先日、学校で
「植物人間状態の患者と、看護師との交流」に関する講義を受けました。
取り上げていた内容の詳細は、「脳死ではないけれども
(※脳死と植物人間状態の境は、自発的呼吸が出来るか出来ないかで判別されます)植物状態の患者が、徐々に看護師に対して『意思表示』をしていると感じるようになってきた」というものです。
それについて、学生達に「患者と看護師との間で、交流はされていたか否か」を問いかけ、それぞれ感想なり意見を書かされたのですが、私がみんなの感想をざっと見た限りにおいては、ほとんどの人が
「確信は出来ないし証明は出来ないけれども、交流は出来ていた(或いは『出来ていたと、信じたい』)」といったものが多かったような気がします。
後日、その講義内容における「解答ではないけれども、ひとつの提案」として、講師から
「肉体そのものに、和んだ雰囲気に対して反応する機能が備わっているのではないか」という意見が出されました。
この答えに、私は首を傾げずにいられませんでした。
──いえ。「分かる」のです。
現代の医学においては
「そう答えることが限界である」というのも、重々承知しています。
しかし、ある意味「医療の現場」というのは、生きるだけでなく
「死」という、この世の向こう側をも視野にいれなければならない現場なのです。
そうである以上、「この世の原理原則だけで、解釈を求めてしまっていいのだろうか」という疑念が、頭から離れなかったのです。
それに、もしも「体が無意識に反応する」のだとしたら、その反応は個体差ではなく
一律の反応でなければ、矛盾してしまうことになります。
要するに、「Aさんは和やかな雰囲気において、笑みを浮かべる」かもしれないけれど、「Bさんはいつでもムッツリしている」などの個体差は、「無意識の反応では出来ない」ことになるからです。
肉体が無意識に反応している──ということに関する補足説明として、
「私たち意識のある人間も、和やかな雰囲気のところにいけば自然と笑みがこぼれるし、緊張感のある雰囲気のところにいけば自然と表情が強ばる。よって、植物人間状態の患者にも同じことが言えるのではないだろうか?」とされていました。
しかし、仮にこの立場を貫くとすれば、「意識のある人間が表情を変える際の個性」というものが、植物人間状態でも残っている──とどのつまり、
植物人間状態であっても、こころは残っているのだという前提に立たない限り、説明がつかなくなるのです。
植物人間状態の人が、何故「反応」をしようとするのか──これは多くの医師、看護者にとっても「疑問」となって残されている部分です。
事実、私もそうした「不思議」を目撃しました。
21日の深夜に脳死となった父は、自発的呼吸が出来なかったので「呼吸器」をつけられていました。血圧は上が40、下が30台という、ほとんど臨死に近い状態です。
ところが、母が父に向かって話しかけた途端、
まるで起き上がろうとしているかのように、体を動かしたのです! 血圧もみるみるうちに上がり、私たちがそこにいる数分間のうちに、上は130まで回復しました。母が話しかければかける程起き上がろうとする父を見て、私はかえって気の毒になってしまい──母に向かって「もうやめよう。このままじゃ、お父さんが苦しいだけだから……」そう言いました。
そこにいた医者は、「呼吸器をつけていると、反動でこうした動作が起こる」と説明してくれました。
それは確かに、「医学的には」そうなのでしょう。
でも、
「それまで呼吸器をつけていても動かなかった父が、何故、母が話しかけたと同時に動いたのか」の答えにはなっていないのです。
私が思うに──父はまだ「状況に気付いていなかった」のでしょう。
肉体から完全に離れきれていない魂が、母親の呼び掛けに対して「必死に体を起こそう」としていたように、私には感じました。事実、脳死となった状態でも父が「何も知らずに、眠ったまま肉体にいる」のを私は感じ取っていましたし、母に呼び掛けられて「ようやく異変に気がついた」という感じだったようです。
こうした体験談は世間において枚挙に暇がなく、「人間は、肉体だけで存在するのか」という疑問を投げかけています。
しかし、哀しいかなまだまだ現代の医学では、それを証明出来ません。本来は証明する必要がない「感じることの出来る問題」だと思うのですが、「理性で考えられることがすべて」と勘違いした現代人においては、「感じる」ことを軽視しがちに思えます。
医療現場に関する知識を得れば得る程、
物質世界と
それを超えた次元が解離していて融合しきれていないということを実感します。
本来、スピリチュアリストと名乗る人達は、物質世界から離れている次元だけを取り上げるのではなく、
如何に物質世界と融合させるかを問題視すべきなのではないかと感じます。
大きな揺らぎが時代に訪れ、アセンションという言葉も現実味を帯びてきたから「こそ」、もっと積極的な立場で「物質世界との融合点」を探していく必要性があるのだと思います。
何度もこのブログやセミナーで言ってきたとおり、この世界は
すべての次元の氷山の一角でしかありません。海面に浮かんでいる氷山部分と下に沈んでいる部分を「完全に切り離したまま」にしておくのではなく、「どこが繋がっている部分なのか」をもっと探していく必要性がある──そんな気がします。
ちなみに──。
上記「植物人間状態の患者と、看護者の交流」について、私ははっきりと「交流出来ていた」という立場を取っています。
何故「交流出来ていると思うか」──それは、このブログを読んで下さっている皆様であれば、容易に答えが出ると思われます。
しかし、それを物質的に証明するのは困難でしょう。
だからといって「物質的証明は困難=あり得ない」という図式は成り立ちません。
死の向こう側にある世界も、魂も、すべては非科学なのではなく、「未だかつて証明されていないだけ」という
未科学なのですから。
多くの医療関係者達が、こうした事象について物議を醸しています。
彼らは科学者だからこそ、うわついたスピリチュアリティではなく「納得出来る解答」を求めているのでしょう。
そして私も逆に、精神世界を探究した側の者として、「科学と精神世界の隣接点」を探しています。
側面は違いますが、互いに「同じ真理を探す者」として、今後も現代医療と向き合っていきたい──そう思っています。
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