2010年の地震・噴火・気象の記録

 早いもので、今年もついに終わろうとしています。
 今年の1月ぐらいに、友人と笑いながら「こんなノリじゃ、あっていう間に今年の暮れ迎えてそうだよね」なんて話していたところ、まさしくそれが現実になった感ありです。

 今年一番私が痛感したことと言えば、時間の加速化でしょうか。
 明確な証明は不可能ですが、どうしても時間が速くなっている感覚が拭えないのです。これは気持ちの問題とか、動作がスローモーになったからというレベルではなく、また、物理的な時間の加速化というだけでなしに、人々が「時間」として認識している要素の某かが、ものすごく目まぐるしく動くようになったのかもしれません。
 以前記事にも書きましたが「人々の想念の切り替えが速くなる」というのも時間を速く感じる要素のひとつかもしれませんし、また、矢継ぎ早に展開する事件、異常気象──その他、短期間にまるで詰め込むように事象が起こっても、同じように時間の加速化を感じるのかもしれません。
 いずれにせよ、私たちの生きる世界では着実に何かが変わっていて、その変化を否定するというのはかえって現実逃避のように思えます。日々変わっていく自分たちの様子を観察しながら、これから先の時代に対応するよう思考を廻らせることが賢明な姿勢であるように、私は思っています。

 それにしても、今年は本当に地震と噴火、異常気象の続く年でした。
 私の記憶に過ぎませんが、1991年も同様に噴火が続き(91年に日本の雲仙普賢岳、世紀最大の噴火と言われたピナツボ火山が噴火しています。その影響は2年以上続き、93年には「農作物の不作」として、世界的な打撃を与えました)、また2006~2007年の冬は温暖化が続くなどの時期がありました。
 しかし、「その両者」がいっぺんに来たのは、今年が初めてのように思います。
 その上、異常気象に関しては未だに続いており、ヨーロッパやアメリカの東部、およびロシアは寒波で大変なことになっているようです。ロシアは8月に猛暑で多くの死者を出したというのに、今度は寒波──いささか気の毒になってしまいます。
 また、洪水の被害もありました。中国の豪雨、そしてパキスタンの洪水被害もありました。(そもそもパキスタンといえば、乾燥地域のように思えるのですが──。)
 日本も例外ではなくて、4月には東京で積雪が観測されたそうです。私はその時期イギリスに行っていたので日本の状況はわかりませんが、日本より少し肌寒くていいはずのイギリスでは逆に初夏を思わせるような暑い日が続いていました。(また、ロンドンは雨量がとても多いそうですが、私たちが滞在している2週間は一滴も雨が降りませんでした。これはかなり異例なことだそうです。)

 挙げるとキリがない有様ですが、以下、簡単に自分の記憶に残っているものとwikipediaの情報を照らし合わせて列挙しました。


1月
12日 ハイチ地震(M7.0)

2月
27日 沖縄本島近海地震(M7.2)
27日 チリ地震(M8.8)

3月
21日 アイスランド噴火が始まる

4月
4日  メキシコ地震(M7.2)
14日 中国青海省地震(M7.2)
   アイスランド・エイヤフィヤトラヨークトル氷河噴火
16~17日 関東地方各地で大雪

5月
9日  スマトラ沖地震(M7.2)

7月
8日  中国豪雨による洪水災害

 ※夏は世界的に異常気象。(寒波、或いは酷暑)

10月
25日  スマトラ沖地震(M7.7)
26日  ジャワ島火山噴火
28日  ロシア・カムチャッカ半島火山噴火

11月
 5日  ジャワ島ムラピ火山再噴火

12月
22日   小笠原諸島近海地震(M7.4)
     ヨーロッパ・アメリカ東部で異常気象(寒波)

 

 こうしてみると、同日や近日に地震や噴火が起きていることがみてとれます。私は地学に詳しくないですが、太平洋プレートの沖縄と南米プレートのチリが「何故、同日に起きたのだろう」と疑問になりました(日付変更線があるので、時間にすればかなりの違いはあるでしょうが。)。
 勿論、地震にもプレートの沈み込みが原因のものや、或いはそれとは違うもの(すみません、今はど忘れしました;)もあり、一概には判断出来ません。沖縄は被害があまりなかったので記憶に残ってない人も多いかもしれませんが、こうして並べてみると少しゾッとさせられますね……。
 また、14日の青海省地震とアイスランドの噴火も同日に起こっています。アイスランドは、正確には3月21日から噴火が続いていましたが、それが14日に再噴火したという状態です。

 こうしてリストにすると、何だか「地震と噴火の龍(地龍とも言う存在でしょうか)」が、世界のあちこちを廻っているかのように思えますね。
 対して気象に関しては、「高気圧と低気圧の龍(天龍?)」が廻っているのかもしれません──。

 …………。
 って、高気圧と低気圧の龍って「そのまンますぎ」で、別にたいしたことないですね……(自嘲)。

 ちなみに。
 ここ最近の太陽黒点の動きは、相変わらず無黒点状態から黒点活発化状態になったりと波打つような動きをみせています。今月の初めぐらいに連日B・Cフレアが連発していましたが、今はひとまず落ち着いているようです。
 来年もまた、太陽の動きや気象の動きからは目が離せませんね。

 これだけ気象も大地も蠢いていたら、人間の想念の蠢きが速くても「不思議はない」のかもしれません。
 と言うよりも、気象や大地の動きが人間の感情面に影響し、それが結果的に社会現象や政治、経済面に影響しているのかもしれません。
 異常気象や地震などというと、すぐに物理的な影響や経済面の直接的な影響を考えがちですが、本当に一番大きいのは人間の精神への影響です。
 精神には国境がないので、ニュースやネットを通して世界中の人達に色々な影響を与えるでしょう。また、もっと厄介な集合無意識による影響で、地震被害にあった国とは「まったく関係ない地域」の人達が、何故か精神的に不安定になったり社会問題が起きたりということが、あるかもしれません。他国の被害を「対岸の火事」の気分で眺めているわけにはいきませんね。

 さて、来年は一体どのような年になるでしょう。
 良くも悪くも、心の境地は常に「深海の領域」のごとく、穏やかでいたいものです。

 では皆さま。よいお年をお迎えください──。


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「真四角な論理力」より「柔軟な人間力」が大切

 先日、ネットで面白い記事を見かけました。「正しい論理は危ない」という記事だったので、一体どのような論理が危ないのか興味を抱いて目を通したところ、それは実に的を射た内容でした。
 その記事には、思わず頷きたくなるような例も書かれていたのです。

 【正しい論理は危ない?】 
http://www.webdoku.jp/tsushin/2010/12/26/153938.html

 “正しい論理”は危ない?~『「金持ち」の不幸、「貧乏人」の幸福 』

 海外のジョークにこんなものがあります。

 ある精神病院で、入院患者が風呂場で釣り糸を垂れている。
「どうです、釣れますか?」
 すると、患者はこう答える。
「釣れるわけないじゃないですか、ここは風呂場ですよ」

 風呂場で魚が釣れるわけがない、というのはまさに正しい論理です。しかし、この論理を展開しているのは精神病院の入院患者、つまり狂人。このジョークは「正しい論理を使える人は狂っている」ということを言っています。

 「その典型がナチスドイツを率いたアドルフ・ヒトラーでしょう」。そう語るのは、書籍『金持ちの不幸、貧乏人の幸福』の著者・ひろさちや氏。演説であれほどまでにドイツ国民を熱狂させたヒトラーの論理には、欠点はあっても、意味不明なところはありませんでした。しかし、人間らしい当たり前の感覚はなかったのです。

 そこが危険なポイントだと、ひろ氏は警鐘をならします。たとえば、1人の人間が1時間かかって穴を掘ったとします。同じ穴を2人の人で掘ったら30分、3人だったら20分を要しました。では、120人で穴を掘ったら、30秒で穴は完成するでしょうか?

 120人だったら30秒で一つの穴を掘れるというのは、論理的には間違っていません。しかし、ひとつの穴を120人がかりで掘るなんてできません。論理としてはごもっともですが、人間らしい感覚を持っていたら、「でもね......」となるところです。この「でもね......」が"人間の論理"なのだとひろ氏は言うのです。

 ひろ氏は、同書のなかで「正しい論理」ほど、危険なものはないと何度も繰り返します。正しい論理が、必ずしも人間らしい論理とは限らないのです。



 私はこの記事に、深く同意してしまいました。
 同時に──不安が芽吹いたのも否定は出来ません。

 皆さんもご存知のように、昨年から裁判員制度が導入されました。
 施行後一年弱ではまだまだ黎明期と言ったところですが、裁判員制度になった後の判決で、なかば不安を煽るようなものもないわけではありません。
 先日「日本の未来の為に、今、必要なこと」にも書きましたが、日本人に論理力が欠けているというのは言われて久しいことです。
 もっとも、ここで言う「論理力」というのは、上記書いてあるような「正しい論理」ではありません。抜粋した記事にもあるように灰色である現実の中で、判断をする力のことであり、情緒と深く結びついた論理性──いわば洞察力であり、「人間の論理」です。
 洞察力が発揮される前提というのは、多くの情報と、比較出来るだけの多数の例があってこそだと思います。私は司法書士の勉強をしていた際六法全書とさんざん向き合いましたが、判例というのは本当に数え切れない程沢山あります。
 もし私が仮に裁判員として出なければならなくなったら、「どれほど多くの情報と照らし合わせればいいのか」でまず不安になると思います。人が裁かれる場で、「120人で穴を掘ったら、30秒で穴は完成する」というような思考でいては絶対に「まずい!」からです。

 しかし、ここ最近の裁判員制度の兆候を見ていて、「もうすでに、そうした論理に陥っているのではないか」と思わせるような判決がいくつかありました。
 勿論、裁判員となった方のご苦労は、心中お察しします。また、仕事などを休んで出席しなければならないなども考えれば、多くの負担があることも想定出来ます。
 ですが、そうした多くのことを抱えた中で、冷静な判断というのは出来るものなのでしょうか? 私だったら、とても重荷です。しかも死刑求刑されるような罪状であれば、尚更です。

 この裁判員制度。どうしても「勇み足すぎた」ように思えるのは──私だけでしょうか?
 本当はもっと議論し、ただでさえディスカッションやディベートが苦手な日本人の論理力を挙げてから踏み切るべきだったのではないかと、今更ながら思うことが多々あります。
 こういうことを言うと、「アメリカでは陪審員制度があるじゃないか」という反論があるかもしれません。でも、上記リンクした記事で引用した内容にもあるように、アメリカ人の論理力と日本人の論理力では、最初から「開き」があるのです。民族性というものを重んじるのであれば、日本には日本にあった裁判の方法を模索した方がいいように思えるのです。

 不思議なことなのですが、論理力に欠けている人ほど、上記引用した「論理上では正しいけれど、現実的に考えたら不可能」或いは「人間的に考えたら、それはおかしい」ということでも、平然と掲げる傾向があります。
 以前、このブログでも紹介しましたが、通勤電車に乗っていた母子を無理矢理下ろしたOLの話──。このOLは、きっと「自分は、間違ったことをしていない」そう思っているでしょう。
 でも、「人間としては、間違っている」──私はそう思います。

 もうひとつ、その事例と似た内容をご紹介します。
 これはずいぶん前に記事になっていた内容ですが、「デジタル万引き」という件が題材にされていました。
 デジタル万引きというのは、いわゆる携帯などで写真を撮り盗むということを示しているようです。勿論、本当の万引きのように文字通り盗むわけではありません。ですが、その是否について物議が醸されたようです。

 きっかけは、とある女性がインターネットの質問コーナーに、自分の体験談について意見を求めたところから始まりました。
 その女性は、書店で「料理のレシピ」を立ち読みし、その中で気に入ったレシピを携帯で写真に収めていたそうです。
 それに気付いた店主が、「そういうことはやめてください」と指摘しました。するとその女性は、「あともう少しで終わるのだから、少しぐらい待ってください」と言ったそうです。
 その結果、店主とその女性は口論となりました。やがて店主は「出て行ってください!」と肩を掴み、その女性は追い出されたそうです。
 そのことに憤った女性が、「私は犯罪を犯したわけでもないし、法律に違反しているわけでもないのに、そのような不当な扱いを受けた」と怒りのコメントを書いたのです。

 みなさんは、これについてどう思いますか?
 「犯罪じゃない」──それで済む問題なのでしょうか。
 確かに、女性の言っていることは「正論」かもしれません。法律の条文にも、そういったものはないでしょう。
 でも、法律に規定がないから、何をやっても許されるという考え方は、とても「恐ろしいもの」ではないでしょうか?

 「じゃぁ、駄目な理由を言ってよ!」
 何でも杓子定規にしか考えられない人というのは、そういうでしょう。
 しかし「駄目な理由がなければ、何をやってもいい」と言ってる時点ですでに、白か黒の論理だけで、物事を判断している証拠なのです。
 先日の記事にあげた「論理力」は、こうした「白か黒だけに囚われること」における論理性のことを言っているのではなく、もっと魂の本質に触れた洞察力のことを言っており、同時に日本人が、数学は得意(白か黒論理)であることも指摘しています。
 そして、上記引用した「正しい論理」は「数学的論理(穴掘りの事例は、まさに数学的論理です)の危険性」を指摘しています。

 哀しいかな、この女性のように「正しい論理(数学的論理)」で現実をはかろうとする人は、増えてきているように思います。
 でも、本当に大切なのはそうした論理力ではなく、洞察力でもって、相手を思い遣る「人間力」です。
 合理性を追求し、裁判員制度などを設けてはみたものの、まだまだそうした「人間力」における教育が不十分なのではないか──そんな危惧が拭えない昨今です。


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続・地獄は、本当にあるのか?

 最近、「言葉の概念を絞るということは、本当に難しいものだ」とつくづく実感します。
 例えば、俗にいう「天国と地獄」。一般的に考えられている(?)天国は、ふわふわの雲の上に白い光沢のドレスを着た美しい天使や、ちっちゃな羽根が生えていてパタパタ飛ぶキューピッドの世界で、地獄は醜い魔物や鬼の住む世界。天国で魂は癒されるけれど、地獄では反対に生前の罪を問われる──というもの。
 ……って、自分で書いていて「一般的というよりも、かなりベタなイメージかな」と思ってしまいましたが(苦笑)。

 昨今、スピリチュアリストの中には「地獄はない」と言う人もいます。
 しかし、私は「それは個々人における概念の違いなのではないか」と思えるのです。
 私自身は、通常「地獄」と呼ばれる場所はあると思っています。
 何故なら、この世にも、地獄と思えるような場所や環境はあるからです。人間の心の中にそうした地獄が巣くっている以上、当然のように霊界にもそれが反映されるはずです(というか、されなければ大きな矛盾となってしまいます)。
 私たちはどうしても、言葉の定義を決める際に自分が聞き慣れている印象で判断しがちです。そうすると、地獄の場合は子供時代から耳にしてきたイメージ、「血の池地獄があって~、針山があって~、金棒もった鬼に追いかけ廻されて~」というものが浮かびがちです。
 しかし、そのイメージを消し去り霊的苦痛に苛まれる場所=地獄と置き換えた場合には、また違った印象になると思います。
 戦場はまさしく地獄以外の何ものでもないと思いますし、飢餓に苦しむ子供達を救えない状況もまた地獄と言えるでしょう。
 そして、そうした「霊的苦痛に苛まれる空間」というのは貧困国や紛争国に限らず、先進諸国──この日本にも、あちこちにあります。仮にそうでないのだとしたら、何故ここまで突発的殺人や自殺が続くのでしょうか?

 「地獄はない」という考え方は、どこに主眼をおくかで変わってくると思います。
 先程あげたような「ベタな地獄」はないかもしれませんが(あっても意味ないですし)、霊界というのが同じ傾向の霊達が集まる空間であるならば、波長の違いによって外部の霊からすれば「地獄」としか思えないような環境があっても不思議ではない──というよりも、「あって当たり前」だと思えるのです。

 もっとも、他者からみたら地獄と思えるような場所にいるからといって、当人達が必ずしも苦しんでいるか──と言えば「そんなことはないだろう」と思います。
 どういうことかと言いますと──
 みなさんの周りにも時折、いたりしませんか? モラルハラスメントを起こしてしまうようなタイプの人。
 何にでも腹をたて、何でも他人のせいにして、すべてに不平不満をいいながら生きているような人。
 客観的に見ると、そういう人はとても辛そうに見えます。「怒り」というのは発散させてスッキリ出来るものではなく、むしろとめどなく溢れてくるものだと思えるからです。
 不満もそうです。不満を周囲の人にさんざん言ったから「スッキリする」というものでもありません。勿論、他者にそれを口にすることで不満の全体像を明確にすることが出来、それによって自分の中で視点が変わり状況を改善出来る──ということもあるでしょう。
 しかし、そうした前向きな努力なくして不満だけを口にしていても、決して幸福にはなれません。不満は次の不満を呼び、雪だるま式に心の中で膨張するだけです。

 そうした人達が亡くなった後、どこの霊界に行けるかと言えば──やはり、同じような「心の重さ」を持った世界に行くことになるでしょう。
 ですが、それは俗に言う「審判によって」ではありません。例えば、水と土をよく攪拌させた泥水をしばらく放置した場合、やがて水と土に分離されていきます。それは「土が重いから」であって、「土が審判によって『悪』と判断されたから」ではありません。それと同じことです。
 怒りや不満に満ちた心は、土のような重みを伴い、そうした重みに近しい魂ばかりが集う霊界は普通に「ある」と思います。そうした心のあり方を「苦痛」と感じている人にとってみれば、そのような霊界は「苦痛極まりない=地獄」のように感じるでしょう。しかし、そこにいる人達にしてみれば、それが普通──場合によっては「天国」に感じるかもしれないのです。

 そうした意味で言えば、天国も地獄も、やはり「相対的」と言わざるを得ないでしょう。
 言ってしまえば、霊界とは面白いことに相対性が絶対性になり得る空間でもあるのです。
 「地獄はない」という人達の多くは「絶対的な地獄(誰にでも共通して実感出来るような地獄)はない」と言っているのであって、相対的地獄の否定ではないと、私は思います。そこを誤解してしまうと、超お気楽主義な「誰でも天使」的発想に行き着いてしまい、人生の重さや深みを理解出来なくなってしまいます。

 先日、「宇宙の拮抗する力」で書いたように、真反対に働こうとするエネルギーが共にある「この世」というのは、それだけで貴重な存在なはずです。
 そうであるにも関わらず、安易に片方の視点を否定して「すべては天国だけ」とか「地獄だけ」と絞ってしまうことがどれほど勿体ないことか──お分かり頂けることでしょう。
 世のすべては一元論でありながらも、それは「複数の多元性を含んでいるが故」です。人間の肉体だって、肉体そのものは「ひとり」であっても、それを組成する物質はあらゆる様々な要素が複雑に絡み合っています。中には相反する働きのものもあるでしょうし、一見毒のように思えるものでも、場合によっては肉体を維持する上でとても大切な働きになる場合も考えられます。

 このように、一種否定的と思われるものであっても、この世に生きている以上はそれを受け入れ、認めることも私たちにとって大事な学びなのかもしれません。
 悩んで迷うのは「この世に生きている証拠」ですし、いずれ死ねば、そうした迷いはなくなります。(アセンションなどしようものなら、尚更です──。)
 それなら、相反するものや表裏一体のものを感じながら、充分迷って、悩んで、精一杯生きた方が遙かに、魂にとっては成長に繋がるのかもしれませんね。

【関連記事】
地獄は、本当にあるのか?

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日本の未来の為に、今、必要なこと

 藤原正彦「祖国とは国語」より 

 情報を伝達するうえで、読む、書く、話す、聞くが最重要なのは論を俟(ま)たない。これが確立されずして、他教科の学習はままならない。理科や社会は無論のこと、私が専門とする数学のような分野でも、文章題などは解くのに必要にして充分なことだけしか書かれていないから、一字でも読み落としたり読み誤ったりしたらまったく解けない。問題が意味をなさなくなることもある。かなりの読解力が必要となる。海外から帰国したばかりの生徒がよくつまずくのは、数学の文章題である。読む、書く、話す、聞くが全教科の中心ということについては、自明なのでこれ以上触れない。
 それ以上に重大なのは、国語が思考そのものと深く関わっていることである。言語は思考した結果を表現する道具にとどまらない。言語を用いて思考するという面がある。
 ものごとを考えるとき、独り言として口に出すか出さないかはともかく、頭の中では誰でも言語を用いて考えを整理している。例えば好きな人を思うとき、「好感を抱く」「ときめく」「見初める」「ほのかに想う」「陰ながら慕う」「想いを寄せる」「好き」「惚れる」「一目惚れ」「べた惚れ」「愛する」「恋する」「片想い」「横恋慕」「相思相愛」「恋い焦がれる」「身を焦がす」「恋煩い」「初恋」「老いらくの恋」「うたかたの恋」など様々な語彙で思考や情緒をいったん整理し、そこから再び思考や情緒を進めている。これらのうちの「好き」という語彙しか持ち合わせがないとしたら、情緒自身がよほどひだのない直線的なものになるだろう。人間はその語彙を大きく超えて考えたり感じたりすることはない、といって過言ではない。母国語の語彙は思考であり情緒なのである。
(中略)
 漢字の力が低いと、読書に難渋することになる。自然に本から遠のくことになる。(中略)
 読書は過去も現在もこれからも、深い知識、なかんずく教養を獲得するためのほとんど唯一の手段である。世はIT時代で、インターネットを過大評価する向きも多いが、インターネットで深い知識が得られることはありえない。インターネットは切れ切れの情報、本でいえば題名や目次や索引を見せる程度のものである。ビジネスには必要としても、教養とは無関係のものである。テレビやアニメなど映像を通して得られる教養は、余りに限定されている。
 読書は教養の土台だが、教養は大局観の土台である。文学、芸術、歴史、思想、科学といった、実用に役立たぬ教養なくして、健全な大局観を持つのは至難である。
 大局観は日常の処理判断にはさして有用でないが、これなくして長期的視野や国家戦略は得られない。日本の危機の一因は、選挙民たる国民、そしてとりわけ国のリーダーたちが大局観を失ったことではないか。それはとりもなおさず教養の衰退であり、その底には活字文化の衰退がある。国語力を向上させ、子供たちを読書に向かわせることができるかどうかに、日本の再生はかかっていると言えよう。

 アメリカの大学で教えていた頃、数学の力では日本人学生にはるかに劣るむこうの学生が、論理的思考については実によく訓練されているので驚かされた。大学生でありながら(-1)×(-1)もできない学生が、理路整然とものを言うのである。議論になるとその能力が際立つ。(中略)
 これと対称的に日本人は、数学では優れているのに論理的思考や表現には概して弱い。日本人学生がアメリカ人学生との議論になって、まるで太刀打ちできずにいる光景は、何度も目にしたことだった。語学的ハンデを差し引いても、なお余りある劣勢ぶりであった。
 当時、欧米人が「不可解な日本人(inscrutable Japanese)」という言葉をよく口にした。不可解なのは日本人の思想でも宗教でも文学でもなく(これらは彼らによく理解されつつあった)、実は論理面の未熟さなのであった。少なくとも私はそう理解していた。科学技術で世界の一流国を作り上げた優秀な日本人が、論理的にものを考えたり表現する、というごく当たり前の知的作業をうまくなし得ないでいること。それが彼等にはとても信じられないことだったのだろう。
 日本人が論理的思考や表現を苦手とすることは今日も変わらない。ボーダーレス社会が進むなか、阿吽の呼吸とか腹芸は外国人に通じないから、どうしても「論理」を育てる必要がある。いつまでも「不可解」という婉曲な非難に甘んじているわけにはいかないし、このままでは外交交渉などでは大きく国益を損なうことにもなる。

 数学を学んでも「論理」が育たないのは、数学の論理が現実世界の論理と甚だしく違うからである。(中略)
 現実世界の「論理」とは、普遍性のない前提から出発し、灰色の道をたどる、というきわめて頼りないものである。そこでは思考の正当性より説得力のある表現が重要である。すなわち、「論理」を育てるには、数学より筋道を立てて表現する技術の修得が大切ということになる。
 これは国語を通して学ぶのがよい。物事を主張させることである。書いて主張させたり、討論で主張させることがもっとも効果的であろう。筋道を立てないと他人を説得できないから、自然に「論理」が身につく。読書により豊富な語彙を得たり適切な表現を学ぶことも、説得力を高めるうえで必要である。
 日本人が口舌の徒になる必要はないが、マイクをつきつけられた街頭の若者、スポーツ選手、芸能人、などが実質のあることをほとんど何も言えないのを見るにつけ、国語教育について考えさせられる。

 現実世界の「論理」は、数学と違い頼りないものであることを述べた。出発点となる前提は普遍性のないものだけに、妥当なものを選ばねばならない。この出発点の選択は、通常情緒による。その人間がどのような親に育てられたか、これまでどんな先生や友達に出会ったか、どんな本を読み、どんな恋愛や失恋や片想いを経験し、どんな悲しい別れに出会ってきたか、といった体験を通して培われた情緒により、出発点を瞬時に選んでいる。
 また進まざるを得ない灰色の道が、白と黒の間のどのあたりに位置するか、の判断も情緒による。「論理」は十全な情報があってはじめて有効となる。これの欠けた「論理」は、我々がしばしば目にする、単なる自己正当化に過ぎない。ここでいう情緒とは、喜怒哀楽のような原初的なものではない。それなら動物でも持っている。もう少し高次のものである。それをたっぷり身につけるには、実体験だけでは決定的に足りない。実体験だけでは時空を越えた世界を知ることができない。読書に頼らざるを得ない。まず国語なのである。



 かなり長文転載しましたが、これはとある国語の問題文に使用されていたものを掲載しています。自分が常日頃感じていることがそのまま書かれていたので、是非皆さんにもと思いご紹介した次第です。

 以前の記事で、「私たちは思考する際に母国語に頼らざるを得ず、自ずと母国語に宿る民族性の影響を受けている」といった内容を書きましたが(すみません;どの記事だったか失念しました)、上記転載した内容も全般を通じて「日本人としての母国語の大切さ」と、および「国語力を培う必要性」が訴えられています。
 言葉というのは(ここでも書かれているように)ただの表現ツールではなく、思考作業の土台とも言うべきものです。
 語彙力が少なければそれだけ思考する視野が限定されてしまうのは無理のないことですし、他者との交流においても誤解が生じやすくなってしまいます。
 ここでは国語の重要性が訴えられていますが、何も国語というのは「学校で習うものだけ」ではなく、いつでもどこでも自らの自主性で修得出来るものです。
 むしろ、学校の国語の時間だけに頼ると、本当の意味での国語力はつかないでしょう。ここで挙げられるような「論理力」を育てるには、自主的に本を読むこと、そしてその内容を「自分なりに咀嚼し、理解するよう励むこと」だと思います。

 最近は論理力不足だけでなく、若い世代における誤字が多々見受けられるようになった印象を受けます。
 先日も、とある掲示板で「永遠と同じ表示がされたまま」という一文を見かけ、首を傾げてしまいました。
 おそらく当人は「延々と同じ表示がされたまま」と言いたかったのでしょうね(笑)。「えいえん」と「えんえん」では、意味もニュアンスも違います。
 勿論、ブログなどでちょっとした誤字をしてしまう──ということは、よくあることでしょう。私もいっぱいあると思いますし(苦笑)、「ついうっかり」というのがあるのは仕方ないことです。
 しかし、「うっかり誤字」と「間違えた漢字を、正しい信じ込んでいる」のでは、まったく意味合いが違います。
 それから、音読の習慣が最近は減ったせいもあるのか、漢字を「間違えて読んでいる人」も増えています。
 例えば、「如」という漢字がありますが、これには「如実(にょじつ)」や「如才(じょさい)ない」というように二つの読み方があります。
 しかし「如実」は知っていても「如才ない」は知らなかったのか、「にょさいない」と読んでしまうようなケースの人を見かけることが増えたのです。(これはひとつの例でしかなく、実際には「如」に限りません。多種の漢字でそういう傾向が見受けられます。)
 やはり同じように若い世代に集中しているので、もしかしたら教育体制が変わったからなのかもしれませんが──。

 もっとも、そうなってしまったのは若い世代に問題があるのではなく、そうした体制の中で教育をしてきた、今の大人達の責任であると、私は思います。
 安易に若い世代の考え方や価値観を批判するのではなく、そうした社会体制にしてきたことそのものを一考すべきだと、常々そう思います。
 責任は常に「今、自分たちに」感じるべきであって、他者に転嫁すべきものではありません。また、時代の犯人捜しをするような無意味な時間を取るよりも、それならこれから先、どうすればいいのかを建設的に考えた方が、遙かにいいでしょう。

 転載内容の前半にあるように、日本人は昨今大局的な見方に欠けていると感じることが多いです。
 政治の在り方にしても、どんなに討論を重ねたところで「国民不在の政策」に過ぎないように感じるのは何故でしょうか? 明らかに大局的な視野が欠けているからだと思えるのは、私だけでしょうか?

 私はここ数ヶ月の間で、急激に日本が「岐路に追い込まれている」ような感覚を受けています。
 私は決して日本を卑下しているわけではないし、日本の将来を意味もなく悲観しているわけではありません。
 日本民族には、確かに素晴らしい気質や性質があります。
 でも、その「良さ」を認識すると同時に、「今の自分たちに足りないもの」を冷静に見つめ、受け入れる姿勢が必要だとそう思えるのです。
 お気楽な日本民族優越思想に走っている間にも、刻一刻と時間は過ぎていきます。
 本当に「ただ優れただけ」の存在であれば、そもそも転生自体「しません」。
 ここに生きているという以上、必ずやみんな「優れた側面」もあり、同時に「まだ欠けている部分」もあるはずなのです。
 その「欠けた部分」を客観的に見つめ、大局的な視点でもって「どう改善していけばいいか」──改めてそれを考え直す時機に来ていると思う今日この頃です。


【参考文献】
祖国とは国語 (新潮文庫)祖国とは国語 (新潮文庫)
(2005/12)
藤原 正彦

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続・恐怖心を宥める為に

 先日の記事「恐怖心を宥める為に」で、数名の方から感想やご意見を頂きました。
 皆さんのご意見、とても参考になりました。いつものことで本当に申し訳ございませんが、この場にて御礼申し上げます──。

 あの記事を書いた後も、私は「恐怖心」というものについてあれこれ考えていました。
 その結果、行き着いた答えとしては人間にとっては、物理的な死が恐怖に直結することは、まずないのではないだろうかというものでした。
 例えば、動物には恐怖を感じる心がありませんが、本能で「恐怖」を感じているはずです。そうでなければ天敵が襲ってきても逃げることがなくなるし、それこそ種の存続が難しくなるからです。
 動物が本能で感じる恐怖は、直結した死そのものしかありません。
 それは、先日の記事でも引用したように、人間が燃えさかる炎や鋭い刃物、とても高い場所や天災などで感じる恐怖と同種のものでしょう。それらの恐怖はたいてい「死」と直結しているものであり、肉体で感じる恐怖と言った方がいいのかもしれません。

 ですが、人間には肉体だけでなくこころ──いわば精神があります。
 精神が感じる恐怖は、肉体で感じる恐怖と自ずと種が異なるのかもしれない、そう思ったのです。
 例えば、肉体が感じる恐怖は先に挙げたように「死に直結したもの=肉体がなくなること」です。
 精神が感じる恐怖は、必ずしも死に直結していません。
 しかし、仮に「肉体が感じる恐怖との共通項を求める」のであれば──それは、失うことへの恐れなのかもしれないと、そう思ったのです。

 例えば、死は肉体にとって「なくなること」です。
 では、精神にとって「失うこと」と言ったら、具体的に何があるでしょうか?
 おそらく、これは人それぞれ色々なケースが挙げられると思います。恋人も然り、家族も然り、友達も然り、仕事も然り──。
 お金も然り、名誉も然り、評価も然り──中には「無心で作ったプラモデルの一式が、なくなること」なんて人もいるかもしれません(笑)。
 あと、「自分らしさを失うこと」というのも多いかもしれません。私が先日書いた自分の恐怖は、まさしくそこに行き着くものでしたので。
 愛する者を失う、生活区域を失う、希望を失う、夢を失う、理想を失う、健康を失う──。
 色々なケースが考えられますが、しかし、総じてそこにある共通項は喪失です。

 でも、ここで「おや?」と思う方がいるかもしれません。
 何故なら、この世で生きている人間にとっての究極の喪失は、やっぱりに結びつくからです。
 なのに、何故その「死」よりも、生きている間の喪失の方を恐れるのか──不思議ですよね?

 これは、あくまでも私個人の憶測なのですが……
 この理由の裏にこそ、魂の法則性が隠されているような気がします。

 私たち人間は誰でも、この世に産まれてきた以上いつかは必ず死にます。
 言ってしまえば、死は誰も破ることの出来ない、究極の約束なのです。それが早いか遅いかには個人差があれど、この最終ゴールを避けることは誰にも出来ません。
 仮に、この世で、ただ生きることだけを目的にしている場合であれば、死を恐れるかもしれません。動物達のように、「種の存続」だけを目的にしているのであれば、種を守るという目的を脅かす死は、とても怖いもののはずです。
 しかし、人間は「パンのみに生きるにあらず」なのです。
 私たちが「ここ」にいるのは、ただ人間を存続させる為ではなく、そこには自分たちという個人の成長も含まれています。
 魂がそれぞれ学びを積む為に、この世に産まれてきていることを考えれば、「死が究極の恐怖にはなり得ない」ことが分かります。何故なら、死は「卒業式みたいなもの」だからです。

 学びに来ている存在が、卒業式を恐れるよりも、その学校生活(この世の生活)をどのように過ごせるかを気に掛けるのは、ごく当然のことかもしれません。
 例えば、自由に世のあちこちを旅することを目的に産まれてきた魂が、体が不自由になって旅が出来なくなることを恐れるのは、魂の学びの目的から外れることを、恐れているからということになります。
 また、よりよく幸福にこの世で学びを積んでいる過程の魂であれば、愛する存在を失うことを恐れるのは当然だと思います(もっとも、愛する存在を失うというテーマは、形が違いながらもそれぞれの人にあったケースに含まれているので、必ずしも生きる目的や意味と直結している場合ばかりではない、という気もしています)。
 或いは、生活的な支障──失業するとか、破産するとか、事故を起こしてしまうとか、そうしたものへの恐怖は、「自分らしさ(魂の本質)を失うことへの恐れ」に繋がっているような気がします。

 結局、こうした恐怖の根源はこの世には摩擦が多く、魂の本質をストレートに打ち出せないことへのジレンマから生じているようにも思えます。
 勿論、この摩擦自体が「学び」と言うことも出来るのですが、それを前にした段階で恐れてしまう気持ちは私にもよく分かります。いわば、神に祈る際に「試みにあわせないで下さい」という心境と、似たようなものかもしれません。

 ただ、ひとつだけ思うのは──。
 いずれにせよ、これらの恐怖に総じて言えるのはまだ起こっていないということです。
 例えば、かつてある辛い体験をして、その体験を「二度としたくない」と思っているうちにそれが恐怖心になってしまった場合なども、一度体験はしていたとしても「二度目は、まだ起きていない」のです。
 要するに、恐怖心というのは相対的な心の中の現象であって、リアルではない──ということ。
 いざそれが実際に起きたら、人というのは意外に冷静に対処出来たりするものなのかもしれません。もしくは、嵐が過ぎ去るのをじっと待てるだけの忍耐力がついてる場合もあるかもしれない。

 恐怖心を拭うのは、そうそう簡単に出来ることではありません。場合によってそれが小さくなってみたり、或いは大きくなってみたりと、振り子運動のように揺れて見えることでしょう。
 でも、いずれにせよ恐怖は、マインドが見せるイリュージョンでしかない──。
 そのイリュージョンにパワーを与えて現実化するもしないも、自分次第──そう思うと、恐怖への見る目が変わってくるような気がしますね(笑)。


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お知らせ

 小説サイトの方で軽くお伝えしましたが(こちら)、現在、篠崎は受験期間中におります。
 以前は真理探究のみに没頭するべく、岩手なりに籠もろうかと思っていたのですが──諸事情につき頓挫した次第です(苦笑)。
 ただ、私自身は「それでよかった」と──本心で思っています。

 そもそも、「何故、東北籠もりか」と言えば、私にとってそれは「出家」の意味があったのです。
 私は10歳前後の頃から、出家願望を持っていました。
 このブログを以前から読んで下さっている読者の方であれば、私が出家願望を抱くことにつきさほど疑問に思われないかもしれません。やはり幼少期の頃から「不可視の世界」とまじわっていると、俗世の価値観になかなか馴染むことが出来ず、とても苦痛に感じたりするものです。
 しかも、子供という存在は世界が狭いので、どうしたところで「学校」「家族」以外の逃げ場がありません。
 その両者に苦痛を感じてしまうことで、自分の精神を守る為に「出家」というものに惹かれてしまっても無理はないでしょう。
 勿論、当時はまだ子供でしたから、出家がなんたるものかの詳細は分かっていなかったと思います。ただ、子供時代から仏教の説話やキリストの物語などに触れていた関係で、「出家するという意味」については、子供心に理解していました。

 しかし、そんな私の願望を押しとどめていた思いというのが一門に下ることへの抵抗感でした。
 この抵抗は、未だにあります。
 今までにも何度も、私は俗世を捨てて出家したいと考えていました。しかし、その為には仏教なら仏教、キリスト教ならキリスト教と「一門」に下らなければなりません。
 その上、仏教と言っても曹洞宗、臨済宗、真言宗、色々あります。(しかも、入山は基本的に女人禁制だったりもします。最近はそうでもないかもしれませんが。もっとも、尼の世界が知られるようになったのも瀬戸内寂聴さんが現れてからのことで、それまではほとんど知られていませんでした。その為、以前は調べるのさえ難儀だった程です。)
 私は、自分のポリシーとして「一門に下る」ということが出来ませんでした。
 何故なら、すべてはひとつという考えに基づくと、一門に下ることはある意味「分離の促進」であるように思えたからです。
 勿論、それが必要な時代もあるのですが、ことさら「これからの時代には、必要なくなるのではないか」そんなふうに感じていたのです。

 私のこの「出家病」は時折強く表れるのですが、今年になって非常に強烈な程、膨張しました。
 それもあっての東北籠もりだったのですが──よくしたものですね(苦笑)。それが「私の道ではない」という示唆なのか、ちゃんと「そうならないよう」運命が手回しをしていたようです。

 その頓挫自体は9月の話なので、今からもう3カ月ほど前のことですが──その前頃から少しずつ、私の中で「いや、私の今世での目的は、精神鍛錬だけではいけないんじゃないか」そんなふうに思っていました。
 これでいいのだろうか──?
 何か、私は見誤っていないだろうか──?
 そんな悶々とした思いを抱えたまま一ヶ月ほど過ごしていましたが、やがて、一筋の光が見えてきたのです。

 それは、このブログでも何度か書いたことですが、理想は語ることよりも、体現することの方が大切だし意義があるということ。
 すなわち、精神鍛錬はただ「精神を鍛えるだけで終わってしまっては、意味がない」ものであり、「それを如何に、社会や周囲に活かせるかの方が重要だ」というところに、私自身が着地したのです。

 私は、「精神性の求道者」というだけではなく、
 「求道した精神性を、体現していく者でありたい」──そう思いました。

 そこで行き着いた答えが、再び「看護の道に戻る」という答えだったのです──。

 経緯をちょっと端折りましたが──(笑)。
 と、いうわけで──私は現在、看護師の学校の受験中にいるという次第です。
 准看護師の資格は持っていますし、看護師として就職経験もあるのですが、何せもうずいぶん前の話ですので、いくら「昔取った杵柄」とはいえ「大昔になりすぎ」です(苦笑)。
 それに看護の勉強は高校時代にしているだけで、しかも、当時の私は家庭環境や色々なしがらみと闘っている最中でしたので、決して勉強熱心な生徒ではなかったのです。
 離職した看護師の為の「復職講座」などを各大病院で実施しているのは知っていますが、私はあえてそれを受けず、自分を悔い改める意味でも「イチから」看護を勉強しなおそう──そう決意した次第です。

 私は看護の現場を見てきて、それが如何に素晴らしい仕事だったかを実感しています。
 その後数多くの仕事をしてきたから尚のこと感じるのですが、看護の仕事はある意味「生と死の探求」に通じる仕事なのです。
 如何に生き、そして、如何に死ぬか──。
 それらすべての問いかけが凝縮された空間が「病院」という場所だったのです。

 私は、一生涯真理の探究を続けていくという決意がありますが、机上の空論を積み重ねるよりも、生きた経験と生きた理論、そして「それらが、本当に人々や社会に活かされる道」を求めたい──そう思っています。

 ただし──(笑)。
 さすがに「高齢出産」ならず「高齢受験(苦笑)」はなかなか大変で、思うように時間がとれません。
 今日はかなり時間調整したのですが、あろうことか急に酷い鼻炎アレルギーにかかってしまい(涙)、ほとんどフラフラのまま一日が終わってしまった気がします……。
 そんなこんなの事情で、(小説サイトでお知らせしたように)小説サイトの更新は「週に一度」とさせてもらった次第です。

 次回は20日更新予定となっていますが、次回UPする予定の「第七章」は、作品全体の中で「もっとも重要な章」の為、なかなか筆が進みません……。
 と、言いますか──書いても書いても「気に入らない状態」が続いており、場合によっては更新が数日遅れる可能性もあります。(基本的に、私はひとつの小説を書く場合、脱稿原稿の三倍以上は「ボツ原稿」を出しているタイプです。いわばモーツァルトのような「天才肌ではない」ってことですね──)
 たびたびご迷惑をおかけして申し訳ございませんが、「遅れる」というのは「妥協をしないから」ということだと思って、暖かい目で見守って頂けますと幸いです──。

 このブログはとくに更新予定は設けていませんので、このペースで書いていきたいと思っています。
 万が一更新に開きが出来そうな時は、予めお知らせ致します。


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次回、20日更新予定です。12月19日追記:やはり無理でした……。余裕をみて27日の更新とさせて頂きます。ご迷惑をおかけして誠に申し訳ございませんが、今しばらくお待ち下さいませ……。
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拮抗する二つの力は、宇宙の宿命?

 先日、ナショナルジオグラフィックチャンネルでまたもや興味深い動画を観ました。
 内容は宇宙の終焉に纏わるもので、「いつ、どのようにして宇宙は終わりを迎えるのか」ということを、現在ある説を挙げて解説した内容です。
 宇宙の終焉(勿論、今すぐというわけではないのですが)には「3つのケース」が考えられていて、ひとつは「ビッグクランチ」といって、「ビッグバンで拡大した宇宙が、今度は重力に引きつけられ収縮し始め、ビッグバンが起きた時ぐらいにまで小さくなる」というもの。
 この説は以前からよく耳にした説ですが、最近ではあまり主流ではないようです。
 そもそも、この理論だと「宇宙の中央に、巨大なブラックホールのようなものが存在しなければならない」のですが、宇宙の中央をどこでとるかも疑問だし、銀河系のような渦巻き状のものならともかく、ちょっと想定しにくい状態です。
 その為、むしろ最近では「ビッグチル(ビッグフリーズ、という学者もいます)」と「ビッグリップ」が有力視されているようですが、この両者の起こり方に私は興味深いものを感じた次第です。

 まず「ビッグフリーズ(私はこちらの言い方の方が慣れているので、こちらで統一させて頂きます)」というのは、例えて言えば水滴が水面上に落ちて波紋となった際、どんどん拡大して、しまいには消えてしまうのに似ています。
 宇宙も大爆発した後、みるみるうちに拡張していきましたが、それは減速することなくどんどん加速していき、やがて星々は互いに見えなくなるぐらいに遠ざかり、ついにはエネルギーも底をついて凍り付いてしまう──という説です。

 また「ビッグリップ説」というのは、ビッグフリーズと同じく「宇宙は拡張に拡張を続けた結果、ついには原子レベルまでも崩壊し、すべてが弾け飛ぶように消えてしまう」というものです。
 ビッグフリーズよりも劇的な終末で、桜吹雪のような散りっぷりに何だか惹かれるものさえ感じますね(笑)。
 原子が崩壊する──という感覚、今ひとつ分かりづらいですが、それこそ映画の中にありそうな「崩れっぷり」なのでしょうね。一番近いイメージは……映画マトリックスの三作目「レボリューション」で街の姿が一瞬にして散り散りになり「違う街へと姿を変えた」のに似ているかもしれません。もっとも、ビッグリップ説の場合だと「違う街」に姿は変えず、そのまま消滅してしまうだけですが──。

 「ビッグフリーズ」にしろ「ビッグリップ」にしろ、根拠となっている理論は宇宙は未だに拡張していて、しかもどんどん加速しているということに裏付けられているようです。
 ビッグクランチは「逆」で、この説でいけば「すでに収縮は始まっていなければならない」ことになるそうですが、宇宙の加速化はますます進んでいるそうなのです。

 また、この「加速化」にはあるエネルギーの存在があるらしく、私はそれを聞いて感慨深いものを覚えた次第です。

 この「ビッグクランチ」にしろ「ビッグフリーズ・リップ」にしろ、実はある力の存在がなければ、成し得ないものだったりするのです。
 ビッグクランチは、フリーズ・リップとは逆の作用です。ということは、宇宙にある拮抗するエネルギーの存在があるからこそ、この真逆な理論が提唱されたということになるわけです。
 そして、この拮抗する力関係こそが、重力に関わる暗黒物質と、ダークエネルギーです。

 …………。
 黒黒づくしで、何だか両方「悪者」みたいですね(苦笑)。
 どちら側についても、ダークサイドに墜ちてしまいかねない雰囲気ですが──。おそらく「正体が今ひとつ不明」ということで、こういう名称になっているのでしょう。

 ちなみに、この暗黒物質とダークエネルギーは、力関係的には「真逆の働き」があるようです。
 暗黒物質は「重力」として収縮する働き──そして、ダークエネルギーは「拡張させる働き」があるそうなのです。
 すなわち、この両者のバランスがどのようになっているかで、宇宙は「ビッグクランチ」になるか、或いは「ビッグフリーズ・リップ」になるか、運命が分かれてくるそうです。

 今は「加速化している」ということなので、ダークエネルギーの方が強いのでしょうね。
 でもこれ──非常に「面白いな」と思ったのが、どちらも純粋な力でしかなく、その両者に善も悪もないということの顕著な例のように感じることです。
 暗黒物質は(何だか名前のイメージは悪いですが)収縮への働きがありますが、今の宇宙にこの物質が欠片もなくなったら、それこそ宇宙は瞬く間に「拡散してしまう運命」です。明日の朝起きたら何故か太陽が見あたらず、突如温度が氷点下を遙かに超えて「地球上の生命、一瞬にして凍結」なんてことになりかねません。
 そうならずに済んでいるのは、暗黒物質のおかげなのです。
 また逆に、ダークエネルギーがまったくなかったらどうなるかと言えば──これまた、今度は収縮して潰れる運命。
 右に転んでも左に転んでも──という状態です。

 それを思うと、世界の真理も「似たようなものなのではないか」と感じる次第です。
 すべては相似関係にあると私は思っているので、宇宙の法則はイコール、私たちの精神にも現れていると思います。
 私たちは、拮抗する力は何にでも「善悪」という枠を設け、ジャッジしたがりますが、本来は暗黒物質とダークエネルギーのようにいいも悪いも「ない」のでしょうね。どちらに偏っても、終わりは来る──。

 本来、もっとも理想的なのは拮抗する力の狭間に立ちながら、両者のバランスを取ることなのかもしれません。
 暗黒物質がなくても、また、ダークエネルギーがなくても宇宙のバランスが欠けるのと同じように。

 ちなみに。
 カヴァーロさんの話では、「高次元にも、悪と呼ばれる存在はいる」のだそうです。(ただ、進化過程にある地球のような惑星に、そうした悪の存在は入れないのだとか──)
 スウェーデンボルグも、霊界体験談の中で「神にとっても悪は必要で、そのバランスをとることこそが一番大切」ということを述べています。
 もし地球がアセンションした場合、私たちは自らの選択によって赴く場所を決めることになるとしても、その先にあるのは「バランスを取る必要のない、絶対的領域」かもしれません。
 すなわち、一段階上の世界は(例えて言えば)「ダークエネルギー的作用」をする領域か、或いは「暗黒物質的作用」をする領域の二つに完全に分かたれていて、その「どちらかに属することになる」というケースも考えられます。

 仮にそうだとしたら──今のこの次元にあるようないろいろな力関係がごった煮闇鍋状態というのは、実はとても貴重なものなのかもしれません。
 今のうちに、たっぷりバランスをとることを学んだ方がいいのかもしれませんね(笑)。


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2010-12-16 | 真理 | トラックバック(0) |

恐怖心を、宥める為に。

 ここ最近、私は妙に大地震や大津波など、天変地異の夢を頻回に見ます。
 先日見た夢は、大津波の夢でした(比率的に、何故か大地震よりも津波の夢を見る回数の方が多いです)。
 鳴り響く警報と、高台に向かおうとする車や人の列。しかし夢の中の私は、どんな高台に避難したとしても「避けることが出来ない」というのを分かっていたようです。「どこに行こうとも、助からない」と。
 私が住んでいる家は坂の途中にあって、すぐ上は山に面しているのですが、押し寄せてくる津波はその山の「二倍」ありました。(とはいえ、これは決して非現実的な話ではないです。1958年にアラスカの方で500数十メートルに及ぶ津波が観測されていますし、50メートル前後の津波であれば、割と起きているようなので──)

 やがて轟音と共に迫り来る波が見えるのですが、それを目にした時の私の気持ちは、とても穏やかでした。
 みんな避難してしまったのか周囲はとても静かで、物音が聞こえません。湧き上がる複雑な思いを抱えたまま窓の前に立ち、波が押し寄せてくるのを黙って見つめている──というところで、大抵目が覚めます。
 繰り返し出てくる夢の中でその設定が大地震だろうと津波だろうと大規模な火災だろうと、死を目前にする私はいつでも何故か落ち着いている──というのがパターンでした。
 すっかり覚悟を決めているというか、むしろ「これで漸く、故郷に還れる」という想いが強いのか。
 恐怖心というのは不思議となかったし、目が覚めた後に「夢でよかった~!」と思うようなこともありませんでした。

 とはいえ! 

 夢の中がそうだからといって、実際どうなるかはわかりませんよ~(含笑)。
 めちゃくちゃ狼狽えまくるかもしれないし、イエスが言った「エリエリ・レマ・サバクタニ」どころの話じゃなく神に向かって呪いの言葉吐いちゃってるかもしれません(罰当たりな;)。それどころか放送禁止用語使って罵りまくってるかもしれないし、こればっかりはその時になってみないと、私にも分かりませ~ん(苦笑)。

 ただ、夢の中の自分を見てひとつ不思議に思うのは──
 人間の恐怖の根源って、どこから来るのだろうという疑問ですね。

 その時になってみないと分からないとは言うものの、私は幼少期からの体験が影響しているのか、死を恐れていないようなところはあります。
 むしろ、生きている方が余程辛いことが多いと思っているところもあって、死という「最後のギフト」を受け取るのが楽しみだからこそ、今の生を悔いなく思いっきり生きよう──そう思ってるところがあるのかもしれません。
 すべての恐怖が必ずしも「死」に繋がるものではなく、「生に繋がる恐怖」というのもあるのかどうか──恐怖というのは何を持ってして「恐怖」というのか、そこが疑問になったのです。

 ここで、皆さんに質問です。
 今、皆さんが「究極に恐れていること」は、何ですか?
 もし思いついたら、そのままその恐怖を細かく細かく、分析していってみてください。その先に辿り着く「恐怖の源が、一体何なのか」──私は、それにとても興味があるのです。(もしよろしければ、「自分の恐怖は、こんなところに行き着いた」という内容を教えて頂けると幸いです。)
 その恐怖の源は、「死に至るもの」なのか。
 或いは、死に至るものばかりではなく「生の尊厳が虐げられることそのもの」なのか──。

 例として、自分のことをあげてみます。
 私の恐怖は──詳細は言えませんが(笑)、要約していえば理想を実現することも出来ず、体現する努力も出来ない状況下で拘束されることですね。
 私の場合、恐怖は「死に至るもの」というよりも、「生の尊厳が虐げられること(或いは妨げられること)」に直結しているようです。
 勿論、こうした状況には経済的な拘束、病的な拘束、人間関係による拘束、社会的な拘束など、あらゆる可能性が含まれます。どういうシチュエーションであれ、結果的に「羽根をむしりとられた鷹が、狭い鳥籠に閉じこめられているような状態」というのが、私にとって究極の苦痛であり、かつ恐怖でもあります。

 もっとも、恐怖は必ずしも「ネガティブな作用」があるわけではなく、ある意味「それがあって初めて、人は健全な生活を送れる場合」もあります。
 例えば、人間は本能的に恐れるものが多々ありますが(大量の火とか鋭い刃物とか)、それに恐怖を感じなければそれこそ死に至ったり、或いは誰かを傷つけてしまいかねません。
 また、「生の尊厳を虐げられる恐怖」に関しても、そうした事態にならないよう、或いはそうなった場合の「心の準備」などをすることが出来ます。

 ある意味、恐怖は「うまくつきあうこと」で、自分にとって心強い防具になったりする──とも言えるのかもしれません。
 それにしても「恐怖」という感情は、他の感情に比べてきわめて異質で、かつ影響力が高い上になかなか拭えない厄介な代物です。
 人間を「人間たらしめている感情」というものがあるとしたら、まず間違いなく「恐怖」はその筆頭にあげられるかもしれません。思えば「恐怖政治」という、その感情ひとつで「権力者達の思いのまま」なんて時代(中世ヨーロッパ時代)もあったぐらいですから。

 恐怖心を克服することは、人間である以上は不可能かもしれません。
 「死への恐怖」といった、断定したものであれば別です。しかし、これもまたどんなにひとつのテーマの恐怖を克服しても、また別のテーマの恐怖があるかもしれないのです。
 恐怖は先にも書いたように、「うまくつきあうことで、防具にもなり得るもの」です。
 もしも神や高次元人達に恐怖がないのであれば、私たちは人間の特権(?)として与えられたこの恐怖と共に生きながら、それをうまく使っていく智慧が必要なのかもしれませんね。


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13日(月) 第六章(2)公開しました。
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未来への一石*日本の防衛問題を考える*

 先日記事にした「カタツムリの哀しい思い出」に関して、多くの方からメールを頂きました。
 誠に、ありがとうございます──。
 メールを下さった皆様ひとりひとりにお返事したいのですが、時間の都合上こちらでの御礼のみで失礼致します。(送って頂いたメールは、すべて拝読しております。なかなかお返事出来ないことの方が多くて、本当に申し訳ございません。皆様からのメールは、とても励みになっております。本当にありがとうございます。)

 生命の尊厳については今までことあるごとに語られてきたようでありながら、まだその本質は「決して多くは語られていないかもしれない」そうも思います。
 その理由は、今まで人類が「死」というものをタブー視していたからでしょう。
 本来「生命」は、死をも意味します。
 生命を尊重するということは、生きることだけでなく「死も尊重する」という意味です。それが理解出来ていれば悪戯に生命を脅かすこともないでしょうし、また同時に「どんな生物においても、寿命を全うする権利がある」ということに気づけるし、また、医療が発達して闇雲に延命措置をすることが必ずしも正しいことではないということにも気づけるはずです。
 そうしたことに気づけるのが未だ精神世界を探究する人々しかいないということは、如何に今まで「死」というものが無視され続けてきたかの証明のように思えます。
 生も、死も、両者「生命の一側面」であって、この三つの関係は決してバラバラなものではない──生命の軽視は死の軽視、生の軽視に繋がり、死の蔑視は生命の蔑視、生の蔑視に繋がる。昨今自殺が続いたり、或いは衝動的殺人などがあるのも、結果的には「生命の軽視」──生の軽視(それは実際に、殺人を犯してしまった当人自身の「生の軽視」にも繋がるでしょう)、死の軽視になるのだと、そう思います。

 さて、今回も根源的にはこの生─生命─死に関わる内容です。
 先日、「日本の防衛」に関してメールで質問を頂きました。
 質問者の方は──

●菅内閣で、武器輸出三原則を見直すとの話が出ている件(参照※1 文末)
●上記を鑑み、日本の防衛を考えた場合に軍事武装すべきか、それとも覚悟を持って非武装でいくべきか。


 ──ということに関して、質問してくださいました。
 これはとても大切な質問だと思った為、ブログの方で答えさせて頂こうと思った次第です。

 質問者の方は、「自問自答しても答えが出ない」と仰っていましたが、確かにこの問題は即答出来るような簡単なものではありません。
 個人的なことであればいくらでも言えますが、ひとつの国──色々な考えや思い、様々な状況や様々な精神的レベルの人達がいる団体における答えとして、安易に出せるものではないはずです。
 ですので、答えが出ないということは誠実だからこそだと、そう思います。考えれば考えるほど、そして、他者のことを想定すればする程、ますます答えが見えなくなるのがこの手の問題だからです。
 中国尖閣諸島の問題を皮切りに、北朝鮮の韓国への攻撃、日本の界隈は1年もしないうちにいっきに緊迫しつつあります。そうした背景もあって、菅内閣では「三原則の見直し」が提案されたのでしょう。
 また、日本は第二次世界大戦後アメリカの保護下にありましたが、今やそれは時代が遅し、日本も国として独立する意味で、防衛対策を練るべきだという意見も多々あると思われます(日本の政治家達が独立した思想の持ち主になれるかどうかは、まったくの別問題として──)。
 そう考えると、「軍事武装した方がいい」という意見が正当のように聞こえますし、おそらく国民にアンケートなりで聞いても「軍事武装した方がいい」という意見がほとんどのような気がします。

 しかし──私はあえて、「非武装」を主張します。

 聞く人によっては、私のことを非国民だと思ったり、或いは左翼だと思われるかもしれませんが、別にどう思って頂いても構いません。
 そもそも「地球がひとつの国」と考えている私にしてみれば、右も左も上も下もアカもミドリ(?)もないからです(笑)。
 例えて言えば、ひとつ屋根の下で暮らす大勢の兄弟達が、「俺は弟に命を狙われているかもしれないから、いつでも防衛出来るように包丁を持っていよう」「兄貴に襲われないように、いつでも両手にカイザーナックルしておこう」と互いに思って、ギスギスと生きているように見えてしまうのです。
 兄弟達は互いに自分たちの部屋の前に「カラーテープ」で仕切りを作り、「ここから一歩入ったら、ぶん殴る」「お前こそ、ここから一歩でも入ったら蹴っ飛ばすからな」と言っているかもしれないですね。人類が生まれたばかりであるのなら、それも致し方ないかもしれませんが──これだけ文明が進化してもまだそのレベルだというのは、何だか哀しくさえも思えます。

 もっとも──。
 今は兄弟喧嘩(?)の例で喩えはしましたが、実際にそんな簡単なことではありません。
 先程も言ったように「個人の問題」であれば馬鹿馬鹿しいで済むものでも、その背景には無実の国民というあまりに哀しい犠牲者がいるのですから──。

 だからこそ、この「武装」「非武装」の問題は、一筋縄ではいかないのです。

 ただ、ひとつだけはっきり言えることがあります。
 それは、ひとりでも理想を体現しようと決意する人がいなければ、永遠に理想が現実化することはないだろうということです。 
 「今」という時代においては、非武装を唱えることがどれほど難しく、またレベルの高いことなのかは、多くの方が実感されていることでしょう。
 しかし、だからといって諦めてしまっては、これから先の未来永劫、非武装は「ただの理想」で終わってしまいかねないのです。
 「今、すぐに」叶うことはないかもしれなくても、今を生きる人達が少しでも「互いの国々が非武装になり、核なども保有せず、調和しあえる時代が来るようにしよう」──そう決意することで、今すぐに実現出来なくても、100年後に叶うかもしれないのです。
 私は「自分が生きている今が、幸せであればそれでいい」とは思っていません。むしろ、「今がどんなに辛くても、私がこの世を去った後の未来に末永い平和と調和がもたらされるのであれば、その為にならどんな苦労にでも耐えよう」そう思っています。

 私たちが「今」に紡ぐ想いや行動は、すべて「未来」へと引き継がれています。
 だからこそ、どんなに「理想」だと思えるものであっても、決して諦めずに──それが実現不可能そうに見えるものであれば尚更、強く、理想を念じることが大切だと、私は思っています。

 いつか、みながまるで当たり前のように他者を思い遣り、他者を傷つけることを恥じ、戦争があった時代を振り返っては「何でこんな酷いことを。信じられない」と異なる民族同士で言い合えるような、そんな時代が来ることを、心の底から祈りつつ──。   

(参照※1)三原則見直しと、武器輸出の緩和についての記事↓
http://j.peopledaily.com.cn/94474/7226022.html

【参考資料】
戦争、核実験に関する動画のリンク集です。
これらを見て再度、武装問題に関する答えを、皆さんなりにご一考頂けますと幸いです。

◆World Battleground, 1000 years of war in 5 minutes
(過去1000年間の間に、戦争が起こった地域が分かるという動画です。1900年以降、戦争が急激に多発するのを見ると実に考えさせられます。)
http://www.youtube.com/watch?v=1hsDn2kNriI&feature=youtube_gdata_player

◆2053回の核爆発の場所が分かる映像
http://videotopics.yahoo.co.jp/videolist/official/others/p707541ee67c997c8e5cf1f9cea76f097

◆(衝撃映像)核兵器、水爆、原爆の実験映像
http://www.youtube.com/watch?v=iNR65L4frUU&feature=related

もうひとつ、核実験の悲惨さを語る動画です。イギリスがウイグル地方で繰り返された核実験の影響を調べる為に、極秘で調査をした内容の記録動画です。(分割されて続きがあります。)
【ウイグル】中国の核実験 潜入調査その1【シルクロード】
http://www.youtube.com/watch?v=37sFp3pcPHo


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カタツムリの哀しい思い出

 私はナショナル・ジオ・グラフィックチャンネルが大好きなのですが、残念ながら今の環境ではケーブルで見ることが出来ません。
 しかし、そういう人達への助け船か──ありがたいことに、GYAOでナショジオ専用の無料動画特集があります。(こちら→http://gyao.yahoo.co.jp/p/00787/v09415/)今日は本日配信終了予定の「ミクロの世界へ大冒険!」を視聴していたのですが(とてもいい作品でした。分かりやすい内容で、子供でも充分楽しめます。本日配信終了でなければ、ご紹介したかったところです)その中でカタツムリが出てくる場面がありました。

 その瞬間。
 哀しくて、そして憤りを感じてしまう思い出が蘇ってしまいました……。

 それは、私が中学二年生の時のことです。
 その頃の同級生で、女子からも男子からもからかわれる対象の子がいました。
 今時で言う「いじられキャラ」っていうのでしょうか──? 虐めとは言い難い、でも、からかいの割にはタチが悪いという行為も多々されていて、私はそれが虐めなのかどうなのかの判断がつかず、よく悩んだものです。
 その子のことを、仮にAちゃんとしておきます。
 Aちゃんはパッと見(言葉は悪いですが)ちょっと抜けているような印象があって、そこがいじられキャラのターゲットになっているところでもあり、かつ、Aちゃんの「人の良さ」を表すものでもありました。

 ある日、Aちゃんは学校に来る途中で「カタツムリ」を見つけたといって、連れてきました。
 Aちゃんはもともと亀やおたまじゃくしなど、思春期の女の子には敬遠されがちなペットを飼っていたので、Aちゃんにとってカタツムリは琴線に触れる愛らしい存在だったのでしょう。
 私も、子供の頃から動物や昆虫が好きだったので、Aちゃんのその優しさにはいつでも感心していました。男子の話や芸能人の話、深夜ラジオ番組のことや性行為についてなど、そんなことばかり口にするような生徒達に比べたら、はるかにAちゃんは純朴で、穢れない存在のように思えていたのです。
 他の女子達は、みんな「カタツムリ! 気持ち悪い~!」と大騒ぎしていました。本心で大騒ぎしていたのか、それとも好きな男子の気を引きたくて(笑)そう言っていたのかは分かりませんが、Aちゃんの「カタツムリを連れてきた」という行為は、周囲にとってまたもやからかわれの対象になってしまいました。
  
 もっとも、そこまではいつも見られる光景でした。
 ただ、何かの拍子に、私もAちゃんも、そしてその場にいた私と親しい間柄の人達は、Aちゃんの机と、机の上にいたカタツムリから目を離してしまっていました。

 次の瞬間──。
 誰が最初に気付いたかは、今となっては覚えていませんが、誰かの「あっっ!」という大きな叫び声に私たちは我に返り、Aちゃんの机に視線を戻しました。

 すると──。
 カタツムリがいたはずの場所に、国語辞典がどかりと置かれているではないですか。
 その下のカタツムリがどうなっているか、想像に難くありません……。
 Aちゃんは、悲鳴にも近い声をあげました。
 それと同時に、一斉にあがる笑い声──。

 私は、猛烈に怒りを感じました。
 Aちゃんへした行為だけじゃなく、カタツムリの小さな生命を蔑ろにした行為そのものが、「許せなかった!」のです。
「誰だ、こんなことしたの! 出てこい!」
 あまりの怒りに、私は絶叫せずにいられませんでした。クラスメイト達はみんな、「私じゃない」「俺じゃないよ」と半笑いで誤魔化します。
 あの場で、本心から激怒したのは──たぶん私だけだったと思います。もしかしたら私と同じように怒りを感じた人もいるでしょうが、少なくともその怒りを表に表したのは、私だけでした。
 私は、周囲にいるクラスメイトにも失望しました。半笑いということは、今、目の前で悪戯に殺された生命に対する尊厳など、欠片も感じていないという証拠です。私はこの怒りをどこにどうぶつけていいのか、まったく分かりませんでした。

「早く辞書をどかしなよ! 生きてるかもしれないよ!」 
 女子のひとりが言いました。
 とてつもなく残酷な言葉だと──そう思います。何故なら、どう考えたって生きているわけがないのですから……。
 ちなみに、その辞書はAちゃんの辞書でした。私たちが目を離した隙に、誰かがAちゃんの辞書を、カタツムリの上に落としたのでしょう。
 Aちゃんは「そうだね、そうだね、生きているかもしれないね」そう言って、慌てて辞書を外しました。

 その先は──言わずもがな……です。

 哀れなカタツムリの死骸をみて、「生きてるかもしれないよ」と言った子は、大声で笑いました。
 狼狽しているAちゃんを見て、またみんなが笑います。
 居たたまれなくなった私は、再び叫びました。
「一体誰がこんなひどいことしたんだよ! Aちゃんとカタツムリに謝れ!」
 すると、Aちゃんがボソッとこう言いました。

「いいよ、由羅ちゃん。ごめんね……。あたしがいけないの。あたしが、連れて来たりしたから──」

 私は、Aちゃんに何て言っていいのか──言葉が見つかりませんでした。カタツムリの亡骸は、ティッシュにくるまれ……その後どうなったのかは、覚えていません。
 ただ、今でもカタツムリを見ると、その時のことを思い出すのです。

 ──こんなことが、あっていいはずがない。
 あの後、私は怒りを通り越して、とても哀しくなりました。
 何故、小さな生命を物笑いの種に出来るのか、本当に理解出来なかったのです。
 いえ、もしかしたら「カタツムリの命程度で、ピーピー言う方もおかしい」そういう意見もあるかもしれませんね。
 こればかりは、論議したところで「答えは出ない」そう思います。生命の尊厳は「理屈」で理解するものではなく、「魂で感じるもの」だから。魂で感じられないと言う以上、説得の術はありません。

 あれからもう26年もの歳月が流れ、当時のクラスメイトも立派な大人になっています。子供を育てている人も大勢いるでしょうし、場合によっては当時の私たちぐらいの年齢の子がいる人もいるでしょう。
 生命を軽んじられたカタツムリと、それを奪われたAちゃんの傷を、彼ら・彼女らは覚えているのでしょうか?
 Aちゃんの辞書をカタツムリに落として、素知らぬ顔を出来た人は、そのことを覚えているのでしょうか?
 どんな小さな生物にも生命が宿っていることを、今の彼らは感じているのでしょうか?

 答えは分かりません──。
 でも、私だけはせめて、自分自身が生命を慈しむことはもとより、自分の周りにいる人達にも、生命の大切さを伝えていきたい──そう改めて実感させられる、そんな思い出です。


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2010-12-08 | 雑談 | トラックバック(0) |

何故、日本は自殺者数が減らないのか?

 ここしばらく、日本は自殺大国として記録を維持し続けています。
 でも本来、物質的にこれほど恵まれている国はないだろうに、一体何故そういう国で自殺者が多いのだろう……と、途上国や紛争多発地域の人達は首を傾げたくなることでしょう。

 何故、経済的に恵まれた日本で自殺が多発しているか──理由はいくつか挙げられますが、その中でも大きな要因と思えるのが「こころの空洞化」です。
 これは、ある意味「日本の試練」とも言うべきもののような気がします。
 かつて日本民族は、(このブログでも何度も書いたように)とても繊細な感受性を持っていました。季節感豊かで、四季折々の情緒を表現し、また音を言葉化する才能にも恵まれていました。
 しかし、第二次世界大戦ですべてを失ってからというもの、日本に入ってきたのは物質の豊かさだけが語る幸福感でした。勿論、当時それは「人真似」ならず「国真似」──アメリカに準じたものでしかありません。
 いつしか私たちは、季節の移ろいや「その時だけのとっておき」というものを退け、「年中、いつでも食べられるもの」「年中、いつでも手に入れられる環境」といったものばかりを推奨し、気がつけば「我慢」という言葉さえも忘れてしまったような気がします。

 本来、旬の食事は「季節を愛しむ心」や、「自分たちが自然のリズムの中で生きている」ということを思い出させてくれたのに、そうした「旬」さえもが、日本の習慣から奪われてしまいました。
 そのせいで、スーパーにはいつでも秋刀魚があり、すいかもあり、メロンの隣でみかんが売られている始末。おそらく、子供達の中には旬というものを感覚ではなく「暗記」で覚えざるを得ない子達が、増えているのではないでしょうか。
 こうした「いつでも均一化された生活」が生み出すのは、虚しさであり、心の空洞化です。
 また、均一化されてしまった生活の中では「我慢」という場面に出くわすこともそうそうなくなり、気がつけば我慢は「ストレス」という形で語られてしまうようになりました。
 勿論、そうした空洞化だけが自殺の直接的な原因とは限りませんが、多かれ少なかれ「間接的要因にはなっている」と、そう思います。

 ここ最近の不景気が自殺者数に拍車をかけているとも言いますが、仮にこの不景気が直接的原因であるならば、日本よりも失業率が高いアメリカはさらに自殺者が増加していて不思議はないですし、日本よりももっと貧しい国々の方が自殺者数が増加していておかしくないはずです。
 すなわち、こうした日本の自殺者数が物語っているのは、外的影響ばかりではなく、内面的なものが大きいと、私には思えるのです。

 私は、日本の風土と国民の関係性を、よく「管理された水槽の中で飼われている熱帯魚」に例えることがあります。
 日本の風土が「管理された水槽」で、「熱帯魚」が国民。
 熱帯魚は美しいですし、とても繊細です。しかし、その分ちょっとでも環境が厳しくなれば、それを乗り越えることが出来ず、死んでしまうでしょう。清浄器が働かなくなれば瞬く間に水槽は濁ってしまいますし、酸素も少なくなってしまいます。
 今、日本に起きているのはまさに「その状態」のような気がするのです。

 しかし今、時代の中で起きているのは「グローバル化の波」です。
 アメリカから起きたグローバリゼーションに関しては批判も多く、反してナショナリズム化しようとする国々が目立つようになりました。
 ですが、時代は明らかに逆の向き──「国際的に開かれる動き」の中にあります。どう考えても、このままみながナショナリズム化して鎖国状態になるようなことはあり得ないし、不可能だからです。どんなに「移民反対」だのと言ったところで、少子化問題、高齢化問題が進む国においては移民に頼らざるを得なくもなってくるでしょう。
 そうした中で入ってくるのは、管理された水槽の水ではなく、「厳しい海水である可能性が高い」のです。

 そうした時代を乗り越えていく為にも、個々人が「強さ」を身につけることが大切だと、私は思います。
 本来、そこに必要なのが「精神世界」なはずです。先に書いたように、今の自殺者数増加は外的な影響ばかりではなく、蔑ろにされ続けてきた「内面の問題」の方が大きいからです。
 死も、苦も、その正体が何かを模索することなく、安易な言葉として一人歩きしてしまったこと自体、私たちが如何に精神における影響を考えずに生きてきてしまったかの証明なのですから。

 苦悩は「相対的」であり、絶対的ではありませんが、
 死は「相対的」ではなく、絶対的なのです。


 その差を、自殺をすぐに考える人達は理解していないのではないか──そう思えます。(もし「この意味が分かりづらい」と思った方がいましたら、是非、ご自身の中で解答を出してみてください。そうすることが、強い精神を生み出す為のきっかけにもなるはずです。)

 もっとも……。
 増加する小学生の自殺に関しては、こうしたことを強調出来ないのが辛いところです。小学生ではまだ何もほとんど「分かっていない状態」の方が多いので、そんな過程で自殺してしまうというのはこれは「本人の意志」というよりも「メディアの影響が強い」ようにも思えます。
 もし、本気で「自殺減少」に働きかけたいと社会が思っているのなら、ものの試しに「自殺に関する報道を、いっさいしない」ということをしてみたらいいように思います。
 そうすれば、本当の自殺者数というのが見えてくるようにも思えますので。それでもまだ3万を超えるようであれば──その時は、多くの人が精神的に強くなれる方法を、模索した方がいいのかもしれません。


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【NASA会見顛末】地球外? それとも新種?

 待ちに待った(?)NASAの公式発表がされました。が……概ね、「あ、やっぱりね」という感じのものでしたね(笑)。
 この程度の内容であれば大々的に発表と叫ばなくてもいいような気がするのですが──。
 まだご存知ない方もいるかもしれませんので、以下、転載します。

ヒ素を利用して生存=新細菌、米国の塩湖で発見―地球外生命探索に影響も
時事通信 12月3日(金)4時17分配信


 生物が生きて増殖するのに使う主要な6元素の一つ、リンの代わりにヒ素を利用する細菌が、米カリフォルニア州の塩湖「モノ湖」で初めて見つかった。米航空宇宙局(NASA)などの研究チームが論文を2日付の米科学誌サイエンス電子版に発表した。生物の概念を変える発見であり、地球外生命を探索する際にも視野を広げる必要があるという。
 モノ湖はサンフランシスコの東方、シエラネバダ山脈の麓にある。湖水は塩分濃度が高く、アルカリ性で、人間など通常の生物にとって有毒なヒ素が多く含まれている。
 湖底で発見された新細菌は、大腸菌と同じ「ガンマプロテオバクテリア」のハロモナス類に属し、「GFAJ―1」株と名付けられた。リンは遺伝情報を担うDNA(デオキシリボ核酸)やたんぱく質、脂質の主要な成分だが、リンが全くない環境で培養すると、代わりにヒ素を取り込んで利用し、増殖することを実験で確認した。
 ヒ素は、元素の周期表で窒素やリンと同じ15族に属し、化学的性質が似ている。昔から農薬やネズミ退治の薬、毒薬に使われてきたのは、細胞内に容易に取り込まれ、さまざまな酵素の働きを阻害するためだ。しかし、研究チームはヒ素が毒にならず、リンの代わりになる細菌が存在すると予想し、探し当てたという。
 地球上の生物が使うリン以外の主要元素は水素、炭素、窒素、酸素、硫黄の五つ。周期表の初めの方に位置し、宇宙や地球での存在量が多いため、生物が利用するようになったと考えられてきた。
 NASAはこの発見の意義について、日本時間3日午前4時からワシントンの本部で記者会見を開く予定。 


 皆さんは、この記事を読んでどのような印象を持たれましたか?
 私は正直、「え? それって、ただ単に有毒な厳しい状態だったから、環境適応して進化しただけの話じゃないの?」と首を傾げました。
 勿論、専門的なことはまったく分からないので、「地球外生命体に繋がる発見」という根拠がどこにあったのかも想定出来ませんし、実際にそれほど有毒な環境における進化があり得るのかも分かりませんが、どちらにせよ「NASAにしては、ちょっと勇み足な発表じゃないかな?」という印象を受けました。

 そんなふうに思っていたら、私と同じように感じた方は他にもいたようで──以下、その記事を転載します。

NASA発表の新型細菌に批判的な見方も「地球外生命体を語れない」-米誌
サーチナ 12月3日(金)11時22分配信


 米航空宇宙局(NASA)は2日(日本時間未明)、ワシントン市内で記者会見し、生物に不可欠と考えられていたリンの代わりに、有毒なヒ素を摂取して生命を維持できるバクテリアを発見したと公表した。

 この新型のバクテリアは、米カリフォルニア州にある塩湖のモノ湖で発見された。NASAは「太陽系内での生命体における今後の探索で、より広範囲で多様に、未知の生命体について考慮すべき」だと発表している。

 今回の発見は、NASAが事前に会見の予告を行っていたことから米国のメディアでも話題となっていた。米ニューヨークタイムズは「ヒ素を摂取し生存するバクテリアは、生命の常識を覆すかもしれない」というタイトルで報じ、誰も予測しなかった生命体が、宇宙のどこかに存在する可能性の展望が開けたと報じている。

 一方、米科学誌「ナショナルジオグラフィック」のブログサイトでは、ミネソタ大学の生物学者、マイヤー(PZ Myers)氏が、この発見に対する批判的な見解をつづっている。同氏は「発見された新型のバクテリアは、厳しい環境に適応したバクテリアから派生したものであり、地球外生命体について語れるかは疑問」と指摘している。

 また「生物は驚くほど幅広い範囲で生息できることが判明したというが、我々はすでにそのことを知っていた。これは予測されていたような世界を揺るがす大ニュースではなく、ささやかな生命の物語と言えるだろう」との見方を示している。(編集担当:田島波留・山口幸治)


 大発見でなく「ささやかな生命の物語」だって、充分だと私は思います。
 やっぱり、そうなると何でこんなに大々的な発表をしたのか、疑問の余地が残りますね。
 でも、意外なことに友人仮説「新種アメーバーの発見」が、とりあえず答えに近かったことになります(汗)。
 篠崎、「ひとし君人形、没収!」です──(^^;)。←by世界ふしぎ発見


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NASAの発表は「吉」と出るのか──それとも?

NASAが「地球外生命体」発見? ネットでは「宇宙人」を期待
J-CASTニュース 12月2日(木)20時2分配信

 米航空宇宙局(NASA)が「宇宙生物学上の発見」について記者会見を開くと発表した。発見の詳しい内容は明かされていないが、ネット上では、会見の出席メンバーの研究内容などから、その内容を類推。「地球外に生命体が発見されたのではないか」「宇宙人?」などと様々な憶測が広がっている。

 会見が開かれるのは、2010年12月2日16時(米国東部時間、日本時間では12月3日4時)で、目的は、「地球外生命体の証拠の探索に影響する宇宙生物学上の発見について議論すること」。「宇宙生物学とは、宇宙での生命の起源、進化、分布、将来に関する学問です」とも説明されている。

 発表内容について説明されているのはこれだけだが、5人の登壇者の名前も発表されている。登壇するのは、NASA本部宇宙生物学プログラムディレクターのメアリー・ボイテク氏、NASA宇宙生物学研究員のフェリーサ・ウォルフサイモン氏、生物科学者のパメラ・コンラッド氏、応用分子進化財団特別研究員のスティーブン・ベナー氏、アリゾナ州立大学教授のジェームズ・エルサー氏。

 この5人のバックグラウンドは、酸素を使わずに光合成を行うバクテリアなどの研究をしていたり、火星探査機の研究をしていたり、生物の進化の過程における化学反応を研究していたりと、様々だ。

■土星の「月」で光合成が行われていた?

 比較的有力な見方が、ブロガーのジェイソン・コットケ氏の「土星の惑星『タイタン』でヒ素が見つかったのではないか。そして、ヒ素が光合成に利用されているというバクテリアの化学的証拠も発見したのでは」との見方だ。ニュースサイト「ゴーカー」やフォックスニュースでも、この見立てを支持する論調だ。

 また、技術サイトの「PCワールド」は、「進化生物学や水生細菌といった、何か水と関係のある発見があったのでは」と予測。ネット上では「UFOが見つかったのではないか」との声もあるが、そのような報じ方をしているメディアは、現段階では見あたらない。

  NASAは09年11月には、火星から飛び出して地球の南極に落下した隕石について、「隕石に生命の痕跡らしきものがある」と発表。専門家の間でその妥当性をめぐって議論がくり広げられている。今回の発表は、さらに議論に一石を投じることになりそうだ。

(Yahooニュースより転載)



 多くの方が、この記事に書かれているNASAの会見についてご存知のことと思います。記事にもあるように宇宙人の期待をされている方も多いようですが、私的には半信半疑です。
 他にも「NASAがそのような宇宙人を好意的に捉える情報を、発表するわけない」或いは「今まで敵対に近い関係だったUFO研究家達を喜ばせるようなことをするはずがない」など、意見自体が多岐に分かれているようです。
 NASAの目論見自体は分かりませんが、仮に高次元人に何らかの意図があって今まで接触していたのだとしたら、このような形で発表に至るような手段をとるだろうかと私的には非常に疑問です。
 仮にそういう劇的な展開になったにせよ、私は「かえってそれは、『地球人の為』にならないのではないか」そう思えます。

 例えて言えば。
 新しい人類を創り出そうとして、ある実験施設を創設したとします。
 実験施設にいる人たちがまだ子供であるうちは──或いは、まだ実験が初期段階にある時は、研究者側である人たちがその施設内に踏み入れて、子供達に色々な知識を教えるでしょう。
 でも、新たな人類を生み出す為に一番大切な目的はその人類の「自立」です。
 自立というのは、どの生物にも当てはまる究極であり、かつ共通された目的だと、そう思います。
 野生動物の子供達が自立出来なければ、幼いうちに他の動物の餌食になって死ぬだけです。だから動物の親たちは、ひたすら子供の自立を援助しています。
 人間だって同様です。親は必ず子供より先に死んでしまうのですから、自分たちがいなくなった後でも子供が自立出来るよう教育することこそが、本来の親の役目だと思えます。現代日本でそれが出来ているかは疑問ですが、人間も自然の一部であることを考えれば、どう視点を変えても「自立がテーマ」だと私には思えるのです。

 それと同じように、新たな人類を生み出す時もやはり「自立」が目的とされるでしょう。
 いつまで経っても「神様~、何か知恵ちょうだい~」とすがってるような人類など、困りますよね(苦笑)? 新人類育成の為の実験が、いつしか「のび太の育成実験施設」にとって変わられてしまいます(爆)。そんなに沢山のび太が出来てしまったら、ドラえもんがどれほどいても間に合いません(しずかちゃんもゆっくりお風呂に入れなくて、さぞかしいい迷惑でしょう)。
 そんな新人類の研究、研究者だって望んでないはずです。
 自立を目的とするのであれば、研究者はいずれ実験体の人たちのもとを去らねばなりません。直接のアプローチは限定し、「進化と発展をする為、いかにして人類が自立していくか」を外側から見守っていることでしょう。

 これはあくまでも「例え話」ですが──仮に「実験体」と「地球にいる人類」を置き換えた場合、突如宇宙人に関する情報が大きく進展するというのはせっかく自立しかけていた人類を、また元に戻してしまうことになりかねないのでは?──そういう疑問が、私の中にはあるのです。

 そういった筋書きで考えても、まず劇的な展開は「ないだろう」と私は思っています。
 それに、仮に何か「三次元的に解析出来る生命の存在を突き止めた」というのであれば、それは「同次元の存在」というだけでしかなく、カヴァーロさんやハワード氏が言っているような「高次元人とは異なる」と、そうも思います。
 こうした宇宙人の問題を考える時は、絶対に「この三次元宇宙の枠だけに、囚われるべきではない」そう思います。必ずしも宇宙人が「いつでも目に見えるわけではないんだ」という前提を持っていないと、とんでもない思い違いをしてしまいかねないからです。

 個人的に、NASAの発表内容というのは映画「2010」に出てきたような「衛星のひとつに、光合成する物質を発見した」とか、「生物の組成に近いものを見つけた」とか、そんな感じなのではないかと思っています。
 私の友人は「新種のアメーバーじゃん?」と言っていましたが……新種のアメーバー発見の為に、大々的に「発表宣言する」っていうのは、どうなのかな──と(汗)。

 いずれにせよ、明日の今頃ははっきりしてそうですね。
 期待半分、平常心半分で、待つとしましょう(笑)。


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プロフィール

篠崎由羅(しのざきゆら)

Author:篠崎由羅(しのざきゆら)
1970年生。幼少期から哲学・宗教学に造詣を深める。思想および思想史、それに付随した国際事情に興味を抱いて独学を続け、大学ではインド哲学科専攻。東西問わず、両者の思想に渡り研究を深める。

現在は看護師として施設で勤務しながら、その傍らで執筆活動を続けている。2016年11月にYOU are EARTH改め「WE are EARTH」の活動を再始動予定。より良い未来の地球のため、全力を尽くす誓いをたてている。

【篠崎編集担当】


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