今日はYOU are EARTHの取材日でした。取材者は、先日もお知らせした
西山いずみさんです。
いずみさんがされているお仕事の内容やポリシーについては、取材記事をUPした際に詳しくご紹介しますが、一言で要約するとすれば
「内なる自己の軸に気づけるよう、鏡になる仕事」と言うのが、最も近い表現だと思います。
――え? 「抽象的すぎ」って?
まぁまぁ、それは記事を読んでのお楽しみということで(笑)。
内なる自己。
これって、ものすごく身近でありながら、なかなか気づけないものですよね。
「灯台もと暗し」の代表格とも言わんばかりに、いつでも一緒にいる「自分」というのは、何故か客観的に見ることが出来ません。
でも、本当は多くの方が「自分を知りたい」って思っているんですよね……。
なのですが、それは「自らの自発的気づき」ではなく、「他者から『あなたは、○○だね』」と言ってもらいたい方も多いのかもしれません。しかし、実際問題どんなに他者から「○○だね」と言われてもそれが腑に落ちない限り、永遠に聞き続けることとなります。「私って、本当は○○なの? 実は××なんじゃないのかな?」とか、疑念の余地はいくらでも沸いて出てくるからです。
勿論、それはそうなってしまった個人の責任とばかりは言えません。
世の中「自己責任」という言葉が勝手にひとり歩きしていますが、自己責任という言葉は
「自発的に出ることにこそ意味があって、他者から押し付けるものではない」のです。世の教育評論家達は簡単に「今の若い人達には『自分』がない! 簡単に自殺するのも、自分がないせいだ」なんて言う人もいますが、
じゃぁ、そんな教育をしてきたのは誰なんだよと、私は突っ込んでやりたくなります。
社会を駄目にした張本人である大人は、口が避けても「自己責任だ」なんて言うべきじゃありません。そんなふうに言うぐらいなら、「あなたも、社会をこうさせた一端にいたのだという『自己責任』を取ったらどうよ?」と毒舌を吐きたくなります。
話を戻しますが――。
自分で「そうか、自分は○○なんだ!」と気づけた人は、揺らぐことはありません。
周りから「いやぁ、あんたは××でしょ」と言われても、
自らその気づきに至ったという経緯が、その人の自信の根元となるからです。
私はこういう「あり方」こそが、これからの時代に求められるあり方――
意識改革で最も究極に求められる基盤であると、そう感じています。
いずみさんは「コーチング」という仕事をされています。
コーチング、という言葉自体初めて聞かれた方も多いと思います。
勿論、私もその一人でした。その為、事前に「コーチング」の仕事を簡単に調査していったのですが、いずみさんがされているのは、私が事前に調査したものとはまるで違ったものでした。
言葉の響きから想像出来るかと思いますが、コーチングというのはビジネスマンや法人において「社員などのモティベーションをあげる為」に使われるケースがあります。すなわち、成功哲学などと関連しあっているようです。おそらく、成功哲学の普及とほぼ比例した形でアメリカで広がったものと思われます。
しかし、それはまさしく「外枠を整えるもの」でしかなく、言ってしまえば
「システムにあわせた自己造り」という印象を私は抱きました。
組織という「システム」、成功を求め富を求める「システム」、資本主義という「システム」。
それに「相応しい自分になる為に、整える」といった
「システム先にありき主義」であり、「個から派生したシステムへの調和」ではありません。
いずみさんのコーチングは、そういう「全体→個」の流れではなく「個から派生するもの」――すなわち
「自分から湧き出るもの」を大切にしています。これは、従来の成功哲学にも、私が事前調査したコーチングの資料にも書かれていなかった「いずみさん独自のもの」です。
しかし、この「個から湧き出るもの」というのが、実はとても日本人の特質にあっているものだと、私はそう確信したのです。
いずみさんとお話していて、
「現代日本が、いかに西洋文化に汚染されているか」というのを感じずにいられませんでした。
汚染――っていうと、汚いもの、悪いもの、という差別的印象を受けられるかもしれませんが、そうではありません。
どんなにそれが素晴らしい文化であったとしても、必要以上の繁殖は、その地で生きる者にとって害にしかならない――という意味です。
お馴染み、釣りで好まれるブラックバスなどは、いい例ですよね。
ブラックバスそのものには罪はないし、魚としてみる分には魅力的な魚なのでしょう。しかし、過度な繁殖は、日本の水で生きる魚たちの生態系を崩してしまいました。
私が言う「西洋文化の汚染」というのは、まさしくこの「ブラックバスの例」に当てはまります。それそのものがいい、悪いではないのです。
「その土地に馴染んだものか、どうか」というのが、重要な鍵になってくるのです。
正直言って私は、日本の土壌に完全なる西洋思想は「相容れない」――そう感じています。もしそれを受け入れるとしたら、「多少のアレンジが必要だろう」と。それこそ、大正文化や鹿鳴館のように「和洋折衷」のようなアレンジが――。
日本人は元来とても感受性が豊かで、繊細で、その上「文化をアレンジする能力」に長けていました。
例えば、日本に仏教が伝来した時も、完全に中国仏教として伝承されていたわけではありませんでした。鎌倉仏教が日本人独特の色にアレンジされていたのは言うまでもありませんし、その後も良寛や一休など、完全なる隠遁者というわけではなく世俗に交わりながらも孤高の世界を探究している姿勢は、日本ならではのように思えるのです。少なくともチベットやスリランカのように国を治める位置にもなく、また、インドなどのように完全に修行だけに専念するわけでもない――日本人特有の精神性が、そこに見られるように感じます。
茶道だってそうです。
抹茶はもともと、中国から漢方の一種として入ってきました。それを、あのような雅な作法で完成させたのは、千利休ならではです。茶道というと「日本だけのもの」というイメージが強いようですが、もともとは外来から入ったものを「日本人の独自性」においてアレンジし、それが後において日本の文化となっていったのです。
私はこういう日本人の繊細さと、エゴや自我云々ではなく
「自分達の習慣に取り入れよう」とする姿勢は、とても素晴らしいと思います。
一言で言えば
「柔(じゅう)」の姿勢だと思えます。
ですが、如何せん今は「輸入されたもの」はそのままアレンジなく「受け売り状態」になってしまっています。
そうではなく、もっと日本人の良さにあったアレンジがされてもいいのではないか――私は今日、そんなふうに感じました。
私達がこうして肉体をもって生まれている以上、どんなに「嫌だ」と言ったところで、日本の影響、日本の環境から受ける精神的作用からは逃れられません。
また、肉体そのものに流れる「日本人としての血」というのは、どんなに捨てようとしても捨てられるものではありません。
それは国粋主義という問題ではないのです。自分の国の良さに気づけずして他国の良さには気づけないし、他国の文化を尊重は出来ません。どう転んだところで世界がグローバリズムに進んでいく以上、私達は二度と鎖国も出来なければ、ナショナリズムだけで生きていけるわけではありません。国の境界がなくなり、様々な人種、民族が自由に行き交う世界になればなる程、「私は○○人である」という自覚は大切になるし、それこそが「軸になる」――そう思えるのです。
内なる自己の育成を完成させた人が一歩外に出た際に見えるのは、「私は日本人だ」という自覚なのでしょう。
そういった意味で、「自己の気づきを促す仕事」をされているいずみさんが独自で探究されたコーチング法が「日本の民族性にあっている」という共時性に、私は感心せずにいられません。
ここでも、フラクタルの関係性なのでしょう。
私達は「個人」であり、同時に「日本人」であり、同時に「地球の一部」である――。
本来、システムとの融合は「個」から派生し、それと共鳴しながら全体へと波及するのが正しい道筋であり、かつ、これからの「新時代システムのあり方」なのだろう――私は今日の取材で、それを強く実感させられました。
いずみさんがどれほど「日本人としての感性」を活かした仕事をされているかは、取材記事がUPされるまで楽しみにしていてください(笑)。
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