現在、篠崎は5日に取材した(と言いますか、ほとんど対談ペースになってしまっていますが;)西山いずみさんの記事を音声おこししている最中です。事情により、取材から公開期日まで二週間もない為、エハン氏を取材した時よりもさらに究極な編集地獄に陥っています……。
その関係で、ここ連日睡眠3時間を切っているせいか――今日の私の脳は「スポンジ状態」でして(苦笑)、思考力がほぼゼロに近いです。それに体調不良も加わり、自分でも「よく座っていられるなぁ」って感じです(笑)。
そんな事情により、今日は過去ブログ「思考世界」から、記事を転載いたします(最後のストックです。この技に逃げられるのも、今日までですな……)。私がシュタイナーの人智学協会に参加していた頃の記事なので特殊な内容ではありますが、このブログでは書いたことのないような記事ですので、お楽しみ頂ければ幸いです。
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2008年3月3日 過去ブログ「思考世界」より転載人智学指導原則 1~4 「人智学指導原則とは何か」と言いますと、「人智学協会員の講演や話し合いについて、方向性や助言を示すもの」として、シュタイナーが死の直前、病床につきながら執筆した一連の方針を示した原稿のことです。
先日のブログ「共同体の意義」の中でも述べましたが、シュタイナー自身は
「アントロポゾフィーを通じての共同体意識」というものを、非常に重要視していました。それは、内包された価値観の共有――或いは、個別の諸問題に向かう際グランドセオリーとして人智学(アントロポゾフィー)を位置づけたいとする、シュタイナーの強い願いの現れであったかのようです。
一般的に「しどうげんそく~」というと、どこぞの堅苦しい校則や、どうでもいい規則や罰則に通じるものを感じて拒否反応を起こす人が多いと思われますが(私がその一人です)、ここで書かれているのはそうした外面的拘束力ではなく、
「人智学(アントロポゾフィー)を学ぶ人々全員に向けて、人智学の意味とその果たす役割を示した内容」であると言えます。要は、「人智学とは、果たして何なのか」ということを理解する上でも、非常に役立つものでもあるのです。
霊学――所謂、霊界(超感覚的世界)における知識をこのように現実的諸問題と結びつけて学術的にまとめあげたのは、この「人智学」が初めてだろう――私はそう思います。(神智学などもありますが、神智学の場合だと霊界における知識に通じてはいますが現実的諸問題については多少弱い側面を感じます。)
今回連載していく意味は、何よりも「私自身が、人智学をより深く知りたい」という衝動から生じています。
思考作業を経ることで、そうした現実問題についての解決策も見えてくるのか――私は自分自身に挑戦する意味でも「人智学指導原則」を読み解いていきたいと思っておりますので、皆様もおつきあい頂けますと幸甚です。
【人智学指導原則】
1 アントロポゾフィー=人智学は、人間存在のなかの精神的(霊的)なものを宇宙のなかの霊的(精神的)なものに導こうとする、一つの認識の道である。人智学は人間のなかに、心と感情の要求として現れる。人智学はこの要求に満足をもたらすことに、その意義を見出さねばならない。自分の心情から求めるものを人智学のなかに見出す者のみが、人智学を認めることができる。それゆえ、人間の本質と宇宙についての問いを、餓えや渇きを感じるように、人生に必要だと感じる人々のみがアントロポゾフィー=人智学協会員たりうる。 この第一項でいう「認識の道」というのは、「霊界参入に至る思考手順」とも言うべきものです。今までにも、こうした「超感覚世界における能力」をもった人達が、物質界を超える方法論や手ほどきをしてきましたが、シュタイナーにおけるその方法論の特徴は「思考作業を重要視している」点にあります。神智学の末尾に書かれた「認識の小道」では、その特徴を以下のように冒頭でまとめあげています。
『 いかなる人も、本書に述べられている霊学的認識内容を、自分で獲得することができる。この著書の論述の仕方は、高次の世界の思考像を提供するために試みられている。みずから見霊能力を獲得するための第一歩は、このような思考像を把握することにあるのだ。なぜなら、人間は思考存在なのであって、思考から出発するときにのみ、自分の歩む認識の小道を自分で見つけ出すことができるからである。』
(神智学 認識の小道より引用) こうした思考作業を踏まえることにより、人は「人間的小宇宙(ミクロコスモス)から霊的宇宙(マクロコスモス)」へと至る道程を掴むことが出来る、ということになります。
また、人智学は表層的な知的欲求や、ただ博識と呼ばれる為の満足感を満たす為に存在するのではなく、「心と感情の要求として現れるもの」と、ここでは定義づけています。
ここで皆さんに思い出して頂きたいのですが――第六文化期における目標として「超感覚的世界における認識を、感情と知性でもって理解するようになることが必要である」と、このブログで繰り返し述べてきましたが、第一項のいう「心と感情の要求」というのは、「アントロポゾフィーそのものが、感情と知性でもって超感覚的世界における認識に至る道程」である――とどのつまり「第六文化期における目標を達成し得るツールが、アントロポゾフィーである」そう言い換えることが出来るのではないでしょうか。
第一項後半部分でも書かれているように、「人間の本質と宇宙についての問いを、餓えや渇きを感じるように、人生に必要だと感じる人々のみがアントロポゾフィー=人智学協会員たりうる」というのも、逆を返せば「第六文化期において、超感覚的認識内容を感情と知性で理解することを求める人々が、人智学(アントロポゾフィー)協会員たりうる」と言い換えることが出来るように思えます。(※注 ここでいう「人智学協会員たりうる」という文言を、文字通り解釈しないで下さいね~。ここでは別に「餓えや乾きを感じない人は、人智学協会員じゃな~い」とか、「人智学協会員じゃない人は、そういう餓えも乾きも感じてな~い」とか、そういうことを言ってるわけではありません故。)
この項目の要点をポイントとしてまとめると、以下の三点に集約されます。
1)人智学は人間のなかに、心と感情の要求として現れる
2)自分の心情から求めるものを人智学のなかに見出す者のみが、人智学を認めることができる
3)人間の本質と宇宙についての問いを、餓えや渇きを感じるように、人生に必要だと感じる人々のみがアントロポゾフィー=人智学協会員たりうる。 この三点を通じて、第一項では「人智学を人々が求める動機付けについての詳細が書かれている」ということがおわかり頂けると思います。そして、そうした動機付けに対し「人智学は何を出来るのか」ということについては、第二項目以下で応えられています。
2 人智学は霊的な仕方で獲得される諸認識を仲介する。魂的人間存在が努力して達しなければならない人生の道の境界を越えることができないとき、日常生活と、感覚的知覚および悟性の活動の餓えに打ち立てられた科学とをこの境界へ導くために、人智学は霊的な諸認識を仲介するのである。日常生活と科学はこの境界に立ち止まらねばならないのではなく、この感覚的観照の境界で、人間の魂そのものをとおして霊的世界のなかへの眺望を開くのである。 ここでいう「境界」というのは、いうなれば「感覚世界(現実界)と超感覚世界(霊界)の境界」、ということになります。
第一項であげたような「餓えや渇きを感じるように、現実界における問題に突き当たった人達」を、「霊的に踏まえた諸認識をもって、感覚世界と超感覚世界の境界に導く」のが、アントロポゾフィーの役割である――ここではそう述べています。
こうして見ると、第一項と第二項が関連しているのがわかります。
第一項は人々の中に生じた「諸問題」や「衝動」を記述し、第二項では「その衝動を別視点の境界へと導くものが人智学(アントロポゾフィー)である」と、生じた衝動をいかにして導いていくのかの関連づけをしているのです。
そして、第三項――。
3 感覚的観照の境界がすべての洞察の境界になると信じている人々がいる。いかにこの境界を意識するようになったかに注意するなら、この意識のなかに、境界を乗り越える能力をも発見することになるであろう。魚は水の境界を泳ぐ。水の外で生きるための体的器官が欠けているので、魚は水のなかに戻らねばならない。人間は感覚的観照の境界にいたる。この途上で、感覚的観照によっては包括されない要素のなかに魂的に生きるために、自分のなかに魂的諸力が与えられていることを人間は認識できる。 と、このように「第一項(魂の渇きや飢えを感じて、心情から答えを求める人々)」を、「第二項(人智学は霊的諸認識によって、新たな境界へと導き)」、第三項では「そこに至る時点ですでに、それを理解する能力が与えられている」ということを示しています。
もう少し、第三項を掘り下げてみましょう。
ここでいう「感覚的観照の境界」というのは「現実界(感覚的観照)を超え、霊界に臨める境界」のことであり、第二項で言う「境界」と同じことです。すなわち、「超感覚的認識で取得出来るこの境界を理解することで、現実界におけるすべての洞察を行うことが出来る」と、そう信じている人々のことを示しています(ここまで書くと、「なるほど、確かに篠崎みたいなヤツのことだ」とおわかり頂けると思います)。
そして、その次の文言は多少理解しづらいかもしれませんが「どうやってこの境界を意識するようになったか、そのことに注意すれば、そうした意識(境界を認識した意識)の中に『境界を乗り越える能力(霊的能力)』をも発見する」ということを示していて――要は「境界に辿り着こうと意識した時点で、すでに霊的能力は芽生えつつある」ということを示しているのです。
これは、文字面で理解することは出来ても、実感するというのはなかなか困難な話です。
シュタイナーもそう思ったのか、その後に魚の例えをあげて「魚は体的器官が欠けているから、どうしたところで境界を越えて陸には昇れないけど、人間はその諸力が与えられているから、その境界を超えていくことが出来るんだよン」と、丁寧な解説までつけてくれています。
なるほど、確かにそれはそうなのでしょうが――にわかに納得出来るものではありません。理解と実感は異なるものなので、この項目については「理解」に留めておくとしましょう。
4 人間は確固とした感情と、意志の力強い発展のために霊的世界の認識を必要とする。人間は自然界の偉大さ、美、叡智を最大限に感じることができるからである。自然界はその固有の本質についての問いに対して、人間に答を与えない。この固有の本質は、人間が死の扉をくぐるまで、自然界の素材と諸力を生命ある、活動的な人間形姿のなかに結合させている。ついで、自然がこの形態を引き受ける。自然はこの形態を結合させておくことはできない。ただ分散させるのみである。偉大で、美しく、叡智に満ちた自然は「いかに人間形態は解消されるか」という問いに対しては答を与えるであろうが、「いかに人間形態は結合されるか」という問いに対しては答を与えない。いかなる理論的異議も、人間の魂が麻痺しようとしないかぎり、人間の魂からこの問いを消し去ることはできない。この問いの存在は、真に目覚めた各々の人間の魂のなかに、霊的な世界認識の道への憧憬を絶え間なく活動的に保つ。 この項では「自然界と人間の関わり」について記述されていますが、一読した程度では、その深奥にある意味までを読み解くことが出来ませんでした。
一行目「人間は確固とした感情と、意志の力強い発展のために霊的世界の認識を必要とする」というのは、わからなくもありません。これは前回紹介した「第一~第三項」に通じるものがあり、
「人間は唯物的価値観を超えていかない限り、確固とした感情と力強い意志の発展には至らない」ということを示しているのでしょう。
「人間は自然界の偉大さ、美、叡智を最大限に感じることができるからである」というのも、理解出来ます。現代人においてそれが当てはまるかどうかはともかくとしても、シュタイナーが若い頃に研究した詩人ゲーテは、自然界における美を雄弁に語る才能を持っていました。自然界の偉大さ、美、叡智を最大限に感じられることが「出来る人もいる」というのは、疑うことなき真実です。
――が、問題は「それ以降」です。
自然界はその固有の本質についての問いに対して、人間に答を与えない。この固有の本質は、人間が死の扉をくぐるまで、自然界の素材と諸力を生命ある、活動的な人間形姿のなかに結合させている。ついで、自然がこの形態を引き受ける。自然はこの形態を結合させておくことはできない。ただ分散させるのみである。偉大で、美しく、叡智に満ちた自然は「いかに人間形態は解消されるか」という問いに対しては答を与えるであろうが、「いかに人間形態は結合されるか」という問いに対しては答を与えない。 以上引用した部分が、私はにわかに理解出来ませんでした。
まず、ひとつずつ紐解いていきますと「自然界における固有の本質」というのは、物質的元素を指し示しているのではなく、「自然界の実相」を示していると推測出来ます。
自然界にある事象――それら表層的な部分として私達の視覚なり嗅覚なりが感じ取る「草の緑」「風の匂い」などは、「自然界の本質」ではありません。前回「魂の世界(1)」にも書きましたが、
本質は現象の作用を通じて実感するものだと、シュタイナーは言っています。だとすれば、ここでいう「自然界における固有の本質」というのは、そうした自然の作用――「草の緑」「花の可憐さ」「風の匂い」など、
私達が五感を通じて魂に刻みこませた実相そのものであると言えるでしょう。
さて、その先へと進めますと――固有の本質(自然界における実相)は、「人間形姿のなかに結合される」と書かれています。
このことに関連したことで、「霊的宇宙論(訳・高橋巌氏)」の講演録の中には「人間は自然の美や偉大さに触れることによって、魂の中に自然の元素(※注1)を取り込まれる」といった表現があります。それが、ここでいう「結合」に含まれるのかもしれませんが――ただ、これら「取り込んだ四大存在」がどういった形でアストラル体やエーテル体に作用しているのかは不明です。その為、ここで指し示す「結合」が四大存在のことなのか、また別のものなのかは保留としておきます。
その上、「結合した固有の本質を、形態として自然が引き受ける」とありますが――ここまで来ると「お手上げ」といった感じです(笑)。
このあたりの難解さが、まさに「アントロポゾフィーたる所以」とも言えるでしょう。表層的な言葉尻を追っただけでは、決してその本質を理解することが出来ません。だからこそ、アントロポゾフィーは「客観性に頼れず、比較文献学になり得ない」とされる根拠なのでしょう。こうした「読み解けない壁」にぶつかった場合、よりアントロポゾフィーを理解する為には、今までの知識(アントロポゾフィーを学ぶことで得た知識)を総動員して、読み解く努力が必要です。
ここでまずポイントとなってくる「形態」ですが――この「形態」が何を示しているのかと言えば、ひとえに「私たちの肉体作用そのもの」を指し示しているのではないかと、私は考えています。
作用、といってもそれは行動や行為ではなく、いわば
人間を人間たらしめたる身体組織の作用なのだと思えるのです。
生きていれば人は「自然界の中で、形態を維持できる」。それは、身体組織がきちんと作用してくれているおかげで、突然心臓が口から飛び出したり、腕や足がもげたりすることはないからです。
しかし、「死んでしまえば」、自然界の中で人間の形態は維持出来ません。腐敗し、解消されていくのみです。
――ここでは、そのことを指しているのではないでしょうか。
もっとわかりやすい例をあげましょう。
例えば、人が眠っている時。私たちの身体は、一部分を覗いてすべて身体組織の作用を止めていますが――それでも、朝目覚めるまで「そのままの形態」を維持出来ます。
しかし、死んでしまった場合、形態は維持出来ません。
眠っている人であれば、7時間後に目を覚ましていつもどおりに生活を始めるでしょうが――死んでしまっている場合、7時間も経てば死後硬直も始まって、肉体が崩壊する一途を辿っていることでしょう。
一体、この差は何なのでしょう?
何故、眠っている人の身体は崩壊せず、死んでいる人の身体は崩壊するのでしょうか?
偉大で、美しく、叡智に満ちた自然は「いかに人間形態は解消されるか」という問いに対しては答を与えるであろうが、「いかに人間形態は結合されるか」という問いに対しては答を与えない。 ここでは、その問いについてを指し示しているのではないでしょうか。
もっと他の例えをあげれば――携帯電話。
携帯電話を形態づけているのは(って、洒落じゃないですよ)、それらを結合させる為の「機械部品」です。そして、これを解消(破壊)するには、ただ電池切れを起こしたとか壊れたからといって、勝手に崩壊してはいきません。いつまでたっても、形態は残ったままです。
が、これを人間が「解体しよう」という意志をもってひとつひとつ分解していけば、その形態は解消されます。
しかし決して、携帯電話の形態は「自然界の中で、自ずと解消はされない」のです。
人間が「自然界の中で結合し、解消されていく」――このこと自体は、人智学(アントロポゾフィー)的に言うところの「エーテル体」が関わっている所以だったりするのですが、この項目では、「自然界における法則性だけでは、人間的結合の理由を証明出来ない。それを知る為には、霊的背景(アントロポゾフィー)の理解が必要である」そう述べているのではないかと、私は推測しております。
━━━━━━━━━━━(過去記事転載・以上)━━━━━━━━━━━━━━
※明日までに、体力復活を目指しますv
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