西洋と日本における「神と悪」の概念

 最近私は、アメリカのドラマ「スーパーナチュラル」にはまっています。
 とはいえ見始めたのがつい最近の為、40本以上に渡る全作を通して見ることは難しいので、あらすじを読んでは全体のストーリーに関係ありそうなところだけをピックアップして視聴している次第です。今はそんなつまみ食い状態ですが、機会があればいずれは全作通して観てみたいと思っています。

 スーパーナチュラルは、本来ドラマに興味のない私でさえ名前を知っていた程メジャーな作品故、ご存知の方も多いことと思われます。
 簡単に説明しますと、サムとディーンという二人の兄弟が、母親の不審死をきっかけにいわゆるゴーストバスター(映画の中ではハンターと言っています)的に悪霊や怪物と戦っていく──という話です。オムニバス形式で一話ずつ完結していますが、全体を通して流れるひとつの「計画」みたいなものが存在し、各シリーズを通して少しずつその計画が明かされていく──というものです。
 その内容だけを見るとよくありがちな完全懲悪もののように思えたので、最初は食指が動きませんでした。しかし実際に観てみると、悪魔の計画とは別の流れで神々の計画があったり、その神々の計画の全貌も途中まで不透明だったりと、視聴者を引っ張る要素が個々彼処に散見されました。流し観程度で終わらせるつもりが、その要素にすっかり引っ掛かってしまい(ミイラ盗りがミイラになりました;)──時間を作ってはDVD視聴をしているという有様です。

 しかし、こうした西洋における「神 対 悪魔」という図式を改めて眺めていると、いくつか疑問点なども湧いてきます。
 西洋においては悪魔祓い──エクソシストやオーメンなど、オカルト映画には決まって「悪魔」という文字が見え隠れしています。
 そこに出てくる悪魔は恐怖の対象であり、同情の余地さえない「絶対的な悪」です。
 逆に日本の怪談などと比較してみると、日本ではこうした悪の権化とも言うべき「絶対的な悪」というものが存在しません。耳なし芳一にしろ、お岩さんにしろ、どこか身近で、かつ誰でもなり得る可能性を秘めた存在が怪談に出てくるケースばかりです。
 反対に、西洋では悪魔の存在にそんな身近さを感じさせません。
 むしろ神との対極として悪魔を描いているケースの方が多い為か、人間はもっぱら抗うことが出来ず、殺されるか、或いは従うだけという図式がほとんどで、そこに人間側における選択の余地すらありません。(ただし、西洋で悪魔と呼んだ存在には、教会が絶対的権限を持っていたが故に口実として悪を利用した部分もある為((魔女狩りなど))一概にすべてが神との対極──と言えるわけではありません。その為ここでは、純粋に悪を「概念」としてだけ捉えて掘り下げたいと思います。)

 この差はおそらく、西洋が唯一絶対神という一神教だったのに比べ、日本の民間信仰が八百万の神として、神の存在をひとつに絞らなかったことが起因しているのでしょう。
 神がひとつでないならば、悪もひとつであろうはずがないからです。
 日本人はひとりの神に絶対権限を与えなかった分、悪にも絶対権限を与えないという背景があったのだろうと考えられます。

 これは欧米人と日本人の違いを考えるに、とても分かりやすいものです。
 日本の場合は八百万として「身近なものが神になる可能性を秘めている(氏神様などは、まさにそうですね)」のと同時に、「身近なものが良くないもの(悪霊など)になる可能性も秘めている」という、善悪表裏一体の関係性を無自覚ながらも認識していたかのように思えたからです。
 善も悪も紙一重で、神か悪かの境目は皮一枚に至るぐらいのとても薄いものである──そんな日本人の感性が、そうした思想の背景に伺えます。だからこそ、人の子供をさらって喰らう母親が鬼子母神として神になったり、厄を呼び寄せる存在さえも疫病神と呼んだのかもしれません。

 従来の西洋的考えにおいて「悪」というのは、常に外部に存在していました。
 しかし私は本来、悪は、自分の内面にある──そう思っています。
 また同様に、神性もまた、自分の内面にある──そうも思っています。

 私たちは否が応でも「自分の内面世界」の中で生き続けなければなりません。
 どんなに客観的なデータを持ち出したところで、その客観的なデータを認識するのは「自分自身」です。自分の認識を他の人に任せることなど、到底出来ません。
 そうである以上、認識をするに至る判断も、私たちは「自分自身」でしなければならないのです。

 だとしたら、ある某かの存在を認識しようとした際、その存在を「善か悪か」と判断するのは、自分自身以外「誰もいない」ということになります。
 すなわち、外部に悪の要素があったとしても、結果的にそれを受け入れるかはね除けるかは「個人の選択の領域」となり、それはとどのつまり自分の内面に、呼応する悪が存在するか否かで決定づけられてしまうのではないか──私はそう思えるのです。
 UFOコンタクティーであるマオリッツオ・カヴァーロ氏やハワード・メンジャー氏は、「高次元にも好戦的な存在(悪の部類に含まれるような存在)が少なからずいる」ということを述べています。
 また、膨大な霊界日誌を残したスウェーデンボルグは、「悪は、最低限においては神にとって必要なものである」という発言もしています。
 私自身、完全なる神の領域以外には少なからず「相対する力関係の存在」はいるだろう──そう思っています。
 何故なら、絶対的唯一だけの領域になってしまえばそこには認識が働かず、ただ「存在するだけ」となり、成長もなければ発展もないからです。
 宇宙が常に発展を繰り返す存在であることを思えば、少なからずそこには成長を促す要素が必要となってくるのでしょう。

 私たち人類の段階では、まず「自らの内にある悪」を除外することの方が先決のような気がします。
 昨今はイルミナティや闇の組織といった考え方が多いですが、某かの団体や集団に対してその判断を下すことよりも、まずは「自分の内面にある悪」を締め出し、容易に外部の意見に染まらないようにすることの方が先決だと、私には思えるのです。
 イルミナティや闇の組織といった外部に悪の存在を見出すのは、欧米諸国の従来の思考法に準じているかもしれません。
 しかし、日本人の本来の特質で考えれば、「悪は自らの内部にも存在し、人は容易に正しい道を踏み外す。だから、自分をいつでも律する必要があるのだ」という考えに至ることでしょう。

 善悪は対極にあるのか──もしくは、表裏一体の関係なのか。
 善悪は外部にあるものなのか──もしくは、自分の内面にあるものなのか。
 似ているようでありながらも、そのどちらを選ぶかで、思考の方向性が変わってくるのかもしれませんね。


【謝罪】
 メールを送って下さる皆様、誠にありがとうございます。
 返信がなかなか出せなくて、本当に申し訳ございません。すべて拝見しておりますが、時間が取れず返信が出来ずにいる次第です。
 皆様から頂く色々な視点でのご感想、ご意見、とても参考になっております。この場を借りて御礼、および返信出来ないことにつきお詫び申し上げます──。


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2010-09-29 | 真理 | トラックバック(0) |

「深海の意識」は、状況に囚われない

 以前から私は、「ポジティブシンキング」という言葉を振りかざす姿勢が、好きになれませんでした。
 そもそも心の在り方を固定化すること自体に無理があると思うし、常に流動しているのが自然の働きである思考を定着させようとすることそのものに、疑義を抱いていたからです。
 奇しくも今から5年ほど前──2004年後半ぐらいから2007年にかけて、スピリチュアル分野ではやたらに「ポジティブシンキング」という言葉がもてはやされました。ポジティブシンキングという言葉が流行りはじめたきっかけは自己啓発セミナーや成功哲学に端を発しているのですが、当時の日本におけるスピリチュアル分野はまだ開発途上だった為、同じ頃に流行った自己啓発や成功哲学との境目が曖昧になってしまったことが原因のひとつかもしれません。
 当時はポジティブシンキングと並んで、ソース(源)や「ワクワクを探す」といった言葉も沢山溢れていました。私の周囲にもそうした言葉に染まった人達が沢山見受けられましたが、一年もすると疑念を抱き初め、二年もしたらほとんどの人がそこから離れていました。それどころか、「私は『脱・スピリチュアル』したから!」なんて平気で言っている人を見ていると、その移り身の早さに呆れるのを通り越して憤りさえ感じます。

 あなたに精神性の一体何が、理解出来たのか──と。
 精神はもっと深いものであって、一年や二年囓ったところで何も分からないだろう。それをちょっとやってみて自分の人生が向上しなかったからって、卑下するような言い方をするのは早計だ。精神の探究を、自分のエゴに利用するな──と、そういう言葉を聞く度に思ったものです。

 とはいえ、本来そうした言葉を固定化することで心理面に影響をさせようとする姿勢そのものに問題があったのも事実です。
 当時、ポジティブシンキングという言葉に染まって、必死にワクワクを探そうとした人達は、こぞってこう言いました。
「自分が『ワクワク』しているかどうか考えると、途端に冷めてしまう」と。
 ワクワクの語源は分かりませんが、音のイメージから言って「湧く」に関連しているように思います。だとしたら、「湧く心情」は理屈や思考、頭で捉えられるものではないはずです。感情に理屈をつければ、ただの「ヘ理屈」でしかありません。
 本当は何も湧いていないのに、無理矢理「次から次へと湧いている感情」になろうとすれば、歪みが生じるのも無理のないことです。ポジティブシンキング推奨者が寝返ってネガティブ推奨してみたり、或いはたったひとつの結果だけでスピリチュアルを括って全否定に走ってしまうようになる人がいたのも、あながち仕方がないことなのかもしれません。

 精神とは、海のようなものだと私は思います。
 嵐になれば大きく荒れるし、澄んだ青空の時は美しく光り輝きます。
 どんな嵐の時にでも「必ず澄んでいろ」という考え方の方が土台無理な話だと、私には思えるのです。

 精神を海の表面部分にしか感じられないと、天候などの状況に逆らってでも「光輝かなければならない」──そう思えてしまうのかもしれません。
 しかし、海は深いのです。
 どんなに天候が荒れたとしても、深海では静寂が包み込み、深海魚たちが穏やかに海を遊泳していることでしょう。
 晴れた日も、荒れた日も、まるで外部とは切り離されたかのような静かな世界が横たわっています。
 そこにあるのが──深海のような静かな領域にあるものこそが、本来の精神の芯部ではないかと私には思えるのです。

 ポジティブもネガティブも、二元性を超えていません。
 どちらが大切、どちらは不要というのではなく、両者のどちらにも囚われない視点こそが、一番大切なのだろう──そう思うのです。
 人間生きていれば、必ず辛いこともあるし、同様に楽しいこともある。それを総じて眺められる静かな目こそが、もっとも尊いもののように思えます。
 底抜けに明るくなる必要もなければ、いつでも冷静沈着でいなければならないわけでもない。怒ってもいいし、凹んでもいいし、落ち込んでもいい。
 ただ、自分の蠢く感情を静かに見つめられるもうひとつの視点を感じられていれば、人は常に静寂の中で生きられるものなのかもしれない──。

 私も人間ですので、不安を感じること、哀しくなること、辛くなることもあります。
 しかし、そうした状況の変遷と共に生きる自分自身を、客観的に見つめていたい──そう思っています。
 今、時代は二極化の波と、生まれ変わろうとする磔(繭)の状態で交錯していますが、状況に揺り動かされない「深海の意識」を見出すことで、どんな嵐にも惑わされない耐久性が生まれるものなのかもしれません。


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答えを常に、宇宙基準で考える

 昨日尖閣諸島問題における記事を書きましたが、複数の方からご意見や感想のメールを頂きました。
 誠にありがとうございます──。
 中国の行動に対する疑念を持っている方もそうでない方も、皆様とても冷静に考えていらっしゃったことに、ホッと胸を撫でおろしました。

 どんな事態になったにせよ、排他的思想と攻撃的な考えは持つべきではないと、私はそのように自戒しています。
 勿論、言うべき時は毅然とした態度で臨む必要はあります。ですので、中国側が謝罪と賠償金について要求してきたことに対して日本側が拒否したという姿勢も、これもまた正当な反応だったと思います。

 国という組織ではあってもまずは「人間である」と考えた場合、答えは自ずと出てくると思います。
 個々人同士で何か問題が起きて相手が感情的になってしまい、その波及が周囲に大きく及ぶとした場合、ほとんどの人がまず「引き下がる」ことを選ぶと思います(もしかしたら日本人の特質かもしれませんが。仮にそうだとしたら、決して失ってはいけない日本民族独自の個性だと、私は思います)。
 そうした後で、理不尽なことを相手が要求してきたら、その時は冷静、かつ毅然とした態度で説明するというのが、基本的なコミュニケーションにおけるノウハウではないでしょうか。
 そういった意味で、ここまでの日本の対応は筋が通っていると私は思います。そこから先どうなっていくかは、相手のある問題ですので、注意深く見守っていく必要はありますが──。

 ただ、私が一番懸念しているのは各国における二次的被害です。
 日本には、中国からの留学生の方が沢山います。彼ら・彼女らが中国人だからといって、必ずしも尖閣諸島について何かしらのイデオロギーを持っているとは限りません。
 私自身、中国人留学生の友人がいたので、彼女たちのことを思うと胸が痛みます……。
 こうした国家同士の争いで犠牲になるのは、いつでも無実で無力な人達です。
 日本からも、留学生が中国に渡っていることや、仕事で渡っている方のことを思えば、これ以上軋轢を生むのは得策とは思えません。両国にいる人達に、危険が及びかねないからです。
 1998年、テポドン問題があった時、朝鮮学校に通う女学生のチマチョゴリが電車内で切られるといった被害が多数ありました。
 またアメリカでは、9.11の後に「ビン・ラディンに似ていた」という理由だけで、無実のアラブ人が射殺されています。
 感情的な発露は、必ずしも無実な人達へ波及してしまいます。私は何よりも、それを一番不安に思っています。

 日中の国交における色々な情報が錯綜し、どれが正しいのか──どれが本当なのか迷っている方々は大勢いると思います。
 でも私は、常に答えを宇宙の基準に従って考えるようにしています。
 壮大な宇宙の中で、私たちはこの地球という小さな惑星に、縁あって生まれたのです。
 宇宙の膨大な時間の中ではほんの一瞬にも満たない人生の中で、何故、人は争うようなことをするのでしょうか?
 人類誕生の歴史と地球の歴史を比較したって、その差は歴然です。ましてや、文明が誕生して以降の時間を地球の歴史と比較してみたら、爪の垢にも満たないでしょう。宇宙と比較したら、塵どころの話ではありません。
 しかし、そんな短い一瞬の間に、何故このような争いばかりが続くのでしょう。そのこと自体があまりにも馬鹿馬鹿しく、あまりにも哀しいことだとは思いませんか?

 支配と争いの先にあるのは、枯渇だけです。「こころ」を失ってまで権利を主張するぐらいなら、私は、滅びることを選ぶでしょう。
 不安に思う方が多いのも納得出来る程、確かに今、時代は過渡期を迎えていると思います。
 それは日本だけでなく、世界全体がそうなのでしょう。
 しかし、どんな時でも私たちは国民である前に人間であり、そして地球人であり、そして宇宙の生命体の一部であるという意識と価値観にいれば、自ずと答えは見えてくる──そう私は思っています。
 


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退くも勇気

 尖閣諸島における問題で那覇地検が船長を釈放すると決めたことに対し、与野党から撤回要求が出るなど物議を醸しています。
 しかし、私は那覇地検の判断は正しいと、そう思います。
 実際に野党でも、公明党などの一部の代表は地検の判断を尊重しているようですが、おそらく今後マスコミにおける那覇地検対処の批判は、さらにヒートアップするような気がします。
 しかし今ここでゴリ押しすることが、果たして外交に好影響を与えると言い切れるのでしょうか? 
 国と国の問題とはいえ、所詮は人間同士の問題です。人間同士が互いに問題を起こした場合、感情的になってしまった相手に向かって意地をはってみたところで、何か得るものがあるでしょうか?
 国交をこれ以上悪くさせない為にも、今は冷静になって、一歩引くことの方が大切だと私は思います。
 何よりもここで尊重されるべきことは、日本と中国の和平です。水掛け論を繰り返したところで、お互いに嫌悪感を増していくばかりとなっては元も子もありません。
 ここはまずいったん退いて、「次回あった場合にどうするか」を冷静に思案した方が得策だと私は思います。

 どんなに辛酸を舐めたとしても、調和を尊ぶ行動は、必ずや国際的な世論に影響します。
 感情論で行動するよりも、常に冷静さを持った状態で世論に問いを投げかけるのも、ひとつの方法のように思えるのです。
 私はそういった意味でも、那覇地検は英断を下したと、そう思います。
 願わくば、議席確保や政権交代を狙うあさはかな政治家達が、この問題を悪戯に突っつかないことを願う次第です──。 


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昆虫料理

※今日は少し息抜き(?)というか、雑談記事です。

 最近、私を洗脳するかのように、あちこちで「昆虫料理」という文字を見かけたり、或いは話題に上ったりします。
 先日話題に上がった内容としては、「子供時代、結構『蟻』とかを普通に食べる子いたよね──」でした。
 これは冗談でも何でもなくて、本当の話です。逆に「今時の子供達の間で、そういう子っているのだろうか?」と疑問に思う程です。
 ある友人曰く、私たちの共通の知人が幼稚園児代に蟻を見つけるたびに捕まえては食べていたと言います(勿論、「ナマ」です)。
 その知人はとても優秀な子で、学問だけでなく芸術にも秀でた才能を持っていました。勿論、そのような教育を施せる家庭環境に育っている以上、食事が不自由だったわけでは決してありません。一体、どこで蟻が美味しいということを知ったのかは謎ですが、食べるものに困って蟻を食していたわけでないことは確かです。
「なるほど──。天才児というのは、普段の食事も違うものなのかな」なんて思った私でしたが、意外にもその知人のような行為をしていたという話がそこかしこにあり、「蟻、常備食!」な真相が垣間見られたりした程です。

 確かに、イナゴなどは私が小学生時代まで普通に食卓であがっていましたし、今でも佃煮屋さんなどに行けば普通に売っていると思われます。昆虫を食べる習慣を持つ国自体、世界的に見れば決して少なくはないし、たまたま私たちが食していないというだけで、意外にも昆虫食って普通なことなのかもしれません。
 かといって、何の先入観もなしに「食べなさい」と言われて、すぐさまその場で食べられるかどうかは別にしても──蛙を食べたり、或いは蛇なども食べることを思えば、昆虫食ぐらい「どうっていうこともない」のかもしれません。
 昨今、蜂が大量消滅していることや、昆虫が全体的に減っていることを思うと、あれこれ思いめぐらすものもなきにしもあらずですが、人間はいずれにせよ何かしら食して生きなければならないという哀しい宿命がある以上、生命からの恩恵を受けなければなりません。
 万が一、今後環境の影響で農作物の生産料が激減するようなことがあったら──

 ──食卓の主役が、昆虫に変わることがあるかもしれませんね……。

 とはいえ心なしか、感情移入出来る家畜よりも、昆虫の方が魚や野菜に近い感覚で「食するのに抵抗がない」ような気もします。
 昆虫は果たしてアストラル体を有する動物に分類されるのか、或いはエーテル体を有する植物に分類されるのか、これ自体が疑問です。
 あれこれ掘り下げて考えていくと、アストラル界でもエーテル界でもない、また違う分類に分けられるような気もしてしまいます。シュタイナーは「動く生物は、例外なくすべてアストラル界を共有している」と言っていましたが、何故か昆虫に関しては「アストラル体──キミにもあるの?」と突っつきたくなるから不思議です。(アストラル界でも、エーテル界にギリギリ近い境界線なのかもしれませんが。)

 篠崎の活動YOU are EARTHでは、食育を研究している栄養士・古雅貴美子先生にご協力頂いています。
 早速、古雅先生にもこの「昆虫料理」のネタを振りましたので、是非いつか食育の視点で「昆虫食」について意見を聞いてみたいと思います。
 もし興味のある方がおりましたら、楽しみにお待ちくださいマセv



【参考】古雅先生の食育ブログ
 簡単に出来て栄養のある簡単食育レシピを紹介されています。10月12日にはレシピお持ち帰りの出来るセミナーも予定しておりますので、興味がおありの方は是非ご参加ください。(試食も出来ます。)
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2010-09-23 | 雑談 | トラックバック(0) |

同じ過ちを、二度と繰り返さない為に

 「喉もと過ぎれば熱さ忘れる」ということわざがありますが、人類もそのことわざどおり、過去の過ちを時間の経過と共に忘れてしまう愚かな種族なのだろうかと思うと、とても哀しくなります。
 私たちは戦争をリアルに体験はしていませんが、それでも戦争の残した傷跡を知っている人達は少なからずいる世代です。第二次世界大戦は何百年前にあった戦争ではなく、たかだか70年ほど前に起った戦争なのですから。

 その70年の間で、平和への慈しみが唱えられた時期は非常に少なく、世界がひとつになるような理想的な進展もなく、むしろ反対に今でも他国間でのいがみ合いは続いている有様です。

 尖閣諸島における問題で中国の反応が報道されていますが、ネットに掲載されている記事の下には必ずと言っていい程、一方的な中国批判が連なっています。
 何故、もっと冷静な目で状況を見ることが出来ないのでしょう?
 何故、未だにそんな排他的になっているというのでしょうか?
 そんな状態で、これから地球の向上が臨めるとでもいうのでしょうか?

 私の周りにも、中国や北朝鮮、韓国を批判する人達は大勢います。
 でも、そういう人達に必ず「それなら、嫌いな理由を言って」と問いかけると、概ねみな答えられなくなります。報道されていることを鵜呑みにして、感情的に好き・嫌いを判断しているだけに過ぎないからです。
 スピリチュアリストに昨今見受けられる「根拠のないアメリカ嫌い」も同様です。(本来、スピリチュアルというのは国家間を飛び越えた理念なはずですので、イデオロギーに左右されるのは望ましいことではないはずです。)
 そういう方々に是非お聞きしたいのですが、中国人や韓国人、アメリカ人に知人の方でもいらっしゃるのでしょうか? 
 過去、何か酷いことをされた経験でもあるのでしょうか? 
 捕虜になって拷問を受けたとか、そんな体験があるのでしょうか?

 行ったこともない、知人もいない国を嫌う根拠は──果たして、どこにあるのでしょうか?

 このような時代だからこそ、感情だけに振り回されて他国や他文化を批判するような行為は控え、どのような事態に対しても穏便に──そして冷静に受け止めていきたいと、私自身は思っています。
 誰だって、どの国だって、この地球に生きる以上「私たちの兄弟」だからです。

 もし、他国を批判したり卑下したくなったら、是非戦争映画を観てください。
 硫黄島からの手紙や、父親たちの星条旗、太陽の帝国など──。
 戦争時代、闘う理由もない中で相手を殺さなければならず、また自分たちの命もいつ散るか分からない中で生きた兵士達は、一体どんな思いで死んでいったのでしょうか。
 正気だったら、絶対に生き残れない──そこまで自分を追い詰めて闘わなければならなかった彼らの苦悩は、今の世界にどのように息づいているのでしょうか?

 このような哀しい死を戦争中に経た人は、数えきれない程いるのです。
 彼らへの最大の供養は、平和な世界を築くことにあるのではないでしょうか?

 二度と同じ過ちを繰り返さない為にも、周囲やマスコミの扇動に乗らず、冷静に様子を見ていた方がいい──私はそう思っている次第です。


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自由と不自由は、紙一重

 私は自由不自由の違いについて、考えることが多々あります。
 こういうことを考え出したきっかけがいつからかはよく覚えていないのですが、小学校五年生の時に作文で「自由と責任について」という文章を書いていた記録がある為、おそらくその頃にはすでに「自由の本質」というものを子供心に考えていたのでしょう。
 作文には、「自由を求める為には、その自由行為をする際に生じる責任を、自ら持たなければならない」なんて、偉そうなことが書いてありました。
 思い返すと「『こわっぱ』が!」って感じですが──(苦笑)。
 今にして思えば一笑に付す内容ではありますが、それでも「自由」と「責任」を付随させていた当時の考えは、今の私にも受け継がれています。
 しかし昨今は、あまりに価値観が多様化しすぎたせいか、自由というのを「ただ単に、好き勝手に何でもやっていいことだ」と勘違いしている人達も少なからず見受けられるように思えます。
 逆に言えば、「自由」という言葉がバーゲンセールの如く大売り出しされすぎて、本当の意味での自由を人は見失ってしまったのではないか──そうも思えるのです。

 自由という現象は、ひとつが突出すれば、他方の自由が奪われる──という皮肉なことも起こりかねません。
 例えば、パソコンを例に挙げてみましょう。
 私はWidows3.1からパソコンを使用していますが、当時のパソコンはプロンプト画面による起動だった為、ある程度のカスタマイズはユーザーの手に委ねられていました。少なくとも98辺りの頃は、私の周辺で「自作Dos-v」として、ジャンク部品などを秋葉原で買い集めてきて、自分たちでコンピューターを作り上げる人達も大勢いた程です。
 しかし98以降、2000・Me・XPとヴァージョンがアップされるにつれ、ユーザーによる自由度はいっきに激減していきました。

 私は現在Vistaを使っていますが、XPに比べてさらに自由度が低くなったことに苛立ちを覚えています。
 Windows3.1の頃に比べたら、遙かに今のPCの方が初心者には使用しやすいものかもしれません。しかし、「これが普通」と思ってしまった人達は、逆に言えば「完全カスタマイズされたものの枠組み」からは、抜け出ることが難しくなってしまったように思えます。

 それって、本当に使いやすくなったと言えるのだろうか──そんなふうに、疑問に思うことが多々あります。 
 ユーザーが努力しながら知識を培っていく余地を与えないことが、必ずしも「便利」であり「自由なツール」と言えるのでしょうか?
 私たちは知らないうちに、「企業に飼いならされているだけ」なのではないでしょうか?  

 自由と不自由は、見方を変えればいくらでも裏表ひっくり返ってしまうようなものなのかもしれない──そう思うこともあります。
 例えば、今から数百年前まで遡ったとして──PCもない、テレビもない、ラジオもなければ電気もろくに通っていない、そんな時代を思い返してみましょう。
 彼らは日の出と共に起きて、それぞれの仕事をこなし、日の入りと共に家に戻り、家族と共に食事をして、夜は早いうちから眠りについたことでしょう。
 テレビもPCも、ゲーム機といった娯楽のない生活の中で、彼らは太陽や星といった自然のサインに従って、ごくごく質素に生きていたと思います。
 反対に私たちは、昼も夜も関係ない──PCだけと向き合ってヴァーチャルな交流だけでも生きていけるような時代となりましたが、その分、娯楽がいっさいなかった時代に比べて、何か幸福を掴んだでしょうか?
 蔓延する鬱病や、神経衰弱は、私たち現代人に何を訴えているのでしょうか?

 娯楽に満ちた世界は、私たちに本当の意味での自由を与えてくれたのでしょうか?

 勿論、PCの普及やインターネットの普及により、生活の中で自由が増したこともあります。
 特に、海外の情報を瞬時に知ることが出来るようになったのはメリットと言えるでしょう。国際的に情報を得たいという人にとっては、とてもネットの普及はありがたいものです。
 しかし、それがどんなにいいものであれ、節度を持って使いこなさないと、結果的にそれは人類が生み出した被造物への隷属になってしまいかねないのではないか──そんなふうに思えるのです。

 私たちはどうしたところで、必ず何らかの支配下にいます。
 それを打破しようというのは烏滸がましいことだし、そこから逃れようとするのも自由ではなしに「エゴでしかない」──そうも思えます。

 「そんなことはない。人間はいつだって自由だ」──そう言う方々も、いるかもしれませんね。
 でも、私たちは肉体を持ってこの星に生息する以上、必ず自然の法則に従わざるを得ません。
 例えば、一番分かりやすい例は「重力」でしょう。
 私たちは「重力」の支配下にいます。この重力に逆らうことは誰にも出来ないし、また、逆らうこと自体が「無意味」です。
 そして、私たちは昼と夜というリズムの支配下にあります。
 人類はすでにこれを打ち破ろうとしていますが、それが果たしていいことなのかどうか──かえって神経衰弱となる人や、不眠症の人を増やした結果にとどまるのではないかということは、人類にとってひとつの課題かもしれません。
 また、「寿命」にも束縛されています。不老不死というのは永年人類の夢だったようですが──これが果たして「本当に素晴らしいものか、どうか」、これもひとつの課題ですね。

 もし、不老不死になれたとしたら──それは、とてつもなく大きな「自由」かもしれません。
 でも、想像してみてください。
 もしもあなたが、古代から生きていた存在だとしましょう。
 あなたはすべての歴史を見て、その真実を知っているとします。それらが移ろい変わっていき、人々の生活スタイルもどんどん変遷し、時代が瞬く間に変わっていく様をずっと見てきたことになります。
 いつでも常に新たな人類と共に時代を演じて行かなければならないことに、あなたは苦痛を感じませんか?
 もしも私が不老不死を約束され、時代が流れ去っていくのをいつも見なければならなかったとしたら──苦痛極まりないです。
 おそらく、自ら死を望むことでしょう。
 時代を共有出来る仲間がいないこと、親しくなった人々をいつでも見送らなければならないことほど、孤独なことはないからです。

 では逆に、「世の中の人、全員が不老不死になった」としたら、どうでしょうか?
 私は、これもまた逆に苦痛です。
 地球というひとつの星の中では例え不老不死だったとしても、おそらく全部の土地を渡り歩くことが可能でしょう。永遠という長さの中で、地球人全員と友達(までは大袈裟としても、知人ぐらいのレベル)になるのは可能かもしれません。
 それでも──おそらくみんな、退屈するような気がします。

 制限や束縛があるからこそ、そこから開放された瞬間が「自由」に感じるのかもしれない──そんなふうに思うこともあります。
 また逆に、「隷属している」ことを自覚しながら、あえてその隷属に身を任せ、それを尊ぶ瞬間──それもまた自由と言えるのではないか、そう思うこともあります。

 究極なところ、結果的には「どう感じるかも、個人の自由」ということなのかもしれません。
 人類の被造物であるヴァーチャルな世界に隷属することに自由を覚えるか、はたまた、大自然の法則や宇宙の律動に隷属することに自由を覚えるか──。
 一方が一方を虐げることは出来ないし、どちらが正しいということも、ないのかもしれません。
 
 ちなみに私は、人類の被造物に隷属するよりも、自然・宇宙の法則に従う方を選んでいます。
 昼と夜という時間の支配が、とても好きです。
 また、春夏秋冬という季節の支配も、とても好きです。
 夏から春になる必要もなければ、冬がなくていいとも思わない。夏の暑さに唸る時があるからこそ秋のそよ風が心地よく感じ、冬の寒さに凍えるからこそ、春先に咲くおおいぬふぐりの愛らしさがこころに響くのだと思えるからです。

 自由を与えられた人類だからこそ、「自由」について深く考える機会が与えられたのかもしれません。私は今後も掘り下げて、自由について考えて行きたいと思っています。
  

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2010-09-19 | 真理 | トラックバック(0) |

島も、海も、土地も、すべては人類のものではなく「地球のもの」

【謝罪】
 9月に入ってから、更新が途絶え気味で申し訳ございません──。
 正直に申しますと、現在、篠崎は世界の動きやその流れにおいて模索しており、日々試行錯誤を繰り返しています。思索に耽っているときはどうしてもアウトプットが途絶え、その分インプットが増える関係で、記事内容が短かったり更新が時折途絶えてしまう次第です。
 自分でもこの区切りがいつつくのかわかりかねますが、抗うことなく、時代の流れに身を任せながら、森羅万象に耳を傾けていきたい──そう思っています。



 先日、アメリカがサウジアラビアに武器を5兆円売却する動きがあることが報道されたと同時期、イランが国際原子力機関(IAEA)の定例理事会において、日本に対してウラン濃縮活動に疑義を呈し、日本の核関連情報を提示すべきという意見を出しました。
 そしてまたその同日に、尖閣諸島における中国との問題──まるで、何らかの示唆を含むかのように、日本は世界における立ち位置を確認するよう強いられているように感じる程です。

 特に尖閣諸島における問題に関しては、警視庁のホームページや、高校のホームページが閲覧出来なくなる現象を「中国のハッカーによるもの」と報道されています。
 しかし、そのような報道を鵜呑みして、中国に対して感情的に反応するのは浅薄な行為です。
 そもそも、日本にしろ、中国にしろ、根本的な問題を横に措いています。
 それは国境という概念自体、人類が勝手に決めた線引きでしかないということです。

 尖閣諸島は「無人島」です。そこを長年住まいとして暮らし、故郷と扇ぐ人達が互いにいない中で、何故土地のみに執着をするのでしょう。
 最初から海に線が引かれていたわけでもない、陸地に線が引かれていたわけでもないのに、何故そのようなことで人は争いをするのでしょう。
 もしも人類を創生した神々がこのような事態を見ていたら、嘆き哀しむとは思わないのでしょうか?

 21世紀を迎えた今でも、どうしてそのような問題を引きずっているのでしょう──。

 今年の異常気象然り、各国におけるナショナリズムの助長しかり、人類は自ら試練を呼び込もうとしているようにさえ感じる昨今です。
 どのような事態になったとしても、私はいつでも「地球全体」──そして、宇宙全体の繁栄のみに意識を向けていたい。
 その為の模索を今こそ、徹底してすべき時なのかもしれない……そんな風に感じる今日この頃です。


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日本だけが、世界で特別なわけではない

 昨今、時代の流れによる影響か、或いは一部の偏ったスピリチュアリストによる影響か分かりませんが、不必要に日本を特別視する人達が散見されます。
 私自身、自分が日本民族として生まれ、その精神を継いでいる一員として日本に誇りを感じてはいますが、あまりに日本崇拝主義に偏った人達を見ると哀しくなります。
 第二次世界大戦であれほどの痛手を負い、未だ遺骨さえも帰国出来ない兵士達がいるというのに、何故、日本だけが特別だと言えるのでしょう。それは戦争で犠牲になった人達や原爆により尊い命を犠牲にした人達に対して、かえって失礼なようにも思えるのです。「日本は特別だ。日本は神の国だ」と言えば言う程、戦争で亡くなった人達はこう思うでしょう。
「ならば、何故神は日本を守ってくれなかったのか」と。

 日本民族としての誇りを持つということは、闇雲に日本を優越視することではありません。
 どの国へ行っても、どんな未来が来ようとも、自分の根底に流れる「和のこころ」を重んじることこそにあります。
 それこそが日本人の本質であって、日本の神だけが優れているとする頑なな主張は、かえって日本の未来を混沌とさせるものだと、私はそう思います。
 そもそも、私たちは日本民族ではありますが、それ以前に地球人であるという前提を忘れてはいけないはずです。
 それを脇において「自分の国家だけが素晴らしい」とする考え方は、かつてのナチスと同じです。

 何故、地球をひとつの共同体として見ることが出来ないのでしょう?
 何故、異なる思想と互いに共生出来ないというのでしょう?
 これ以上分離を促進させて、一体どうするというのでしょう?
 優越思想の行き着くところは暴力的なワンネス(独裁)であるということに、まだ気づけていないのでしょうか。


 日本優越思想の人達は、是非、今の日本の現状を見て欲しいものです。
 本当に優れた国民性や、本当に神の領域に守られた国であれば、もっと利他的で、愛の深い行為を常に意識出来るはずです! 
 宗教や神話というのは、その民族における基盤ではあっても、それを振りかざして「やれどの国は低い」「やれどこどこは劣っている」などと優劣つけるものではありません。
 キリスト教も、イスラム教も、それぞれにおける民族の基盤として素晴らしいものであり、尊重すべきものです。彼らの文化を知りもしないで、安易にそれを否定すべきではありません。

 私はこういった日本優越思想の人達を見ると、本当に哀しく、また、情けなくも思います。
 本来大切なのは互いの支え合いや、調和、協力する姿勢であるというのに、かえって時代を逆行させているようにも思えます。
 そのように悪戯な日本優越思想を抱くぐらいなら、もっと大切な日本人のこころを育てて欲しい──そう思います。
 音に敏感で、感受性豊かだったかつての日本民族を思い返し、俳句や短歌をしたためて、季節感を取り戻す為の運動なりをした方が余程健全です。

 本当に平和を願い、人類の向上を願う人であれば、必要以上に自分たちの国のみを優越視することはまずないでしょう。
 もっと大きく、寛容な視点で、様々な国の文化、民族を理解し、受け入れることの方が先決にも関わらず、凝り固まった扇動の仕方をするスピリチュアリストや精神世界研究者が増えているのは、本当に哀しいことです。

 異なる価値観、異なる文化、それぞれの差違を受け入れてこそ初めて、地球の未来は明るくなるはずです。
 地球が悲鳴をあげている今、もっと広い視野と、もっと深い思いでもって、国家・民族関係なしに手を取り合う時代が来ていることに、ひとりでも多くの人に気づいてもらいたい──心からそう願っています。 
 

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「人を裁く」ということ

 一週間ぶりの更新です。
 この間ほとんどまともな文章を書いていなかった為、なかばリハビリがてらの更新ですが、何卒ご容赦くださいませ──。

 ブログを更新していなかった期間は「アウトプット休養期間」でもあったので、その分インプット──情報収集に時間をかけていました。
 それだけでなく、自分の身近なことでもあれこれ悩みが尽きなかったせいか、高次元に関することを思索するというよりも、身近な案件に関することを考えることが多かったように思えます。ある意味、私にしては珍しく、どっぷり三次元に浸かった期間とも言うべきでしょうか(苦笑)。

 そんな私が隈無く目にしていたのは──あろうことか、元俳優・押尾学の法廷ライブでした。
 普段は芸能人なんてまったく興味を示さない私が、珍しく今回この記事を読むに至った理由は、逐一法廷ライブが公にされていた為です。被告本人にしてみれば不本意なことかもしれませんが、司法を考える上ではとてもいい機会でした(オウム真理教事件など、一部法廷ライブが公にされたこともありましたが、初公判からずっと公開されるのは初めてのように思います)。

 もう10年以上前の話ですが、私は元夫の薦めにより「司法書士資格」を目指していたことがありました。
 当時は法科大学院(ロースクール)などもなかったので、司法書士が受かった後、司法試験にもチャレンジしたい──そう思っていました。司法書士受験中に少しだけ司法試験の問題をかじったこともありますが、重箱の隅をつつくような司法書士試験の選択問題に比べたら、司法試験の論述の方が遙かに自分の質にあっているようにも思えた程です。

 そんな思いをかつて抱いたことがある分、この法廷ライブは「あらゆる視点を多角的に味わえるもの」でもありました。
 被告に否定的になることもなく、また、被害者に過剰な同情をすることもなく、冷静に見つめることが出来たように思います。
 なのですが──私が疑問を抱かずにいられなかったのは……「明らかに、弁護側と検察側の意見が食い違っている」ことでした。
 勿論、法廷なんていうのは最初から「対立する場」です。なので、弁護側と検察側の意見が衝突するのはごくごく当たり前のことなのですが、私が疑問だったのは万が一自分の信念に偽った論証をしなければならなくなった時、一体どうするのだろうということだったのです。

 そう考えた際、実は法廷というのは、正義を重んじる場ではなく、あくまでも権利関係でどちらが有利かで判断される場なのではないだろうかと、そんな疑問が拭えなくなりました。
 確かに、現在の司法においては、物的証拠や証人の証言に頼らざるを得ません。しかし、もしそれらにいっさい頼れなかったとしても「絶対に無罪である」と確証出来る罪状においてはどうするのでしょうか。もしくは逆に、「明らかに有罪である」という被告を弁護しなければならなくなった際、どうするのでしょうか。
 本当の正義は文字面だけで判断出来るものではなく、もっとニュートラルなものなのではないか、そんなふうに思えるのです。私が仮に裁判員なりでお声がかかったとしたら、私は背反する審理の狭間に板挟みとなってしまうのではないか──そんな不安さえも過ぎりました。

 今から二十年以上前の映画ですが、「告発の行方」という作品があったのをご存じでしょうか。
 この作品はレイプ事件に基づいた裁判の流れをひとつの映画作品として描いているのですが、顛末のどんでん返しには唸らずにいられません。
 視聴者は「事件当日に、何があったか」を断片的にしか知らされない中でストーリーは進んでいきます。いわば検事役と同じ視点で、何も見えない状態の中を「果たして、被告は有罪なのか否か」を判断させられるのです。
 しかし、事件の全貌がラストで明らかになった瞬間──すっきりしない思いが、急激にわき上がってきます。
 本当に審議は、正しかったのだろうか──と。

 言わば、いつでも私たちは本当の真実からは遮断された中で、審議をしなければならない立場にあることを思うと、責任重大すぎて、荷が重く感じられます。
 おそらく今回の事件が法廷ライブで逐一報道された理由は、ただ単なる物見遊山でなしに、裁判員制度がスタートして以来、有名人における初めての裁判だったからだと思われます。
 しかし私は、自分の判断によって人の一生が大きく影響をするような行為を出来るだろうか──そんな不安も過ぎります。それほどまでの権利が、果たして自分にあるのか──私がかつて司法試験をあきらめた理由と、今再び対峙させられたような気がした次第です。

 勿論、だからといってすべての犯罪について玉虫色の結末で終わらせるわけにはいきません。いずれにせよ、何らかの線引きが必要なのは確かです。
 そう思うと、裁判官など法曹界に関わる人達はとても責任重大の任務についているし、また、その責任重大な任務を金欲しさや権威欲しさに浪費するようなことを絶対にしてもらいたくない、そうも思います。

 17日が判決の日だそうですが、今回の裁判における結末はどうなるのか──最後までじっくり拝見するつもりです。



【お知らせ】
コミュニティサイトの製作が、著しく遅れております。9月下旬頃を目処に作業を進めておりますので、今しばらくお待ちくださいませ。公開しましたら、改めてご連絡致します。


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2010-09-14 | 社会 | トラックバック(0) |

古きシステムの崩壊と、新しきシステムの誕生

◆お知らせ◆
現在多忙につき、ブログの更新は9月13日(月) 14日(火)から再開とさせて頂きます。
ご足労おかけして、誠に申し訳ございません──。(篠崎)

※13日14時現在 再開を1日延期とさせて頂きます。恐れいりますが、今しばらくお待ちくださいませ。


 ここ数日、私はずっと現代の世界における問題点と、従来のシステムにおける問題点そして、新たに誕生するシステムは如何なるものかを模索していました。
 正直に言えば、まだ「答えは出ません」……。
 と、言いますか、まだ体調不良から完全回復したわけではないので、考え事をするだけで脳みそが「ギーコギーコ」と音をたててしまい、フリーズしてしまうのです……(こうなったら、もうポンコツですね;)。
 従来通り思考出来るまで頭(肉体)を復活させるには、あと最低でも数日は必要そうな気がします。
 もっとも、答えが出そうで、でもまだ後一歩──という状態には、ここ数ヶ月立たされています。あともう少しパズルのピースが揃えば、何かが見えそうなのですが。

 今までのやり方では、通用しないんだということは、私などが言わずとも、多くの方々が実感されていると思われます。
 それは、新聞記事の端々から──そして、政治の一場面、景気の先行きなどを見ても、感じることが出来ます。
 今月、東京写真美術館で「ZERO 9.11の虚構」という映画が上映されます。
 この映画は「9.11について、アメリカ政府は正式な発表をしていない」ということを検証していくドキュメンタリー映画ですが、3年前にイタリアで制作・発表されました。ヨーロッパでは先んじて話題となっていたようですが、3年遅れて日本で紹介される次第です。
「ついに、ここまで来たか」という感でいっぱいです。
「ドキュメンタリー映画」という、多くの人達が目に触れる形で検証されるのは、初めてかもしれない──そう思います。逆に言えば、もう隠し立てをしたような企みは、すべて白日の下にさらされることになることへの象徴のようにも感じました。

 古きシステムが偽りで周囲を囲って、人々を二極化させるものであったとしたならば、もう時代はそうした在り方を要求していないということの証明ともなり得るでしょう。

 新しいシステムがどのようなものなのかは、まだ青写真は不透明です。
 まだ今は、古いシステムがゆっくり解体されているような状況下なので、新芽も姿を現すことが出来ないのかもしれません。それこそ、冬から春に変わっていく際、雪解けがある程度してからでないと、新たな芽が地表に姿を現せないのと近い感覚のような気がします。
 そのせいか、どうも「新たなシステム」を考案し、提唱している人達の意見の中には、「一見斬新で素晴らしいもののように見えるけれども、結局は旧システムを焼き直ししただけに過ぎない」ように思えるものもチラホラ見受けられる印象を受けます。
 しかし──思うに、新しいシステムは「まったく違うもの」になるような気がします。
 そうでないと、結局は「ただ歴史を繰り返すのみ」になってしまいかねないからです。

 人類が、同じ過ちを繰り返さないことを、ただただ祈るばかりです──。

 
【お知らせ】 
7日~9日(帰宅は10日)は岩手に取材旅行の為、ブログはお休みとさせて頂きます。
次回更新は10日、或いは11日を予定しておりますので、今しばらくお待ち下さい。


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日本民族は、滅びゆく宿命なのか?

※お知らせ※
 
体調を崩していた関係で、二日間更新をお休みしてしまいました。ご足労、およびご心配をおかけしてしまい、申し訳ございませんでした──。


 先日、6年ぶりに映画の「ラストサムライ」を観ました。
 上映期間に一度だけ映画館で観たものの、その後はDVDや動画などで視聴したことはありませんでした。
 そのせいか、一番最初に観た印象と大きく異なっていました。6年の間で、自分の価値観などが変わった関係もあるのかもしれません。

 初めて視聴した頃は、日本民族に対する愛着よりも、むしろ、世界への愛着でいっぱいでした。当時の私は、まだまだ身近にある者への感謝の気持ちが欠けていたようにも思います。
 その為、当時観るのと、日本民族について考えるようになってからである「今」観るのとでは、感じるものも、観る視点そのものも変わっていました。
 一回目では気付かなかったこの映画の良さが、今回二度目を観ることによって改めて分かったような気がします。
 同時に、日本が抱えている哀愁と、世界への困惑も、感じ取った次第です──。

 私はこの作品を観ながら、日本民族が、どのように世界に接して行けばいいのかをずっと考えていました。
 私は最近、日本民族の本質たる伝導体気質(液体気質)は、他民族の固形気質と「共生が不可能なのではないだろうか」と感じ始めているからです。

 例えば──分かりやすいのは「生態系」です。
 今、日本の生態系は外来種が入ってきたことで「大きく崩れようとしている」という話を、以前聞きました。
 実際に、ブラックバスが入ったことで湖の生態系が変わった──という話を聞くようになってからは久しいです。それだけではなく、植物においても変化が見られるという話を聞きました。
 勿論、外来種がそれほど日本従来にいた生物に比べて獰猛すぎるわけではありません。
 しかし、ある意味において日本の生態系は他の生命が培ってきたサイクルと異なりとても繊細なのかもしれない──そう思えた次第です。

 私は、民族の魂は、「血」に宿らずに「風土」に宿ると考えています。
 その為、日本の生態系が繊細だという理由は、今まで日本の風土が守ってきた「環境」が、とても繊細なものだったからなのではないか──そんな気がします。
 勿論、これは環境に限ったことではなく、その風土に住む民族の精神にも強く反映されます。

 ※余談※
 先日、稲川淳二氏の「怪談とホラーの違い」について書かれたコラムを読みました。
 確かに、海外のホラーは精神的な怖さというよりも、物質的恐怖──肉体的恐怖に直結したものが多い印象を受けます。(13日の金曜日や、エルム街の悪夢など。あの映画の恐怖は「目に見えない不可視のものが存在する」ことへの恐怖ではなく、ただ単に「殺されることへの恐怖」に過ぎません。ジェイソンが死んでようが生きていようが、チェーンソーが追ってくると思ったら「誰でも怖い」です。)
 しかし、日本の怪談はこころに訴えかけてくるものがあります。
 しかも、当時の民俗学における哀しい背景なども含んでいて、怪談が「人々の生活やこころに密着していた」ことを感じずにいられません。
 ──なるほど。こうしたところにも、かつての日本人が持っていた感受性が出ているのだなと、そう思わずにいられませんでした。


 しかし、残念ながら今の日本民族は、すでに「民族の精神」を失いつつあります。
 それは皮肉にも、生態系が崩れていくかの如し、じわじわと崩れていった感があります。
 先程挙げたように、民族の魂が「風土」に宿るのであれば、風土に束縛されない「人々の意志」のみが、最初に他の風土と融合──或いは感化されていきます。
 そして、最終的にその国の土地を守る環境──これが崩されていくのかもしれません。

 日本の生態系が崩れているということは、ある意味「民族魂の崩壊」とも言うべきものなのでしょう。
 この国独特の深い森、霧が立ちこめる竹林が広がる山々の魂が、滅ぼされている──ということなのかもしれません。

 そうした思いの中で観ると、この「ラストサムライ」という映画の中で「予兆」が感じられます。
 鎖国をしていた日本が、改めて開国をし、明治維新の後が舞台となっていますが──果たして、本当にこれで良かったのだろうか。もっと伝統や異なる価値観の人々を、大切にすべきだったのではないか、とあれこれ考えずにいられないのです。

 日本民族は液体気質であるが故か、その柔軟性は驚く程です。
 歴史を振り返ってみても、それはすぐに実感出来ます。
 例えば鎖国という、他の国々の歴史には滅多にないような頑なな姿勢を見せていたものを、開国した途端、まるで今までの過去を否定するかのように欧米文化へと染まって行く過程。
 第二次世界大戦で負けた後、多くの兵士達、犠牲者がいることを心の奥底にしまい込んで鍵をかけてしまったかの如くに、米軍の訪問を歓迎した過程など。
 当時の日本人達の中にだって、葛藤は少なからずあったでしょう。
 しかし、日本民族というのはどこか「そんなこと、悩んだって仕方ない」的な液体気質ならではの、「水に流す性質」があるような気がします。

 しかし、それが結果的に──今や、蠢く「ただの流水の如し」になろうとしています。
 それは、日本人があまりにも伝統や民族の本質を忘れ、ただ「日和見的な流水」となることに徹してしまったからなのでしょう。
 伝統の中に生きる日本民族の精神を捨て、「新しいもの」「より新しいもの」へ変化させようとしたが故の顛末なのかもしれません。
 言い方を変えれば「とても向上心がある」とも言えます。
 しかし、新しいものが必ずしも「いい」とは限らない。伝統の中にこそ、自分たちや先祖が培ってきてくれた「輝けるものがある」。それを残そう──という発想には、日本人の場合なかなか結びつかなかった、そこが今の時代にすべてしわ寄せとして出ているような気がします。
 以前、日本の鉄道に魅せられて日本に移住したというドイツ人とイギリス人の取材記事を読んだのですが、その人も同じことを言っていました。
「日本の鉄道は、本当に素晴らしい。しかし、かつての鉄道の素晴らしさや、伝統を、日本人は大切にしないので、とても勿体ない」と。
 伝統を重んじる国々の人達からすれば、確かに「勿体ない」そう思えるのかもしれません。

 映画「ラストサムライ」に出てくる侍(サムライ)の顛末は、すでに消えつつある日本民族の良さをそのまま描いているようにも感じました。
 世界が開かれていく中、変わりゆく日本の生態系や民族性を見るに──私は、「液体気質たる民族の宿命は、固形気質との共生ではなく、やがて固形気質たる民族の中に融合されていくことなのかもしれない」とそんなふうに感じることもあります。
 でも、そうやって失われた文化も──決して「廃れる」わけではありません。
 滅びることが必ずしも哀しいことではなく、「かつて、このような民族の精神がこの土地に宿っていた」とされながらも、それを伝え続け、その精神を語り続けていくこともまた、素晴らしいことなのかもしれないと、私には思えるのです。

 目に見えない民族の精神を、新たな時代においても伝え続けていく──これこそが、伝統を大切にしていくことと、言えるのかもしれません。


★現在、Gyaoにて、無料動画で「ラストサムライ」配信中です。→「こちら(期間限定配信:9月14日まで


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目まぐるしい想念の蠢きに、流されない為に──

 先日、三回に渡って「体内離脱」についてを記事にしましたが、改めて何度考察しても、結局最初に戻ってくるものは「想念ありき」なのだということを実感させられます。

 例えば、私たちが知っている国際的な事件にしろ、歴史的事件にしろ、起きた事象は三次元的な「現実」として捉えられますが、それを起こす「きっかけ」となったのは、結局は人の想念です。
 ジョン・レノンの暗殺にしたって、「殺そう」という想念がなければ起こらなかったことだし──革命にしたって、そこに民衆の怒りという「想念」、或いは改めていこうとする「想念」がなけれえば、起こり得ません。

 私たちは「目に見える現象」として現れた歴史的事実や事象に囚われていて、その背景にどのような想念が渦巻いていたのかまでは、認知していません。
 本来はこの背景に動いている想念こそが「歴史の主役」であり、時代の担い手だったのではないか──私にはそう思えるのです。

 そんな流れで昨今、実感するのは──
 「全体的に、想念の流れが激しくなっているのではないか」ということです。

 今年になって、多くの人が「何だか、世界はおかしくなっているような気がする」と感じているようです。
 それはこうした精神世界系に詳しい人だけではない、ごくごく日常の生活を送っている人達も実感しているようです。
 事実、私の本を読まれた方々──本来であれば絶対に手にしないような分野の本であるにも関わらず、読んで下さったという読者の方々の中には、壮年や老年で色々な経験や知識も豊富であるにも関わらず、最近の時代の変化に「何かを感じずにいられなかった」という方もいらっしゃった程です。
 アセンションなどの用語は知らずとも、多くの人が「今、世界が変わろうとしているのではないか」と感じているようです。
 自著にも書いたように、想念は現象に影響を及ぼし、またその現象を通じて再び想念に動きが生じるという相互作用が、延々私たちの世界では繰り返されています。
 色々な自然災害、異常気象、景気の不安定などを見ながら、私たちは「世界が変わる」ことを感じ、その実感が今度は再び現象を起こす作用と化す──これが、ものすごいスピードで繰り返されているのが「現在」なのかもしれません。

 「想念の目まぐるしい動き」は、をしっかり持っていないとその動きに流されてしまい、我を見失ってしまいかねません。
 「くさかんむり」に「こころ」で芯──うまいこと漢字は書くものですが、人間の芯とはまさしく「こころ」だと、私は思います。

 それは、精神の全体像を掴んでいるのとは、多少ニュアンスが違います。
 日本語の言う「こころ」にぴったり該当する英語は、もしかしたら「ないのではないか」そんな気がする程です。
 例えば「Mind」と言えば、どちらかといえば「感情」も意味するような印象を受けるのです。「マインドコントロール」など、よく感情作用のことを呼びますが、本来「こころ」がしっかりしていれば、惑わされることもなかったように思えます。その為、マインドコントロールで使われる「マインド」を、「こころ」と同義語にするのは違うように思えるのです。
 
 日本語で言う「こころをこめる」というのは、「愛をこめる」のと同じ意味になります。
 その為、「こころ」とは、精神に、愛と叡智が一体化したものであるように、私は感じています。

 以前、このブログで軽く触れたように、児童文学「アミ 小さな宇宙人」の中に出てくる一文で、「本来、頭と胸の両方に『考える機能』が入っている。この二つをうまく使わなければならないのに、人間は頭しか使っていない」といったニュアンスの言葉が出てきます。
 まさしく、この「胸」──「こころ」が、その「胸にあるもうひとつの脳」なのかもしれません。

 例えば、「相手の立場にたって考える」とか「相手のことを思いやる」といった場合、それをするのは「頭」に入った脳の役目ではなく、「胸にある考える機能」──「こころ」の役割ではないかと思うのです。

 しかし、最近ではことさらに、この「こころ」の機能が低下している──そう感じることがままあります。
 先日見かけた、「地下鉄のラッシュ時に、子連れで乗っていた母親に下りるよう促したOLの記事」なども、「こころの枯渇」を感じずにはいられません。(この記事はmixiなどでも取り上げられていましたが、かなり議論を呼んだようですね。でも、こういうことが「議論」になってしまう社会そのものが、私はとても哀しく思えます。本来は議論を交わすまでもない、「こころ」で感じる問題ではないでしょうか?)

 日本の文化は、そもそも欧米文化の派生とは異なる流れを汲んでいるので、欧米人の言う「自我」が、日本人で言うところの「こころ」に繋がっていたのではないか──そのように感じることもあります。
 言葉を認識する際、その言葉が「どのような派生で使われてきたのか」その前提を捉える必要がありますが、日本人にとっては「自我」というのは文化としてそうそう現れない概念であり、むしろ欧米文化が入ってきてから認識された「日の浅いもの」と言えます。
 代わりにあった「こころ」は、永いこと日本文化の中に息づいていましたが(茶道や華道、或いは武道など、「道」に携わった人であればそれが実感出来ると思われます)、いつしか忘れ去られてしまいました……。

 時代がこれほど想念の動きが目まぐるしく、激しい流れ方をしているからこそ、
 私たちは改めて「基盤たる『こころ』の意味」を考える必要性があるのでしょう。
 私たちが現実世界を送っていく中で、もっとも高次な智慧と近くにあるのが「こころ」だと、そう思います。どのような知的な文章も、ロジックも、そこに高次の智慧である「こころ」が籠められていなければただの上滑りな文章でしかないし、どんな素晴らしい発明も、「こころ」がなければ、やがては未来を朽ち果てさせてしまうかもしれない──。

 その出入り口たる「こころ」は、簡単に養育出来るものです。
 まずは「他者の為に」考える──ということ。
 「全体の為に感じ入る」──ということ。

 世界の異常気象を見て、我が身のような痛みを感じること。
 哀しい事件の際に、我が身のことのように感じること。

 「他者の為に考えられる」ということは、すでに「自己」を肯定しているので、まず自己が確立している人でなければ、本当の意味で相手を思いやることなど出来はしないでしょう──。
 何故なら、「自分の痛みがわからない者に、相手の痛みなど、わかりようがないから」です。

 ちなみに、「想念」と「こころ」は、同じものでも、形成が違います。
 例えて言えば、想念は「とどまることのない流水(前回「層」になっていると仮定しましたが、その層になった中で集団形成されたもの。集団化故、常に常に湧き出てくるので、とどまることを知りません)」であり、「こころ」は逆に、「湖のように、静かに湧き出でるもの」です。
 流水に湖の水を合流は出来ても、流水に流されてしまっては元も子もありません。やがて湖の水は枯渇し、ただ流されるだけの存在となってしまいかねない。

 想念のうごめきが激しい今だからこそ、自分に立ち返り、「こころ」を見つめる内観の時期が、必要なのかもしれません──。 


【お知らせ】
 コミュニティサイトの準備が遅れておりまして、9月11日頃に延期の予定です。 
 公開の際には、また改めてお知らせ致します。


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プロフィール

篠崎由羅(しのざきゆら)

Author:篠崎由羅(しのざきゆら)
1970年生。幼少期から哲学・宗教学に造詣を深める。思想および思想史、それに付随した国際事情に興味を抱いて独学を続け、大学ではインド哲学科専攻。東西問わず、両者の思想に渡り研究を深める。

現在は看護師として施設で勤務しながら、その傍らで執筆活動を続けている。2016年11月にYOU are EARTH改め「WE are EARTH」の活動を再始動予定。より良い未来の地球のため、全力を尽くす誓いをたてている。

【篠崎編集担当】


【篠崎の著作本】

アセンション真実への完全ガイド―2012年のイベントホライズン (5次元文庫 し 2-1)アセンション真実への完全ガイド―2012年のイベントホライズン (5次元文庫 し 2-1)
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【第Ⅱ部に篠崎の質問文が一問一答形式で掲載されています】
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