最近痛感するのですが、この「ブログ形式」というのは、何かひとつのテーマを掘り下げるのにはすごく
不向きですね……。まぁ、もともとは「日記」という役目のもとで誕生したのだから、仕方ないと言えば仕方ないのですが。(日記で「ひとつのテーマを掘り下げよう」なんて人は、まずいませんものね;)
カテゴリー連載という形式をとったとしても、やはり難儀な部分はあるな──と、実感しています。
そこで、今後「
YOU are EARTH」のサイトで、
過去記事で関連性のある内容を、大きく加筆・修正した記事連載をしていくことに決めました。
おそらく7月上旬からスタートすると思われます。
本当は「期間限定」で始めたブログですが、気がつけばあと2ヶ月で1年が経とうとしています。さすがに1年前からの記事を読み返すとなると大量ですし(しかも、私のブログは1日の記事の文章量が無駄に多いので;)、なかなか厳しいと思われます故、それを読みやすく編集したものを、今後「YOU are EARTH」で掲載していこうと思っています。(おそらく半月に1度更新のペースになると思われます。)
今回のカテゴリー連載「日本人の精神改革」については、正式に出版本として原稿執筆することに決めました。
ブログだけでは情報発信に限界があるし、この記事に関しては「精神世界の人限定」ではなく「もっと広い範囲の人達」に伝えたい内容だからです。
実際に書くとなると、日本の歴史は勿論、民俗学、日本の神話、仏教学など、あらゆる方面からの解析も必要なので、(いつものことっちゃいつものことですが)読む資料も大量に発生します。現在進行している二作目の原稿執筆と同時進行で進めていこうと思っているので、たぶん今年の年末あたりには「大学時代にさえあり得なかった程」の情報量が、私の頭の中に詰っていることでしょう(苦笑)。←資料の内容を「忘れなければ」の話ですが;
それはさておき。本題に入りますが──。
昨日、
「伝導体気質の日本人にとっては、今ある教育方針も政治方針も、すべてが『合わない』ことになる」と書きましたが、これはかなりシビアな問題だと改めて思いました。
例えて言えば、今、私たちは「横文字」で読むことに慣れています。
しかし、日本は本来
「縦書き」が普通でした。
この「横で書かれるか、縦で書かれているか」は、
読む側の思考においても、大きな違いをもたらすことに気づかされました。※だからこそ私は、今回の原稿に関してはブログ連載だけでなく「出版した方がいい」と考えている次第です。本は「縦書き」なので。
例えば「翻訳された本」などを、「横書き」で書くのはいいと思います。
しかし、日本人として書く以上は「縦書き」で書き、「縦書きを読む」方が、思考するにおいても楽なはずです。
これは、エハン・デラヴィさんも言ってました。私は出版原稿を書く際、いつも「縦書き」にして書くのですが、それを見ながらエハンさんにこう言われたのです。
「今回の見本原稿は、縦書きなの?」と。
「いえ、私は出版原稿を書く際には『イメージを湧かせやすい』ように、縦書き表示させているだけです。なので、お送りする原稿は『横書き』ですよ」と答えたところ、エハンさんは──
「よかった! 僕は日本語の場合横書きなら問題ないけど、縦書きだと読むのにどうしても時間がかかっちゃってね。
おそらく、横書きか縦書きかで、思考の形態も変わるんだろうね」と、こう答えていました。
さすがは意識研究家だな──と、感心してしまいました。
まさしく「その通り」だと思います。エハンさんは「横書きの英語」に慣れている為、「横書きの思考形態」なのでしょう。
これはおそらく、「小説を書かれる人」は痛切に感じていることと思います。美しい情景描写や和風の描写に関しては、横書きよりも「縦書き」で書いた方が、自然に浮かびやすいのです。「横に書くか、縦に書くか」で、すでに思考性に差異が出ているというのは──何とも面白い話です。
しかし、そう考えると──
日本の精神が
いかに、従来の方向性から外れてしまっているかを痛感せずにいられません。
いえ、それどころか──
今までの自己啓発、心理学、スピリチュアルのありかた「すべてが日本人に合わなかったんだ」ということに気づき、改めて驚かされます。
例えば。
私自身も、よく言ってしまっていました。「自分を大切にせよ」という言葉。
この言葉自体は間違いではないし、私自身、自分を蔑ろにしているつもりは欠片もありません(笑)。
しかし、本来の日本民族にとっては
「自分と同じように、他者を思いやる」ことが、何よりも大切なことなのだということを改めて知ったのです。
伝導体の役目自体が、まさしくそうですよね。
血液の働きを考えてみてください。血液は、心臓から運んできた「酸素」を、他の臓器に送り、「二酸化炭素」に入れ替えて肺まで戻る──その循環を繰り返しています。
血液は「臓器」ではありません。しかし、とても大切な役目を担っている存在です。血液が滞ってしまったら、臓器はたちまち壊死してしまいます。血液の存在こそが、臓器の生命を維持している──とも言えるのです。
血液は、臓器としての働きはなくとも「臓器から臓器へ、酸素と二酸化炭素を運ぶ」という重要な任務の中にいます。
その血液が固形化してしまったら──とんでもないことになります。
今、日本は「そういう危険な状態に陥っているのではないか」と、そんなふうに思えたのです。
私が大好きな宮沢賢治の詩、「雨ニモ負ケズ」が評価されたのは、一体何故でしょうか?
宮沢賢治の境地が、まさしくこの「血液の境地」だったからだろうと、そう思います。
宮沢賢治の思想には「エゴ」がなく、また「我思う、故に我あり」といった自我もありません。
ただひたすらに、他者を思いやり、他者の幸福を願う──その
精神(スピリット)です。
海外で日本や日本文化が評価されているのは、
日本がそうした「精神(スピリット)」を重んじていたということにあるのではないでしょうか?
武士道も然り、茶道も然り。
そこにあるのは、自我を貫くことではなく
周りを尊重し、和を尊ぶ精神だったと、そう思います。
固形気質の民族は、固形の働きをみても分るようにすぐ「衝突」したがります。固形は「ぶつかる」ことしか出来ないからです。(ちなみに、中国は三国志にも象徴されるように「固形気質」だと私は推察しています。ですので、日本は「中国文化が伝来した」時点ですでに、多少伝導体気質が揺らいでいる部分はあるのです。しかし、この「民族性」というのは「どのぐらい血が混じったか」とか、そんな物理的な境界線ではなく
「日本という土地に土着した精神」ですので、その精神に守られているうちは((ある意味、それが日本の「神─天照大神」などの象徴かもしれませんが))民族性の影響は、必ずや修正がかかるのだろうと憶測しています。)
勿論、日本にも戦国時代に象徴される戦いは多々ありましたが──実は、民俗学においてはこの「闘い」というのが日本では「欧米諸国に比べて、多少変わっていた」という史実が残されています。
この辺り、宮崎駿監督作品「もののけ姫」で、うまく描かれています。出てくる田舎侍達が、どことなく「呑気」で、他人事のように戦争をしている姿などは、まさしくあの時代(安土桃山時代周辺)を象徴していると思われます。
「自分」より、まず「周囲」を尊重していたのは──何も日本が「恥の文化」だったからではなく、
もともと伝導体気質だったからだと、私は感じています。
伝導体にとって必要なのは「自我」ではなく
「周囲に、如何に摩擦を起こさせないか」です。それこそ「潤滑油」として必要な存在だったとも言えるえしょう。
日本は、本来「左回り」が普通だったのを、欧米諸国に習って「右回りにさせられた」ことが、誤りの原点だったと、私はそう感じています。社会学者で有名な山本七平氏が「空気の研究」などで面白い研究内容を残していますので、参考にしていきたいと思っています。
ですので、
「自分探し」をどんなにしても「うまく自分を探すことが出来ない」と不安になっている方は、どうぞご安心ください。
「自分は、ひとりでいると淋しくて仕方ない」という方も、
「誰かに必要とされないと、自分が自分でいられない」という方も、どうぞご安心ください。
それは、依存心というよりも
日本の民族性がゆえなのだと私には思えます。
むしろ、日本民族の精神性を感じ取りやすい方ほど、上記のことで悩みやすい傾向にある──そう思います。そういう方達の多くが鬱病になったり、自殺したりということを考えると──本当に哀しい事実だとしか思えません。(私は欧米諸国の人にも、このことを伝えたいぐらいです。「あなた方と違うからといって、日本を誤解しないで欲しい。あなた方は右回りかもしれないが、日本の民族性は左回りだという違いにすぎないのです」と。)
このテーマは本当に奥が深いので、私もすぐにはまとめてお伝えすることが出来ませんが、少なくとも今年中には一本の記事にまとめあげたい──そのように思っています。
※明日からは少し、違うテーマも記事にします。また時折、原稿をまとめながら記事にしていきますので、お待ちくださいませ。
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