今日は外出していた関係で疲労困憊状態だった為、ブログはお休みするつもりでしたが――何だかとっても「書く必要性」を感じて、キーボードを打っています。(昨日といい――こんな日ばかりですね((苦笑))。高次元の統制における記事は半分以上書きあがっているのですが……後回しばっかり;)
ここ最近、「人間の恐怖の根本は、『死の本質を認めていない』ことにある」――そう感じます。
また、もし「本当の不幸」があるとしたら――それは、生活の苦でもなければお金の苦でもなく、「死を受け入れられない苦」なのではないか……そんな気がするのです。
「死」を受け入れないということは、正しく「生」と向き合えないということ。
また、死を闇雲に恐れ生にしがみつき――或いは、死の本質に向き合わず「生を蔑ろ」にして生きることもまた、同じように「苦」なのかもしれない……そう思います。
とはいえ、いきなり「死んでもみんな、霊界に戻れます! だから心配しないでください!」と言われても、多くの人は納得出来ないことでしょう。「目に見える世界が『現実』である」ということに、慣れすぎてしまったから。
まずは「目に見えることを『疑うこと』」から、入った方がいいのかもしれません。
記憶というのは、本当に曖昧です。
その上、とても「主観的」。
私達が目にしているものを「現実」と受け入れられるのは、「他者との記憶照合」があるからだけに過ぎません。そのいい例が、「目撃証言」などでしょう。ちょっとでもそれらしい情報が入ると、人は「あ、私もそれを見たかもしれない」と思ってしまう。
「一見は百聞にしかず」と言いますが――実は「一見」でさえ、あてにならない。
精神世界や哲学でよくあげられる例ですが――人は、「洞窟の中にいれられ、壁に映る『影』を自分と思い込んでいるだけ」と言う言葉があります。
みなさんが生まれた時からず~っと洞窟の中にいて、その壁に映し出される影を見つめて「自分だ」と思い込んでいることを想像してみてください。壁に映る様々な影をみて、あれやこれやと論議を交わします。
何故、論議を交わすか――それは、人には本質的に「真理を知りたい」という本能があるからです。
しかし、どんなに影を見て論じたところで、それは「影」でしかない。本当の姿はもっと立体的で、自由で、彩やかな姿なのに――そこを見たことがないから、誰も気づけない。
この洞窟を、「さなぎ」として例えてみましょう。
5次元文庫などで執筆されているエハン・デラヴィ氏は「さなぎは蝶に変化する時、内臓が解けて、もうれつな苦しみを味わう」と述べています。その「苦しみ」を経て、蝶になることそのものが、アセンションである――と。
「死」も、それと同じことだと思います。
必ず誰しもが通過する道。その門は、決して誰も避けることは出来ない。偉大なマスター達も、そこは決して避けられなかった。
死の本質は「門」にあるのではなく、「その向こう側」を受け入れることにある――そう思います。
それを「受け入れること」は、誰にでも可能です。「想像するだけ」でいいのですから。
「自分の命は、今ここにある生だけでなく、永い歴史を経て積み重ねられてきたのだ」
そう想像するだけで、「今を生きる」ということが少しでも変化するのではないでしょうか?
もし、「そんな想像自体が難しい」というのなら、最近見た「夢」を思い出してください。寝ている最中に見る「夢」です。
その夢の中では、どんなに理不尽な展開になろうと、どんなに現実では考えられないようなことがあろうと、「自分の存在」を疑ってなどいないはず――。
夢の中では「自分の存在」を疑っていないのに、何故、「死の向こう側にある自分の存在」を疑うのでしょう?
夢の中にいる時は「夢が現実」と記憶が認識していて、目が覚めている時は「そこが現実」と記憶が認識しているからだけに過ぎません。
いつでも人というのは「今、そこ」にあることしか認識出来ていない――そのことに気がつけば、その「向こう側」へ想像力を膨らませることも、出来るのではないでしょうか?
私がここであえて、霊的な知識や体験を紹介しなかったのは「死の本質を受け入れるか、受け入れないかは、これを読まれている『あなた次第でしかない』」からです。
私は幼少期からの離脱体験により、普通の生活を送る人達の数倍、数十倍、死と向き合ってきました。自分の体験を理解したくて、多くの書物を読み、哲学書に触れました。ですから、そうした知識をここで伝授することは出来ます。
しかし、どんなに「知識」を披露したところで、「死の本質を見つめるか、見つめないか」は個人の選択でしかありません。あえてこの回ではそうした情報を出さず、「ご自身の想像力」で、死の本質に触れて頂きたい――そう願う次第です。
ただ、あえて断言するとするなれば――。
「死の本質を見ない」ということが、間違いなく「苦に繋がる」ということは確かです。
日本の医療において、「癌を家族に宣告するか、しないか」で論議しているということこそが、「死が苦に繋がっている」何よりもの証拠です。本来、「死」を知るのは人にとって「最大の権利」です。「どのように生きるのか」を決めるのが、最大の権利であるのと同じように。
死は、生の「違う表現」でしかないのです。
それを冷静に見つめる機会を家族が奪うということが、どれほど酷いことか――ましてや、余命幾ばくもない中でずっと「大丈夫! 治るから」という言葉だけで無理に治療に縛られ、やりたいことも全う出来ず、死んだ後にそれがわかったら――どれほど悲しむことか。
「死の本質」を見つめるということは、当人だけでなく「遺族」も癒すものなのです。
日本では今まで、死がタブー視され続けていました。それどころか、贖いや罪の償いと思われてしまっている。自殺大国という現状が、「日本人がどれほど、死に向き合っていなかったか」を物語ってしまっています。
もし、どんなに辛い死に方でも――本人が「死の本質」を理解して死に逝くのであれば……その先に待つのは幸福な世界でしょう。しかし、本質を理解せずにさまざまな執着や恐怖の中で死に逝けば――その先にあるのは辛い世界となることでしょう。
自殺者は決して、死の本質とは向き合っていません。向き合っていたら、「自殺することが過ち」であることに気づくからです。
スピリチュアル・ブームと呼ばれて久しいにも関わらず、多くの書物は「死」における本質を語っていない――そう感じます。「死の本質」を知るということは、大きな「意識改革の起爆剤」でもあるはずです。
まずは自己存在について掘り返し、死の「向こう側」にあるものを想像してみることをお薦め致します。
※この記事を読んで、僅かにでも「死に向けて、想像力が広がった」という方は、エマニュエル・スウェデンボルグの「霊界シリーズ」、或いは浅川嘉富氏の「アセンション 最後の真実」を読まれるとさらに知識が広がることと存じます。
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