本日、エハンさんのブログ「
シンクロニシティ」で記事を書かせて頂きましたが、個人的にまだ書き足りない感があったので、こちらに追記させて頂きます。
理想の世界を追う者は、必ずや
闇と対峙することになる──それは、避けられない鉄則だと、私は思っています。
しかし、多くのスピリチュアリスト達はこう言うでしょうね。
「光に注目していれば、必ず『いいことだけ』が引き寄せられるのよ」と。
その言葉を是非、今空腹に苦しむ子供達や、母乳が出なくて泣き叫ぶ赤子を前に困っているお母さん達の前で言ってもらいたいものです。
私は何も、
悲観せよと言ってるのではありません。
そうではなく、
悲劇からも、目を背けてはいけない──そう言っているだけのことです。
あるスピリチュアリストの人が、私にこう言ったことがありました。
「この世の中は、すべて感謝の対象なのよね。もう私は、生きているだけで本当にありがたいです──」
そう言った数ヶ月後、同じ口でこう語りました。
「どうして私は、こんな汚い世界に生まれたのだろう。もう絶対、人間なんかに生まれ変わりたくない」
どの言葉も、彼女にとっては「真実だったのだろう」──私はそう思います。
「生きているだけで、素晴らしい!」そう思ったのも真実だったのだろうし、
「もう生きているなんて、辛いことだらけで嫌だ!」そう思ったのも、真実だったのでしょう。
でも、その感情に振り回されているだけでは──あまりに辛い……私はそう思うのです。
生きていて素晴らしいのも「人生」だし、生きているのが辛くて仕方ないのも「人生」。
その
どちらも、否定することなど出来ないのだと。
でも、もしも「その両者を苦悩なく受け入れることが出来る道がある」とするなれば──それこそが、「巡礼の道」なのかもしれない。
私は、シンクロニシティで「アースピルグリム」第一回目の解説の中に
日本人という定住者が多い民族性に、地球巡礼者の意味自体が理解されづらいのではないかと書きました。
これはある意味、どの人生観においても反映されている──そうも思えるのです。
例えば、上記例にあげた女性の台詞。
「生きているって素晴らしいわ」
「もう人間なんかに生まれて来たくない」
もしも、私たちが「巡礼者」であるという自覚があったとしたら──それは、ごくごく当たり前のことであって、別段その感情に振り回される筋合いもないのだということに気づけるはずです。
旅を続けていれば、天気の素晴らしい日もあれば、恨みたくなる程の悪天候の日だってある。
人生だって、それと大差ないのだと私には思えるのです。
いい時もあれば、悪い時もある。
悪い時は、ただじっと岩陰に隠れて嵐が遠ざかるのを待てばいい──それが、真なる巡礼者の生き方なのではないか、と。
巡礼というのは、何も「宗教家」に限ったことではありません。
日本人ではどうしても「四国の巡礼」のイメージが強く、宗教的な雰囲気を感じてしまう人が多いかもしれませんが、そうではないのです。例えていえば──ジプシーや遊牧民なんかも、巡礼者の一種かもしれません。
私は子供時代、ジプシーに憧れていました。色々な土地を廻り、決して定住せず、あらゆる世界を体験する──ということに、惹かれていたのです。残念ながらその夢は叶いませんでしたが──それでも、39歳までの間に「10回(それも、親の理由ではなく個人的理由で)」引越しをして、あらゆる土地で暮らしたという経験はジプシーに憧れていた名残を引きずっていたのかもしれません。
旅をする者は、何も所有しません。何かに執着をすれば、そこから動けなくなってしまうから。
所有、執着──こうしたあらゆる物事が、
「世のすべての悲劇を生み出している」そう言っても、過言ではないような気がします。
今回私がUPしたシンクロニシティの中でも、そのことが書かれています。「聖なる執着」──それこそが、エルサレムを中心とする宗派達の、争いの根源だったのだろう──と。
だとしたら・・・・・・。
何故、私たちは「執着・所有」ということを知って生まれてきてしまったのでしょうね。
いや。これはもしかしたら、「人間が自由の選択意志」で自ら「所有を放棄する」ことを神が望んで、仕組んだ企みなのかもしれませんが(笑)。
私たちが「何も持っていない」というのは、すでに「生まれてきた時」に語られています。
生まれた時、私たちが持っていたのは「体だけ」です。
老いと共にそれが失われたら──持って帰れるものは、何もありません。仮にあるのだとしたら、生まれた赤子がすでに「札束を握っていた」なんて例もあるでしょうが、そんな笑える例は聞いたことありませんからね(笑)。
何も持たないまま帰るのに、何かを所有しようとして──何になるのでしょう。
それを元に互いに争いあうようなことになって、何が楽しいのでしょう。
どんな複雑に見える問題も、余分なものをはがしていけば──行き着くのは「執着」や「所有概念」なのかもしれない。
しかし、もっと厄介なのは──そこで繰り広げられた哀しみや争いが、結果的には「感情の恨み(肉親などを失った恨み)」へと繋がってしまうこと。
一体、神は人類に何を学ばせたかったのだろう──ふと、そんなふうに思うこともある昨今です。
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