(2)第二の地球を創造(想像)する

 自由意志──この問題は、西洋においてとても重大なテーマでした。
 それはカルヴァンの予定説からも窺い知れるように、キリスト教圏内においては「神がすべての重要事項を握っているのか否か」ということが、議論のテーマにあがりやすいものだったからかもしれません。
 「すべてはすでに、決められている」という宿命論は近代において覆されましたが、未だに「人類は自由か、否自由か」という問題の明確な答えは出されていません。

 東洋においても、孫悟空の話などはそのテーマに付随したものでしょう。私たち人類も孫悟空同様、「お釈迦様の手の内」の中でこそは自由であっても、それ以上の自由が果たして与えられているか──と言えば、答えはNOなのですから。
 ですので、ここで挙げる「自由意志」は、選択の幅と定義することにします。
 自由という命題はとても深いテーマで、簡単に述べられるようなものではないからです。
 自由という問題に焦点を宛てたら、まず「完全な自由は、本当の自由と言えるのかどうか」という問題から始まり、究極的には「否自由とは、はたしてどういうことを言うのか」「現代は本当に自由なのか」というところまで派生します。それではこの連載でテーマにしている的から外れてしまいますので、今回は選択権を与えられているという前提でもって「自由意志がある」という条件にすることとします。

 実はこの「選択権を与えられているか、否か」というのは、とても身近な問題としても考えられるテーマだったりもします。
 子供を育てている親の立場にある方は特に、この問題を痛感するでしょう。
 親心としては、将来安定した職について欲しい──とか、ある程度経済的に余裕のある職種を選んで欲しいとか、色々な思いがあるかもしれません。しかし、子供が果たしてどんな道を選ぶかというのは、あくまでも子供次第です。
 仮に、創造主達(親)にとって「こうなって欲しい」という人類(子供)への願いがあったとしましょう。しかし、子供である人類は選択権がある故に、親の立場たる創造主達の思い通りにはならないかもしれません。聖書にある「放蕩息子」ではないですが、そういう意味では本当に人類は「親の心、子知らず」なのでしょう。

 さて、ではその視点を逆に変えて、第二の地球──私たちが「親」の立場である世界で考えてみます。
 みなさんは、第二の地球人類に、どのようになってもらいたいでしょうか?
 たぶんほとんどの方は、「幸福で、平和な世界を築いてくれればそれでいい」──そう願うように思います。聖書に出てくる「産めよ、増やせよ、地に満ちよ」というのは、意外に創造主の本音なのかもしれません。
 と、言うよりも、生命の基盤たる原動力は、種の存続と繁栄、ただそれだけなのでしょうね。そこには何の恣意も策略もなく、ただ新たなる生命が満ちることへの喜びだけが存在する。
 それこそが、親心──「神心」なのかもしれません。

 前回の記事に「新たな世界を築こうとする動機こそが、重要になってくる」という話をしましたが、それこそがここにかかってきます。
 例えば新たな人類を奴隷や、もしくは植民地化させることを目的に創造するのであれば、まず間違いなく、「産めよ、増やせよ、地に満ちよ」とは思わないでしょう。
 何故なら、支配はある程度限定された人数の方が扱いやすく、数が増えれば増える程、叛乱分子が産まれてくる危険性が増すからです。そのような危険を、支配者側がとるでしょうか?

 前回のシミュレーションの枝分かれで、このブログでは「愛の受け皿」として第二の地球を想像していくこととしましたが、もし読者の方の中で「支配・奴隷」を目的としてシミュレーションを続けている方がいらしたら、この「道程の差」について考察頂けますと幸いです。おそらく、興味深い差違が見られるような気がしますので──。

 そうした前提を踏まえて考えてみたとしても、俗に言われる「地球人は宇宙人の奴隷説」は、「理論的に否定出来る」ということが、お分かり頂けると思います。
 少なくとも、この地球は私たちが第二の地球に施しているのと同じように愛の受け皿としての目的意識が少なからず入っていたのだ、ということが実感出来ます。
 
 そして、そうであるからこそ創造主達は「人間に自由意志」を与えてしまったわけですが──。
 冒頭に書いたように、その自由意志が「完全なる自由と言えるのか、否か」という問題は抜きにしても、いずれにせよこうした「選択権」が、皮肉にも母なる地球の命をも脅かしているという、諸刃の刃になってしまっている現状があるのです。

 私たちは、この「諸刃の刃」を第二の地球人類に与える時、どのように気をつけていけば良いのでしょうか。
 さて、みなさんだったら、「進化と発展における選択権」を第二の地球人類に与えた後、どのように彼らを誘導していくでしょうか?
 自由放任でしょうか? それとも、陰ながら誘導をしていくでしょうか?

 ここでひとつ、大きな謎が残ります。
 というのは、選択権を持つ人類を放置しておいた場合、何故、悪化してしまうケースの方が多いのだろうということです。
 これは古代中国の思想で、「性悪説」「性善説」の問題にも絡んできます。荀子は「性悪説」を唱え、人間の本能はあくまでも「欲望的」であると考えていました。その為、後天的な習慣による矯正や努力が必要だ──と提唱したのです。
 一方、孟子は「性善説」を唱え、人の本性は最初から「善」であるが、放任することで欲望に引きずられることが多くなるので矯正が必要──という考え方を提唱しました。

 この二つ、一見対峙しているように思えますが、言ってる内容は同じ……すなわち人間は規制がなければ、悪に傾くということを両者共に言っています(注※ここで悪と言っているのは必ずしも犯罪などではなく、怠惰や堕落といったことを示しています)。
 そう考えると、まるで自由意志(選択権)を行使する際、人間は必ず「怠惰」の方にしか使わないとでも言っているかのようですよね。
 勿論、それは極論とは言えますが──必ずしも否定は出来ません。何故なら、今の文明がそれを如実に証明しているからです。
 人間は「便利さ」を追求し続けてきましたが、その結果、生み出された現代の特徴は如何でしょうか? かつて昔に生きた人々よりも「怠惰になっている」と言うことが出来るのではないでしょうか?

 何故、自由意志(選択権)は必ずといっていい程、荀子が言うような「悪」の方に傾くのでしょうか?
 私は、この理由につきDNAに刻まれた、太古の記憶が原因なのではないか、と考えています。

 ジュード・カリヴァン博士は、エハン氏との対談本の中で「人のDNAには、カタストロフィーを受けた時の記憶が刻まれている」ということを述べていました。
「DNAに記憶が刻まれている」と言われると「??」と思われる人もいるかもしれませんが、私は総じてあり得ることだと思います。いえ、それどころか「科学的に、普通に認められていること」でもあると思うのです。それは、胎児が子宮の中で変貌していく姿を思い浮かべれば、すぐにご理解頂けることでしょう。生物の形態をDNAが記録保存しているのであれば、「太古に起きた事象の影響を、記録保存していても不思議ではない」そう思えるのです。

 私たちの地球では、多くのカタストロフィーがありました。その詳細については諸説分れますが、総じて「大きな天変地異があった」ということについては、どこの伝承でも認められています。
 だとしたら、それが人類規模の記憶としてDNAに残っていても不思議ではありません。そして、集合無意識にインプットされた「カタストロフィーの恐怖」が、いつしか人類に「根源の恐怖」として刻み込まれ、それがゆくゆくは「刹那的な衝動」へと移行していったのではないか──私は、そのように考えています。

 だとしたら──。
 仮に、第二の地球に「カタストロフィーが『ない』」としたら、同じ自由意志を持っていたとしても、地球人類とはまったく異なる進化を経ることになるはずです。
 「自分たちにないもの」を想像するというのはなかなか至難の技ですが、「自由意志があっても、欲望に傾かない人類」が誕生したらどうなっていくのか──次回以降、想像していきましょう。 
 

(お詫び)
多くの方から感想のメールを頂いております。誠に、ありがとうございます──。
皆様から頂いたメールは、すべてありがたく拝見しております。またもやお返事が遅れておりますが、何卒ご容赦くださいませ──。


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(1)第二の地球を創造(想像)する

 この連載に関しては、何かしらの答えや篠崎自身の意見を書く──というよりも、この記事を読まれている皆さんに、想像してもらうことを目的にしています。
 新たなものを創り出すのに大切なのは、知識や情報よりも、生みだそうとする想像力だと、私は常々考えています。
 最近は情報が溢れすぎていたり、また、書く側も断言口調の文言を続け、読み手に考える余地を与えようとしないものも散見されます。
 しかし、言葉の本当の意義は「コミュニケーション」にあって、一方通行を目的としてあるわけではありません。表だったコミュニケーションにならずとも、その情報を目にした人が個々人の中でその情報を「いかに濾過し、いかに解釈するか」ということこそが、抽象的なものを文章化することの意義なのだろうと、私はそう思っています。
 想像というのは、いつでも「創造」に繋がります。未来を創り出す上で「想像」というのはとても大切なことなのにも関わらず、昨今はゲームや映像が発達化しすぎて、人々に「想像」する余白を奪っているように思えてならない今日この頃です。

 そのため、「第二の地球を創造するとしたら、一体どのようにして生命を創り出そうとするだろうか」ということを、皆さんひとりひとりが積極的に考えて頂けましたら幸いです。
 また、ブログを書くというのはどうしても私ひとりの作業になってしまう為、「自分だったら、こういうふうに第二の地球を創るだろう」「私だったら、こうしたい」といった意見がありましたら、お気軽にメールフォームからお寄せください。このブログで紹介させて頂く場合もございますので、その際にはご本人様にご連絡します。

 さぁ──では、一緒に「第二の地球を想像」してみましょう。

**********************

 生命ある星を造り出そうとした場合、一番最初に必要なのは何よりも目的意識です。
 ただのシミュレーションゲームとは違い、うまく行かなかったからといってリセットするわけにはいきません(仮にそれが出来るなら、私たちの文明もとっくにリセットされているかもしれないし……)。
 その為、この「目的」というものが実は何よりも重要で、かつ大切なものとなってきます。

 人は誰でも、「自分は何故、この世に生まれたのだろう」ということを一度は考えるでしょう。思考力のある生命体であれば、必ず「起源」というものを知りたいという衝動に駆られると思います。それはおそらく、第二の地球に生まれる人類にとっても同じことなはずです。

 第二の地球上で、ひとりの少年がこんな祈りを捧げています。
「神様(注※この場合の神様は『私たち』です)。何故あなたは、この星を創り、私たちを産んだのですか?」

 さて──皆さんは、どのように答えるでしょうか?
 この答えは、必ずしも少年の耳には届きません(私たちだって、神に同じ問いかけをしてそうそう簡単に答えを返してはもらえませんから。※ちなみに、ここでいう神というのは森羅万象の源ではなくあくまでも「創造主」のことです)。
 少年には届かないものの、「かくかくしかじか、こういう理由でなんだよ」と創造主(私たち)が思うもの──それが、第二の地球を生み出した動機に他ならないはずです。

 私たちが「第二の地球を生みだそう」と思った時、その動機は、果たしてどのようなものだと思いますか?
 勿論、色々な動機が考えられると思います。(ここでも、意見の対立や分裂は「ないもの」と想定して考えてみてください。)自らの文明がある程度の発展を遂げた為、新たな生命の育成を見てみたいと思うか──或いは、親が子を産み出すように「愛の受け皿」として育成したいと思うか──もしくは、映画「アバター」ではないですが、いずれは自分たちが移住出来ることを想定し、あくまでも「実験施設」として作成するか。
 そういえば、以前「宇宙人が地球人を造り出した動機」として「従順な奴隷が必要だったから」という説を目にしたことがあります。そういう動機も「あり」でしょうね。

 鋭い方は何となくお分かり頂けるかと思いますが、動機が「どういったものか」というだけで、実はまったく、世界の造られ方が変わってきます。
 例えば「いずれは侵略、もしくは支配」という動機であれば、絶対に自由意志を与えるようなことはしないでしょう。
 先日も例にあげましたが、映画スターウォーズに出てくる「クローン兵」を見れば一目瞭然です。自由意志を発揮する「自我」ほど、支配者にとって厄介なことはありません。だからこそ、あの映画の中のクローン兵は、みな前頭葉を操作されて自我を抑制されているのです。

 みなさんがどのように選択されるかによって変わってきますが、ここでは「自由意志」を与えるという前提の為に(出来るだけ、現在の地球と条件を同じにしたいので)動機を「愛の受け皿」とすることにします。そして、聖書にも書かれているように神に似せる──すなわち、自分たちに似せるように、人間を育成していくとしましょう。(違う想像をした方は、ごめんなさい──個別にシミュレーションを進めてみてください。)

 さて、次に「動物達の存在の問題」が出てきます。
 聖書では、動物達は「人間の僕」たる位置にありました。
 でも、その考え方は果たしてどうなのでしょうか?
 現在の地球上において、環境悪化の問題、そして多くの絶滅種が出ている理由も、すべては動物や植物、他生命達に命の尊厳を与えることなく、あくまでも「人間の付属物」としか考えなかったことにあるのではないでしょうか?

 さて──皆さんだったら、動物たちの位置づけをどのようにしますか?

 ここで少し、文献をご紹介します。
 このブログで何度も紹介したイタリアのUFOコンタクティ、マオリッツオ・カヴァーロ氏の一作目「超次元の扉」に、興味深い内容が記載されています。
 このシチュエーションは、長年に渡ってカヴァーロ氏に助言したり案内したクラリオン星人の「スエル」という青年に連れられ、カヴァーロ氏がスエルの兄弟である夫婦(一時的のようですが)が暮らす家に行った時のことです。彼らの家でクラリオン星人から食事をすすめられた時のエピソードを、以下転載します。


「これは風味のよい魚よ。クラリオン星の海にも滋味豊かな魚がいて、地球と同じように、私たちも様々な調理法で食するの」
 私の疑問はまだ解決していなかった。肉は食べるのだろうか?
 こんな私の思考に、今度はスエルが答えてくれた。
「僕たちは肉は食べない。僕たちの新陳代謝システムは、物理的な体が必要とする基礎エネルギーを直接、僕たちの星から得ることができるんだ……」
(中略)
「銀河連邦に属する世界の民族で、量は限られているとはいえ、動物の肉を食べる人々もいる。肉食自体に何ら問題はない。君たちと僕たちとでは原子レベルで体の構造が違うけれども、物理的な体を有する限りは、栄養摂取は必要行為であり、殺傷行為とはみなされない。しかし、生き延びるために必要だという理由もないまま、有機体や生命体をいたずらに虐殺すれば、それは犯罪となる
 そこでユエーラが口を挟んだ。
「栄養摂取は、進化の法則の一端を成すのよ。すべては、巨大な生成の流れに変換され、再び生命が与えられるの。森羅万象の調和の中に、生命と死は継続的に交互に発生するの。現在は過去を糧として、そして、未来は現在を糧として、永遠の生成が成り立つというわけ。
 肉食を<罪>と考える人たちは、たぶん、大きな自己矛盾を抱えているのよ。(中略)本当に罪となるのは、これという必要もないのに生命体を疲弊させ、破壊し、絶滅させることよ」(超次元の扉 徳間書店刊 239~240ページ)



 高次元である彼らが「必ずしも肉食を否定していない」ということを知って、意外に思われた方もいるかもしれません。
 しかし、そこには厳然たる秩序をもって接する必要性が説かれているように思えます。無秩序のまま乱獲することは、やはり罪であることに代わりはないようです。世界的に飽食とされている日本は、何よりも反省しなければならないかもしれませんね(苦笑)。

 こうした高次元の知恵を参考にして、動物や植物達の命は最大限尊重するとしましょう。その中での淘汰は、自然の摂理として受け入れる──という方式を、第二の地球にも取り込むことにします。

 そうすると、だいぶ惑星における文明の方針が固まります。ここまでは、現存の地球と大差ないかもしれません。動植物の接し方についても、自然信仰をしていた種族やネイティブアメリカン達は、普通に生命に尊厳を感じていました。ネイティブアメリカンのある種族は、狩猟する時に必ず「殺める動物達の為の祈り」を捧げていたぐらいですから。間違いなく乱獲はしていなかったと思われます。

 このままで行けば、おそらく理想的な世界が築けるかもしれません。しかし、第二の地球人にも、私たちと同じように「自由意志」があります。
 自由意志というのは、人間にとって本当に望ましいギフトなのか──或いは、堕落へと誘うドラッグなのか。
 その辺りについて、次回は少し考えてみたいと思います。


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宇宙の構造はマトリョーシカ

 ロシアのマトリョーシカ人形を、ご存知でしょうか? 
 ひとつの人形の中に、違うサイズで同じ形のものがいくつも入っている人形──持ってはいなくても、記憶にある方は大勢いらっしゃることと思います。
 私は時折、宇宙の構造は、マトリョーシカのようになっているのではないかと思うことがままあります。
 ここで言う宇宙というのは生命を存続させる場のすべてを言うので、「森羅万象」と言うべきかもしれませんが。それに、私たちが目にする「三次元宇宙」だけではなく、五次元、六次元……すべてを指しています。
 すなわち、私たちの三次元宇宙がマトリョーシカの一番小さい人形だとしたら、それを包む人形が五次元、さらにそれを包むのが六次元──果てはどこまで続くのか分かりませんが、そのように内包、内包を繰り返しているのではないかと、そんなふうに思えるのです。
 マトリョーシカの人形を形取っている木製の部分は「その次元における物質化の膜」で、次元(マトリョーシカ)が大きくなるにつれ物質化の膜も変わっていきます。マトリョーシカ人形も中に入っている人形の絵柄がそれぞれ違いますが、それと同じような感じで、その次元の宇宙もすべて「彩りが異なる」のでしょう。それでもどこかしらが似ていて、どこかが異なる──それが、私たち三次元宇宙と高次元の違いなのかもしれません。

 想像してみてください。
 もし、私たちの宇宙が「マトリョーシカ」と同じような仕組みだとしたら、私たちも程度は低いとはいえ、高次元の人達と「似たような思考」も一部は担っているはずです。
 だとしたら、この地球を創った創造主達の気持ちを、僅かにでも味わうことが出来るかもしれません。
 例えば、私たちの星地球が、突然「実験」として次元の異なる場をつくり、そこに生命を育成させることになった──としましょう。
 その場所は、仮に「月」だったとします(いや、近場だったので、何となくのノリです。意味はありません)。
 月に周波数の低い場を作りだし、物質の周波数を落として、そこに「第二の地球」を作り出すとします。
 その研究には、世界各国の人達がこぞって参加するでしょう。新たな生命を生み出すという大事業には、多くの人が興味を持つこと間違いなしだからです。

 ここでひとつ、注意事項──。
 現実世界では、まずこの時点で「あれこれ揉めごと」が起きる可能性大です。
 やれどこどこの国は実験の舵を握りすぎだの、
 やれどこどこの国は出資額が少ないから研究者も出すなだの、
 やれどこどこの国は宗教的な問題があるからそっちを先に片付けろだの──。
 ──考えただけで、げんなりしますね(苦笑)。
 でも、ここでは高次元の創造主達の意識に近づく為に、そういうもめ事は「いっさいない」という前提に立つことにします。

 平和的に、国家がみんな協力しあって「第二の地球」の磁場を月に確立させました。
 さて、いよいよ生命の移植ですが──微生物の次は、植物の移植です。設定された環境に合わせるのは優先事項ですが、もし「第二の地球に、植物を移植します」と言われた場合、皆さんだったら、何の植物を「移植したい」と思いますか?

 やはり、自分が一番「美しい」と思っている花、或いは「好きな花」──ですよね?

 植物学の専門的なことは研究者に任せて、一市民達の心情としては、やはり「自分たちが、一番好きな花」を植えたいと思うことでしょう。日本人の多くの人は、「桜」と言うかもしれませんね。
 理由は──本心の中に、「美しいと思うものを、新たな生命にもシェアしたい」という思いがあるからなのだと、そう思います。
 そういう思いこそが、星々に生命を生み育てようと思った創造主達の「願いの根幹」なのではないでしょうか?
 創造に参加した存在が地球を覗いては、「あっ! あの花、俺ン家の庭から移植したんだ」なんて言ってたら、笑えますね(というか、口調があまりに品格なさすぎですね;)。

 次に「動物」を移植することになりました。
 さて──ここで問題が生じます。
 それは、「弱肉強食」の問題です。
 みな、心の中で「弱肉強食も、ひとつの自然の摂理だ」と分かってはいます。でも、もし──もし、そうした犠牲がなく生命が互いに共存共栄出来るのなら……そう考える一派が出てきても、不思議はありません。少なくとも、私はその考えに惹かれるものを感じるので。

 さて、困ったことになりました。
 植物の移植までは出来たものの、動物の移植で二派に分れてしまいました。地球と同じような生態系のまま、動物を移植させよう──という派と、遺伝子操作をしてでも(そういうことが出来ちゃう時代になったのね、と仮定してください)新たな調和を保てる生物を生みだそうという派。

 さて──みなさんは、どちらの意見に賛成しますか? 

 この問いに答えはありません。「みなさん各々が選択した答え」が、正しい答えなのです。
 そこから先、「パラレルワールド」になって、星に生まれる生命体と共に、歩む運命が変わっていくかもしれません(笑)。

 マトリョーシカから始まって、遊び半分で始めた「第二の地球創造(想像)」ですが──いざ書き始めて「実は意外に深い」ということ、および、「この想像を深めることで、現在の地球と高次(異次元)との関係性が垣間見られるのではないか」という思いに至ってしまいました。
 その為、少し本腰いれて考えたいと思います(笑)。←篠崎は計画的に見えて、実はかなりの「行き当たりばったり派」。
 しばらく連載を続けてみようと思いますので、みなさんも是非、私と一緒に第二の地球を創造(想像)するチームに参加しているつもりで、後日の記事をお読み頂けると幸いです。


<「第二の地球を創造(想像)する」に続く>


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焦りは禁物

 太陽の活動を注意深く見ている方であれば、ここ最近の黒点の増減について、違和感を感じているかもしれません。
 去年まで続いた無黒点状態から脱したものの、去年の10月末に突然現れた巨大な黒点を皮切りに、少しずつ増加の一途を辿っています。しかし、その増加の波も一定ではなく、50前後まで跳ね上がったかと思えば翌日には無黒点に戻ったりと、落ち着きがありません。
 黒点の動きが活発化してくると同時に見られるのは、フレア爆発です。これも数日前、Mクラスのものが観測されました。2005年に起きた観測史上初のXフレアに比べたらまだまだ規模は小さいものの、まるで嵐の前触れのようにじわじわとした変化が、ここ彼処に見られています。

 その関係もあってでしょうか。三ヶ月ほど前から、メールフォームから頂く感想の中で「焦り」を感じられている方が散見されます。
 焦りを感じる気持ちは、痛いほどよく分かります。
 私自身、去年の今頃はひどい焦りを感じていました。それは、地球がこれからどうなっていくのか──世界がどのように動いていくかが見えないが故の焦りで、「早く、何とかしなければいけないのではないか」という気持ちで浮き足立っていたのです。
 当時に比べると、今の世界はもっと「渦の中心に近づいた」ように思えます。すなわち、すでに宇宙の答えに向けて、すべてが動き始めたように思えるのです。だからこそ、多くの方が──今まで精神世界に興味を示したことがなかったような方も、危機感を抱くようになったのかもしれません。

 ですが、私はこういう時期だからこそ、冷静になることをお薦めします。

 今、スピリチュアル分野では「今こそ目覚めの時期」といった叫びがここ彼処で聞かれます。
 しかし、本当の目覚めというのは決して煽り立てられた中で訪れるのではなく、波紋さえもたつことのない静謐な水面のように「穏やかな心境」の中でこそ、得られるものです。
 目覚めとは決して劇的なものではなく、ふとした時に「気がつく」ような、そんなささやかなものであると、私には思えるのです。
 世界情勢も揺れ動き、様々な憶測や推測ばかりが飛び交う時代だからこそ──情報が巷に溢れかえっているような時代だからこそ、ノイズに心をかき乱されることなく、自分の奥深くにある「真なる自己(霊性)」と向き合い、本当に正しいことは何かをじっくり思案しながら進んでいくことが必要なのだと、私には思えます。
 答えは外側のどこにもなく、あるのは自分の内側だけです。
 書籍の情報もネットでの情報も、すべては自分の内側で濾過することに意味があるのであって、それを鵜呑みすることに意味があるわけではないのです。あなたが読まれているこの文章も、私が書いている文章でありながら、実際あなたが理解したその瞬間にはあなたの心で濾過された、あなただけの言葉となっているのです──。

 ですので、今の時期に大切なのは、「自らの濾過装置を、マメに点検すること」に他なりません。誰が何を信じているかということよりも、自分が何を信じるのかということの方が大切です。
 焦ってしまうと、そうした自分の指針が見えなくなり、濾過装置が正常に働かなくなってしまいます。
 どんな戦場でだって、戦士達は「冷静さ」を求められます。浮き足だってしまったら、隊列は乱れるだけです。
 私たちは戦場に立っているわけではありませんが、ある意味この時代は「魂の戦場」とは言えるかもしれません。だからこそ常に、私たちは自分の意志をしっかり持ち、自分の信念と向き合いながら、焦りを捨てて生きていくことが必要なのでしょう──。

 余談ですが。
 こうした話をしていると、時折「自分が一番、他の誰よりも信じられない」という意見を聞くことがあります。もしかしたら、そういう方が他にもいらっしゃるかもしれません。
 その方々にお伝えしたいのは、誰ひとり例外なく、神(宇宙)から産まれし存在なのだということです。
 そうである以上、誰もが「宇宙の欠片」です。
 多くの人が「自分を信じられない」という時の「自分」というのはエゴの表出でしかなく、その奥にある「本質の自分」についてではないことが多々あります。
 本質の自分は、誰しもがみな「宇宙の子供」なのです。
 そんな自分の本質に繋がれると、自ずと心は穏やかになり──そして、焦燥感も消えていくものかもしれません。 


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子供の霊に学ぶこと

 私は、かなりの「子供好き」です。理由はとくに思いあたりませんが、幼少期からすでに自分より年下の子の面倒などを率先してみていました。
 そのせいかは分かりませんが、「子供の霊」と遭遇することが多いです。
 もっとも、外見が子供であったとしても、霊性でみれば遙かに年数が経っている場合もあるでしょう。霊的な世界において子供の霊というのは、往々にして純真無垢な、穢れない魂を象徴することが多いようです。
 イエス・キリストも「天国は、子供のように無垢な魂を持つものの為のものである」といった言葉を残しています。ですので、どんなに幼くして亡くなった魂でも、その内側の片鱗に大人だった過去世の邪悪なるものが残っていれば子供の霊として姿を残すことはなく、また逆に、老衰で亡くなった人であっても内面が無垢な子供のように純粋であれば、その霊は子供のような姿になるのかもしれません。
 私は子供の霊を多数見ましたが、その霊性はマチマチでした。その中でも「極端に差があった例」を、ご紹介します。

 まずひとつめは、私が19歳の頃の話です。
 当時私は看護職をしながら、横浜のとある街でひとり暮らしをしていました。
 そんなある日、友人が泊まりがけで遊びに来た日のことでした。私は準夜勤が続いていたせいもあって疲れており、日が昇っても起き上がることが出来ませんでした。しかし友人は当時まだ学生だった為に元気いっぱいで、早く起きて私のそばに腰をかけ、ファミコン(……時代ですねぇ)で遊び始めました。
 マリオの聴き慣れたメロディーに目を覚ますと、友人が真剣な表情でゲームをしています。ひとりにさせて申し訳ないなと思いつつも、私は二度寝をしようとした──その時。
 友人と二人だけのはずの部屋に、明らかに「もうひとりいる気配」を感じました。狭いワンルームの扉の前に、5歳前後の小さな女の子がいたのです。
 しかし、私はゾッ……としました。その子は不自然なぐらい真っ白な顔で、大きな口以外、目も鼻も「何もなかった」のですから──。
 くすんだチェック柄のスカートに、白いブラウス、昭和前期の衣装でした。
 私は友人に声をかけようとしたものの、すでに全身金縛りで声も出ません。(余談ですが、金縛りというのは寝ている時だけなるのではありません。今回のケースで、私は明らかに「起きていました」。覚醒していても、金縛りには遭うようです。)
 少女はそのまま、仰向けになっている私の上に乗ってきました。私は何度も視線を動かし、友人を呼ぼうとするのですがまったく身動き出来ません。その時、画面がマリオのどのゲームをしていたかまではっきり分かるぐらい明確なのに、何故か私は友人を呼ぶことが出来ませんでした。
 少女は口だけの顔で、不気味に笑っていました。しばらくすると、私の首を「ぎゅっ」と締めます。苦しくてというよりも、急に何かに呼び起こされるようにして、私は意識を戻しました。
 気がついてすぐ、友人にその話をしましたが──その間、友人は何も感じなかったそうです。しかし私が見ていた場面を友人は確かにプレイしていたので、私が友人の背後で少女の幽霊に襲われていたのは確かだったのです。

 私がその時会った少女の霊は、決していい霊の類ではありませんでした。その証拠にとても恐ろしかったし、ゾッとするような冷気を感じさせたからです。
 しかし、あの少女が実際に生前幼くして亡くなっているのかどうかまでは、私にもわかりません。
 ただ──ひとつだけ、哀しい歴史がその土地にはありました。
 横浜には第二次世界大戦中、空襲を受けて焼け野原になった場所があるのですが、偶然にしてそこが「もっとも被害の多かった地域」なのです。
 その為、街のあちこちには祠が建っており、終戦の日には老齢の方々が祠の前で供養するように参拝している姿が見受けられました。
 その少女が戦時中に犠牲になった魂かどうか、そこまで私にはわかりません。しかし、いずれにせよ昭和前半の頃の雰囲気──少なくとも、当時からしても20~30年以上前の衣装だったことは確かです。
 もし、非業な死がきっかけで悪霊化してしまったのなら──それほど哀しいことはありません。子供という姿であるからこそ、その痛みと哀しみが私の中に強く刻まれました。

 ふたつめは、去年の話。私の自室で起きたことでした。
 以前から、私の部屋には子供の霊が何人も来ていました。比較的、前者のような哀しい霊ではないケースが多いものの、一回だけ、完全に硬化してしまった少年の魂が「ズサッ!」と、ベッドの上に倒れ込んで来たことがありました。(推測ですが、これは死んだ霊ではないかもしれない──と思いました((すなわち、生き霊です))。石のようになってしまった形状というのは、それだけ心が硬直してしまい、柔軟になれない現代っ子の「こころの象徴」なのかもしれないと、そう思ったからです。)
 しかし、それとはまったく桁違いなぐらいの、とても純粋無垢な子供の霊というのもいました。その中でも一番印象に残っているのは、7歳前後ぐらいの少年と、4歳前後ぐらいの少女の二人連れです。

 私が眠っている最中、私の部屋の中をパタパタと走り回る音がしました。コロコロと可愛い笑い声をあげ、すごく楽しそうに走り回っているのです。そのあまりにも愛らしい声に私は二人と話がしたくなり、肉体から離脱して(こういう場合は、離脱する為の努力は不要です。二人の声が聞こえている時点で私はすでに遊離しているので、後は起き上がって歩くだけですので)二人を抱きかかえました。
「何してたの?」
 少年が私に聞いたので、私は二人を抱きかかえたまま言いました。
「別に。ただダラダラと寝ていただけ。二人のはしゃぎ声があまりにも楽しそうだったから、一緒に遊びたくなって来たんだよ」
「ホント! じゃぁ、何して遊ぶ?」
「何でもいいよ、何して遊ぼうか。それとも、どこかお出かけする? どこにでも連れて行ってあげるよ」
 私はそう言いました。
 現実的に考えたら、とってもおかしな話です。どんなに無邪気な子供達がいたところで、まずこんなふうに私は遊びの和に入ろうとはしないでしょうし、それに、知りもしない未成年者を「どこかに連れて行く」なんて、立派な犯罪になっちゃいそうです(苦笑)。
 でも、その時の私はそんなこと考えていませんでした。と、いうよりも、私にとってその子達は「顔見知り」のようにも思えた程です。その子達も、私のことを「知っている」かのようでした。
 二人とも、とても嬉しそうでした。
「今から起きて、二人のことを連れて行ってあげるから。どこがいい?」
 そう言った瞬間。
 少女の顔が、急に曇ってしまいました。哀しそうな少女に反して、少年は相変わらず嬉しそうに、はしゃいでこう言います。
「僕ね、新幹線に乗りたい!」
「新幹線は、ちょっと遠くまで行き過ぎだなぁ──。どこか近場で、行きたいところない?」
「そしたらねぇ──東京と『かわくぼ』!」

 少年は、はっきり「かわくぼ」と言いました。

「『かわくぼ』? それどこ? 大久保とか川越とかの間違いじゃなくて?」
「『かわくぼ』は、『かわくぼ』だよ──」
 私が首を傾げていると、少女が声をあげました。
「でも……『起きて』じゃなくちゃ、行けないでしょ? ……そしたら私たち、もう帰らなくちゃ──」

 その時私は、はっきりと「自分の生きている世界と、この子達のいる世界が『違う』」ということを思い出しました。私が寝ている時しかこうして一緒にいられないのを、少女は分かっていたようです。
 少年も、急に淋しそうな顔をしました。私は二人の表情を見て、自分がどんなに頑張ってもこの子達を遊びに連れて行くことが出来ないことを、とても哀しく思った程です。
「……そうだね、一緒には行けないね……」
 そう言うと、私は二人を下ろしました。
 すると、まるでそのタイミングを知っていたかのように、部屋の中に「明るい光」が浮かびました。それはトンネルのようになっていて、そのずっと先に黄金色の光が見えるのです。どうやら二人は、そこから遊びに来ていたようでした。
 二人は光に向かって歩き出しました。私は二人の背中を見送りながら、哀しくて涙がこぼれてしまいました。しばらくそのまま歩いていた二人でしたが、少年が私を振り返りました。私が泣いているのに気がつくと、少女から離れて再び私の元まで戻ってきてくれたのです。
 少年はじっと、私の顔を見上げていました。その瞳は静かで感情を感じさせませんでしたが、とても優しい目でした。
「……いけない。僕まで泣いちゃいそう──」
 少年はそう言って照れ笑いを浮かべると、少女の待つところまで走っていきました。
 二人が光の中に消えた後、部屋から光も、光とこの部屋を繋げていた通路も消えていきました。私は横たわっていた肉体に戻り、そのまま目を覚ましました。
 面白いことに、肉体も涙を大量にこぼしていました。
 ──いえ、もしかしたら霊体だけでは「泣けない」のかもしれません。肉体と霊体が繋がっていたからこそ、「涙」という現象が起きたのかもしれないと、そう思っています。

 二人のことを思い返すと、今でも私は幸福な気持ちになります。
 私はここまで子供が好きなのですが、婦人科疾患が原因で子供を産むことが出来ませんでした。
 しかし、私はそれで「良かった」と思っています。
 私にとって子供は、「今を生きる、すべての子供」のことを言うのだと──そう思うので。所有という概念がもともと欠け落ちてしまっている自分だからこそ、かえって「自分の子供」という枠組みが出来てしまったら自分も混乱するだろうし、何よりも、その子にとって幸福かどうか自信が持てないからです。
 子供というのは、本来「それだけで」素晴らしい存在なのだと思います。何かに秀でる必要もなければ、成績が優秀な必要もない──。
 子供の「ありのままの性質」を受け入れてあげることが出来たら、子供の純粋さが保たれるのかもしれません。勿論、そんな簡単にできることでもないでしょうけれど。

 いろいろな子供の霊を見ていて思うのは、産まれてきたその子の霊が「霊性をどのように生かしていくか」を決めるのが今の大人達である、ということです。
 子供達はどうしたところで、今の大人が築いた社会でしか「生きるすべがない」のです。その社会がどんなにその子にとって苦痛であっても、家庭内がどんなに苦痛であっても、その子には「そこが世界」なのです。大人はいろいろな逃げ場がありますが、子供にはそうそうありません。
 だからこそ子供がいる、いないに関わらず、私たちは「社会という枠組みの中で、如何に子供達の霊性を守ってあげられるのか」を考える必要があるのだろう──そう思う次第です。


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UFO雑記

 ここ最近、中国で頻回にUFOが目撃されているという報道が続いていますね。
 今回、私が目にした画像は、まるで母船を思わせるかのような造りで、このように大きな船が何故頻繁に姿を現しているのか──何故それが中国なのか、その意味は何なのかなど、色々と考えさせられました。(参照:http://www.thesun.co.uk/sol/homepage/news/3165067/UFO-closes-an-airport-in-China.html

 私は幼少期から、宇宙に対する憧れを強く持っていました。「星空を眺めるのが好きな子供だった」ということを何度かブログにも書きましたが、同様にUFOに対する好奇心も、人一倍強い子供でした。
 と、いうよりも「宇宙の生誕に関する真実を知りたい」という欲求がかなり強く、それを知っているのはUFOを操作する彼らではないかと、そう感じていたのです。
 しかし、昨今あるようなUFO研究会に参加したり、UFO研究者を推奨したりする気になれないのは、どうも私の中で「彼らの言っている宇宙人論が、自分の中でしっくり来ないから」だったりします。
 もし私自身が感じているUFOの存在論、宇宙人の意義とマッチしている研究者や団体があったとしたら、迷うことなく私は活動に参加していたことでしょう。
 私が唯一、コンタクティーとして尊敬し、その言葉に信憑性を感じているのは、現在生存されていて私が名前を知っている限りにおいては、イタリア人のマオリッツオ・カヴァーロ氏ただ一人です。言語という壁がなければ迷いなくイタリアまで飛んでいって、もっと詳しく話を聞かせてもらいたかった程です。

 私にとってカヴァーロ氏は、自分が「知りたい」と願う真理の扉の、すぐ近くにいる人です。
 ハワード・メンジャー氏の体験談も希有で素晴らしいものでしたが、残念なことに昨年の3月他界されました。同様にペルーで宇宙人と遭遇したというカペタノヴィッチ氏の体験談も、私が直感で感じている宇宙人の真理や目的に通じていましたが、この方もすでに他界されてしまっています(ちなみに、カペタノヴィッチ氏の体験談は、カヴァーロ氏の体験談に共通項を感じさせます)。
 これだけ情報網のあるインターネットで幾重に検索しても、カヴァーロ氏やハワード氏、カペタノヴィッチ氏の証言を上回る程の内容はお目にかかれません。まるで巧妙に情報が隠されているかのような──情報を隠しつつも、それでも「真理」をコンタクティーの存在を通じて垣間見させているような、そんなふうに思えてしまう程です。まるで「チラリズム」ですね(ちょっと違うか──)。

 実のところ、ここ数ヶ月、私自身の体外離脱体験がまったく停止しています。
 今までにも何度かそういう波があったので、今はそうした時期なのだろうと特に慌ててもいないのですが、私の中でさまざまな疑問が浮かんでしまっているが故に、早く答えを知りたい──という焦りは正直言って「あります」。
 しかし、私自身はそうした状況について、チャネリングに頼ろうとか、自分の想念に頼ろうという気はまったくありません。何故なら、私のそうした体験は自分の想念を超えた無為自然とも言えるものだったので、だからこそ私は信憑性を感じていたからです。自分の想念から発したものであれば、疑心暗鬼の強い私故、絶対に信用しようとはしなかったでしょう。

 私自身の体験や自分が感じている地球の存在意義、宇宙の仕組み、魂の関連性についてを知る為には、今の私にとってUFOの情報は非常に有効です。
 しかし、目撃証言は多々あれど、その内面についてを深く明かすことがなく──また、どんなに軍関係者がその存在を肯定しても、同様にその背後にあった出来事については、まだ何も明かされていません。
 だからこそ私は、信憑性あるコンタクティー情報を集め、そこからの整合性について考えていきたいと思っています。

 ちなみに、私自身はUFO──と言っていいのか分かりませんが、未確認飛行物体と呼ばれるものについて、数回目撃しています。
 私は自分に変わった力が幼少期からあったせいで、かえって抵抗を感じ、無邪気にそうした体験を口に出すことが出来ませんでした。その為、UFOの存在を知ってはいても、みんなが話題に出すようなノリでそれを語ることは出来なかったのです。
 しかしそんな私に「UFOを確信させた」のが、中学生時代、夏休みの出来事でした。その時は友人も一緒だったので、特にリアルに感じられた程です。
 余談ですが、先日とある方から、「あなたの魂は起源がこの地球ではなく、遠くの宇宙から来ている。おそらくシリウス系ではないかと思われます」と言われました。
 普通であれば一笑に付す内容かもしれませんが、実際今までに他の方からも同様のことを言われたが為に、「そういうことも、あるかもしれないな」などと思いました。
 それに、プレアデスとは言われず「シリウス」と言われたことにも腑に落ちました。私の勝手な解釈ですが、プレアデスというと楽観的で女性的、色にしたら「薔薇色」という雰囲気。かたやシリウスというと論理的で男性的、色にすると「青色」という雰囲気がしていたからです。
 どうみても私は、薔薇色の雰囲気ではありませんので──(苦笑)。
 天使には親近感を感じなくても、宇宙人には親近感を強く感じる私故、そういった方々に言われたことは一理あるのかもしれませんね(笑)。
 
 戯れ言はともかく。
 これだけUFOの目撃証言が続く今年──もしかしたら来年は、もっと驚くような情報が分かるかもしれません。
 地球の激動期に訪れているUFOの目的や意味などが、もう少ししたら分かる時期が来るかもしれないと、期待する昨今です。


【お知らせ】
先日、ご丁寧に二度に渡ってメールを下さったY・T様、感想を送って下さるT・T様。
いつも返信が遅れてしまい、本当に申し訳ございません。
その他の皆様のメールも、すべて拝見しております。
暖かいお言葉、心から感謝しております──。
時間が出来次第お返事いたしますので、今しばらくお待ち下さいませ。


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私たちは無限の可能性を、潜在的に秘めている

 時間の流れというものについて、スピリチュアルにおいては「流線的な流れではない」ということが言われています。
 例えば「前世」というものを考えた場合、必ずしも時代順を追って転生するのではなく、自分(霊)が望む時代を選ぶとされています。ですので、現代に転生した人が必ずしも今から先の未来に転生するとは限らず、場合によっては過去に転生するかもしれないわけです。
 そう考えると時間というものは「流動的であり、固定的である」ということになります。いわば壮大な物語を幾重にも含んだDVDの中で、「どの話のどのエピソードがいいか」を選んでいるようなものです。

 例えば──こんな仮説は、どうでしょうか。
 ある一枚のDVD──それは「地球物語」というタイトルで、膨大な数のデータが含まれているとします。数え切れない人々の暮らしやドラマ、それらが進化過程を経ていく場面が収録されているとしましょう。
 地球を取り巻く霊達(意識体)は、そのDVDでそれぞれの役を選ぶ立場にいます。そうした場合、「今、自分が欠損していると思われる部分の修正」をするべくして見合った時代を、霊達は選ぶことになります。
 そして、その一生が終わった後、再び肉体のない故郷へ戻ったとします。自分が目指した欠損部分は補えたものの、今度は新たに違う欠損部分を補いたい──そう気付いたとしましょう。しかし、その為には直前の人生で生きた時代より未来に行くよりも、過去に行った方がいい場合があったとします。そうしたら自ずと、霊は「過去への転生」を試みるのかもしれません。

 ここで皆さんは、疑問に思うことでしょう。「仮にそうだとしたら、過去に転生することで未来が変わってしまうのではないか? 歴史が塗り替えられてしまうことに、なりはしないか?」と。
 私は、世界は決して今ある──今、私たちが自覚出来ている世界だけではないと、そう思っています。すべてはパラレルワールドのように並行して存在し、枝分かれをして広がっているのではないだろうかと、そう感じているのです。
 過去に転生し、何らかの時間軸における変動が起きたとすれば、それはもうパラレルワールドの分岐点を経たことになるのでしょう。そうすることで新たな世界が潜在的に誕生し、それがゆくゆくは無数に広がっていくパラレルワールドへとなっていくのかもしれません。

 科学的にも、宇宙というのは水泡のように次から次へと生まれてくると言われています。そしてその宇宙はやがて果てしなく広がっていくと、そのままフリーズしてしまうとも言われています。まさしく、水泡が果てしなく広がって、その波が消えていくかのように──。
 それと同じように、私たちのような人間が意識し、生きる世界も同様に無数の水泡の如く存在して、それらは枝分かれしながら新たな世界の卵を生み出しているのかもしれません。

 私は、こういうことを考えているのがとても好きです。
 「私」という小さな存在が、無限の広がりを持った宇宙の一員であることを実感出来るからです。
 今、世界や社会にはあらゆることが起こりすぎているせいか、幾分視野が狭くなりつつある人達も散見されます。口を開けば同僚の愚痴、旦那や奥さんの悪口、不平不満、あらゆる負の感情をまき散らしているような人も存在します。
 しかし、本来私たちはこのような小さな肉体と、狭い世界だけに押し込められている存在ではなくて、あえて今の環境を選び、そこで生きることを選択して「ここへ来た」のだということを思えば、何の不満もなくなるはずです。

 せっかく選んだこの時代、この人生であるならば、視点を変えて積極的に生きていきたい──私は常に、そう思っています。


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2010-10-13 | 真理 | トラックバック(0) |

次元環境が、人間の意識形成に影響を及ぼした

 以前から書いていることではありますが、私は「人間の意識形成」に対して、この二極化している次元(三次元)の影響は多大にあると考えています。
 それは、生育環境がそこで育った子供の精神性に大きく影響することからも伺えます。
 外界の事象は、私たちの内面世界に決して無関係ではなく、多かれ少なかれ精神に何らかの作用を与えています。また逆に、そうした作用に応じたその人の精神性は「行動結果」として外界に表出し、外界に表出した現象によってまたその人の感性に影響を及ぼすといった相互作用が常に起きていると、私は考えています。
 それは外界と内面世界における「循環」とも言うべきもので、どちらを切り離したとしても世界は存続し得ない──いわばこうした二元性が互いにぐるぐると廻って影響しあうというのが、この世界における特色なのだと思えるのです。
 まさしく陰陽図そのものです。陰旺じて陽を生じ、陽旺じて陰を生ず──周易でもその働きが描かれており、陰が極まった卦「坤為地」はやがて初爻に陽を生じて「地雷復」となり、陽極まった卦「乾為天」では初爻に陰を生じて「天風こう(こうは女偏に后)」となる──これによく似ています。
 拙著の巻末では、エハン氏へのインタビューを通じて、2012年問題における外界と内面世界の関連性について仮説を挙げています。
 すなわち、2012という問題が注目されるようになった背景には「多くの人々における何らかの直感」が存在したものの、それが外界に引き出されることによって直感は「確信」へと代わり、その確信が再び外界に「行動(本が書かれるとか、講演されるなど)」として表されることによって、また再び人々への精神へと影響をする──この繰り返しが、新たな時代に先んじて行われる、といった推測です。
 その為、想念が現実化されるというのは、この原理から言えば至極当然のことなのです。想念は結果的に、外界に対して自分が行う行動に何らかの色を付け加えます。想念に動機づけられた行動は外界世界を通じて他者へと伝わり、他者の想念からまた外界への作用となって、やがては広がっていくからです。

 こういう関連性で考えていけば、内面世界と外界という二極化が「完全に分離していない」ということは、お分かり頂けると思います。また、情報操作というものが私たち人間の思考にどれほど強く影響するかということも、ご理解頂けることと思います。
 どんな虚偽な情報であったとしても確固とした真実であるというふうに外界で流布されれば、その外界による影響が私たち人間の思考に影響してくる──そうすると第二次段階で私たちが起こす行動は、意図しようがしまいが、結果的には「受けた情報を外界に返すこと」に繋がってしまうのです。

 私は人間が今あるような性質(対立や衝突といった、正と負の背反を併せもった性質)に生まれついたのは、最初からこの次元における二極性によるものだと考えています。ですが、カヴァーロ氏はそれを否定していました。人間は自らエゴを選択し、堕落したのだ──と。(詳しくは今月末に出版されるカヴァーロ氏のインタビュー本をご参照下さい。)
 確かに人間に選択権が与えられているのは事実ですし、そうである以上人間が「エゴ」を選びとったということも否定は出来ません。
 しかし、その前提として何故、エゴなるものが誕生したのかということを考える必要があるでしょう。
 少なくとも、カヴァーロ氏が交信したクラリオン星人にはそうしたエゴが見受けられないし、カペタノヴィッチ氏が出逢ったアプ星人もそのような性質は見受けられません。
 なのに何故、私たち地球人にはそのような二面性が生まれたのでしょうか?
 突き詰めていくとやはりそれは、人間の特性と似た次元──二極化したこの電気的次元(三次元)に原因があるとしか、私には思えないのです。
 人間のエゴが突出した理由を、一部の人達は「度重なるカタストロフィーによるもの」だと言っています。
 それもまた否定は出来ません。しかしとどのつまりは、カタストロフィーが起きる不安定化した次元環境が、人間の意識形成に影響したと言えるのではないでしょうか?
 逆に言えば、クラリオン星人やアプ星人達は、最初から一元的な次元(或いは多元的すぎて、かえってその個性がひとつであると感じずにいられない次元)に存在していたからこそ、私たち地球人のような分離的性質を帯びなかったのではないでしょうか?
 もし仮に、そうした人達が地球同様のカタストロフィーを受けたらどうなるでしょう。ロード・オブ・ザ・リングでは、かつてはエルフ族だった人々が闇に捕らえられ、酷い拷問を受けて引き裂かれた結果、醜いオークと化したという説明があります。おそらく、高次元の人達でさえもそうした分離の環境に置かれれば、同じように分離した内面性を生じさせただろうと思えます。少なくとも、現段階では「そうに違いない」という憶測しか立てられない程に──。

 そう突き詰めていくと、「やはり次元が変わらない限り、二元性という壁は超えられないのだろうか」という思いも頭をもたげます。
 思いの外、環境による影響は多大だと言えるからです。
 しかし、完全に何の手だてもない状態であるのなら、これほどまでに多くの人がアセンションや2012年問題に注目はしないはずです。何らかの明確な答えがどこかにあるはずだ──私は常に、そう思っています。


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2010-10-11 | 真理 | トラックバック(0) |

地獄は、本当にあるのか?

 先日も軽く触れましたが、ここしばらくアメリカのドラマ「スーパーナチュラル」にはまっている篠崎。
 この作品は2005年から放映されていて、現在シーズン5まで終わっています。日本でのレンタルが9月から開始したので、次話が待ち遠しいじれったさを感じつつも、日々を過ごしています(笑)。
 当初は悪魔退治といったテーマがほとんどだったのですが、主人公の家族に纏わる悪魔との関係性が明かされてからは一転、善と悪の対立という話に変わっていきました。
 シーズン2では主人公であるサムと兄ディーンの父親が、家族の身代わりとなって地獄に堕ち、今度はシーズン3でサムを救う為に、ディーンが地獄に堕ちるという話があります。
 それなのにこの世に戻って来れちゃうあたり、ちょっとアメリカならではのご都合主義を感じずにはいられないのですが──;

 この作品の面白さは、前回も記事にしたようにアメリカと日本における善悪概念の差を感じるところです。
 特に「悪魔」という考え方は、キリスト教圏では強いように感じます。日本の場合、そこまで徹底した悪という存在は描かれていません。鬼子母神や疫病神など、「悪しき者」とされるものでさえ「神」としてしまう辺りに、日本の特質を感じずにいられない程です。
 ただ、「地獄」という概念については、東西共通しているから不思議です。

 この理由は私が思うに、当時、現実的に「まさしく地獄」と思わずにいられないような光景が、ここ彼処にあったからではないでしょうか。
 悪魔というのは、「絶対的な悪」としての前提知識がない以上、そうそう生まれて来ません(キリスト教における悪魔誕生の由来となった前提知識は、言うまでもなく「唯一絶対神」の存在です)。
 しかし地獄というのは、現実の中でいくらでも目の当たりにする時代だったのでしょう。
 戦争、飢餓、洪水、噴火など、昔はふとした折りにそうした惨状を目にする機会があったのかもしれません。少なくとも、江戸時代は何度もそうした自然災害があった程ですから。
 勿論、キリスト教圏であるヨーロッパも例外ではありません。概ねヨーロッパで、ヴァンパイア伝説や魔女などの伝奇が誕生した背景には、ペストの大流行や戦争などがあったりします。多くの人達が死んでいく惨状を前にして、人々の心に「地獄のような恐怖」として刻まれた可能性は十分に考えられます。

 東西共に共通しているのは、「地獄は、罪を犯した人達が堕ちるところ」というものです。
 これもまたそうした現実における地獄のような光景を見た人達が、その危険から少しでも遠ざかりたいが為に、心の中で慰めとして造りだした仮定なのかもしれません。

 霊界の著述を多く残したスウェーデンボルグは、著作の中で「地獄というものはある。しかし、私たちが考えているようなものではない」ということを述べています。
 すなわち、地獄というのは「罪を犯した人達が罰せられる場」ではなく、その世界を望んだ者達が、望んで向かう場所だと説明しています。

 要するにそれは、棲み分けの世界とも言うことが出来ます。
 例えば──そうですね、卑近な例ですが……賭け事と酒と女が好きな(笑)人がいたとしましょう。
 その人にとって居心地の良い場所は、「賭け事が出来て、酒が飲めて、女がいくらでも抱けるところ」だとします。
 そういう世界には、勿論同じような霊が寄ってきます。
 賭け事と酒と性行為三昧となった場合、そこにあるのは「混沌」です。その世界は、どう考えたところで統制が取れるものにはなりにくいでしょう。
 一方、規律を重んじ、酒も飲めない──賭け事なんて何が楽しいのかわからない、なんて人がいたとします。
 趣味は読書で、世の中の森羅万象に思いを耽るような人が、前者のような賭け事と酒と女の世界に閉じこめられたら──どう思うでしょうか?
「何だ、この地獄は!」そう思うかもしれません。
 でも、前者の人にとってそこは「絶対的な天国」なはずです。
 逆に、その人を後者の人が望むような、とても規律的でアカデミズムの雰囲気漂う世界に入れたとしましょう。
 賭け事もなく、酒もなく、女はいても性的な魅力に欠ける──そんな世界に閉じこめられた前者の人は「出してくれ! こんな地獄は勘弁だ!」そう叫ぶかもしれません。

 要するに、地獄というのは相対的で、決して絶対評価出来るものではないのだろう──私はそう思うのです。
 
 マオリッツオ・カヴァーロ氏は、クラリオン星人から「地獄というのは人間が造りだした世界で、そういうものは実際にはない」と聞いたそうです。
 ある意味それも、一理あるでしょう。人間のエゴ、欲求がなければ、自ずとそうした棲み分けの世界も存在しなかったのでしょうから。

 自分自身の心の在り方がどうであるか──それがひとえに、死んだ後の自分の居場所を決めるのかもしれませんね。
 さて。あなたは今、どんな思いの中で生きていますか?



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生と死の狭間

 今から6年以上前。まだ体外離脱が頻回に起こっていなかった頃のことです。
 眠っている最中に、気がついたら肉体を抜け出していた──ということがありました。
 その抜け方はあまりにも唐突で、寝る直前の記憶さえ残っていないような状態でした。「私」という存在だけは認識出来たものの、私がどうして暗闇の中にいるのか、何をしているのか、まったく分かりませんでした。

 やがて私は、「自分は死んだのだ」と勘違いしてしまいました。
 ですが、痛みもなければ哀しみもありません。ただしみじみと、「ああ、きっと死んだに違いない──」そんな思いだけが過ぎったのです。

 次の瞬間。
 あっという間に、私を包む空気が変わったのを感じました。
 その空気は──表現するのも難しいのですが、あえて言えばこんな説明が妥当かもしれません。

「まるで、酸素の代わりに『愛』が、そこらじゅうを満たしているかのよう」

 とても濃厚な愛が、世界中を包んでいるかのように感じられたのです。
 よく天国には「甘露」が流れていると言いますが、確かに言葉で表現したら「甘い露」と言えるかもしれません。そして、私を包む気すべてに意志があり、それらが愛に満ち溢れていたとも言えます。
 私は、とても感動しました。
 こういう場面に出くわして浮かぶ言葉は、「ありがとう」──それに尽きます。
 私はとにかく、すべての人──出来事──存在に感謝をしていました。何度も「ありがとう、ありがとう」と繰り返しながら、トンネルのようなところを勢いよく昇っていったのです。
 これがもし「死」だとしたら、途方もない幸福だ──そうとさえ、思った程です。

 ……ところが。

 何を思ったのか、私は途中で昇るのをやめました。
「そうだ。逝く前に、姉ぐらいには挨拶しておこう──」
 そう思って、また戻ろうとした瞬間──

 ──目が……覚めてしまいました。

 しばらくは記憶が混乱してよく分かりませんでしたが、「自分はまだ生きている」と思った時に、何故かちょっと惜しい気がしてしまいました(苦笑)。
 あのまま逝けていたら、どんな世界が広がっていたのだろう──そう思うと、何だか残念な気がして仕方なかったのです。

 臨死体験をした人というのは、身内の人が迎えに来たとか、美しい花畑に出たとか、私のようにトンネルのようなところを勢いよく昇っていったとか、そういうことを話されています。
 ちなみに、私がこの「トンネルのようなところを昇っていく」というのは、この時が二回目でした。20歳頃にも自分が死んだと勘違いをして、同じようにトンネルのようなところを昇っていったことがあったからです。(すぐに死んだと勘違いするなんて、そそっかしいですね──)
 何故このように、大抵同じような体験になるのかは、とても興味深いことです。

 霊界よりもこちら側に近い幽界は、死んだ霊が少しずつ生への執着を解き放てるよう、今の世界に似た造りになっていると聞きます。
 実は私自身、臨死体験とまでは行きませんが、あと三歩か四歩ぐらいであの世に行っていたかもしれない──という体験があります。
 26歳の時に、婦人科疾患が原因で5時間近くに及ぶ手術をしたのですが、その時の全身麻酔が効きすぎて(自覚はなかったのですが、麻酔に対してアレルギーがあるようです)長いこと意識混濁に陥ったことがありました。同伴していた身内の話によれば、血圧がずっと低下し、脈拍も微弱な状態がずっと続いていたそうです。

 その間、私は不思議な街に行っていました。
 夢にしてはリアルで、かといって体外離脱をした時ほど鮮明なわけではありません(もっとも、まだ26歳の時は体外離脱体験があまりなかったので、今になって比較出来る程度ですが)。
 どこにでもある普通の街並みを、私はひとりで歩いていたのです。
 その街は見たことがあるような、それでいて一度も行ったことのない街でした。普通に家々が建ち並ぶ住宅地で、公園もあって、お店もあります。
 なのですが、不思議なことに人っ子一人、いなかったのです。
 私は無人の街の中で、ひたすら「誰か」を捜していました。誰を捜していたのか、今でもわかりません。とても親しい間柄だったようなので、おそらくは私の亡くなった祖父や、身内だったのかもしれません。
 ひたすら歩き続け、ふと気がつくと──麻酔も切れていたせいか「ひどい痛み」で、目が覚めました……。(ある意味、逆に地獄に戻ったかのようでした……。)

 私は自分の実体験も含めて、死んだ後も人は決して消滅することなく存在し続けることを確信しています。
 それは、肉体を亡くした後に現れた人達の存在によっても、確信出来ることです。
 死後、自分が果たしてどこに行くのか──気になる方は、多いかもしれません。
 しかし、その場所を決める為に「今」、生きているのだと──私には思えるのです。

 もしも、人間が本当に死んだ後も尚、自分は存在し続ける──そう思ったら、かなり価値観が変わってくるような気がします。
 善行は法律や評価の為に行うものではなく、霊性を磨く為に率先してすることであるということに、多くの人が気づけるはずです。
 また、悪行は罰則を避けたいからしないのではなく、霊性を落とすことを避ける為に自ずからすべきではないということにも、気づけるはずです。
 法律に規定があるとか、ないとか、そんなことが判断基準にはならないのだということに、多くの人が気づけるでしょう。

 生と死という対峙──これもまた、二元論の特徴です。
 新たな時代を地球が迎える時には、この境界もまた取り払われることになるのかもしれませんね。


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霊の進化

 私が幼少だった頃は今程スピリチュアルな概念が浸透していなくて、もっぱらホラーやオカルト要素の強いものばかりが流行っていました。
 四次元という言葉が流行ったのもその頃のことで、当時、四次元をテーマにした海外のオムニバス形式ドラマが放映されていたのを覚えています。
 また、今では考えられないことでしょうが、自殺の名所にカメラが潜入するということもやっていました。私が6歳頃に見た番組では、華厳の滝の水底にカメラが潜入するという──今では放送倫理的に絶対あり得ないような番組もあった程です。しかも、途中で溺死したと思われる人の遺体まで放映されていたのだから、改めて考えるとすごい時代でした……。

 あの頃、「死」というのはどこかダークで、生の輝きから見捨てられたものという概念が浸透していました。
 心霊写真や幽霊物語というのもおどろおどろしいものがほとんどで、死後の世界について正当に語られたものはほとんど無かったように思います。それどころか、そうした番組に出てくる霊媒師は決まって霊に対して叱りとばすように怒鳴るので、何だか霊が気の毒に思えた程です(礼儀として、そもそも「どうよ」と思っていました──)。
 私自身は体験談でも書いたように、そうではない者達(光の輝きを持った存在)との交流もあった為、こうしたダークなイメージに対して嫌悪感がありました。
 しかし年齢が進むにつれ、「自分の方が、おかしいのではないか?」「世の中の多くの人が言っている以上、目に見えない世界はすべて暗い世界なのではないだろうか」という疑念も持つようになってしまったのです。
 そう思うと、情報の力というのがどれほど影響力を及ぼすのか──改めて考えずにはいられません。

 あの当時に比べたら、今は遙かに変わってきた──そう思います。
 少なくとも、「死」という概念そのものが変わってきたというのは大きなポイントだと思います。何故なら、「死」という自覚を持つ霊が増えるということはもっぱら、正しく魂の故郷に戻ることの出来る霊が増えたということに繋がるからです。
 目に見えない世界──不可視の世界は、何も霊だけの住処ではありません。私たちが生きている上で抱く想念もまた、不可視の世界に存在しています。現実世界は、そうした想念の表出した氷山でしかありません。そういう意味で考えれば、死者の霊も生きている霊と共に存在すると考えることが出来るかもしれません。

 死者の霊は肉体を持っていないだけで、想念の部分においては生きている人と何も変わりません。だからこそ、憑依などといった現象も当然起こるのでしょう。
 スウェーデンボルグは「人間は誰でも霊の影響を受けており、まったく受けていない人は存在しない」と著述に書いていましたが、想念を液体のようなものと考えればそれは至極当然のことと言えるでしょう。(逆に言えば、だからこそ私たちは自分の心根がどのようであるのかを、常に意識しておく必要があるのだとも言えます。そうでなければ、私たちは自分の抱いた負の想念だけでなく、多くの目に見えない霊達の負の想念にも共鳴反応してしまうかもしれないからです。)
 ただ、少なくとも「霊とは何か」「死とはどういう意味か」「死後の世界は実在するのか」そうしたことを本や情報から学んだり、考えたりすることで、生きている間に霊の進化は自ずと進むのだろうと、そう思えます。
 死後の世界や不可視の世界を考えるのは、現実逃避でも何でもありません。実相の世界に意識を投じるということは、想念の表出であるその人の人生そのものにも、望ましい影響力があると思えます。

 現実社会において様々な問題が浮上している今だからこそ、死の意味について──霊の存在について──そして、自分という霊体についてなど、あらゆる不可視の世界に思いを廻らせることは大切なことなのかもしれません。 


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固有概念と共有概念の差違

 四日ほど、更新をお休みしてしまいました──;
 時代の変遷による影響もあるのか、色々と内面模索に入っていた為、アウトプットはしばらくお休みを頂いた次第です。
 正確に言えば、こうした内面模索の状態は9月に入った辺りから始まっていました(更新頻度を見て頂けますと、一目瞭然かもしれません。ガクッ……と更新日が減っていますので──)。浮上してはまた模索に入り、また浮上してはまた模索──の繰り返しを重ね、何度目かの模索期間だったのですが、漸く一区切りついた「かな?」といった状態です。
 とはいえ、真理探究は「波乗り」みたいなものですから、波に逆らっていると見えるものも見えなくなります。模索期間が来たら、それを無理矢理はね除けるのではなくそのまま受け入れ、波に従いながら状況を見据えていくのが一番浮上への近道のように思っています。
 何事も、「リズムに従う」のが一番いいのでしょうね。

 それはさておき。
 ここ三ヶ月程、私は固有概念と共有概念の差違について考えていました。
 この比較を考えるようになったきっかけは、マオリッツオ・カヴァーロ氏への質問状に返ってきた答えでした。(私の質問を含んだマオリッツオ・カヴァーロ氏のインタビュー本は、10月28日にヒカルランドさんから出版されます。詳しいことはまた後日、改めてお知らせ致します。)
 私が求めているのは「高次元システム」ですが、12日間クラリオン星に滞在したというカヴァーロ氏の体験談は、高次元システムを探究する上でまたとない情報です。その為、クラリオンやその他の惑星における政治システム・統治システムなどを質問させて頂いたのですが、頂いた返答を読んでいるうちに、地球と高次元惑星における「徹底的な差違」というのを感じた次第です。

 根底にある差は、この星が二元論によって出来ているということです。

 二元論によって対立概念が生じるということは今更のことですが、それとは別に固有概念共有概念という二つの差が地球人にとっては拭えない問題なのだ、ということに気付いたのです。

 これは本当に大きな差なのですが、世の中「固有概念に囚われて生きている」ということがスポイルされてしまっているので、なかなかこの差には気付きにくいようです。
 本やブログでも再三言ってきたことではありますが、科学的データ・歴史というものも、実際には完全な共有概念ではなく「固有概念を形にして、互いに認識し合っているだけ」に過ぎません。
 例えば、誰かが意図的に歴史を改ざんしたとしましょう。しかし、私たちは誰もその歴史を体験しているわけではありません。だから、「これが歴史だ! これが事実だ!」と言われたら、その言葉を信じるしかないのです。
 歴史も科学的データも常識も、私たちにおける「共有の体験」ではなく、あくまでも「共有の情報」でしかないのです。

 これは、私たち地球人における「究極の問題」だと、そう思いました。
 どう足掻いたところで、私たちは通常「固有概念」の中で生きていくしかないのです。
 だからこそ、対立・摩擦というのはついて廻ります。人は「自分が抱いている固有概念こそが全てだ」と思いこみやすく、それとは異なる概念を持つ人と摩擦や亀裂を生じます。本当は「固有概念を超えた向こう側にこそ、本当の真理がある」にも関わらず──。

 カヴァーロ氏にした質問の返答に寄れば、高次元の存在達はそうした固有の意識にはなることがなく、常に共有の中で意識を解放しているようです。
 だからこそ、彼らは疑念もなく偽りもないのでしょう。最初から「共有」なので、隠しごとのしようもないからです。
 しかし、私たちは「固有」だからこそ、疑念も持てれば嘘もつける──この差は、とても大きいです。

 高次元のシステムを地球で活かすには、まず大前提として「固有概念の檻」から出なければなりません。
 しかし、私は「決して、無理な話ではない」ような気がしています。
 そのいい例が「共時性(シンクロニシティ)」。
 シンクロというのは、説明のしようがない「一致」です。いえ──むしろそれを理屈で説明しようとすると、かえってよく分からないことになるでしょう。三次元のロジックを超えたところに、その一致があるからです。
 よく聞く話としては、親族が事故にあう前やあったその日に、親族の死を知らせるような現象がある──など。
 虫の知らせなどともいいますが、実際には「固有概念から解き放たれた意志が、互いに伝達し合っている現象」なのだと私は思います。
 霊が知らせる、と言った場合にも同じことでしょう。一方が霊になっていても、どのみち生きている側が「霊の知らせを受けられる状態(固有を外した状態)」になっている必要があるので。

 もしもこうした固有状態から解放されたら、おそらく世の中の価値観、考え方、すべてが一転するはずです。
 そしてその片鱗は、少しずつ見えてきている──。
 特別な能力なんかなくても、みんな当たり前に共時性を感じていることを思えば、すべてのことが「共有概念」になれる日も、決して遠くはないように思えます。
 そうなって初めて、高次元のシステムは地球に適応出来るのかもしれません。


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プロフィール

篠崎由羅(しのざきゆら)

Author:篠崎由羅(しのざきゆら)
1970年生。幼少期から哲学・宗教学に造詣を深める。思想および思想史、それに付随した国際事情に興味を抱いて独学を続け、大学ではインド哲学科専攻。東西問わず、両者の思想に渡り研究を深める。

現在は看護師として施設で勤務しながら、その傍らで執筆活動を続けている。2016年11月にYOU are EARTH改め「WE are EARTH」の活動を再始動予定。より良い未来の地球のため、全力を尽くす誓いをたてている。

【篠崎編集担当】


【篠崎の著作本】

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