新たな時代の到来があるとするなら、それは絶対的に
個性を保ちつつも、全体調和された状態であるだろう──というのは、今までにも書いてきたことですが、ここ最近ことさらにそれを実感しています。
以前も書いたことですが、個性というのは何も突出している必要はありません。「個性的」というとどうしても「目立つ必要があるのではないか」とか「派手な服装を着ている必要があるのではないか」とか、そういう考えに陥りがちですが、それは全くもって違います。
「没個性」なんて言葉を一時期耳にしましたが(最近はさすがに、言われなくなりましたが)そんな言葉があること自体、おかしいのです。
私が中学生だった時、信頼していた先生にこんなことを聞きました。
「『個性』とは、一体何なの? 何が個性なの?」
──何とも単刀直入の質問ですが。先生はこう答えました。
「例えば──みんなが同じ制服を着ても、
絶対に全員が同じになることはあり得ないでしょ? 個性とは、そういうことだよ」
非常に抽象的な解答でしたが、私はすぐに納得出来ました。
個性というのはどんなに外部からの抑圧があったとしても、すべてが一律になることはあり得ない──それこそが「個性」なんだなと、その時の私は理解しました。
誰と比較することもなく、ただあるがままに「自分」でいるということ。
周りがどう批判しようと、どう干渉してこようと、「これが私だ」と言える明確なライン。(と言いますか、そもそも個性を大事にする人は、必要以上に相手に対して干渉をするようなことはないでしょう。私自身もそういうタイプだから、よく分かるのですが──)
今までの日本は(いえ、他の国々もそうだったのかもしれませんが)
外部からそれを押しつけ、その人の個性の否定や排斥をしようとする──それこそが従来のシステムだったと、そう実感出来ます。
でも、本当は誰が何をしていようと(勿論、自分が責任とれる範囲で)、「その人の自由」。
それこそが「その人の個性」であり、尊重すべきその人の性質と言えるものだと思えるのです。
勿論、個性は固定化されたものではないので、流動的に変化していくでしょう。それは
その人が気付いた時に変わればいいことであって、無理に変わる必要もない。逆に言えば、「今は、その人にとってそういう個性でいることれが必要である場合」も、多々あるのではないかと私は思うことがあります。
そういう場合私は、ただ黙ってその人を見守っているだけで、何も語りません。それに、必ずしも自分が正しいとは限らない以上、それは過干渉であったり余計なお節介になってしまう危険があるからです。
個性の尊重は、
「相手を信頼することから始まる」と、私はそう思います。
しかし──哀しいかな。世の中には、「相手を、自分と同じ立ち位置にさせたい」と(無意識にかもしれませんが)思っている方も少なくないようです。
それはどんなに親切心から生じていようと、相手への愛情のつもりであろうと、結果的には
相手をただ支配しようとしているに過ぎないことを、もっと多くの人は知るべきかもしれません。
人は生まれついて、最初から個性が違います。そこには優劣も何も存在してなくて、あるのは
ただ「違う」ということだけです。
みんなで海に遊びに行ったとして、ビーチバレーをしたい人達もいれば、波打ち際で砂山を創りたい人もいるかもしれないし、水に飛び込んではしゃぎたい人もいれば、たったひとり海辺に座っていたい人もいるかもしれない。
そうした行動の差にあるのは、ただの個性でしかなく「何をしなくちゃならない」ということはありません。今までの日本はどうしても、集団とは違う行動をする(例えばひとりで海辺に座っている人など)を、自分たちの思いこみで「あの人は淋しいに違いない」と勝手に決めつけ、その人の本当の自由(ひとりでいたいという自由)を束縛している傾向にあったのではないか──そのように思えるのです。「ひとりでいたかった人」を仲間に入れ込んだことで、彼らは「いいことをした」と、そう思うかもしれません。
でも、無理して周囲にあわせなければならなかったその人は──苦痛極まりないでしょうね……。
相手の個性は、相手にしか分からないものです。
勿論、あなたの個性が、すべて相手に伝わっているわけでもない。
個性を大切に出来るのは、他の誰でもない
自分自身しかいないのだと、私には思えるのです。
だからこそ、人々はみな互いに触れあいながら、お互いの個性を尊重したり、もしくはちょっと干渉しちゃって対立したりという、それぞれのハーモニーを打ち出すことが出来るのだと、そう私は思います。
三次元というレベルは電気的な傾向を帯びている為、どうしてもそうした個性と個性の間に摩擦が生じることも出てきてしまいます。
しかし本来、意識内でも次元の上昇が起こり得れば、そうした
「摩擦そのものが、実はいいも悪いもない『ニュートラルなもの』でしかないんだ」という気づきに至り、さらなる上昇に至れば、今度は
「相手のすべてを、受け入れられる境地」へと入っていくことが出来るのだと、私には思えます。
「完全無欠」な人間なんて、この世にはいません。
と言いますか、私は「そんな人間、面白くない」と思っています(笑)。
だからこそ、どんな人にも必ず「欠けている部分」はあります。
それを補おうとするか、否かは、本人の(その個性を持った人自身の)「自由」であると、私はそう思っています。
そして、電気的対立を超えた「フォトンの意識レベル(摩擦や対立がプラズマだとしたら、それを超えた光の次元はフォトンを要素としているので、あえてそう例えてみました)」に到達すると、
欠けている部分も、ひとつの個性であると、まるまる受け入れられるようになるのかもしれませんね。
個性は
違うからこそ、美しいハーモニーが奏でられるのでしょう。
数十名のヴァイオリニストが集まった演奏会もすごいとは思いますが──どうせなら、私は色々な楽器の入ったオーケストラの方が好きだし、素晴らしいなと思います(ま、これも人の好みかもしれませんが)。
それなら私は、
大きく欠落した自分の一部を自覚しつつも、「これが私の道である」という生き方を貫きたい。
その人の個性と異なることを求める──それは、例えて言えば、ピアノの鍵盤に向かって「この鍵盤と鍵盤の『間の音を出して欲しい』」と要求するようなものかもしれません。
ピアノにそれは不可能だし、それをしたらピアノの良さはなくなってしまう。ピアノがフルートの役目をする必要もなければ、ヴァイオリンの役目をする必要はない。ピアノは「ピアノのまま」であればいい。
完全無欠を目指すなんて、面白くない。
それなら私は「私という個性」のままで、さらなる磨きをかけていきたい──ここ最近、強くそんなふうに思っています。
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