最近、心霊写真を撮る人達が多発しているようです。
それは、霊界の一部が消滅し、戻るべき場所を見失った霊体達がこの世への未練を残し(或いは、死をまったく自覚出来ない状況で)彷徨い歩いているが故のようです。
スピリチュアリストとして出版している人達の中には、「こうした心霊写真を撮るのは、撮った人達の『負の想念』が現実化しただけだ」などということを言う人もいますが――それは違います。
だって、みんなで楽しくキャンプをしている最中、家族旅行をしている最中、一体誰がそんな「負の想念」で写真を撮りますか? こうした写真を撮る人達は、ほとんどが「突発的事故」を起こしたかのような偶然性で、想像だにしない状況下で撮ってしまっているのです。
私は今まで、心霊写真の鑑定を何度かしてきましたが、共通して言えることは「撮った本人には、まったくそうした負の想念がなかった」――いわば、「予期もせずに、偶然撮ってしまったケースが高い」ということです。撮った方の霊的波長が非常に高く、迷いでている念が「物質化現象」を起こし、それで「偶然撮れてしまった」というだけなのです。(ですので、そういう発言をするスピリチュアリストの方は「本当に霊的な世界のことを、熟知されているのだろうか?」と疑問に思う次第です)。
こうした写真を撮ってしまった場合、何らかの特殊な行為(御祓いや供養など)が必要になるのは「ごく稀」です。
ほとんどのケースは、「たまたま映りこんでしまっただけ」に過ぎません。
特に、真正面を見ていない霊体の場合は、ほぼ心配ないです。
真正面を見ている場合は――御祓いや供養などが必要になることもあります。
人間で考えたって、同じことです。何かを主張したい場合、「後ろを向いたまま」で、主張はしませんよね? 真正面から相手を見据えて、主張するはずです。これと同じで、「真正面から顔が明確に分かる程の写真」というのは、何らかの強いメッセージが籠められています。その為、それなりの対処が必要になるのは事実です。
にも関わらず――。
そうした「無害」な心霊写真を必要以上に恐れ、ちょっとした不運をすべて「あの写真のせいだ!」とするのは――大きな間違いです。これは、安易に低級霊を敬うのと同じぐらい、危険な行為です。
幽霊とはいえ、「人格を持った個性」なのです。自分とはまったく関係ないことを、「あんたのせいだ」って言われたら――私達人間だって、腹が立ちますよね? 霊だって、それと同じことなのです。
それどころか、無害だったはずの霊を「邪悪な霊」に変えてしまう危険もあるのです。
どのみち、霊よりも「生きている人間」の方が生命ある分「エネルギーが強い」のです。だから、無力になってしまった幽霊を悪戯に怖がったりするよりも、まずは「冷静」に現象と向き合うことをお薦めします。
今回私がした鑑定も、非常にはっきりとした霊体でした。
三秒ほどの間に連続して撮られた写真だったのですが、二枚目よりも三枚目の方が、「物質化」が進んでいます。その証拠に、三枚目は「くっきりと影」が映っていた程です。
何故このような現象が起きるかと言えば、写真を撮られた方の霊的感受性が鋭い場合、その波長が「死を自覚していない霊体」と共鳴し、「物質化する働き」が起こるからです。所謂「三次元化」です。
この方のケースの場合、映っている霊体は「死をまったく自覚していない霊」だったので、撮った人に災いを招くような存在ではありません。なので、特に御祓いや供養といったものは必要ありませんでした。(こうした写真を見るにつれ、私は「死の本質を、生きているうちに学んで欲しい」ということを痛切に感じます。生きているうちにしか、死の本質は学べないのです。そうでないと、このように迷える霊はどんどん増える一方です。)
心霊写真を撮ってしまった場合、まず何よりも大切なのは(先に挙げたように)「闇雲に恐怖心を抱かないこと」です。
私達だって、肉体を持っているだけの話で「霊体と何も変わりはない」のです。真正面から映りこんで何かを主張しているようなケースでない限り、変に恐怖を抱くのではなく、冷静になることが大切です。
それから、「とにかく手元に置きたくない」という一心で、無闇に御祓いをお願いするのも危険です。何故なら、その「依頼先」が、本当に真摯な姿勢で御祓い、供養をしてくれるとは限らないからです。
理由もなく「形だけ」で御祓いされる方は、たまったものじゃありませんよね? それこそ、御祓いではなく「厄介払い」です。
霊体は念とはいえ、「個性をもった人間」と変わりはないということに気づき、彼らの個性を尊重してあげてください。
そこを蔑ろにして無意味に怖がったり、逆に敬うような姿勢は「危険極まりない」です。
念という意味で言えば、私達だって「念の塊」です。
でも、もしも「あなたはただの、念だから」って言われたら――どう思います? 蔑ろにされた気分になりませんか? 「私は『私』なのに」――そう思いませんか?
幽霊だって、同じことです。
彼らの個性や、迷うに至った経緯を、しっかり見つめてあげることが大切です。
昨今のスピリチュアルは「天使」はすぐ敬う癖に、自分達に近い兄弟である「幽霊」は疎んじるから不思議ですね。本来、手を差し伸べるべきは「困っている兄弟達」である幽霊のはずなのに……。
霊体と人間は、「肉体があるか、ないかの差でしかない」そう受け止める必要性があります。
その上、幽霊として出現する存在は「非常に三次元に近い」のです。そうした意味で、人間にある特徴が「彼らにもある」そう思って間違いはないでしょう。
これと逆のケースにあたる、危険な実例を挙げましょう。
それは、とある神社を撮影した写真でした。そこには、モヤのような筋が幾重にも入っていて、数枚の写真ほとんどにそれが映り込んでいました。
その神社は、「パワースポット」として有名な場所でした。その写真を撮られた方も、そうしたパワーを受けたくてその地に訪れたようですが――
実は、パワースポットというのは「非常に危険な場所」でもあるのです……。
本来、ただでさえ「霊的純度の高い地」だったのが、現在無闇に「パワースポット」として崇められてしまったが故に多くの人達が訪れるようになった為、そうした人達の「念」が籠もってしまっているケースが多いからです。
この神社のケースも、それに近いと言えるでしょう。
そこで撮られた写真を、その方は「神様が歓迎してくださったんだ」と、そう解釈されていました。
しかし、そこに映っていたのは――いくつものショットに分かれた、「生け贄の儀式」でした……。
こうしたことを言うと、多くの方は「え? 神社に何で、そんな儀式の写真が映るの?」と疑問に思うことでしょう。
実は、歴史に伏せられているだけで、残虐な儀式というのは日本でも数多く行われていたのです。事実、私の地元には「夫婦橋」という橋があって、それはあまりに氾濫する川を抑える為に、夫婦を「人柱にした」という伝説が残されています。
日本の民俗史を学ばれた方であれば、日本がかつて「村」を守る為に、残酷な行為をしてきた人達もいるということをご存知でしょう。「道祖神」というのも、あれは旅する者達を守る為に作られたのではなく、「村の結界」として建てられたものなのです。
そうした歴史を踏まえて考えても、神社において「生け贄の儀式」があったとしても――不思議ではありません。
勿論、その写真は決して撮った人に災いをもたらす意味で撮られたわけではなく、「自分に起こった理不尽な行為」を知ってもらいたくて、映りこんだだけの話なので、これもまた御祓いなどは特に必要ないだろう――私はそう判断しました。
しかし、そうした背景のある写真を誤読して「神様だ」と敬うのは――安易なチャネリングでご紹介した実例と同じように「危険」です。
余程霊体が真正面から映りこんでいるケースではない限り、どんなに心霊写真が撮れたとしても「忘れた方がいい」――私はそう思う次第です。ただでさえ霊界と人間界の境界が薄れつつある今、無闇な恐怖と敬いは、かえってその人自身に影響を及ぼしかねません。
何よりも、「冷静に捉える」ことが、一番大切です。
※今回も緊急性を感じたので、連載を変更してUPしました。次回、スウェデンボルグの「霊界消滅」について検証したいと思っております。
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