私が大好きな映画「コンタクト」の中で、非常に印象深い場面があります。
この作品はカール・セーガンのSF小説を元にしており、1997年に上映されました。主人公のエリー(ジョディ・フォスター)はSETI(地球外知的生命体)の存在について研究する天文学者で、ひたすら異星人からの交信を待ち続ける──という話です。(※以下、青字部分は映画の詳細に触れています((ほぼネタばれです))ので、読みたくない方は飛ばしてお読みください。)
様々な試行錯誤と人間ドラマを繰り広げた末、エリーは念願の「コンタクト」を果たしますが、それは物的証拠のない──いわば「誰にも共有出来ない、個人的真実」でしかありませんでした。
しかも、他の人たちが共有した事実は「エリーを乗せたポッドは、ただまっすぐ落下した」という現実だけだったのです。先日も言ったように、「情報の真偽を問わず、共有意識において多く認識されたものは、常に真実とみなされてしまう」わけですから、それだけでエリーの実験は「失敗だった」と見なされてしまいました。(共有意識というのは「民主主義((多数決))」なんですよね((苦笑))。)
エリーは「自分は科学者である」という誇りを常に持っていた為、「物的証拠が何もない」という現実がどれほど説得力のないものかを痛感していました。しかしそれでも、自分の体験した真実に、嘘はつけなかったのです。
国際協力の下で資金を集めたプロジェクトだった為、アメリカは非難の的となり、その捌け口はすべてエリーに向けられました。そして結局、エリーはその言動の責任を追及されるべくして、裁判にかけられてしまいます。
調査員に「交信はねつ造で、体験したこともすべて『幻覚だった』と認めますか?」と詰め寄られ、エリーは言葉を失います。科学者であるという彼女のプライドは、そこで闇雲に自分を正当化することを選ばず、はっきりと自分の立場を弁え「幻覚だったか──と聞かれたら、そうかもしれません」と答えます。
しかし、その後でこう付け加えました。
「ですが、どんなに証明出来なかったとしても、私の中にある確固とした体験が物語っているのです。あの体験をもとに、私は『変わりました』。その真実だけは、否定出来ません」──と。 エリーは、保身の為にただ闇雲に自分を肯定することもなく、また逆に、調査員の言動に迎合することなく、きちんと「自分の真理」を貫きました。
これこそ
「自分の言動に責任を持っている姿勢」だと、そう思います。私はこうしたエリーの姿勢がすごく共感出来るし、同時に「自分もかくありたい」と願っています。
昨日の記事にも繋がりますが、昨今、精神世界では本当に色々なことが言われています。
私は、そのどれも否定しません。そんなことを、私がとやかく言う権利はないからです。
しかし、
「言っている人の『姿勢』」について意見することはあります。
例えば、他者の尊厳を侵すような言動──個人の人生、或いは過去に生きた歴史上の人物の名を連ねて「この人は霊的次元が低い」だの「この人は幽界レベル」だのランクづけをするような人は「論外」だと思います。
人は誰しも「宇宙の子供」であり「地球の一部」であって、そこに優劣はありません。「ワンネス」という言葉をしょっちゅう使う人たちが「魂のランク分けをする」なんて、矛盾極まりないどころか「もっての他」です。そういう人は「個性における差違」をはき違えているとしか思えません。
論じる姿勢について、私は「YES・NO」はっきり言いますが、「誰それの言ってることは正しい」だの「間違ってる」だの、そういうことはまず言わないし、これからも言う気はないです。
しかし、ひとつだけ明確に言えることがあるとしたら──
常に自分の言っている言葉に対して、言動の責任を負うべきだということです。
上記のエリーは、「いち科学者」として、そのプロジェクトに関する責任を追及されました。
しかし、精神世界の人たちが責任を追及されることは「ほぼ皆無」でしょう。
勿論、お金の絡む詐欺罪などであればともかくとしても、「誰それの講演会に参加したけれど、その効果が見られない」とか「占いでこうなると言われたけれど、それが外れた」という理由で訴えられることはほぼないはずです。
ですが、「だからこそ」──精神世界に関わる人(とくに執筆家やブロガーなどの発信者)は「自己責任において、慎重な言動を心がけるべき」だと思えるのです。
私が安易に既存科学批判が出来ないのは、「科学者達は、常にそうした過重な責任の中で闘っている」ということが分かるからです。
昨日引用したリサ・ランドール博士の言葉にもあるように、「探究は、喜びと絶望の繰り返し」といったニュアンスの言葉の意味も、そこに含まれているでしょう。
もし、大きなプロジェクトで国家予算をかけて実験したにも関わらず、その結果が出なかったら──それは本当に絶望どころの話ではないでしょう。私だったら、実験前の数日間は興奮と緊張で絶対眠れなくなるはずですから(苦笑)。食事だって喉を通らないだろうし、部屋の中をうろうろ、うろうろ──「檻の中の(ちょっとノイローゼ入った)クマ状態」になっていると思います。
だって、想像してみてください。
国民の税金を使った実験をしたにも関わらず、「失敗に終わった」となったら──どこに逃げ場を求めればいいのでしょう? どんなに辛い心を誤魔化そうとしたところで、誤魔化しきれるものではないはずです。(しかしだからこそ、安易に事業仕分けで「研究費用」を削る姿勢はどうかと思います。科学者がただでさえプレッシャーを感じている中、未来をかけて実験しているのだから少しぐらい応援してあげるべきではないでしょうか。そんなに仕分け仕分け言うのなら、政治家達の月給すべてを公表してやるのが本当の公平ってヤツではないでしょうか?)
それだけでなく、科学者という立場は「仮説が実は間違っていた」ということになれば、学会でもつまはじき者になります。すなわち「生きる術(すべ)」を断たれてしまうわけです。
そこまでの危険を冒してでも、新しい学説を唱える学者というのは本当に勇気があると思うし、素晴らしいと思います。(そういう意味でも、私はランドール博士のことを評価しています。それは、博士の学説と自分の持論が異なるとか、そういったレベルの話ではないからです。)
でも、精神世界はどうでしょうか?
そうしたプレッシャー、責任がどこにあるでしょうか?
簡単にUFOの到来を唱え、いざその日になっても何もなかったとして──その言動の責任は負えるでしょうか?
「そんなこと言ったら、何も言えなくなるじゃないか」
そういう反論もあるかもしれません。
しかし、そうした反論に対して私は、「言動の責任を負う覚悟がないのなら、最初から『何も言うな』」と返すでしょう。
責任を負うというのは、何も「頭をまるめろ」とか「切腹しろ」とか言ってるわけじゃありません。そこまで追及されるのであれば、私だって怖くて何も言えませんよ(笑)。
そうではなく、
「自分の発信している情報に、どれほどの信憑性があるのだろう」という「謙虚に検証する姿勢を持つ必要性がある」というだけのことです。
そして、いつでも新たな真理に向き合う柔軟性を保ち、「非があれば、それを素直に受け入れ変わっていく姿勢が必要だろう」と、私はそう思っています。
もう何十年も前の話なのですが、とある新聞が「偽の情報を流した」ということで裁判沙汰になったことがありました。
しかし、それは結局「訴え棄却」で原告が敗訴したのです。
その理由は、(名前は伏せておきますが)訴えられた新聞が「大袈裟なスクープネタで有名なスポーツ紙」だったからです。要するに裁判官は「この新聞に、情報の信憑性を求めても仕方ない」──そう判断したのでしょう。
科学者が「情報の信憑性を求められる大手新聞」だとしたら、精神世界の人たちは上記した「スポーツ紙」に過ぎないのかもしれません。
でも、私は「いつまでもそのままでは、世の中何も変わらない」──そう思います。
勿論、都市伝説や心霊スポットのような「不思議大好き」「オカルト大好き」「何かよく分からないけど、怖い体験したい」という類の情報だって必要でしょう。しかし、
いつまでも精神世界が信憑性の追求されない、アテにならない情報でいるのは間違っている──そう思えるのです。
その為には、精神世界に関する記事や本を執筆する「発信者」である人たちが、科学者を見習って、もっと
「言動に責任を負おう」という自発的な態度が必要だと、私はそう思います。
勿論先日も書いたように、私自身は「原子を破壊させる実験」を懸念視していますし、実験の中には賛成しかねるようなものも数々あります。「次元の考え方」に私が疑義を抱いているように、既存科学で「これは違うのではないか」と思うことも多々ありますが、学論に対して異議を唱えたとしても、私は「言動に責任を持たざるを得ない科学者の立場」というものは敬意を表さずにいられません。
安直に既存科学を「科学信奉主義」として批判するよりも前に、もっと「科学者の姿勢」についてを、私たち精神世界の人間は見習うべきなのかもしれないと、そう思っている次第です。
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