現在、私は先日お知らせした「日本人の精神改革」に関する原稿をまとめる為、様々な資料にあたっています。
(ちょっと雑談ですが──二作目は次元に絡む作品なので相対性理論やひも理論などの最新物理学を、今回の原稿は日本の歴史や民俗学をと、何だか「食あたり」しそうな組み合わせの書籍群を、毎日数時間かけて何冊も読んでいます。真理探究者とは、別名「暇人」と言えるのかもしれません((苦笑))) そんな中で──
真実とは認めたくないけれども、しかし日本人の特性として「明らかに存在するだろう哀しい性質」に気がつきました。
それは、社会学の研究対象としても高く評価されている山本七平氏の著書「空気の研究」に掲載されていました。山本氏は「日本の道徳は
差別の道徳である」と述べています。
以下、その実例箇所を転載します。
私は簡単な実例をあげた。それは、三菱重工爆破事件(※wiki参照)のときの、ある外紙特派員の記事である。それによると、道路に重傷者が倒れていても、人びとは黙って傍観している。ただ所々に、人がかたまってかいがいしく介抱していた例もあったが、調べてみると、これが全部その人の属する会社の同僚、いわば「知人」である。ここに知人・非知人に対する明確な「差別の道徳」をその人は見た。これを一つの道徳律として表現するなら、「人間には知人・非知人の別がある。人が危難に遭ったとき、もしその人が知人ならあらゆる手段でこれを助ける。非知人なら、それが目に入っても、一切黙殺して、かかわりあいになるな」ということになる。この知人・非知人を集団内・集団外と分けてもよいわけだが、みながそういう規範で動いていることは事実なのだから、それらの批判は批判として、その事実を、まず、事実のままに必要がある、それをしないなら、それを克服することはできない。(「空気の研究」P12~13 文春文庫) これを読んで、皆さんはどう思われたでしょうか?
私は「まさしく、その通りだ──」と肩を落としました。
山本氏の指摘は的確です。しかも、その指摘が
20年以上も前にされているにも関わらず、日本人は未だ、その性質が克服されていないのです。 ネット社会が、そのいい例かもしれません。
私はブログにコメント欄をつけていませんが、実は3年ほど前から、掲示板にしろコメント欄にしろ、
誰のブログにも、(余程の事情があれば別ですが)コメントしないという姿勢を貫いています。
2001年頃、まだこれほどネットが浸透していない頃は、あちこちのHPや掲示板でコメントをしていました。自分で言うのも烏滸がましいですが、当時は「常連書き込み者」として有名だったぐらいなのです。
しかし、そうするうちに「知人・非知人」という目に見えない奇妙な膜のようなものが出来ていることに気付き始めましたのです。
そしてあたかも、「非知人」の人に対して「暖かく仲間として迎える」というよりは
「私は長いことここにいる常連だから、あなたよりも先輩なのよ」的な、意味不明な先輩風を吹かせる人や、そうした新たな参加者に対して到底理解しがたいような稚拙なコメントを目にする機会が増えてきた為、ネットをコミュニティとして使用するという行為から身を引こうと、そう決意した次第です。
こんな事例もあります。
今から10年近く前の話ですが、1日に数百人以上(閲覧のみの人もいれたら、千人以上)集まる掲示板の中で、今まで一度も書き込みのしたことのない人が、「ちょっと批判的な内容」を書き込みしたことがありました。
それに対する攻撃は──もう、言葉に言い尽くせない程です。
攻撃、というよりも「中傷」ですね。
その人のコメント内容に対する「正当な反論」ではなく、一方的な「ののしり」だったのです。
しかし、その人は常連書き込み者ではなくても(確かに「初めまして」といった挨拶がなかった、などの問題点はありましたが)、
言っていることに、筋は通っていました。どんなにそれが批判的な内容であれ、確かに「正論」だったのです。
私は即、その点を伝えました。同時に「何故、みながこんなに躍起だってこの人を攻撃するのか、理由がわからない」と。
「この人の言っていることは正論です。ただ、『見方が違う』というだけに過ぎない。それに、ここは掲示板であって、自由の発表の場でしかないはずです。そうである以上、どんな意見があったっていいのではないですか?」とも。
すると──どうでしょう。今度は、今まで中傷していた人達が「手のひらを返した」ように、その人を擁護しはじめたのです。
その理由はおそらく「常連書き込み者」である私が、その人を庇ったことが原因だったのでしょうね。もしくは一時的な感情論で中傷してしまったことを恥じて、考え直したか──。
でも、メールであれ掲示板であれ、何か文章として残す時は必ず「一考」すべきです。感情論で何でも書けばいいというものではありません。
ちなみに、その人の書き込みはそれきり「二度と」ありませんでした。正論を言えるだけの思考力と考察力の持ち主だったので、「この集団はダメだ」と、見切ったのかもしれませんね。
私は、こうした事例をいくつか目にしてきた為──もう他者のブログやサイト、掲示板でコメントするのを「いっさい控える」ようになりました。
そこにあるのは「自由な表現、討論の場」ではなく
知人同士による馴れ合いの場に成り下がっている──そう思ったからです。(とくにブログが普及してから、その現象は顕著になりました。私はこうした交流の在り方を「コミュニケーションの『たこ壺化化現象』」と呼んでいます。)
2ちゃんねるなどを見れば、その特徴はすぐに分ります。あそこは、ハンドルネームが「流用」されていて、固定ではありません。だからこそ「知人・非知人」の境なく、思う存分に(一部無責任とも思えるような)発言も出来るのでしょう。そういった意味ではただ闇雲に2ちゃんねるの在り方を否定するのではなく、「利点はある」と言うことが出来るかもしれません。
ツイッターなどは、その点「コミュニケーション概念」は二の次です。ただ「好きなことを、呟けばいい」。そして、「それに反応した人だけが、答えればいい」。ここに、知人・非知人の境はなく、あるのは「書いたコメントに対する反応のみ」です。もっとも、「その人の本質や、価値観の裏付けをとる」のにツイッターは不向きですが、表向きで「知人・非知人の枠を取り払った簡易コミュニケーション」という意味では、一役担っているのかもしれませんね。
日本人は未だに、こうした「知人・非知人」という概念を捨てきれていないのかもしれません。
その現実に、本来「もういい加減、気付くべきなのだ」と、私はそう思います。
もっとも最近では、少しずつ都心などにおいて「知人・非知人」の境界は薄れてきているかもしれません。実際、2008年に秋葉原で起きた通り魔事件の際も、そこに居合わせた人達のほとんどが(みな、救護は素人だったでしょうに)一生懸命助けようと努力したと聞いています。(その一方で、そうした惨状を携帯カメラで撮りまくるという、山本七平氏でさえも当時想定出来なかったような人達も存在はしましたが。)
こうなってくると、日本人の奥底にある「哀しいサガ」を意識的に乗り越えられるか──或いは、思考せずに「そのまま、それを表に出すか」の違いによるのかもしれないと、そんなふうにも思えてきます。
一方、地方ではまだ──「知人・非知人」の境界は明確なようです。
かつて、こんな話を聞いたこともありました。
私が6年ほど前に勤めていた会社でバイトをしていた青年(A君としましょう)が、とある島で「スキューバーダイビングのインストラクター」をしていた時の経験談を話してくれました。
その島は小笠原諸島の一部、小さな島だったそうですが(名前を言うと「今後、自分の仕事に支障があるから」と、伏せられてしまいました)、彼は繁忙期には数ヶ月間そこで暮らし、観光客相手に仕事をし、繁忙期を過ぎると東京に戻ってきてバイトをする──という生活を繰り返していたそうです。
そんなある日、巨大な台風が島を通過することになりました。
島の人達はみな台風に備える為、準備を始めたそうです。A君もそんな天候では仕事にならないので、しばらくホテルに籠もって台風が過ぎるのを待つことに決めました。その為の食べ物を備蓄しようとしてスーパーに入った際、あろうことか「販売を拒否」されたそうです。
A君は驚いて「何でですか?」と尋ねました。すると、店主はこう言ったそうです。
「あんたは『よその土地』の人だ。この緊急時に、よそ者に売れるものはない。ここにあるのは、この島の人達だけのものだ」
A君は、その言葉にひどくショックを受けたそうです。
A君自身はその仕事をもう何年もやっていて、来るたびに数ヶ月間滞在し、「いずれは、ここで暮らしたい」とまで思っていたそうです。
その店主とも、決して「非知人」という間柄ではなかったのですが──たった「よその土地の人間」という理由だけで、食糧を売ってもらえなかった事実は、たいそうA君の心を深く傷つけたことでしょう。A君が台風が過ぎ去るまでの数日間、どのように暮らしたのか──想像するだけで辛くなります。
台風という緊急時だったから──という見方も出来ますが、私はそれにしても「あまりに閉鎖的だ」と思いました。
こういう事例は、枚挙にいとまがありません。
1997年に起きた奈良県月ヶ瀬村の事件も、その一種と言える事例でしょう。
犠牲となった女子中学生の方は本当にお気の毒だし、遺族の方の痛みも分ります。しかし、容疑者の証言の一部に「30年暮らしているのに、未だかつてよそ者扱いされている」という言葉から憶測されるような「村八分」的鬱憤が事件を引き起こしのだとしたら──これほど、哀しいことはありません。
広島で起きた女児殺害事件も、閉鎖的な日本の社会を表しています。容疑者はペルー人でしたが、ほとんど日本語は「片言」でしか喋れなかったそうです。
単身で海外に行った経験のある人であれば痛感するでしょうが、「言語の壁」というのは想像以上に、その人を不安にさせるものなのです。特に日本であれば──ことさらにその差異は大きく感じられたことでしょう。
当時、電車の中吊り広告に「外国人はもう日本にいれるな!」と書かれたものさえありました。
それは明かな「極論」です。外国人が女児殺害をした比率と、日本人がした比率、一体どちらが多いというのでしょうか? そういうヒステリックな記事を見るたびに、私はうんざりした気分にさせられます。
出版本の原稿に詳しく書きますが、こうした「民族の性質」というのは「血脈」とか「遺伝」はいっさい関係なく、
日本の土壌に根付くものなのです。
ですので、「自分は半分外国人の血が入ってるから大丈夫」とか「私は純粋な日本血脈じゃないから問題ない」ということに影響あるのではなくて、
日本の環境・日本の風土を無意識に受け入れてしまっていると、そうした結末に陥る危険があるのです。
もう20年以上も前に、そのことを山本氏は警鐘していたのです。
「批判すべきところははっきり批判して、克服すべきだ」と。
今になってようやく、その警鐘に耳を傾け、改善すべき時代が来たのかもしれません──。
地球に生きている以上、
みんなが仲間であり、みんなが兄弟のはずです。 自分が好きとか嫌いといった感情論抜きに、意見があうとかあわないとかそういった思いこみ抜きにして、みなが手を取り合えるようにならなければ、地球は決して生まれ変われないでしょう。
三次元における「電気的な摩擦」を乗り越え、融合的になるべくして、私たち日本民族の「伝導体気質」はあるはずです。その力を、決して「知人・非知人」で分別させてはいけない──私は強く、そう感じています。
●多くの方に、「真剣な目で地球人類の進化に意識を向けて欲しい」と、強く願っています。
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【参考文献】
※エハン氏ブログ「シンクロニシティ」6月16日、更新しました。
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