人は何故、祈るのか?

 以前も記事にしましたが、相変わらずドラマ「SUPERNATURAL」にハマっています。(参照記事:地獄は本当にあるのか西洋と日本における神と悪の概念
現在、エピソード完結部分であるシーズン5を見ている途中ですが(とはいえすでに続編が、アメリカでは放映されている模様)シリーズの前半に比べて、ことさらに「何が正義で、何が悪なのか」が主題になっている印象を受けます。

 こうした対極の二元性を求めたがるのは、アメリカ人の特徴かもしれません。日本人である私たちは、「すべてのものごとは簡単に善悪で割り切れるものではなく、善も悪も表裏一体の関係にある」という考え方をする傾向があります。その為、見ている中でどうしても首を傾げてしまうようなところもあるのですが、そういう部分もまた「民族性の違い」と思うと、興味深く受け入れることが出来ます。

 私がこの作品を見ていて不思議だったのが、「キリスト教文化である西洋人の方が、実は日本人よりも『神は死んだ』と思っている人が多いのではないだろうか?」という疑問でした。
 勿論、信仰としてのキリスト教は存続しています。しかし、心の内側ではプラグマティズム(実用主義)的発想の方がメインとなっていて、本心から「神に運命を託す」という信仰心ある生き方をしている人というのが、とても少なくなっているのではないか──と、このドラマを見ていて感じた次第です。

 そもそも、「神」とは何でしょうか?
 何故、私たちの思想の中にこれほどの絶対的存在感をもって、言語の違い、文化の違いを問わず、私たちの探し求める対象となったのでしょうか?

 その疑問を解いていく為に、まずは宗教のきっかけを想像してみましょう。
 当時、文化も文明もない時代において、絶対的な脅威であった対象は自然でした。
 人間の努力や意図に関係なく、寒波や日照り、或いは洪水などが突如訪れ、人々の住居や生活空間をなぎ倒していく──そんなことが、何度も繰り返されてきたことでしょう。ですから、当時の人々にとって自然は決して優しい存在ではなく、むしろ「脅威」に近かっただろうと推察出来ます。
 そうした脅威を鎮める為、祈るという行為が始まったのでしょう。
 その習慣がやがて「宗教」という流れを生み出したのは、想像に難くありません。
 場合によってはそうした祈りが、生け贄を必要としたこともあるでしょう。
 でも、それだって無理のないことです。何故なら、自然を「脅威」と感じた場合、そこに現れる祈りの背景は「恐怖から派生したもの」に過ぎないからです。自然の恵みに感謝する為の祈りも、勿論あったことでしょうが、おそらくそうした祈りは、比較的災害が少なかったり環境に恵まれた場所に限定されていたのではないかと、私は考えています。

 人類にとって「自分たちの努力では抗えない、絶対的な力」が存在しているうちは、祈りはその効力を維持していました。
 災害はもとより、疫病、飢え──そうした突発的事象が起こることに対し、人々は常に祈り続ける必要があったからです。 
 でも、「だとしたら、何故」、今でもその習慣が残っているのでしょうか?
 人類は文明を生みだし、脅威だった自然は、もはや恐怖の対象ではなくなった。宮崎駿監督の映画「もののけ姫」のラストに出てきた自然のように、それは人間と共存出来る姿に変わってしまい、もののけ達がいた恐ろしい自然は、すでになくなりつつあります。
 しかしそれでも祈り続けるのは、一体何故なのでしょうか?
 本来私たちは「自分たちの生活を、脅かさないで欲しい」と祈る必要性など、どこにもないのではないでしょうか?
 
 とはいえ、人類は未だ自立したとは言いきれません。
 冒頭で紹介したドラマの中では、ことあるごとに「神は死んだ」という台詞が出てきます。中には大天使が、「20世紀に比べて、21世紀が格段に良くなったとは思えない。これほど人類が無秩序化している現状をみれば、答えはひとつ。神は死んだとしか思えない」と言ったニュアンスの言葉を残していたり、或いは「人類が最終戦争に巻き込まれているというのに、神は何もしてくれない」というニュアンスの言葉が出てきたりします。
 私はこのドラマが好きですが、こうした言葉が出るたびに「それは、人類側の『依存』ではないだろうか?」と疑問に思えてしまうのです。

 今の時代、私たちに必要なのは「私たちを試みに合わせないで欲しい」と神に祈ることではなく、自分の足で立って、同じ星の上に住む兄弟達を助ける為に活動をすることなのではないでしょうか。
 そして神に捧げるのは感謝の気持ちだけで、充分なのではないでしょうか?
 それこそが、新たな時代を切り開く為に必要な「人類の姿勢」なのではないかと、私には思えるのです。
 
 幼い子供のうちは親が守ってくれたように、幼い人類にとっては、祈る対象である神が必要だったでしょう。
 でも、ここまで科学や文明を発展させておきながら「神様、助けて」というのは、ゲーム機だのインターネットだのを自由に使いこなしながらも「お母さん、お小遣いちょうだい」と言ってる大人と大差ないような気がするのです。
 神に祈るべきは日々の報告であり、感謝の気持ち──ただそれだけで、いいような気がします。
 
 ちなみに。
 「だったら、神って結局何??」そう思っている方も多いでしょう。
 それに関しては、明確な解答が出せません。
 そもそも、「神」というのは私たちが認識する上での「言葉」でしかなく、実存を示したものではありません。言葉は如何様にも表現され、また歪曲もされ、対立要素にもなりかねないところがあるからです。キリスト教信者における神はヤーウェであり、ムスリムはアッラーであり(キリスト教もムスリムも、根源的には一緒ですが)、神道であれば天照大神かもしれない。
 言葉で定義する以上、神は「無数にいる」としか言えませんし、また、私たちは言葉を通じての表現方法しかない為に、実存そのものを顕すことが出来ないのです。あえて言えば「無数」であり、「相対的」である──存在する人類の数だけ、「神がいる」とも言えてしまいます。
 なので、皆さんそれぞれにとっての「神」がいて、正しいわけです。「あなたの神は、嘘の神様だ」「いや、あんたが言ってる神こそ、嘘の神様だ」ということは「起こり得ない」のですから。

 なので、あくまでも私個人の考えを言うとしたならば──
 神とは生命そのものではないかと、そう思っています。
 あらゆる生命の中に含まれている、永遠の法則性。そこに目的はあっても、人格はない。ましてや、一部の民族だけを「えこひいき」するようなこともない。ひとつの血族を特別視することもない。
 そこにあるのは「感情」ではなく、絶対的な「愛」であり、同時に「冷徹さ」でもある。何故なら、生命は「愛」ばかりではなく、場合によっては冷徹に感じられる側面もあるからです。自然などは、そのいい例かもしれません。
 私たちは「神の写し鏡(生命の写し鏡)」であり、「神の一部(生命の一部)」であり、かつ、どんな生物にも、神は宿っていると言えるように思っています。

 子供がいつしか独り立ちして大人になるのと同じように、私たち人類も「親(神)に祈って助けてもらう」という考え方をやめて、自分の足で立ち上がることが必要なのではないか、そう思えます。
 子供が大人になって初めて親の気持ちが分かるようになるのと同じように、人類もひとりだちして初めて、本当の意味で「神と向き合える(神を知る)」ことが出来るのかもしれません。


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2010-11-29 | 真理 | トラックバック(0) |

理想が問われる時代


「天使と人間(シュタイナー天使学シリーズ)」 著/ルドルフ・シュタイナー イザラ書房(99~103より引用)

 死後人間が比較的長い時間を過ごしたあと、まさに重要な瞬間がやってきます。このとき天使は、既にお話したような理想主義的な体験を通して私たち人間から受け取ったものを、大天使の手にゆだねるのです。人間はいわばアルヒアンゲロイ(大天使)の世界の前に立たされ、大天使は人間が既に誕生と死の間に霊的かつ魂的体験に関して発達させておいたものを受け取ることができます。私たちが死の門を通って運び込んだものを、天使は更なる宇宙進化のために大天使に手渡さなくてはならないのです。ところが人類進化のいまの時点では、理想主義的な感情や思考、そして人類愛に関して、死後ほとんど何もたずさえて来ない人々がいます。そのために死から新たな誕生までの時期に、人間一人一人の間には大きな相違が生じることになるのです。

(中略)

 死を通して、理想主義的な思想や、理想主義的な感情や、人間愛や、真の純粋な敬虔さに属するものを何もたずさえてこなかった人の場合、霊的なものや魂的なものの一部が、高次の世界の反感や、高次の世界の冷たさのために、消滅してしまっています。正しい方法で霊的かつ魂的にアンゲロイの領域に到達する人には、これから後再び地上で歩むことになる人生において、肉体の中に入り込みながら活動するための力が、霊的で魂的なものの中に内的に植え付けられます。これに対してアンゲロイは、このような魂や霊に関わる体験をたずさえてこなかった人には、地上の人生への憧れを、それがより無意識的に作用するように植えつけなくてはなりません。そしてこのような植えつけが行われるときに、極めて多くのことが決定されます。つまり、このような植えつけに際して、「次の地球上での人生において、どの民族のもとに降りていくか」、また、「どの言語の、どの母国語のもとに降りていくか」といったことが決定されるのです。そして、このとき、民族や母国語へのこのような衝動が「より内面的に植えつけられるか」、あるいは「より外面的に植えつけられるか」といったことも決定されます。その結果、「人間が地球上に降りていくときに、母国語への内的な愛によって貫かれているか」、あるいは「後に言語器官を用いて言語として表現しなくてはならなくなるものの中へと、より機械的に移されるか」という違いが生まれるのです。
「人間が言語に関して、この二つのうちどちらの方法で決定されるか」ということが、次の地球上での人生において大きな違いを生みだします。新たに地球上での人生を始める前に、アンゲロイの領域を二度目に通過していくとき、内的に、魂的に、そして愛情豊かに母国語への思慕の念に満たされている人は、この母国語を内面的に受け入れます。このような人は、母国語を自分の本質の一部分のように受け取るのです。(中略)
 ところが別の方法で適合していく人は──このような方法を、私は先程「より機械的に」と言いました──後に誕生を通して次の地球上での人生へと降りていき、地上に到達したときに、ただ本能的に、衝動的に言語を愛することを学ぶことになります。(中略)
 ある場合には、私たちは静かで純粋な愛と共に国民性に、そして言語の関係に適合していきます。このような愛は、民族性や言語と内的に結ばれている人だけが持ちうるものです。また別の場合には、私たちは言語や民族に、より機械的に適合していきます。その結果、私たちは衝動や本能の中から民族や言語に対する内的な愛を、無理矢理生じさせるのです。
 この二つの間には大きな相違があります。前者は世に言うショービニズム(※1)、つまり民族性の外面的な主張として現れることはありません。前生における理想主義的で敬虔な体験の中から実際に獲得された、民族や言語への内的で霊的かつ魂的な愛ごく自然に姿を現し、真の普遍的な人間愛と一つになることができます。四海同胞主義(コスモポリタニズム)的な、あるいは国際主義(インターナショナリズム)的な感覚が、言語と民族性に向けられたこのような霊的で魂的な愛によって歪められることは決してありません。これに対して、人間がより機械的に言語を適合することによって、言語や民族性に対する過熱気味で、有機的で、動物的な愛を本能や衝動と共に発達させる場合には、間違ったナショナリズムや、ショービニズム的な考えや、外面的な方法で民族性を自慢しようとする傾向などが生じるのです。

※1 熱狂的な愛国主義や民族主義を表す言葉



※注※天使という表現が含まれていますが、これを文字通り解釈するのではなく、あくまでも「シュタイナーの時代において妥当な表現だった」と捉えた方がいいと思われます。天使と言ってしまうとキリスト教的世界観しか通用しないように思われてしまいますが、いわば高次の霊、或いは高次生命体とお考えください。

 上記引用した箇所はシュタイナーの講演録「人間と天使、および高次のヒエラルキー存在の関係(1921年11月27日)」に含まれていたものです。講演内容の為、多少読みづらいかもしれませんが、私はこの中に現代を如実に描いた部分が含まれていると、そう思いました。
 本来はその前文においてもこの箇所に関連することがあるのですが、引用するには長すぎる上、かえって煩雑になるので省きました。要約して言えば、「人間は死後、天使(アンゲロイ)の領域と大天使(アルヒアンゲロイ)、そして根源なる者達(アルカイ)の元へと誘導されるが、生前理想主義的な生き方や思考に貫かれたか否かによって、来世における人生に差違が生じる」といった内容です。どのような差違になるかは、上記引用した文章に書かれてあるとおりです。

 私は昨今、よりグローバルに視野が広がる人たちと、ナショナリズム的になっていく人たちの二極化が激しくなっているように感じていました。勿論、このナショナリズム(国粋主義)化は日本に限ったことではなく、欧州などの各国でも進んでいるようです。
 何故、この時代にそのような二極化が進んでいるのか──人類は、実はすでに誤った道を選択してしまっているのではないだろうか、そんな迷いも頭をもたげます。
 しかし逆に言えば、こういう時代だからこそ、真の理想が問われるのかもしれない、そうも思います。

 口先だけで「戦争反対」「みんなで平和を」というのは簡単です。
 でも、実際に緊迫したギリギリの局面に置かれてもなおその言葉を叫べるかどうかと言えば、それはその人の勇気と信念が試されている──そう思えるのです。
 北朝鮮と韓国の緊張状態、ちょっと前までは中国と日本の問題──。
 時代は矢継ぎ早に、人類にむけて課題を投げかけていきます。
 それに対して、私たちが「どう向き合っていくか」──それは政治家の問題でも官僚だけの問題でもなく、私たちひとりひとりも「同じ星に生きる人類として」考えなければならないことだと、そう思います。具体的な行動に出なかったとしても、考えるだけで、話題にするだけで、何かが少しずつ変わっていくはずです。
 誰もが地球の細胞であり、誰もが地球の未来を創造していくことに関与しているからこそ、無関心でいてはいけないと思うし、また同時に「どんな人だって、無力ではない」そう思えるのです。

 今までにない程、国際情勢が緊迫しつつあるからこそ、「自分は、何を目指して生きていくか」が問われる時代になっているのだと思えます。
 私は、最期まで「地球そのものがひとつの生命体である」という考えを貫きます。どんなに視点を変えてみたところで、それ以上の答えが「ない」からです。
 何故、国境というものがあるのか──幼少期に地球儀を見て抱いた疑問は、未だに私の中で残っています。そして、その疑問が今の情勢すべてに響いていることも、実感しています。
 神の賽の目はすでに振られているのかもしれませんが、私は「地球はひとつの大地であり、ひとつの生命体であり、そこに生きるものはすべて兄弟である」という考えを貫いていこう──そう思っています。


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【参考文献】
天使と人間 (シュタイナー天使学シリーズ)天使と人間 (シュタイナー天使学シリーズ)
(1995/07/25)
ルドルフ シュタイナー

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隣人に「神性」を見よ

 「神性は、誰の内面にも備わっている」と言われるようになって久しいですが、この言葉は聞き慣れたとしても「他者の内面にも、神性が備わっている」という言葉を改めて聞いたことはそうそうないような気がします。
 しかし、こうしてスピリチュアル、精神世界が人々の日常に浸透した今だからこそ、他者の中に神性を見ようとする努力が、必要なのかもしれません。

 最近の世の中は、周囲に対する思い遣り、相手を気遣うこころに欠けているきらいがあると思えます。
 三ヶ月ほど前のことですが、夏休みの最中、地下鉄に乗ってきた親子連れに向かってOLの女性が「降りるよう」促したという記事を見かけました。
 もともとはTwitterで「実際にあったこと」として呟かれていたことから話題となり、ネット上で物議を醸したそうです。
 私も長いこと遠距離通勤を体験してきた身なので、これから仕事に行くという時に親子連れが乗ってきて賑やかにされると、げんなりしてしまうという気持ちはよく分かります。私の場合、一本の電車に約2時間近く乗っていなければならなかった為、その大半の時間に仮眠も出来ず、子供のにぎやかな声を聞きながら過ごさなければならないという状態にあると、憂鬱になることさえありました(苦笑)。
 ですので、そのOLの気持ちも「分からなくもない」のですが、しかし実際にそれを口に出して親子連れを下ろすという行為に出るのは、別問題だと、そう思います。
 何故、その時僅かにでも、相手のことを思い遣ることが出来なかったのでしょう? 電車から下ろすことで、もしかしたらその母子連れが予定していたスケジュールを強引に変更させることになるかもしれない──そのことがトラウマになって、お母さんが子供を電車に乗せることが出来なくなるかもしれない、そうは思わなかったのでしょうか? 何故、一言「すみません。もう少し、静かにして頂けませんか」という声かけだけですまなかったのでしょうか?

 こうした「小さな思い遣りに欠ける行動」というのは、最近、枚挙にいとまがないように思えます。
 こういう社会の中で、どんなに自分の内面に神性を見出したとしても、何も変わらないのではないか──或いは、かえってその人自身を傲慢にさせ、他者を見下すような行為に出るだけなのではないか、そんなふうに思う時もあります。

 でも、もしも「他者に、神性を見出すこと」が出来たら──?

 内面に神性を見出すことよりも、他者に見出すことの方が難しい──そう思います。
 人は、いつでも「自分」を防衛する為に生きているところがあります。それは生物的な本能として、仕方がないことだとも言えるでしょう。
 一時期よく言われた「アダルトチルドレン」や、リスカなどの自傷行為も、結局は自分の内面における「表現欲求への抑制」や「個性の否定」といったものが歪んだ形で露呈されてしまっただけだと、そう思います。決して「捨て身な行為」というわけではないでしょう。
 多発する若い人たちの自殺も、結局は社会との軋轢の中で「自己の境界を守る為の死」と言えるもので、決して他者や社会の為に死んでいるわけではありません。あくまでも「自己防衛としての自殺」です。

 そう考えると、私たちは今からでも「他者の神性を見出す」という努力をする必要があるのかもしれません。
 イエスは「隣人を愛せ」と言いましたが、それと同じように「隣人に神性を見る」──。
 ……言うは易しですが、「行うは難しの典型例」だと思います。
 しかし、もしそのことが出来たら──社会や周囲を見る目は、大きく変わっていくはずです。難しかったとしても「隣人に神性を見よう」と努力するだけでも、何かが変わっていくでしょう。
 それは必ずしも隣人とは限りません。家族は、「もっとも身近な隣人」ということも出来るでしょう。自分以外の対象であれば、すべては「隣人」に含まれると考えたっていいはずです。
 そして、皮肉なことに内面にすでに神性を見出した人でなければ、隣人にも神性を見出すことが出来ない──要するに、隣人の神性を見出すという行為は、翻って「自分の内面にもそれを見出す」ことになると、私は思います。

 神性──とここでは書いていますが、仏性でも同じことです。もともと仏教では、そうした言葉が教えの中にありました。

「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅうじょうしつうぶっしょう)」

 大乗仏教・天台宗の教えですが、「生きとし生けるすべての者に、仏性は宿っている」という考え方です。昔の日本人であれば、それを生活や日常の中に体現して生きていたことでしょう。

 私たちに今必要なことは、他者の中に神の灯を見ることや、日常のひとこまの中に小さな気づきを見つけること──それに尽きるのかもしれません。
 それは決して、グローバルな世界の動きや宇宙全体の動きを「見なくなる」というものとは違います。星々を動かす天体の「法則性」と、野に咲く小さな花の生命を存続させる「法則性」。これは同じ、ひとつの法則性だからです。
 先日も話したように「宇宙の構造がマトリョーシカ」であるならば、私たちが日々行う「小さな行為」も、自ずと「大きな世界に及ぶ」──宇宙に波及するものだと言うことが出来るはずです。
 身近な隣人に「神性」を見出すことで、その波及は結果的に「地球上の人々が手を繋ぎ会える第一歩」へと、広がっていくのかもしれません。 


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空気を読む

 KY──という言葉を耳にするようになってからさほど経っていませんが、短期間でこれほど周囲に浸透した言葉も珍しいように思います。
 もともと流行語にはあまり興味のない私ですが、何故かこの「KY」に関しては割と普通に使っているような気がします。テレビでコメンテーターなどが的の外れたことを言ってたりするのを見ながら「KYなコメントだよなぁ」なんて呟いたりなど、利用頻度はかなり高めかもしれません。
 おそらく、みなさんも同じではないでしょうか。通常の流行り言葉よりも、何故か自然に使ってしまう「KY」という言葉。
 実はそれほど、日本人が「空気」というものを身近に感じていることの証なのかもしれません。日本人ほど「空気」という言葉に敏感な民族性も、そうそういないのではないかと思える程です。

 先日、「空気の研究」という論文を発表した山本七平氏のことをご紹介しましたが、日本人が「空気」というものにどれほど従順だったかについては、特筆するまでもないでしょう。
 また、以前の記事で「日本人は伝導体気質(液体気質)」と書きましたが、結局この「伝導体気質」になるには取り囲む空気に敏感である必要性があったからなのかもしれません。というよりも、「伝導体気質」であるが故に「空気を読む」のか、「空気を読んでいた」から「伝導体気質」になったのか──どちらが先かは、分かりかねますが。
 そして面白いことに、戦後を境に教育や文化、生活スタイルがまったく変わっても、日本人の中にある「空気を読む」という習性は「変わってない」から不思議です。特段そういう教育を受けたわけでも、家庭環境の中で「空気を読みなさい」と教わったわけでもないのに、何故、私たちは無意識のうちに「空気を読む」という習性を身につけたのでしょうか?

 民族の特性は、「文化だけに馴染むのではなく、風土や言葉に馴染む」と、私は考えています。
 私たちは母国語として日本語を使いますが、日本語を使っている以上日本語の文法を無視した論理構造を思い浮かべることは不可能ですし、また日本語の単語にないものを表現するということも不可能です。その理由は、私たちが何かを表現したり伝えようとする時にはどうしても言葉に頼らざるを得ず、そうである以上、自分が使っている言語による拘束というのは自ずと受けてしまうからです。(そういう意味で、文章書きは真理を伝えるのに制限が多いです。むしろ画家などの方が、率直に表現出来るかもしれません。)

 日本人がいつのまにか身につけた「空気を読む」という特性も、もしかしたら「日本語」や「風土」の中に芽生えさせる要因が含まれているのかもしれません。英語などの場合ですと非常に文法がしっかりしていて、語順が違うだけでも相手に通じないことがあったりします。しかし、日本語は多少語順が違っても、雰囲気で──それこそ空気で相手の言いたいことを理解することが可能です。
 そう考えると、この「空気を読む」という習性は、日本語を使っている時点で自ずと身についたものなのかもしれませんね。風土の生み出した「季節感」もまた、日本人の「空気に敏感な感性」を生み出すことに一役買っているような気がします。

 今の時代のように「何かが変わっていく流れ」にある中で、日本人の持つ「空気を読む」という習性は、うまく活かせばとてもいい働きをするように思えます。
 しかし、逆に「悪い廻り」の方で感受してしまうと、悪循環になってしまう危険もあります。固形物に汚泥を落としても一点の染みだけですみますが、液体に汚泥を落とすと瞬く間に浸透していくのと同じことです。
 いいものも浸透が早く、悪いものも浸透が早い──それが、「空気を読む」特性を持った日本人のサガと言えるものかもしれません。

 そうした「液体気質」をうまく活かすには、「深海の意識」でいることが大切だと思います。
 先に挙げたように、液体気質の特徴として「いいものも、悪いものも浸透しやすい」というのであれば、もうひとつの特性である「流す」という作用を活かすことも出来るはずです。嵐の中、水が濁ってしまう時には深海の意識と繋がり、平常心でその嵐を受け流す──まるで「柳の強さ」のようですが、それが元来「空気を読む日本人」の、もっとも分かりやすい長所なのではないでしょうか。

 KYという言葉が流行った根源には、「空気を読める感受性」を持った自分たちの民族性が描かれているのだと、私は思います。
 その良さをうまく活かしながら、これからの時代──国の在り方、そして、国際社会との在り方を考えられるような生き方をしていきたいものですね。 


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映画「2010年」

 皆さんは、アーサー・C・クラーク原作の映画「2010年」をご存知でしょうか?
 私はSF映画が大好きですが、ダントツで好きなSF映画を挙げろと言われたら、迷いなく「2010年」を挙げるでしょう。スターウォーズ(は、同じSFでもScience FictionというよりSpace Fantasyかな)やコンタクト、ソラリスなど素晴らしい作品は他にもありますが、観ていて唖然とさせられた映画、そして「結末がまったく予想出来なかった映画」は、未だかつて「2010年」しかなかったからです。少なくとも、精神世界系の方(特にアセンションに興味がある方)が観るのであれば、前作の「2001年宇宙の旅」よりも、私は「2010年」の方を断然お薦めします。

 この映画は、今から26年ほど前──1984年に上映されました。当時まだ中学二年生だったのですが、友人と一緒に映画館まで観に行ったのを覚えています。
 ……が。
 とてもではないですが、当時の私にとってはチンプンカンプンで……(汗)。友人と二人揃って、始まってから20分もしないうちに爆睡してしまいました。同時期に上映されていた「ネバーエンディングストーリー」と「2010年」、どっちを観るか悩んだ末、私の意見により「2010年」を観たにも関わらず──友人には本当にすまないことをしたと、今でも申し訳なく思っています……。

 もっとも、あの当時仮に私が内容を理解出来る大人だったとしても、2010の内容は絶対に「理解出来なかった」──そう思います。
 あの映画の理解は、理性などが司るものではなく直感によって得られるものだと、そう思うからです。

 前作の「2001年宇宙の旅」は、どこかに「謎」を秘めていつつもテーマ自体はそんなに複雑ではなく、演出によってそれをぼかしている印象を受けました。SFというよりもミステリー作品に近い感じで仕上がってしまっており、(当時の作品としては素晴らしいですが)SF作品としてのテーマ性を重視する私としては、いまひとつの感が拭えませんでした。
 ところが次作の2010年は、前作を踏襲しつつも、それを上回ったメッセージ性が籠められている──そう思いました。それだけじゃなく、この作品を本当の意味で理解するには、今、この時代にならない限り「無理」だったんだということを、思わずにいられないのです。

 当時は時代が時代だった為、物語の基盤となる設定が「米ソ冷戦問題」を中心に作られているので、多少古い感覚は拭えないかもしれません。
 しかし、未だに国家間同士が対立し、一触即発の事態があちこちで起きていることを思えば、「2010年」に出てくる米ソの対立も、必ずしも過去のものとは言い切れません。ソ連がなくなったというだけの話で、未だ水面下における国際情勢は、当時と何も変わっていないかもしれませんので。

 私がこの映画を改めてみたのは二ヶ月ほど前の話ですが、正直言ってとても驚きました。
 カヴァーロさんの言っている「通常、宇宙は太陽がふたつある二重連星系が一般的だが、地球を取り巻く太陽系だけが異例」ということを証明するかのようなラスト。そして、「その太陽系の変化」があったが故に、地球の在り方も大きく変わるという展開。まさしくアセンションを感じさせるような内容なのです。
 私が上記、「上映当時、仮に理解出来る大人として行っていたとしても、絶対に理解出来なかっただろう」と言っているのは、そのためです。アセンションという言葉を知らない状態で観ていたら「ふ~ん。アーサー・C・クラークって奇想天外な人なんだね~」だけで終わってしまったでしょうから。

 それにしても。
 「2010年」って、今年のことなんですよね(笑)。
 2001年にも残念ながらモノリスが月面で発見されることはありませんでしたが、少なくともすべてのことが2001年というミレニアムを境に変わってきていることを思えば、2010年に描かれている内容もいわば「象徴的なことで表されている」のかもしれません。2010年になって初めて、この映画の意味が理解されるという意味で──。あくまでも、私の憶測でしかありませんが。

 私は「奇跡を待つ」よりも、「自らの力で、奇跡に近づくよう努力をした方がいい」というタイプ故、2010年に出てきたようなモノリスの奇跡が起こることを、決して祈ってはいません。
 しかし、「こうした発想がある」ということを思うだけでも、「奇跡に近づく為の努力を、絶え間なく続ける人たち」にとっては、ひとつの勇気に繋がるような気がします。
 ラスト場面に出てくる地球上の美しい光景を見たら、それだけで「奇跡に近づける努力をしたい」──そんな気持ちにさせられます。

 観たことがない方は是非、GYAOで無料動画配信している間にご覧になってみてください。(残念ながら、前作の動画配信は終わってしまったようです。前作を観ていないと意味不明なところもあるかもしれませんが……前作との絡みを熟知していなくても、作品ラストのメッセージは伝わると思います。)


映画「2010年」
http://gyao.yahoo.co.jp/player/00597/v09943/v0991500000000541760/


【お知らせ】ここ数日体調を崩していた関係で、小説更新が出来ませんでした。第四章(1)は、18日に公開延期となっております。ご迷惑おかけいたしますが、今しばらくお待ちくださいませ。
尚、まだすっきり体調が復活していないので、今回も「第二の地球」の連載が再開出来ませんでしたこと、何卒ご容赦ください──。


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2010-11-15 | 映画 | トラックバック(0) |

「このような時代」にこそ、心の余裕を。

 最近多忙な日々を送っている関係で、なかなか更新が出来ず申し訳ございません──;

 11月に入ってからというもの、またもや時間の流れが一段と速くなっているような感がありますね。
 その関係で焦りを感じられる方もいるかもしれませんが、私的には「何も焦る必要はない」──そう思います。中には「早急な目覚め」を叫ぶブロガーさんもいらっしゃるようですが、私の立場として明確に言えることは、このブログでは読者の方を煽るようなことや、「目覚めなければならない」的な言葉を「使いたくない」ということだけです。
 
 そもそも目覚めというのは、もっと「静か」に訪れるものだと、私は思います。
 ふとした「気づき」──。それこそが、目覚めだと思うのです。
 かつての僧侶達が至った「覚りの瞬間」は、決して「劇的!」ではなかったと思います。仏陀にしたって、苦行の最中に「ふとした日常のひとこま」の中で、覚りに至ったのですから。
 目覚めというのは、そうした当たり前の日常にこそ、あるものなのかもしれません。
 それは、木の葉が風にそよがれる中で起こるかもしれないし、青い空を横切るように飛行機雲がまっすぐ伸びていくその瞬間に、起こるかもしれない。
 私たちが普通に起きる時だって、けたたましい目覚まし時計によって起こされるよりも、小鳥たちの小さな囀りで目覚めた方が遙かに気分がいいのと同じように、精神の目覚めだって他者から言われるよりも、自らの「気づき」で至る方が遙かにいいだろう──私は、そう思っています。
 そして、これからの時代はそうした「自発的な気づき」こそが大切になってくる──そう思えるのです。

 自発的な気づきに必要なことは、多くの情報や知識を拾い集めることではなく、ほんの些細な現象に対して、如何に感受性豊かに受け取れるかということなのかもしれません。
 何度もここで書いた例ではありますが、かつての日本の歌人達はそうした意味で「とても優れた感受性を持っていた」と思います。
 時間の流れが速くなっているからこそ、遠くまで澄んだ青空を仰ぎ、太陽の光を受け、木々の小枝のささやく音や小鳥のさえずりに耳を澄ます──そんな心の余裕が必要なのだと思う、今日この頃です。


【お詫び】
なかなか「地球の未来」の連載が再開出来ず、申し訳ございません; 今しばらく、お待ちくださいませ。

【お知らせ】
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もしも、篠崎からの返信希望でメールをお送り頂き、まだ返信が届いていないようなことがありましたら「文字化けしてしまっている可能性」がありますので、恐れ入りますが「y-shinozaki☆you-are-earth.com」(☆→@に変換)までご一報ください。


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2010-11-11 | 雑談 | トラックバック(0) |

戦争と紛争が残すもの─戦場シミュレーション─

 1994年に起きた「ルワンダ紛争」──皆さんは、ご存知でしょうか?
 私が知ったのは1994年の5月以降。ちょうど4月にフツ族による「ツチ族の虐殺」が起きた後のことでした。中東紛争のように大きく取り上げられてはいませんでしたが、当時毎週読んでいた「Newsweek」に特集が組まれていたのをきっかけに、調べるようになりました。
 しかし、ツチ族とフツ族が「何故、そのように長い間、戦い続けているのか」その明確な理由までを、知ることは出来ませんでした。後になってから、そのきっかけは「ベルギーにおける植民地時代に端を発している」ことを知ったのです。

 ですが、いざ戦争・紛争になった場合、もう最初のきっかけなど、関係なくなってしまうものです。
 最初のきっかけが改善されたから、じゃぁ「過去はすっきり水に流して、みんなで仲良くやれますか──?」と言えば、そうとは限らないことぐらい、もう誰もが周知のことでしょう。戦争や紛争が残すのは傷跡だけ、或いは昔の古傷に、塩を塗り込んで悪化させることだけなのです。

 捕虜が自ら穴を掘り、その中に入って上から土をいれられ「生き埋め」にされる──ということは、戦時中はもとより、紛争の続く国々では未だに続いていることです。
 当時私が読んだ記事のインタビューに答えていたツチ族のひとりは、親、兄弟を殺され、「フツ族全体が仇」と言っていました。先程述べたように、いざ一度戦いが起きたなら「きっかけは、関係なくなってしまう」のです。
 残るのは、憎悪。ただそれだけです……。

 そうした場面を、少し想像してみましょう。(※注意※ 残酷な場面が苦手な方は、以下の青字部分を飛ばしてお読み下さい。)

 ある日突然、あなたの隣に住む人が、敵となりました。

 隣人が、いきなり敵となる──そういう設定は、オカルト映画などでもありがちですが、実際のところアイルランドなどでは「それが架空話ではなく、真実」だったりするのです。未だに紛争の続く地域で「隣人がいきなり敵となる」ということは、決して非常識な話ではないでしょう。
 また、地方では隣人と言えば身内同様の関係だったりしますが、都会では「隣に誰が住んでいるのかも知らない」なんて状況はごまんとあります。なので、私がこういう話を振っても中には「いや、隣人には何の感慨も湧かないから」と思われる方がいるかもしれませんね。

 では、その人と会って「戦うことになった」としましょう。(自分の心情と向き合う為に、出来るだけリアルに想像してみてください。)
 その時浮かぶのは、「こいつと戦うことになったのは、かくかくしかじか、政治の絡みが云々かんぬんで、こんな展開になったからそもそも──」など、まわりくどいこと考えますか?
 ……考えませんよね。
 あるのは生きるか、死ぬか──それだけです。
 「生存したいという本能」に基づいて、あなたはがむしゃらに抵抗します。しかし、相手はあなたよりも体格の大きい男性です。
 ──負けるかもしれない。
 そう思ったあなたは必死に抗い、鈍器で相手の頭部を殴りました。

 「ぐちゃっ」という鈍い破裂音と共に、生温かい液体があなたの顔に飛び散りました。
 鉄を思わせるような生臭い匂いが、一瞬にして鼻腔をつきます。しかし、まだ自分の生命が守れるかどうかを確信持てないあなたは、何度も鈍器を振りかざしました。やがて目の前の男性は白目を剥き、口から泡を吹いてそのまま倒れました。飛び散った脳髄は、まるで潰れた豆腐のように、血の海の上で浮かんでいます。

 ──終わった?
 いいえ。終わりじゃありません。
 これは「戦争」です。ひとり殺したぐらいで、解放はされません。

 冷静になる間もなく、戦いは続きます。途中で正気を、失うかもしれません。
 ──いえ、失った方が楽かもしれませんね。命ある限り、「誰かの命を奪わなければならない」のですから。だったら、正気を失って「機械」のように、人が殺せる方が楽なのかもしれません。

 しばらく道を行くと、あなたは人だかりを見つけました。その中央には、顔をくしゃくしゃにして号泣する男性の姿があります。彼は必死に叫んでいますが、何を叫んでいるのかわかりません。でも、状況からするに命乞いであることが分かりました。
 突然始まった、隣人同士の争い。
 あろうことか、人だかりの中央にいる男性は「あなたの顔見知り」でした。しかも、小・中学校に渡って「いじめっ子」としてのさばっていた存在です。あなたも、何度も彼に虐められたことがありました。

 まさに、形勢逆転です。
 どういう分配かは分かりませんが、あなたの「敵」に廻っていた彼は、あなたの味方チームに捕虜とされ、今、この場で命を奪われようとしているのです。
 周囲の殺気を前にして、彼は必死に泣き叫んでいました。
「俺には、女房も子供もいるんだ! 子供はまだ二歳で、女房は今も妊娠している! お願いだ、助けてくれ! 絶対に、君たちに銃を向けたりしないから──」
 大の男がみせられる最大の醜態をさらしながら、彼は必死に命乞いをしています。
 周囲を取り囲んでいるあなたの仲間の一部は、あなたと同じように彼にいじめられた体験のある人で、この状況を明らかに楽しんでいました。その人があなたに気づき、手招きをしてこう言いました。
「よぉ! お前もこいつにさんざんいじめられただろ。一緒になぶり殺してやろうぜ!」

 ──さて。
 あなたは、命乞いする彼を「殺せますか?」


 こういう書き方をすると、多くの方が「隣人が突然敵になる設定なんて、あり得ないし──。ただの架空話だよ」と、そう思うでしょう。
 しかし、そうではありません。現に今、起ころうとしつつあるのです。
 地球を「ひとつの家」と見れば、中国は「隣人」です。こういうシチュエーションは、身近にしようと枠を大きくしようと、何も変わらないのです。
 逆に言えば、「あなたは、いつも隣人と何かしら言い争いをしていた」という前提を置くことも出来ます。「枝が壁から出ていた」「このドブはこっちからこっちが俺ん家だが、そっちはお前ん家だからそのゴミもお前ん家のだ! 片付けろ」などなど。いくらでも、もめ事は想定出来ます。
 その時あなたは、事を荒立てて全面対決に向かいますか? それとも、調停人をたてて、互いの話し合いを調和的に解決しますか?
 少なくとも、このシミュレーションでしたように「隣人で殺し合う」ようなことには、絶対になってもらいたくないものです。
「戦争は国家のもめ事だから、民間人には影響ない」
 そう思いますか?
 ──いいえ。歴史をみれば、「戦争でもっとも犠牲にあったのは民間人だ」ということが如実に描かれています。国が経済復興を願って戦争を仕掛けたとしても、犠牲にあうのは「民間人」なのです。
 それは、「スイッチひとつ」で片付く時代となっても同じことでしょう。何故なら、民間人こそが、その国を形成する基盤だからです。

 冒頭で書いたように、戦いが生むのは「憎悪」だけです。確かにこれも、二元的な次元の原理で考えれば「一種のエネルギー」であることに間違いはありません。
 しかし、憎悪が生じるのは「分離の促進」であって、次なる時代が求める「統合の促進」には至らないのです。
 今、この時代に起きているのは「分離から統合への転換」です。諍いは、旧世代の解決法でしかありません。
 
 今日、太陽ではまたもや「Mクラス」「Cクラス」のフレア爆発が多発していました。ここのところ、Cクラス以上のフレア爆発が続いています。ジャワ島の火山噴火なども、そうした影響があるかもしれません。
 フレア爆発は、「人の感情にも影響する」と言われています。
 願わくば、これ以上人類の未来が、混沌に至りませんように──。

 
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日本の神の名を語り、日本民族を特別視する人たちへの反論

 非常に緊急性を感じた為、今回もまた臨時に内容を変更します。

 昨今、古事記や日本書紀に出てくる神々の名を語り「神託」を受けたとしてブログなどに記事を書いている人たちが多々見受けられます。
 私はもともと宗教学、哲学などアカデミズムな方面から入っている為、元来の宗教に対する抵抗はありません。
 しかし、安易に「神託」として言葉を発する行為に対しては、甚だ怪訝視しています。
 もっとも、そうした人たちが本当に、人類みなにとって平和になるような発言をしているのであれば、私もこのように反旗を掲げるようなことは絶対にしません。そうではなく、多くの日本人に誤解を植え付け、間違った方向に先導しようとしていることが垣間見られるからこそ、危機感を感じ、また、猛烈な憤りを感じているのです。

 こうした日本の神々の名を語り、神託を述べる人たちのひとつの特徴として言えるのは、日本民族の特別視です。日本民族は神性をもっていて、優れた民族だという考え方です。
 でも、みなさん──ちょっと待ってください。
 今の日本をみて、本当に優れた民族だと思えますか?
 日本が貧困国に寄付する年間食糧の何倍にもあたる食料を大量廃棄をしているという事実が周知のこととなっているのに、いっこうに現状が改善されないような国が、優れた民族の国なのでしょうか?
 「調和性がある」といいますが、いじめで自殺していく子供達が依然続くこの国のどこに、調和があるのでしょう?
 「愛国心」と言いますが、日本だけをえこひいきするのは「愛国心」とは言えません。
 本当の愛国心というのは、他の外国人の人たちも同様に、自分たちの国に対する愛国心があるのだということを理解出来ることこそが、本当の愛国心ではないでしょうか?

 国を大切に思うことは、家族を大切に思うことと同じです。
 しかし、もし、自分の家族が間違ったことをしていたら──罪を犯していたら、どうするのでしょうか?
 涙を流してでも、その間違いを正そうとするのが本当の家族愛ではないでしょうか?
 同じように、今の国の在り方が「正しいと思えない」のであれば、それを「正したい」とするのが、本当の愛国心ではないでしょうか? 第二次世界大戦時、非国民と罵られ、拷問を受けても「戦争反対!」と叫び続けてきた人たちの方が「愛国心があった」と思えるのは、私だけでしょうか?

 ブログで神託を受けているという人たちの多くは、そうした社会的現状に言及することなく、曖昧模糊とした言葉の中で「愛国心」を唱えていることに、私は甚だ疑念を持ちました。
 繰り返しますが、愛国心というのは他の国の人たちも同様に持っているという、他国の人々への尊重がなければ、ただの「国粋主義」でしかないのです!

 自分たちの民族を「誇り」に思うのは、いいことです。私もここで何度も書いているように、日本民族に生まれたことそのものは、誇りに感じています。
 しかし、それを「特別視」するのは間違いです! それでは、「白人優越主義」と何も変わりありません。
   
 私たちは、誰もがみな平等に「神の子」であるはずです。
 イエス・キリストは、一言も自分のことを「神の子」とは言っていません。「人の子」と言っていました。神を「私の父」とは言わず、「私たちの父」と言っているのです。
 そうした謙虚さを、神託を書く人たちも学ぶべきではないでしょうか?
 
 神託に頼るのは、他力本願の姿勢です。
 本来神性は誰にでもあるもので、個々人の努力と研鑽によってのみ開かれるもののはずです。
 人間が生み出した「言葉」如きに、翻弄されるべきではありません。
 それならば、行動で示した方が遙かにいい──私はそう思います。

 スピリチュアルなんかまったく知らなくても、
 アセンションなんて言葉をまったく知らなくても、 
 ましてや神々の名になんか、まったく興味がなかったとしても、
 それでも、自分たちよりも恵まれない国々の人たちの為にボランティアをしたり、
 お年寄りの介護をしたり、
 「助け合う」という行為を実践している人々の方が、「遙かに神性があるのではないか」私はそう思います。

 今の時代に本当に必要なのは「神の言葉」ではなく、「神に似せた行動」──いわば「愛の実践」であろうと、私は思っています。
 そして、私は願わくば「後者でありたい」──常に、そう思っています。



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イベント、終了しました。

 昨日、無事にイベントが終了しました。ご参加下さった皆様、お忙しい中誠にありがとうございました。
 昨日のテーマは「メタモルフォーゼ」でしたが、その前提となる情報や、「変容した後の高次元」などについて触れました。
 その中でも「現実とは?」というポイントが主軸となりましたが、思えば私は子供の頃から、そういうことを多々考える傾向がありました。

 例えば小学校三年生ぐらいの時に、私を悩ませていた問題というのが──。
「もし、私が『トイレ』だと思って普通に使っている場所が私だけにしか通用しない場所で、他のみんなにとっては『トイレじゃなかった』ら、どうしよう──」

 …………。
 思い返しても、馬鹿馬鹿しいというか……子供ならでは、というか(そうなのか?)。

 当時はそこまで難しい言葉に置き換えてはいませんでしたが、早い話が「自分の認識と、他者の認識に違いがあったら、どうなるのだろう」ということへの疑問が、いつでもつきまとっていたのです。
 何がそうなるきっかけだったかは、わかりません。もしかしたら、私が見えている存在達との関係(自分には、他の人に見えないものが見える=自分が当たり前だと思っているものが、他の人にとって当たり前じゃなかったらどうしよう、という不安)が、そういった疑問を呼び起こすきっかけだったのかもしれませんが。

 相対的な世界というのは、ある意味において「互いの尊重なくしては、存在し得ない世界」とも言えるでしょう。結局、エゴというものも「個別に括られた枠組み」が存在するからこそ、生じるものだからです。
 もしも、こうした相対的世界を与えることで、人類に「互いを思い遣る気持ちや、尊重する気持ちを育てて欲しい」という目論見があったのだとしたら、素晴らしいことだと言えるかもしれません。そこまで人類が成長出来たのかどうかは、未だ疑問の余地はありますけれども──。
 もしかしたら、そうした人類の成長ぶりを試されるのが、「今」という時代なのかもしれませんね。


【お知らせ】
二回ほど中断してしまいましたが、次回から連載「第二の地球を想像する」に戻ります。



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プロフィール

篠崎由羅(しのざきゆら)

Author:篠崎由羅(しのざきゆら)
1970年生。幼少期から哲学・宗教学に造詣を深める。思想および思想史、それに付随した国際事情に興味を抱いて独学を続け、大学ではインド哲学科専攻。東西問わず、両者の思想に渡り研究を深める。

現在は看護師として施設で勤務しながら、その傍らで執筆活動を続けている。2016年11月にYOU are EARTH改め「WE are EARTH」の活動を再始動予定。より良い未来の地球のため、全力を尽くす誓いをたてている。

【篠崎編集担当】


【篠崎の著作本】

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