「こころ」の籠もってない感謝想起への疑義

 今日は少し、道徳的(?)な記事です。

 昨今、スピリチュアリストの間には、「ありがとう」という言葉を言い合うことが流行のようです。
 「毎日、生かされていることに感謝しましょう」
 それは本当に、素晴らしいことだと思います。私たちがまるで当然のように受けている恩恵、ひとつひとつに目を向けることの大切さに気付かせてくれる言葉だからです。

 ですが、皆さん──。
 それを実践する前に「まず」ちょっと考えてみては頂けないでしょうか?
 「ありがとうございます」という時、本当に「こころ」を籠めて言えているのかどうか、と。

 「ありがとう推奨派」の人たちの中には、「こころなんか籠めなくていいから、とにかく『ありがとう』と言えば、後からこころはついてくる」という意見もあります。
 ……が、それは明らかに間違いだと思います。
 それって、言い方を変えれば、赤ちゃんにミルクをあげるのに「とりあえず、飲ませておけばいいのよ」、家族にご飯を作るのに「とりあえず、作っておけばいいのよ」って言ってるのと同じことではないでしょうか?

 「こころの籠もってない感謝」に、一体どれほどの重みと意味があるのでしょう?

 言霊というのは正直なものなので、「腹とはまったく違うもの」を思っているにも関わらず上滑りな言葉だけどんなに繰り返しても、決してそれは連動しない──私はそう思います。
 それどころか、ますます「心の裏表」が分れる羽目になり、本人はうわべだけを自分と思いこんでしまい、こころの奥底では平気で「まったく違うことを思える」ようなことになりかねない気がします。
 おそらく、皆さんも今までに何人か会ったことがあるのではないでしょうか?
 「この人、口ではこう言ってるけど──心の中で何考えているのか、わからない」
 「口では笑っているけれど、目が笑ってない」──そんな人達を。
 上滑りの言葉は、その人の心を置き去りにしてただ鎧のようにその人自身を着飾り──ついには「鎧だけで、中身が何もない」という自体にまでなってしまうのではないかと、私はそう思うととても恐ろしいです……。

 私は「感謝」をする前にまず、「『こころ』を意識することの方が先決」だと、そう思います。
 とどのつまり、「思いやり」です。
 感謝は「受け身」です。
 「してくれて、ありがとう」
 「与えてくれて、ありがとう」。
 でも、そこから先に進むことがありません。
 でも、「思いやり」は違います。
 それは「自発的な行動」となり、同時に相手から感謝されることさえ期待しない、無償の愛となります。

 「思いやり」があれば、自然に「感謝の心」も芽生えます。
 しかし、どんなにうわべだけの「感謝」をしても、「思いやり」は芽生えません。
 感謝は、皮肉や相手を傷つける為にも使用出来ます。
 例えば──掲示板のコメントなどで、見かけたことはありませんか? 口論になった相手に向かい、「○○さんを生かせて頂いて、ありがとうございます」と。
 口論になった相手に向かって使う言葉でないことは、すぐに分かります(苦笑)。もし本人が「心から思っての感謝」であれば、わざわざ相手に見えるようにそれを書かないはずです。これほどまでに憎悪の籠もった攻撃的な「感謝」の使い方を、私は見たことがありません。文章は、思いの外読み手に「書き手のこころ」を伝えるものだったりするからです。

 しかし、思いやりは最初から、皮肉や、相手を傷つける為に使用など出来ません。
 何故なら、「攻撃心」が最初から「思いやりには存在しない」からです。
 上記の口論の末、もしその人に「思いやり」が欠片でもあったら、もっと優しく、相手を傷つけないで済む言葉が残せたはずです。 

 日本人は茶道、武道など「作法」を重んじる文化が強かったせいか、どうしても「こころが後付」になってしまう傾向が強い気がします。
 本来、作法は「こころありき」の前提があったからこそ、「それをより美しく、かつ、より洗練にする為にあったのだろう」と私は推察しています。思いやりやこころの抜けた作法は、ただの「動作」に過ぎません。
 感謝も、そのような扱いになってしまっているのではないかと──私は非常に危惧しています。
 本当に、こころから「ありがとう」と言っている人と、そうではなく口先だけで「ありがとう」を言っている人を──周りは結構見抜いているものですよ。
 
 マザーテレサは、そこまで「感謝」を強調したでしょうか?
 ガンジーは、そこまで「感謝」を強調したでしょうか?
 キング牧師にしたって、宮沢賢治にしたって、みなに共通して言えることは「他者に思いやりを持つこころ」があったということであり、決して「ひとり歩きした感謝」ではなかったはずです。

 そして、もうひとつ──私が「感謝」に関して危惧している一面があります。
 それは「ありがとう」という言葉で、すべての事象をALL OKにしてしまう危険性です。
 いつも私は、「だったらその言葉を、紛争が絶えず、銃声が響き渡る中でこそ言ってみて欲しい」と思います。「ありがとう」という言葉はまるで結界のように、「自分さえ良ければいい」という考えに陥らせる側面もあるように、私には思えるのです。

 勿論、本来の「感謝」はそんな意味ではありません。
 しかし、そういった「ありがとう」の悪い影響力が出てしまわない為にも、私は「こころの育成の方が先決」だと、そう思うのです。
 それは、すごく簡単なことだと思います。
 それこそ、先日イギリスから帰国した際に書いたような些細なこと──店に入る際後続する人がいたら「ドアを開けて待つ」とか(そうしてもらった時に出てくる「ありがとう」は、ホントの意味での感謝ですよね)、料理をする際「食材になってくれる野菜達」や、それを育ててくれた人たちに思いを馳せながら作るとか──すごく小さな、簡単なことだと思うのです。
 感謝は「思いやり先にありき」であって、そのあとに後続するものなのだと──私は思います。「こころ」が空っぽな状態で「ありがとう」を言われても、言われた方だって嬉しくはないし、決して言霊の籠もった「ありがとう」にはなりません。

 最近、「それはあくまでも方法論であって、目的にしてはいけないもの」が、「目的」にされてしまっているケースが多々あると思うことがままあります。
 「感謝」も、そのうちのひとつかもしれません。
 感謝想起は、あくまでも「思いやりという行為上、派生する過程」でしかなく、「目的であってはいけない」と、そう思うのです。 
 常に最終的な目的にたつべきものは、「どれだけ他者を思いやれるか」であり、フラクタル理論で考えれば「自分をどれだけ、大切に出来ているか」ということにも繋がります。
 そして、「自分をどれだけ大切に出来ているか」というのは──結果的には、「毎日に、どれぐらい『こころ』を籠めて生きているか」に尽きるのだと──私はそう思う次第です。


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プロフィール

篠崎由羅(しのざきゆら)

Author:篠崎由羅(しのざきゆら)
1970年生。幼少期から哲学・宗教学に造詣を深める。思想および思想史、それに付随した国際事情に興味を抱いて独学を続け、大学ではインド哲学科専攻。東西問わず、両者の思想に渡り研究を深める。

現在は看護師として施設で勤務しながら、その傍らで執筆活動を続けている。2016年11月にYOU are EARTH改め「WE are EARTH」の活動を再始動予定。より良い未来の地球のため、全力を尽くす誓いをたてている。

【篠崎編集担当】


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