決して、本当の成功とは言えません。

 要するに、本当の成功というのは、物質で担えるものでは決してないんだと、私はそう思うのです。
 勿論、ある程度の物質に還元されることはあるでしょうが、結果的にはいかに自分が誠実に、自分の目標に向かって努力出来たかでしかない、私はそう思います。
 そして、それは方法論では決してなく、必要なのは信念だと、私には思えるのです。
 どんなに「成功哲学」のプログラムどおりやったところで、信念のない人は成功しないでしょうし、そんなプログラムを知らなくても、信念がある人は成功するでしょう(もっとも、信念がある人は最初から「成功」だの「失敗」だのという言葉に振り回されないので、何の意識もしないでしょうが)。

 「社会で成功したい」と思う人は、世の中多々いることと思われます。
 でも、まず必要なのは「自分がどのように生きたいか」という理想であり、それに向かって突き進める信念だと──私はそう思います。
 そして、ひたすら自分の信念だけに進んでいった時、見えてくるのが「成功」という理想郷なのかもしれません。
 が──きっと、そこに辿り着いた時、その人はこう思うことでしょう。

 「ああ、理想郷に辿りつくことも素晴らしいが、その過程にあった旅路の方が、苦しかったけれども有意義で楽しかった」──と。

 そうやって「努力を楽しめる人」こそが、真の成功者と言えるのかもしれません。



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2010-06-10 | 真理 | トラックバック(0) |

「アセンション、真実への完全ガイド」出版

 本日、徳間書店より出版されました。

アセンション真実への完全ガイドアセンション真実への完全ガイド
(2010/06/09)
篠崎 由羅

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  ……写真、デカすぎですね(汗)。
 FC2のマイショップにちょうどいい大きさがなかったので(これより小さいサイズは、グンと小さくなりすぎてしまう──)、この大きさにて堪忍してください。

 この本は「エハン・デラヴィ氏」のワークを引用し「新たな問題提起」という形でまとめたものです。
 「アセンション」という言葉が使われてはいるものの、本来は精神世界についてほとんど知らないけれども、今の時代に行き詰まりは感じているといった方々にも読んで頂きたいと思っています。
 私は(この文庫本でも繰り返し書かれているのですが)「物質世界」も「精神世界」も「同じひとつのもの」でしかなく、構成している要素も周波数の違いだけで「同じもの」から出来ているという考え方を貫いています。
 ですので、従来の精神世界における考え方には同意出来ないところがあるし、神秘主義もまた同様です。
 本来、もっともバランスが取れていた姿勢は哲学であって、物質世界における経済・政治、あらゆるものと「精神の深淵」を結びつけていたものこそが「本来の哲学だった」と、私はそのように考えています。

 精神世界や神秘学をただただ「人間が理解出来ない領域」として拝むのではなく、同時に、物理学や既存知識においても「精神世界や神秘学はただの『夢物語』に過ぎない」と追いやるのでもなく、両者が互いの接点を探しあいながら「共通項」を探していくことが何よりも望ましい──私は常に、そう考えています。
 そして、私自身が求めている真理はまさに「そこ」に行き着くものであり、私が求めている「高次元」というのもこの次元(電気的次元)特有の二元性を乗り越えた、新たな一元的な世界(光子的次元)と言い換えることが出来ます。

 しかし──なかなかに難しいですね。
 こうした分野は「幅が広すぎる」ので、どこをターゲットにしていいのかが、なかなか見定まりません。
 私が次回作として準備しているのは「高次元の探究に関して」ですが、それこそ、前提として精神世界に関する知識がないと、理解するのは難しいかもしれない──という内容です。
 しかし、上記文庫本の見本を読んだ知人(精神世界の「せ」の字も知らない人)からは、「もっと『精神世界』を通じて、現代社会や政治、経済がわかるような、そんな本も書いて欲しい」という要望も来ています。
 確かに、精神(哲学)を通じて社会経済や政治問題、或いは民族問題に触れているような本はお目にかかった試しはないので、そういった本を書く必要性も感じてはいます。
 むしろ、今一番「先行きに不安」を感じているのは、こうした「2012」「アセンション」という言葉を知らない人達なのではないかなと──そんなふうにも思う時があります。
 私自身、もともと精神世界どっぷり!という本は書く気がないので(天使がどうとか、エネルギーがどうとか……書くのであれば、それらに全部「理論的な考察」を加えた上で、書くでしょうね)、高次元の本も、最新物理学などに絡めた作風となっています。
 論拠のない空論というのが、私は本当に「好きではない」のです。
 どんなに証明出来なくても、理論的に「真実かもしれない」と周囲に仮定させるような説得力のある仮説は、空論とは呼びません。そうでなければ「理論物理学者」という存在は皆無になってしまいます。アインシュタインの功績も、リサ・ランドール博士の研究も、すべて「無意味」となってしまうでしょう。
 しかし、理論の含まれてない精神世界は、ただの「おとぎ話扱い」されてしまいます。私は、そういう扱いを受けるのが「もっとも嫌い」なのです。(それは文庫本にも、繰り返し書かれています。「不思議扱い」されて終わるということが、もっとも嫌なことなのだ──と。)
 
 この本では、「如何に2012、アセンションという問題が『現実的な問題』なのか」ということが書かれていて、おそらく、巷に出ている2012年関連の本とは一風変わった作風になっていると思います。
 ある意味、私はそういった意味では「ホントのクレイジー」なのかもしれませんが(苦笑)、アインシュタインの言葉「その時代に『クレイジー』とされない発見など、無意味である」というその言葉をかたく胸に誓いながら、真理への道を掘り下げていきたいと思っています。


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失われた「日本民族の感受性」

 昨日記事にした「家族制度の限界」について、多くの方から感想やメッセージを頂きました。
 誠に、ありがとうございます──。
 ほとんどの方が、私と同じように「既存社会システム」を問題視していることを知って勇気づけられたと同時に、「もっとこうした問題点の的を絞って、理想社会の青写真へと繋げていきたい」そう感じた次第です。
 現在、いろいろと執筆をまとめておりますので、また改めて記事にさせて頂きますね。
 
 さて──今回の記事も、「現代日本における問題点」に多少関わる内容です。

 先日、私は「宮崎駿監督作品が好き」という話をしましたが、最近はDVDの「英語ヴァージョンで聴く」という形式で見ることが多かったりします。(実は、最近まで英語版があることに気付きませんでした。通常DVDのメニューは冒頭に来ますが、ジブリ作品の場合「作品の最後」に来るので、あることそのものを知らなかったのです。)
 私が持っている宮崎作品のDVDは「風の谷のナウシカ」「となりのトトロ」「魔女の宅急便」「もののけ姫」「千と千尋の神隠し」「崖の上のポニョ」、それと宮崎吾朗監督作品の「ゲド戦記」なのですが、「風の谷のナウシカ」「崖の上のポニョ」以外は、すべて外国語ヴァージョンがついています。(「千と千尋」のみはフランス語なのですが、あとは英語です。)
 私は以前から、気に入ったDVDを「日本語字幕」「英語字幕」「吹き替え」「英語オンリー」とすべて味あわずにはいられない性格なのですが、もともと邦画はあまり見ないので、「日本人が作成した映画を、英語で聴く」ということは宮崎監督作品しかしたことがありません。
 ──が、改めてしてみると「色々な発見」があることに驚かされます。

 まず、何よりも驚いたのは無言の回数が減っているということです。
 「となりのトトロ」を観たことのある方はご存知でしょうが、あの作品の中には「無言の場面」が何度か出てきます。例えば、冒頭で郵便配達のおじさんが手を振る場面や、寛太という少年が家族を指さす場面など。それらの場面が、英語版ではことごとく、台詞が入っているのです。
 これは、子供向けだから「態度だけ示すのは分りづらい」ということなのか──或いは、海外においては「無言で指をさす」というのが失礼にあたることだからなのかと、あれこれ思いめぐらせてしまいました。
 まぁ、日本でも決して「礼儀の正しい行為ではない」かもしれませんが──。
 でも、それを改めて見た時に無言で行動をされても、相手の意図を推し量ろうとする姿勢が日本人には「あったのだ」という、意外な発見をした気分になりました。

 また、英語版の方では「間(ま)がなくなっている」という事実にも、驚かされました。
 逆に言えば、日本人が、どれほど間(ま)を大切にしている民族性かということも、実感させられたのです。

 普通に日本語で観ていた時は、宮崎駿監督作品の中にある「間(ま)の多さ」に、まったくと言っていい程気付きませんでした。
 ところが、英語版で観て改めて、「間(ま)が多い」ことを痛感したのです。何故なら、ことごとく、そこに台詞なり音楽なりが入れられていたからです。
 それが顕著なのは「魔女の宅急便」です。
 あの作品はBGM自体一部変えられていたので、特に「作品としての違い」を顕著に感じました。
 「魔女の宅急便」英語版に対する正直な感想を言えば、私は「くどい」と思ってしまった程です。
「この場面には台詞や音楽を入れず、静寂の中で、登場人物の気持ちや予兆を味あわせて欲しい」──と。

 思えば「無言」というのも、とどのつまりは「間(ま)」のことです。
 日本人は「無言」「間(ま)」──「空白」「余白」というものを非常に重んじる特質を持っており、それを顕著にあらわしているのが「宮崎駿監督作品なのだな」と、改めて実感させられました。

 茶道にしても、確かにそうですね。広い茶室でも、使うのは「ほんの片隅」です。全体を敷き詰めるようなことは、まずしません。片隅でありながらも、「その倍以上ある空間」の余白を楽しむという精神的特徴が、日本文化の中にはあるのかもしれません。
 植物に関する感性も、そうかもしれませんね。盆栽も、みっちり花が植えられているわけではなく「微細な空間」を重要視しています。最近はアメリカ風の「ぎっちり埋め込み式アレンジメント」が流行りですが──可愛いとは思うものの、個人的には、あまり好きではありません。それであればむしろ、茶道にあるような「野に咲く花を、一輪だけ飾る」という感覚の方が、私は好きです。

 「なんとなく」軽い気持ちで、見慣れている宮崎監督作品を英語で観たものの、これだけ民族性の差が出るのかと、改めて驚きました。
 同時に、「こうした間(ま)が、今の日本社会に果たして『あるだろうか』」と、首を傾げた次第です。
 むしろ、「逆になっている」──そう思います。
 だとしたら、現代日本社会が「病んでしまう」のも無理はない──そう思えました。もともと風土にあった民族性が失われ、違った土壌のものが入って来てしまえば、その地が病むのも当然のような気がしたのです。それこそ、アメリカに生息していたブラックバスを日本の湖に放したところ、日本の湖にもともとあった生態系が崩れてしまったという例のように。

 間(ま)──無言──空気、すべては「音」に反映されます。
 かつての日本人は、とても音に敏感でした。それは、松尾芭蕉の俳句に色濃く描かれています。

「閑かさや 岩にしみいる蝉の聲(せみのこえ)」

「古池や 蛙(かわず)飛び込む水の音」


 非常に「静寂が描かれた句」だと、私は思います。
 もし、そうした「音の敏感さ」「音に対する繊細さ」が元来日本人になければ、どんなに松尾芭蕉が素晴らしい俳句を残しても「なんだよ、じっみな俳句だな~」で終わってしまったはずです。音に対する繊細さをかつての日本民族も持っていたからこそ、松尾芭蕉の俳句は評価されたのだと、私はそう思えるのです。

 それが──今はどうでしょう?
 人の生活を脅かすような騒音の数々。爆竹のようなバイク音を鳴らす暴走族や、深夜勤の人やお母さんがようやく寝かしつけたばかりの赤ちゃんのことさえ思い遣らないような「うるさい宣伝カー」、何の意味があるのかよくわからない「選挙宣伝カー」など、音に対する冒涜があちこちに溢れんばかりです。

 無音──静寂というのは、とどのつまり「間(ま)」とイコールなのだと、私は宮崎駿監督作品のDVD英語版を見て、つくづくそう思いました。
 本来、日本人はとても繊細で、感受性の鋭い民族だったのだろう──と、そう思えるのです。
 間(ま)を大切にし、静寂を愛し、季節を感じて、自然を尊ぶ──それこそ宇宙の律動にあわせた生き方が、日本人の精神性そのものだったのです。
 しかし、今はそれが完全に、失われてしまいました。
 だからといって海外に同調出来ることもなく、非常に中途半端な状態で国際社会にぶら下がっているのが「今の日本なのではないか」──ふと、そんなふうにも思いました。

 日本元来の良さは「間(ま)」──すなわち物と物を繋ぐ空間──伝導体(プラズマ)の意識──だったと思えるのです。
 もしもそれを取り戻すことが出来たら、日本はもう一度、生まれ変わることが出来るのかもしれませんが。

 「忙しすぎる日本人」というのは、「日本人の良さ」を見失っているのだと私は思えます。(って、私も聴いていて耳が痛いのですが;)
 ふと立ち止まり、深呼吸して──今、「自分が立っている場所を味わう」──そんな余裕を取り戻すことが、まずは今を生きる「現代日本人」全員にとって、第一優先なのかもしれませんね(笑)。←自分含(苦笑)。



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家族制度の限界

 今から三年ほど前の話です。
 当時、私は派遣社員をしていました。もっとも、フルタイムで働いていたわけではなく、当時からすでに執筆や研究の時間を設けていた為、14時までのハーフタイム勤務をしていました。ですので、まだ日の沈まない明るい時間帯に帰宅していたのです。
 私はいつものように、自宅に向かって帰り道を急いでいました。真っ昼間の人通りのない時間帯──ふと見ると、市営住宅からひとりのおじいさんが歩いて来るのが見えました。年齢は、80後半ぐらいでしょうか。足取りが覚束なかったので、私は何となく気になり、そのおじいさんの行き先を目で追っていました。
 すると私の不安が的中し、道路を横断して歩道に行こうとした最中、車道の真ん中で転倒してしまったのです。
 私は慌てて、おじいさんの元に走り寄りました。時間が真っ昼間だったのが幸いして、車通りはまったくなかったものの──それだって危険です。

「大丈夫ですか?」

 呼び掛ける私の顔を見たおじいさんの表情を……私は、一生忘れることは出来ないでしょう。
 驚きと、喜びと──同時に「哀しみ」の混ざった、とても複雑な表情だったのです。

「だ、だいじょうぶです……」

 かすれるような声で、おじいさんは言いました。
 私はおじいさんの手を引いて歩道まで連れて行くと、そばにあった花壇の脇に座らせました。
「どこも痛くないですか?」
「だいじょうぶです……だいじょうぶです……」
 おじいさんは、ただただ、その言葉のみを繰り返しました。

 私は、今までにもこういう場面に出くわしたことが何度かありますが、大抵、転倒した相手は「照れ笑い」を浮かべるものです。おそらく、私が逆の立場でもそうすると思います。すっ転んだ自分を自嘲するように笑って、みっともない姿を見せたことに対して誤魔化そうとするのは心理的に当然の働きです。それは、老いも若きも関係なく「大抵の共通項」でした。

 しかし、そのおじいさんはいっさい、笑わなかったのです……。

 それどころか、まるで久しぶりに人と話したかのような──そんな戸惑いを感じさせるような表情でした。
 私はそのおじいさんのことが気になりながらも、もともと過干渉が苦手なタイプ故、おじいさんに「少しここで休んで、立てるようになってから動いた方がいいですよ」とだけ呼び掛けて、その場を立ち去ろうとしました。消え去りそうな声で「ありがとう……」と言われたので、そのまま会釈して、再び私は家に向かって歩き出したのです。

 私の家からその場所までは、ほぼまっすぐの一本道でした。私は数分歩いたのち、何か気になって──ふと、おじいさんのことを振り返りました。
 すると──もう数分以上経っていたにも関わらず、おじいさんは「じっと」、私のことを見つめていたのです……。きっとその数分間、遠ざかる私のことを見つめ続けていたのでしょう。
 私は、胸がぎゅっ……と詰まるような感じがしました。

 ──もしかしたらこのおじいさん、「ひとり暮らし」なのかもしれない。

 とてつもなく複雑な想いが、私の中で駆けめぐりました。
 でも、私には「何も出来ません」。
 私がもっと積極的な性格なら、再びその場に戻ってあれこれ世話を焼くことも出来たでしょうが──そこまでの勇気が、私にはありませんでした。ただただ、そのおじいさんの「せつなそうな瞳」だけが、心に焼き付いているだけなのです。

 今でも、そのことを思い出すことが多々あります。
 その市営住宅には「ひとり暮らしの老人が多い」というのも、聞いていました。もともと市営住宅などの公営は、「ひとり暮らしの老人」が優先されるところはあるので、まぁ当然といえば当然なのかもしれません。
 あのおじいさんは、一体どうしただろう──そんなふうに思うのです。
 もし、これがすべて私の思い過ごしで、実は家には家族がいっぱいいて、とても愛されている存在だった──というのであれば、私もかなり気持ちが楽になります。
 でも──そんな人は、まず「あのような哀しそうな目」はしていない、そう思えるのです……。

 私は、自分自身がもともと孤高を愛するところがあって、「ひとり暮らし」を淋しいと思ったことなどは一度もありません(むしろ、「ひとり暮らし推奨派」です。と言いますか、若いうちに一度はみんな「ひとり暮らし」を経験した方がいいとさえ、思っています)。
 きっと老人になっても、静かな山奥に住んで、たったひとり「死と今までの生」を見つめながら死んでいくことを望むだろう──そう思います。「真理探究者」というのは、心の奥で宇宙との繋がりを求め、静寂を追い続けるようなところがあるからです。
 しかし、「世の中のみんなが、私のような人間」のわけはありません。

 ひとりは、淋しい。
 孤独は嫌だ。

 そう思っている人の方が、おそらく9割以上なのではないでしょうか?
 だからこそみな、結婚生活を望み、家族を求め、生活の中に「賑わい」を求めるのでしょう。

 でも──私はそうした家族制度こそが、結果的に「ひとり暮らしの老人」を増やしてしまうのではないだろうかと、そう思うのです。

 マオリッツオ・カヴァーロの一作目「クラリオン星人にさらわれた私 超次元の扉」に、高次元人(クラリオン星人)の「結婚生活」について書かれた箇所があります。
 

 彼らの惑星での結婚には、結婚式はない。婚姻関係は、知的、霊的、物理的な類似性のうえに成り立つ。カップルの間で、常に発展し続ける周波数に差異が生じたときには、平和裡に結婚生活は終結する。いずれにせよ、子供たちはコミュニティーに保護されているのだ。(P233)  


 実は、私自身もこれと同じことを離脱先で見てきました。もっとも、私の場合は「聞いた」のではなく、私をガイドしてくれた男性の息子が「一時的に帰宅している」というのを知り、「もしかして、どこか寄宿学校のようなシステムがあるのだろうか」と推察したのですが(ちなみに、妻と思しき人もいませんでした)。
 異次元とは違いますが、同じようなニュアンスのことをスウェーデンボルグも「霊界の結婚」として書いています。(と、言いますか──最近私は思うのですが、スウェーデンボルグが見たのは((17世紀当時の水準において))霊界とされていただけで、実は「異次元」なのではないか──と思っています。むしろもっと極論を言ってしまえば、「今まで精神世界が言ってきたような『霊界』というのは、本当は『ない』のかもしれない」とも考え始めています。このあたりはすべて「一元論」の中で物理的に説明が出来ますので、いつか改めてブログで((或いは次回作で))解説する予定です。)

 もともと、高次元には「老い」がない──とも言います。「死」はあるようですが、老いることなく「別次元」へと移転するのみのようです。
 だとしたら介護福祉とか、そんな問題は「高次元にないから、わからない」っちゃそれまでになっちゃうのかもしれませんが──。
 私自身は、どうすれば、こうしたひとり暮らしの老人の孤独や、児童虐待などの問題が解決するのか、そういう社会的な問題に対しても「高次元システム」の中にヒントがないかを、ずっと探しているのです。
 先程も言ったように、高次元では「老い」がないのだとすれば、老人に対する問題というのは最初からないのかもしれません。しかし、平和裡に結婚生活が破綻しちゃう家庭に生まれた子供は「悲劇」ですよ(笑)。いくらお父さんお母さんが「平和裡」であったって、子供は「たまったもんじゃありません」。
 そう考えると、おそらく高次元には最初から、家族制度というものが存在しないのかもしれません。
 独立個人が「大前提」な次元故(最近、何故「高次元では独立個人が前提」なのか、見えてきた気がします。それは高次元が光子を原子としているので、最初から「独立している((電子のように分離していない))」からなのではないかと、現時点では推察しています)、「家族制度」を持つ必要が、もともとないのだろう──そう思えるのです。
 勿論「教育」は必要ですので(それどころか、おそらく惑星のほとんどは教育従事者になっているだろうと私は思いますが)そうしたコミュニティはありますが、すべてが「コミュニティ」で担っており、逆に言えばその惑星にいる人類、全員が兄弟であり親子のような関係性になっているのかもしれません。

 だとしたら。
 私たちの次元におけるこうした「ひとりぐらしの老人の問題」や「児童虐待の問題」も、もっともっと「地域全体」或いは「コミュニティ」の中で対応していく必要性があるのかもしれません。
 そうすれば、年老いた息子・娘が、さらに年老いた両親を介護する為に仕事を辞め、その後再就職出来なくなる──という哀しい出来事も、起らなくなるはずです。
 すべては「家族」という「狭い領域」だけで責任を負わせ、解決させようとする「今までの社会システムそのもの」に、問題があったのかもしれない──私はそんなふうに思います。
 もっと互いにいたわり合うような関係性を、社会全体が担えるようになったら──私が会ったような「哀しい目」をしたおじいさんを、ひとりでも少なくさせることが出来るのかもしれません。


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【参考文献】
超次元の扉―クラリオン星人にさらわれた私 (超知ライブラリー)超次元の扉―クラリオン星人にさらわれた私 (超知ライブラリー)
(2009/02/26)
マオリッツオ・カヴァーロ

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傷つくことを恐れるよりも、「信じること」を大切にしたい

 私は宮崎駿監督作品が大好きで、結構何度もDVDで繰り返し観てしまいます。(余談ですが、英語版で「トトロ」を観ると面白いですよ。歌も全部英語になってます。)
 宮崎監督作品は、「自然と人間の共存(『ナウシカ』や『もののけ姫』)」といった深いテーマを扱っているものもあれば、「個人と周囲の関係性(『魔女の宅急便』や『となりのトトロ』『崖の上のポニョ』など)」といった身近なテーマもあり、テーマ性の幅は本当に「めちゃくちゃ広い」としか言いようがありません。
 しかし、どの作品にも必ず「個々人の中にある問題点」或いは「個々人にとって感動するポイント」があり、だからこそ多くの人の心を掴めるのだろうと思います。
 殺伐とした社会になればなる程、私はこれらの映画──「魔女の宅急便」や「となりのトトロ」に出てくる人達の触れ合う姿に感動せずにいられません。

 宮崎作品の特徴は、必ず相互扶助で成り立っており、主人公が誰かを助け、また同時に脇役が主人公を支えという「信頼に裏付けされた関係性」が象徴的に描かれています。
 また、主人公となる人物の性格が「しっかりした自己を確立している」というのも、特徴のひとつかもしれません。サブカルチャーコメンテーターの中には、そうした「主人公が自己を確立しすぎている」という側面を批判する人も、中にはいるようですが(あれは理想論でしかなくて、非現実的だ──など)、私は「今の日本に不足している、とても大切な要素」だと思うので、かえって宮崎作品は「ああであって欲しい」と思います。
 アニメ映画に「現実性(リアリティ)」を求める必要性なんて「ない」と、私には思えるのです。
 むしろ、人々の指針となるような「理想」を描いて欲しい──、宮崎アニメにはそうした「理想」が数多く描かれている、そう私は感じます。

 人は、人と協力しあわなくなったり触れあうことがなくなったら──それこそ、「人としての価値がなくなる」私はそう思います。
 もう今から十年以上前の話ですが、こんな記事が読者投稿欄に掲載されていました。(もうだいぶ前の話ですし、記憶も曖昧になっている部分がありますがその点はご容赦ください。)
 それは、二歳の子供を持つお母さんからの投稿でした。
 ある日、お母さんは二歳の子供を連れて「スーパー」に買い物に行ったそうです。その時、初老の男性が子供を見て、あれこれ話しかけてきたそうです。
 お母さんは「当時続いていた、幼児誘拐事件」のことを思い出し、即座に警戒しました。男性がにこやかに話しかけてきても冷たくあしらい、子供をその男性から遠ざけていたそうです。
 ところが、スーパーを出た時、子供が手に「チョコレート」を握っていたそうです。お母さんは驚いて「そのチョコ、どうしたの?」と聞いたら、「さっきのおじちゃんが、買ってくれたの」と言って、子供は遠ざかる男性を指さして言ったそうです。
 その男性は、本当に純粋な「子供好き」だったのです。変な疑いを持ってしまった自分を恥じたお母さんは、遠くから声をかけて御礼を言ったところ、男性は咎める様子もなく、ただ優しく笑って会釈を返してくれたとのことでした。
 その記事の文末は、「本当に善良な人にさえも、疑いを持たなければならなくなる──こんな世知辛い世の中になってしまったことが、何よりも哀しかった」と締めくくってありました。

 私は、先日足利市で立て続けに起きた「赤ちゃんの足を骨折させる事件」を読んだ際、上記の投稿記事を思い返していました。
 赤ちゃんを抱かせたお母さんにしてみたら、気さくに若い女性(容疑者の女性は28歳だそうです)が話しかけてきて「赤ちゃんを抱っこさせてください」と言われたら、躊躇しつつも抱かせるでしょう。それが「人の情」というものです。
 しかし──それが結果的に「子供の両足を骨折させられた」ということに結びついたら──そのお母さんの心の傷を思うと、何だか居たたまれない気持ちになります。
 そのような暴行を繰り返した女性の「こころ」に一体何があったのか──どんな理由があったのか、私には分りません。
 衝動的なことなのか、計画的なことなのかさえも、その女性にしか分らないことでしょう。
 しかし、少なくともそうした事件が、先程挙げた投稿記事のお母さんのように「どんな人をも、警戒せずにいられない疑念」へと結びつける結果となってしまうのだとしたら──これ以上、哀しいことはありません……。

 私はそんなことを考えながら、「魔女の宅急便」を見ていたら、涙が止まらなくなりました。
 最初は主人公のキキを怪訝そうに見ていた街の人達が、最後にはいっせいにキキの勇気を応援している姿。あの映画を観ていていつも思うのは、ああ、人って本当は「触れあいたい」し「みんなと心をひとつにしたい」と、そう願っているのだろうなということです。
 例えば、オリンピックやサッカーなど、何かを応援する時──人は「ただ、自分の好きなチームを応援したいから行く」だけでなく、「同じ好きなチームを応援したいという仲間達との一体感」を感じたいからこそその場に行くのではないかなと、そう思うのです。
 ただチームが好きなだけで、応援したいだけというのであれば、わざわざ人混みの中を出ていったりはしないでしょう。応援席で、みなと一体になって「こころをひとつにして、応援する」──それが楽しくて、みんな行くんじゃないのかなと、そんなふうに思ったりすることもあります。

 「この次元は電気的次元であるならば、二元性(対立・摩擦)は避けられない」と、このブログで何度も言って来ましたが、電気の作用は「融合(エネルギー)」というものもあります。
 まさしく、人と人が協力(融合)しあったり調和しあうのは、この「エネルギーが生じる瞬間」なのでしょうね。
 私は、こうした瞬間に出逢えるとものすごく嬉しいし、感動します。
 私はもともと交流下手なので、あまり人前に出ることもなければ逢うこともないのですが、まったく知らない人達と「ちょっとした触れ合い」をする時に感動させられることも多々あります。

 これももう、ずいぶんと前の話(1995年頃)なのですが。
 夜9時過ぎ、新宿駅を出たばかりの埼京線が、いきなり「急ブレーキ」をかけたことがありました。
 私は友人と二人で食事をした後の帰宅途中だったのですが、夜9時過ぎとはいえ、電車の中は仕事帰りのサラリーマンや、一杯やったあとのサラリーマン、OLなどでひどく混雑していました。その急ブレーキが「本当に、あまりにも急過ぎた」ものだから、車内で立っていた人達の8割が「転倒」してしまったのです。
 勿論、私も友人も、その一部でした。
 車内には、車掌さんの慌てるような放送が響き渡りました。でも、何が理由の急ブレーキかは分りませんでした。

 何故なら──車内は「笑い」で満ちていたからです。

 みんな、あまりに急なことだったのでびっくりしすぎて、倒れ込んでしまった相手に「ごめんなさい、ごめんなさい!」とひたすら謝っていました。
 謝られた方も「いや、大丈夫です、こっちこそごめんなさい!」と謝り、あっちこっちで「ごめんなさい!」の大合唱。
 勿論、私も友人に(私の場合、友人がほぼ全体重かけて重なって倒れてしまったのですが)「ごめんね! ごめんね!」と謝られて、私も「ううん、平気だから気にしないで」と笑って答え、車内はあちこちでそんなこんなの大騒ぎだったのです。
 でも、あまりにみんなが同時に「ごめんなさい!」を叫んだものだから──何だかおかしくなったのか、みんな一斉に笑い出してしまいました。「何が原因の急ブレーキ」か、そんな理由なんてどうでもいいぐらいに、みんなその場を楽しんでいたのです。
 その後、電車は何事もなかったかのように走り出しましたが、「たった一瞬」でも、その車内にいた人達全員が「笑い」を共有した瞬間でした。

 人は──本当なら「疑念」なんて持ちたくない存在なのだと、私はそう思います。
 出来るものなら、「信じたい」。
 そして、触れあいの中で「笑って暮らしたい」。
 でも、そう出来ない現実もある。前回の記事にも書いたように、この世には「哀しみもいっぱいあるから」です。
 だからこそ、疑わざるを得ない状況だって、たくさんあるでしょう。
 でも、「信じられぬと嘆くよりも、人を信じて傷つく方がいい」──かなり古い歌ですが(苦笑)、金八先生の「贈る言葉」のこの歌詞の境地を大事にしたいと、最近とみにそう思う次第です。


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人は「楽しむ為に生まれてきた」だけじゃない。

 「みんな、楽しむために生まれてきた。だから、もっと楽しんでいいの」 
 そういう言葉を、よくスピリチュアリストの人達から聞く機会が多いです。
 それは、ある一面においては真理でしょう。でも、ひとつだけ「大切な概念」が抜け落ちている──私はそう思います。

 それは、この次元は、摩擦も対立も避けられない「電気的磁場」なのだという概念。(詳しくは「二極化した次元─電気的宇宙論─」参照)

 私は、「楽しむ」ということ自体は、否定しません。
 何故なら「苦しむために生まれてきた」なんて言われた日にゃ、何もかもが変わらない──「苦悩からの脱却」という言葉さえも否定されてしまうからです。
 しかし「自分に嘘をついてまで、『私の人生は楽しいの』」という考え方には、反対です。それは自分を偽り(上滑りの感謝同様)表向きの言葉と、本心の「乖離(かいり)」を進ませてしまうことになるからです。

 私がもし、この次元を一言で言うなら──「『痛い』よね、この次元は──」に尽きると思います。
 肉体が病になっても「苦痛」。
 精神的に傷ついても「苦痛」。
 不安があれば「苦痛」。
 お金がなくても「苦痛」。
 やりたくない仕事で時間を割かれても「苦痛」。

 電気的な摩擦も対立も、そこから一番最初に派生されるのは「痛み」だろう──私はそう思います。
 そして、現代が陥っている典型的な過ちが──麻痺
 根本的に問題を解決させることよりも、まるで逃避させるかのように「痛みだけを、誤魔化してしまう」。「苦痛」と感じているもの、すべての感覚を遮断し「麻痺させてしまう」のです。
 それが結果的には「社会における苦痛を麻痺」させたが故に噴出した「鬱病の増加」となり、
 「肉体の苦痛を麻痺」させるが故の「薬物依存」になったり、
 もしくは、「心の苦痛を麻痺」させるが故の「表面上の言葉と本心の乖離」だったりするのかもしれない──私はそのように感じています。
 すべては「意識の捉え方で変わる」──それは確かに事実です。
 しかし、それだけが必ずしも、真理のすべてではないという自覚も大切です。
 どんなに意識の在り方を変えたとしても「どうにも耐えられない環境」「どうにも耐えられない関係性」というのはあるものです。
 それを無理に「私の感じ方がいけないんだわ」「もっと受け入れなくちゃ」と思えば思うほど、表面上の上滑りな言葉と本心はますます乖離していき──ついには「本当に自分が望んでいたことが、一体何だったか」さえも、人は見失ってしまいます。
 私は、「現代言われている精神的な病」のほとんどは、こうした「乖離」が原因なのではないかとさえ思っています。

 私がこうした言葉を唱えるスピリチュアリスト達全員に「違和感」を覚えるのが、全員、恵まれた生まれの人が多いことです。
 勿論、一時的な苦労はあったかもしれませんが、結果的にはハワイ、アメリカ、日本では沖縄など、「環境が恵まれている場所」にいる人たちがほとんどです。
 中東やアフリカ、中国、北朝鮮、そうした「情勢に苦しんでいる国」からは、何故そういう「この世を楽しみましょう」という発想が生まれないのでしょうか?

 その理由につき、私は「楽観的な思考」という真理は、「地域限定でしかないから」だろうと推察しています。
 通用する地域もあれば、通用しない地域もある。
 でも、そんなものは「森羅万象の真理」とは言えません。

 私は、「だからこそ」もっと広い視野で世界を見た方がいい──そう思います。
 勿論、誰だって「幸福に生きたい。自分の思うような人生が生きたい」そう思っているはずです。それは、私だって同じです(苦笑)。
 カヴァーロ曰く、高次元(クラリオン星人)達は、「自己独立し、自分の役割を認識した全体調和の中で、生きることそのものを、楽しんでいる」のだそうです。
 私自身も、同じことを離脱先で聞いています。
 「みな、ひとりひとりが自分の役目を理解し、自分が適した場所に住み、そうした個性の表現が結果的に『大いなる全体の調和に繋がる』ことを楽しみに生きている」と。
 楽しむというのは、表面的な「楽しむ」ではないのです。
 「自分の個性にあった仕事、自分がしたい役目を全うすることこそ」が、「本当の意味での楽しみ」なのだと思えるのです。

 では、「だとしたら、自分はどんなところで、どんな役目に生きるのが幸福なのだろう」──そんなふうに考えるのも、いいかもしれませんね。そういうことを考えていると、自ずと「意識の振動数もあがっていく」と、そう思います。
 私自身は、今の自分に結構「満足」しています。
 でも、おそらく外部から見たら「発狂しそうな生活」だと思いますよ(苦笑)。
 数時間読書をしたり、そうかと思うと数時間も執筆したり、それを元にあれこれ色々な構図をノートに書き散らしては考察したり──「そんな生活の、どこが楽しいの??」と聞かれそうですが、いやいや──私にとっては「これが、楽しくて仕方ない生活」なのです。
 たったひとつの服を探すのに何時間もあちこちのデパートを歩き回るだの、ブランドもんがなんだの、「今年の流行は何色だ」とか、「どこどこのレストランの何が美味しい」とか──そんなことの方が私にとっては遙かにつまらないことであって、「退屈極まりない」のです。
 ですので「個人によって楽しみというのは『個人差がある』」ということも、また大きなポイントのひとつなのかもしれませんね。ある意味、これも「ひとつの個性」なのかもしれません。
(もっとも、ひとつだけ満足出来ないのは──「今住んでいる場所が、住宅街だ」ということです。私は音に異常な程敏感で、自然音以外の生活ノイズに対して、とても「ストレス」をためる性分だったりします。ここ最近それが悪化しているので、「山奥の一軒家に住みたい」と強く願っていますが──なんと、希望通りの物件が「あった」のです。その願いも叶ったら本当に「すべてを楽しめる」、そう思いますね。)

 私は仮に、自分が「すべての幸福の境地に立てた」としても、それを振りかざすように「みんなも楽しみましょう!」と言うことは、まずないでしょう。
 何故なら、この次元は、摩擦や対立によって生じる「痛み」を学ぶ場でもあると、そう感じているからです。
 私がどんなに満足出来る状況になったとしても、私は地球上にある哀しみや苦悩、人類に認知されないまま消えていく絶滅種達、悲鳴をあげている自然の中に意識を投じ、彼らと共に私も痛み、哀しむでしょう。

「人は、楽しむために生きてきている」──それも一理あるでしょう。
 でも、それよりもっと尊いのは──「他者の痛みを自分の痛みとして感じ、その為に涙し、行動することなのだ」と、私はそう思います。  


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日本は今、「海図を失った船」になりつつある。

 鳩山首相が、引退表明しましたね……。
 一年も保たない内閣でした。この件で多くの人が、様々な思いを抱えていることでしょう。
「問題を中途半端にしたまま、何故引退するのか! 無責任じゃないのか!」
 そういう意見が、報道のほとんどに散見される印象を受けました。

 しかし──待ってください。
 本当に無責任なのは、鳩山首相でしょうか?
 何故国民はいつも、代表者ばかりに責任を押しつけ「政治が変われば、国も変わる」という考え方に固執してしまうのでしょう。
 これは明らかに「他力本願的」な考え方でしかなく、自発的に自分たちで変わっていこうという姿勢のものではない──私はそのような印象を受けています。

 例えば、あれだけ小泉ブームと言われていましたが、いまや小泉首相を「日本の売国奴」といって叩いているコラムニストや評論家は多いです。
 しかし私は(ここで何度も言ってきたように)「叩くべきは『個人』ではなく、『既存システム』だ!」という考えに立っています。
 小泉首相の時は靖国参拝が問題視されていましたが、一番大きな問題点──戦犯は、戦争に負けたから戦犯と呼ばれるようになったのであって、勝っていたら「英雄扱い」されたのだという矛盾に気付いてない人が多いというのは、大きな問題ではないでしょうか?
 それは明らかに、戦争を「戦犯となった人だけ」の責任に押しつけ、自分たちは被害者だという「受け身の姿勢」でしかないと思います。
 ドイツの戦争特集番組を見ていた際(かなり昔ですが)、アウシュビッツの問題に対し、「当時、私たち民間人もおかしくなっていた。ヒトラーやその周りにいた人たちだけでなく、翻弄されていた自分たち国民にも責任はあった」と答えた男性がいたのは、非常に印象的でした。
 一般人であるその男性の言っている言葉は、とても正直で、的を射たものでした。
 しかし、日本で同じ質問をしたら──どういう答えが返ってくるでしょうか?(もっとも、ほとんどの方は高齢者となってしまっているでしょうが。)

 日本の政治を「人間の肉体」で喩えたら、患部である傷口はどんどん化膿して酷くなっているのに、「まったく関係ないところ」を治療しようとして、傷口の化膿はそのまま放置されているような印象を受けます。
 おそらく、今後「誰が首相になったとしても」、問題は解決されないでしょう。
 少なくとも、日本国民の意識と、マスコミの意識が変わらない限り。
 私は、鳩山首相に心から同情している、数少ないひとりかもしれません。
 鳩山首相は非常に抽象的な概念を口にしていましたが、本来、理想がなければ何も生まれないし、創造(クリエイティブ)も出来ないのです。しかし、そうした精神を、周りの「三次元的ノイズ」によって混乱させられてしまったのかもしれませんね──。

 私が「死んでもなりたくない職業」のひとつに「政治家」があるので、本当に、鳩山首相には「ご苦労様でした」と心から言ってあげたいです。
 日本は「誰が首相になったって、『必ず叩かれる国』なんだ」ということを、もう少し私たちも弁えるべきなのでしょう。だったら、マスコミの視聴率稼ぎの為の「パフォーマンス的(ディベートにさえなってない)トーク番組」を見るよりも、「一国の首相になった以上は、応援してあげる」という姿勢を持つよう心がけていきたい──私は少なくとも、そう思っています。

 それにしても。
 これだけ短期間で政治もコロコロ変わり、日本の情勢も「決して安定していません」。
 「そんなことない。日本は『神の国』だから守られている」と相変わらず主張している方もいるようですが、きっぱり、私は「もっと現実を見た方がいいですよ」としか、言いようがありません。
 どんなに現実で起きていることに「蓋」をして見えないフリをしても、「起きているものは、いずれ結果に辿り着くしかない」のですから、それなら、そこを真正面から見つめ「自分が今、出来る最善のこと」を考えた方がいい──私はそう思うのです。

 日本は今、進むべき道を見失い、舵も壊れてしまって座礁しかかった船のようになってしまっているのかもしれません。
 しかし、「希望はないわけではない」──私はそう思います。
 まずは、「何故、日本がこのようになってしまったのか」を再度振り返り、改めて問題点に立ち返って国家の理想を意識することから始めるのがいいのかもしれません。
 「理想なんてものは無駄だ」という政治家もいますが、それは違います。

 理想は「船を進ませる為の海図」です。

 海図がなければ、船はどこに行けばいいのでしょう? 沈没船ばかりの船の墓場に導かれるかもしれないし、或いは、氷山に囲まれた極寒の地に辿り着いてしまうかもしれない──。
 でも本来、「海図さえ、しっかりしていれば」、党が「なに党」であったとしても、しっかりした方向性へと船(国)を導かれるはずなのですので。(党にさえも「海図」がないのは、現状かもしれませんが──)

 今の政治家の方に必要なのは、理想だと私は思っていますが──鳩山首相は、少なくとも「それをお持ちの方」だとお見受けしていました。
 しかし、三次元の拘束が、あまりにも強すぎたのでしょうね……。
 それと、おそらく「優しすぎた」のかもしれません。もっと「はっきり、押し通す姿勢」も必要だったのかもしれませんが──。

 日本は、海図を手に入れないまま──果たして、どこへ行くのでしょうね。
 刻々と変わりゆく時代の中で、ただひたすら私は「今」という瞬間の中に隠れた「波」を、ただただ感じ取り、ただ大きな波に委ねて日々を感じて生きていこう──そう思う次第です。


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グアテマラの異変

 先月の27日、グアテマラで火山噴火があり一時的に空港閉鎖されましたが、アイスランド噴火の時同様、あまり日本では騒がれていない印象を受けました。
 ブログを以前から読んで下さっている皆様はご存知のように、篠崎はアイスランド噴火(4月14日の噴火)時にイギリスにいた為、空港閉鎖により長期滞在を余儀なくされたのですが、日本のYahooなどを見ている限りでは、あまり注目されている印象はありませんでした(イギリスでは連日速報扱いでしたが)。
 日本でアイスランドの噴火に注目し始めたのは、噴火から約三日経ったあたりの頃からでした。その体験を通じて私は、「いくらインターネットが世界に広がっているといえども、なかなか言語の壁は超えられないのかもしれない」──そう思いました。

 そして、グアテマラでも「同じこと」が起きているような印象を受けます。
 グアテマラの噴火の情報は、死者数が少なかったせいか(本来、死者数で分けるのはおかしいことですが)あまり注目されている印象は受けませんでした。
 しかし、今日──私が見かけた「イタリア版Yahoo」で、驚くべき写真が載っていました。

 http://it.notizie.yahoo.com/foto/galleria/foto-voragine-guatemala.html

 これほどの巨大な穴が空いた理由については、現在地質学者も調査中だそうです。
 この原因を火山活動に結びつけるのは早計かもしれませんが、何らかの関係がある可能性も否定は出来ないでしょう。

 しかし、私がこういう記事を見かけるたびに思うのは、まだまだ、世界は開かれていないということです。
 私はインターネットをする際、トップページに「日本」「アメリカ」「イタリア」(先日までは「カナダ」も開いていました)が開くように設定されていて、ざっとではありますが「トップの記事」に何が来るのかを比較するようにしています。(トップ記事に何が来るかで、その国の特徴が掴めるからです。)
 先日、「鳩山首相のシャツのセンスが悪い!」という記事がアメリカとカナダに掲載されていましたが、日本では掲載されていませんでした。また、UFOに関する記事がカナダに掲載されていましたが、勿論、日本とアメリカには掲載されていませんでした。
 これは「言語の壁」は勿論かもしれませんが、言語の壁はイコール「国民性の壁」とも言えるかもしれません。

 今回、私がこのグアテマラの記事を掲載したのは、皆さんに変な恐怖心(精神世界特有の「情報隠謀論」だの「2012年問題に直結してる」だのといった恐怖心)を植え付ける為ではなく、如何に私たちは、限られた価値観の中で生きているかということをお知らせしたかったからです。
 世界ではまだまだ、報道されてないだけで色々なことが起きているでしょう。地球規模の視点で、もっと私たちは情報に敏感に──かつ、洞察力を深める必要があるのかもしれません。

【2日1:09追記】
 先ほど調べたところ、アメリカのYahoo、および日本でも読売新聞のデータでグアテマラの記事が掲載されていました。
 それにしても、すでに水害で123人の人が亡くなっているというのに、その報道は今までになく、この巨大な穴が出来てようやくグアテマラの情報が報道されるというのは──やはり言語の壁はもどかしいものですね……。


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プロフィール

篠崎由羅(しのざきゆら)

Author:篠崎由羅(しのざきゆら)
1970年生。幼少期から哲学・宗教学に造詣を深める。思想および思想史、それに付随した国際事情に興味を抱いて独学を続け、大学ではインド哲学科専攻。東西問わず、両者の思想に渡り研究を深める。

現在は看護師として施設で勤務しながら、その傍らで執筆活動を続けている。2016年11月にYOU are EARTH改め「WE are EARTH」の活動を再始動予定。より良い未来の地球のため、全力を尽くす誓いをたてている。

【篠崎編集担当】


【篠崎の著作本】

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