「みんな、楽しむために生まれてきた。だから、もっと楽しんでいいの」 そういう言葉を、よくスピリチュアリストの人達から聞く機会が多いです。
それは、ある一面においては真理でしょう。でも、ひとつだけ「大切な概念」が抜け落ちている──私はそう思います。
それは、
この次元は、摩擦も対立も避けられない「電気的磁場」なのだという概念。(詳しくは「
二極化した次元─電気的宇宙論─」参照)
私は、「楽しむ」ということ自体は、否定しません。
何故なら「苦しむために生まれてきた」なんて言われた日にゃ、何もかもが変わらない──「苦悩からの脱却」という言葉さえも否定されてしまうからです。
しかし「自分に嘘をついてまで、『私の人生は楽しいの』」という考え方には、反対です。それは自分を偽り(上滑りの感謝同様)
表向きの言葉と、本心の「乖離(かいり)」を進ませてしまうことになるからです。
私がもし、この次元を一言で言うなら──
「『痛い』よね、この次元は──」に尽きると思います。
肉体が病になっても「苦痛」。
精神的に傷ついても「苦痛」。
不安があれば「苦痛」。
お金がなくても「苦痛」。
やりたくない仕事で時間を割かれても「苦痛」。
電気的な摩擦も対立も、そこから一番最初に派生されるのは「痛み」だろう──私はそう思います。
そして、現代が陥っている典型的な過ちが──
麻痺。
根本的に問題を解決させることよりも、まるで逃避させるかのように「痛みだけを、誤魔化してしまう」。「苦痛」と感じているもの、すべての感覚を遮断し「麻痺させてしまう」のです。
それが結果的には「社会における苦痛を麻痺」させたが故に噴出した「鬱病の増加」となり、
「肉体の苦痛を麻痺」させるが故の「薬物依存」になったり、
もしくは、「心の苦痛を麻痺」させるが故の「表面上の言葉と本心の乖離」だったりするのかもしれない──私はそのように感じています。
すべては「意識の捉え方で変わる」──それは確かに事実です。
しかし、
それだけが必ずしも、真理のすべてではないという自覚も大切です。
どんなに意識の在り方を変えたとしても「どうにも耐えられない環境」「どうにも耐えられない関係性」というのはあるものです。
それを無理に「私の感じ方がいけないんだわ」「もっと受け入れなくちゃ」と思えば思うほど、表面上の上滑りな言葉と本心はますます乖離していき──ついには「本当に自分が望んでいたことが、一体何だったか」さえも、人は見失ってしまいます。
私は、「現代言われている精神的な病」のほとんどは、こうした「乖離」が原因なのではないかとさえ思っています。
私がこうした言葉を唱えるスピリチュアリスト達全員に「違和感」を覚えるのが、
全員、恵まれた生まれの人が多いことです。
勿論、一時的な苦労はあったかもしれませんが、結果的にはハワイ、アメリカ、日本では沖縄など、「環境が恵まれている場所」にいる人たちがほとんどです。
中東やアフリカ、中国、北朝鮮、そうした「情勢に苦しんでいる国」からは、何故そういう「この世を楽しみましょう」という発想が生まれないのでしょうか?
その理由につき、私は
「楽観的な思考」という真理は、「地域限定でしかないから」だろうと推察しています。
通用する地域もあれば、通用しない地域もある。
でも、そんなものは「森羅万象の真理」とは言えません。
私は、「だからこそ」もっと広い視野で世界を見た方がいい──そう思います。
勿論、誰だって
「幸福に生きたい。自分の思うような人生が生きたい」そう思っているはずです。それは、私だって同じです(苦笑)。
カヴァーロ曰く、高次元(クラリオン星人)達は、
「自己独立し、自分の役割を認識した全体調和の中で、生きることそのものを、楽しんでいる」のだそうです。
私自身も、同じことを離脱先で聞いています。
「みな、ひとりひとりが自分の役目を理解し、自分が適した場所に住み、そうした個性の表現が結果的に『大いなる全体の調和に繋がる』ことを楽しみに生きている」と。
楽しむというのは、表面的な「楽しむ」ではないのです。
「自分の個性にあった仕事、自分がしたい役目を全うすることこそ」が、
「本当の意味での楽しみ」なのだと思えるのです。
では、
「だとしたら、自分はどんなところで、どんな役目に生きるのが幸福なのだろう」──そんなふうに考えるのも、いいかもしれませんね。そういうことを考えていると、自ずと「意識の振動数もあがっていく」と、そう思います。
私自身は、今の自分に結構「満足」しています。
でも、おそらく外部から見たら「発狂しそうな生活」だと思いますよ(苦笑)。
数時間読書をしたり、そうかと思うと数時間も執筆したり、それを元にあれこれ色々な構図をノートに書き散らしては考察したり──「そんな生活の、どこが楽しいの??」と聞かれそうですが、いやいや──私にとっては「これが、楽しくて仕方ない生活」なのです。
たったひとつの服を探すのに何時間もあちこちのデパートを歩き回るだの、ブランドもんがなんだの、「今年の流行は何色だ」とか、「どこどこのレストランの何が美味しい」とか──そんなことの方が私にとっては遙かにつまらないことであって、「退屈極まりない」のです。
ですので「個人によって楽しみというのは『個人差がある』」ということも、また大きなポイントのひとつなのかもしれませんね。ある意味、これも「ひとつの個性」なのかもしれません。
(もっとも、ひとつだけ満足出来ないのは──「今住んでいる場所が、住宅街だ」ということです。私は音に異常な程敏感で、自然音以外の生活ノイズに対して、とても「ストレス」をためる性分だったりします。ここ最近それが悪化しているので、「山奥の一軒家に住みたい」と強く願っていますが──なんと、希望通りの物件が「あった」のです。その願いも叶ったら本当に「すべてを楽しめる」、そう思いますね。)
私は仮に、自分が「すべての幸福の境地に立てた」としても、それを振りかざすように「みんなも楽しみましょう!」と言うことは、まずないでしょう。
何故なら、
この次元は、摩擦や対立によって生じる「痛み」を学ぶ場でもあると、そう感じているからです。
私がどんなに満足出来る状況になったとしても、私は地球上にある哀しみや苦悩、人類に認知されないまま消えていく絶滅種達、悲鳴をあげている自然の中に意識を投じ、彼らと共に私も痛み、哀しむでしょう。
「人は、楽しむために生きてきている」──それも一理あるでしょう。
でも、それよりもっと尊いのは──
「他者の痛みを自分の痛みとして感じ、その為に涙し、行動することなのだ」と、私はそう思います。
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