
※私たちは確かに少しずつ、霊的な一歩を踏み出してはいるのだけれど…
20年前に比べて、日本では驚くぐらいにスピリチュアルという言葉が浸透しました。
私は1990年代に大学で印度哲学を学んでいたために、「オウム真理教事件」をタイムリーに実体験しました。当時、私は大学三年生でしたが、東大で印度哲学科生の逮捕者が続出したため、近隣でおつきあいのあった当大学も警察官が来たり友人が職務質問されたりと…何だか信じられないような光景が展開していました。
その後に起きた
「精神世界や宗教に対する排他的・差別的な社会」を時系列で見てきた私からすると…現状は本当に「すごい変わりようだ」と思います。そのぐらい、極端な違いがあります。
この現状が良いのか否かは、誰にも分かりません。また同時に、それを判別する必要性もないのでしょう。
しかし、あえて私がはっきりとお伝えしたいことがあるとすれば──
どんなスピリチュアルな探究をするにせよ、多角的な視点で見つめることが大切であるということです。
多くの人は「イスラム教」や「キリスト教」における紛争問題について物議を醸します。
しかし、自分たちが参加しているスピリチュアルの団体や活動についてはいっさい疑問視しません。
これが、私には非常に不可思議に見えるのです。
例えば、Aというスピリチュアルの団体があったとしましょう。
Aという団体も、Bという団体も、言っていることは変わりません。
ちょっと方向性が違うか、或いは創設者が違うかというぐらいの差です。
しかし、その思想を盲信してしまうのは…結果、宗教がやっている過ちと「同じ」なのではないか?
そう疑問に思うこともあります。
「どの理論も正しく、かつ、どの理論にも等しくどこかしらに『ほころび』がある」
それが三次元というものではないかと、私は感じています。
信じることが悪いというわけではありません。
そうではなく、
「違う可能性もあるのではないか?」という広い視点を持つ必要があるのではないか、ということを言いたいのです。
今の時代、昭和時代を知っている私からすれば…かつ「オウム真理教事件の後に続いたスピリチュアル暗黒時代」を知っている私からすれば、今の時代はかなり「霊的に開かれた時代」と言うことが出来ます。
確かに「霊性の向上はある」と言うことは出来るでしょう。
だからこそ、もっと多角的に捉えることも必要なのだと思えるのです。
真に霊的な成長を望むのであれば、もっと柔軟、かつ、もっと広い視点で世界を俯瞰する必要があるのではないか─?
自分たちが認識できない現実や事実もあるという可能性に、目を向けてみる必要があるのではないか─?
私は常にそう感じています。
●多くの方に、「真剣な目で地球人類の進化に意識を向けて欲しい」と、強く願っています。
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