あなたの運命を知っているのは「あなたしかいない」

 先日、「自分がこれからどうなるのか、占って欲しい」という依頼を受けました。
 私は滅多に依頼を断らないタイプですが、(1)礼儀知らずで、人の誠意にあぐらをかく人および(2)占いを「逃避」の材料にだけ使ってしまい、そこから自発的に自分を変えていこうとしない人に対しては、容赦なくお断りしています。

 今回は(2)にあたるケースだったので、きっぱりお断りしました。
 ここでも何度も申しましたように、時代はすでに「独立独歩」の時代に差し掛かろうとしています。自分で自分の人生を選択出来るようになっていないと、次なる時代は迎えられない──そう断言してもいいぐらいです。

 そもそも私が「占術」を研究し始めたのは、10歳の頃からでした。
 幼少期から体外離脱という、普通にはあまりない体験を繰り返していた為(あまりにそれが普通なので、誰にでもあるものだと思っていました。ある日、友人から「そんな体験はない」と言われ、ひどくショックを受けたぐらいに──)、その事情を知りたいと願い、あらゆる方法、あらゆる手段で「その理由」を求めたのです。
 占術に手を出したのも、それがひとつのきっかけでした。

「私のこの体質は、『宿命的なもの』なのか。或いは、ただ偶然なのか──」

 私が10歳の頃、一番メジャーだった占星術師はルル・ラブァ先生です。とても美人な方で、おそらくこの人が一番最初に日本で西洋占星術をメジャーにさせた方だと思われます。
 私は「ちゃかした文章」というのがどうにも嫌いだったので(これは「今も」です。どんな本でも、どんな有名な先生でも、ちゃかしたような文章しか書けない人の本は絶対に手を出しません)──立ち読みして「この人とは合わない」と思った著者の本は読みませんでしたが、それ以外でしたら占術に関する「あらゆる本」を読んだ、と言っても過言ではありません。
 10歳の頃から西洋占星術を始め、14歳でタロットを始めました。
 18歳からは東洋占術も始めましたが、西洋占星術とは仕組みがまったく違う為(西洋占星術は星の運行表を使いますが、東洋は暦なので)その時点で占術の根拠が不明瞭となり、理解不能となった為、東洋占星術については先生について習うことにしました。(余談ですが、「四柱推命は、複雑なので先生に習わないとわからない」なんて言ってる人がいるそうですがそれは大嘘です。その人はきっと、もっと複雑な紫微斗数占術の存在やインド占星術の存在も知らない人なのでしょう。四柱推命はごくシンプルでわかりやすく、しかも、めちゃめちゃ単純です。これを難解だと言って自慢するような人には、くれぐれも鑑定依頼しないようお薦めします。)
 こう言ってしまっては何ですが──私は「恩師に恵まれる」ということがたびたびあるタイプで、高校時代、荒くれていた時も二人の恩師に救われましたし(ひとりは一年で異動しちゃいましたが)、占術に関しても例外なく、素晴らしい恩師に恵まれることが出来ました。
 この方はかなりの実力者で、(支障があるので個人名は出せませんが)ネットなどで活躍している占術師のほとんどが、その先生の弟子か、或いは知人・友人だったりする程です。(一回の講義に高額を取るような、偽物占い師とは格が違います。)
 ですが、この先生はそうした「深遠な智慧」をあまり世には出していません。理解してもらえないからなのか、或いは、何か理由があってのことなのか──いずれにせよ、講義では言わないような内容についてまで、その先生は私に惜しみなく東洋占術の極意として教えてくださったのです。

 また、独学で「インド占星術」もしました。インド占星術は非常に複雑なシステムで、本来「分割図」まで観ないといけないのですが──日本のインド占星術師を名乗る人も、分割図まではうまく応用出来ていないようです。(本来、そこまで応用出来ないのであれば「インド占星術師と名乗るべきではないのではないか?」と私は思うのですが──)

 私がここまで占術をあらゆる角度から分析したのは──別に占い師になる為ではありません。
 そうではなくもし人が何らかの理由があってこの世に誕生しているのなら、その理由が必ずどこかに表されているはずだそう思ったからです。
 私にとって「占術」は人類の起源を探る先史文明の探究ひとしく個人の起源を探る探究だったのです。

 ですが──今はどうでしょうか?
 占いは今や、学問ではないただのエンターテイメントに成り下がっています。
 もっとも、先日も言ったようにセラピーもヒーリングも占いもコーチングも、今後は不要な時代となりますので、そうなってしまっても「仕方なかったのかもしれない」そんな思いもあります。

 人の人生というのは──不思議ですが、自分が一番、分かっていたりするものです。
 自分が分からないようなことを、何故、他人が分かるというのでしょう?
 どんなに「あ! 私、こうなりたい。これやりたい」と思っても、うまく行かないことは誰にでもあります。
 そうした時に、「運命のせい」にして逃げるか──或いは「自分の努力が、どこか足りなかったのかもしれない」そう考えて改善していけるか──私たちにはこの二者の選択が常に与えられているのです。
 そして、どちらの選択が、より望ましい未来を開拓するか──それは、言うまでもないですよね(笑)。

 私は、冒頭で書いた方にお断りする際、こう伝えました。
「本人が自分の人生を『自ら創造していこう』という努力をしない限り、占いでいい結果が出ようが、悪い結果が出ようが、何も『変わらない』んですよ。」と。

 私自身が(望んでいたわけではないのですが、流れ流れるうちに)鑑定士として3桁近い人を占った中で得た感想としては──みんなすでに、自分がどうなるか分かっていたということです。
 分かっていたことを、あえて「他者から口に出してもらいたかった」──それだけなのです。
 だったら、そんな遠回しをしなくても自分で決意すればいい──ただそれだけのことだと、私には思えます。

 世の中、心配なことなどあげたらキリがありません。
 しかし、すべては「宇宙の采配」でしかないのです。
 明日死のうが、今この瞬間私の上に「隕石」が落ちてきて死んでようが(笑)、すべては「私の人生」です。 

 それなら余計な不安なんて抱くことなく、今、この一瞬を大切に生き抜いた方がいい──。
 私は強く、そう思います。


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「アセンションは健康体じゃなくちゃならない」ということへの反論

 まぁ、ワールドカップ程ではないですが(笑)、如何にアセンションするかということで精神世界分野は話が持ちきりのようですね。
 その中で散見される──私がどうしても納得が出来ない説が、ひとつあります。(いえ、細かく言えばいっぱいあるのですが、とりあえず挙げるとすれば「ひとつ」ですね。)

 健康体でなければ、アセンション出来ない。

 これははっきり「あり得ない」断言出来ます。
 何度も申していますように、アセンションというもの自体が意識周波数におけるレベルの高低で決まるものなので、物質レベルである肉体が健康か否かなんていっさい関係ないからです。
 しかし、それを素直に「本当だ」と信じ、一生懸命、肉体健康を維持しようとする人達も大勢います。
 それはそれで、いいことだと思いますよ。
 ですが、私が最も納得いかないのは──すでに病気を持っている人達に向かい「あの人達はアセンション出来ない人だ」と括るような目線で見ることです。

 一番分かりやすい例で言えば──「イエス・キリストの復活」が挙げられるでしょう。
 もともと「アセンション」は、イエス・キリストの「復活→上昇」から来た言葉です。
 その「アセンションの語源の由来となったイエス・キリストの体」は──亡くなった時、果たして健康体だったでしょうか?
 ──いいえ。鞭を何度も打たれ、血まみれになって、肩は脱臼し、手首に杭を打たれ──人間の中で最もひどい状態で死を迎えたにも関わらず、彼はアセンションしたのです。
 この例からすでに、肉体の健康がアセンションとはまったく関係ないことが、充分お分かり頂けるかと思われます。

 勿論、健康体を維持したくて「健康法」をすること自体は、悪いことじゃありません。どんどん率先してすべきだと思いますし、「おらぁ、体のことなんかど~でもいいんだ」と、毎日浴びるようにアルコールを飲むなんて無茶するよりは遙かにいい、そう思います。
 しかし、アセンションに関して肉体の健康法が差異を設けるという考え方には、私ははっきりと「異議」を申し立てます。
 本当に大切なのは「意識の在り方」──こころの在り方です。

 私は自分が子供の頃から病弱だった為、「病気の痛み」や「苦悩」がよく分かります。
 今も実は、38.7度の熱があります(笑)。
 これは毎月出すものなので自分でも分かっていることだし、逆にこういう状態の時の方が「三次元を浮遊して、大いなる智慧」とコンタクト出来る場合もあるので、あまり自分の病気について気にしたりしてはいません。
 ただ、ひとつだけ気になるのは──健康で生まれている人ほど、病気の人に対する思い遣りが欠ける人が多いということです。
 その為、「病気をしたことがないことを自慢にしている人(その人は『自分は霊位が高いから病気をしない』と勘違いしていたようです。ものすごくお金と物質に執着心がある自分の性質については、まったく気づいていない様子で)」から、何度心ない言葉を言われたか分かりません(苦笑)。
 ま、いちいち気にしていても仕方ないし、逆に「自分は病気の痛みが分かる分、他者の痛みに敏感になれる」ということの方に、私はむしろ感謝している程です。
 健康体でも人の痛みに鈍感になるぐらいなら、私は「病気の体」を、自ら選びます──。

 私は自分がこんな体調のせいか、電車内などで体調が悪くなった人を見抜くのが、妙に得意だったりします。
 自分自身、何度も電車内で体調が悪くなったことがあるから、その辛さが良くわかるから──というのもあるのですが、そういう人達に向かって優しく対応する人も勿論いますが……半数は「迷惑そう」な顔をします。
 中には、不機嫌そうな顔を露骨に出して、思いっきり舌打ちする人なども。
 大切な商談があって、それに「遅れられない」という事情がその人にはあったのかもしれませんが、だったら一本電話をいれて、「すみません、今、車内で体調が悪くなった人が出たようで電車が止まっているんです。5分ほど遅れてしまうと伝えていただけますか」とか、連絡すればいいだけの話ではないですか。

 私はこういう現場に居合わせる度に──他者に対する思い遣りが欠ける人というのをみる度に、本当に嫌な思いをします。
 仮にその電車内で、健康体の人だけが、アセンションするとしましょう。

 体調不良になってしまって、「すみません、すみません」と、青ざめた顔をしながら駅員さんに感謝の礼を述べる人。 
 舌打ちして、「早く電車動けよ」と言わんばかりに、イライラして貧乏ゆすりしている人。

 皆さん、一体「どちらが、正しくアセンション出来る人」だと思いますか?

 余談ですが。
 私は準看護師の免許をもっているので、19歳の1年間「人工透析」の病院に勤めていたことがありました。
 そこには、21歳という若さですでに「5年以上」人工透析をしている人もいたのです。
 人工透析は、「決められた日数」通院して「体内の血液を濾過」しないと、尿毒素で亡くなってしまうという人達が集う病院です。
 そこには退院がないのです。治ることがないので(私が勤めていた当時は、ですが。)
 あるとすれば、「腎臓移植」による治療ですが──私が知っている限り、成功した患者さんは「ほとんどいません」でした……。

 でも、患者さん達はみな「明るく、陽気な人」ばかりでした。
 一日おきに、何時間もに渡る「透析」を受けなければならないような、そんな試練を背負ったような人達には到底見えない程に。
 勿論、食事制限もありますし、飲み物の制限もあります。喉が渇いていても「思う存分飲めない」という事情がどれほど辛く、厳しいことか──想像出来ますでしょうか?

 私は、そういう人達を大勢みてきた分、健康体じゃないとアセンション出来ないと考える人達には、真っ向から反論しています。
 むしろ、そうやって「肉体」に執着している時点で──すでに「違う道にずれているのではないか」とさえ思えるのです。

 健康の維持は「三次元での生活」を楽しむ為のものであって、高次元に行くのに必要なものではないのです。(その証拠に、カヴァーロは怪我をした際、宇宙船の中で治療をしてもらった体験談を書いています。肉体が病気だろうが何だろうが、ぶっちゃけ高次元の「科学文明」には「関係ないこと」なのです。)
 そのあたりをはき違えてしまうのは、かえって「危険」だと──私はつくづく思う次第です。


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無意味な法律は、「魂のコミュニケーション」さえ奪いかねない

 最近、参院選が近づいているせいか、あちこち選挙活動の活発化が目立ちますね。
 一昨日などは、街頭演説で二者が合流してしまい、一触即発の事態になりかけた──なんて記事も見かけました。
 しかし、おかしな話ですね。何で国民を代弁しようとする代表者達が、一触即発になりそうな緊張感を生み出すのでしょうか? 
 その時点ですでに、まだ人格の未発達を露呈しているように感じるのは、私だけでしょうか?
  国会中継などでも、大の大人がとっくみあいしたり罵りあいしたり野次とばしたりしているのを見ると、つい私は苦笑してしまいます。
 「パイレーツ・オブ・カリビアン」という映画、皆様は観たことがありますでしょうか? 有名な映画なので、一度はご覧になった人もいるかと思いますが──あの三作目に「海賊王達の評議会」が行われる場面があります。
 9人の海賊王と代表者達が一堂に集う大事な場面なのですが──意見の食い違いがおこった途端、そこからはもう大乱闘。
 敵である東インド会社が迫り来るという危機的状況を前に、海賊達は自分の主義主張を押し通そうと、争いまくるばかり。
 それを見て、ヒロインのエリザベスは「……呆れた」と呟きますが、ジョニー・デップ扮するジャック・スパロウは、吐き捨てるようにこう返します。
「これが『政治』さ」 
 ──上記のような記事を読むと、私は「現状の政治家も、海賊達と大差ないのでは?」と、苦々しく思ってしまいます。

 主義主張というのは「突き通せばいい」というものではなく、相手の言い分にも耳を傾け、合意出来る点を探すことに意味があるはずです。そういう政治家の方達には是非、「止揚(アウフヘーベン)」という意味を充分理解した上で、国民の代表になってほしい──そう思います。
 「若者の政治離れ」と、まるで若者が政治に無関心であるかのような責任転嫁をするに、自分たちは理念ある活動が出来ているのかを、まずは考えてみて頂きたいと、願ってやみません。

 そうした政治家達から発した無意味な法律が、かえって国民の自由度を失ったり「こころを失わせる結果」になることもあります。
 そのいい例が個人情報保護法です。
 これは2003年に成立し、2005年の4月から施行されました。この法律は個人を特定出来ることについて、漏洩しないという目的からたてられたものですが──実際問題、どうでしょうか? 
 未だに続く漏洩の現状「おれおれ詐欺」の増加
 まったくもって、役に立っていません。
 この法律が出来た背景のもっとも大きな一因は政治家スキャンダルに対する圧力だったという説が有力ですが、法律施行前と後を比べて「何も変わってない」──むしろ窮屈になった事実を思えば、政治家側の一方的な都合でしかなかった、と言われてしまえば「なるほどね」で納得出来てしまうような気がします。

 例えば、皆さん。よく聞く「○○銀行の個人情報が何万件流出してた」「○○企業の個人情報が流出していた」となった際、仮に自分がその「流出された一人」であった際に、何らかの保護があったでしょうか?
 おれおれ詐欺にしたって、一体どこで流出しているというのでしょう? 
 あれは決して、「電話帳をみて、手当たり次第かけている」わけではなく、「かなり念入りに」情報を調べています。でなければ、「どこどこの家の子供は男で、何歳ぐらいで、今はひとり暮らししている」なんてことが、分かるはずないからです。

 個人情報の保護というのは「プライバシー」として慮るものであって、法律で保護するものではないと、私はそう思います。
 本来、「相手を尊重する」というのは「当然の思い遣り」として教育で賄うべきであって、法律ですべきものでは「ない」のではないでしょうか?
 こころで配慮すべきものをただ「法律」という表面的なもので拘束すれば、「本当に大切な場面で、表向きの法律だけが尊重されてしまい、こころのコミュニケーションを奪う危険がある」──そう思えるのです。

 私がこのように考えているのには、ある深い理由があります。
 思い出すと今でも涙が溢れてくる──とても「辛い過去」です……。

 それは、高校三年生の時のことでした。
 校庭で友人三人と昼食を食べていた私は──あろうことか、「自殺遺体の第一発見者」になってしまったことがあったのです。
 その方は、中年男性でした。校庭にある桜の木で──首を吊って、亡くなっていました。
 警察の話によるとすでに死後数日経っていて、その間、校庭をみんなが使っていたにも関わらず誰にも発見されずに、滅多に校庭などに出ない私によって、何故か発見されたのでした。(※余談 以前、私は「幼少期から体外離脱を繰り返す体質だった」ということを書きましたが、13歳以降21歳まではそうした離脱よりも「霊感」として強く表れてしまった頃だったのです。その為酷い霊障にも悩まされましたが、それ以前に、こうした「遺体を発見する」或いは「自殺の一部始終に遭遇する」という「人の死に直面させられたこと」が何度もあったのです。)
 私が第一発見者だった為、警察署で5時間近くに及ぶ事情聴取なども受けました。
 私はすべてを丁寧に答えましたが、心に重いものを感じながら帰路についたのを、今でも覚えています。

 それから数日後。
 見知らぬ方から、一枚の封書が届きました。
 「誰だろう? 初めて見る名前だな」と思いつつ封を開け、達筆な書面を読んだ途端──私は驚きの声をあげずにはいられませんでした。

 ──それは、私が遺体で発見した方の「奥様からの手紙」だったのです……。

 自殺されたご主人は、長いこと鬱病にかかっていたそうです。その為、奥様もかなりご苦労をされたようでした。
 発見される数日前から行方不明になってしまっており、捜索願いなども出していたそうですが──奥様はご主人の状態が分かっていた為、心のどこかで「覚悟」をしていたそうです。
 そして、亡くなった数日後──私が、ご主人を見つけたのでした……。

 奥様は、このようにつづっていました。
「発見される日が早く来ることを願っていましたが──まさか、学校の校庭で自殺していたなんて。
 年若いあなたが受けた心の傷を思うと、私は胸が痛んでなりません。
 一日も早く、忘れてくださいね……」


 私はこの手紙を読みながら、声をあげて号泣しました。
 学校に関わる手紙でもあったので、担任の教師にだけ見せたのですが──同じように、先生も泣いていました。

 ──奥様の思い遣りと痛みに、胸を打たれたからでしょう。

 本当に辛かったのは、残された奥様だったはずです。
 一家の大黒柱を失って、色々な問題、悩みだってあったはずです。
 にも関わらず、発見した私のことを「誰よりも」気に掛けて下さっていたのです。
 私はその奥様の優しさに、深く感動しました。(前にも書いたように)高校当時は非常に「荒くれていた」ので(苦笑)、人の「温かい優しさ」に、私こそが触れさせてもらえた──そう思えたのです。

 奥様は、警察署で「第一発見者の方に御礼とお詫びがしたいので、名前と住所を教えて欲しい」と聞き、それで手紙を送ってきてくださったそうです。
 そして中には──「図書券」まで、入っていました……。

 私は今でも、この奥様の幸福と──そして、ご主人が成仏なさっていることを、心から願ってやみません。
 それと同時に、私の住所と名前を教えてくれた警察官の方の配慮にも、心から感謝しております。

 「個人情報保護法」が成立した後は、こうしたやりとりもないのでしょうか?
 この奥様のように、「第一発見者の方に、御礼とお詫びがしたい」と言われた時に、「いや、それは個人情報だから教えられません」と、突き放すのでしょうか?

 もし仮にそうであるのなら──それは「こころある人間の行為ではない!」、私は強くそう訴えます。
 身内が自殺してしまい、その遺体が発見された時──自分の心の整理をする意味でも、「第一発見者の人に、連絡を取りたい」と思うのが「人のこころ」というものではないでしょうか?
 それを法律で阻害するようなことがあるというのは、「あってはならない」そう思います。

 私は以前、体外離脱した先で「ここ(高次元)には法律というものが存在しない」と聞いたことがあります。
 「誰もが全体調和の為に自らの個性を発揮できるから、法律を規定する必要さえないのだ」と。
 法律で規制しなければならないというのは、こころの規制が出来ていない──他者や全体を思い遣ることが出来ていない証拠だと、私は思います。
 参院選で過熱するのはいいですが──政治家立候補の方は是非、そういうことも念頭に措いて活動してほしい──心からそう願う次第です。  


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2010-06-27 | 社会 | トラックバック(0) |

高額な金額設定をする「スピリチュアリスト」への警告

 まだ起きてから二時間もしていませんが(半分、寝ぼけています)、あまりに究極な危機感を察した出来事があったので緊急更新します。

 私はもともと大学で哲学を正式に研究したり、アカデミズムな方面から神秘学、宗教学を学んでいた関係上、「ニューエイジ」と括られるものに関しては、ほとんどいっさい手を出したことがありませんでした。
 ニューエイジというムーブメントの始まりは、もともとは西洋の思想や宗教に行き詰まりを感じたアメリカ人青年が、日本に来た際、禅僧の鈴木大拙に心を打たれ、「東洋の思想を、もっとアメリカでも広めよう」としたのがきっかけでした。
 それがゆくゆく、キリスト教神秘学や、イスラム神秘学(ス-フィズム)、および占いやセラピーなど、あらゆるものとごっちゃになって発展したのが、今のスピリチュアルであり、ニューエイジなのです。

 まぁ、そうした意味では国境や民族性を超えた精神性の探究と言えるかもしれません。
 しかし、私はここに、非常に危機感も感じています。
 それは、先日話した「民族性を知るということは、自分を知ることにも等しい」にも繋がります。
 要するにもともと何から派生したかも分からない状態で、枝葉となった部分の知識だけを拾い集めしてしまうと、自分が誰かもわからない、何人(なにじん)かもわからないのに、『とにかく活動に参加しているだけ』という無謀な行為に陥る危険性を感じたのです。
 これは「理念のない集団」となって暴走する危険もあります。
 いわば、「カルト教団」がその典型例です。

 私がここまで危機感を感じたのは、セラピストやヒーラーを名乗る人達の『値段設定』で、あまりにも高額なものが散見されたが故です。
 今日、たまたま朝食を食べながらネットを見ていた際「お父さん! ご飯中は、新聞読まないでください!」って怒られる行為と、似たようなレベルですね;)、とあるサイトで「えっっ??」と目を見張る金額設定(それはセッションではなく、講演会を含むイベントでしたが)を見かけたのです。
 勿論、著名人ではありません。一般人です。
 山川夫妻も設定しないような金額エハン・デラヴィさんだって設定しないような金額──ヨーロッパであれだけ活躍しているマオリッツオ・カヴァーロさんだって設定しないような金額、および、訪日したダライ・ラマだって設定しないような金額です。
 以前「私は入場料5000円以下の講演会なんて、絶対設定しないから」という言葉を、ある人から聞いたことがありましたが(勿論、無名の人です。著書もなければ専門分野もありません)、私がその言葉を聞いて疑問だったのは、「じゃぁあなたは、それだけの金額に見合ったものを、お客様に提供出来ているの?」という疑問でした。
 ダライ・ラマやマザーテレサが提供出来たものと同じぐらいの「エネルギー」を、その人は提供出来るとでも言うのでしょうか?
 本当の聖者や真理探究者であれば、そんなこと口が裂けても言いません。

 これは、実は「成功哲学」の「悪い影響」でもあります。
 成功哲学のプログラムを開発したのはナポレオン・ヒルだと言いましたが、その後、それを世に広めたのは「W・クレメント・ストーン」という保険会社の社長でした。
 その背景にあるプロセス自体は、実際にクレメント・ストーンが提唱したのかどうか定かではありませんが──いずれにせよ、このプログラムを輸出してその国が特許をとる際の金額は実に膨大な金額だったのです。
 おそらく、ほとんどの成功哲学セミナー系のシステムは、こうしたシステムになっていると思われます。ある意味「ネットビジネス」だって、似たようなものですよね。これらはすべて、アメリカから入ってきたシステムです。

 その影響があるのか──セラピーや、イベントを設定する人達の金額設定を見て私は呆れてしまいました。
 それほどの知識や知恵を、その人達は「同じ金額から生じるエネルギーとして、人々に還元出来る」のでしょうか?
 よく「自分の金銭的価値は、最初から自分で決めるものだ」と三次元思考の強い人達は言いますが──それは「違います」
 やった行為に「応じて」、価値は後から生じるものなのです。

 シュタイナーは、あれほどの文献を発表する前に「僕ってスゴイんだよ~」と価値を披露していたでしょうか?
 アインシュタインは、世界的な発見をする前から「いやぁ、自分って天才なんだよね~」と言っていたでしょうか? いえいえ。むしろアインシュタインは、若い頃は本当にお金に苦労して──自殺まで考えた程の過去があるのです。
 宮沢賢治は、生きている最中に「僕って『雨ニモ負ケナイ』すごい人だよ~」って言ってたでしょうか? ──とんでもない。彼の死後、谷川俊太郎のお父さんによって発見されてこれほど有名になったのであって、最初から彼が自分の価値を決めていたわけでは、ありません。
 

 彼らの功績は、「後からついてきた」ものであって、最初から自分で決めて披露したものでは決してないのです。
 だからこそ、最初から「私は○円以上の仕事しかしないから」と言ってのけてる人はすでに、正しい真理から「かけ離れてしまっている」──としか、言いようがありません。

 高次元では、価値を決めるのはその人のエネルギーが、どれほど周囲に貢献したかです。
 その貢献した量に応じたエネルギーが、自分の元に戻ってくる──ただ、それだけのことなのです。
 高いお金を払ってもらわなければ仕事をしない、という心根の人は、最初から「入ってくるエネルギー」はありません。与えてこそ「初めて」、エネルギーは入ってくるからです。

 呼吸と同じことですよね。
 吐かなければ、吸うことも出来ない──。
 吐かないのに、吸って、吸って、吸いまくったら──過呼吸で死んでしまいます。「お金」はエネルギーとはいえ物質なので、目には見えませんが、今現在、そういう罠に陥っている人達が少なからずいるのではないか、そう思いました。

 本当に偉大な人々として世に伝えられるのは、決して「お金儲け」に走った人達ではありません。
 また、「神の名」を偽って、セラピーやヒーリングに利用したような人でもありません。そうした人達は過去にも大勢いましたが、彼らが果たして死んだ後どのような顛末になったのか──興味のある方は是非、スウェーデンボルグの「霊界」をお読み下さい。

 チャネリング、ヒーリング、セラピー、コーチング、占い。
 いずれにせよ、これらはもう「不要の時代」になりつつあります。
 むしろ、今、自分で自分の生き方を独り立ちして決めない限り、新たな時代は生きられないそういう瀬戸際に来ているのです。
 時代の変化は早いです。私も、今年に入ったばかりの頃は「まだそういうことも、必要な時代かな」と思っていましたが、今となってははっきりと「ああ、今はもう『こうしたものに頼る時代』ではなくなっているのだな」と、そう思いました。

 勿論、中には適正な金額で設定していたり、或いは無料でやられていたり、本当の親切心や「悩める人の為に」と思ってそうした活動をしている人もいるでしょう。
 そうした人達はきっと、「いずれ、自分たちが必要なくなる時代が来る。それこそが、新たな時代なんだ」というのを察しているはずです。
 そういう正しき心根の人達は「クライアントを自立させる」ことにエネルギーを注ぎますが、そうでない人は「リピーターを増やすことばかりに執心する」のです。それはあたかも、鬱病の患者さんに社会復帰させる道ではなく「薬漬け」にして独り立ちを阻害させる行為に等しいものだと思えます。

 だからこそ、今、「あり得ない金額設定」をしているような人達のイベント、セッションは受けるべきではない。私は皆様に、その警告がしたくてこの記事を書いています。
 新たな時代は「お金が価値を決める時代」ではなく、「誠意と真意が、価値を決める時代だ」ということを、くれぐれも念頭に措いておかれることをお薦めします。
 もし、どうしても誰かに相談したくて──苦しくて、「占いなり、セッションなり、コーチングなりを受けたい」と思ったら、その人のブログを読むことをお薦めします。
 本当に誠意と真意のある人でしたら、その文章は心に響き──かつ、自分の中で矛盾なく理解出来るものでしょうが、そうではない人の場合は、文章に説得力はない上に、見栄っぱりな内容ばかりのものでしかないので、すぐに分かるでしょう。

 文章は──とくに「ブログ」という形式は、編集部の校正が入らない分、その人の本質が露骨に現れます。
 どんなに本を出版されている人でも、ブログを読むと「え? ホントにこの人、本書いてる人なの?」って驚く場合も多々あります。それは、「編集部の校正マン」という存在がいるか、いないかの差だったりします(校正する人って、ほんっとにスゴイですよ。尊敬に値します──)。
 まぁ、私も誤字脱字、文脈の乱れがひどいので、他者様のことは言えませんが(苦笑)。
 いずれにせよ、ブログは「ストレート」にその人の本質を描くので、そこを目安にして判断されるよう、お薦め致します。

 ──が。
 そうはいっても、これからの時代一番正しいのは「自分で解決する」或いは「友達に相談して、自分の力で道を探していくことに尽きる」と、私はそう確信しています。 
 最初からみんな、「乗り越えられないほどの試練」なんて与えられていないはずです。どんなに究極なピンチだと思えても、必ず「助け船」はあるはずです。
 わざわざお金を出して相談しなくても、自分の生き方と「自分という存在」を信じていれば──必ずや、正しい方向へと導かれるはずだと、私はそう確信しています。



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「偽善」か「真善」かなんて、考えなくていい。

「私、時々自分が『偽善者』なんじゃないかと、不安に思うことがあるんだよね……」

 そんなつぶやきを、数人の人達から聞いたことがあります。
 「そういうことを不安に思える時点で、充分あなたは偽善者じゃないと思うよ」と、私はそう答えるのですが──これは日本人の特質なのでしょうかね。結構真面目に「偽善・真善」を悩んでしまう人は多いようです。

 私は1970年生まれですが、私たちの世代前後には「第三次スピリチュアルブーム」の先駆けとなった人が大勢います。(西洋占星術的解釈をいれると、土星と海王星がオポジションの世代がこの辺りに集中するからなのですが、ま、そういう話はさておき。)
 私の周囲にも「スピリチュアル」に興味を持っている人は沢山います。もしかしたら世代の特質というだけではなく時代がこれほど物質的に豊かになっても、何故か心は満たされないという矛盾に多くの人達が気がついた為、「その理由を知りたい」という人が増えたからなのかもしれませんが。
 いずれにせよ、そうした人達はおおむね「自分の行動」について振り返ろうとする探求心も持ち合わせているので、ふとした時に「自分は、偽善者なんじゃないだろうか」という疑問が出てきてしまうのかもしれません。

 しかし、そういう問題を突き詰めて考えれば考える程、出る答えは「偽善か真善かは、『とっさの時でなければ判断出来ない』のではないか」ということです。

 実は、私もこの「偽善」という問題には中学時代から高校時代まで、ずっと突き当たっていました。
 その問題にあたった私は、偽善を避ける為にあらゆる偽悪(?)をやり尽くしたのです。まぁ、今にして思えば「笑っちゃうぐらい、青臭いこと」なのですが。
 例えば──

 高校の教科書を一度も自宅に持ち帰らず、授業をさぼって、ひとり屋上の踊り場でラクガキしまくっていたりとか、、
 気に入らない先生の試験の時には、名前だけ書いてすぐに裏返してしまい、わざと居眠りして白紙答案出してみたりとか、
 学校行事の際、さぼって講堂の放送室に籠もっていたら「篠崎が行方不明だ!」と、学校中の先生に大騒ぎさせてしまったり(これはあくまでも悪意があってのことではなく、ただ単に「ひとりになりたかった」だけなのですが。←って、充分「問題あり」な行動ですね; よい子は真似しちゃダメですよ──)
 遠距離通学だったので、疲れて電車で座って寝ていたところ、ショッピング帰りのおばさんに「学生なんだから、座ってないで立ちなさいよ!」と根拠もなく言われ(※決して老人ではない、50代ぐらいの人でした)、頭に来たので「なんだと、このクソババァ!」と叫んで車両内の注目を浴びてみたり、 
 見知らぬ高校生に陰口をたたかれたので、その高校生の前に立ちはだかり、正面切って「文句あんなら、はっきり言えよ!」と喧嘩売ってみたり(相手はすぐに、顔を背けて逃げましたが)──

 偽悪……というより、めちゃめちゃ「尖ってました」ね。

 あ、ちょっとちょっと! 
 皆さん、篠崎に嫌気さしてブラウザ閉じないでくださいね(笑)。まだ続きはありますんで──。

 まぁ、これを読んだだけでも相当の問題児だということは、お分かり頂けると思うのですが──自分で当時を振り返っても、「手がつけられんなぁ」とは思います(苦笑)。
 いえ──ホントに、あの頃は手がつけられないほど、悪党だったと思います。
 何もかもが嫌で、何もかもに腹が立って、すべてに嫌気がさしていて──もしも当時、「音楽」という生き甲斐がなければ、私はとっくに自殺していたと思います。
 結局当時の私は「偽善・真善」の違いを行為で知ろうとしたが故に、浅はかな感情と行動に振り回され、「自分自身」を見失ってしまうという、愚かな罠に墜ちてしまっていたのです。

 一体、「何をもって、善行とするのだろう」──当時の私には、それが疑問でなりませんでした。
 でも、私は「その答え」を──鮮烈な体験を通じて学ぶ機会に恵まれたのです。

 私にとってその「気づき」は、19歳の時にやってきました。
 それは、本当に「偶然」──いえ、普通ならそうそう出くわさないような「必然」だったのかもしれません。

 その日、私はあるデパートに寄ろうと、二階に通じる階段をあがろうとしていました。その階段は勾配が結構あり、かなり高い階段だったのです。
 二階からは、私と反対に階段を下りようとする中年女性の姿がありました。

 ところが──。
 私が真ん中ぐらいまであがった、その時。
 その女性が足を滑らせて、勢いよく落ちてきたのです。
 私は、「自分自身の身の危険」を感じました。
 女性は段々で落ちているのではなく、そのままの勢いで「落ちた」からです。
 そして私自身、すでに真ん中ぐらいまであがってしまっていたので、「巻き込まれて落ちる危険」は十分にありました。

 判断にかけられる時間は、「ほんの一瞬」でした。

 ああいう時、ほんの一瞬が「まるでとても長い時間」のように感じるものなのかもしれません。
 私は「自分の身を守る選択」「他者を守る選択」の、二つを強いられたのです。
 私が避ければ──女性は間違いなく下まで落ちて、大怪我は避けられないでしょう。
 気がついたら、私は無意識にその場で足を踏み留めていました

 当時の私は、身長は今と変わらない154センチでしたが、体重は35kgしかありませんでした。
 どのぐらい自分が耐えられるか──そんなことを考える余地もなく、私は出来る限り足を踏みしめました。
 思い切り体当たりになったのは──言うまでもありません。
 運よく階段の中央に手すりがあったので、私は思いっきり、その手すりを掴みました。
 そのおかげで、数段落ちたものの、大事には至らなかったのです。
 手すりがなければ間違いなく、私も下まで落ちていたことでしょう──。命に別状はなくても、骨折ぐらいはしたかもしれません。ある意味、手すりに救われました。(普通は階段の中央に、手すりなんてないですものね。逆に言えば「手すりの向こう側」でその女性が落ちていたら──私は為す術なく、ただ見ていることしか出来なかったでしょう……。)

 女性はすぐに体制を整えると、「ごめんなさい、ごめんなさい! 本当にありがとう! ありがとう!」と、何度も何度も御礼を言ってくれました。
 私はむしろ「自分の行為に驚いていた」ので、ただ苦笑して「いえ、大丈夫です──」と、それだけ言って、その場を去りました。

 その時に、私は「ふと」気付いたのです。

 偽善も、偽悪も──「どちらも、嘘だ」と。
 何よりも大切なのは等身大の自分であればいいというだけのことなのだ、と。
 何もない時に、「私は偽善者か、否か」なんて考えたところで、答えは出るはずがないのです。
 とっさの時でないと「自分がどんな行動をするか」──絶対に判断出来ないからです。

 だったら、そんな無駄なことは考えず、ありのままの自分でいればいい──私はその体験を経て、それを学んだのです。
 偽善かどうかを悩むよりも、まずは「生きやすいように生きることが大切なのだ」と、私は思います。
 善は「背伸び」してすることではありません。等身大でしてこそ、意味があるものだと思うのです。
 だからこそ、「偽善か、否か」なんて悩むこと自体、必要ないことなんでしょう。

 まずは「自然体であればいい」──ただ、それだけのことなんですよね(笑)。  


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「メンタル」と「水害」は連動してる?

 ここ最近、洪水や鉄砲水などの水害が、世界各国で起きていますね。
 先日はアメリカのキャンプ場で、昨日は中国、およびブラジル周辺は永いこと豪雨が続いていて、かなりの被害者が出ているとか。
 日本は「梅雨入りしてじめじめだね~」なんて呑気なこと言ってるレベルですが(ちなみに、関東は「梅雨入りした」っていう程、ひどい雨は降ってないですね。先日豪雨になると言われていた割には、窓開けたら晴れ間が出ていたし──)、フラクタル理論で言えば地球で起きていることは、みなに等しく起きていることとも言えます。
 ですので、私たちの知らない世界の片隅でおきている水害だからといって、決して「無関係」というわけではないはずです。

 何故、そんな思いに至ったかと言えば──。
 これは一種の共時性(シンクロニシティ)かもしれませんが、この水害被害が続いている5~6月にかけて、私の周囲でメンタル的に、ローテンションになっているという人がやたらに多いのです。
 多い──というよりも、下手したら「私の周り、みんな」かもしれない(笑)。※唯一、古雅先生は相変わらず元気で、明るいブログ記事を書いていらっしゃいますが(笑)。
 何故か友人にメールしたり、或いは電話したりすると──

「実は、ここ数日テンションが低くてさ」とか
「何か最近、メンタルが不安定で」とか、
「ちょっと鬱に入ってるみたいだ」とか──あれこれ満載。

 ちなみに「篠崎は?」と言いますと、確かに「ローテンション」です(苦笑)。
 というか、どうも私の場合は体調に出やすい体質なので、異常なほどの倦怠感に襲われています。
 倦怠感に襲われつつ「ハイテンション」になれたら、ある意味「人格乖離」ですよね(爆)。倦怠感が先なのか、ローテンションが先なのかわかりませんが、確かに「調子がよくない」のは事実です。(でも、今日熱が37.5度ほどあったところを見ると、ただの風邪かもしれませんが──)

 「梅雨時だから仕方ない」で済ませてしまえばそれまでですが、どうも「それだけじゃないンじゃないかな」という気もします。
 というのも、みなさんそれぞれ「ローテンション」になっているのもまったく原因がないわけではなく、ある程度の理由が明確にあったりするからです(一部、その理由にまったく気付いてない──或いは、気付いているのに「気付きたくない」と、自分で蓋をしてしまっている人もいるようですが。)

 私はネットで水害の記事を見つめつつ、「水は、感情を司るからなぁ。ある意味、地球も色々な感情をはき出しているのかもしれない」──なんて、ふと思いました。
 そのように言ってしまうと、水害の被害にあっている方々にとても失礼ではありますが──私は地球が「生命体」であることを確信していますし、そうである以上地球にだって(私たちのような低レベルなものではないにせよ)感情に近いものがあったっておかしくはない、そう思います。
 感情が揺れ動けば、その象徴である「水」があちこちに氾濫する──そんな裏背景があったりもするのかな、なんて思ったりもしました。
 地球がそういった状態であれば、地球の細胞である人間のメンタルに影響があったって──おかしくはないですよね。むしろ「自然に沿った、正しい在り方」だと思います。

 だからこそ、「地球が感情を氾濫させている」時は「ネガティブ」になったって無理はないです。
 そもそも私は、何でもかんでも「ポジティブに捉えよう」という考え方が、好きではありません。
 ネガティブになってしまう時は何かしら意味がある時ですし、また逆に「何かしら、その人が克服しなければならない課題があってのこと」だと思えるのです。
 なので、例えば「なんだかローテンションなんだよね~」という時に「明るく考えましょう! そうすると、気分も明るくなってくるから!」っていうのは──それは「違う」と思うのです。
 それは──例えて言えば、臓器に何らかの患部があって、それ故に「痛み」を神経が伝えてきているにも関わらず「痛くないようにしちゃえばいいのよ」といって、痛みの原因を探ろうとせずに鎮痛剤なりで痛みを麻痺させてしまっているだけと「同じこと」のように思えるのです。

 どんなに「表面的に明るく」考えたところで、根本解決されてなければ、同じことは何度も何度も繰り返されるでしょう。
 そのたびに、また同じ鎮痛剤に頼らなければならないとなれば──その人は一生涯、薬に頼って生きなければなりません。
 鎮痛剤で麻痺させ、根本解決されない「患部」はどんどん壊死していき、そのうち、死に至る病になりかねない──。

 だったら、どんなに辛くても「この『ローテンション』になってしまうネガティブな要素は、一体何だろう」と、徹底して向き合った方が良い──厳しいようですが、私はそういう立場にいる人間です。

 これは文庫本「アセンション 真実への完全ガイド」にも書いた例なのですが──自分たちの家が火事で燃えている現実から目を背け、どんなに遠くの星々の美しさに心を逃避させたところで三次元では、空しく時間が過ぎていくだけなのです。
 それなら、今起きている現実が「どんなに厳しくて、どんなに辛いもの」だったとしても、真正面から向き合った方がいいし、早めに対処した方がいい。そんなふうに私は思っています。

 私自身も、こうした「ローテンション」に陥った場合、はっきりとした理由がすぐに分かる場合はともかくとして、「あまりよく分からない場合」などは、徹底して考え抜きます。
 その時に「絶対に、していけないこと」は他人や、環境のせいにしないこと。
 私の周りに、そういう人も散見されるケースが多かったので──そのたびに私は警鐘を鳴らしてきました。
 他人や環境の生にすれば、結局「麻酔で痛みを誤魔化す」のと同じ結果にしか繋がらないからです。

 そうはいっても──。
 どうも最近、「自力で自分の問題と向き合って、それを乗り越えようとする人達」と、「ネガティブに蓋をして、誤魔化してしまう人」や「他人や環境のせいにしてしまう人」など、どんどんその差が開けているような気がしています。
 勿論、「どう努力しても、うまく歩調が合わせられない相手」って絶対にいるものです。そういう人とは、本当に距離を措くしかないだろうと思うし──逆に言えば、そうやって少しずつ価値観の棲み分けが進んでいくんだろうなって、そんなふうにも思える次第です。

 面白いことに、感情の噴出の後には、必ずプロセスの一環として成長(浄化)が起こります。 
 地球も、もしかしたらそうなのかもしれませんね。
 私たちには直接的な水害の被害はなくても「感情面」における影響が、かなり強く出ているのかもしれません。おそらくそれは、「伝導体気質」ならではの日本人故──なのかもしれませんね。


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夢の探究(1)─お酒との関係性─

 先日、「自己意識の中にでさえ振動数(周波数)による階層的な差異があるのではないか」ということを記事にしましたが、最近私はそれが「夢」に反映されているのではないかと思うようになりました。

 夢についての研究は、ユングやフロイトもしています。
 ユングは集合無意識など比較的「トランスパーソナル」的研究もしていましたが、そうは言ってもやはり「霊性(魂)に応じた意識の振動数における差異」とまで絡めて研究していたわけではありません。そう考えると、未だかつて「夢と霊性が、結びつけられて研究された試しがない」と言うことが出来るでしょう。(まぁ、こうしたことが言われるようになったのがつい最近なので、当たり前といえば当たり前ですが──)

 私が何故そのようなことに気がついたかと言うと、私自身が毎日、夢を明確に記憶しているからで(特に夢日記などはつけてない為、1日~2日たつと忘れてしまいますが)その中でも明らかな程、意識レベルに差がある夢というのをたびたび見る機会があったからです。
 夢も、肉体の制限を強く受けます。決して、夢は「肉体から引き離された無関係なもの」ではありません。
 例えば、夢で「怖い顔をしたおばあさんが、胸を上から押さえつけてくるような悪夢」などを見た場合、目が覚めてみたら、実際に「自分の胸に乗っかって、おデブな猫ちゃんが寝ていた」なんてことがあったります。※私の実例です。
 これは明らかに、「胸にかかった猫の体重」が、夢に影響したケースと言えるでしょう。

 しかし、こうした「肉体の影響」からはまったく説明がつかないような体験──というのも勿論あります。
 例えば、夢というのは大抵「自我がない」ケースが多いようです。
 自我がないからこそ、「見た夢の内容を忘れてしまう」のでしょう。(私も、自我のない夢はあまりはっきり覚えていません。)
 しかし、明晰なほど「自我」を持って夢を見ている場合、大抵と言っていいほどその内容を記憶しています。それどころか、酷い時は「これは今、寝ている最中に見ている夢だ」と自覚していることもある程です。

 よく、脳の研究者などが「夢というのは、その日のうちに一時的に海馬に記憶させた記録を整理する為、大脳皮質に映し出された幻影と考えられている」というようなことを言ったりしますが、それは違うように思えます。
 何故なら、受験生の方などは特に実感していると思いますが──もし「海馬に記憶させた記録の整理」で夢が再生されるなら、その日に受けた講義が何度も何度も複製されていいはずですし、受験期間の1年間は「受験に絡んだ夢」しか出てこなくなるはずです。
 しかし、別段受験時にも(ごくたまに、講義を受けているような夢を見たとしたって)毎日毎日、繰り返し受験内容の夢を見るわけではありません。夢は「その日にやった行動」と「必ずしもイコールではない」──もっと説明のつかないものなのだと、私自身は思います。

 また、夢分析などで一律心理学的な判断を及ぼすのも「ちょっと的外れ」な気がします。
 フロイトは「空を飛ぶ夢は、性行為に対する衝動の現れ」と言ったことがあるそうですが、私は子供時代、ふつ~に「空を飛ぶ夢」を見ていました。むしろ「空を飛ぶのが、当たり前」と思っていた程です。(その為、公園でブランコに乗って遊んでいる最中「飛べる」と勘違いして、上から真っ逆さまに落ちて大怪我をした──という武勇伝((?))さえあります。)
 5歳にもならない幼児が、性行為に対する衝動があったとでも言うのでしょうか?

 夢は心理学や脳生理学で「説明出来るものとは違う」──そう思います。
 もっと複雑で、何層にも渡る「自己意識のミルフィーユが現象化したもの」なのだと──そう思えるのです。

 例えば、シュタイナーは「超認識レベル(アストラル体などで認識出来る意識)」と「夢」を明確に分けていました。
 夢は「無意識下」のものであり、霊的なものとは「別である」としたのです。
 私は、その理由がわかるような気がします。私自身、それは何度も体験しているからです。

 先程も言ったように、通常、夢の中では「自我がない」ケースが多いようです。
 勿論、私もそういう夢を見ることが多々あります。しかも私が「自我のない夢」を見る場合──その時は、大抵「今(意識のある状態)の自分だったら、絶対にあり得ない行動や態度」を示すことが多いのです。
 その為、目が覚めた後に「凹む」ことも多いです(苦笑)。「何であんなことしたんだろう」みたいな(笑)。まるで、酒に酔った勢いで「みっともないこと」をしてしまったかのような感じで。

 ふと、そんなふうに思った時。
 実はこの「お酒」というのが「自我のない夢」と関連性があるのではないだろうか、という仮説に私は行き着きました。

 お酒は、人の理性を壊します。少量であれば問題ないですが、大量のアルコールがどのような醜態に行き着くか──多くの方がすでに目にした機会があることと思います。
 私は滅多に、人前ではお酒を飲みません。親しい間柄の友人であれば飲みますが、それでも「ビール500ml」がせいぜいです。
 本当はもっと飲めるのですが、「理性が壊れた状態で話しても、面白くないから」それ以上は飲まないようにしています。
 なのですが、たまに深酒し過ぎたりすると──決まってその日に見る夢は「自我のない夢」なのです。しかも、自分では想定出来ないような行動や、言動をとる──。(お酒が入った日には、体外離脱はまず起きません。この関連性は、今ひとつ謎なのですが。)
 
 それに関わるネタなのですが、イギリスのコーンウォール滞在中、「エデンプロジェクト」という巨大な植物園に行きました。
 その際、このような銅像を見かけたのです。

   wain-god.jpg

 真ん中にいる牛は「ワインの神様」だそうで、周囲を踊る女性達は「ワインの神様を称えて、変性意識状態の中、素っ裸で踊りまくっていた」のだとか。
 被っているのは「動物の毛皮」のようですね。それ以外は全裸のようです。

   cow.jpg

 この写真は、そうした女性達が森の中で動物を捕まえて、引き裂こうとしている銅像です。
 果たしてこれ、女性である必要性があるのでしょうかね……。乳房はあるものの、顔は明らかに「男性」でした。

 神様を称えているには「野蛮な銅像だなぁ……」と思ったのを、覚えています。
 その上私は、こういった行為は明らかに「お酒の影響ではないか」と、そうも思いました。意識レベルの高い状態で、このような醜く残酷な行為を、出来るわけがありません。
 それに、マオリッツオ・カヴァーロ氏の話によると、高次元であるクラリオン星には「アルコールがない」そうです(「スターピープルの叡智」より)。
 コカや麻などはあるそうで(もっとも、これは高次元の火星における話ですが)、これらは地球同様「聖なる植物」として扱われているそうですが、アルコール(と煙草)に関しては、クラリオン星人からみると「悪癖」に区分されるそうです……。
 煙草好きなカヴァーロ氏は肩をすくめていましたが、寝酒が習慣の私も、一緒に肩をすくめなければなりません(苦笑)。

 少し話は「お酒」に偏り過ぎましたが。
 私は自分の体験談を分析するにつれ、「自己意識もミルフィーユのように何層にも分れていて、肉体(脳)の状態によって見る夢が変わったり、離脱が起ったりするようだ」ということが分ってきました。
 例えば「集合無意識で見る共通する夢」などがあるとしたら、それはDNAにインプットされた「人々の共有概念」である可能性も否定出来ません。
 そうなってくると、夢を細かに分析するだけでも、離脱のプロセスなどが分ってくるかもしれないのです。
 非常にこれは面白いテーマなので、息抜きがてら掘り下げていこうと思っています。

※お願い※
 私は「お酒」は飲むものの、人前ではまず飲むことがありません。(ごく親しい間柄の、同性の友人のみに限定しています。)そういったお誘いについてはいっさいお断りしておりますので、恐れ入りますが何卒ご了承ください。


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○写真提供:井上貴子さん○ 【SITE】Photo Gallery
◆お知らせ◆
2010年6月29日~7月18日まで、東京にある池尻大橋駅(田園都市線)から徒歩5分のカフェ「まんまるの木」で、貴子さんの写真展が行われます。
貴子さんの撮る写真は、とても心が癒されます。詳しくは「こちら」でご確認ください。


          tree.jpg  

◇上記は貴子さんに掲載許可を頂いた私がお気に入りの樹の写真。
一見「屋久島」にある樹かななんて思っちゃいますよね? でも、違うんですよ。さて、どこにあるんでしょうね(笑)。

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日本人の哀しい性(さが)

 現在、私は先日お知らせした「日本人の精神改革」に関する原稿をまとめる為、様々な資料にあたっています。
(ちょっと雑談ですが──二作目は次元に絡む作品なので相対性理論ひも理論などの最新物理学を、今回の原稿は日本の歴史民俗学をと、何だか「食あたり」しそうな組み合わせの書籍群を、毎日数時間かけて何冊も読んでいます。真理探究者とは、別名「暇人」と言えるのかもしれません((苦笑)))
 そんな中で──真実とは認めたくないけれども、しかし日本人の特性として「明らかに存在するだろう哀しい性質」に気がつきました。
 それは、社会学の研究対象としても高く評価されている山本七平氏の著書「空気の研究」に掲載されていました。山本氏は「日本の道徳は差別の道徳である」と述べています。
 以下、その実例箇所を転載します。


 私は簡単な実例をあげた。それは、三菱重工爆破事件(※wiki参照)のときの、ある外紙特派員の記事である。それによると、道路に重傷者が倒れていても、人びとは黙って傍観している。ただ所々に、人がかたまってかいがいしく介抱していた例もあったが、調べてみると、これが全部その人の属する会社の同僚、いわば「知人」である。ここに知人・非知人に対する明確な「差別の道徳」をその人は見た。これを一つの道徳律として表現するなら、「人間には知人・非知人の別がある。人が危難に遭ったとき、もしその人が知人ならあらゆる手段でこれを助ける。非知人なら、それが目に入っても、一切黙殺して、かかわりあいになるな」ということになる。この知人・非知人を集団内・集団外と分けてもよいわけだが、みながそういう規範で動いていることは事実なのだから、それらの批判は批判として、その事実を、まず、事実のままに必要がある、それをしないなら、それを克服することはできない。(「空気の研究」P12~13 文春文庫)


 これを読んで、皆さんはどう思われたでしょうか?
 私は「まさしく、その通りだ──」と肩を落としました。
 山本氏の指摘は的確です。しかも、その指摘が20年以上も前にされているにも関わらず、日本人は未だ、その性質が克服されていないのです。
 ネット社会が、そのいい例かもしれません。
 私はブログにコメント欄をつけていませんが、実は3年ほど前から、掲示板にしろコメント欄にしろ、誰のブログにも、(余程の事情があれば別ですが)コメントしないという姿勢を貫いています。
 2001年頃、まだこれほどネットが浸透していない頃は、あちこちのHPや掲示板でコメントをしていました。自分で言うのも烏滸がましいですが、当時は「常連書き込み者」として有名だったぐらいなのです。
 しかし、そうするうちに「知人・非知人」という目に見えない奇妙な膜のようなものが出来ていることに気付き始めましたのです。
 そしてあたかも、「非知人」の人に対して「暖かく仲間として迎える」というよりは「私は長いことここにいる常連だから、あなたよりも先輩なのよ」的な、意味不明な先輩風を吹かせる人や、そうした新たな参加者に対して到底理解しがたいような稚拙なコメントを目にする機会が増えてきた為、ネットをコミュニティとして使用するという行為から身を引こうと、そう決意した次第です。

 こんな事例もあります。
 今から10年近く前の話ですが、1日に数百人以上(閲覧のみの人もいれたら、千人以上)集まる掲示板の中で、今まで一度も書き込みのしたことのない人が、「ちょっと批判的な内容」を書き込みしたことがありました。
 それに対する攻撃は──もう、言葉に言い尽くせない程です。
 攻撃、というよりも「中傷」ですね。
 その人のコメント内容に対する「正当な反論」ではなく、一方的な「ののしり」だったのです。
 しかし、その人は常連書き込み者ではなくても(確かに「初めまして」といった挨拶がなかった、などの問題点はありましたが)、言っていることに、筋は通っていました。どんなにそれが批判的な内容であれ、確かに「正論」だったのです。
 私は即、その点を伝えました。同時に「何故、みながこんなに躍起だってこの人を攻撃するのか、理由がわからない」と。
「この人の言っていることは正論です。ただ、『見方が違う』というだけに過ぎない。それに、ここは掲示板であって、自由の発表の場でしかないはずです。そうである以上、どんな意見があったっていいのではないですか?」とも。

 すると──どうでしょう。今度は、今まで中傷していた人達が「手のひらを返した」ように、その人を擁護しはじめたのです。
 その理由はおそらく「常連書き込み者」である私が、その人を庇ったことが原因だったのでしょうね。もしくは一時的な感情論で中傷してしまったことを恥じて、考え直したか──。
 でも、メールであれ掲示板であれ、何か文章として残す時は必ず「一考」すべきです。感情論で何でも書けばいいというものではありません。
 ちなみに、その人の書き込みはそれきり「二度と」ありませんでした。正論を言えるだけの思考力と考察力の持ち主だったので、「この集団はダメだ」と、見切ったのかもしれませんね。

 私は、こうした事例をいくつか目にしてきた為──もう他者のブログやサイト、掲示板でコメントするのを「いっさい控える」ようになりました。
 そこにあるのは「自由な表現、討論の場」ではなく知人同士による馴れ合いの場に成り下がっている──そう思ったからです。(とくにブログが普及してから、その現象は顕著になりました。私はこうした交流の在り方を「コミュニケーションの『たこ壺化化現象』」と呼んでいます。)
 2ちゃんねるなどを見れば、その特徴はすぐに分ります。あそこは、ハンドルネームが「流用」されていて、固定ではありません。だからこそ「知人・非知人」の境なく、思う存分に(一部無責任とも思えるような)発言も出来るのでしょう。そういった意味ではただ闇雲に2ちゃんねるの在り方を否定するのではなく、「利点はある」と言うことが出来るかもしれません。
 ツイッターなどは、その点「コミュニケーション概念」は二の次です。ただ「好きなことを、呟けばいい」。そして、「それに反応した人だけが、答えればいい」。ここに、知人・非知人の境はなく、あるのは「書いたコメントに対する反応のみ」です。もっとも、「その人の本質や、価値観の裏付けをとる」のにツイッターは不向きですが、表向きで「知人・非知人の枠を取り払った簡易コミュニケーション」という意味では、一役担っているのかもしれませんね。

 日本人は未だに、こうした「知人・非知人」という概念を捨てきれていないのかもしれません。
 その現実に、本来「もういい加減、気付くべきなのだ」と、私はそう思います。
 もっとも最近では、少しずつ都心などにおいて「知人・非知人」の境界は薄れてきているかもしれません。実際、2008年に秋葉原で起きた通り魔事件の際も、そこに居合わせた人達のほとんどが(みな、救護は素人だったでしょうに)一生懸命助けようと努力したと聞いています。(その一方で、そうした惨状を携帯カメラで撮りまくるという、山本七平氏でさえも当時想定出来なかったような人達も存在はしましたが。)
 こうなってくると、日本人の奥底にある「哀しいサガ」を意識的に乗り越えられるか──或いは、思考せずに「そのまま、それを表に出すか」の違いによるのかもしれないと、そんなふうにも思えてきます。

 一方、地方ではまだ──「知人・非知人」の境界は明確なようです。
 かつて、こんな話を聞いたこともありました。
 私が6年ほど前に勤めていた会社でバイトをしていた青年(A君としましょう)が、とある島で「スキューバーダイビングのインストラクター」をしていた時の経験談を話してくれました。
 その島は小笠原諸島の一部、小さな島だったそうですが(名前を言うと「今後、自分の仕事に支障があるから」と、伏せられてしまいました)、彼は繁忙期には数ヶ月間そこで暮らし、観光客相手に仕事をし、繁忙期を過ぎると東京に戻ってきてバイトをする──という生活を繰り返していたそうです。
 そんなある日、巨大な台風が島を通過することになりました。
 島の人達はみな台風に備える為、準備を始めたそうです。A君もそんな天候では仕事にならないので、しばらくホテルに籠もって台風が過ぎるのを待つことに決めました。その為の食べ物を備蓄しようとしてスーパーに入った際、あろうことか「販売を拒否」されたそうです。
 A君は驚いて「何でですか?」と尋ねました。すると、店主はこう言ったそうです。

「あんたは『よその土地』の人だ。この緊急時に、よそ者に売れるものはない。ここにあるのは、この島の人達だけのものだ」

 A君は、その言葉にひどくショックを受けたそうです。
 A君自身はその仕事をもう何年もやっていて、来るたびに数ヶ月間滞在し、「いずれは、ここで暮らしたい」とまで思っていたそうです。
 その店主とも、決して「非知人」という間柄ではなかったのですが──たった「よその土地の人間」という理由だけで、食糧を売ってもらえなかった事実は、たいそうA君の心を深く傷つけたことでしょう。A君が台風が過ぎ去るまでの数日間、どのように暮らしたのか──想像するだけで辛くなります。
 
 台風という緊急時だったから──という見方も出来ますが、私はそれにしても「あまりに閉鎖的だ」と思いました。
 こういう事例は、枚挙にいとまがありません。
 1997年に起きた奈良県月ヶ瀬村の事件も、その一種と言える事例でしょう。
 犠牲となった女子中学生の方は本当にお気の毒だし、遺族の方の痛みも分ります。しかし、容疑者の証言の一部に「30年暮らしているのに、未だかつてよそ者扱いされている」という言葉から憶測されるような「村八分」的鬱憤が事件を引き起こしのだとしたら──これほど、哀しいことはありません。
 広島で起きた女児殺害事件も、閉鎖的な日本の社会を表しています。容疑者はペルー人でしたが、ほとんど日本語は「片言」でしか喋れなかったそうです。
 単身で海外に行った経験のある人であれば痛感するでしょうが、「言語の壁」というのは想像以上に、その人を不安にさせるものなのです。特に日本であれば──ことさらにその差異は大きく感じられたことでしょう。
 当時、電車の中吊り広告に「外国人はもう日本にいれるな!」と書かれたものさえありました。
 それは明かな「極論」です。外国人が女児殺害をした比率と、日本人がした比率、一体どちらが多いというのでしょうか? そういうヒステリックな記事を見るたびに、私はうんざりした気分にさせられます。

 出版本の原稿に詳しく書きますが、こうした「民族の性質」というのは「血脈」とか「遺伝」はいっさい関係なく、日本の土壌に根付くものなのです。
 ですので、「自分は半分外国人の血が入ってるから大丈夫」とか「私は純粋な日本血脈じゃないから問題ない」ということに影響あるのではなくて、日本の環境・日本の風土を無意識に受け入れてしまっていると、そうした結末に陥る危険があるのです。

 もう20年以上も前に、そのことを山本氏は警鐘していたのです。
「批判すべきところははっきり批判して、克服すべきだ」と。
 今になってようやく、その警鐘に耳を傾け、改善すべき時代が来たのかもしれません──。

 地球に生きている以上、みんなが仲間であり、みんなが兄弟のはずです。
 自分が好きとか嫌いといった感情論抜きに、意見があうとかあわないとかそういった思いこみ抜きにして、みなが手を取り合えるようにならなければ、地球は決して生まれ変われないでしょう。
 三次元における「電気的な摩擦」を乗り越え、融合的になるべくして、私たち日本民族の「伝導体気質」はあるはずです。その力を、決して「知人・非知人」で分別させてはいけない──私は強く、そう感じています。
 
 
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【参考文献】
「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))
(1983/10)
山本 七平

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映像の技術進歩は、必ずしも喜ばしいことでは「ない」

 昨日、ネットで興味深い記事を見つけました。以下、転載します。

──────────────────────────────
3D騒ぎが映画をダメにする9つの理由
ニューズウィーク日本版6月18日(金) 14時11分配信 / 海外 - 海外総合

2Dの豊かな表現力を忘れて子供だましの映画が量産されかねない。映像体験を進化させる方法は別にある──

ロジャー・エバート(シカゴ・サンタイムズ紙映画評論家)

 映画は2Dで十分。「もう1つの次元」は必要ない。ハリウッドが雪崩を打って3Dに走るのは自殺行為だ。飛び出す映像は観客の集中を妨げる場合があり、人によっては吐き気や頭痛の原因になる。映画館に高価な投影機材を売り付け、観客から上乗せ料金をふんだくろうとする狙いが透けて見える。

 3D映像は標準的な2Dより明らかに暗い。シリアスな映画には不向き。監督の「撮りたい映画を撮る自由」を縛る。R指定(17歳未満は保護者同伴)などの大人向け映画の観客には、特別料金に見合う満足感はまず与えてくれない。

 マーケティングの観点から見れば、私の考えが「異端」であることは承知の上だ。何しろ3Dはハリウッドに史上最大のドル箱商品をもたらし(『アバター』の世界興行収入は27億ドルを超え、さらに記録を更新中)、ほかにも数々のヒット映画を生んでいる。今年の3大ヒット作『アリス・イン・ワンダーランド』『ヒックとドラゴン』『タイタンの戦い』はいずれも3Dで上映されている。

 それでも、3Dの限界について私と同じ考えを持つ監督や雑誌編集者、撮影監督、映画ファンは少なくない。映画会社の重役たちの中にも今のブームに抵抗を感じている人がいる。

 50年代に一時期話題を呼んだステレオスコープで、3D技術は既に無意味なオモチャであることが分かったはず。ここで異端派の見方を1つずつ説明しよう。

1)もう1つの次元は要らない 2Dの映画を見ているときも、観客の頭の中では3Dの映像が見えている。地平線上の小さな染みのように見えるアラビアのロレンスが、砂漠に馬を駆ってぐんぐん迫ってきたとき、あなたは「あら、少しずつ体が大きくなるよ」と思うだろうか。

 私たちの脳は、遠近法で奥行きを感じ取る。人工的にもう1つの次元を加えれば、平面上の奥行きがあざとい感じになるだけだ。

2)より深い感動を与えることはない 心を揺さぶられた映画を思い出してほしい。3Dにする必要があるだろうか。偉大な映画は私たちの想像力を刺激してやまない。『カサブランカ』が3Dになっても、感動が大きくなることはない。

3)集中を妨げる場合がある 3D映画には、2D画像を左目用と右目用に分離しただけのものもある。その結果、ある物体が別の物体の上に浮かんでいるように見えるが、すべてが平板な印象は否めない。
 2Dでは、焦点を変えることで観客の目を画面上の1点に引き付ける手法がよく使われる。3Dは前景も背景もくっきりとクリアに見せることを狙っているようだが、その必要があるとは思えないし、観客の注意を引き付ける手段を監督から奪うことになる。

4)人によっては吐き気や頭痛を催す 3Dテレビが市場に登場する直前、ロイター通信が眼科学の権威2人に目に与える影響を聞いた。

 その1人ノースウェスタン大学のマイケル・ローゼンバーグ教授によると、「左右の目の周りの筋肉のアンバランスなど、非常に軽い障害があっても、それに気付かずに生活している人が大勢いる」らしい。「通常は脳がうまく調節している」ので支障を感じないが、3D映像を見るという非日常的な体験をすると、「脳に負担をかけることになり、頭痛を起こしやすい」とのことだ。

 私たちは普段、左右の目で微妙に異なる角度から物を見ていると、眼科学と神経学の専門家であるロチェスター大学医学センターのデボラ・フリードマン教授は説明する。「それを脳で処理して奥行きを認識している。3D映画の立体感は、人間の目と脳の仕組みとは違ったトリックで作られている」

 消費者向け情報誌コンシューマー・リポーツによれば、3D映画を見た人の約15%が頭痛や目の疲れを訴えるという。

5)画面がやや暗い 3D映像システムの父として知られるレニー・リプトンは、現在のデジタルプロジェクターは「(光学的に見て)効率が悪い」と断言している。「光の半分は右目、半分が左目に入るから、単純に明るさが50%減るということだ」。さらに3D用の眼鏡も光を吸収する。

 現在、大半の映画館が3D作品を3~6フットランバート(fL)の輝度で上映している。fLとは、簡単に言えばフィルムを入れていない映写機がスクリーンに投じる光量のこと。アナログ映写機では大体15fLで、オリジナルのアイマックス(大型映像システム)では22fLだった。

6)デジタルプロジェクターを売りたい商魂が透けて見える 3D上映用機材の導入は巨額のコストが掛かるため、当初は映画館が難色を示し、コストの一部を映画会社が負担すべきだと主張していた。これに対して一部の映画会社は、3Dで上映しないなら2Dでの上映も認めないと主張して映画館に圧力をかけた。

 ほとんどの映画館の映写室には、アナログとデジタルの映写機を置くスペースがあるのに、アナログ時代は終わったとばかり、デジタルへの切り替えを迫るセールス攻勢がかけられている。

7)観客は特別料金をふんだくられる 3Dの上乗せ料金はこのまま定着するのか、プロジェクターの元が取れたら無くなるのか。

 特別料金は、親たちの頭痛の種だ。子供は宣伝にだまされて「3Dじゃなきゃ嫌だ」と言い張る。私は『タイタンの戦い』の映画評でこう書いた。「この映画は3D映像として製作されたものではない。5ドルの特別料金を取るために3Dで上映されるだけだ。2Dで見ても十分楽しめると、子供に教えてあげたほうがいい」

 『タイタンの戦い』は『アバター』に続く2匹目のどじょうを狙って、慌てて3D効果が付け加えられた映画だ。3Dアニメに社運を懸けるドリームワークスのジェフリー・カッツェンバーグでさえ、『タイタンの戦い』の3Dは「観客をだますものだ」と酷評した。ちゃちな疑似3Dは金の卵を生むはずのガチョウを殺してしまいかねないと、カッツェンバーグはバラエティー誌のインタビューで語っている。

8)シリアスなドラマに3Dは必要ない かつてアルフレッド・ヒッチコックは3Dで撮影した『ダイヤルMを廻せ!』の出来に不満で、ニューヨークでの封切りでは2D版を上映した。3Dはもっぱらコンピューターで製作する作品に向いているらしい。子供向けの映画やアニメ、そして『アバター』のような作品だ。

 もちろん、ジェームズ・キャメロン監督の『アバター』は別格だ。素晴らしい映画で、オリジナルのアイマックス・システムのスクリーンなら臨場感抜群。それに史上最高の興行収入を挙げている。

 この映画は3Dの広告塔として利用されているが、(特別料金のない)2Dでも成功したのではないだろうか。全米興行収入の史上第2位は同じキャメロンの『タイタニック』で、こちらはもちろん2Dだった。

 それでも『アバター』は3Dをとても効果的に使っている。最初から3D用に計画を立て、2億5000万ドルを投じて完成させたキャメロンは撮影と編集の達人だ。だが、ほかの監督は特別料金を上乗せしたい映画会社のお偉方に3Dを強制されている。

 例えばティム・バートン。『アリス・イン・ワンダーランド』(アイマックス3D版)は、マーケティング担当の重役に無理やり作らされた擬似3D映画だ。なるほど興行収入は文句なしだった。しかし3D効果はほんの蛇足で、追加料金を正当化するための詐欺まがいの行為だった。

 今ではキャメロンまでが『タイタニック』の疑似3D化を計画している。そういえば3Dドキュメンタリー映画『ジェームズ・キャメロンのタイタニックの秘密』は、沈没したタイタニック号をキャメロンが個人的に撮影したものだった。3D版『タイタニック』は3D用に作られた本物ではないが、キャメロンなら過去の誰よりもうまく「擬似3D」を作りそうだ。

 それでも私は言いたい。『タイタニック』はそのままで素晴らしい映画なのに、なぜ余計な手を加える必要があるのか。歴代興行収入2位の作品でもうひと稼ぎしようという魂胆が見え見えだ。

 私は以前、マーティン・スコセッシのような監督が3Dに取り組んだら、3Dに対する評価を変えるかもしれないと言った。絶対にそんなことはないと高をくくっていたのだが、そのスコセッシが児童文学『ユゴーの不思議な発明』を3Dで映画化すると発表した(11年公開予定)。映画を知り尽くし、その可能性にほれ込んでいるスコセッシなら、自分のニーズに合わせて3Dをうまく使うはずだ。

 私が敬愛するウェルナー・ヘルツォーク監督は、フランスの先史時代の洞窟絵画を取り上げたドキュメンタリーを3Dで撮影している。古代の洞窟のくぼみをより鮮明に映し出すためだ。

 自分の作品はあくまでスクリーンの平面にとどまると、ヘルツォークは言った。つまり、映像が飛び出すわけではないということだ。観客は絵画と同じ空間にいるような錯覚を抱き、先史時代の芸術家と同じ目線で絵画を味わえる。

9)ハリウッドは危機を感じるたびに新技術に頼ってきた トーキー、カラー、ワイドスクリーン、ステレオ音響、そして3D。要するに、最新技術によって家庭ではできない体験を提供するということだ。

 ブルーレイディスクやHDケーブルテレビの登場で、家庭でも映画館に近い体験ができるようになった。3Dは映画館と家庭の差を広げたが、今度は家庭用3Dテレビが再び差を縮めるかもしれない。

 ハリウッドに必要なのは、家庭での体験より格段に素晴らしい「極上の」体験、特別料金に値する体験だ。私は以前から、マキシビジョン48という映像方式を高く評価してきた。既存の映画技術を使うが、1秒間に48コマ(48fps)で撮影し、ちらつきのまったくない映像を提供する。

 今の映画は24fps。トーキー映画初期にアナログ音声を乗せるにはそれが限界の速度だったからだ。だがマキシビジョン48は48fpsなので、画質は2倍向上する。

 私はマキシビジョン48も、少し前の方式であるショースキャンもこの目で見た。どちらも非常に素晴らしく、スクリーンが「3次元への窓」の役割を果たす。映画好きが見たら、3Dのことなど頭から消え去ってしまうだろう。

 私は3Dという映像方式に反対しているのではない。ハリウッドが3Dで塗りつぶされてしまうことに反対なのだ。3Dのせいで、大手映画会社の路線はアカデミー賞に値する映画作りから遠ざかっているような気がする。スコセッシやヘルツォークは大人の映画を作るが、ハリウッドは先を争って子供向け市場に殺到している。

 大手映画会社はストーリーと作品の質に対するこだわりを失いつつある気がする。今は何でもかんでもマーケティング優先だ。

 ハリウッドはあらゆるタイプの映画に使える、過去のどんな方式よりも圧倒的に優れた映像方式を必要としている。マーケティング担当重役の言うとおり、観客は家庭では味わえない極上の体験を映画館に求めている。しかし、探している答えは3Dではない。

【転載元】http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20100618-00000302-newsweek-int

────────(転載以上)──────────


 私も、この記事内容に同感です。
 「アバター」は私も観ましたが、正直言って「内容に深みのある映画」とは、残念ながら思えませんでした。
 映像は確かに綺麗です。パンドラのような「シャーマニック的な世界」というのが実際にあるかもしれない、という希望を視聴者に抱かせることも可能でしょう。
 しかし、やってることは結局、映画「ランボー」とかと大差ないじゃないか──ただの「開拓→侵略阻止→交渉場面さえない安易な戦争突入」といった、露骨なまでのハリウッド映画でしかないと、そう思いました。
 それだったら遙かに「タイタニック」の方がいい作品だったし、いろいろと考えさせられるものもありました。キャメロン監督は一体全体「どうしちゃった」のでしょうね? 同じ監督の作品とは、到底思えなかった程です。

 映画は「娯楽に過ぎない」──そういう意見もあるでしょうね。
 しかし、「娯楽」と呼ばれるテレビの普及は、人類にどのような影響を及ぼしたでしょうか?
 ただ情報を鵜呑みにし、考察しようとしない「思考力のない人類を量産しただけ」に過ぎないのではないでしょうか?
 映画にも「同じ轍を踏め」と、そう言いたいのでしょうか?

 私が「映画好き」なのは、ドラマよりも、映画の方が時間が凝縮されている分、テーマ性が濃く現れるからです。
 メッセージ性もテーマ性もない映画は、「栄養価のない、ただの駄菓子」に過ぎません。(勿論、どんなにメッセージ性の含まれた映画でも、そこに意義を見いだすか否かは視聴者次第ですが。)
 私の場合、アバターは3DではなくDVDで観たので分りませんが、仮に3Dで見たとしても──内容よりも「映像美」への感心だけで終わってしまったでしょうね。(そもそも、私は3D自体あまり好きではありません。ディズニーランドのアトラクションなどでよくありますが、どうも見ていて「気持ち悪くなってくる」のです。私はものを観るときに集中して見る癖((たぶん、まばたきとかもほとんどしてないと思いますよ))があるので、3Dだと「乗り物酔い起こした感じ」になるんだと思います。)

 タイタニックを3D化するという話が上記載っていますが──私も「無意味」だと思います。
 あの映画の魅力は、命の危機を目前にした人達が、一体どのような行動をとるかという伏線が魅力的なのであって、氷山にぶつかった勢いだの、船がおれる迫力だの、そんなものに意味があるわけではない──そう思うからです。

 それに、上記の記事にあるように、私たちは充分「遠近感」で映画を楽しんできました。
 しかも、その「遠近感の錯覚」によって成り立つ映像というのも、沢山あるのです。
 ロード・オブ・ザ・リングなどはその典型例で、ホビット族をやった四人の俳優達は、いずれもみな「普通に大人の背丈」をした青年です。しかし、実際にガンダルフやアラゴルンと並ぶと、「子供並みに小さく」見えてしまいます。
 ほとんどの場面は子役を代用したり、或いは「巨大ロボット」を使ったりもしていましたが、一部の場面については遠近法を使って、人間達とホビット族の身長差を、視聴者に錯覚させていたのです。
 どういうことか説明しますと、遠くに「ホビット族のフロド」を立たせ、手前にガンダルフを立たせます。そうすると、通常であれば遠近法で「遠くにフロドがいる」というのが分るのですが、何故かフィルムにすると「フロドとガンダルフが隣同士にいて、フロドだけが小さく見える」という錯覚を、見ている側が起こすのです。
 ピーター・ジャクソン監督は、そうした手腕をあの映画の中で沢山披露していました。3Dじゃなくたって、監督の工夫次第で、いくらでも素晴らしい映画は創れるはずなのです。

 私も、映画の3D化には「歓迎していません」。
 一部の映画がそうするのは構いませんが、「全部が全部そうなる」のは反対です。何故なら、私が映画に求めるのは「メッセージ性」であり「テーマ性」だからです。
 勿論、娯楽を求める人がいるのは構いませんし、おそらく、人口比率的にも「テーマ性」を映画に求めるなんて人は1割に満たないことでしょう。
 しかし、それでまたもやマイノリティの意見が無視され、映画が「ただの娯楽化」してしまうのであれば、私はもうホントに、この次元での息抜きが全てなくなりそうです(苦笑)。

 本当に素晴らしい映画は、3Dなんかで観る必要さえありません。
 私が大好きな映画「コンタクト」──以前も少しご紹介しましたが、私は自分が弱気になったりくじけそうになると必ずこの映画を観て、自分を励まします。
 この映画には美しい宇宙のCGが数々出てきますが、主人公のエリーが次元を超える場面、星々に触れる場面──これらを、視聴者である「私たち」も一緒にさわる必要性が、どこにあるのでしょうか?
 私たちは、映画を観ている時点ですでに主人公と同一化しているのです。主人公の体験を疑似体験し、主人公の気持ちを味わっています。
 それを成すこと自体が「想像力(イマジネーション)」というものです。
 それさえもなく「3Dじゃなくちゃ、楽しめない」となったら──人間に「想像力」が存在する必要性さえ、なくなってしまいます。

 余談ですが、先日「なるほどな~」と感心させられる記事を見かけました。
 宮崎駿監督作品「風の谷のナウシカ」がBlue-Ray版になる──という記事だったのですが、最初の試写会の際、宮崎駿監督は「色をただギラギラさせているだけで、あれは創作者に対しての冒涜だ!」と批判したそうです。
 その後、再度作成し直したものに関してはOK出たそうですが──条件として「色の塗り違い(当時はセル画作成なので)に関しては、あえてそのままにする」というものを出したそうです。
 私は「さすが、宮崎駿監督だな」と感心しました。普通の監督だったら、「色の塗り違い、訂正しておいて」と言うでしょう。しかしそこを「あえて」、そのままにしたのです。
 その気持ち──私は分る気がします。
 当時はセル画作成で、一枚一枚、アニメーター達が時間に追われながら必死に色を塗っていました。私は小学生の時アニメが大好きで、一時期「アニメーターになりたい」と思ったこともあったのですが、当時高校生だった姉から、開口一番こう言われたのです。

「アニメーターって、めっっちゃ仕事がきつい上に、すっごい安月給なんだってよ!」

 ──誓って言いますが、それが理由で諦めたわけではないですよ(笑)。
 ただ単に、「私は『作品を楽しむのが好きなだけ』で、創る側になりたいわけじゃない」ことが分ったから、やめただけです(逆に言えば、「製作の裏側を見てしまうことで、純粋に作品を楽しめなくなるのが『嫌』だったから」です。なので、今でも「メイキング」は滅多に見ません。その後、純粋に映画を楽しむことが出来なくなるので。──ロード・オブ・ザ・リングに関しても「メイキング、見なければよかった……」と後悔しましたし;)
 そんな苦難の中で製作していれば──多少の色の塗り違いなんて、いくらでも出てきますよ。(実際私も、「風の谷のナウシカ」を見ていて色の塗り違いに気付いているぐらいですし。)
 でも、宮崎駿監督はそれを「治さないで欲しい」と言ったのです。
 それはきっと──当時の面影を、技術の進歩によって消してしまいたくない、そんな思いからだったのではないかと、私は推察しています。さすがは世界に通用する監督だなと、そう思いました。それに比べて、ただ興行成績ばかりに拘る理念のない映画監督は、「ビジネスマン」と大差ありません。

 技術の進歩が、必ずしも人類に幸福をもたらすとは限らない──映画の3D化はその典型例だと思えます。
 安易な娯楽技術の進歩は、人間から「想像力」「思考力」「考察力」を奪います。パスカルの言った「人間は考える葦である」という言葉──これさえもが通用しなくなるのであれば、人間自体の存在価値さえなくなってしまいます。
 ますます、人類の二極化が進んでいるのではないか──そんな不安を抱かせる昨今です。


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2010-06-19 | 映画 | トラックバック(0) |

アセンションに大事なのは「自分」?それとも「地球」?

 昨日は1日体調を崩していた関係で、更新をお休みしてしまいました。
 今日はすっかり元気です(笑)。その前二日間ほど徹夜していたので、いっきに疲労が出たのかもしれませんね──。

 さてと──今まで少し「日本民族」についての記事が多かったので、今回は多少「アセンション」に絡むネタです。
 以前、「意識にも振動数がある」という話をしましたが、これは周囲の環境、精神的状況、様々な要因によっていくらでも上下するものなのだろうなと、そんなふうに感じています。
 最近「不思議な符号だな」と思うのですが──17世紀、スウェーデンボルグが見てきた「霊界での最期の審判」というのは、実はこの世に起こる現象を垣間見せられたのではないかなと、ふとそんなふうにも思うこともままあります。
 最期の審判が行われたのは「第一霊界」というところなのですが(スウェーデンボルグ曰く、霊界には「第一・第二・第三」とあるそうで、第一霊界はその中でも「最も低い霊界」となります)、そこは「この世」と大差のない世界だったそうです。
 善人ぶった言動をしつつ、腹黒いことを考えたりとか、人を騙したりとか、そんな霊がたくさいいいたのが「第一霊界」とのことでした。その為、本来は第二・第三霊界に進めるような綺麗な魂を持った人達も、引きずられてしまったり、或いは迷惑を被ったりなどの様々な被害があったようです(まさしく、今の世の中みたいですね;)。
 それにしても──肉体を捨てた後までも「人を騙そう」なんてことを考える人がいるというのも、何とも不思議な話ですね。逆に言えばそれだけ「嘘をついて欺く」という心理は、魂の奥深くに刻み込まれて消しようがないことの証明なのかもしれませんが。

 第一霊界があまりにも人が多くなりすぎて(その理由は、「本当に心からの信仰心ではなく、うわすべりな信仰ばかりしか人がしなくなった為に、上位の霊界に来れる霊が少なくなったせい」だそうですが)、「こら少しばかり、整理せなならんだろ」ということで、「最期の審判」が行われたそうです。
 面白いことに、その時は位の高い天界人(天使のようなもの?)が降りてきて、問答をしながら「その人の魂の判別」をしていったそうです。それで、ある程度「この霊は天国・この霊は地獄」などの判別が下された後、最期の審判の日にその魂のレベルに応じて、見合った世界へと飛ばされたのだとか。(スウェーデンボルグ曰く、それは二日間にわたって行われたそうです。)

 私は当時「アセンション」という言葉などいっさい知らずに読んでいましたが、改めて読むと「これって、アセンションに似たような現象だな」と思わずにいられませんでした。
 よく、「アセンションの為に、人は健康体を維持しなければならない」と言いますが──「それは違う」と、私は思います。
 今回のアセンションは「意識レベルの周波数(振動数)」によって分けられる「三次元的肉体のものではない」と、私は考えています。なので、どんなに肉体が頑強でも「精神が淀んで」いたり、「意識レベルが低い」と、もとより「論外」だと思えるのです。
 そもそも、そんな理由で健康維持をするということ自体──エゴに繋がらないでしょうか?
 勿論、「自分がやりたいことをしたいから、健康体を維持したい」とか「健康で生きていると考え方そのものも健康になるから」という理由であればわかります。
 でも、「アセンションの為に」というのは、映画2012の中で「生き残りの為に、方舟チケットを10億ユーロ出して買った人達」と大差ないように思えるのです。

 私は正直言って、アセンションで自分が生き残りたいとかは欠片も思っていません。
 時折、「意識の振動数が低い人は、消滅してしまう」ということを言う方もいますが──私は、自分が消滅しても「別に関係ないや」って本気で思えてしまいます。
 何故なら、消滅したら最初から「無」になるので、存在自体自覚が出来ないからです。
 私自身は、自己存在への執着が欠片もありません。
 唯一あるのは──地球を守りたいという、ただそれだけのことです。

 ですので、私がアセンションで何よりも求めているのは「自分がどうなるか」ではなく「アセンションした後の地球は、どうなるのか」なのです。
 アセンションが出来るのか、どうなのか?
 出来なかった場合、地球はどうなるのか?
 私の中にある探求心は、ただひたすら、そこに向けられています。 

 さて。ちょっと全然関係ない余談なのですが──。
 私は来年の春になったら、岩手の方に引越する予定です。
 予定──というか、ほぼ本決まりなのですが(笑)。
 私はもともと「都会が苦手」で、とくにここ数年の間、東京の雰囲気が「顕著に悪くなった」ことを実感しています。
 東京は「日本の象徴」です。ここが「雰囲気が悪くなっていく」ということは、あまり望ましいことではないようにも思えるのですが──。
 私が尊敬する宮沢賢治の元で、ひたすら真理探究に没頭したい──そのように思っています。


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日本民族にとって大切なのは「周囲との調和」

 最近痛感するのですが、この「ブログ形式」というのは、何かひとつのテーマを掘り下げるのにはすごく不向きですね……。まぁ、もともとは「日記」という役目のもとで誕生したのだから、仕方ないと言えば仕方ないのですが。(日記で「ひとつのテーマを掘り下げよう」なんて人は、まずいませんものね;)
 カテゴリー連載という形式をとったとしても、やはり難儀な部分はあるな──と、実感しています。

 そこで、今後「YOU are EARTH」のサイトで、過去記事で関連性のある内容を、大きく加筆・修正した記事連載をしていくことに決めました。
 おそらく7月上旬からスタートすると思われます。
 本当は「期間限定」で始めたブログですが、気がつけばあと2ヶ月で1年が経とうとしています。さすがに1年前からの記事を読み返すとなると大量ですし(しかも、私のブログは1日の記事の文章量が無駄に多いので;)、なかなか厳しいと思われます故、それを読みやすく編集したものを、今後「YOU are EARTH」で掲載していこうと思っています。(おそらく半月に1度更新のペースになると思われます。)

 今回のカテゴリー連載「日本人の精神改革」については、正式に出版本として原稿執筆することに決めました。
 ブログだけでは情報発信に限界があるし、この記事に関しては「精神世界の人限定」ではなく「もっと広い範囲の人達」に伝えたい内容だからです。
 実際に書くとなると、日本の歴史は勿論、民俗学、日本の神話、仏教学など、あらゆる方面からの解析も必要なので、(いつものことっちゃいつものことですが)読む資料も大量に発生します。現在進行している二作目の原稿執筆と同時進行で進めていこうと思っているので、たぶん今年の年末あたりには「大学時代にさえあり得なかった程」の情報量が、私の頭の中に詰っていることでしょう(苦笑)。←資料の内容を「忘れなければ」の話ですが;

 それはさておき。本題に入りますが──。
 昨日、「伝導体気質の日本人にとっては、今ある教育方針も政治方針も、すべてが『合わない』ことになる」と書きましたが、これはかなりシビアな問題だと改めて思いました。
 例えて言えば、今、私たちは「横文字」で読むことに慣れています。
 しかし、日本は本来「縦書き」が普通でした。
 この「横で書かれるか、縦で書かれているか」は、読む側の思考においても、大きな違いをもたらすことに気づかされました。※だからこそ私は、今回の原稿に関してはブログ連載だけでなく「出版した方がいい」と考えている次第です。本は「縦書き」なので。

 例えば「翻訳された本」などを、「横書き」で書くのはいいと思います。
 しかし、日本人として書く以上は「縦書き」で書き、「縦書きを読む」方が、思考するにおいても楽なはずです。
 これは、エハン・デラヴィさんも言ってました。私は出版原稿を書く際、いつも「縦書き」にして書くのですが、それを見ながらエハンさんにこう言われたのです。
「今回の見本原稿は、縦書きなの?」と。
「いえ、私は出版原稿を書く際には『イメージを湧かせやすい』ように、縦書き表示させているだけです。なので、お送りする原稿は『横書き』ですよ」と答えたところ、エハンさんは──
「よかった! 僕は日本語の場合横書きなら問題ないけど、縦書きだと読むのにどうしても時間がかかっちゃってね。おそらく、横書きか縦書きかで、思考の形態も変わるんだろうね」と、こう答えていました。

 さすがは意識研究家だな──と、感心してしまいました。
 まさしく「その通り」だと思います。エハンさんは「横書きの英語」に慣れている為、「横書きの思考形態」なのでしょう。
 これはおそらく、「小説を書かれる人」は痛切に感じていることと思います。美しい情景描写や和風の描写に関しては、横書きよりも「縦書き」で書いた方が、自然に浮かびやすいのです。「横に書くか、縦に書くか」で、すでに思考性に差異が出ているというのは──何とも面白い話です。

 しかし、そう考えると──
 日本の精神がいかに、従来の方向性から外れてしまっているかを痛感せずにいられません。
 いえ、それどころか──今までの自己啓発、心理学、スピリチュアルのありかた「すべてが日本人に合わなかったんだ」ということに気づき、改めて驚かされます。

 例えば。
 私自身も、よく言ってしまっていました。「自分を大切にせよ」という言葉。
 この言葉自体は間違いではないし、私自身、自分を蔑ろにしているつもりは欠片もありません(笑)。
 しかし、本来の日本民族にとっては「自分と同じように、他者を思いやる」ことが、何よりも大切なことなのだということを改めて知ったのです。

 伝導体の役目自体が、まさしくそうですよね。
 血液の働きを考えてみてください。血液は、心臓から運んできた「酸素」を、他の臓器に送り、「二酸化炭素」に入れ替えて肺まで戻る──その循環を繰り返しています。
 血液は「臓器」ではありません。しかし、とても大切な役目を担っている存在です。血液が滞ってしまったら、臓器はたちまち壊死してしまいます。血液の存在こそが、臓器の生命を維持している──とも言えるのです。

 血液は、臓器としての働きはなくとも「臓器から臓器へ、酸素と二酸化炭素を運ぶ」という重要な任務の中にいます。
 その血液が固形化してしまったら──とんでもないことになります。
 今、日本は「そういう危険な状態に陥っているのではないか」と、そんなふうに思えたのです。

 私が大好きな宮沢賢治の詩、「雨ニモ負ケズ」が評価されたのは、一体何故でしょうか?
 宮沢賢治の境地が、まさしくこの「血液の境地」だったからだろうと、そう思います。
 宮沢賢治の思想には「エゴ」がなく、また「我思う、故に我あり」といった自我もありません。
 ただひたすらに、他者を思いやり、他者の幸福を願う──その精神(スピリット)です。

 海外で日本や日本文化が評価されているのは、日本がそうした「精神(スピリット)」を重んじていたということにあるのではないでしょうか?
 武士道も然り、茶道も然り。
 そこにあるのは、自我を貫くことではなく周りを尊重し、和を尊ぶ精神だったと、そう思います。
 固形気質の民族は、固形の働きをみても分るようにすぐ「衝突」したがります。固形は「ぶつかる」ことしか出来ないからです。(ちなみに、中国は三国志にも象徴されるように「固形気質」だと私は推察しています。ですので、日本は「中国文化が伝来した」時点ですでに、多少伝導体気質が揺らいでいる部分はあるのです。しかし、この「民族性」というのは「どのぐらい血が混じったか」とか、そんな物理的な境界線ではなく「日本という土地に土着した精神」ですので、その精神に守られているうちは((ある意味、それが日本の「神─天照大神」などの象徴かもしれませんが))民族性の影響は、必ずや修正がかかるのだろうと憶測しています。)
 勿論、日本にも戦国時代に象徴される戦いは多々ありましたが──実は、民俗学においてはこの「闘い」というのが日本では「欧米諸国に比べて、多少変わっていた」という史実が残されています。
 この辺り、宮崎駿監督作品「もののけ姫」で、うまく描かれています。出てくる田舎侍達が、どことなく「呑気」で、他人事のように戦争をしている姿などは、まさしくあの時代(安土桃山時代周辺)を象徴していると思われます。

 「自分」より、まず「周囲」を尊重していたのは──何も日本が「恥の文化」だったからではなく、もともと伝導体気質だったからだと、私は感じています。
 伝導体にとって必要なのは「自我」ではなく「周囲に、如何に摩擦を起こさせないか」です。それこそ「潤滑油」として必要な存在だったとも言えるえしょう。
 日本は、本来「左回り」が普通だったのを、欧米諸国に習って「右回りにさせられた」ことが、誤りの原点だったと、私はそう感じています。社会学者で有名な山本七平氏が「空気の研究」などで面白い研究内容を残していますので、参考にしていきたいと思っています。

 ですので、「自分探し」をどんなにしても「うまく自分を探すことが出来ない」と不安になっている方は、どうぞご安心ください。
 「自分は、ひとりでいると淋しくて仕方ない」という方も、「誰かに必要とされないと、自分が自分でいられない」という方も、どうぞご安心ください。
 それは、依存心というよりも日本の民族性がゆえなのだと私には思えます。
 むしろ、日本民族の精神性を感じ取りやすい方ほど、上記のことで悩みやすい傾向にある──そう思います。そういう方達の多くが鬱病になったり、自殺したりということを考えると──本当に哀しい事実だとしか思えません。(私は欧米諸国の人にも、このことを伝えたいぐらいです。「あなた方と違うからといって、日本を誤解しないで欲しい。あなた方は右回りかもしれないが、日本の民族性は左回りだという違いにすぎないのです」と。)

 このテーマは本当に奥が深いので、私もすぐにはまとめてお伝えすることが出来ませんが、少なくとも今年中には一本の記事にまとめあげたい──そのように思っています。

※明日からは少し、違うテーマも記事にします。また時折、原稿をまとめながら記事にしていきますので、お待ちくださいませ。


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失われた日本民族の「精神性(スピリット)」

 前回に引き続き、「日本民族」に関わる記事です。(カテゴリ名ーを「日本人の精神改革」に変更しました。)
 2012、アセンションなど、大きな変革を前にして「何で今更、日本民族?」って疑問に思う方も多いかと思われます。それは逆に言うと、違和感を感じずにいられない程、民族性の概念は今まで掘り下げられたことがなかったという証明に値するのかもしれません。
 社会問題、政治の問題──「現代日本」として「国の在り方」は問われても(いえ、真摯に問われたことは未だかつてないような気もしますが)、何故今まで「日本民族」という問われ方はしてこなかったのでしょう? 
 国というのはただのシステムに過ぎませんが、民族性は精神(スピリット)です。本にも書いたように、最初にシステムありきで来てしまったが故に、今まで「こころ(スピリット)」である民族性が蔑ろにされてしまった──という、いい症例かもしれません。
 日本民族という言葉で括った際、「国籍がある・ない」は「いっさい関係ない」ことになります。日本で生まれ育って、大人になってから海外に渡り、そこで永住権をとった人も「日本民族」です。精神は形ではないので、絶対に失われることのないスピリットとして、どこに行っても「ついてまわる」のです。
 だからこそ、これから「グローバルに開かれていく」今、自分の個性にも直接的な影響を及ぼす「民族性」について、理解しておく必要がある──私はそう思います。

 私は日本民族の特徴は「伝導体(プラズマ)意識」なのだということに気がついて以来、さまざまな問題点に目がつくようになりました。
 まず、現在の教育。欧米式の教育方針。政治のやり方。外交の在り方──すべての方法論を「覆してみなければならなくなる」ことに気付いたのです。
 社会・経済学者であり、ポストモダニズムの提唱者でもあるP.Fドラッカーは、「日本人は製造業階層だ」ということを今から10年以上前に述べていました。
 確かに、日本がこれだけ高度経済成長したのも「製造部門において」です。もともと職人としての文化が強かった日本民族故、製造業階層というのは言い得て妙です。
 しかし、矛盾していたのは「製造業階層には製造業階層にあった教育方針」というのがあるのであって、それは決して欧米文化における方針とは「まったく異なるものであって当然だった」ということです。
 このあたりの関連性は非常に深く、かつ複雑なので、ブログですべて説明しきれるものではなさそうです。なので、これは別個に原稿としてまとめていく必要性も感じています。

 今、日本は政治改革の一環として事業仕分けだの色々とチャレンジしていますが、どんなにうわべのシステムを変えたところで、「無駄!」です。何故なら、今まで「日本の民族性にあってない教育、あってない社会」を築いてしまっている故に、変えたくても「変わりようがないから」です。
 政治家も官僚も、口先だけで「日本のために、国民のために」と言っていますが、本当の日本国民における民族性について、彼らは何も知らないと言って過言ではないでしょう。何故ならそれほどの探求心もなければ、求道心もない──うわべだけの教育、うわべだけの理念だけで、大人になってしまったからです……。

 精神世界においてもよく聞く「意識改革」という言葉。
 私自身も使ってはおりますが──日本の民族性を考えるにあたって、私は「日本人に関しては、『意識』ではなく『精神』と言った方がいいのかもしれない」と思うようになりました。
 意識と精神は、「似て非なるもの」です。
 意識が海に浮かぶ大陸のようなものであれば、精神は「海の水、そのもの」です。
 地球という惑星を変える為に「大陸」を変えることも必要です。
 しかし、すでに伝導体(=水)である民族にとっては、大陸の改革よりもまず海の水(自分たちの精神)を清らかにすることが優先される──そう思ったのです。

 日本人である私たちは「大陸のような『固体』ではないんだ」という自覚が、必要なのかもしれません。
 固体には固体の、液体には液体の「良さ」があります。
 私たち日本民族は「液体」である個性を知った上で、改めて「新たな時代における役目」を認識した方がいいのかもしれない──そんな気もしております。

 日本民族が元来、伝導体であったのであれば──すべての矛盾が決着つきます。
 たとえば、第二次世界大戦。あれだけ「お国の為に」と言って命を投げ出していた人達が、いざ戦争が終わった後、まるで手のひらを返したようにGHQを受け入れられた理由も。
 固体気質であるアメリカ人達からすれば、「理解不能」だったと思いますよ。
 でも、液体である日本人にしてみれば、何の不思議もありません。液体の特徴は、「すべてを洗い流すことが出来るところにあるから」です。
 マッカーサーが「12歳のような国」と言ったのも、うなずけます。日本民族がもともと「液体」であれば、固体気質の民族性の人からすれば「中途半端」に見えるでしょうね。それは当然のことです。

 しかし、日本は液体のような民族性「だからこそ」、固体の民族性を持つ人達の間に入り、潤滑油となってうまくやってくることが出来たのです。
 日本民族はもともと、「固体としての気質を持たない」イコール「自我を持たない」傾向にあるのだと思います。
 かつての武士達が重んじたのは「自我」ではなく、文字通り「精神(スピリット)」。
 だから、最初から自我を重んじる国から民族性を理解されなかったとしても「当然のこと」だったのです。日本の「和」という言葉は、伝導体気質である日本民族性を最初からうまく言い当てている──そう思います。

 児童文学「アミ 小さな宇宙人」の中で、「『脳』は、頭と心の両方に入っている」という説明がありました。「頭だけの脳を使っていると、今の地球のような『科学ばかり』になってしまう。本来は頭と心、両方の脳を使った方がいい」と。
 今になって、その意味がよく分ります。
 日本人は元来、「こころ(精神)で思考出来る民族」だったのです。しかし、まったく違う気質の文化の教育をまるまる受け入れてしまったが為に、従来大切にされていた「こころ(精神)で考える」ということを、日本民族は忘れてしまったのでしょう。多発する鬱病、精神疾患は、まさしくこの忘れられたこころ(精神)で象徴される──そう思います。

 視点を変えると、日本における「まったく違った側面」が多々見えてきます。
 私たちは今まで、「西洋文明を中心としたフィルター」で見て来てしまっていました。
 しかし、それを今度は「内側から」──日本民族の「精神」を通して見てみると、歴史や民俗学の事情、すべてが見えてきます。
 同時に、「今、日本社会が直面している問題は、一体何が根源的に問題なのか」、それも如実に見えてきます。
 その辺りの問題点などについては、また改めてこのブログで紹介させていただきます。


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「日本の民族性」に気がつくということ

 今日から、カテゴリー連載として「日本の民族性」について記事にしていくことにしました。(カテゴリー連載なので「毎日」ではなく、ごくたまにUPして、まとめて読む時は「カテゴリーから」という形式です。)
 カテゴリータイトルは、「目覚めよ、日本民族!」。──って、どこぞの右翼団体みたいですが(爆)。

 「え? YOU are EARTHと言っているあなたが、何故、ひとつの国に拘るの?」
 そう疑問に思われる方もいることでしょうね。しかし、私がここで言っているのは国家ではなくて、民族性です。
 どんなに私たちは「日本人ヤダ~、欧米諸国に生まれたかった」と思ったところで、「日本人である」という血脈(スピリット)はインプットされていて、外しようがないのです。例え輪廻転生の概念を用いたところで、「現在、日本人として生まれた」という事実は、消しようがありません。
 要するに、私がここで言っているのは「肉体に縛られた民族性」ではなく「民族性におけるスピリット」のことを言っているのです。
 このブログで何度も書いたように、日本人は「日本民族としての元来の良さ」を失ってしまったことにより混迷しました。しかし、それは必ずしも「欧米文化だけの影響か」と言えば、そうではありません。日本民族がもともと持っていた長所であり、裏を返せば短所ともなり得てしまう「柔軟性」こそが、今の混迷を生み出したに過ぎません。

 その立場に立ったところで、私の基本概念である「私たち人類は地球の細胞であり、世界はひとつの国家である」には、まったく抵触しません。
 しかし、まず「新しい世界システムを生み出す為」には「古いシステムを知る」必要があるのと同様に、「地球という国家が生まれる為」には、「自分たちが今存在している国」について知らなければ出来ません。自分を変えたいと思ったときに、「今の自分」を知らずにそれが不可能であることと同じことです。
 そうした意味でも、私たちは「日本民族が、いかなる特性を持っているのか」を知る必要があるのではないか──私はそう思っています。

 何故、私がこのように「日本の民族性」に拘るのかと言えば──私自身が、つい最近まで日本人に生まれた自分自身を、受け入れられなかったからです。
 私が唯一日本人に生まれたことを誇れるのは、「黒髪」ぐらいなものです。最近は茶髪が一般的ですが、私の髪は焦げ茶でもなければ赤茶でもない──ひたすらな「真っ黒」なのです。
 しかし、それ以外は決して、日本人である自分を誇れたことなど「一度もありません」でした。
 ですが──最近、気がついたのです。
 おそらく、「日本民族という民族性にコンプレックスを持っているのは、私だけでなく結構な人数いるのではないか」と。
 日本で普通に暮らしている人達は「自分は日本人である」ということを、あまり認識することはないでしょう。私たちが普通に暮らしている日常において「私は『私』である」といちいち認識しないのと、同じように。
 しかし、これからどんどん国境という認識が外されていき、世界が広がるにつれて、「自分は○○人である」という民族性の認識は、より必要になってくるだろう──私はそう思えるのです。
 細胞が「確固とした独立」をしていなければ臓器を維持出来ないのと同じように、どんなに活躍の場が広がっていったとしても「私は、私である」「私は○○人である」という認識がなければ、決してアイデンティティを持った仕事は出来ない──そう思えるのです。

 中には「私は見た目も外国人っぽくて、国籍不明ってよく言われるから、今更日本民族なんて意識する必要ないわ~」と思う人もいるかもしれませんね。
 でも、どんなにそう思ったところで「日本語」を使っている以上、すでに日本民族としての前提は成立しているのです
 言語というのは、顕著にそれを使う民族の「思考性」を象徴します。どんなに閃きが走ったところで、それを言語化する中で「英語圏の人」「フランス語圏の人」「日本語圏の人」それぞれ違いが出るはずです。何故なら、言語の構成そのものが違う上に、文法もまったく違うからです。
 「日本民族たる」ということは、ただの「見かけ」ではなく、使っている言語の特性においても十分に発揮されているのです。おそらく、その意味の重さは翻訳者、通訳者の仕事をされている方であればことさらに認識されていることと思います。

 ある種、日本語は「特殊な言語」だと、私は思います。
 私はアラビア語の学校にいた時、こんなふうに言われました。
「君たちは『アラビア語は難しい』というけれど、日本語の方がよっぽど難しいよ。漢字・ひらがな・カタカナ、三種類も使い分けなければならない方が、遙かに厄介だ。その点、アラビア語は28文字だけなんだから」と。
 確かに、その通りですね(苦笑)。
 また、アラビア語と日本語の同時通訳を聞いたことのある方でしたらご記憶があるかと思いますが、日本語というのは修飾語などがやたらに多いせいで、同時通訳すると「字余り」してしまうのです。しかし、実際にそのまま直訳したら、聞いている方は意味不明になってしまうと思われます。言い方を変えれば「アラビア語は要旨が明確」「日本語は遠回し」と、言えてしまうのかもしれませんが──。

 そうした意味でもすでに、私たちは「自分が常用している言語」の背後にある民族性に拘束されているのです。
 思考は言語で表現される分、どう逆立ちしたところで、日本語を使っている以上は「ドイツ人の思考」を真似ることは出来ないし、「フランス人の思考」を真似ることは出来ません。日本語を使った「日本人の思考」で伝えることしか、出来ないのです。

 「失われた日本の民族性」で、「日本人がどれほど音に敏感で、繊細な感受性を持った民族だったか」を記事にしましたが、これから地球が目覚めていく中で、本来眠っていた「日本民族の良さ」が再び芽生えてくる可能性も否定は出来ません。
 日本人は元々「伝導体(プラズマ)」としての意識を持っていたのだから、それをあえて捨てる必要はなく、むしろ「前向きに受け入れていくことこそ」が、これから国際社会における「日本の立ち位置」になっていくのではないか──そんなふうに思えるのです。

 日本は今、世界の中で揺れています。
 日本の国内でさえ、大きく揺れ動いています。
 しかしそれは、絶望的な変動ではなく──「夜明け前の闇」でしかないのだと、私はそう信じたい。
 ナショナリズムとしての国粋主義ではなく、もっと広い視野をもった中で「自分は『日本民族』である」と堂々と言える人達がひとりでも増えていくことで、日本の未来はもっと変わっていくのではないか──私はそんなふうに思っている次第です。



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誰がこんな社会にしたの?

 昨日の「恐怖に打ち勝つ」という記事に、少し関連するかもしれませんが──。
 今日、私は「とても嫌なこと」がありました。
 詳細については、私以外の個人にとってもプライバシーにも関わる為書けませんが、簡単に言えば、最初のきっかけは「私自身のプライバシーを侵害されたこと」が原因でした。
 しかし、実際のところはもっと根の深い問題であることが後から判明し、場合によっては法にも引っ掛かる問題であることが分りました。まぁ、とどのつまり「窃盗罪」なのですが──それ自体は、私が直接的な被害を受けたわけではありません。

 ですが、それが「自宅内」で起きたことだった為、私は即、自室に「鍵」をつけることにしました。
 泥棒でしたら、ある意味「不運」ということもあるでしょうが──今回の場合は常時その危険がある状態なので、私は急遽、その処置をする決意をした次第です。(どのみち、あと半年もしたら家を引越す予定なので、それまでの辛抱ではありますが──)
 せっかく気分良く執筆の仕事がはかどっていたというのに、いっきに「奈落の底」に突き落とされた気分でした(苦笑)。
 今日は徹夜明けだった関係もあって疲労もたまっており、「少し寝てから、仕事をしよう」と思って──息抜きにDVD、「ロード・オブ・ザ・リング」の三作目「王の帰還」を見始めました。

 私が持っているDVDは「スペシャル・エクステンデッド・エディション版」なので、上映ではカットされた部分がかなり入っています。その為、当時の映画の冒頭でも入っていたのかはわからないのですが──私が観ている「王の帰還」冒頭には、「何故、純粋な民だったスメアゴルという青年が、指輪に魅せられてゴラムになったか」が描かれています。
 スメアゴルは、その日、デアゴル(原作を読んでいないので、これが弟なのか友人なのかは不明ですが──)と一緒に釣りを楽しんでいました。その際、デアゴルが誤って湖に転落してしまい──その湖の底で「指輪」を発見するのです。
 デアゴルは一瞬で指輪に魅せられましたが──それは、スメアゴルも同じでした。最初は冗談半分の奪い合いが途中から本気になり、最終的にスメアゴルは、デアゴルを殺してしまいます。
 指輪はスメアゴルのものとなりましたが──スメアゴルは殺人の罪で追放され、そしてゴラムとなったのです。

 私は、スメアゴルであったゴラムが──とても気の毒でした。
 誘惑に勝てなかった──ある意味「恐怖に勝てなかった」のと同じ意味があるかもしれませんが、それが故の顛末に、同情の念を禁じ得ません。
 そして、それを見ながら──私は今日、自分に起きたことを振り返って考えていました。

 罪を犯す人は、必ずしも「その人だけの責任」なのでしょうか?
 それをさせてしまうだけの要素を作ってしまう環境にも、問題があるのではないか──私はそう思ったのです。

 人は、誘惑に弱い存在です。
 スメアゴルとデアゴルが、指輪の誘惑に負けてしまったように、人は簡単に「誘惑」という罠に引っ掛かってしまいます。
 だから、目の前に──すぐ手の伸ばせるところに「お金」があれば、黙って取っていってしまったとしても……文句は言えないのではないか、と。(これ、海外では「文句言えない」です。管理してない方のミス──と言われてしまいます。)
  
 本来、そうなった場合その責任を出来るだけ早めに追及して、「これ以上、その人が罪を重ねないようにすること」こそが、本当の思い遣りではないでしょうか?
 そういった意味で、私は「防犯」というのはとても大切だと思います。それは、自分を守る意味だけでなく、相手に「罪を犯させない」という意味においても必要なことだと、そう思えるのです。
 にも関わらず、それを有耶無耶にして誤魔化して──後で文句だけ言うなんていうのは、言語道断だと思います。相手が若い子であれば尚更のこと、これ以上「過ち」を繰り返さない為にも、はっきりと叱責することが、大人の義務であり役目である──私はそう思います。

 しかし、最近の親──いえ、私の親世代なので、すでに祖父母世代でしょうか。
 何故か「面倒くさがって」そういうことを叱責したがりません。
 その子の将来がどうなったとしても、「自分には関係ない」と言いたいのでしょうか?
 もしくは、「今の子は、キレて何するかわからないから何も言いたくない」とでも言うのでしょうか?

 でも、そうさせたのは一体、どこの大人達なのでしょう?
 マスコミも評論家も、さも自分は無関係を装って「今時の子は、すぐキレる」と言いますが、そういう社会を作ったのは「そんなコメントをしているあなた達、大人じゃないんですか?」と、私は聞きたいぐらいです。
 
 ロード・オブ・ザ・リングにおける「指輪」を作ったのは、冥王サウロンですが──
 「誘惑に弱い若い世代」を作ったのは、現在40~60代の「大人達」です。
 冥王サウロンはそもそも「悪の権化」なので責任の取りようもないですが(っていうか、支配したかったわけですしね;)、本来であれば若い子達の批判をする前に、もっと大人達が反省すべきことがあるのではないか、私はそう思わずにいられませんでした。

 徹夜明けの上に、ちょっと気分的に滅入る事件だったので、かなり感情的でお見苦しい記事となってしまいましたが。
 責任を放棄する前に、もっと大人達は「自分たちの行為を省みる必要性」があるのかもしれない──40歳目前に控えた自分も含め、そう思わずにいられない事件でした。


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2010-06-12 | 社会 | トラックバック(0) |

「恐怖に打ち勝つこと」こそが、私たち人類に与えられた課題

 「最も複雑な意義を持つ恐怖である、心理的恐怖。これは非常に危険な感情で、誰かが多数の人間に対する洗脳の道具として用いるようになると、さらに危険度が増すんだ。恐怖を生み出すというのは、君たち(地球人類)の世界の支配者たちが広く利用しているとても効率的な手段さ。一人一人の意識を完全にコントロールするべく、大衆の恐怖をあおる」
 それは、当時捉えがたい概念でした。その頃(※1986年頃)はまだ、そんな説を裏付ける、よりどころとなるような事件もなかったのですから。よって、私は彼の説明を脅迫じみた晦渋(かいじゅう)な話と感じて、改めて不安になったことを覚えています。結局、スエルの話を完全に理解するには、二○○一年九月十一日の惨劇(同時多発テロ事件)を待たねばならなかったのです。
(「クラリオン星人はすべてを知っていた」徳間書店刊 マオリッツオ・カヴァーロ著:P81)


 上記は、このブログでも何度もご紹介したイタリア在住のUFOコンタクティー、マオリッツオ・カヴァーロ氏が「クラリオン星人」であるスエルから聞いた言葉を引用したものです。
 「恐怖」がどれだけ人の心を支配するか──それは本当に、私たち一般人でも想像可能な範疇となってきました。ここでカヴァーロ氏は「9.11」をあげていますが、あの事件は本当に「人々に恐怖を植え付けた事件」でした……。実際に、あの後(あまり日本で大きく報道されませんでしたが)「ビン・ラディンに似ている」という理由だけで、無実のアラブ人が射殺されているのです。これは明らかに「恐怖に扇動された行為」でしかありません。
 そんな根も葉もない感情論で殺人を犯した人が、果たしてどういう罪状になるのか──実刑になったのかどうなったのか、後日報道はありません。まぁ、銃社会であるアメリカにとっては、あまり注目されることではないのかもしれませんが──。

 ※余談※ 記憶にある人もいるかもしれませんが、1992年、ひとりの日本人留学生がハロウィンの際、「please(プリーズ)」と「frieze(フリーズ)」を聞き違えて射殺された──という悲惨な事件がありました。しかし、あろうことかそれは第一審で「無罪」だったのです。その後もいろいろと進展があり、アメリカの銃社会を考えるにおいて大きなきっかけとはなりましたが──現状、あまり大きく変わっていないような気もします……。(参照:日本人留学生射殺事件

 恐怖は、人を狂わせます。それはある意味、過剰すぎる防衛本能なのかもしれません。
 おそらく、戦争などはその典型例でしょうね。しかし、もはや戦争だけでは人類が支配出来ないことが分れば、そうした支配者達は策を練り、今度は「違った手段」を講じるかもしれません。

 ※余談2※ こんな言い方をするとまるで「隠謀論者」のように聞こえてしまうかもしれませんが、私は誓って「隠謀論者」ではなく、むしろ「隠謀論否定派」です。
 隠謀論というのは、結果的に「人類が陥りがちなエゴ」をひとつの組織や団体に責任転嫁するだけで、自分たちを省みようとしない──結局「現実逃避」と変わらない気がするからです。それは、戦争の責任を「戦犯」だけに押しつけ、自分たちは「被害者でしかない」と言っているのと何も変わらない──そう思えるのです。
 私たち個々人が「地球の細胞」であることを考えたら、この地球の現状に起きているすべてのことには「私たち誰にでも、責任の一端があるはず」です。
 確かに、世界を恐怖に陥れようとする人達はいるかもしれませんし、世界を「我が者にしよう」とする輩がいるかもしれないことは、否定しません。
 しかし、それは最初から「悪気のある行為」ではなく、私たち人類「誰もが持っているエゴ」から生じているだけのことだろう──私はそう思えるのです。
 だったら、外側に「悪」を見いだして突き詰めるのではなく、自分自身の中にある闇を見つめ、反省する心を持った方が遙かに尊い意義がある──私はそう思います。


 それなら「恐怖」とは、何のために存在するのでしょうか?
 これは、スエルが言うように「私たち地球人類」が愛を知らない愚かな存在が故の「失敗要因」でしかないのでしょうか?

 ──いえ。私は、どうも「そうは思えない」のです。

 私たち地球人類に「恐怖心」というものが根底に根付いているのは、否定しようのない事実です。
 しかし、それは「克服出来るからこそ」存在するのではないでしょうか?
 昨日も書いたように、この次元が「二元性」をもともと含んでいるのであれば、恐怖という前提の後には必ず「それに打ち勝つ」「それに負ける」という、二つの選択肢が準備されているはずです。
 そして、そのどちらを選ぶかこそが、私たち人類の「共通した課題」なのではないでしょうか?

 私は今までに何度も、「実際にその場で生きているとしか思えない」ほど、リアルな夢を見たことがあります。
 そうした夢の中で何度か、私は「兵士」だったことがありました。
 十字軍や、ローマ兵。ネイティブアメリカンのような部族の青年だったこともあります。
 私は、夢の中でとても「人を斬る恐ろしさ」を痛感していました。
 何度も私は「戦場の場面」を夢で体験させられましたが──西洋の剣というのは非常に重く、それを振り回すのも大変なだけでなく「人を斬った瞬間に受ける衝撃」というのが、とてつもなく「重かった」のです。
 斬った瞬間の血しぶきと、生々しい匂いまで、私は夢の中にも関わらず体感したのです。
 人を斬る時、「相手の人生」を思ったり「家族」を思ったら、絶対に斬れません。自分の感情を麻痺させ、恐怖でさえも麻痺させないと、戦場では生き残れないのです。

 例え夢とはいえ、そうした体感をした中で──私は如何に恐怖を打ち勝つことが、大切なのかを痛感しました。
 私は夢の中で、何度も「早くこんな現場から逃げ出したい」と思ったことか分りません。「こんな戦いがないところに行けたら、どれほど楽だろう」と。
 恐怖の中に立たされると、人はその恐怖から逃れたいが為に「感情を麻痺」させます。相手の尊厳や生命の大切さなどを忘れ、ただその場から逃れる一心で藻掻き苦しむだけです。
 でも──本来、「一歩」引いて見据えてみれば、そうした恐怖は「心理から引き起こされた幻覚」でしかなく、「どこか別の場所に真相があるのかもしれない」そう冷静に見ることが出来るはずです。

 恐怖に打ち勝つということは、イコール「状況に流されず、冷静に判断する目を養う」という意味でもあります。
 それは、今回の文庫本の中でも繰り返し述べていることです。
 表層的な状況、情報に流されることなく、「何が真理か」を見極める目──この「恐怖が闊歩する次元」に生まれた私たちにとって最も優先すべき課題は、まさしくそこにあるのかもしれません。


【伝言】本日フォームよりメッセを下さったK様
 心温まるメッセージ、誠にありがとうございます。(このような形でのお返事で、失礼致します──)
 お察しの通り、スウェーデンボルグの本はかなり参考にしています。それどころか、彼の著作物は「時代を超えて、新たなメッセージに代用出来る」ことに、最近気がつきました。二作目を書くにあたって、参考に出来る箇所が多々あることを、改めて実感している次第です。
 応援、誠にありがとうございますv 心から感謝申し上げます──。



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【参考文献】

クラリオン星人はすべてを知っていた 創造起源へのタイムトラベル (超知ライブラリー)クラリオン星人はすべてを知っていた 創造起源へのタイムトラベル (超知ライブラリー)
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プロフィール

篠崎由羅(しのざきゆら)

Author:篠崎由羅(しのざきゆら)
1970年生。幼少期から哲学・宗教学に造詣を深める。思想および思想史、それに付随した国際事情に興味を抱いて独学を続け、大学ではインド哲学科専攻。東西問わず、両者の思想に渡り研究を深める。

現在は看護師として施設で勤務しながら、その傍らで執筆活動を続けている。2016年11月にYOU are EARTH改め「WE are EARTH」の活動を再始動予定。より良い未来の地球のため、全力を尽くす誓いをたてている。

【篠崎編集担当】


【篠崎の著作本】

アセンション真実への完全ガイド―2012年のイベントホライズン (5次元文庫 し 2-1)アセンション真実への完全ガイド―2012年のイベントホライズン (5次元文庫 し 2-1)
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【第Ⅱ部に篠崎の質問文が一問一答形式で掲載されています】
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【インタビュー本第二弾】
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