昨日、無事にイベントが終了しました。ご参加下さった皆様、お忙しい中誠にありがとうございました。
昨日のテーマは「メタモルフォーゼ」でしたが、その前提となる情報や、「変容した後の高次元」などについて触れました。
その中でも「現実とは?」というポイントが主軸となりましたが、思えば私は子供の頃から、そういうことを多々考える傾向がありました。
例えば小学校三年生ぐらいの時に、私を悩ませていた問題というのが──。
「もし、私が『トイレ』だと思って普通に使っている場所が私だけにしか通用しない場所で、他のみんなにとっては『トイレじゃなかった』ら、どうしよう──」 …………。
思い返しても、馬鹿馬鹿しいというか……子供ならでは、というか(そうなのか?)。
当時はそこまで難しい言葉に置き換えてはいませんでしたが、早い話が
「自分の認識と、他者の認識に違いがあったら、どうなるのだろう」ということへの疑問が、いつでもつきまとっていたのです。
何がそうなるきっかけだったかは、わかりません。もしかしたら、私が見えている存在達との関係(自分には、他の人に見えないものが見える=自分が当たり前だと思っているものが、他の人にとって当たり前じゃなかったらどうしよう、という不安)が、そういった疑問を呼び起こすきっかけだったのかもしれませんが。
相対的な世界というのは、ある意味において
「互いの尊重なくしては、存在し得ない世界」とも言えるでしょう。結局、エゴというものも「個別に括られた枠組み」が存在するからこそ、生じるものだからです。
もしも、こうした相対的世界を与えることで、人類に
「互いを思い遣る気持ちや、尊重する気持ちを育てて欲しい」という目論見があったのだとしたら、素晴らしいことだと言えるかもしれません。そこまで人類が成長出来たのかどうかは、未だ疑問の余地はありますけれども──。
もしかしたら、そうした人類の成長ぶりを試されるのが、「今」という時代なのかもしれませんね。
【お知らせ】
二回ほど中断してしまいましたが、次回から連載「第二の地球を想像する」に戻ります。●多くの方に、「真剣な目で地球人類の進化に意識を向けて欲しい」と、強く願っています。
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