私は、かなりの「子供好き」です。理由はとくに思いあたりませんが、幼少期からすでに自分より年下の子の面倒などを率先してみていました。
そのせいかは分かりませんが、「子供の霊」と遭遇することが多いです。
もっとも、外見が子供であったとしても、霊性でみれば遙かに年数が経っている場合もあるでしょう。霊的な世界において子供の霊というのは、往々にして
純真無垢な、穢れない魂を象徴することが多いようです。
イエス・キリストも「天国は、子供のように無垢な魂を持つものの為のものである」といった言葉を残しています。ですので、どんなに幼くして亡くなった魂でも、その内側の片鱗に大人だった過去世の邪悪なるものが残っていれば子供の霊として姿を残すことはなく、また逆に、老衰で亡くなった人であっても内面が無垢な子供のように純粋であれば、その霊は子供のような姿になるのかもしれません。
私は子供の霊を多数見ましたが、その霊性はマチマチでした。その中でも「極端に差があった例」を、ご紹介します。
まずひとつめは、私が19歳の頃の話です。
当時私は看護職をしながら、横浜のとある街でひとり暮らしをしていました。
そんなある日、友人が泊まりがけで遊びに来た日のことでした。私は準夜勤が続いていたせいもあって疲れており、日が昇っても起き上がることが出来ませんでした。しかし友人は当時まだ学生だった為に元気いっぱいで、早く起きて私のそばに腰をかけ、ファミコン(……時代ですねぇ)で遊び始めました。
マリオの聴き慣れたメロディーに目を覚ますと、友人が真剣な表情でゲームをしています。ひとりにさせて申し訳ないなと思いつつも、私は二度寝をしようとした──その時。
友人と二人だけのはずの部屋に、明らかに「もうひとりいる気配」を感じました。狭いワンルームの扉の前に、5歳前後の小さな女の子がいたのです。
しかし、私はゾッ……としました。その子は不自然なぐらい真っ白な顔で、大きな口以外、目も鼻も「何もなかった」のですから──。
くすんだチェック柄のスカートに、白いブラウス、昭和前期の衣装でした。
私は友人に声をかけようとしたものの、すでに全身金縛りで声も出ません。(余談ですが、金縛りというのは寝ている時だけなるのではありません。今回のケースで、私は明らかに「起きていました」。覚醒していても、金縛りには遭うようです。)
少女はそのまま、仰向けになっている私の上に乗ってきました。私は何度も視線を動かし、友人を呼ぼうとするのですがまったく身動き出来ません。その時、画面がマリオのどのゲームをしていたかまではっきり分かるぐらい明確なのに、何故か私は友人を呼ぶことが出来ませんでした。
少女は口だけの顔で、不気味に笑っていました。しばらくすると、私の首を「ぎゅっ」と締めます。苦しくてというよりも、急に何かに呼び起こされるようにして、私は意識を戻しました。
気がついてすぐ、友人にその話をしましたが──その間、友人は何も感じなかったそうです。しかし私が見ていた場面を友人は確かにプレイしていたので、私が友人の背後で少女の幽霊に襲われていたのは確かだったのです。
私がその時会った少女の霊は、決していい霊の類ではありませんでした。その証拠にとても恐ろしかったし、ゾッとするような冷気を感じさせたからです。
しかし、あの少女が実際に生前幼くして亡くなっているのかどうかまでは、私にもわかりません。
ただ──ひとつだけ、哀しい歴史がその土地にはありました。
横浜には第二次世界大戦中、空襲を受けて焼け野原になった場所があるのですが、偶然にしてそこが「もっとも被害の多かった地域」なのです。
その為、街のあちこちには祠が建っており、終戦の日には老齢の方々が祠の前で供養するように参拝している姿が見受けられました。
その少女が戦時中に犠牲になった魂かどうか、そこまで私にはわかりません。しかし、いずれにせよ昭和前半の頃の雰囲気──少なくとも、当時からしても20~30年以上前の衣装だったことは確かです。
もし、非業な死がきっかけで悪霊化してしまったのなら──それほど哀しいことはありません。子供という姿であるからこそ、その痛みと哀しみが私の中に強く刻まれました。
ふたつめは、去年の話。私の自室で起きたことでした。
以前から、私の部屋には子供の霊が何人も来ていました。比較的、前者のような哀しい霊ではないケースが多いものの、一回だけ、完全に硬化してしまった少年の魂が「ズサッ!」と、ベッドの上に倒れ込んで来たことがありました。(推測ですが、これは死んだ霊ではないかもしれない──と思いました((すなわち、生き霊です))。石のようになってしまった形状というのは、それだけ心が硬直してしまい、柔軟になれない現代っ子の「こころの象徴」なのかもしれないと、そう思ったからです。)
しかし、それとはまったく桁違いなぐらいの、とても純粋無垢な子供の霊というのもいました。その中でも一番印象に残っているのは、7歳前後ぐらいの少年と、4歳前後ぐらいの少女の二人連れです。
私が眠っている最中、私の部屋の中をパタパタと走り回る音がしました。コロコロと可愛い笑い声をあげ、すごく楽しそうに走り回っているのです。そのあまりにも愛らしい声に私は二人と話がしたくなり、肉体から離脱して(こういう場合は、離脱する為の努力は不要です。二人の声が聞こえている時点で私はすでに遊離しているので、後は起き上がって歩くだけですので)二人を抱きかかえました。
「何してたの?」
少年が私に聞いたので、私は二人を抱きかかえたまま言いました。
「別に。ただダラダラと寝ていただけ。二人のはしゃぎ声があまりにも楽しそうだったから、一緒に遊びたくなって来たんだよ」
「ホント! じゃぁ、何して遊ぶ?」
「何でもいいよ、何して遊ぼうか。それとも、どこかお出かけする? どこにでも連れて行ってあげるよ」
私はそう言いました。
現実的に考えたら、とってもおかしな話です。どんなに無邪気な子供達がいたところで、まずこんなふうに私は遊びの和に入ろうとはしないでしょうし、それに、知りもしない未成年者を「どこかに連れて行く」なんて、立派な犯罪になっちゃいそうです(苦笑)。
でも、その時の私はそんなこと考えていませんでした。と、いうよりも、私にとってその子達は「顔見知り」のようにも思えた程です。その子達も、私のことを「知っている」かのようでした。
二人とも、とても嬉しそうでした。
「今から起きて、二人のことを連れて行ってあげるから。どこがいい?」
そう言った瞬間。
少女の顔が、急に曇ってしまいました。哀しそうな少女に反して、少年は相変わらず嬉しそうに、はしゃいでこう言います。
「僕ね、新幹線に乗りたい!」
「新幹線は、ちょっと遠くまで行き過ぎだなぁ──。どこか近場で、行きたいところない?」
「そしたらねぇ──東京と『かわくぼ』!」
少年は、はっきり「かわくぼ」と言いました。
「『かわくぼ』? それどこ? 大久保とか川越とかの間違いじゃなくて?」
「『かわくぼ』は、『かわくぼ』だよ──」
私が首を傾げていると、少女が声をあげました。
「でも……『起きて』じゃなくちゃ、行けないでしょ? ……そしたら私たち、もう帰らなくちゃ──」
その時私は、はっきりと「自分の生きている世界と、この子達のいる世界が『違う』」ということを思い出しました。私が寝ている時しかこうして一緒にいられないのを、少女は分かっていたようです。
少年も、急に淋しそうな顔をしました。私は二人の表情を見て、自分がどんなに頑張ってもこの子達を遊びに連れて行くことが出来ないことを、とても哀しく思った程です。
「……そうだね、一緒には行けないね……」
そう言うと、私は二人を下ろしました。
すると、まるでそのタイミングを知っていたかのように、部屋の中に「明るい光」が浮かびました。それはトンネルのようになっていて、そのずっと先に黄金色の光が見えるのです。どうやら二人は、そこから遊びに来ていたようでした。
二人は光に向かって歩き出しました。私は二人の背中を見送りながら、哀しくて涙がこぼれてしまいました。しばらくそのまま歩いていた二人でしたが、少年が私を振り返りました。私が泣いているのに気がつくと、少女から離れて再び私の元まで戻ってきてくれたのです。
少年はじっと、私の顔を見上げていました。その瞳は静かで感情を感じさせませんでしたが、とても優しい目でした。
「……いけない。僕まで泣いちゃいそう──」
少年はそう言って照れ笑いを浮かべると、少女の待つところまで走っていきました。
二人が光の中に消えた後、部屋から光も、光とこの部屋を繋げていた通路も消えていきました。私は横たわっていた肉体に戻り、そのまま目を覚ましました。
面白いことに、肉体も涙を大量にこぼしていました。
──いえ、もしかしたら霊体だけでは「泣けない」のかもしれません。肉体と霊体が繋がっていたからこそ、「涙」という現象が起きたのかもしれないと、そう思っています。
二人のことを思い返すと、今でも私は幸福な気持ちになります。
私はここまで子供が好きなのですが、婦人科疾患が原因で子供を産むことが出来ませんでした。
しかし、私はそれで「良かった」と思っています。
私にとって子供は、「今を生きる、すべての子供」のことを言うのだと──そう思うので。所有という概念がもともと欠け落ちてしまっている自分だからこそ、かえって「自分の子供」という枠組みが出来てしまったら自分も混乱するだろうし、何よりも、その子にとって幸福かどうか自信が持てないからです。
子供というのは、本来「それだけで」素晴らしい存在なのだと思います。何かに秀でる必要もなければ、成績が優秀な必要もない──。
子供の「ありのままの性質」を受け入れてあげることが出来たら、子供の純粋さが保たれるのかもしれません。勿論、そんな簡単にできることでもないでしょうけれど。
いろいろな子供の霊を見ていて思うのは、産まれてきたその子の霊が「霊性をどのように生かしていくか」を決めるのが今の大人達である、ということです。
子供達はどうしたところで、今の大人が築いた社会でしか「生きるすべがない」のです。その社会がどんなにその子にとって苦痛であっても、家庭内がどんなに苦痛であっても、その子には「そこが世界」なのです。大人はいろいろな逃げ場がありますが、子供にはそうそうありません。
だからこそ子供がいる、いないに関わらず、私たちは「社会という枠組みの中で、如何に子供達の霊性を守ってあげられるのか」を考える必要があるのだろう──そう思う次第です。
●多くの方に、「真剣な目で地球人類の進化に意識を向けて欲しい」と、強く願っています。
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