また、私はこんなことも悟りました。人間の祖先たちは、相対的で見せかけに過ぎない時空が連なる区域に追放され、神の崇高なるビジョンを失ってしまったのです。つまり、永遠なる変幻自在の宇宙に存在するマルチユニバースという、絶対的現実を認識できなくなったのです。幾度にもわたる再プログラムの後、人間は、結晶化したエネルギーの限定的で虚構に過ぎない次元に拘束されてしまい、古代の叡智から遠ざけられ、物質に支配された陰鬱な牢獄に放り込まれてしまったわけです。 上記は、マオリッツオ・カヴァーロ著「クラリオン星人はすべてを知っていた/徳間書店刊」の119ページから引用しました。
この本は今年1月末に購入して以来、もう何度も読み返していますが、そのたびに新たな発見、新たな気づきがあるから驚かされます。
私が引用した箇所は、
物質で構成された三次元を理解する上で、とても参考になる部分です。
例えば、「相対的で見せかけに過ぎない時空」という言葉。時間は個々別々の意識において変化し、決して絶対的ではない──ということはこのブログでも何度も書いたことですが、「空間が相対的ではない」というのは、あまりピンと来ないかもしれませんね。でも、これだって簡単な想像ですぐにご理解頂けると思います。
また、「客観的事実として用いれば、時間も空間も絶対的である。意識という歪んだ眼鏡を使うから、相対的に見えるんだ」そういう反論もあるかもしれません。
しかし、この世を認識することにおいて、「意識」を通じずに出来ることが果たしてあるでしょうか。どんな科学者であったとしたって「自己意識」を通じて以外、どんなことも把握出来ません。だからこそ、「共有した認識」ということで、統計的に出されたデータに頼らざるを得ないのです。そのデータを使ってもひとつの学論に絞れず、多岐に渡ってしまうことこそ、すでに「どんなものごとも、個々人の意識に頼らざるを得ない」ということの証拠にもなり得るのではないでしょうか?
さらに、この「時空が連なる区域」というのも意味深ですね。私は前回記事にしたリサ・ランドール博士の唱えた「五次元に膜のように浮かぶ三次元宇宙」のことを思い返してしまいました。まさしくこれは「時空が連なって」います。そしてそれは、並行世界と似た意味とも捉えることが出来るでしょう。
そして、何よりも私が唸らされたのが
結晶化したエネルギーでした。
これは、原子の仕組みを考えたらすぐに納得出来ます。
「原子とは19世紀前半に提唱され、20世紀前半に確立された、元素の最小単位。その実態は原子核と電子の電磁相互作用による束縛状態である。(wiki参照)」 束縛状態。
つまりは
「結晶化」です。
物質は、「結晶化した原子」を「さらに結晶化したもの」です。
そう考えると、ルドルフ・シュタイナーが投げかけた「問い」に対する答えが、何となく分かる気がします。
シュタイナーは、「人間の肉体は、生きている間は決して腐ることはない。しかし、死んだ途端、ウジがわいて腐り始める。生きている人間と遺体との間に、どのような差があるのか」という疑問をずっと抱いていました。
そして、シュタイナーは「目に見えない作用が、肉体(人間に限らず、生命すべて)に働いている」ことに気付いたわけですが、上記の引用文から「結晶化したエネルギー」というのはすでにエネルギーの滞っている状態であるから、それを流動させておかないと腐敗したり劣化するということが想定出来ます。
要するに、私たちは
「結晶化したエネルギー」で構築された世界の中、生かされている存在ということになるのでしょう。
勿論、「硬直状態にあるエネルギー」が、生命の主体でないことは容易に理解出来ます。言ってしまえば、肉体は「ただの鎧」です。
そこには何の意志もなく、目的もなく、ただ「あるだけ」の存在。
それを意志づけ、目的づける「生命の主体」こそが、目に見えることのない「私たちの意識」であり「精神」でもあるのです。
私たちは今まで、「結晶化して形になったもの」ばかりに囚われ、本当に大切なものを忘れてしまっていたのかもしれません。
それこそ、引用文にあげた「物質の牢獄」にいたのでしょう。
そう思えば、「何故、アセンションという言葉が巷に溢れているのか」が理解出来ます。
現象は、すべて無意味で起こることなどありません。ただアットランダムに起きていると思うのは、その人自身に気づきが足りていないからでしょう。本来、どのようなものごとにも必ず意味があって、特にこうした「情報」には顕著に意味があると、私は実感しています。
何故なら、情報は
人の共有意識に、多大な影響を及ぼすからです。
先日記事にしたように、歴史も科学データも、結果的には「人々の共有意識の基盤とさせるべく認識対象」でしかありません。ですから、仮にその歴史や科学データが「まったくの嘘八百」だったとしても、「共有意識に浸透させちゃえば、怖いものなし」なのです。
逆に言えば、共有意識への浸透は「真偽を問わない」のです。
常にニュートラルで、どんなものでも受け入れてしまう。だからこそ、とても「怖いもの」でもあるのです。
そういった「間違った情報が、人々に悪い影響を及ぼしてきた事実」など、ここで列挙しないでもすぐにご想像頂けることと思います。
だからこそ、どんな情報であったとしても、「必ずそれが溢れるには、意味がある」そう思えるのです。
作為的だろうと、或いは作為せずに「見えざる者の手による意図」であろうと、どのみち意味があることに変わりはありません。
私は、上記のような引用例、および物理学における次元の解釈を進めるにあたって、
アセンションという言葉が流布される目的は、人々の意識進化を促進させる目的があったのだろう──そう思っています。
そして、「何故、意識進化が必要なのか」──その理由は、もうお分かり頂けたと思います。
私たちの次元が「結晶化された物質の牢獄」でしかないのであれば、主体は「意識」。
意識が変われば、その牢獄から「自ずと解き放たれる」わけです。
逆に言ってしまえば、意識が変わると「2012年」を待たずとも、アセンションを待たずとも、「牢獄から解放される」のかもしれません。
すべては「意識のあり方次第」なのだと、改めて実感させられました。
こうした意識に辿り着くには、修行したり聖地廻りをする必要など「何もない」──そう思います。
思考ひとつで、いつでも切り替えられるものなのだろう、と。
勿論、それには方法論などありません。人それぞれ、個々別々のやり方があるでしょうから。
ただし、「意識」というひとつのキーワードが重要な時代となってくるのだろう──つくづくそれを噛みしめた次第です。
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【参考文献】
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エハン・デラヴィ氏ブログ「シンクロニシティ」にて、近日内にネット配信番組レポート予定です。
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