※連載をしていた関係で、少し日程が遅くなりました。何卒、ご容赦ください──。 先日、マスコミでは靖国参拝であれこれと揉めていたようですが──
「批判する側」も、また
「肯定する側」も、どうにも両者共々
「視野が狭くなっている」ように感じるのは、気のせいでしょうか?
当日見かけた記事では、小泉元首相の息子さんである小泉進二郎さんが参拝にいった──と書かれていましたが、「何がいけないのだろう」と思います。
むしろ、開き直ってマスメディアに「何がいけないんですか?」って訊いたっていいんじゃないかとさえ思えます。
参拝に行く側も、
明確な意図と、目的を持って参拝していないから、あちこちで火種があがるのではないか、そんなふうに思えるので、「ズバッ!」と自分のポリシーを言ってしまえばいいのではないかと、いつも思います。
何故、靖国参拝があれだけ問題視されているかと言えば、当時「戦犯」として処刑された方々も埋葬されているからです。
では、その方達の遺骨は
「参拝もされない、無縁仏のような荒れ地」に埋葬されれば、問題は解決する──とでも言うのでしょうか?
それって、戦争の責任をすべてその方達に背負わせているとしか思えない、冷徹な行為です。
私は、そういう考えかたこそが非常に手前勝手で、
「後世を生きる自分たちさえ良ければ、それでいい」的感覚を世に広めている気がして、不快な気分にさせられます。
戦犯とされた人達は、本当に
日本を悪くしようと、日本人全員を虐殺しようとして、戦争を起こしたのでしょうか? もしこれで日本が戦争に勝っていたら、彼らは間違いなく「英雄扱い」されたはずです。
負けたから、戦犯として処刑されただけに過ぎません。
例えば──想像してみてください。
突如、日本がまたもや戦争に巻き込まれ──大切な人達、愛する友人を失った、としましょう。
毎年毎年、終戦の日にはその哀しみが蘇り、心が引き裂かれ、墓前の前でただ涙することしかないかもしれません。
しかし、ふと顔をあげて、そこに「戦争を起こしたきっかけの人の写真」があった場合──
皆さんは、どう感じますか?
憎い──! そう思うのが、正直な気持ちでしょうね。
でも、その戦争は「その人ひとり」が、やったことでしょうか?
「戦争は、そんな単純にたったひとりで起こせるものではない」そう思ったら……私の場合でしたら、どんなに憎みたくても「憎めない」──その狭間で苦しむと思います。
それどころか、
「何故、そんな時代だったのだろう」をまず先に、考えると思うのです。
そして、
「どうすれば、この悲劇を二度と起こさないような、平和な世の中が出来るのだろう」そちらの方に、意識を向けるでしょう。
ちなみに、イギリスは「逆」です。
あちこちに、
軍人の英雄の銅像があるのです。
もし、日本が戦争に勝っていれば、同じことになっていたでしょう。
負けたから、戦犯と呼ばれるようになったに過ぎません。 そして逆に、イギリスが戦争に負けていたら──公園のどこにも、「軍人の銅像」が飾られることはなかったでしょう……。
中国や隣国の方々が、
「何で靖国に参拝するんだ! 何で戦犯が眠る地を参拝するんだ!」と言われた際、
「私達は、誰だって『戦犯と言われる人達が犯した過ちの可能性を秘めている』のです。こうして毎年参拝するのは、ただ拝みに来ているのではありません。『これからの未来の為に、どうしたら二度とこんな悲劇を繰り返せずに済むのか』そのことを自分自身で省みる為に来ているのです!」 そう世界に向けて断言できる政治家がいない──ということは、至極残念でなりません。
人は何故、社会や世界で起きた事象を、「たったひとりのせい」にしたり「ひとつの組織のせい」にしたりするのでしょう。
戦犯(という言い方自体、私は好きではないのですが)が埋葬されているというだけで、多くの方が亡くなった事実からは目を背けるていいのでしょうか?
どれほどの人達が、空襲や原爆、特攻隊として亡くなっていったのか──それをさて措いて「靖国参拝をした」だの「しない」だのと騒ぐマスコミの姿勢も、どうかと思います。
私は、「みんなが犠牲者だった……」そんなふうに思えて、ならないのです。
昨日の記事に書いたように、
「目に見えないところにこそ、思いを馳せること」──
「戦犯と呼ばれる人達は、
じゃぁ、その背景にどんな思いや決意があって、そこに踏み切ろうとしたのか」或いは
「私達が定かじゃないだけであって、本当は『戦争に駆り立てられなければいけない裏からの圧迫』」があったのかもしれません。
そういう「情報的に表立ってないもの」或いは「歴史上隠されているもの」についても思いを馳せる──それこそが、スピリチュアルの姿勢と言うことが出来るでしょう。
何かが起きた際「どこどこの国が悪い」「あの国は国民の常識が悪いから嫌いだ」など、いろいろな意見もありますが──
「そうなってしまった背景」について思い返すと、にっちもさっちもいかない「哀しい事情」があったりします。
たとえば、インドやベトナムは、観光客相手に「少しでもお金を稼ごう」と、ぼったくりをしている──というのは有名です。
でも、それは彼らが「欲」から来ているのではなく
それだけ貧しく、毎日を生きるのに必死だからと言うことが出来るはずです。
逆に、日本は海外からの人達は「礼儀正しく、きちんとしている」と言いますが
まだ、それだけの余裕がこの国にはあるからです。
決して、日本人がインド人やベトナム人より優れている、というわけではないのです。
もし、日本の経済がぐちゃぐちゃになってしまったとしたら──日本だって、大差なくなる危険はあります。戦後、GHQのトラックの後ろを、子供達が「ギブミーチョコレート!」と叫んで追いかけ回し、車から投げてもらったチョコを喜んで受け取ったり、夫が戦死した奥さんが外国人相手に売春婦をしたり、など──今のフィリピンやタイなどと、大差がないのですから。
みんな、「生きる為に必死」だったのです。
それは、今のインド、ベトナム、中国、中東の貧しい国々だって同じでしょう──。
もっと大局的な視点でみれば、新聞の一面で大騒ぎしているようなことも、
「実は些細な出来事に過ぎなかった」ということがわかるようになれるかもしれません。
私は、自分自身が「第二次世界大戦時、多くの日本人達の犠牲があってこそ今の平和がある」という思いがあるせいか、マスコミの「またもや靖国参拝!」という文字を読むと、とても哀しい気分になります。
空襲の犠牲にあった市民や、学業の夢を途中に戦争に行き「特攻隊」や「人間魚雷」で死んでいった若者達、原爆の犠牲にあった人々、遠く離れた南の国で軍から見放された人達は……一体、どんな思いでその言葉を聞くでしょね。
ちなみに。
本当に当時罪を犯したのは戦犯だけではなく、その報道を「嘘」とわかっていつつも流していたマスコミにもある──ということは、あまり知られていない事実なのかもしれません。
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