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「僕たちの社会では、船上をも含めて、君たちの世界のような軍隊組織の司令士官は存在しない。
僕たちの文明では、指導者や統治組織、統率責任者などといったものは必要ないんだ。僕たちの行動、一人一人の考え、各人の決意は、全て統制のとれた社会構成要素となっていて、常に共同体の意志を反映しているものなんだ。あらゆる決断、行為が、完璧にシンクロしているんだ。コミュニティーのニーズと各人の価値観とのバランスがとれた、完全無欠の協力関係だよ。
積極的に共感を促す社会関係で、僕たちを内包する構造体である揺れる水晶のコンピューターと、全生命体を繋ぐネットワークが実現しているんだ。
そうなると、僕たちは何ら不安を抱くこともなく、同調した状態で活動できるようになる。
僕たちはみんな、個人の完全な自由意志のもと、最善を尽くしつつ、いつなにをするべきか心得ている。いつだってそうなんだ。なぜなら、僕たちは感情や性格などに由来する精神的な歪みには影響されないからだよ。
よって、共同体が遵守する方針と、各人が下す評価や意志決定に相違が生じることはない」
(略)
「・・・・・・けれども、僕たちが結論を出すときのロジックや、各人の思想、生命体としての存在は、社会組織を重んじるばかりに、抑制されたり、無効と見なされたりすることは決してない。
僕たちのイマジネーション、発想、創造性が、自律性や独立性などに欠けているというわけじゃないんだ。
僕たちに与えられている自主決定の範囲は限りがない。けれども、どんな場合でも混乱は起きないし、無秩序な状況に陥ることだってないんだ」
「クラリオン星人はすべてを知っていた」クラリオン星人・スエルの言葉 86~87ページから引用
──────────────────────── これは、私が体外離脱先で教えてもらったコミュニティのあり方と、ほぼ──というか完全一致しています。(詳しくは過去記事「
高次の街の構造」「
高次における全体調和は個性を排斥しない」にて。)
私が目指しているのも、こうした社会のあり方です。
しかし、これを目指す為にはまず
個の確立が大前提です。
何故、このような人類の進化にとって大切なことが、今の時代まで伏せられていたのでしょうか?
私が子供だった頃、
周りにあわせろ、個性を出すなというのは、割と当たり前でした。
そんな思い出話のひとつですが──私が7歳だった頃、図工の時間で「こびとの世界を描きましょう」というものがありました。
「こびとの世界」です。だったら「こびとを中心に描くのが当たり前だ」というのが、当時の私の発想でした。今の私も、同じように感じています(苦笑)。
クラスメイトの子供達は、いっせいにこびとの世界を描きました。私は絵を描くのが大好きな子供だったので、思う存分こびとの世界をスケッチブックに描いたのです。
その後、その絵は廊下に貼りだされました。
──ところが。
みんな、私が描いた絵の前で不思議そうな顔をするのです。当時の担任の先生も、私のところに来て「これが『こびとの世界』なの?」そう聞きました。
私は、大きく頷きました。
「だって、『こびとの世界』でしょ? そこはこびとが中心の世界なのだから、こびとの生活を描いてみただけです」と。
何故、みながそのように驚いたのか。
他の子達の「こびとの絵」は、大きな花を中心に「無数のこびと」が描かれていました。
しかし、私のこびとの絵は「拡大された葉の上に、対話する数人の普通サイズのこびと」だったのです。
私にとって、それは違和感ありませんでした。何故、みんなが驚くのかもわからなかったからです。
それに、「悪いことをした」という自覚もありませんでした。
ところが、その日──。私は母に「ひどい叱責」を喰らいました。当時姉が同じ学校の六年生にいて、母に告げ口したようなのです。母は、こう言って怒りました。
「どうしてこびとを大きく描くの! こびとは小さく描くのが、当たり前でしょ!」 私は怒られている理由が分からず、大声をあげて泣きました。
「どうして? こびとの世界を描くのに、どうしてこびとを大きく描いてはいけないの? こびとの世界では、こびとは普通のサイズなんだよ!」
「そんなこと関係ないわよ! みんな小さく描いたのに、どうしてあなただけが大きく描くの! みんなが描いたように描きなさい!」
これを読んで、小さなお子さんのいるお母さんであれば「そんなことで怒るなんて、あり得ない!」そう思われることでしょう(笑)。
でも、私が子供の時はそんなものでした。
高度経済成長期を過ぎた辺り、「専業主婦」が出始めた頃、多くのお母さん達は無意味に教育ママへと走り、しかもそれが「子供の個性を伸ばす教育」ではなく「学校の先生からいい評価をされて、いい大学にいって、いい就職をする為」だけにあったのです。
もっとも、私の住んでいる地域が特殊だった──というのも、あるかもしれませんが。かなり教育に関して神経質な家庭ばかりだったのです。
私達の時代、怒られる原点は大抵「そこ」にありました。
「どうして、あなただけが違うことをするの?」 ですが、その行為にいったい何の意味があるのでしょうか? 何の問題があるのでしょうか? 私からしたら、こびとの世界をどう描いていいのか分からず、周りを見たあげくに「みんながこう描いてるから、自分もこう描こう」と言って人真似する行為の方が問題あると思うのですが、如何でしょうか?
そんな子供時代を経ていたせいもあって、私にとって「個性」というのは、とても重大な関心事でした。
一時期などは、「個性は、突出しなければならない」そう考えたこともありました。私は親の教育に根っから不信感を抱いていたので、ものすごい反抗精神の強い問題児でした。音楽をやっていた時などは、わざと「社会から逸脱するファッション」を追求する為、紫色の口紅、紫色のマニキュアをしていたこともありました(笑)。今でこそ紫色のマニキュアなんて普通にありますが、当時は探すのも大変だったんですよ──。
「変人である」ということが、「アウトローである」ということが「個性」である──私はそう勘違いしていました。
それは、「全体に無理矢理あわせようとする社会への、シュプレヒコール」でもありました。私にとって、社会に個性を抑圧されるぐらいなら、愚か者のレッテルを貼られた方が遙かにマシだったからです。
しかし──それが「そうではないかもしれない」と気づきだしたのが、ここ最近でした。
一番のきっかけは、体外離脱をして「この地球とは明らかに違う」としか言いようのない文明を見せてもらった時が大きかったです。あの世界には、残念ながらあれ以来一度も行けてはいないのですが、今回このカヴァーロの本を読んだ際、「言われたことと、まったく同じ世界を見てきた自分」にとても驚き、かつ同時に「私が目指している社会は、間違いないんだ」という確信にも繋がりました。
本当に理想的な社会というのは、
個の表現と
全体調和は
決して矛盾しない──そう私は確信しています。
仮にそれでも「全体調和に貢献するなんて嫌だ!」というのであれば、個性が衝突しあうエゴの世界で生きていくしかないでしょうね。
今の社会がそうでないのは、社会がまだまだ未熟であり、同時に「個性というものを、人が考えて来なかったせい」だと思います。
正直言って、私の親世代の方で普通に生きてきた方には「理解しがたいもの」かもしれません。
でも、本当の意味で個性を考えれば、そこにあるのは「エゴの主張」でも何でもなく、「自分の役割や特性を活かして、全体と共に手をとりあうこと」なのだと思えるのです。
これからの時代、地球もそうした次元に一歩でも近づいてくれれば──と、願ってやまない昨今です。
※お知らせ※
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