昨日は思いがけない突発的な事故(?)により、ブログが更新出来ませんでした。
と申しますのも、先日部屋でコップを割ってしまい、すべて破片を片付けたつもりだったのですが一部残っていたらしく、それを
踏んでしまう──という粗相をしてしまったのです……。
ただ踏んで怪我しただけならまだしも──奇妙なことに「踏んだ」と思われる破片が発見されず。
また、痛み方が異常だったことから
「これはもしかして、破片が中に入っているのではないか」と思いきや──案の定。整形外科でレントゲン写真を撮ってもらったところ、右足小指の下──それも結構、傷口よりも奥深く──に、ガラスの破片が写っていたのです。
切開して取り除いてもらったものの、未だに片足の生活(苦笑)。当分は不便を強いられそうです。
一見すると厄介な事態ではありますが──考えてみたら、意外にそうでもなく。私にしてみれば、「ちょっとラッキーだったかも」なんて、あれこれ思ってみたりします。
ここ最近出歩く用事や突発的に出なければならなくなることも多く、じっくり思索したり、本を読む時間がまったくなかったんですよね。なので、これはかえって「いろいろ思考を深めるには、いい機会かもしれない」などと、前向きに考える始末(笑)。
いや、でも確かにそうです。
自分にとって大切な仕事であれば出歩くのも無理ないですが、2月に入ってからというもの、野暮用で出なければならないことも多く、疲労していたのは確かです。だからきっと、この怪我は
本当の仕事に戻りなさいというメッセージなのかもしれません(笑)。
そんな話は、さておき。
今日、病院の待合室でP.F.ドラッカーの書いた「ネクストソサエティ」を読んでいました。
書かれていた内容のほとんどは2001年の9.11以前に執筆されたものだったせいもあるのか、些か情報が古くなっている感はありました。
古い──というよりも、
「すでに指摘されている時代は到来してしまっており、そのまま突き進んでも解決策は出てこない。もっと斬新な視点が必要な時代となった」という印象を強く受けたのです。当時のドラッカーでさえも、現代の様相は予測出来なかったのかもしれません(まぁ、約10年前ですからね)。もしくは、時代の変化がさらに加速化しているのか──。
社会学や経済学、および経営学にしてもそうですが、おおむね「データーからの類推」や史実における比較で成り立っています。
勿論、どの学問もすべては「かつての論文」から抽出されていることを思えば、すべて「統計データに頼るしかない」のは当然のことではありますが──もはや、時代はそうした領域に「ない」ように感じたのです。そうした過去からの類推に頼り続ける以上、時代の流れから置き去りにされてしまうのではないか、と。
それは必ずしも、「過去のデータに頼るな」と言っているのではなく、
過去を踏まえた上で、もっと違った発想の転換が必要なのではないかそんなふうにも思えたのです。
私がこうした社会学系における論文を見ていて非常に不満を感じるのは、結局のところそれは「こうなるだろう」という予測でしかなく、画期的な対策を講じたアイディアではない、ということです。
今の人類に必要なのは「こうなるだろうという予測」ではなく、
「こうなることを目指そうという、未来の青写真」だと思えるのです。どんな社会であれば、人々は平穏に暮らせるのか──自然環境との共存が出来るのか──そうした青写真は、言ってしまえば「新システム」とも言うべきもので、いわば私達人類が目指す「手本」とも言うものなのかもしれない。
まぁ、それがまた変に「マニュアル化」しすぎても、結局また今までの社会同様「元の木阿弥」となってしまうので、そこは少し緩めて考えた方がいいでしょう。でも、いずれにせよ「目指すべき理想社会」というものの提案が、もっと現存社会学者からあがってもいいように感じることは多々あります。(考えるのが仕事なんですから((爆))。学会に出るばかりが仕事ではないはずです。こういう窮屈さも、私が大学院や研究職に「つきたくない」と思った理由のひとつだったりもしますが──。)
私は現在、自分自身が知り得た理想的世界の青写真と、および世界の時代史にある減少を結びつけながら、あれこれと「新たなシステム」を模索しています。
それがどのようなものか、現段階でははっきり提示出来ませんが、ひとつだけ明確に言えることは、
目に見えるものと、目に見えないものが完全に融合した世界となるだろうということです。
言ってしまえば、物質世界と霊的世界(精神世界と言ってもいいですが)。本来これらは「両者ひとつ」のものであって、
分離させて考えること自体が、不自然なのです。そのことに気がつけば宗教の不自然さに気がつくし、また、チャネリングだのといったことを商売にしている人達も激減(と言うよりも、皆無に)なるでしょう。何故なら、誰もが「自分達の直感」の中に生き、それを「言語化」し、かつ「物質化」する能力が持てるからです(物質化というのは、何もいきなり目の前に物が現れる、ということではありません。発明を通じてこの世に顕在させる力も、立派な物質化です)。
そういう世界では、自ずと社会や国に対する概念も変わってくるはずです。また、個性と社会の関係性も然り。社会は個性を抑圧せず、同時に、個性は自らを表現することで全体との調和をなす──両者が「相互扶助」の関係であることを、存分に発揮出来る世界となると思えるのです。
今、時代は少しずつでも「そうした方向性」に向かいつつある──そんな気がしています。だとしたら、旧態依然の方法論でどんなに学術的予測をたてたところで、それはすべて外れてしまうでしょう。
私達に必要なのは、予測ではなく、
目指すべき新天地の地図です。そうした理想世界の青写真が脳裏に描かれていれば、私達はどんな強固な予測でも、それを打ち崩して、新たな時代に到達することが可能になる──そんなふうに、私は思っています。
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