物質世界という名の檻

 父の死に関して、多くの方からメールを頂きました。
 お心遣い、誠にありがとうございます。本当はきちんとお返事したいのですが、しばらくの間は時間が取れないと思うので、この場での御礼にてかえさせて頂きます。

 最近、「人間社会における死」についてよく考えています。
 普通の「死」であれば、前回の記事にも書きましたように、三次元における拘束からの解放と私は考えています。しかし、「人間社会における」という前提がつくと──話はまったく、変わってきてしまうのです……。

 今現在、私は「死そのもの」と向き合う間もなく、ただひたすら葬儀準備に追われています……。
 亡くなったのは23日ですが、すぐ連絡したにも関わらず斎場の予約がとれなかったので、通夜が一週間延びてしまったのです。
 その為、告別式が終わりすべてが完結するまで、かなりの時間が出来てしまったという──。(余談ですが、妙に最近「亡くなる方」が多い気がします……。私の近所の斎場も、毎日通夜なり葬儀がされている程です。かなり高額な斎場なので、今までそんな頻回に葬儀がされているところなど見たことないのですが──。ある意味、これも2012に向けてのひとつの流れなのだろうか、などと感じています。)

 父が危篤になってから亡くなるまでよりも、亡くなってからの方が「忙しい」気がします……。
 何よりも「葬儀の準備」が大変で──経費を削減しつつ、でも「多くの弔問客(金はないクセに、人脈だけはある親なので;)」が見込まれる為、帳尻あわせるのでてんやわんやです。

 しかし──。
 そうした葬儀の対応に追われる中で、ふと思うのです。
 葬儀とは、果たして「誰のため」にあるのだろうと。
 私は前からそのことを疑問に思っていましたが、自分が直接的な体験をするまでは「遺族のためにやるのだろう」と、そう思っていました。
 まぁ、「死を自覚していない故人に、気付かせる為」というのもあるでしょうが──私が思うに、最初から死を自覚出来ていない故人の場合、葬儀程度では「自覚しないだろう」と思います。おそらくは、まるで他人事の顔して遺族席に座っているような気がしますので(事実、そういう例が沢山あるのだと、霊感のある僧侶が語っていたのを思い出しました)。
 だから葬儀はむしろ、「故人との決別を自覚するよう、遺族のためにするのだろう」と、そう思っていたのです。

 なのですが──。
 いざ自分が直接的な遺族になって思うのは、「故人との決別をするのであれば、葬儀なんて厄介なことしない方が、遙かに心の整理がついていい!」ということでした……。
 葬儀の段取りだの弔問客への配慮だの──ぶっちゃけ三次元の拘束ばりばり!で、今になっても「何のためにするのか」まったく分かっていないまま、周りの意見に押し流されて動かしているといった感じです(「周りの意見に動かされるなんて、篠崎らしくない」とお思いの方もいるでしょう。ですが、残念ながら故人は「死に必ずしも達観していた」とは言えない父であり、喪主は母なのです。そうである以上、彼らが重んじる世間の慣習に、私も従わざるを得ないのです──。)

 はっきりいって──かなり「しんどい」です……。
 すごく協力的になってくれている親族がいるからこそやっていられるようなもので、それもなければ、「葬儀の意味」について模索する為、山奥の庵にでも籠もってしまいそうな勢いです(……籠もっているうちに、葬儀が終わってしまいますな……)。
 葬儀やそれに纏わる慣習は、そこに住む人達の「地域性」や「伝統」を意味するものでしかなく、直接的に故人の霊魂への浄化に繋がるかといえば、そうではないようにも思います。また、これだけ信仰心が薄くなった社会においては、「この宗派のもとで、旅立ちたい」という思い入れもそうそうないでしょうし、ますますもって「葬儀とはなんぞや?」という思いに駆られます。
 以前注目された映画「おくりびと」は残念ながら見ていないので、もしかしたらそこに「葬儀における意義」があるのかもしれませんが──どう百歩譲っても、私にとってこうした儀式は物質世界における区切りでしかなく、あまり「意味がない」ように思えてならないのです……。
 少なくとも、今回の一件を通じて私は「自分が死んだ時の為に『散骨』の申込みをしておいて(最近では、死亡保険のように事前に申込みしておけるシステムがあるようです)、遺書にも『葬儀をしないでいい』と残しておこう」と、つくづく思いましたが……。

 本来、誰かの負荷になるような儀式というのは、筋が違っているのではないかと感じます。
 結婚式にしたって、「節目」とは言いますが、そんなものは自分で自覚すればいいだけの話であって、わざわざ披露するものでもない──世間ではよく「いきなり結婚式に呼ばれて、金がかかって困る」なんて意見も聞きますが、そんなふうに周りに迷惑をかけてしまうものを「する必要性って、あるのだろうか」と私は疑問でならないのです。

 勿論、周囲が「自主的に」というのであれば、話は別です。
 黒澤明監督の映画「夢」に出てきたように、「死んだ人を、村人総出で踊りながら送り出す」というのは、なかなかいい姿勢だなと思いました。
 あの作品に書かれていた死は決して「ネガティブ」ではなく、「今までお疲れ様」という意味で、まるで旅人を見送るかのように笑ってみんなで送り出すというスタイルで、個人的に「すごくいいな、こういうの」と感じました。
 こういう葬儀であれば、送られる方も幸せだろうし、送る方も「楽しい」でしょう。また逆に、そんな葬儀に参列した側も「こんなふうに自分も見送られたいから、精一杯頑張って生きよう」というモティべーションに繋がるかもしれません。

 どうせ儀式をするのであれば、みんなが幸せになるものであって欲しい──そう思います。
 今ある葬儀のシステム、これだけ永く慣習として残っている以上は「必ずや、意味がある」のだと思えます(もっとも、江戸時代などのシステムは上記紹介した「夢」に近いシステムだったのかもしれません。唯物的視点が入ることによって、葬儀の意味も変わってきたのかもしれませんが──)。
 しかし、様々に時代が変わってきて、「肉体に宿っている時だけがすべてではなく、むしろ、その時の方が『かりそめ』かもしれない」と思われるようになった「今」も、多くの負荷をかけて葬儀をしていく意味があるのだろうか──と考えずにいられません。
 これらはあくまでも「物質世界のシステム」であって、故人の霊魂をさておいた「表層的は廻り」でしかないように思えてしまうのです……。

 今まさに、私は「物質世界の檻の中」に閉じこめられているような感覚です。
 自分ひとりの問題であればはね除けられますが、多くの人達の思いが絡んでいる以上、そうも出来ません。
 おそらくは、これもまた私の「学び」なのでしょう。自分の価値観とは大きく異なる渦の中で、その「つなぎ目」を辿りながら今を生きている──といった今日この頃です。


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2011-05-26 | 社会 | トラックバック(0) |

『死』について考える

 今週末に予定していた小説更新日予定公開やメールの返信が出来ておらず、申し訳ありません。ツイッターにも書いたように父の危篤により、時間をとることが出来なくなってしまいました。

 21日の深夜2時、突然、父親の心臓が止まりました。
 原因は、まったく分かりません。心臓病を持っていたわけでもなければ、健康診断で動脈瘤などの指摘も受けたことはありません。その前日の夜(20日の夜)には予兆もまったくなく、突如、呼吸が停止したのです。
 ただ、「胸が痛い」ということだけは言っていたようです。前日に「右肩から腕にかけてと、胸全体が痛む」ということを告げていたようですが、その痛みも「酷い痛み」というわけではなく「ぼんやりと痛む」といった感じだった為、「神経痛じゃないの?」ぐらいにしか周囲は認識していませんでした。ましてや、その訴えさえも「ずっと前から言っていた」のではなく、「その日だけ」だったのですから。

 深夜、寝ていた私の部屋の外で、母から「由羅さん、ちょっと来て。お父さんが息をしていないみたいなの」と言われた時は、「え? まさか」といった感覚しかありませんでした。
 しかし実際にいってみたところ──頸動脈はとれず、脈拍もとれずで……すでに冷たくなっていたのです。

 でも……不思議ですね。
 私がその瞬間、一番最初に思ったことは──
「……やっと解放されたね。もういいよ、ゆっくり休んで──」
 ──その一言に尽きたのですから。
 時間がだいぶ経ってから様々な後悔や自分への戒めの言葉など浮かんで来ましたが、冷たくなっている父の体に触れて一番最初──いわば「こころの一番搾り(笑)」とも言うべき言葉は解放だったのです。

 他者の死に触れた際、「一番最初に浮かんだ想い」というのが、その人にとっての、死のイメージなのかもしれません……。
 パニックになる人もいれば、「何て不幸なんだ」と思う人もいるだろうし──他者の死を前にして「一番最初に浮かぶ想い」は、本当に人それぞれなのでしょうね──。

 今はまだ語れる程の精神状態ではありませんが、父の後半生は本当に「哀れな人生」でした。
 私と父は、ずっと前から「犬猿の仲」で、父は私を怖がっていたようなところがあるし、私は私で(変に生真面目な性格故)父のことを「不誠実だ!」と思っていました。
 そうした間柄の存在の死であっても、喪失感は残ります。
 そして「悔い」や、反省や──あらゆる複雑な想いが浮上してきます。
 今はまだICUで植物人間状態のまま肉体はありますが、血圧はもうすでに上が40まで落ちており──明日、担当医と「今後をどうするのか」を話し合ってくることになりそうです。

 死と向き合った時、私が一番感じるのは死に逝く魂が、果たしてどれほど生命や死のことを知っていただろうという疑問です。
 今まで私たちは(特に日本は)、死をあまりに「タブー視」していました。
 そして、「臭いものには蓋をしろ」の精神で誤魔化し続けてきた結果が、皮肉にも自殺大国と言われる程の自殺の増加現象だったのです。
 私は父が死に旅立とうとしている中で、もっとも気にかけているのが「父はどれほど、死について知っていただろう」ということです。精神世界に関する文章を執筆している私ですが、だからといって肉親が「死や精神について、よく理解しているか」といえば、そういうわけではないのですから。

 私たちは、どう足掻いたところで必ず死に逝く存在です。
 なのに何故、その先のことを誰も語ろうとしないのでしょう。考えようとしないのでしょう。
 化学も医学も、それそのものは「死の向こう側の世界」を「何一つ証明もしていない」けれど、同時に「否定もしていない」のです。
 「死んだ後、何も残らない。人間は物質でしかないんだ」というのは人間が勝手に出した結論であって、化学や医学の発達が証明した結論では「ない」のです。
 何故なら、化学や医学は「人間が生きていく為の過程でありツールでしかない」のであって、「人間が存在する為の、答えではないから」です。

 それなのに何故、人間が「死」について語らなくなったかと言えば──私は思考停止してしまっただけのように思います。
 考えるのが面倒くさいから、そこで「考えるのをやめてしまった」という──養老孟司さん風に言えば、そこが「バカの壁」なのかもしれませんが……(苦笑)。
 勿論、歴史における背景だってあるでしょう。よく取り沙汰される「第二次大戦中、日本は『お国の為に』といって死を賛美したから」という理由も一理あるでしょうが、すべての理由にはなりません。何故ならそれは「社会情勢や大衆の姿勢の問題」であって、「死、そのものに罪があるわけではない」からです。

 私はもっと、死について多くの人に真実が伝わって欲しい──そう願っています。
 人間は「物理的な世界を便利にすること」ばかりを考えて、「肉体の生が終わった後のこと」をまったく意識してきませんでした。
 でも、もしも「肉体の生が終わった後も、魂は永遠に存在する」ということに意識を向け、それを「論理的に証明しよう」という人達がもっと増えていけば──時代は必ずや「死の扉の向こう側へ続く通路」を開けてくれるような気がします。今までにもシュタイナーやスウェーデンボルグのような人達が出てきたのと、同じように。

 観念を「ロジック化」出来たとき、精神と物質は融合を果たす──そんな気がします。
 その融合を果たす為のきっかけは、もうすでに「ある」ような気がするのです。
 こうした時代のタイミングで、突然の事故死のように父の死と向き合えたのは──私にとっては「大きな意味」があるのかもしれません。

 死は「通過地点」でしかなく、主体である「霊魂は不滅」である──。
 こんな言い方をすると、ロジックが苦手な父には「もっと分かりやすく言え」と言われそうですが(苦笑←でも、本来は高校の物理教師なのですけれどもね……)、今となって私に出来ることは「そうやって、父に霊魂の不滅を語りかけることぐらいなのかもしれない」──そんなふうに感じています。  


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2011-05-22 | 真理 | トラックバック(0) |

『○○を信じないと、あなたは死にますよ!』

 先日、茶道教室を開いている母の元にある女性が訪れました。
 その女性──仮にAさんとしておきましょう。
 母はもともとAさんと顔見知りで、茶道関係で何度かやりとりをしていました。そんなAさんがたまたま家の近所に引越してきたということを知り、母は親切心から「今度ゆっくり遊びにいらっしゃいよ」と声をかけたそうです。
 それから数日後、Aさんは約束通り訪れたそうですが──何故か、見知らぬ女性と「二人組」で来ました。母は茶道関係の友人を招く時は必ず茶席を設けるので、炭をおこし、抹茶や和菓子も用意していたのですが二人で来るとは知らなかった為、慌ててもう一人分用意したそうです。

 そして楽しい談話の時間になるはずが……。
 Aさんは「談話目的」で来たのではなく、宗教の勧誘で来たことが分かったのです。
 正式な宗教名を聞きましたが、私も聞いたことがないような集団でした。話を聞いてみたところ正式な宗教団体(宗教法人など)ではなく、誰かが個人的に人を集めて、宗教化してしまったという感じの団体だったようです。設立自体が平成10何年だったので、出来て数年前後の「新興宗教」と呼ぶにも知名度がないぐらいの「新々興宗教」かもしれません。

 その団体では、日蓮を「神」としていたそうです。(日蓮を神格化している団体は数多くあるので、思い当たる団体があっても一概に該当団体とは限りません故、ご注意ください。)
 そして、日蓮以外に、神はいない──その上、宗教も法華経以外はすべて「偽り」で、悪いものだとAさんは主張したそうです。
 さらに極めつけ、「今すぐ改宗しないと、あなたは死にますよ」と断言されたそうです。
 その上、「今回の震災でも、日蓮を信じている人はみんな助かったけど、信じなかった人は亡くなった」と言ったのだとか。(注意※これは、あくまでもそのAさんの「偏った言動」を露呈する為に書きましたので、決して真実ではないことをご承知おきください。私もこのことを書くのに抵抗がありましたが、むしろ「こんな考え方をする人がいる」ということを知って頂きたかったので、あえて書くことにしました。)

 母が憤慨したのは、言うまでもありません。
 帰宅した私を捕まえて、「あなたがいてくれたら、Aさんなんか簡単に論破できただろうに!」と悔しそうに叫ばれました……。

 ──いやはや。
 誤解なきように申し上げますが、私はどの宗教に対しても「否定はしません」。
 なので、Aさんと私が鉢合わせしても「ふ~ん、そうですか~。すごいですね~。日蓮、ちょ~よく知ってますよ~。鎌倉幕府つくった人でしたよね~! えっ、違う? じゃぁ、島原の乱の人でしたっけ~? あ、違う違う。花の名前だ──って、あれは木蓮か~! あれぇぇぇ?」と、「知ったかぶり☆」をして誤魔化して終わるでしょう。

 とはいえ、Aさんがそこまで「盲信」してしまったのには、Aさんなりの理由があるようです。
 Aさんも様々な辛い出来事があり、心がくじけそうになった際、何かしらのきっかけがあってその宗教に魅力を感じてしまったのでしょう。
 確かにAさんの排他的な姿勢は受け入れられるものではありませんが、だからといってAさんが信じることを「否定する」こともまた同じように排他的な姿勢となってしまいます。
 よく新興宗教の勧誘について憤る方々がいらっしゃいますが──なんのことはない、イヤなら断ればいいだけの話です。
 勧誘されるという事実ひとつをとって、その人の信じているものを「全否定してしまう」というのは、私は「結局それもまた、排他的だ」と思えるのです。

 Aさんは(というか、おそらくその団体の教祖?がそういう教義を伝えているのでしょうが)、やはり「2012年」のことを言っていたそうです。
「2012年に地球規模の災害が起こるけれど、日蓮に守られた日本だけは助かる。でも、日蓮に改宗しなければ、その人は死ぬ」と言ったのだとか。
 それを聞いた母はさらに憤慨し、「ウチの娘は『あなたは地球で、地球はあなただ(※母は未だに、英語でYOU are EARTHが言えないのです……)』と言ってます! 地球全体の危機に、自分たちだけのうのうと生き残りたいなんて思いません!」と啖呵をきったそうです。
 その怒りが、Aさんにどう伝わったかはわかりませんけれども──。

 2012年、アセンションについて色々な説が飛び交っていますが──もし仮にアセンションが本当に起こるなら、「もうすでに始まっているのでは?」と思うことが多々あります。
 そうした中で、「○○をしていれば、助かります」だの「××を信じていれば、死ななくてすみます」だの──もう「時代錯誤も甚だしい」と、私には思えるのです。
 勿論、先程も言ったように「信じている方々の信仰そのもの」を、私は否定しません。どんな宗派であろうが、自分が信じているものは最後まで「責任もって」信じとおせばいい──そう思います。それこそが、本当の意味での「信仰心」です。

 ずっと前にこのブログでも書きましたが、親鸞の言った言葉「そのまま」です。
 親鸞は「誰でも極楽浄土に行ける」と言った人ですが、ある日弟子に「もし本当は極楽がなかったら──どうしますか?」と聞かれた際、こう笑って答えたそうです。

「そしたら地獄に行くまでよ」

 Aさんや、Aさんと同じように何かを信じている人達は、是非、この「親鸞の境地に至って欲しい」──そう思います。
「そんなことない! 絶対に極楽はあるんだから!」と言うのであれば、それは信仰ではなく「自分だけが助かりたいというエゴでしかない」のは、説明するまでもないでしょう。 
 世の中にはきっと、Aさん達のように「○○を信じましょう! そうすれば、救われます」と、未だに他力本願な人達もいるでしょうね。
 でも、本当の意味で自分を救えるのは「自分しかいない」──本当の意味での信仰は「自立した関係でしか成し得ない(親鸞は極楽に依存していたのではなく、自立していたからこそああ言えたのでしょう)ということを、その方達には是非、気付いて頂きたい──そんなふうに思った出来事でした。


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 メールの返信が相変わらず遅れております……。今週末にお送りしますので、今しばらくお待ちください。大変永らくお待たせしてしまい、本当に申し訳ございません──。

 
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2011-05-19 | 雑談 | トラックバック(0) |

HAARPがあろうがなかろうが、『哀しみ』は変わらない

 前回の更新から、一週間以上が経過してしまいました……。
 ツイッターにも書きましたが、今週は本当に怒濤のスケジュールでして──帰宅が22時過ぎ、家を出るのが6時という生活が続いていました。週末になり、ようやく一息つける状態になってホッとしています(笑)。

 日常はこんなにも慌ただしい私ですが、不思議と精神的には落ちついています。
 今までは、日常が忙しいと高次意識的なことから切り離されてしまうことが多かったのですが、どんな状態にあっても常態の意識とは別の存在と並存しているような感じで、不安感はありません。カヴァーロさんが言っていた「自分の肉体はここ(地球)に存在しながらも、複数の次元にも同時に存在している」という感覚は、もしかしたらこんな感じなのでしょうかね。(とはいえ、物理的な肉体は時間に拘束されているので、ブログの更新が減ったりメールの返信が遅れてしまうのは、何卒ご容赦くださいませ……)

 ブログの更新は滞っておりましたが、帰宅した後わずかな時間の中で、あちこちネットサーフィンをしてはいました。
 その中で、どうも「HAARP(地震兵器)」の記事を目にする機会が多かったような気がします。
 私は以前の記事にも書きましたが、HAARP説に対してあまり過敏になるのは「よろしくない」と考えている人間のひとりです。
 先日書いたように、反対活動や批判活動は、かえってその荷担になってしまうことを避ける意味もあります。
 そういう書き方をするとまるで私自身がHAARPの実在を認めているかのようですが、言ってしまえば私のスタンスはあろうがなかろうが、どちらも変わらないという位置にいます。

 仮にそれが「あった」としたら、どうしましょう──? 
 いつM9.0以上のクラスの地震が来るかわからないから、防災頭巾を被って毎日暮らしていればいいでしょうか?
 それとも、「おのれ、この悪党め! 私が成敗してくれる!」と言って、アラスカまで乗り込んでいって、兵器の破壊を試みるのでしょうか?
 どちらも、私的には「ご免被りたい……」って感じです。

 究極のところ、HAARPという言葉に過敏な反応をしてしまう人の心理を突き詰めていけば、行き着く先は死への恐怖に他ならない気がします。
 死への恐怖と言ってしまうと、自分の死だけを言っているようですが、ここでいう場合は「他者の死」も含め「喪失への恐怖」です。
 或いは、「日常生活の死」とも言えるし、「社会の死」「国の死」とも言えるかもしれません。
 何かしらの異変が起きて、今まで当たり前だった生活、すべてが失われることへの恐怖なのではないかと、そう思えるのです。

 勿論、そうした恐怖は「超えることが難しい」そう思います。
 そして、その哀しみから解放されることだって難しいだろう──そう思います。
 しかし、そこで考えて欲しいのは、「その哀しみは、人工災害と自然災害で、何か違いがあるのだろうか?」ということです。

 起きたきっかけがどうであれ、失われた存在──失われた生活、失われたすべては「戻ってこない」のですから……。

 「失われることを避ける為に、大きく叫ぶ必要があるんだ」という意見もあるでしょう。
 でも、それこそこうした「実害が起きている事象については、決定的な物的証拠なりを持ってくるべき」です。
 実際に被害があることに対して、実証もなしに叫ぶのはただの無責任行為になってしまいます。

 9.11に関しては、確かに「真相を求める姿勢」はうなずけます。
 何故なら「容疑者が存在するから」です。
 容疑者がいる事件であれば(すでに亡くなってしまいましたが)、真相を明かす必要はあるでしょう。濡れ衣や、或いは企みによって「容疑という不利な側面により、不利益を被る無実の人達が出てくる危険」があるからです。中東の激化した紛争などは、言わずもがなです。
 しかし、震災については「容疑者が存在しない」のです。
 にも関わらず、そこに隠謀論を持ち出すのは、敵を自らつくりだす行為と等しくなってしまうでしょう。
 理性で判断出来るうちはいいです。しかし、根も葉もない噂に尾びれ背びれがついた時、人は予想だにしない行動に出たりするものです。9.11直後、テロ容疑者としてビン・ラディンの顔写真が公開された時、「顔が似ていた」という理由だけで、無実のアラブ人が射殺されたのと同じように──。
 「どこかに敵を作り出した」時、その時は「自分のこころの中に、敵を作ったのだ」と思った方がいいような気がします。

 こういう時代だからこそ、余計に闇の動きに目がいきやすくなるというのもあるかもしれません。
 しかし、私はむしろ「闇が強くなる程に、同じように強くなる光の存在」を感じています。
 どちらに注目するか、結局は「自分次第」ということなのでしょう。

 先日、新宿の上空にはUFOの群団が現れました。
 面白いことに偶然、その10日ほど前(4月29日)に、私も夢で「UFOの大群が降りてくる光景」を見ていました。
 その夢では皆既日食だったのですが、完全に太陽が隠れて黒い太陽が空に浮かんだのと同時に、きらびやかな輝きを伴って何十、何百のUFOが降りてくるという夢でした。
 今回の新宿の一件はそこまで劇的ではありませんでしたが(って、そこまで劇的だったら大事件ですよね;)それでも私にとっては、とても希望がもてる嬉しい出来事でした。UFOの飛来を「警告」という取り方をする方も多いようですが、私は「何かのサイン」のように感じています。

 どのような事態になったとしても、私は決して地球の未来を悲観することはない──必ずや、明るい未来が訪れるだろう、そう信じています。


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連載再開スケジュール、GWあたりに決定予定。すみません; もうしばらくお待ちください……
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『偽善者』と誰かを責める時。それは『あなたが偽善者』となる瞬間。

 気がついたら、はやGWも終わりですね。企業であれば有給をとって今週全休にしているところも多いでしょうが、学生の身分である私にとってはまったくのカレンダー通り……。この3日間に予定していた勉強と執筆は半分も終わってない状態で──気分は「新学期を目前に控えているのに、宿題を終えていない小学生の気分」です……。
 このまま夏休みまで、乗り切らなくてはいけないのですね……。
 日々忙殺されないよう、頑張ります──(涙)。

 自業自得な愚痴はさておき。
 最近知ったのですが、震災における募金行為やボランティア行為などで「偽善者扱い」されてしまう人がいるそうです。先日ネットで、「募金をしたところ、知人に面と向かって『偽善者』と言われてしまった」という相談などを見かけた程。
 ある意味、こうした「偽善者扱い」というのは、日本人独自のもののような気もします。
 本来、「相手がどのような行為をしてようと、相手の選択の自由」なのであって、同時に「自分がどういう行為をしても、それもまた自分の選択の自由」のはずです。相手がしている行為に対して「偽善者だ」とひとりよがりなジャッジをしてしまう心情そのものが、「自分と他者の生き方に対する境界が曖昧」であることの現れだと思えます。
 これはひとえに、「他者と自己の認識が不明瞭」になりがちな日本人に、よく見られる特徴かもしれません。個人が確立し、個々人における責任を認識している欧米社会では、こうした言動はあまり見られないような気がします(そもそも欧米の方が日本よりもボランティアが盛んなので、最初からそうした視点に立たないのかもしれませんが)。

 「偽善者」という言葉を吐いてしまったその人の心情の中にも、何らかの葛藤や複雑な思いもあるのでしょう。
 しかし、根本的なことを言ってしまえば、相対的次元において、偽善という言葉は「成立しない」と私は考えています。

 そもそも、偽善とは一体何なのでしょう?
 文字で言えば「ニセの善」となります。一体何をもって、「その善行はニセだ」と判断出来るのでしょうか?
 ここで、喩え話をしてみましょう。

 むかしむかし、あるところにひとりの旅人がいました。
 その旅人は怠け者な上、とてもケチな人でした。どうにかして宿代、飯代を浮かせる方法はないかと考えた挙げ句、「いい人のフりをして、タダ飯タダ泊をしよう」思いついたのです。

 旅人はある村に行き、その村で病を患っている人達を「無料で治してやる」と宣言しました。
 村人達は驚いて、「報酬はいいのか」と聞きました。旅人は、こう答えました。
「私は、みなさんに喜んでもらいたいだけだから、報酬などはいりません。神のお慈悲に、報酬など必要ないのですから」
 村人達はどよめきました。その後、旅人は慌ててこう付け加えたのです。
「ただし、私も人間ですので食事もとれば、睡眠もとらなければなりません。どうかどなたか、私に食事と宿を提供してください」と。
 勿論、この付け加えたことそのものが「旅人の目的」なのですが、人の好い村人達は旅人の悪巧みなど気づくよしもありません。村人達は「何だ、そんなことなら容易いことですよ」と、すぐに旅人を歓迎しました。一番裕福な家に寝床をとり、一番いい食事を与え、そして、病人のもとへと導いたのです。

 もちろん、旅人は医師でもなければ呪術医でもありませんから、病人を治すことなど出来ません。だから、治すような素振りだけして、適当なことを言えばいい──そう思っていました。涙のひとつも流して「これだけ頑張ったけど、私には到底力及びませんでした。私は無力な駄目な人間です」と自分を責めるフリでもすれば、みんな許してくれるだろう──そう思ったのです。

 そして、旅人が予測したとおり、病人を治すことは出来ず──その人は翌日に息を引き取りました。
 旅人は大袈裟な程に泣き狂い、「私は無力な人間です」と、演技の懺悔をしました。
 村人達は、とても残念そうでしたが──でも、すぐに笑顔でこう言いました。
「どうぞそのように自分を責めないでください。あなたがこれほどまでに私たちのことを思ってくださった、そのことだけが私たちは嬉しいのですから」と。
 そして、昨日と同じように旅人を労い、無償で食事を与え、安らかな寝床を与えたのでした。旅人がその場にとどまる間、手を抜くことなく旅人に施しを与えたのです。


 本来の「むかしばなし」なら、この辺りで旅人に「ガツン!」と一発バチが当たるのでしょうが、今回は「偽善」について考えるのが目的ですので、ここで喩え話は「おしまい」です。「すっきりしない! 旅人に一泡吹かせたい!」という方は、是非、続きをご想像くださいませ(笑)。

 さて。皆さんはこの喩え話を読んで「誰が偽善者なのか」を答えることが出来るでしょうか?
 ここでは旅人の側の心情を明かしているので、旅人の視点で読んでいる以上「旅人が偽善者だ」と思うでしょう。
 でも、旅人の本音を「村人達は、知らない」のです。
 もしこの物語を「まったく逆の視点」で、村人を中心に描いたとしましょう。
 村人達が不治の病人を抱えて困っていた時に、ひとりの旅人が現れた──懸命に治療してくれたけれど、結局治らず、そのことに激しく泣きじゃくる旅人の姿だけが描かれていたら……どうでしょう? 旅人のことを「偽善者」と言えるでしょうか?
 
 ここまでくれば、お気づきの方もいるかと思いますが──要するに「偽善」は他者の行為の中に存在するのではなく、「その行為を見る人の『こころの中』にある」ということなのです。
 すなわち、どのような善行も、「それを見る人のこころの中に、偽りが存在している」のであれば、「偽善」として見えるのです。
 でも、逆にどのような偽善であっても、「それを見る人のこころの中に、まったく偽りがない」のであれば、「純粋な善」として見えるのでしょう。

 「偽善者!」といって誰かを責める時、
 そう責めている「その人こそ」が、偽善者となっている──
それが、「偽善者」という言葉のパラドックスなのです。
 すなわち、この相対的な次元においては「偽善というフィルター」で見ることの出来る者に「しか」、偽善は「成立しない」ということになるのです。

 日本人は善良な人が多いけれど、何故かこの「偽善」という言葉に過剰反応してしまう人も見受けられる気がします。
 そう言われてしまうと哀しいのは当然ですが、あなた自身のこころの中に「何の策略」もないのであれば、最初から堂々としていればいい──私はそう思います。
 相対的な次元においては、自分が自覚する以上に自分の誠実さを他者には伝えられません。相対的なこの世界では、あなたの本音を知っているのは、誰よりもあなたに他ならない──偽善という言葉に傷ついた人は、是非、そのことを思い出して頂きたく思います。

 私自身は、自分が偽善者と揶揄されようと、何とも思いません。
 自分が最初から「偽り」の気もちで行為しているわけではないことを、自分自身がよく分かっているからです。
 一番裏切ってはいけないのは、「自分自身」です。自分に正直になり、そして自分の行為に責任と確信を持てる以上、周りがやんややんやと言う「偽善者」という言葉に耳を貸す必要はない──私はそう思っている次第です。 

  
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2011-05-05 | 真理 | トラックバック(0) |
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プロフィール

篠崎由羅(しのざきゆら)

Author:篠崎由羅(しのざきゆら)
1970年生。幼少期から哲学・宗教学に造詣を深める。思想および思想史、それに付随した国際事情に興味を抱いて独学を続け、大学ではインド哲学科専攻。東西問わず、両者の思想に渡り研究を深める。

現在は看護師として施設で勤務しながら、その傍らで執筆活動を続けている。2016年11月にYOU are EARTH改め「WE are EARTH」の活動を再始動予定。より良い未来の地球のため、全力を尽くす誓いをたてている。

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