今日は出版二作目の参考に使う物理学用語の資料を、大量にプリントしていました。
私は哲学科出身故、どうしても「言葉の定義」に対して慎重──というか、神経質なところがあり(考察するにおいて言葉の定義を間違えてしまったら、根本的に論旨がずれてしまうので。マカロンのことを『消毒薬の種類』と定義してしまったら、周囲とまったく話がかち合わなくなるのと同じように……。←そんな間違い方するヤツは、私しかいないでしょうが;)、
「次元」という言葉の使われ方について、もう少し自分で掘り下げたいと強く思っていたのです。
そもそも「高次元」を語るのに「次元の定義」が曖昧では──お話になりませんしね(苦笑)。
ところが。
どうやらそもそも、この「次元の定義」そのものが
最初から曖昧であるということが分かってきました。
wikiの一部を以下、転載します。
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次元(じげん、dimension)は、空間の広がりをあらわす一つの指標である。座標が導入された空間ではその自由度を変数の組のサイズとして表現することができることから、要素の数・自由度として捉えることができ、数学や計算機において要素の配列の長さを指して次元ということもある。自然科学においては、物理量の自由度として考えられる要素の度合いを言い、物理的単位の種類を記述するのに用いられる。
直感的に言えば、ある空間内で特定の場所や物を唯一指ししめすのに、どれだけの変数があれば十分か、とも言える。たとえば、地球は3次元的な物体であるが、表面だけを考えれば、緯度・経度で位置が指定できるので2次元空間であるとも言える。しかし、人との待ち合わせのときには建物の階数や時間を指定する必要があるため、この観点からは我々は4次元空間に生きているとも言える。
(wikipedia「次元」参照 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AC%A1%E5%85%83)
──────── これを読んで、
「って結局、どっちなんじゃい!」と突っ込みたくなった人は、私だけではないと思います。
科学雑誌のニュートンでも、以前、次元について特集雑誌を組んでいましたが、そこでも明確な次元の定義は避けており、むしろ
「次元の考え方は、これしかないんだ」という大前提に立ってさえいるような印象を受けました。
しかしこの後、こうした説明書きもありました。
────────
また、転じて次元は世界の構造を意味することがある。
──────── ──なるほど。
要するに、次元という言葉には
「二つの定義」があって、どちらが先でどちらが後かはともかくにせよ「まったく異なる理解を示す」ということが後付により理解出来ました。
しかし──だとしたら、(前々から申しておりますように)やはり私たちのいる次元を「三次元」という言い方にするのは、不適当な気がします。
上記の説明であると、
物理的に原子が移動する自由度において「三次元」という解釈になるのでしょうが、ここの説明書きにもあるように、この観点に「哲学的要素」を組み込んでしまうと、「二次元かもしれないし、四次元かもしれないし??」という問題が出てきてしまいます。
結局、ここでも問題なのは
物理学や科学として認識されていることも、結果的に人間の意識を介してでしか出来ることではない以上、そこに哲学的な解釈をいれずに説明は不可能ということであり、同時に
物質面も意識面も一元的な問題に過ぎないというところに立ち返るしかないのだと、私には思えるのです。
だとすれば──今まで既存科学にしろ既存物理学にしろ、
定説ばっかりに拘りすぎて、もっと違った角度で新たな理論を構築するという姿勢に欠けていたのではないか、そんなふうにも思えるのです。
もっとも、最近で言えばたびたびこのブログでも挙げている「リサ・ランドール博士」はもっとも斬新な理論を掲げているひとりと言えますが、ただ、「
既存物理学の次元の考え方への疑問」でも書いたように、
上記した次元の考え方では、どう転んでも異次元説には結びつかないように思えて仕方ないのです。
そこを打破しない限り、本当に博士が探している「異次元への答え」には到達出来ないのではないか──私は5月16日当時にその記事を書いた時は「ただの直観」でしかありませんでしたが、改めて次元の定義を掘り下げた際に、ことさらそのことを実感した次第です。
人間というものは、やはり「閃き」によって導かれている生き物だと私は思います。
でもおそらく、研究者や学者という立場になればなる程、
閃きを尊重できないというジレンマに陥る──私はそう思います。
私の友人で、東大の大学院で博士課程にいる人が何人かいました。非常に優秀で、とても斬新な視点を持っているにも関わらず──彼女たちは共通して「それを、公には発表できない」と、そう言っていました。「女性である」というのも、もしかしたらマイナス面だったのかもしれませんが(余談:女性に差別的な国は、イスラム国家を除いたら「日本がダントツ」だと思われます)必ず男性陣に「へりくつ」で叩かれてしまうのだそうです。
仮に、日本に「リサ・ランドール博士」のような才色兼備の研究者が出ないのは「男性陣のへりくつ」が理由だとしたら──なんとも勿体ない話ですね(苦笑)。
私は
「アウフヘーベン(止揚)」という言葉が大好きで、それは「対立する意見なり考えが統合され、まったく新たな意見(考察結果)が生まれる」ことを示す哲学用語です。
今まで精神世界、或いは物質世界という「二元論」で対立してきたものが──前者は哲学、心理学、後者は物理学や科学という存在が、仮に統合され「新たな考察結果」に至れたとしたら──それこそ素晴らしいことだと、私は今からワクワクしています。
分離は、「いつまでたっても対立する為にある」のではなく、「いつの日か統合される日の為に存在する」のだと、私は頑なに信じています。
その為には、今は互いに「相容れない」とされる物理学の分野と精神・思想の分野が「統合」される日の為に──今いる研究者達は「もっともっとクレイジーに、新たな理論を展開する必要性がある」──と、強く私は確信しています。
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