
※フォースは特別なものではなく、誰でも気づき、誰でも扱える※4月29日に最後の抗がん剤治療を終え…一番最初にしたことは何かと言えば
「最後のジェダイ」を観ることでした(爆)。
すぐに感想を書きたかったのですが、ちょっと締め切り地獄が続いていたもので(今でもまだ別件でそうなのですが)…今となってしまいましたが。
今回の作品は、
「スターウォーズの原点に戻っていた」ような感があります。何も宇宙で
ズッコンドッコン戦闘をしているだけがスターウォーズの魅力ではなく、もっと奥の深いメッセージがあると個人的に感じています。
それこそが、
フォースです。
デヴィット・R・ホーキンズの「パワーかフォースか」を読んで「フォースは悪い力だ」と誤解されちゃう方もいるかもしれませんが、フォースにせよパワーにせよ、あくまでも
「言葉」に過ぎないと私は思います。本来大切なのは、
「文脈の中に秘められたエネルギー(使い分け)」なのでしょう。
私は、スターウォーズにおけるフォースは
「空(くう)」のようなものだと感じていました。
空は「無」ではありません。そこには無形ではあれ、何かしらの存在があり、それを意識的に扱う方法を「フォース」と呼んでいるのだろうと思っております。
今回の「最後のジェダイ」で興味深かったのは、「フォースを扱うジェダイになる為に、
特別である必要はない」というところにあったと思います。カイロ・レンはアナキン・スカイウォーカー、すなわちダースベイダーの血縁にあり、ルークもその血縁。本来であれば死に絶えてしまったジェダイだけれども…仮に血縁で誕生しないのだとしたら、ジェダイは永遠にいなくなってしまいます。
だったら、主人公のレイはあれだけフォースを使えるのだから…間違いなくレンの兄妹だよね???って思っちゃう人もいるかもですが…私は「違う」と考えています。
誰にでも、なれる。
誰もが「ジェダイの騎士になりたい」そう強く願えば「なれる」のだと…今回のシリーズでは、それを描きたいのではないかと感じました。
これって、現実でも言えることですよね。
みんな、誰でも
「なりたい者になれる」のです。
きっと「そうなるべくして、生まれた」のだと、最近の私は感じることが多いです。
でも悲しいかな、今までの教育は
「なりたい者になるための教育」ではなく、
「社会で使われる為の教育」しかしてきませんでした。
だからこそ、本来のその子の個性を無視して「〇〇になると将来が安泰だ」だの「〇〇になれば世間体がいい」だの、そんな周りの評価に流されて、
「その子のあるべく姿」を押し殺してしまったんですよね。
余談ですが。
スピンオフ作品「ローグ・ワン」に出てきた「チアルート・イムウェ」ってご存知ですか?(観てない方は、ぜひお薦めします! ローグ・ワンは私の中で結構好きな作品のひとつです。エピソード4の直前までを描いた作品です。)
彼はジェダ・シティにおける寺院の守り手で、独り言のようにいつも
「フォースは我と共にあり。我はフォースと共にある」と繰り返していました。失明しているチアルートは物乞いをしながらその言葉を繰り返し、一緒に付き添う(ボディガード?)ベイズからも冷ややかな目で見られていました。主人公のジーンに「彼(チアルート)はジェダイなの?」とベイズは聴かれると、
「ジェダイじゃねぇよ。そんなモン、生きちゃいねぇ。未だにジェダイの幻を見ているアホがいるだけだ」といったニュアンスの言葉を吐きます。
しかし、結果的に「チアルートはジェダイだった」と、この作品を観たらみなそう思うことでしょう。
周りがどう思うかなんて、関係ないのです。
強く憧れ、強く望み、強く邁進すれば「なりたい者になれる」──新シリーズのスターウォーズの魅力のひとつはそこにあるような気がしている次第です。
※これから少しずつ、日々更新頻度をあげていきます。…と、いいな…。
い、いやいや! 私は
「更新頻度をあげる者になれる」!←ちっちゃい野心…
●多くの方に、「真剣な目で地球人類の進化に意識を向けて欲しい」と、強く願っています。
また、毎日の記事を書く為の「大きな励み」になっていますので、クリックのご協力をお願い致します。(いつも押して下さっている皆様、本当にありがとうございます。)

【篠崎の個人ブログ】包み隠さず、何でもぶっちゃけトークってます。


【SF長編小説:人類滅亡後に突如現れた先進文明と古来の地球人であるヒューマノイドの対立】
※しばらく休載させて頂きます※

【ファンタジー小説:ソラと仲間達の神様を探す旅】

