「孤独感」を癒すことが、改革の第一歩

 今日の記事は、直接的にアセンションや地球と関係ない──かも(?)しれませんが、実際は「基本中の基本」として、深く関わっている問題だと、私には思えます。

 私が「体外離脱を繰り返す体質」ということは、もうこのブログでもカミングアウトしましたが、実際はそれ以上に様々な体験──ひとくちに言ってしまえば、霊体験とも言えるものが多数あります。
 何故私がそういうことをあまり記事にしないかと言うと、体験談ばかりが一人歩きしてしまって本質のメッセージが失われてしまうのが嫌だからなのですが、今回みなさんにお伝えする体験は、「今、多くの人達が抱えている問題のひとつの現れ」として重要なことだと思った為、あえて記事にする決意をしました。

 その前にまず、皆さんに前提知識として、すでに亡くなった方の霊生きている方の霊──あまりこういう言い方は好きではありませんが、前者を死霊、後者を生霊、という言い方で括らせてしまいます──の違いをお知らせしておきます。
 私は、その霊と接している中でだいたい「前者か、後者か」がわかります。(ちなみに、どちらにも属さない──というケースもありますが、それはまたの機会にお話します。)
 というのも、死霊の場合ですと「気づき」が自らない場合が多く、例えば外部からの助け(その方の先祖霊など)がない限り、自発的に浄化出来ないのです。
 しかし、生霊の場合は(本体はまだ生きているわけですから)、「自分で気付いて、自分から浄化することが出来る」のです。
 これが、死霊と生霊の「決定的な差」です。

 こういった話に触れたことがない──或いは「スピリチュアルには興味があっても、霊的世界には懐疑的」という方からすれば、よく分からない話かもしれません。
 ですが、霊を「思念」に置き換えれば、すぐに分かると思います。
 私達はいつでも、無意識に思念を飛ばしています。
 よく「虫の知らせ」などと言いますが、別に「ホントに虫が教えに来てくれているわけじゃない」のです(笑)。
 互いに無意識に飛ばし合っている思念を、受け取るか──或いは気付かないままでいるか、その差でしかないのだと、私には思えます。

 そうした場合、生霊の方の「思念」は、本体がある分、自らの気づきで「成長・浄化」することが出来ます。
 しかし、死霊の方の「思念」は──その人の生きている間の生き様、或いは亡くなった状況にも多々寄るので断言は出来ませんが、まるで思念がフリーズしてしまったかのように、同じところをグルグル繰り返すのです。

 この「二つの差」は、本当に大きな違いです。
 だからこそ私は、自殺者の多さに、本当に心を痛めています。
 何故なら、何に気付くにも、死んでからでは遅いからです!
 そして──私が今日体験したことは……「もしかしたら、自殺を目前にして悩んでいる人達みなに送れるメッセージなのではないか」とも思い、記事にすることにしました。

 今日、私が寝ている最中のこと──見知らぬ誰かが部屋に入ってきました。
 私の部屋に誰かが来るのは日常茶飯事のことなので(たぶん、この体験談をまとめただけでも一冊ぐらいの量になると思います)、別段それは驚かず、ひとまず様子を窺っていました。
 どうやら、それは少年のようでした。たぶん十代ぐらいの少年でしょう。寝ている私に向かって、まるで母親にすがりつくかのように抱きついてきたのです。
 嫌らしい感覚とかはいっさいなく、その少年から伝わってきた想いは──ひたすらに「淋しい」という孤独感。それだけでした。

「どうしたの?」

 私が呼び掛けても、少年は何も言わずしがみついてくるだけです。
 意識体(私はあまり霊体という言い方が好きではないので、意識体と書きますが、意味は同じことです)がしがみついてくると、大抵、その相手のことがわかります。
 とにかく──「ものすごく、淋しい人生」を歩んでいる少年でした……。
 しかも、その少年は普段明るく振る舞っているので、誰も彼の孤独には気付きません。彼は、「自分なんて、存在する意味がないんだ。消えてしまった方がいいんだ」と、どこかで思ってしまっていたようなのです。
 その上、自分が何で苦しいのか──何が原因でこんなに淋しくて仕方ないのか──死んでしまいたいと思う程、一体何が辛いのか、何も彼は分かっていないようでした。(しかし、まったくの他者にこうして意識体を飛ばすことが出来る時点で、非常に鋭い感受性の持ち主だと思います。)
 何かを私に伝えたくても、何も言えない。言う言葉が思い浮かばない──そんな想いが伝わってきたので、私はこう返しました。

「わかったよ。それなら、気持ちが落ち着くまで、ずっとこうしていなさいね。焦らなくていいからね」

 少年が、私に「母親のような愛情」を求めていたのが分かったので、私はただひたすら、母親であれば誰もがするように、じっと少年を抱きしめていました。
 長いこと、彼は私にしがみついたままでしたが──しばらくして、泣き始めました。
 意識体が泣く──ということは、そうそうありません。
 しかも、その涙は孤独の解放を示す意味の涙だったんだろう──そう感じました。
 その証拠に……彼は、そのまま消えていきました。おそらく本体が目覚めたか、或いはいずれにしても肉体の方へ戻ったのでしょう。
 私はその間ずっと意識があったので、そのまま体を起こしました。もう、どこにも彼の気配は感じませんでした。
 ただ、「悪い感じ」はありませんでした。
 彼は、「涙を流す」まで意識を解放し──それで肉体に戻り、きっと成長出来るだろう、そう信じられたので。

 霊だのという言い方をしてしまうと、それは「人間から切り離された別もの」というふうに解釈してしまう人が多いようですが、そうではありません。
 霊が「三次元化した(肉体化した)」のが「人間」なのです。なので、どちらも「同じもの」です。
 だから、霊を闇雲に怖がるのは間違いです。
 そして、霊を見下すのも間違いです。(かつての霊媒師のように、霊に怒鳴りつけるなんて「もっての他!」です。)
 また同時に、霊を敬うのも間違いなのです。

 私達は、あくまでも「同じ仲間」であって──肉体があるか、ないかの差でしかない。
 しかも、今回のケースのように「肉体をおいたまま、思念をどこかに飛ばすこと」というのは誰もが無自覚のうちに、日常茶飯事やっていることだからです。

 ただ、私が今回のことで痛感したのは──彼のように、身近に相談できる友や存在がなく、その淋しさを意識体となって癒すしか手段がない人というのは、実はもっといるのではないかということへの懸念でした。
 友達──という言葉の意味が、私達の世代と今の若い世代では「だいぶ変わってきている」印象を受けます。
 私は30代(あと数日で40歳)ですが、当時の「友達」という概念は、「喧嘩をしようが、意見が多少ぶつかろうが、それでも心の通じ合った兄弟姉妹」みたいな感覚でした。
 しかし、私の姪っ子・甥っ子世代(20代前半~10代)を見ていると、「喧嘩はしない。面倒くさいから」「自分の言いたいことを言って相手にウザがられるのは嫌だから、言いたいことも言えない」「人間関係は、面倒くさくなったら切ればいい」そういった、どこかドライな感覚が見え隠れしてしまっているように思えるのです。

 本当に自分の心を理解してくれる人がいる──ということは、確かにそうそうありません。(何故なら、それは相手だけの問題ではなく、自分自身で「ああ、この人こそは理解してくれている」という自覚も必要だからです。)
 でも、あまりにまわりがドライ過ぎた場合──積もり積もった孤独感を、どこにはき出せばいいと言うのでしょう。それこそ、私が出会った彼のように、寝ている最中無自覚のうちに思念を飛ばし、波長のあった人のところで癒してもらう以外、ないとでも言うのでしょうか?

 年間三万人という自殺者数を減らすには、ただ社会制度が変わるとかそんな程度でどうにかなるものではないと、私は思います。
 しかも先日、40代の死因トップが、ついに「自殺」になったという話まで聞きました。
 鬱病だって、ただ薬処方してもらうだけで治るとでも言うのでしょうか? 彼らが鬱病になった背景──それを解決しない限り、こうした哀しみの負の連鎖は止まることがないのではないでしょうか。(鬱病の方の自殺について、私は深い思い入れがあります。私の従兄弟が二人自殺しているだけでなく、私自身も決して一生忘れられない思いと愛情を観たからです。 参照:無意味な法律は「魂のコミュニケーション」さえ奪いかねない

 これだけ多くの人達が暮らす社会にも関わらず、ひとりひとりの心の中が「孤独に満たされていた」としたら──なんて哀しいことでしょう……。

 本来、孤独というのは「人から癒されるもの」ではなく「自然」からも癒されるものなのです。
 だからこそ、アスファルトだらけになった都会ほど、孤独を感じる人が多いのでしょう。自然、惑星のエネルギー、星々の輝きから癒されなくなったからこそ、人は「人同士で孤独を癒そう」としているのですが──それも満たされなかったら、本当に、今度はペットとかしかなくなるのだろうか、とふと思います。

 地球を良くしていく為の課題は、本当に数え切れない程多すぎて──「どこから手をつけて良いのやら」という感じですが、どんなに宇宙人が地球の為に何かをしてくれていても、どんなに光の生命体とやらが頑張ってくれていても、一番頑張るべきはその星に生きている私達に他ならない、私はそう思います。
 まずは、人々の奥底に根付いてしまったこの「孤独感」を癒すことが先なのかもしれません。
 勿論、いきなり街中で淋しそうな人見つけて「声かける」なんてのは──宗教勧誘者とかと勘違いされてしまうので(爆)、そんな直接的なアプローチは不要ですが(苦笑)。

 ただ「祈る」──それだけでも、充分なのかもしれません。
 ひとまず私は、今日出逢ったあの少年が「自分は決してひとりじゃない」という気づきに至り、強く生きていってくれることを祈ってから休もう、そう思っています。


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私たちが、この地球に出来ること

 最近、このブログや本を読んで下さった方からメールを頂く機会が増えました。
 皆様とても鋭い視点で感想を述べられていたり、心暖まる応援を書いて下さっていたりと、本当にありがたいです。そして、中には「今、この世界に何かをしなければと、とても焦っている」というメッセージを下さる方々が複数いらっしゃいます。
 私はこういう方々のメッセージを読むたびに、世界や社会、地球のことを他人事ではなく「自分のこと」のように思い、自分のように痛みを感じている人達がいらっしゃる事実を知って、とても励まされている次第です。

 私が去年の10月、エハン・デラヴィさんと初めてお逢いしてインタビューした時も、まさに「その状況下」にいました。
 当時私は、アラビア語学校の学生でした。
 9.11をきっかけに「このままじゃいけない」という焦燥感に煽られ、世界の平和が本当に訪れるのか──その為にはどうしたらいいのかをひたすら模索し、ずっと走り続けて来たのです。
 イラク戦争当時も、「市民に犠牲者はいない」というアメリカの報道をまるであざ笑うかのように、頭を撃ち抜かれたイラク少女の遺体の写真がネットで公開された時は、「真実は一体、どこにあるのか」と発狂しそうなぐらい追い込まれた程でした。
 その日を境に私は「イスラム教」について調べるようになり、そこから派生して、アラビア語を勉強するようになったのです。

 日本はどうしてもアメリカの意見を鵜呑みにしやすいせいか、イスラム教というと「好戦的」「戒律に厳しすぎる」という印象が強いようですが、実際はそんなことありません。
 確かに、一部そうした過激派な人もいるのは事実ですが、そんなことをいったら日本だって同じですよね? 日本人全員が右翼か──と聞かれたら答えがNOであるのと同じように、イスラム教だって、全員が過激派なわけでは決してないのです。
 それどころか、彼らはすごく友好的です。
「イスラムは女性蔑視が酷い」という人達もいますが──確かに、女性と男性の格差がはっきりしているのは事実です。しかし、それは「女性と男性という性による格差」から生じているものでしかなく、それを彼らはしっかり受け入れているので、変ないがみ合いやフェミニズムの主張といったものもありません。それどころか、むしろ夫婦仲はとても良かったりするのです。奥さんはご主人の尊厳をきちんと守り、そしてご主人も、奥さんや子供の面倒をしっかりみる──そんな関係性なのです。

 短い間でしたが、真摯なイスラム教徒であるアラブ人の人達と共にふれあえたことを、私は心からありがたく思っています。
 そうでなければ、私だってアラブ人の方々を誤解したままだったかもしれません。
 私は、「もっともっと、イスラム教における世界の偏見を解きたい」──そうも思いました。
 アラビア語の学校を卒業してからは、そのまま中東に渡り、紛争解決に直接関わるボランティアの仕事かNGOにでも参加しようとも思っていた程だったのです。
 それこそが、この泥沼となってしまった「紛争地獄」を終わらせる解決手段になるのではないか──そう思ったので。

 しかし──そんな私に、再び様々な難関や疑問がわき出てしまいました……。
 例えば、実際に国連職員として派遣されている友人から聞いた「あまりにも過酷な労働状況」や「極端な秘密主義」。実際にNGOでアフリカ各国を廻った友人から聞いた、悲惨な事実──。
 海外から派遣されてくるNGOや国連は概ね「その国の上層部」と結託しているので、本当に救われるべき人達は、かえって迫害される結果に繋がっているという事実などを、実際の関係者から聞いてしまったのです。
 私が調べてきた事実は、本当に「虫めがね」を通じて拡大した僅かな一部分でしかなく、それよりももっと広い範囲ではさらなる悲劇、惨劇が横たわっていたことを知り、大きなショックを受けてしまいました。

 クラスメイトの一人だった元添乗員だった女性は、パキスタンのレストランで食事中、テロの人達に包囲されたことがあったそうです。
 とても怖かったそうですが──それよりも何よりも印象的だったのは、「みなが団欒の最中、本当に楽しそうに食事をしていた人達が、一瞬にして見せた緊迫と絶望感の表情が忘れられない」という言葉でした。

 彼らにとって、テロはすでに「日常の一部」になりつつあるのです。
 どんなに笑っていても、「いつ、なんどき」そこに巻き込まれるかわからない──。
 その緊迫感がどれほどのものなのか、平和な国に育った私たちには、およそ想像など出来ないでしょう。

 私はそうしたことへの疑問──「本当に国連機関やNGOで、紛争の解決は可能なのか」を悩み始めました。
 1994年に起きたルワンダ紛争でも、国連がほとんど機能しなかったどころか、国連軍が撤退したばかりに、一晩で2500名以上のツチ族が斬殺されたという実話があります。
 こうした問題を解決する為に、私たちは「この次元で問題解決出来るのだろうか」──そんな疑問も過ぎり始めました。

 そしてその頃。私はあらゆる精神世界の書物に目を通した中でエハン・デラヴィさんの本を読み、エハンさんに直接長々と質問メールを送ったのです。
「この世の中に対する矛盾と、それを本当に解決する方法はあるのか」といったような内容を──。
 エハンさんは、親切にも私と面談の予定を組んで下さり、せっかくだからということで、取材をさせていただきました。(それで出来たのが、YOU are EARTH機関誌一号((完売済))というわけです)。
 その機関誌の中で、私はエハンさんにこう問いかけました。

「地球も、私たちと同じように心もあり、意識もある。私達ひとりひとりの「細胞としての自覚」があれば──「私達は地球の『細胞』なんだ」という自覚がどんどん広がっていけば、地球そのものにも絶対にいい影響があるという思いが、すごく強くあるんです。だからこそ、「焦り」があるんですよ。「(自分たちが変わることで、地球も変わることが出来るのなら)どうにかしたい!」とう焦りが──。(機関誌VOL1 P12~13より)

 「焦り」──。
 これこそが、私自身がずっと上記「9.11」から抱えてきた叫びでもありました。

 だからこそ、私は読者の皆様が送って下さるメッセージの中に書かれた「焦り」の気持ちが、よく分かります。
 私自身が、ずっと今まで「焦っていたから」です。
 どうにかして、この星を良くしたい──と。
 そして、今でもきっと「焦っている」のでしょう。
 ただ、以前と違うのは、あらゆる角度で見えてきたものがあって──それが故に宇宙の流れに任せよう、という思いが少しずつ強くなってきたところかもしれません。

 アンデルセン童話に、「子供を死神にさらわれたお母さん」の話があります。お母さんは子供を取り戻す為に死神を追って旅に出て、その途中で服はボロボロになり、白髪になって、しまいには視力まで失います。
 そこまでしてようやく、神に召された子の前に辿り着き、「子供を返してください」と懇願しました。
 神様は何も言わず、その母親に「その子が生きていた場合の運命」を見せました。
 その時、何もかも失ってまで子供を求めていたはずのお母さんは、ひとこと──

「神の、思し召すがままに」

 そういって、子供を諦めたのでした。
 私が小さい頃読んだ作品なので多少うろ覚えなのですが──今の私の心境の変化は、そのお母さんに近いものもあるかもしれません。

 私は「アセンション真実への完全ガイド」の中で、「この次元が電気的宇宙論として二元性をもって誕生しているのであれば、どうしたところで摩擦も対立も避けられないのではないか」という考察を書きました。
 仮にそれが事実であれば──哀しいけれど、紛争は「止められない」のです……。

 でも、だからといって私はまだ諦めてなどいません。
 童話に出てきたお母さんのように「地球の運命」を見せられたわけではありません。
 だからこそ、「別の方法を考えよう!」そう決意したのです。

 エハンさんは、「この次元の問題を解くには、『この次元を超えたところから、答えを探さなくちゃならない』」と言っていました。
 まさにそうなのだろうと、私にも思えるのです。「それなら、本当に平和な世界(高次元)の青写真を先に完成させてしまうことの方が、先決なのではないだろうか」と考えました。

 私自身は、幼少期から体外離脱を繰り返す体質だったので、その中で自然と共生しあいながらも発達した文明なども見たことがあります。
 その真偽云々よりも、私にとって何よりも価値があったのは「人類が平和に暮らせるかもしれない青写真が存在している」という事実でした。
 精神世界の人達は、そういう離脱体験や次元の話になると、すぐその高低(4次元レベルだとか5次元だとか6次元だとか)に拘りますが、そんな差に何の意味があるのでしょう?
 本当に大切なのは、まず目の前のハードルを越えることでしかありません。一足飛びに三次元から六次元になったりする必要なんかなければ、八次元になる必要もないのです。

 私は「如何にして、高次元システムの青写真を明確化するか」を探究していく中で、カヴァーロさんにいくつか高次元における質問をして、返答を頂きました。
 頂いた返答は驚くような内容ばかりですが、その中で「この次元と、高次元における徹底的な差」を、ある程度考察することが出来ました。
 ですので、逆にこの溝を埋めることが出来れば、私達人類は、大きく飛躍することが出来るのではないか、と考えています。

 アセンションは、待つものではなく「そうやって、自分たちから『起こすもの』」なのではないか──そんなふうにも思えるようになりました。
 たとえ99%困難なことだとしても、1%の望みがあるのであれば、私はそれに「全力を尽くして、賭けていきたい」──強くそう望んでいます。

(高次元に関する書籍は、今年の冬か来年の頭ぐらいに出版を目標にしています。その前に、カヴァーロさんのインタビュー本や私が質問した内容の返答に関する本が秋頃出版されますので((私の質問は、ほ~んのおまけ程度でしかありませんが(^^;)、頂いた返答内容は素晴らしい価値があるものです))是非、楽しみにしていてください。)

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私たちは地球に守られ、地球に生かされている

 昨日、私は久しぶりにDVDで「EARTH(アース)」を観ました。
 「アース」は有名な映画ですのでご存知の方も多いと思いますが、BBCが5年かけて作成し、2008年に上映(イギリスでの上映は2007年)されたナショナル・ドキュメンタリー映画です。
 地球を北極から南極まで縦断しながら、その地域に生きる生物達の生き様を撮った映画です。樹木が一本も生えないような極寒の地から、自然や食糧に溢れた南の大地、水一滴が生死に関わるような砂漠地帯など、本当にあらゆる環境がこの地球にあるということを実感させてくれる映画です。

 私はこの映画で、「へぇ──こんな動物がいたとは」と初めて知ったような存在もいました。
 例えば「アネハヅル」という渡り鳥は、とてもか細い体つきにもかかわらず、何と冬場には「インド」に渡るため「ヒマラヤ越え」をするのです。自分の身体の何百倍、何千倍もある高さを──突風に煽られながら超えていく姿は、観ているだけで胸が熱くなります。
 また、座頭鯨のメスは、子育てをする為に赤道直下にある珊瑚礁が豊かな浅瀬で暮らしますが、ある程度子供が育つと再び南極の故郷へと戻ります。それは「赤道直下から南極まで」という、地球の半分を移動するという凄まじい旅なのです。

 この地球上には、あらゆる生命──あらゆる生物、動物、昆虫……本当に数え切れない程の「いのち」が存在しているのです。
 にも関わらず、私たちはその存在さえを忘れてしまうことが多々あるのではないか、そんなふうに思えてしまいました。
 昨日の記事「ある有名著者への意見書」にも書きましたが、食糧危機に備えて「食糧を備蓄しよう」という姿勢は、人間の為ではあっても、他に生きる生命達の為のものではありません。地球を穢してしまった上に、「自分たちだけ、生き残ろう」というのは──私は、何だかとても浅ましい考えのように思えてしまうのです。

 私たち人類は、「この地球という惑星で、他の生命達と共に共生しているのだ」という意識を持つことが何よりも大切なのではないでしょうか?

 人類は、「人間には害がないから」という理由だけで、多くの生命や、生物達が生きる世界を蔑ろにしてきました。
 「2053回も核実験をした、愚かな人類」にリンクした動画を見て頂ければ、どれほどの生命が犠牲になってきたのか、そしてどれほどの大地と海を穢してきたのか──すぐにお分かり頂けると思います。

 映画「アース」を観ていると、「ああ。本当に素晴らしいのは『生命そのもの』なんだ。美しく、かつ強くて輝かしいのは生命という存在なのだ」ということを実感します。
 勿論、「狩り」という場面もありますが──獲物となって逃げる側も、そして追う側も、ひたすら「生きる為」なのです。しかも、彼らは「生きる為に最低限の獲物を捕るだけ」であって、人間のように、贅沢の為の飽食や、廃棄食材を出すことはないのです。

 生命への尊重──。
 私たち人類が忘れていたものは、何よりもそのことなのかもしれません。

 ふと、その際に思い出したのですが。
 マオリッツオ・カヴァーロ氏は、二作目「スターピープルの叡智」の中で、「クラリオン星では、樹木や自然を傷つけることなく共生するよう、街のシステムが作られている」という話をしていました。
 そう言えば、映画「ロード・オブ・ザ・リング」の中でも、エルフ族達はみな森の中で「樹木を傷つけないよう、樹木に沿った形で建築物を建てている」という設定を活かした──とメイキングで述べられていました。

 後者は物語とはいえ、人というのは高度になればなる程、生命への尊重と、自分たちが惑星によって生かされていることへの恩恵を感じることが出来るのかもしれません。
 それこそが、高次元と私たちの次元における人類の「大きな差」なのかもしれないですね。
 私たちの次元では、自然や生命を「資源(物質)」として利用・活用することだけに終始し──そして高次元では「共に生きる仲間」として、尊重し、恩恵に感謝する──。
 先日、「意識の変化が、どのようなものになるのか」という質問に対して、「地球や自然を大切にすることが、ごく当たり前のことになる」と答えましたが、まさにそこに行き着くのかもしれません。

 北極から少し南方に下がったところに、「タイガ」と呼ばれる針葉樹地帯がありますが、ここは南方から春が訪れることによって「一斉に、酸素を発生する」のだそうです。
 私たちがこうして「呼吸をして生きている」ことそのものも、実はこうした木々のおかげなのだということを思うと──如何に私たちが今まで不遜に生きて来てしまったのかを、痛感せずにいられません。

 今、社会が色々と混乱し、情報も錯綜している「こんな世の中」だからこそ──私たちは改めて「地球の恩恵」「自然が育んで守ってくれている環境」に目を向け、生かされている事実を実感することが大切なのかもしれませんね。
 そうすることが、少しずつ新たな人類意識の目覚めに繋がっていくのではないか──そんなふうに思う昨今です。


【謝辞】
 皆様から頂くメールを、いつもありがたく拝見しております。
 多忙の為お返事が遅れてしまっておりますが、何卒ご容赦くださいませ。
 皆様のお気持ち、応援に、心から感謝している次第です。本当に、ありがとうございます──。


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ある有名著者への意見書

 この記事を書こうかどうしようか、長いこと悩みました。
 私は以前も書いたように「他者を批判しない主義」です。
 しかし、「社会に害を成していると思える意見には、個人批判をせずに、その人の意見(著作)について堂々と反論する」という姿勢で常にいます。
 そして、今回私がしようとしていることは、とある方の著作に対する「反論」です。
 最初はその本のタイトルも掲載していましたが──それは控えることにしました。
 おそらく、一度でもその方の本を読んだことのある方であれば、名前を出さなくてもすぐに分かるだろうし、また、どんな著作であれ、その人が一生懸命書いたものであるのであれば(そうであると、私は信じたい)、それを批判する権利など、私にはないからです。

 ですが、あまりにも今回の本は「目に余りすぎ」でした。
 しかも、この方は精神世界系ではかなりの有名人です。
 本もだいぶ売れているようですが、私は心から「読者のみなさん、もっと洞察力をもって自分で思考することを試みてください!」と心から叫びたい気持ちでいっぱいなのです。

 私のブログや本を読んで下さっている読者の皆さんは、もともとすでに考察する力をお持ちの方が多いので(それは頂く感想や質問文を拝見すれば、すぐに分かります)、もしかしたら私が今から叫ぶことは、すでに皆様もお気づきのことかもしれません。
 しかし、やはり「どうしても間違っている」と思ったことをこのまま見過ごすことは出来ないので──あえて指摘することを決意しました。
 著者の名前は……出そうか悩みましたが、その方を信じている人達を不用意に傷つける意図はないので、あえて伏せさせていただきます。
 でも、私が一番伝えたい相手は──本当はこの本を書かれた著者の方、ご本人にです。
 私が悪戯な中傷や批判目的で書いているのではなく、純粋に真理探究を目指す立場として書いているのだということが、その方に伝われば幸甚です。

(その方の著作「A」における疑義((著者はB先生とさせて頂きます)))
●次元の考え方における間違い
 

 この著作Aには「二次元に高さが加わって三次元になっている」と書かれています。
 しかし、それは既存の物理学において指摘されている次元の考え方の基盤にもなっていない、とても中途半端な表現です。(参照:「既存物理学における次元の考え方への疑問」)
 そもそもB先生は、次元の概念が多種あること自体、調査されているのでしょうか?
 次元というのは物理学用語においては「座標」を表す空間の認識を示すものであって、精神世界や世界の構築を示す次元という概念とは根本的に違うのです。それは今や精神世界においては常識的になりつつあることなのですが、これほど有名な活動をされている方がそうした「基本的なこと」をご存知ないというのは、如何なものかと思います。
 精神世界における次元の定義は「物質組成における因子をつかさどる振動数(周波数)」により生じるものと考えられており、それに応じて「UFOが3.5次元」だったり「目に見えない異次元の存在」があったりするのです。
 これは物理学的な座標とは「まったく異なる考え方」です。
 もしそういう説明を「初心者向けに端折った」というのであれば、せめて注釈をつけるべきではないでしょうか?


●宇宙人とのコンタクトに関する検証の甘さ 

 ご本人は「宇宙人に会って色々なことを教わった」と言っていますが、その内容の検証があまりにも甘過ぎです。
 ご自身が宇宙人から聞いた事実と(残念ながら、私が読んだ本には、その宇宙人に会った経緯も、どういうシチュエーションだったのかも、いっさい書かれていませんでしたが。本来他の著作に書いてある為割愛したなら「○○著作を参照」と書いておくべきでしょう)、他のUFOコンタクティーが言っている事実を検証することなく流通本として店頭販売するというのは、無責任な行為ではないでしょうか?
 ちなみに、私はマオリッツオ・カヴァーロさんの体験談、およびハワード・メンジャー氏の体験談、最近出版されたヴラド・カペタノヴィッチ氏の体験談などを照合し、その上で、「マヤの伝承」やグラハム・ハンコック氏の書いた「神々の指紋」、ウォレス・ソーンヒル博士の「電気的宇宙論」との検証をした上で、彼らが体験した「UFOコンタクティー体験」が事実のものであろうという確信を得ました。
 どんなに断片的であったとしても、真理に基づいた体験というのはまるでパズルのピースの如く「共通項」が見いだせるものです。
 しかし残念ながら、彼らの共通した事項と著作「A」に書かれているB先生の書かれている事実に、共通項は見られませんでした。
 せめて、もっと具体的、かつ事象を明確に書くべきではありませんか?


●断定的な言葉が多いものの、その根拠がまったく書かれていない。

 論説というのは通常、他の文献を参考にした場合は参考にした著者、および文献名などを明記しなければなりません。(日本の場合はあまりうるさくないのですが、欧米では罰金刑になる程の罪です)。
 しかし、B先生の本はあまりにも「断定的な言い回し」が多いのにも関わらず、参照とした本の文献名がいっさいありません。(巻末にさえ、一覧はありませんでした。)
 通常、調査した結果を載せる場合は必ずそれに応じた文献名や、それを唱えた学者の名前が掲載されるはずなのですがそれさえもないとなると「すべて、この方の持論でしかない」ということになってしまいます。
 しかし、それはとても「危険」です。
 ただのエッセイであれば良いですが、「アトランティスの大陸が存在した時代」を特定するのは非常に問題です。それは今現存で生きている「誰にとっても」断定出来ることではなく、憶測で述べることしか出来ないことだからです。(しかも、アトランティスという名が世に知られたのは、プラトンの「国家論」で記載があったからです。要するに史実上のものではなく、出所はプラトンの著書なわけです。それに対して「○○頃にアトランティスが存在した」と断定するのは、読者を混乱させる大きな一因となってしまいます。)
 あれほどの体験をしているカヴァーロ氏でさえも、そういう時期の特定をする時は「○○から聞いたところによると」と明記していますし、ルドルフ・シュタイナーも「霊視した結果によれば」という前提が必ずあります。
 著作Aに書かれている内容を読者が鵜呑みにしてしまったら、どう責任を取られるおつもりなのでしょうか?


●「禊が起こる時期」として「2012年12月22日」と断定してしまっている。

 このブログにも、そして文庫本にも再三書いたことですが、暦という数字で2012を断定するのは、とても危険です。
 しかし、この方ははっきりと「2012年12月22日から三日間かけて、地球の禊を決行することに至った」と断言してしまっています。
 この言動の責任を、どうとるつもりなのでしょうか。(大体想像つくのは──その時期を過ぎてから「私の(私たちの)努力の甲斐あって、神々の禊ぎはなくなりました!」とか言うのかもしれませんが──残念ながら、そういう手で満足出来るほど、読者は愚かではありません。)
 この方は政治学の勉強はされているようですが、哲学や神秘学、宗教史や宗教学については「まったくご存知ないのではないか?」と疑いを持たずにいられない程です。
 数値の概念は本質ではなく、あくまでも2012という問題は「今、私たちが置かれている状況そのもの」でもあるのです。
 2012を解決できるのは政治的問題ではありません。霊性による問題でしかないのです。


●根拠のない日本人擁護説

 著作Aの中で、日本人は「キリストの精神レベルが1000であれば、日本人の精神レベルの平均は600というぐらい、非常に高い」ということを書かれていますが──それはちょっと自画自賛過ぎだと思います。(意識レベルを数値化した「パワーか・フォースか」の本でも指摘されていますが、500~700レベルがマザーテレサやガンジーなのです。日本にそんなにいっぱい、マザーテレサやガンジー、ネルソンマンデラのような人がいるでしょうか?)
 もし本当にそんなに精神レベルが高い国であれば「これだけ政治がぐちゃぐちゃ」になっているでしょうか?
 年間三万人という人が、自殺するでしょうか?
 私も確かに日本民族の「精神性の高さ」には注目していますし、だからこそ「日本人の精神改革」という本を書こうと思っている程ですが、それは決して「今の現代日本人のレベルを良し」としているからではなく、従来の良さを取り戻す為に書こうとしているのです。
 しかも、日本人が堕落したのを「闇の権力者達のせい」にしていますが、それこそ、「一部の人にすべての責任をなすりつけているだけ」の言動です。
 闇は、本来誰にでもあるものですし、そういう自覚がなければ、いつなんどき「同じ罠」にはまるかわからないはずです。(参照:隠謀論説への反論
 
 それなら──B先生。あなたは、「自分はそれだけ、完全な善人なのだ」と断言出来るのでしょうか?
 人間としての過ちは、何もないと断言出来るのでしょうか?


●食糧危機を回避する為の「食料維持」に対する活動について●

 この活動もまた、結果的に「地球のアセンションやカタストロフィーを、他人事にしか眺めていない証拠」であり、同時に「自分たちは助かりたい」というエゴでしかないことに気付かれていないが故のことのように思えます。
 もしB先生が多額な会費を集め、食糧危機に備えるとしても、全世界の人々が助かる程の備蓄ではないはずです。(仮に本来そうするのであれば、それは「個人が会費でウン万円払って済む」問題ではなく、それこそ映画「2012」ではないですが、もっと国家予算的にかかる金額のはずです。あの映画同様、それこそ10億ユーロなんて平気でかかることでしょう。)
 何故、地球の危機をそれを招いたのは私たちなのだから、その責任を甘んじて受け入れようという気になれないのですか? どう見ても、この活動は「自分たちは生き残りたい」とするエゴから派生しているとしか、私には思えません。
 
 また、この活動がどこまで浸透しているか──どこまで軌道しているのかは不明ですが、万が一食糧危機が起こらなかった場合に、今までのカルト教団同様に批判の対象になってしまう危険は念頭に措かれているのでしょうか?
 数年前、「世の中からお金がなくなる」として、ネットマネーで運用しようとした「円天(参照:エル・アンド・ジー)」の会長は、B先生同様、高次の存在から「この世の中からお金がなくなる」ということをメッセージで受けて、こういう事態になったことも、もとジャーナリストであったB先生であれば、当然ご存知のはずです。

 どんなに高次元のシステムが素晴らしくても、この次元は「摩擦や対立が生じている次元なのだ」という自覚を、絶対に失うべきではないと思います(事実、私も高次元システムを探究していますし。でも、だからこそ慎重に検証を重ねています。安易に実現出来るものではないからです)。
 もし、この会に参加されようと悩んでいる方がいるのでしたら(ネットで調べたところ、会費が相当高いのだとか)──私は、「それなら是非、『今日食べるパンがなくて困っているアフリカの子供達』や『産廃のゴミ山に住むインドやフィリピンのストリートチルドレン達』に寄附すること」の方をお薦めします。未来来る食糧危機に備える前に、すでに飢餓で苦しんでいる子供達が大勢いる問題を解決することの方が、遙かに優先すべき事柄ではないですか?


●結果、本の目的が達成されていたのかという疑問

 この本は「アセンション後」をテーマに書かれたようですが、私が読んだ限り、どこにも高次元におけるシステムについて書かれていなかった印象を受けました。
 本の主旨、目的から外れてしまい、憶測が飛び交っている割には確信を濁らせているような印象です。
 勿論、未来を断言することは出来ないのだからそれは仕方がありません。
 しかしそれ以上に、内容があまりに支離滅裂すぎて、一貫性がないように思えたのは残念です。本来「アセンション後」をテーマに本をまとめるのであれば、高次元のシステムがどのようになっているのかについて触れるべきではないでしょうか?

 ここまで書けば、もしかしたら「あ、このB先生ってあの方のことかな?」と勘づいた読者の方がいるかもしれません。
 が、それでもあえて名前は伏せさせて頂きます。ご質問頂いて、仮にその答えが正しくても「あはははは~」と笑って誤魔化すだけなので、あしからず(笑)。(違っていた場合は、はっきり「違います」と答えますが。)
 ただし、私はどんな時でも「反論」はしても、その人自身の否定は絶対にしません。
 ですので、この方自身の経歴については敬意を表していますし、立派に活躍されてきた方だなとは思っています。
 ただ、人生にはいつでも「罠」があります。しかも、こうした精神世界、スピリチュアルには「ありとあらゆるところ」に罠があると言っても過言ではありません。あのルドルフ・シュタイナーや、大霊能力者のスウェーデンボルグでさえ、「よくよく注意しなければ、霊界や目に見えない世界の探究は傲慢の罠にはまる」と言っていました。
 私自身も常にそのことを気をつけたいと思っていますが、是非、このB先生も(せっかくあれだけの経歴があるのですから)気をつけて頂きたいものだなと、つくづく思います。

 でも、私はB先生ばかりが問題だと思っているわけではないのです。
 「このような矛盾の多い内容を、何の疑問も抱かずに平気で出版する出版社こそに問題がある」──そう思います。
 本当に知的財産とも言えるような高度な内容、ウォレス・ソーンヒル博士の「電気的宇宙論」が販売数を伸ばさず、B先生のような「何を根拠に書いているのか、まったく不明」な本や無責任なチャネリング本ばかりが販売数を伸ばすのは、それは必ずしも読者のせいだと言えるでしょうか?
 そうではなく出版社側の姿勢に問題があるのではないか──私はそう思います。
 いい本は、書評次第でいくらでも販売数を伸ばします。もう12年以上前に出版されたダイアモンド博士の「銃・病原菌・鉄」が、今になって店頭ベストセラーになっているのは「書評の影響力」です。(ここで注意しておきたいのは、Amazonなどの書評は「あまり参考にならない」ということです。場合によっては著者の知人のサクラが書いているケースがある、というのも耳にしました。こうした場合に参照にすべき書評は「新聞紙」や「雑誌」などの書評です。私はもっともっと、本格的な目をもつ書評家の方が出て欲しいと思っています。※私自身も、来月から別サイトで書評コーナーを設置予定ですので、よろしければご参照ください。)

 このままでは、本当にいい本が世の中から消え失せ、みな思考を放棄した「電子書籍ばかりに飛びつくロボット化した人類」の時代が来てしまいかねません。
 何でもかんでもポジティブに捉えるのではなく、今ある問題点をしっかり直視した上で、どう改善していけばいいのかを考える重要な時期に差し掛かっている──私はそう思っています。
 その為には、出版社の方々にも是非「名前が売れている」という理由だけで出版するようなことはせず本当にいい内容を書いている本なのか、どうかを検証する目を持って欲しい──そのように心から願う次第です。
 そして執筆家側も、「本というのは、色々な人の力、および紙という資源──森や木々の命の上に成り立っている」ということに敬意を表し、一文一文を大切に書いていただきたいと思っています。


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2010-07-28 | 雑談 | トラックバック(0) |

【質問】ニュートラルな意識って、どういうことを言うの?

 今回も、メールでとても良い質問があったので、一部そちらをご紹介します。

【質問1】ニュートラルな視点についてですが、これは何か事件があったとしても、出来事自体に良いとも悪いとも判断をせず、「なんとも思わないようになれ」ということでしょうか?

 いいえ、そういうことではございません。
 むしろ、何かの事件の際に怒ることも──また、哀しむことも大切です。
 しかし、「感情だけに囚われず、一歩上の段階で見つめる」というのがニュートラルな視点なのです。
 出来事自体に「良い・悪い」の判断を下さずとも、また、「怒りや哀しみ」を感じたとしても、それを一歩あがった段階のところから冷静に見つめる目、というのが存在します。その目(意識)にフォーカスする、という意味です。

 例えば先日、「五歳の子供を洗濯機に入れて廻していた母親の事件」がありました。
 これは後から判明したことであり、その少女はすでに母親によって絞殺された後でした。その母親が子供を抱いて岸壁に捕まっていたところを発見、通報され、尋問中明るみになったことでした。
 この事件をマスコミが取り上げることで、非難はすべて母親に向けられました。
 しかし、私は「必ずしも、母親ばかりを責められないのではないか」──そう思っています。

 第一報の時は、あまりの悲惨さに私は泣きました。
 私にも4歳の甥っ子がいるので、5歳の少女が感じた恐怖──子供は母親にしかすがれないのに、その母親に残虐な仕打ちをされる少女のことを思い、胸が引き裂かれそうだったからです。
 しかし、同時に「ここまで残虐な行為に走らずにいられなかった母親の背景」というのも、私たちは思いを馳せる必要があると思うのです。
 ただ闇雲に「鬼母だ」とか「今時の親は本当にどうしようもない」と責めるのではなく、「何故、こんな行為をせずにいられなかったのか」というその人の立場を思い遣ることも大切だと、私は思えるのです。
 さらに同時に、「何度も浮上する児童虐待問題について、ただ報道するだけでいっこうに止めることが出来ない社会の現状」について考える必要もあるのでしょう。
 社会の役人達やマスコミは、何でも個人の責任にして「まるで自分は関係ない」とでも言いたげな態度をとります。
 それこそが、何よりも問題ある行為だと、私は思えます。

 この例からも感じて頂けると思うのですが、ニュートラルな視点というのは「なんとも思わないようにする」というのではなく、「複数の視点で、多角的にものごとを見つめる」ということなのです。
 そうすると、「事件そのものには、良いも悪いもない」ということに気付かされます。そうではなく、「時代の流れの中で、『起きざるを得ない過程を経てきた』ことにより、起きてしまった必然的なこと」であることが分かるのです。

「なんとも思わない」というのは、こうした視点とはむしろ逆行した立場です。
 それは「事象を無視する」──いわば「無関心を装う」ことに繋がるからです。
 無視は、感情に翻弄されるよりも罪深く最悪なことだと、私は思います。
 昨今、ニュートラルを誤解して「自分にとって嫌な事象は無視する」タイプのスピリチュアリストも散見されるのですが、これは大きく致命的な間違いだと、私は思います。

 怒っても、哀しんでも「それはまったくもってOK!」なのです。
 でも、「その事象があった背景には、他にどんな側面があったのだろう」という多角的な視点を持つことこそが、ニュートラルな視点を持つ、という本当の意味なのです。


【質問2】止揚の意識とは、どういうものでしょうか?

 止揚というのは、正式にはヘーゲルという哲学者が唱えた哲学用語です。
 アウフヘーベンとも言います。
 これは議論をしている際、二つの意見が衝突しあった場合に、ただ衝突させるのではなく、「互いに異なる意見を含めた、新たな案」に到達することを意味しています。
 すなわち、これも先にあげた「ニュートラルな視点」と似たようなものです。
 互いに衝突しあう生き方、真っ向から反対の生き方に対して、「両者を含蓄した中で、新たな生き方を目指す」というものなのです。


【質問3】「地球がどうなろうと意識のあり方一つですべては変わる」とありますが、私たちは、どのような意識を持てばよいのか、ということなのですが、地球を自然を大切にしようとか、いつも人に親切にとか、こういう良い意識を持っていたら良いのでしょうか?

 どういう意識に到達すればいいのか──ということは、とても奥が深いことなので即答出来かねる部分ではあります。
 というのも、その意識への到達は「方法論」で一概に語れることではないからです。
 例えば、Aさんにとっては「右回り」というのがその意識への到達方法であったとしても、Bさんにとっては「左回り」かもしれない──個々人によって、その方法はマチマチだからです。

 ですが、「その意識に到達した際、どう変わるか」と言えば、自分に無理なく、等身大のままで「人に親切にするのが、当たり前」に感じられるようになり、「地球や自然を大切にする」のも当たり前のことになるので、そういったことを意識的に「考えることなく出来るようになる」という変化を遂げるようになるでしょう。
 私たちのレベルでは努力が必要だったことを、いとも簡単に──まるで「呼吸をする」かのように出来るようになる、というのが、理想的な意識の到達ポイントだと言えます。


【質問4】アセンションをすると「こっちの世界に戻れない」という意見を聞いたのですが、周りにアセンションのことを知っている人がいなくて、家族や知っている人との別れになるので悲しいような気はします。

 アセンションと「死」を比較して考えて頂ければすぐに分かると思いますが、誰にでも、必ず「別れ」はあります。
 しかし、決して死が「本当の別れ」ではないことを、スピリチュアリストの人や精神世界の人達はみな理解しています。何故なら、「魂は不死」だからです。
 要するに、「どんなにこの世に戻って来れない」ことがあったとしても、それは「本当の別れではない」のです。

 何故なら、最初からみんな「ひとつ(ユニバース)の源に繋がっている」のだから──。



※質問文と解答は掲載の都合上、一部編集しております。


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2010-07-27 | 真理 | トラックバック(0) |

前世よりも、大切なのは「今の人生」

 昨今、表層的スピリチュアルブームが進んでいるせいか、やたらに「前世」を知りたがる人が多い印象を受けます。
 勿論、退行催眠などを好奇心から受けてみたいとか、自分の別側面を見てみたい──というのはOKだと思うのですが、必要以上そこに囚われるのは危険だと、私は思っています。

 何故なら、前世はどんなに記憶がないとはいえ、言ってしまえばただの過去です。
 みんな「覚えていない」から「知りたい」と思うだけであって、もしその前世の記憶を最初から持っていたら──わざわざそれを知ろうとするでしょうか?
 1年前に自分が何をしていたのか、5年前に自分が何をしていたのか、ふと思い出して感慨に耽る──ということはよくあることですし、そうしたところから人が成長していく、というのも理解は出来ます。
 しかし、「1年前の自分は『ああ』だったのに!」「5年前、私はこんなことをしていたのに!」そんなふうに言ったところでどうにもならないというのは、皆様も想像して頂ければすぐにご理解頂けると思います。
 「過去を生きるな! 今を生きろ!」と言いますが、まさにその一言に尽きてしまいます。

 前世は、あくまでも「過去でしかない」。
 言い方を変えれば「かつて私たちが歩んだ、別世界のパラレルワールド」に過ぎません。
 本当に大切なのは「今の人生」であり、そして、これから積み重ねていく「未来への土壌」なのです。

 それに、前世というのは実は今の人生、すべてに凝縮されている側面があります。
 なので、自分の人生や今の自分をよ──っくよく観察すれば「自分の前世」が何となく見えてくるものです。
 ちなみに私も、一時期は退行催眠や前世リーディングをしたことがありました。
 私自身が何も説明しないにも関わらず、言われたことのほとんどが──

 ・チベットの高僧 
 ・日本の僧侶(しかし、真理の本質は今の仏教界にないと断言し、自ら旅の僧侶となって全国を行脚したそうです。) 
 ・有名な陰陽師(これを聞いたときはさすがに「ホントかよ?」って疑っちゃいましたが──。)
 ・宗教の弾圧が酷い頃の医者(免罪符に反旗を翻し、教会批判をあちこちで唱える革命家でもあったようです。西洋医学で当時流行していたペストを治療しようとしたのですが、教父達から仕事を奪われ、結局死に追いやられたそうで──。)
 ・キリスト教がローマの国教になる前の、初期の伝道者(これまた、石打ちの刑にあって斬殺されたそうです。)


 ──などなどでした。
 正直言って、「なぁんだ。全部、私の今の人生に凝縮されちゃってるじゃん」と思って、あまり新鮮な驚きを感じませんでした。
 確かに、上記の前世は自分にとって意外でも何でもありませんでした。そうでなければ、幼少期から聖書や宗教書を読んだりすることもなかったでしょうし、出家願望が根強くあっても「一門に下ることは、真理に反する。真理は、どこにでも存在する」と根強く思っていたところがあったので、自分の前世のほとんどが「神や真理に尽くしていた」と言われても不思議はありませんでした。

 でも、「だから何なのさ」ってのが、私の本音です。
 仮に私が上記の前世を知らなくても(聞かなくても)、私の人生は何ら変わらなかったでしょう。
 要するに、前世は自分が記憶してなくても、絶対に霊性のどこかで記憶しているものなのです。だからこそ、前世自分が体験してきたことや、「これだけは絶対にいけない」と思ったことは、無意識に自分で避けることが出来るものなのだと私は思うのです。

 先程挙げたように、私は子供時代から「出家願望」が強かったのですが、それを絶対にさせなかった理由が「一門に下るのはおかしい」という思いからです。
 そんな思いを、私が子供時代の体験でどうやって学べるというのでしょう?
 10歳程度の子供が「一門に下る」という意味だって、分かるわけがないのですから。
 これはもう、教育がどうとか、親の影響とか、そんな理屈で治まる代物ではないと思います。(ちなみに、私の両親は今時の典型例とも言える「不信心者」です。)

 前世をわざわざ知らなくても(勿論、先程も言いましたように「興味本位で知ってみたい」という方は決してお止めしませんが)、本来、私たちは充分無意識にそれを自覚しているはずなのです。

 それから──前世を知ることへのもうひとつ、大きな弊害があります。
 それは、昨今「にわかチャネラー」とでも言うべき、ちょっとした思いつきと「本当のお告げ」の区別さえつかない人達があっちこっち闊歩しているからです。
 そういう人は、思いつきだけで本当にありもしないことを言ってのけます。事実私も、「私は前世、天使だったって言われたの~」と浮かれている人達を何人か目にしてきました。
 ……が、私は何も言いませんでした。いちいち水を差すこともないことですし、無意味にその人を傷つける必要もないからです。
 でも、「そういうことを平気でいってお金を取る自称チャネラー」への怒りだけは、今でもあります。
 本当に「かつて天使だった人」であれば、そういうことは容易に口に出さないどころか、「他者から言われなくても自覚しているはず」だからです。
 本当に使命ややるべきことがあってこの世に転生している人は、絶対にそれを公言したりはしません。
 間接的な言葉の中で、そして、心に訴えかける説得力のある言葉でもって、さりげなく人々を導いていくことでしょう。

 イエス・キリストや、マヤの伝承に残っているビラコチャなど、偉大な人々は確かに自ら公言してきましたが──彼らのレベルは、「何を言わなくても」誰もが直感的に理解出来るほどの偉大さでした。
 そういう「本当に素晴らしい人達」というのは、何を言わなくても、その「存在感」だけで伝わってくるものなのです。
 にも関わらず、自分は「偉大な存在なのだ」と公言する人は、最初から「存在感で語れない」から、口で代わりに語っているのに過ぎないと、私は思います。
 存在感で語れないのであれば、行為で語るべきだと、私はそう思います──。

 少し話は逸れましたが。
 そういう「にわかチャネラー」の存在も多いので、安易に前世を知ろうという試みは出来るだけ避けた方がいい──そう私は思います。
 それに、前世がどうであれ──今の人生に、変わりはないのですから。
 前世がクレオパトラだったから、明日からクレオパトラのような人生が送れるわけでもないし、ソクラテスだったから、明日から急に哲学に目覚めるわけでもないのです。

 必要なのは「今の自分は、どうこの人生を生き抜くか」──それに尽きると、私はそう思っています。


【追伸】ようやく少しずつ、返信を開始しました。かなり溜まってしまったので、時間がかかると思いますが、ご容赦ください。

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「頭」と「こころ」はふたつでひとつ

 「脳みそは頭だけじゃない、こころにもあるもので、その『ふたつ』を動かすことが大切なんだ」

 そんなニュアンスのことが、児童文学「アミ 小さな宇宙人」に書かれていましたが、私は「まさにその通りだ」と思います。
 現代人はとかく「頭」ばかりを使いたがります。何でも合理的にすることばかりを意識して、人のこころへの配慮が欠けてしまう──そういう場面を目にすると、本当に哀しくなることが多々あります。
 頭は、本来「こころよりも、スピードが早い」のです。よく「頭の回転が早い」なんていいますが、それは頭ではなく「こころ」で考えているからなのだと私は思います。
 頭の使い方とこころの使い方は違います。そしてまた、「どんなに頭が良くても、こころが未発達の人」というのは、往々にしてわかるものです──。

 また、「こころだけが発達する」ということもあり得ません。両者はひとつの動きを担っているので、「こころだけが発達して、頭はおざなりになる」ということはないのです。
 しかし、頭だけが発達して「こころではない『感情』だけが暴走する人」というのはよく目にします。その人は決してこころが発達しているのではなく、ただエゴから派生した感情だけが爆発しているのに過ぎないからです。

 面白いことに「自分は頭がいい(学歴がいい)」「自分は仕事が出来る」と思いこんでいる人ほど、感情的になりやすいというのは皮肉なことですね。
 以前私の職場にもいたのですが、その人は「自分は仕事が出来る人」だと勘違いしていました。確かに機転は利くのですが、配慮がないのです。
 自分がどんなに先々仕事を進めても、それに追いつけない他の仲間達のことなど気にもとめません。それを私が咎めたところ、「私はこれだけ仕事が出来るのに、何で私が『出来ない人』に合わせなければならないの!」と逆ギレされました。
 仕事とは、決して「ひとりでやるものではない」ということを、その人は理解出来ていなかったようです。
 これはもう「こころが発達していないいい証拠」とも言えるでしょう。「キレる」というのはこころの作用ではなく「感情の作用」でしかないからです。

 私はよく耳にする「それって、常識的にあり得ないでしょ!」って言葉も嫌いです。
 それは、ただ単なる「頭の思いこみ」に過ぎず、本当に相手の立場を思い遣った言葉ではないからです。
 そもそも「常識」って一体何ですか? 誰が決めたのでしょう?
 その常識がもし通用しない世の中だったら、どう言うのですか? 常識の概念って、一体何なのでしょう?

 みんな、自分が思いこんで「これが常識だ」と決めつけた杓子定規だけで、すべてのものごとを決めつけているに過ぎないのだと、私には思えることがままあります。

 「こころ」を発達させると、自ずと「頭」も冴えてきます。
 私自身はむしろ、「こころと頭は、本来同じ働きをしているのではないか」と思うこともあります。
 「じゃぁ、こころってどこにあるの?」と、多くの方が疑問に思うでしょうし、今の脳科学では「脳みそにある」と言われていますが──私は「違う」と思います。

 こころは、「ハート」
 胸の部分にあるのだと、私は思っています。

 それは、感動する映画を観ればすぐに分かります。
 感動して「ぐっっっ」と詰ったとき、頭が詰りますか?
 「ぐっと胸が詰った」とは言っても「ぐっと前頭葉が詰った」とか「側頭葉が詰った」とは言いませんよね?

 医学的に証明はされなくても、こころは「胸」の部分にあるのだと、私はそう思っています。
 だからこそ、これほど脳みそにストレスを抱えている昨今、感動したりこころを解放することが大切なのだろうなと、つくづく実感する今日この頃です。



【追伸】ようやく少しずつ、返信を開始しました。かなり溜まってしまったので、時間がかかると思いますが、ご容赦ください。

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2010-07-25 | 真理 | トラックバック(0) |

私が「2012」「アセンション」に注目した理由と、既存2012年論への憤り

 私が2008年の年末まで完全アセンション否定派だったことは、このブログだけでなく、文庫本の方でも詳しく書きました。
 私はもともとアカデミックに哲学や宗教を研究してきたし、哲学を真摯に勉強したいという衝動から、ストイックなまでに探究を続けてきました。(本来は哲学士の称号が欲しかったものの、残念ながら文学士です。しかし、東洋大学の前身が「哲学館」という名前だったことなんて、今ではほとんどの人が知らないでしょうね。私は「ここだったら、絶対に自分の望む哲学が研究出来る」と思って進学したのですが──それはすでに、遠い過去の産物でしかありませんでした。創設者である井上円了氏を尊敬しているのは、いまとなっては水木しげるさんと京極夏彦さんぐらいかもしれません……)
 どこにいっても、私が望む真理はない──真理は隠され続けている、そのことが、どれほど私を今まで追い詰めて、苦しめてきたことでしょう。
 だからこそ私は、安易にやすやすと「なんでもすべてがありがたいの! この世は本当に素晴らしいのよ!」と言ってのける人はあまり好きになれません。
 前にも記事で書いたように、それは「世界の一部に存在する人達の苦悩を、見て見ぬフリをしているだけに過ぎない」そう思えるからです。

 宮沢賢治の童話「鳥の北斗七星」に出てくる、有名な言葉があります。
「ああ、マヂエル様、どうか憎むことのできない敵を殺さないでいいやうに、はやくこの世界がよくなりますやうに。そのためならば、わたくしのからだなどは、何べん引き裂かれてもかまひません」

 この言葉には、ただのポジティブな響きは含まれていません。
 「何故、人は争い続けるのだ! 何故、人は幸福に暮らせないのだ!」そんな痛みと叫びが、凝縮された言葉なのです。
 本当に心優しい人は、安易にポジティブな言葉を吐きません。何故なら、「この世界のどこかで、痛みと苦悩に虐げられている人達も存在するのだ」ということを自覚しているからです。

 私が知りたかったことは、まさに「そこ」なのです。
 何故、本当の幸福というのが存在しないのか?
 「それは心の持ちようよ。どんなことだって、心の持ち方ひとつで幸福になれるの」そういう人もいるでしょうね。
 そういう人は是非、優雅なレストランで食事をしている最中、突如軍人が入ってきて理不尽な暴力を受けたり(チベットで実際にあった話です)、エイズの病にかかった人々を必死に看病してきた敬虔な牧師が、生きたまま教会で焼き討ちにあうような、そんな体験をしてから言って頂きたいものです。 
 勿論、そういう目にあった牧師達はみな私たちより遙かに優れた精神の持ち主ですから、苦悩を感じることはなかったかもしれませんが、「そういう事実がこの世に存在する」ということから目を背けてはいけない──私はそう思います。
 だからこそ、私は貪るように「普遍の真理」を求めたのです。

 しかし、私はアカデミズムの中に、本当の哲学(真理)を見いだすことは出来ませんでした。
 何故なら、今やそれは「ただの文献学」に成り下がっていたからです。
 かつての偉人達の思想を踏まえた上で、新たな思想を見いだそうという姿勢が、(私が大学時代の頃は、ですが)欠片も見いだせませんでした。
 もうすでに哲学の知識は「末端」にあり、もうそこから先に真理は「ない」──そんな風潮が、どこかに見え隠れしたのです。

 それでも、私は諦めきれず──見た目は普通に社会人や主婦をこなしながら、心のどこかで真理探究に迸る思いを押し隠していました。
 一番最初にそれが爆発したのが、9.11。それをきっかけに、私の「まだ隠されている人類存在意義について」を探究したいという欲求は抑えきれなくなったのです。
 それからは、今まで滅多に手の出したことのない分野──神智学から始まり、ルドルフ・シュタイナー(シュタイナー理論は、完全に私にとってフィットするものでした)、スウェーデンボルグなどに傾倒していきましたが、同時に国際情勢に関わるジャーナリズムの論文、チョムスキーやPFドラッカーなども読みあさりました。
 一時期は社会学者の宮台真司にもはまったのですが、彼の言っていることは「三次元」という枠組みと現代という視点から外されたものではなかったので(勿論、社会学者であればそれが仕事なので仕方ないですが)、一時期は傾倒し彼の全著作を読んだぐらいだったものの、二年程で離れてしまいました。

 私はもう永いこと、真理を探し求めてきたのです。
 だからこそ、2012とかアセンションという言葉には、非常に懐疑的でした。
 私は当時から「ノストラダムスの予言は的中していた」と確信していたので、「その本質も見えてない人達が2012とかアセンションを言ったところで、どうせ飽きればまた違う年代を言い始めるだろう」と思っていたのです。(残念ながら、すでにそうなりつつありますが。)

 しかし、そんな私を一瞬にして覆したのが──マオリッツオ・カヴァーロの撮った「宇宙人の写真」でした。
 この写真を見た瞬間の私の衝撃は、本当に言葉に言い尽くせるものではありません。
 パウロが、今までキリスト教信者を迫害していたにもかかわらず、天から聞こえたキリストの声に一瞬にして擁護者に翻ったのと、似たような感覚かもしれません。
 その日から私は、カヴァーロ氏のことをネットで検索しまくりました。カヴァーロ氏の本も何度読み返したかわかりません。
 とはいえ、おそらくここでどんなに私が「彼は本当にすごい経験をしているんだ」と主張したところで、信じてもらえる人はそうそういないかもしれませんが。
 それでも構いません。
 もしたったひとりでも「彼がどれほどすごい体験をしてきたか」「私たちの人類の起源という真理に触れてきたのか」を実感出来る人がひとりでも増えてくれたら──私は、それだけで御の字ですから。(私がカヴァーロさんに送った質問状に対する返答の掲載された本が、秋頃出版の予定です。とても深遠な内容の書かれた人類における貴重な書物ですので、出版が決まり次第、またお知らせします。)

 なのですが──。
 私が今、途方もなく哀しみを感じているのはそうした深淵なる知恵こそが、世の出版社に敬遠されているという事実です。
 カヴァーロさんの体験は、確かに人類の想像を遙かに上回るので、読みこなすことは難しいかもしれません。(その部分で不透明なところについては、編集部の方のご厚意により私の方でも質問させて頂きました。それを読めば、大体のことが分かるはずです。)
 また、多くの人は文献をあれこれ比較して、そこに類似の事項を抜き出す──という作業には慣れてないでしょう(卒論や修士論文書くのに苦労した人は、その作業の大変さが分かるでしょうが)。
 実際にはそうした「様々な文献からの比較」がないと、カヴァーロさんがどのぐらい素晴らしい体験をしてきたかを多くの人に理解してもらえることは困難かもしれないのです。
 ですのでいずれ私は、そうした文献についても触れていきたいと思っています。

 ──が。
 皆さんにご理解頂きたいのは、こうした思考力の使う論説ほど、電子書籍には不向きだということです。
 私は長年ブログを書いてきましたが、どんなにブログで大切なことを書いても、読者側は「ああ、そんなことあったっけ?」で終わってしまいます。
 しかし、本であれば「何ページのどこどこに書いてある」といって、その場で引き出し、見せることが出来るのです。

 電子書籍は、小説やライトのベルなどには適していても、論説といったものには「絶対に不向き」です。
 私は、今後YOU are EARTHでは積極的に機関誌販売をしていくつもりですが、電子書籍では「超えられない」紙媒体だからこその意義を追求出来るような内容を作成していきたい──強くそう思っています。

 本日、私の元に二冊の書物が届きましたが、とある一冊を読んで私は「なんだこりゃ!」と絶叫してしまいました。
 その方の本は、私自身が今まで敬遠して一度も手にしたことのない本だったのですが(私は食べ物の好き嫌いもなければ、何でも「とにかく、まずはやってみよう」という主義の人なのですが、何故かその人の本だけは読む気になれなかったのです)、私と同じように「とにかくアセンション後にどうなるかを検証しよう」というタイトルが描かれていたので、資料として取り寄せたのですが──かなりガックリしてしまいました……。

 こういう本を出して、それで出版業界は「赤字だ」と騒いでいるのであれば──はっきりいって出版社に問題があると、そう思います。
 今はもはや「ブログ」の時代です。ブログで中身の濃い文章に読み慣れてしまった読者は、「それ以下」しか書かれていない本を、わざわざこの不景気にお金を出して買うでしょうか?
 
 本は、紙という「森林の命」を使って書いているのだからこそ、もっと内容が深く、もっと人々の知恵に貢献出来るものでなければならないはずです。
 とてもではないですが、私が今日読んだ本は──そうは言えない内容でした。この程度の内容であれば、ブログで書かれている人はごまんといるだろう、そうも思えます。

 私の本を読まれた方は実感されていると思いますが、文献比較というのは電子媒体には非常に不向きで、紙媒体だからこそ出来る代物です。
 しかし、2012やアセンションという問題であればある程、文献比較は重要なのです!
 ただのチャネリングでしかない思いこみや、実際の現実問題との比較もしないようなアセンション本だけを出版し、それで「赤字だ」というのは、もっての他ではないでしょうか?

 私は今、猛烈に激怒しているので、おそらくこの8月末頃までに二冊の原稿を書き上げると思います。
 一冊は、「あと2年に迫っているからこそ」の2012年問題。
 多くの人が無責任に放ってきた問題を、徹底的に調査して「いやぁ、実は2012年って先の話なんだよ~」なんてお馬鹿な政治家が言うようなことは許せません。

 どんな状態であれ、言動の責任は取るべきです!
 「ごめん! 外しちゃった~」でもいいです。
 もっとも読者の許せないのは「いや、もっと先なんだよね」という曖昧な言葉なはずですから。

 それと、もう一冊は「日本人の精神改革」についてです。
 これは、9月の上旬に岩手県まで物件の下見に行くので(来年の4月に岩手県移住は、ほぼ本決まりです)、その際にいろいろ原稿をまとめて来ようかと思っています。

 ちょっと憤りにまかせて書いてしまったので、文章が支離滅裂で申し訳ございません;
 しばらくは、この「既存の2012年論における問題点」について、記事に書いていきたいと思っています。



【追伸】ようやく少しずつ、返信を開始しました。かなり溜まってしまったので、時間がかかると思いますが、ご容赦ください。

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【質問】アセンションって、具体的に何なの?

 昨日、ブログのコメント欄に質問を頂きました。
 その質問は非公開だったので、全文は掲載出来ませんが、とてもいい内容の質問でしたので一部抜粋しながら、ここで返答したいと思います。

【質問1】Aさん(仮名)
 チャネリング講座ではなく、アカシックレコードへのチャネリング講座なども危険でしょうか?


 正直申しまして、私は「危険」だと思います。
 何故なら、結果的に言い方が違うだけで、方法論は同じだからです。
 アカシックにアクセスしたことで有名なのはルドルフ・シュタイナーですが、その彼でさえもが、そうした行為について「簡単にできる」とは一言も言っていませんでした。
 それどころか、彼は「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか(下記参考文献参照)」で、とても厳しい方法を書いています。
 また、本当にアカシックへアクセスする為には、人間に付随する「エゴ」や「見栄」、もしくは「絶対に繋がらなくちゃ」という焦り、すべてを捨て去ることが必要です。
 勿論、生まれついた体質でそういうことが出来る人も間々ありますが、それは本当にごく限られた人達だけです。昨今では「自分は宇宙人だ」と公言している人もいるようですが、本当の宇宙人であれば、絶対に自分の正体を明かしたりしません。
 何故なら、それは世界の干渉であり人類の干渉であることを、宇宙人であればあるほど「自覚しているから」です。また、本当の宇宙人の述べる内容はとても高度な科学用語も含まれているので、人類が理解出来るような代物ではありません。(それは、有名なUFOコンタクティーであるマオリッツオ・カヴァーロの本に詳細が書かれています((参考までに、下記に掲載しておきます。))。これを読めば、「ああ、宇宙人ってそんな容易く人類にコンタクトするわけじゃないし、また逆に、コンタクトされた側もその情報を開示することを躊躇うんだな」ということを痛感出来るはずです。)

 アカシックレコードのチャネリング講座というのをどういう主宰者の方がされているかは不明ですが、チャネリングと原理は同じなので、私はお薦め出来ません。それに今、すでに私たちは無意識下で「アカシックと繋がっている時代」になりつつありますし。
 そうである以上、講座を受けてどうこうするよりも、散歩しながら空の青さに心を投じたり、木々のささやきに耳を済ますだけで、充分伝わってくるものはたくさんあると思います。
 何故なら、生命のDNAはアカシック同様「数多の記憶を携えているから」です。

 もし、それでも「アカシックレコードへのチャネリング講座」を受けたい──という気持ちが続くようでしたら、是非、まず以下のことにチャレンジしてみてください。
 一度このブログでも書いたのですが、かなり効果的な方法ですのでもう一度紹介します。

 (1)鉛筆を目の前におき、5分以上それを見つめる。
 (2)この鉛筆をどの店で買ったのか、どの企業でどのようなルートで配送されてきたのか、どんな工程を経て鉛筆は作られたのか。そして、その鉛筆の木材はどの国から来てどのように日本に入ってきたのか。その国で木材はどんな樹で育っていたのか。その樹はどんな種から芽吹いたのか──
 ──これらを、ひたすら5分間「想像する」という方法です。
 

 もうひとつ、効果的な方法もあります。

 (1)道ばたに咲く花を、デッサンする。
 (2)ある程度デッサンしたら、その土中にある「根っこ」までも想像してデッサンする。(これは画力どうこうの問題ではなく、「根っこの生え方を想像し、具体化する」ことに意味があります。


 これらの二つのことを「クリア」出来たら、おそらくアカシックレコードの講座を受けても口のうまい講師にだまされたり、危険な思想を植え付けられたり、ということはまずないはずです。
 妄想と「本当のメッセージ」の境界は非常に曖昧です。それを見極める為にも、上記の訓練は必要だと思います。
 とはいえ、この二つが出来るようになった時点ですでに、おそらくAさんは、アカシック講座を受けても「物足りない」と思うかもしれませんね。Aさんの方が、遙かに高い能力を持つことになるでしょうから。(たぶん講師をしている方で、そこまで徹底したことをしている人はそうそういないでしょう──)


【質問2】
 アセンションで何が起こるか、具体的に教えてください。


 この流れについては一言で説明出来ないので、まずは前提から説明させてもらいますね。

 これは私の文庫本「アセンション真実への完全ガイド」でも書いたのですが、そもそもアセンションという言葉自体がマヤ暦を発端にしているとはいえ、唱えたのはホゼ・アグエイアスという「全然、マヤ人でも何でもない人」でした。
 しかし、私がこの本で注目しているのはいくら根拠のない現象とはいえ、これだけいっせいにみなが唱えるようになったのには深い意味があるということです。
 2012年ということがアメリカで注目されるようになったのは1990年代初頭なのですが、そうなると「ノストラダムスの予言」よりも早い時点で注目されているのです。私自身は、この矛盾に目をつけました。もし、「ただのお金儲け」であれば、とりあえずメジャーな「ノストラダムスの予言」の方に着目するはずです。まだ9年もあるのだからてきと~なことを言って雲隠れしちゃえば、それまでの話なのですから。
 にも関わらず、何故、当時マイナーだったマヤ暦の終末論に目をつけたのか──私はそこに意味があるように思えてなりませんでした。

 ただ、上記の文庫本にもしつこく書きましたし、このブログでも再三書いていることですが、みんな年代の細かい暦にばかり注目して、予言されている本質を見失っていると思えるのです。
 文庫本の方に、私は「自分はノストラダムスの予言が当たったと確信している、数少ない一人だ」ということを書きました。
 みんな1999年7月という数だけに翻弄され、本質でノストラダムスが言いたかったことには完全に目もくれていなかったのです(このことは説明すると長くなるので、お時間がある時にでも本屋で「立ち読み」してください。←って、こんなこと言うと徳間書店さんに怒られそうですが;)。

 アセンションという問題と、2012という問題は、切っても切り離せない問題です。
アセンションはキリスト教から派生した「上昇」という意味を持っていますが、上昇がある以上は絶対に「上昇すべき基盤」があるからです。
 どう逆立ちして見たところで、今の現代社会が「素晴らしい天国」とは言えません。そうである以上、上昇する前にはある程度のカオスが必要になると思うのですが、「今が、そのカオスの時期だ」と、私自身はそう思っています。
 勿論、2003~2004年の黒点最大期にも異常な気象状況はありました。「その時は2012という文字を知らなかったから、それだけで済んだのだ」と言えば、そうなのかもしれません。
 しかし、惑星規模の異常というのは、まるでクシャミをするように「たった一瞬」のことではなく、その前から少しずつ予兆があるはずです。そういった意味では、こうした異常気象が少しずつ「積み重ねられている」という言い方が出来るような気がします。(勿論、そこまで具体的な異常気象の変化については断言出来ませんが。たぶん、気象庁もNASAも断言出来ないと思います。)
 そうした意味も踏まえて、私はもう2012は始まっているそう感じています。
 2012は「年号」だけでなく、私たち人類への警鐘であり、それを示す暗号なのだ、と。

 それを踏まえて、アセンションの問題。
 アセンションというのは、こうした追い詰められた環境、社会を前に「このままでは死んでしまう」と危機感を感じた霊性の部分が、大きく変貌を遂げることだと私は解釈しています。
 ここで他研究者の方の言葉を借りれば、UFO研究家の浅川嘉富氏は「銀河から生命エネルギーが来ていて(私の著書では、それはラヴィオレッテの言う銀河ウェーブの視点を変えたものだと書いていますが)、そのエネルギーが太陽にエネルギーを及ぼし、それが人々の波動を高くする」と言っています。多かれ少なかれ表現は違えど、みな同じことを言っている印象は受けます。
 しかし、問題なのはそうしたアセンションが、人々のはっきりとした自覚の中で起こりえるかどうかという問題です。
 たとえば、カフカの変身ではないですが──ある日起きたら突然「大蜘蛛」になっていたら……そりゃ誰だって驚きますよね。(いえ、大蜘蛛は決してアセンションというか──むしろ退化のような気もしますが;)
 でも、実際にそのような「みなが自覚出来るほどの、大きな変化は起こらないのではないか」──と、現時点の私は予測しています。(注※私自身の研究対象は「高次元システムを、如何に三次元で適応させるか」なので、アセンションの問題はたとえ2012年を過ぎても探究し続けます。その為、今後の研究次第によっては「実はみんなが驚くぐらいのアセンション的変化が起こるかもしれない」という結論に達する可能性もありますので、その点はご了承ください。あくまでも私は、「現時点での研究結果」に忠実に、記事を書いていきたいので。)

 少しグダグダになってしまいましたが、要点をまとめますと──

1)アセンションは起きたとしても、個人の意識レベルによって差が生じてしまう為、まったく無自覚の人も中にはいるだろう。
2)等身大の自分でありのままに生きて、自分が幸福だと思える環境を自ら選択することが可能になること。

 ──が、まずはアセンションの「大前提」のように思えます。
 ちなみに、私ごとで恐縮ですが、私自身は今年に入ってから急激に「自分に合った環境、自分に合った人間関係」が自ずと選別されているようなところがあります。
 本当は、誰でもそうすることが可能なのだと、私には思えるのです。
 淡水に生きるしじみが、海水に浸されても、ただ苦痛なだけです。にも関わらず、私たちは最大の権利である自分にあった環境を選ぶことさえ出来ず、システムの言いなりにされてきてしまっていました。
 ある意味アセンションというのは、従来の人間の価値を取り戻し、自分にとって最も生きやすい環境を選ぶことだと言えるかもしれません。
 それこそ「天国」ですよね。

 ある一部のチャネラーの人達は「みんなが光り輝いて天使になる」だの「宇宙船に乗り込む」だのと言っています。
 それ自体は、否定しません(私はどんな意見でも、否定はしない主義です。しかし、社会に害を及ぼすと思えるような意見については、否定はしませんが「真っ向から反論」はします)。そういうことを信じている人達がいてもいいじゃないか、と思えるので。
 ただ、個人的にはそのような他力本願でいるよりも、「自分の意志で、自分の生きる環境を選ぶこと」の方が大切だと思うし、自分にあった環境にいれば自ずと感受性も高まります。そうした中で、この世の法則では説明出来ないような「何か大きなこと」がある可能性もあるかもしれない、とは思います。

 本当に大切なのは、アセンションで高次元にいくことよりも、
 この地球を「高次元のように、素晴らしい世界にさせること」だと、私は常々思っています。 



 
【追伸】まだ体調が本調子に戻っていないので、メールの返信はしばらくお休みさせて頂きます。ご迷惑をおかけしますが、何卒お待ちくださいませ。

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【参考文献】
いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか (ちくま学芸文庫)いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか (ちくま学芸文庫)
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異常な熱波は、地球の叫び

 同時に、私も「熱波中」です……。←現在、38.3度。

 世界のあちこちで、熱波が原因で亡くなる方が増えていますね。局地的な熱波(7年ほど前のフランスや、昨今のロシアなど)は今に始まったことではないですが、全世界的にというのは珍しいことのようにも思えます。
 でも、環境だけではなく「人も殺伐としている」ように感じるのは、私だけでしょうか?

 私は、昨今の「デジタルブーム」というのに懸念を示しています。
 最初はPCから始まり、ゲーム機、携帯、そして今はi-phoneやi-pad。
 書籍は紙から電子書籍になり、人はそうやってどんどん機械の奴隷になっていくのではないか──そんなふうに感じることがままあります。

 本がなくなれば、今に「手紙」もなくなるでしょう。
 年賀状も年々減っていることを思えば、手紙の前に年賀状はまずなくなるでしょうね。今となっては、届くのは手紙よりも「ワケのわからないダイレクトメール」や「請求書」の類ばかりです。(こう言っちゃなんですが、本の紙代どうこう言うのなら、ダイレクトメールなんて「くだらないもの」を先になくすべきじゃないですか? クチコミで広がらない企業なんて、最初からろくなものを売ってない証拠なんですから。)

 こんな味気ない時代に、何の魅力があるというのでしょう?

 私が高校生の頃、勿論メールもなければネットもありませんでした。1986~1988年という、ちょうどバブルの時期でもありましたが、あの頃は今の三倍ぐらい、手紙セットが売られていたのです。
 私は手紙を書くのが大好きで、1日に色々な友達向けに手紙を書いていました。しかも、その手紙のセットは「○○ちゃんのイメージは、この便せんで」「××ちゃんの雰囲気は、この便せんがぴったりだな」と、あれこれ自分で選択していたのです。時折、中に可愛いしおりなどもつけて。
 手紙セットは、本当にコレクション出来るぐらい沢山持ってました。私が大好きな画家、永田萌さんのセットなどがあると、それは必ず大切な時に使っていたぐらいです。
「手紙」というコミュニケーションの中に、「まごころ」というものを一緒に届けられた時代でした。

 ──ですが、今はどうでしょうか?
 今の高校生達は、そんなふうに「友達の雰囲気にあわせた手紙セット」を購入したり、バースディカードを準備したり、年賀状に「友達にあわせたイメージのイラスト」を書いたりしているのでしょうか?
 どんなにデコメがあるとしたって、それは当時の手紙の種類に比べたら10分の1程度です。何の個性も感じさせない、友達の個性を何も活かさない──そんな味気ない時代になってしまいました。

 手紙というのは「自分で書く」分、文章に対して慎重になります。
 何故なら、あまり消しゴムを使いたくないからです。
 消しゴムを使えば、紙はバサバサになります。そんな手紙、みっとも恥ずかしいですよね(笑)?
 でも、今はさほど慎重にならなくても「言いっぱなしの文章」ばかりがネットで闊歩しています。
 それを見た相手や、閲覧者がどんな気持ちになるかなんて、考えてもいないのでしょうか?
 何故、こうも思い遣りのない世界になってしまったのか──私は考えただけで、哀しくなります。

 失われたのは、何も「思い遣りあるコミュニケーション」だけではありません。
 以前、私の近所の道路では、コンクリートを押しのけて生えてくる草があちこちにありました。
 コンクリートの下という過酷な状況の中で生えてくる草をみては、私は無性に感動したのを覚えています。

「やっぱり生命は強いんだ! 文明なんかに負けずに頑張れ!」 

 しかし、今は──数年前にすべてアスファルトになってからは、一本たりとも、アスファルトの下から覗く草木はなくなってしまいました。
 車が道路を走る際、危険だからですか?
 でも、車を作ったのは一体誰でしょう?
 草は、人類が生まれるずっと前から存在していたのに、自分たちの便利の為に、そうした生命を脅かすのですか?

 私は、そう思うと哀しくてたまりません──。

 空を汚したのは、誰でしょうか?
 街路樹の木々が元気がないのは、誰のせいでしょうか?
 私たちは「自分たちの便利さ」ばかりを追求し、「自分たちがこの土地を支配している」かのように勘違いして、共に生きる生命達をどれほど脅かしてきたか自覚してないのではないでしょうか?

 先日の記事にも書いたように、私たちは「核実験」として2053回も地球を脅かしたという反省を、何ひとつしてないのではないでしょうか?

 熱波──水害。いろいろな環境異変が今現実、世界に訪れていますが、私は「人類の自業自得」としか思えません。
 世の中「キレる子供が増えた」だの「命を軽視してすぐ自殺したり、殺す子供が増えた」だの言いますが、そうしたのは一体誰でしょう?

 今、この社会を作っている大人達なのではないですか?

 大人達は自分たちが作った環境、社会、世界の責任を何も考えず、若い人のせいにしたり、環境のせいにしたり、あわよくば「こんな異常気象は昔もあった」と平気で言ってのけます。
 ただ、私が思うに、仮にこれが「一時的な環境の異常」だったとしても、デジタル化文明に偏った人類に、もう二度と明るい未来は訪れないのではないだろうか──そんなふうにも思います。
 自然と切り離されれば離されるほど、人類の心は枯渇し、孤独に苛まれ、スモッグに覆われた大気で星々さえも遠くにかすんでしまうようになりかねません。

 本当に、今人類は「過渡期にいる」のだと、私は思います。
 人類と地球は、「一心同体」です。地球の異常気象は、明らかに人類の異常をも指し示している私はそう思えるのです。

 昨今、精神世界の人達は2012年が近づいたせいで、ノストラダムスの予言の二の舞を踏みたくないのか、「実は2012年ではなくて、もっと『先』だった」と言い出している人もいるそうです。

 なにをかいわんや!です。

 これだけの状況をみて、何故、すでに「2012年が始まっている」ことに気付かないのですか?
 人々がまるでバーゲンセールのようにi-padに群がったり、電車の中でぶつかっても挨拶しないで素通りしたり(もしくは逆ギレしたり)、まるでそれしか出来ないロボットのようにゲームをしながら道を歩く人を見たりしても、まだ「終末ではない」と言えるのでしょうか?
 現象として起きるのは、大抵時間差があります。
 しかし、明らかに人々の心はもうすでに病んで飢えているのです。
 「仲間以外はただの風景」という言葉が、今から12年前に流行りましたが、もうすでにその頃から終末の予兆は始まっていました。

 この事態をみて「おかしい」と思えない方が、どうかしている──私はそう思います。

 隠謀論に夢中になったり、2012年12月21日という暦の数値だけに囚われている人達には、現状がまだまだ見えてないのかもしれませんが、某国の隠謀を突き止める前に今、人類の状況がどれほど病んでいるのかそっちに目を向けるべきではないですか?

 私は根拠のない楽観主義者は嫌いですが(そういう人は、アメリカやハワイや日本など、比較的平和な世界でそういうことを言うのではなく、是非、紛争の絶えないアフガニスタンやイラクでその主義を唱えてきて欲しいと心から思います)、局所的な隠謀論も嫌いです。
 病んでいるのは「一部」ではなく「全体なのだ」という意識が、欠けてしまっているからです。(楽観主義者も同じです。一部の国がどんなに恵まれていても、恵まれていない国があるという意識に欠けています。)

 この世界的な熱波は、そうした地球の叫びのように思えてなりません。


 もっと全体を見よ!


 これこそが、多くの人達にとって重大なテーマでもある、そう思います。


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 ※不在中にも関わらず押してくださいました皆様、誠にありがとうございました!
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(再び)今週いっぱい更新お休みのお知らせ

7月20日(火) 9:00追記
 17日から再び体調を崩し、まだ現在も良くなっていません。
 本日も養生して、明日には必ず復活したく思っています。
 メールのお返事も明日以降お送りいたします。ご迷惑をおかけしておりますこと、心からお詫び申し上げます──。

 篠崎由羅



 今週の月曜日に復活したものの、一週間に渡る炎症と高熱の後遺症はなかなか抜けないらしく、まだしばらく完全復活には時間がかかりそうです。
 ブログだけでも続けるつもりでしたが、執筆は思いの外体力を使う為、もうすこし体が精神に追いついてからにしようと思うに至りました。
 とはいえ、あまりダラダラしていると自分自身が「永久に夏休み」のルーチンにはまりかねないので(苦笑)、制限を設けて19日から完全復活を目標にしたいと思っています。
 そんなわけで、今日をいれて18日までの三日間、お休みを頂きますが──何卒ご了承の程、よろしくお願い致します。

※メールの返信も月曜日以降とさせて頂きます。恐れ入りますが、今しばらくお待ちください。

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 ※不在中も押して頂けますと幸いですv
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2053回も核実験をした愚かな人類

 今日、私はあまりに衝撃的で哀しくなる動画を見ました。

 2053回の核爆発の場所が分かる映像
 http://videotopics.yahoo.co.jp/videolist/official/others/p707541ee67c997c8e5cf1f9cea76f097

 1945年から1998年、この53年間という一世紀にも満たない間に、人類はあろうことか「2053回」もの核実験を行っているのです。
 考えられますか? 2053回ですよ?
 53で単純計算しても、一年間に「38~39回」世界のどこかで核爆発が起きていることになるのです。(でも実際は核実験の回数は冷戦期に偏っているので、その期間は一年間にそれを上回る程の爆発が起きていることになります。)

 この動画を見たら、昨日の隠謀論否定ではないですが「アメリカだけが、悪いわけではない」そう思います。
 これは決してアメリカ擁護ではありません。そうではなく、「人類全体の意識の在り方として考えるべき問題であること」を痛感せずにいられないのです。
 実験は、人類に影響がなかったとはいえ、絶対に「実験に使われた場所の生態系を崩している」のは確実です。無実の生命達が、人間のエゴにさらされて一瞬にして消え去っていった事実を、絶対に無視するべきではありません。

 何故、このように酷いことが繰り返されたのでしょう──。
 しかも、実験の場所は地球全土といえど偏っている場所も多く、太平洋のポリネシア周辺で繰り返された実験には海洋生命体への影響を危惧せずにはいられません。海は「生命の源」であり母なのに、それを何度も穢し続けたことに哀しみさえ覚えます。

 UFOの目撃は1947年以降集中していますが──もし、異次元人(宇宙人)達がこの様相を見ていたら、絶対に「何とかしなければ」と思うでしょうね……。
 人類の一人でしかない私でさえも、言いようのない衝動に駆られた程ですから。
 また、中にはこうした動画を見て「これだけ核実験を繰り返してきたアメリカが、他国の実験を阻止する資格はない」そう思う方もいるかもしれません。
 でも、それこそが「愚問」というものです。核実験は「自分たちがさんざんやったから、他国の実験はOKとする」というレベルの問題ではないのですから。仮にそれで「裏で実験を繰り返していた」となったら──もう、それは別事情でしかありません。そのような愚かな人類は、本当に地球を守る為に「消えてなくなった方が、いいのではないか」とさえ思えてしまう程の、浅ましい事情でしかないのです。

 14分という、決して短くない動画の中で、世界地図のあちこちが点滅を繰り返します。
 それはあたかも戦争そのものです。
 人類の命が脅かされなかっただけで、多くの生命──また、人類に知覚されることなかった小さき生命達も、この中で消滅させられているのです。

 これだけ地球を痛めつけておきながら、今になって「地球の保護」というのは烏滸がましいのではないか──そんな迷いまで、頭をもたげた程です。
 たった53年という短い期間で、2053回もの実験に大地を削られ、多くの生命を奪われた地球。
「大丈夫。人類に影響はないから」といった思いこみだけで実験が繰り返されたのだとしたら──それほどまでに愚かなエゴはない、私はそう思います。

 今、地球上では、あちこちの国で水害や熱波などの異常気象が起きています。
 でも、私たちは「そうなっても仕方ない程、与えられた環境を脅かしてきてしまった」のかもしれません。
 核実験をした国々だけが悪い──私はそう思っていません。
 そうした実験が行われていることを知りつつも、表だって批判したり止めようとしなかった他の国々にも責任はあると、そう思います。
 結局、人類である以上、私たちは一蓮托生なのです。
 そういった問題意識を持った中で、これから先、世界の動きや社会の動きを見ていく必要がある──つくづくそう思う次第です。
 

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「陰謀論」説への反論

 昨今、精神世界分野では「○○の隠謀」や「隠謀論」といった書籍があふれかえっています。
 しかし、私はこうした隠謀論という考え方そのものが嫌いです。
 このブログでも何度も言っているように、隠謀論というのは「世の中の事象に対して、一部の人達に責任をなすりつける説でしかない」私はそのように考えているからです。

 例えば、仮にアメリカや──その他、国の組織としてではなく、「世界を我が者にしよう」と企む集団があったとしましょう。
 私は、それそのものは否定しません。イルミナティ、フリーメイソン、どんな名前のものであれ、そうした組織は「存在するだろう」と思っています。
 しかし、その人達は最初から「我々の隠謀によって、人類を無知蒙昧にさせてやろうぜ」的な悪意を抱いていたわけではなく、あくまでも自分たちだけが得をしたい、支配したい、独占したいという誰もが当たり前に持っているだろうエゴが、ただ単に肥大化して組織化しただけに過ぎない──そう思えるのです。

 隠謀論をまことしやかに唱える執筆家は大勢いますが、いつも私が疑問に思うのは「それならあなたは、もしもそうした『すべてが思い通りになる誘惑』を前にした時、自ら拒否するだけの心の強さがあるのですか?」ということです。
 私は、「隠謀論」という言葉に陥っている時点で「それは難しいのではないか」そう思えます。
 本来、地球上に起きているすべての事象には、私たち全員に責任があるというのが、私の考え方です。遠い国で起きている戦争も、環境の悪化も、私たち人類全員に関わる問題であり、人類として生きている以上自分にも責任はある──いつもそう思っています。
 しかし、隠謀論の提唱者にある思想は、「今地球がおかれている問題は、○○によって起こった」という被害者意識的発想と、電気的次元特有の対立の発想から出ているとしか思えません。それはまるで、戦争の責任を「一部の軍人達にきせること」によって誤魔化そうとしている──そうした矛盾を引き起こしているのと大差ない気がするのです。
 第二次世界大戦時、家族を失い、愛する人を失い、すべてを失った人達の痛みは「戦犯の処刑」によって癒されたでしょうか? 
 いえ、決してそうではないはずです。そうした傷は絶対に癒されるものではないし、誰かが「責任を負ったから」といって解決するものでもない。
 陰謀論説も、それと似たようなものだと思えるのです。
 陰謀を明かそうとすることで、この世の中が良くなるとでもいうのでしょうか? 闇にシフトすればする程、その人の意識も闇にとらわれるのではないでしょうか。指輪物語に出てきた「賢者サルマン」のように。
 むしろ「隠謀論」としてどこかに「悪の組織」を作り上げることは、人類全体の調和を脅かす排斥行為に繋がりかねない、そうとさえ思えます。

 仮に隠謀論者側に荷担していた人達がいたとしたって、その人達が特別に遺伝的な「悪」を有していたわけではない。私には、そう思えます。
 私たちと大差ない人類のひとりが、肥大化したエゴと暴走した野心故に心を見失っただけであるのであれば、彼らはただの「弱くて脆弱な人類のひとり」に過ぎないのではないでしょうか?

 確かに、「自分だけが独占したい、支配したい」とするエゴの集団はあるでしょう。その中の一部に、地球全人類に関わる真理を覆い隠そうとしている人達がいたとしても、不思議はありません。
 でも、それを言う前に社会そのものが、エゴ丸出しの集団がいっぱいいる事実にも気付くべきです。実は「黒幕がどこにいるか見えない」だけであって、私たちが無意識のうちに「荷担させられている危険」だってあるはずです。

 その危険を避ける為に出来ることは、隠謀論として安易に架空の組織や、或いは某国のことを批判するのではなく、もっと大局的な目で人類を見つめ、自分の芯を「しっかりと」地球に根ざすことなのかもしれません。
 どこどこの隠謀だの、社会や国の衰退を誰かの責任に押しつけるのではなく、「では、こうした流れにどんな運命が示唆されているのだろう」ということをしっかり見つめることの方が遙かに有意義です。

 精神世界分野で隠謀論肯定派は大勢いますが、私は「否定派」を貫きます。
 世の中の問題というのは、平易な善悪で簡単に二分割出来る程、単純なものではないのです──。


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2010-07-13 | 真理 | トラックバック(0) |

意識の階層化と夢の関連性

 小康状態ではありますが、少しずつ回復している篠崎です。
 最近痛感するのですが、真理探究というのはなかば「スポーツ」に似たような体力の使い方をするように思えます。
 読書も持久力と耐久力が必要だし、類似した事例を見つけた瞬間「あれはどこに書いてあったっけ?」とすぐさま違う本を探す瞬発力も必要。
 先月の30日より全身が炎症を起こすという症状に陥ってから、少しずつリハビリをしているものの、まだまだ以前のように本を読み込むことも、数冊に渡って文献比較しながら執筆する体力も戻っていないようです。
 まぁ、慌てず騒がず(?)、じっくり回復に時間をかけていこうとは思っておりますが──。

 肉体はそんな感じで「のんびりまったり」上昇しつつありますが、意識レベルはもう休むことなく、ひっきりなしに動いているような有様です。
 それどころか、39度台の熱を出して全身金縛り状態にあった時が一番、考察には適していたような気さえする程です。
 よく「高熱を出すと、人は幻覚を見る」と言いますが、実はそうではなく「肉体の呪縛から離れることによって、より高次の意識体に目覚めやすい状態になる」──いわば「変性意識状態になるだけなのではないか」と、そんなふうにも思っています。
 私自身、今まで何度か大病をしてきた中で「思考がもっとも活発になっている」時は、何故か病気の時だから不思議です。肉体の制限がかかる分、意識が自由になるのでしょうかね。(とはいえ、それを文章なりにまとめるには肉体が復活してからでないと出来ないので、結局、不便は不便なのですが──)

 今回の病気をきっかけに私が集中して考察するようになったのは、意識の階層化についてです。
 以前、「自己意識の中にも、振動数における『差違』がある?」にて「意識も、次元のように階層があるのではないか」という話をしましたが、私自身はほぼそれを確信に近い状態で実感しています。
 この次元には「時間」というものが存在するが故に、どうしても人は「時系列」でものごとを捉えがちです。
 本来は「ただの座標軸」を表しているのに過ぎないものたちを「一本の線」で繋げるだけで、そこにはあたかも「横軸における流れ」があるように錯覚してしまいがちなのが人間の脳と言えるでしょう。しかし、本来そのように「線で繋げないまま」でいたとすれば、それは「ただの点の集積」でしかないのです。

 私がそれを痛感したのは、夢の中でした。
 夢は、ストーリー性があるかのように流れていく夢もあれば、意味もなくアットランダムに流れる夢もあり──本当に多種多様です。
 しかし、それは「脳が作りだしている夢」として認識するのではなく、眠っている私たちがアクセスする焦点の、ランダムな移動と考えたら──どうでしょうか?
 従来言われていたような夢の解釈が、まったく異なった形で現れてくるのではないでしょうか?

 例えば──綺麗な地層を思い浮かべてみてください。
 その表面は草に覆われていて、深くなるにつれ様々な鉱物が積み重なっているとしましょう。
 草に覆われている「表面的な部分」を顕在意識とします。で、その下の地層部分を潜在意識だと例えましょう。
 様々な地層というのは、その人の潜在意識に存在する、自覚出来ない意識階層だとします。これをもっと具体的に言うとすると──エハン・デラヴィ氏の訳した「パワーか・フォースか」という本がありますが、あそこに書かれているような「数値レベルでの意識」を連想してみてください。
 人はどんな環境でも、どんな状況でも「同じ反応をとるか」と言えば──答えは「NO」です。意識を数値レベル化したところで、ある日によっては低い反応を示したり、またある日によっては高い反応を示したりと、マチマチになるだろうと私は思っています。
 それは曖昧な表現をすれば「気分によって違う」ということなのかもしれませんが──とどのつまり「何故、その気分による違いが生じるか」と言えば、それこそがこの地層のように積み重なった意識階層の、どの部分にアクセスするかによって異なるからだと、私はそのように考えています。

 人は、決して「一定」ではないのです。
 理性によってある程度フラットに見せることは可能ですが、常に自分が「どの意識階層にアクセスしやすいか」によって、その人の精神的な生活というのは大きく異なるのです。心理学などで扱うように決して大まかな分類分けなど不可能ですし、同時に、○○占いというようにその人を完全に分類化することも不可能です。「傾向として、その気質は『ある』」という括りが出来るというだけの話でしかなく、本当にその人自身をはかり知ることなどは出来ません。

 私たちは日常生きているだけでも、こうした「潜在意識下にある階層」にアクセスしていますが、それが顕著に表れるのがなのではないか──私はそのように考えています。
 夢は、無秩序で無意味に展開するような感じを受けることがままあります。しかし、それは「夢が展開している」のではなく、夢を見ている私たちの意識が、どの地点に移動したかというだけの差でしかないように思えるのです。

 夢が移動しているのではなく、「意識の座標軸が移動しているだけ」──何とも大胆不敵な発想ですが(苦笑)。

 でも、そう考えないと「夢という行動そのものに、意図がある」ことを認めざるを得なくなります。そちらの方がよほど理不尽ですし(そうしたことについては、あまり学説でも触れられていません)、それよりも「寝ている私たちの意識が、潜在意識下にある階層の、どの部分にアクセスしているかで見る夢が変わる」と考えた方が遙かに分かりやすいような気がします。
 そうすることによって、「現実としか思えないほど、リアルな明晰夢」を見る人達のことも説明がつきます。
 また同時に、他者と同じ夢を見る──或いは他者の見ている夢を見るなどといった現象についても、説明がつくのです。
 夢は本来「自己意識」として、この次元特有の「私(わたくし)」という箱の中に詰った意識階層だけにアクセスして起こる現象です。が、それが「私」という枠を飛びこえてアクセスすると、他者と同じ夢を見たり、或いは他者の見ている夢を見るといった現象が起きるのでしょう。
 「私(わたくし)」という現象は、この三次元における特有の所有概念でしかない──私はそう感じています。その次元を飛びこえて「他の次元とアクセスする」ということは、意識を階層化して考える限りは「至極当たり前のことである」と、私はそのように感じています。

 私自身、全身が炎症を起こすという地獄のさなかで「客観的に意識の動きを見つめる自分」がどこかに存在し、その自分自身が記憶した夢を分析するに「それらはただ夢として流れていたわけではなく、私の中における意識階層の『どこ』にスポットを当てていたかに過ぎない」ということが実感出来ました。
 また、それを「飛び抜けて」違う次元にアクセスすることもありましたが、夢という潜在意識を通って異次元にアクセスした場合、離脱体験とは異なり「自我を持っていけない」ということが判明しました。
 自我を持っていないから、私は「ただ、そこに存在するだけの者」となるのです。
 何のアクションも出来ず、質問も浮かばない──起きてからそれを思い出すまでは、体験したことさえ覚えていないのです(ある意味、こうした「夢」を通じて離脱しているにも関わらず、自我がないのでそれを記憶していない人達が実際には数多く存在するのではないか、と思った程です。 注※とはいえ、夢の中には「自我をもって見る夢」もあるので、その延長線上で離脱が起きた場合は事情が変わってきます。ただ、私が個人的に感じることとしては、仮に自我のある夢を見ている最中に離脱をした場合、「肉体を離れる」ことも体感出来てしまうので、通常の体外離脱と何も変わらなくなるだろうと予測しています。

 この辺りのことはまた長くなりそうなので(笑)、後日機会があれば説明いたしますね。

【Jさん】
ご心配おかけして、申し訳ございません。7日だけは復活しましたが、その後はしっかりちゃっかり休ませてもらったので、大丈夫ですよ(笑)。


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11月3日トークイベント「メタモルフォーゼ─今こそ、変容の時─」受付開始

 少しずつではありますが、回復の兆しが見えつつある篠崎です。
 おかげさまで高熱は引き、両耳の中耳炎も今は左耳が僅かに残る程度で、大腸の炎症はすっかり治まった模様です──が、当分リハビリは必要そうです(笑)。

 そんなわけで、本日はお知らせのみですが。
 11月3日に予定しているトークイベント「メタモルフォーゼ─今こそ、変容の時─」の受付開始致しました。
 今回はシステムが大きく変わっておりまして、今までのような入場券事前発送がなくなりました。また、申込み時点で送られてくる「自動送信メール」が受付確認、および振込先のご案内メールとなりますので、くれぐれもご注意ください。(携帯からお申し込み、および携帯メールアドレスを送信先にご指定の場合は自動返信メールが送れない関係で、従来通りインターネット受付窓口担当者からの返信となります。)

 尚、新しいシステムとして「事前申込み(イベント料銀行振込み前払い)」の方は希望の座席が指定出来るシステムが導入されました。必ずご希望の席が確保出来るとは限りませんが、第一希望・第二希望を踏まえ先着順で席を確保していきますので、是非ご利用くださいませ。

 今回のトークイベントでは、主に5次元文庫から出ている篠崎著書「アセンション 真実への完全ガイド」を参考にしながら、人類が今までつまずいてきた問題を踏まえた中でこれから私たちがどのように変容していけばいいのかといった流れについてお話致します。
 興味のある方は是非、ご参加くださいませ。 

【お知らせ】7月3日トークイベントについて、メールを下さった皆様へ
心温まるメッセージと感想、誠にありがとうございます。お返事に少々時間がかかってしまいますが、今しばらくお待ちくださいませ。


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プロフィール

篠崎由羅(しのざきゆら)

Author:篠崎由羅(しのざきゆら)
1970年生。幼少期から哲学・宗教学に造詣を深める。思想および思想史、それに付随した国際事情に興味を抱いて独学を続け、大学ではインド哲学科専攻。東西問わず、両者の思想に渡り研究を深める。

現在は看護師として施設で勤務しながら、その傍らで執筆活動を続けている。2016年11月にYOU are EARTH改め「WE are EARTH」の活動を再始動予定。より良い未来の地球のため、全力を尽くす誓いをたてている。

【篠崎編集担当】


【篠崎の著作本】

アセンション真実への完全ガイド―2012年のイベントホライズン (5次元文庫 し 2-1)アセンション真実への完全ガイド―2012年のイベントホライズン (5次元文庫 し 2-1)
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【第Ⅱ部に篠崎の質問文が一問一答形式で掲載されています】
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