最近、私は「真理に向き合う」という意味をよくよく考えさせられます。
かつての仏教の修行者にせよ、哲学者にせよ、ただひたすら「森羅万象の法則を知りたい」或いは「生老病死に括られるようなこの世界(次元)を打破したい」という純粋なまでの願いだけで、自分と向き合い、時には酷く傷つくことがあっても、ひたすらその道を歩き続けてきたのだと思います。
でも、現在の世の中は──どうでしょうか?
「真理」に向き合おうとしている人は、どれほどいるのでしょうか?
勿論、前々回動画としてご紹介したリサ・ランドール博士や、物理学を研究している学生さん達など、分野は違えども「ひたすら真理を知りたい」としている人たちは少なからずいます。(ランドール博士の学論については賛成しかねる部分はありますが、彼女の「純粋なまでの探求心」については、私自身高く評価しています。動画にあった彼女のコメント、「『あ、これだ!』っていう閃きに喜び浮かんだと思ったら、次には突き落とされたり──その連続だ」というその気持ちは、痛いほどよく分かります。それこそ、真理と向き合いたいとする人が必ず通る関門だと思うので。)
しかし、その他──ことさらに、精神世界の分野に関して言えば、そこまで本気で真理と向き合う為の努力をしている人って、果たしてどれほどいるのでしょうか?(これは「多くの著作本」を書いている、著名人と言われる人達、全員への問いかけです。)
お金になるとか、「精神世界は、証拠がとれない分適当なことを言っても責任追及されない」とか、そんな軽々しい気持ちで向き合っているのなら「迷惑だから、やめてくれ」と、私は叫びたい。ある意味それは、「人々(読者)が抱く真理探求心への冒涜だ」とも思います。
昨日の記事でも書いたように、私たちは「エネルギーが硬直して結晶化された世界」の中に生きているだけで、本質は「もっと自由なエネルギー体」のはずなのです。
にも関わらず、そうした「自由なエネルギー体」の代表者たるべき存在でなければならない精神世界分野の人間が、「物質世界の牢獄」の法則に翻弄されてどうするというのでしょう。
この世の中、精神世界にはまったく興味も持たず、競争社会・淘汰主義のビジネス世界の中でひたすら生きて、ただ「今」という時間をこなすだけこなし、虚しさの中にいながらも「その虚しさの理由も気づけない」という人たちだって大勢います。「何かが違う」そう思いながら日々を過ごしつつ、漠然とした不安に包まれている人だって、少なくないでしょう。
そういう人たちが、何か答えを求めようとした時。
一番身近にある世界こそが「精神世界」のはずです。
カルト教団、宗教団体が答えをくれないことぐらい、そうした人たちはもうすでに分かっているからです。「これだけ多くの本が精神世界の棚に並んでいるんだから、何かいい本があるかもしれない」そう思って、探し求める人も多いでしょう。
入門編に関しては、日本はある意味「他の国より充実している」かもしれません。「神との対話シリーズ」や、山川夫妻が訳した多くの書物もそうですし、そこで何か自分なりの発見を見いだせる人たちがいるかもしれません。
しかし、そこから先は「行き詰まり」です。
私は6月に出版される文庫本を書くにあたって多くの書籍を読みましたが、「本当に、真理を探究する気があるのか、或いはただの儲け主義でしかないのか」と疑問に思うものも数々ありました。
おそらく、そうした人たちは2012年を境に全員消えてしまうか、或いは「今までの自分を棚上げして、まったく違うことを言い出すか」のどちらかでしょう。生活の為にそうしたことを書いていたに過ぎず、本当の真理──本当の人類の向上の為に書いていたわけではないのなら、そうした人の正体は2012年──いえ、それよりも早く来年あたりにはすぐ見えてくるはずです。
ある意味今は、そうした「本当の真理を求める人」と「そうでなく、あくまでも儲け主義だった人」の振るい分けにかかっているのかもしれません。
私自身は、ひとつの疑問──今は、この次元の謎を紐解くということに全霊を尽くしていますが──が浮かんだら、それに対してまた次の疑問、さらに次の疑問という湧き出方をしているので、尽きることがありません。
本当の意味での探究者というのは、「そういうもの」なのだと思えるのです。時期が来たから「はい、さいなら」と出来るわけでは決してない。その時期が終わろうが何しようが、果てしなく「疑問に食いついていくもの」なのだと、そう思えるのです。
何故なら、「三次元に生きる以上、疑問は絶えることがない」から。
もし「ああ、すべて解決した」という時が来たら、それは自分が覚った時か、或いはアセンションでもして高次元に行き、そこで答えを知ったかのどちらかしかないでしょう。
私のこうした姿勢を、「堅苦しい」「苦労性」などという人たちも一部います。
ですが、あえて言えば
真理を探究するのに、苦労なくして出来るわけがありません。
仏陀は、鼻歌まじりで真理に辿り着いたでしょうか?
シュタイナーは、ダンスを踊ってる最中にあれほどの叡智を得たのでしょうか?
もちろん、仏陀に関しては「苦行の最中に覚ったわけではない」とはいえ、ミルク粥をもらったその瞬間も「それまでの積み重ね」がなければ絶対に至れなかったはずです。仏陀が毎日遊び呆けていたとしたら、ミルク粥をもらっても気づきには至らず、「なんだよ、くっさいメシだな~」で終わってしまったかもしれません。
苦労というのは、「している最中に何かがある」のではなく、「それを積み重ねることにこそ、意味がある」のだと、私には思えるのです。
もっとも、「今はそういう時代ではなくて、もっと気楽にしていれば分かるのよ~」というお手軽スピリチュアル派の人たちも少なからずいます。
私は、そういう人たちの在り方も否定はしません。
ただ、それは「個人差でしかない」としか言いようがないでしょう。
例えば、そういう「もっと気楽にしていれば、真理は簡単に分かるのよ~」という人が、「本当に、私覚ったのよ!」と言い出したとしましょう。
では、その人に「万民に分かるように、すべてを説明出来るか」と言えば──答えはNOなはずです。
その人は「その人のレベル」で理解しただけであって、「万民のレベルに置き換えて、理解したわけではない」。
みなが分かるようにその真理を理解するのは──ことさらに、それを三次元レベルに、結晶化したレベルに置き換えるには、どうしたところで労力は避けられないのです。
そして、私は「自己満足の為に、真理を知りたい」のではなく、「三次元のロジックとして、それを明かしたい」と思っています。だからこそ、果てしなく疑問と向き合いながら突き進んでいるのです。
それが、「探究者の真の在り方」だと、私はそう確信しています。
……って、やれやれ。
とあるきっかけがあったとはいえ、篠崎にしては珍しいぐらい感情的な記事になってしまいましたね(苦笑)。
お目汚し、失礼致しました──。
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