今日はちょっと、雑談的な内容です。
現在篠崎は二つの執筆作品を抱えている為、朝から晩まで読書をするか、或いは思考しまくりです。
そうすると──何て言うのか、すごく
子供になりたくなることがあるのです(笑)。
理論なんて関係ない。
ロジックなんてどうでもいい。
ただ
「感じる」──それだけがしたい。
昨日そんな境地に立たされた私は、久しぶりにDVDの新作をあさってみようと思いつきました。
大抵私が観たくなる映画(DVD)は、何かしらテーマ性があったり、メッセージ性、ドキュメンタリー性ある作品が多かったりします。ここ最近気になっていたのは革命家チェ・ゲバラの半生を描いた作品か、或いはメル・ギブソンが監督したマヤ文明の映画(名前忘れました;)だったのですが──何故か昨日はそれを手にすることなく、私が手にした作品……。
それは──
ディズニー映画「魔法にかけられて」。
http://www.disney.co.jp/movies/mahokake/ たぶん、個人的に篠崎を知っている人はみんな
「えっ! あんたがそんな映画観るなんて、一体どうしちゃったの!」と叫ぶに違いありません(笑)。
娯楽映画というだけでなく、とても
「ロマンティック」な作品イメージがありますからね。
つきあったばかりの恋人同士が観に行ったり、或いは夢見る女の子同士が観に行くような感じの映画で──例えて言えばアキバ系の人(失礼!)がひとりで観に行ったり、篠崎タイプの人がひとりで観に行く系の映画ではないでしょう。(余談ですが──私はひとりで映画を観に行くことが多いのですが((出掛けている最中、突然思い立って映画館に入るパターンが多いので、人を誘う余裕ナシ))女ひとりで映画を観に行くと、結構「変な目」で見られることも時折あります。
男性諸君。女性だって、普通に映画を「ひとりで観たい人」はいるものなんですよ。別に、たいした意味があってのことではないので、黙ってそのままにしてやってください──。※最近は出不精になって、DVDで済ませることが多くなりましたが、20代の頃はホントに嫌な想いをさせられました……)
この映画、「ただのロマンティックな映画か」──と言えば、そんなこともなく……「どちらかと言えば、大人向けの映画作品だな」と思いました。
有名な映画なのでストーリーを知っている方も多いと思いますが、この作品はヒロイン・ジゼルが、愛するエドワード王子との結婚式の日、悪い魔法使いに騙されて、
「幸福が永遠に続くことのない悲惨な世界」へと送られてしまうところから始まります。
そして、送られた先というのが──
それが──
現代のニューヨーク(笑)。 人々が向ける白い目と、冷たい対応。そして、冒頭に出てくる場面は「離婚訴訟」。
ジゼルを助けるロバートは弁護士で、しかも奥さんに逃げられた挙げ句、再婚間近。だけど、子供に遠慮して思うようにデートも出来ないそんな日々を送り、再婚相手には誤解をされるし、口を開けば「僕たちは、大人の関係だから」。
これ──どう考えても「子供向け作品じゃない」ですよね(苦笑)。
でも、観ていて思ったのは──
「じゃぁ、大人らしいって、一体何だろう」ということでした。
ただ感情を抑えて、理性的に振る舞い、表面上は何の問題もなく「平穏」なフリをしていること──それが「大人」なのでしょうか?
だとしたら、イエス・キリストは何故、
「天国の門に入れる者は、子供のような心を持った者でなければならない」と言ったのでしょう?
子供というのは、ただ野放図で無茶苦茶で、ワガママなことをしているだけの存在ではなく──無垢で、素直で、そして「感じる心」を持った存在のことを喩えているのではないでしょうか?
だったら、どんなに大人になったって、「無垢で素直で、感じる心を大切にすること」なんて──本当は簡単なはずですよね。
ちなみに。
この映画、予想していた結論とは──私的には「意外な顛末」でした。
途中で「あ~、もしかしてそうなるのかなぁ」とは思ったけれど──「こういうオチか!」と、ちょっと面白かったです(笑)。
ディズニー特有のご都合主義や、「無理矢理ハッピーエンド感」があったのは否定出来ませんが、この作品はストーリー性云々というよりも、
子供のように純粋なこころを思い出させてくれる作品だったから、それで充分なのかもしれない、そんなふうにも思いました。
私達大人は、どうしても「理性」を尊重しがちです。
でも、本当に大切なのは「感じること」ではないでしょうか。
勿論、そこに「エゴ」が入ると、それは「ただの偏見」や「思いこみ」でしかありません。
でも、純粋な感動には、「エゴの入りようがない」。
あるのは──揺り動かされるこころと、そして「涙」だけです。
涙は「こころの欠片」──私はそう思っています。
人は嬉しくても泣くし、
哀しくても泣くし、
悔しくても泣くし、
怒っても泣く。
涙を失ったら──人は人でなくなるし、それをしないことを誇るのは「魂を亡くしたことを誇るのと、同じことだ」と、私はそう思います。
映画の中で、ヒロインのジゼルはとてもいいことを言いました。
「私、あなたのせいで『怒ってます』!
ええ、すごく『怒ってるわ』!
こんな気持ち、感じたの初めてです!
でもね……とても素敵なの。
とても、素敵な気持ちなの……」 この意味が、お分かり頂けるでしょうか。
例えて言えば──ジゼルは、私達三次元よりも「高次元の存在」だったとしましょう。
だとしたら当然、彼らは「怒りという感情」を知らないでしょう。
怒りは「負の感情」ですが、
負であると決めたのは、誰でもない、私達人間です。 でも、それを負でも正でもない──何のジャッジもせずに受け入れれば、それはただの「こころの感じた、ありのままの表現」でしかない。
ジゼルの言葉は、そんな
負とされる感情でさえも、いい・悪いをジャッジせず、ありのまま受け入れる姿として描かれていた──そう思えたのです。
子供というのは、素直に怒り、素直に泣く。そこに「いいか、悪いか」の判断はない。
もしかしたら──怒りを「悪いこと」と「決めつけてしまうことこそ」が、私達の感情を締め付けている幻覚に過ぎないのかもしれませんね。
アダルトチルドレンとよく言われますが──それは結局「満たされない子供の欲求」のように思えます。
要するに、「感じること」を押し殺されすぎて、発散出来ず──それが癒されないまま残ってしまうという。
でも、大人になったって、老人になったって、
私達はこころの持ち方ひとつでいつでも子供に戻れるのだと、私は思います。
例えば、大人になってからスポーツを思う存分する人とか、純粋にはしゃいで遊ぶ老人とか──彼らの笑顔の中には、「無垢な子供の笑み」が含まれているように、私には思えるのです。
私達は、どんなに年齢を経たとしたって、いつでも子供に戻れるのです。自分の意識の在り方次第で。
この映画は、そんなすばらしさを教えてくれました。
私は、インテリと呼ばれることを望まない。
賢人である必要もない。
ただ「純粋な子供でありたい」──。
本心で、そう願ってしまいました(笑)。
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