前回に引き続き、「日本民族」に関わる記事です。(カテゴリ名ーを「日本人の精神改革」に変更しました。)
2012、アセンションなど、
大きな変革を前にして「何で今更、日本民族?」って疑問に思う方も多いかと思われます。それは逆に言うと、
違和感を感じずにいられない程、民族性の概念は今まで掘り下げられたことがなかったという証明に値するのかもしれません。
社会問題、政治の問題──「現代日本」として「国の在り方」は問われても(いえ、真摯に問われたことは未だかつてないような気もしますが)、何故今まで
「日本民族」という問われ方はしてこなかったのでしょう?
国というのは
ただのシステムに過ぎませんが、民族性は
精神(スピリット)です。本にも書いたように、
最初にシステムありきで来てしまったが故に、今まで「こころ(スピリット)」である民族性が蔑ろにされてしまった──という、いい症例かもしれません。
日本民族という言葉で括った際、「国籍がある・ない」は「いっさい関係ない」ことになります。日本で生まれ育って、大人になってから海外に渡り、そこで永住権をとった人も「日本民族」です。精神は形ではないので、絶対に失われることのないスピリットとして、どこに行っても「ついてまわる」のです。
だからこそ、これから「グローバルに開かれていく」今、自分の個性にも直接的な影響を及ぼす「民族性」について、理解しておく必要がある──私はそう思います。
私は
日本民族の特徴は「伝導体(プラズマ)意識」なのだということに気がついて以来、さまざまな問題点に目がつくようになりました。
まず、現在の教育。欧米式の教育方針。政治のやり方。外交の在り方──すべての方法論を「覆してみなければならなくなる」ことに気付いたのです。
社会・経済学者であり、ポストモダニズムの提唱者でもあるP.Fドラッカーは、「日本人は製造業階層だ」ということを今から10年以上前に述べていました。
確かに、日本がこれだけ高度経済成長したのも「製造部門において」です。もともと職人としての文化が強かった日本民族故、製造業階層というのは言い得て妙です。
しかし、矛盾していたのは「製造業階層には製造業階層にあった教育方針」というのがあるのであって、それは決して欧米文化における方針とは「まったく異なるものであって当然だった」ということです。
このあたりの関連性は非常に深く、かつ複雑なので、ブログですべて説明しきれるものではなさそうです。なので、これは別個に原稿としてまとめていく必要性も感じています。
今、日本は
政治改革の一環として事業仕分けだの色々とチャレンジしていますが、どんなにうわべのシステムを変えたところで、
「無駄!」です。何故なら、
今まで「日本の民族性にあってない教育、あってない社会」を築いてしまっている故に、変えたくても「変わりようがないから」です。
政治家も官僚も、口先だけで「日本のために、国民のために」と言っていますが、本当の日本国民における民族性について、彼らは何も知らないと言って過言ではないでしょう。何故ならそれほどの探求心もなければ、求道心もない──うわべだけの教育、うわべだけの理念だけで、大人になってしまったからです……。
精神世界においてもよく聞く「意識改革」という言葉。
私自身も使ってはおりますが──日本の民族性を考えるにあたって、私は「日本人に関しては、『意識』ではなく『精神』と言った方がいいのかもしれない」と思うようになりました。
意識と精神は、「似て非なるもの」です。
意識が海に浮かぶ大陸のようなものであれば、精神は「海の水、そのもの」です。
地球という惑星を変える為に「大陸」を変えることも必要です。
しかし、すでに伝導体(=水)である民族にとっては、大陸の改革よりもまず
海の水(自分たちの精神)を清らかにすることが優先される──そう思ったのです。
日本人である私たちは「大陸のような『固体』ではないんだ」という自覚が、必要なのかもしれません。
固体には固体の、液体には液体の「良さ」があります。
私たち日本民族は「液体」である個性を知った上で、改めて「新たな時代における役目」を認識した方がいいのかもしれない──そんな気もしております。
日本民族が元来、伝導体であったのであれば──すべての矛盾が決着つきます。
たとえば、第二次世界大戦。あれだけ「お国の為に」と言って命を投げ出していた人達が、いざ戦争が終わった後、まるで手のひらを返したようにGHQを受け入れられた理由も。
固体気質であるアメリカ人達からすれば、「理解不能」だったと思いますよ。
でも、液体である日本人にしてみれば、何の不思議もありません。液体の特徴は、
「すべてを洗い流すことが出来るところにあるから」です。
マッカーサーが「12歳のような国」と言ったのも、うなずけます。日本民族がもともと「液体」であれば、固体気質の民族性の人からすれば「中途半端」に見えるでしょうね。それは当然のことです。
しかし、日本は液体のような民族性「だからこそ」、固体の民族性を持つ人達の間に入り、潤滑油となってうまくやってくることが出来たのです。
日本民族はもともと、「固体としての気質を持たない」イコール「自我を持たない」傾向にあるのだと思います。
かつての武士達が重んじたのは「自我」ではなく、文字通り
「精神(スピリット)」。 だから、最初から自我を重んじる国から民族性を理解されなかったとしても「当然のこと」だったのです。日本の「和」という言葉は、伝導体気質である日本民族性を最初からうまく言い当てている──そう思います。
児童文学「アミ 小さな宇宙人」の中で、「『脳』は、頭と心の両方に入っている」という説明がありました。「頭だけの脳を使っていると、今の地球のような『科学ばかり』になってしまう。本来は頭と心、両方の脳を使った方がいい」と。
今になって、その意味がよく分ります。
日本人は元来、
「こころ(精神)で思考出来る民族」だったのです。しかし、まったく違う気質の文化の教育をまるまる受け入れてしまったが為に、従来大切にされていた「こころ(精神)で考える」ということを、日本民族は忘れてしまったのでしょう。多発する鬱病、精神疾患は、まさしくこの
忘れられたこころ(精神)で象徴される──そう思います。
視点を変えると、日本における「まったく違った側面」が多々見えてきます。
私たちは今まで、「西洋文明を中心としたフィルター」で見て来てしまっていました。
しかし、それを今度は「内側から」──
日本民族の「精神」を通して見てみると、歴史や民俗学の事情、すべてが見えてきます。
同時に、「今、日本社会が直面している問題は、一体何が根源的に問題なのか」、それも如実に見えてきます。
その辺りの問題点などについては、また改めてこのブログで紹介させていただきます。
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