私はどの宗派にも属していない「無宗教」です。
いえ──むしろ、
私自身が接してきた不可視の存在や、宇宙の叡智を心の奥底から信頼しているので、無宗教、というよりも
「地球上のどの組織にも属さない、一匹狼」って言った方がいいのかもしれません。
実際には、私は10歳の頃から
「出家願望」を強く持っており、俗世を捨てて精神の高見を目指す──ということを望んでいました。
その気持ちは34歳頃(まだ能力が完全復活していなかった頃)に再び急激なほど大きくなり、とある
自称チャネラー(有料)の人に「自分は出家すべきか、それとも俗世に残るべきか」を相談したことがあった程です。
その方が、今もネットで活動されているかはわかりませんが──はっきり言って
インチキでした(苦笑)。
写真を送り、メールでの鑑定だったのですが、私の質問内容とはまったく関係ない返事(明らかにコピペ内容ですね。同文をみんなに送っていると思います)が返ってきて、しかも
「あなたは霊障を受けてはいません」とか、まったくトンチンカンな返答だったのです(苦笑)。
「そんなこと、聞いてないっつーの!」みたいな。
「ちゃんと文章読め、文章!」とキレたかったです。
まぁ──インチキと決めつけてしまうのは、申し訳ないかもしれませんね。
ただ単に、最近流行のスピリチュアルにのって
自分も霊感があるんだと勘違いしてしまっただけの人でしかなく、悪い人ではなかったのでしょう。
とはいえ、鑑定料1万5千円──。痛い勉強でしたね(苦笑)。
ただ、私だからまだ良かったですが、お子さんとか愛する人を亡くし、本気で藁にもすがる思いの中申し込みされた方がいたとしたら──あのインチキ返答は「気の毒すぎ」です。
その方に悪気はなかったにせよ「廃業」されていることを、願う次第です。
傷つく人が増えない為にも、
そして同時に、「その方自身が、これ以上過ちを犯さない」為にも。
※余談※
みなさん、くれぐれもお気をつけくださいね。未だにこうした「自称チャネラー」は大勢います。
インターネットの世界は「言ったモン勝ち」な世界なので、大袈裟に自分の能力を誇張し、さも高貴な神、さも高貴な存在が守護霊としてついているなんて言っている方は「要注意」ですよ。
私は、このブログで体験談をお話しましたが、一度も、私についている「ガイドの話」についてはしていません。
理由は、「する必要がないから」です。
必要なのは、ガイドがあ~せ~こ~せ~言ったことよりも私自身の「行動でしかありません」。ガイドがどんなに立派なことを言ったところで、自分が何ひとつ行動出来ていなければ、無意味なのです。
どんなに立派なガイドがついていようが──それが大天使だろうがイエスだろうが、お釈迦様だろうが、そんなこと自体は「どうでもいいこと」で、大切なのは「本人が何を望み、何を考え、何をしようとしているのか」それに尽きます。 私がそれほど出家願望があったのに、何故、出家しなかったのか──理由は簡単。
「一門に下る」ということに、抵抗があったからです。
私は、「真理の全貌」がみたい。その為には、ある一部分のみに属して、そこの深みだけを研究しても「決して全貌は見られないだろう」──そう思ったのです。
人間の肉体で、例えてみましょう。
キリスト教(プロテスタントもカトリックも、ひとまず一緒に考えたとして)が「内科」、
仏教の浄土宗が「胃腸科」、
禅宗(正式には道元禅と臨済禅がありますが)が「整形外科」、
真言宗が「呼吸器科」、
イスラム教が「神経外科」だったと、仮にしましょう。(※宗教は実際にはもっといっぱいありますが、長くなるので割愛します。あと、科の例えは思いついたものを順不同に書いただけなので、意味はありません。)
その中で、私は「禅宗をやりたい!」として出家したとします。
でも、そこで学べるのは「整形外科」でしかありません。
勿論、呼吸器科の人や胃腸科の人に比べたら、かなり本格的に「人間の骨格」には知識がつくでしょう。
でも、それは
人間の一部分でしかなく、真理の全貌では「ない」のです。
それが、私にとっての「迷いの一因」でした。
私がしたいことは「多角的に見る」ことであって、ひとつのところから──例えて言えば、
「井の中の蛙」になって大海を知らないまま、天の深きを知ることが「目的ではない」からです。
こんな面白い例がありました。
私が大好きな「
デイリーポータルZ」というNiftyのサイトがあるのですが、その中でずいぶん前に
「河原で穴を掘ろう」という企画があったのです。
30を超えた男性二人が、黙々とシャベルで穴を掘っていきます。
その時に、二人は「あることに気付いた」のです。
よく「広く浅く」「狭く深く」というが、あれは嘘だ。深く掘る為には、「広く」掘らなければならない──と。
実際に自分が穴を掘る場面を想像したとしても、確かに、「深い穴」を掘ろうと思えば、絶対に間口を広くさせなければ、深くまで掘れません。
これはある意味
「真理にも、あてはまるのではないだろうか」──そう思いました。
間口を狭く、狭くしてしまえばするだけ、「真理の深みには、達することが出来ない」。
だからこそ私は、現在最新物理学に限らず、日本の古代史(主に縄文時代の史実と蝦夷の行き先を調べています。いずれ詳しいことは、このブログでご紹介します)など、あらゆる異なった分野から切り込みを入れています。
それだけ間口を広げても──辿り着く真理は「たったひとかけら」なのでしょう。
ひとかけらの真理を探究する為に「100倍の努力」をしたって、私は惜しくない──そう思います。
そんな理由から、私は「出家する」ということを断念しました。
それは「私の道ではない」そう思ったからです。
私はそこまで徹底して考えた挙げ句に「宗教は、自分の道ではない」と決めたのです。
しかし、最近は「多少の情報を聞きかじった程度で宗教批判をする人」が多い印象を受けます。
宗教がなんたるかを知らない癖に、無闇に宗教批判をする──これは、一種の排斥や差別に近いです。
確かに、キリスト教などはローマの国教に取り入れられ、聖書の改ざんがされたあたりから「政治に利用」されるようになりました。
しかし、それは「宗教」のせいですか? そうではなく、
「それを悪用しようとした政治家達の悪意」の方が問題なのではないでしょうか?
ヨーロッパ暗黒時代、ペストや流行病で次々と人が亡くなっていった際、教会は「免罪符」を発行し、そこで多額なお金をとって「これがあれば病気にならない」というようなことを言いました
(って、これって、今でもスピリチュアルで普通にされていますよね。「このパワーストーンを持ってると幸運になれる」とか; やってることが大差ない、と思うのは、私だけですか?)。
それをしたのは確かに教会側ではありましたが、宗教の信仰をしている人達「そのもの」に問題があったわけではありません。
いつの時代だって、そうやって
何らかの権威を利用して、人々を支配しようとしてきた人達は少なからずいました。
しかし、それを十把一絡げで「宗教は悪い!」とする姿勢──それもまた、早計だと思うのです。
キリスト教信者の中には、到底、私たち一般人では真似出来ないぐらい「立派な行為」をしている人達が大勢います。
それこそ無名で、亡くなっても日本の新聞記事にさえ掲載されませんが、聖書の研究をしている一部の牧師達は、アフリカにある「エイズ専門患者」だけを看病する教会を立ち上げ、そこで
無料奉仕をしていました。
ところが──何の罪もない彼らは、村人達に「エイズ患者を庇っている」という理由だけで、全員(ボランティアの牧師を含め)焼き討ちにされた──という事件が、今から5年以上前にあったのです。
私はたまたまコラムで読んで知りましたが、報道はされてないので、多くの方がこの事件を知らないでしょう。
また、ルワンダ紛争時には、クリストファー神父という方が、国連職員としてルワンダに派遣されていましたが──キャンプに残された2500人以上のツチ族達をおいて国連軍が撤退しようとした時、ただひとり、神父だけがその場に残った、ということもありました
その心境を、想像できますか?
キャンプの周囲には、今にも殺害を待ち望む人達が「ピーピー」と笛を吹きながら踊っていて、周囲には、ツチ族の方達の遺体が横たわり、暑い気候の中で死臭が漂う──人々の阿鼻叫喚を前に、神父は「そこに残る」ことを決意したのです。
それは、ひとえに
彼が、心から神を信じていたからでした。
彼の信仰は、「神はきっと助けてくれる」──そんな甘いものではありません。
神父は殺されるのを覚悟でその場に残り、ひとりでも多くの子供達を助けようとして──その途中フツ族に見つかってしまい、自分の教え子によって、殺されたのでした……。
こういう人達は、キリスト教の信者の方に「とても多い」のです。
イエスの生き方同様に、
「自らも、喜んで善行に身を捧げよう」とする人達。 そういう人達の生き様に敬意を表すこともないまま、昨今のスピリチュアリストは安易に「キリスト教批判をしすぎではないか」そう思うと、憤りを感じることもあります。
大切なのは、「教義を信じること」ではなく
「神(真理、或いは宇宙)を信じて、『如何に自分が行動するか』」だと、私はそう思うのです。
私は、確かにこれからの時代
宗教は、必要なくなってくるだろう──そう思っています。
一元性に立ち返れば、自ずと
「分裂されているものが、融合されていくから」です。
しかし、「ひとつの文化」としてキリスト教文化なりイスラム教文化が残るのは「あり」なのではないか、そう思います。
本当にこれからの世の中を良くしていきたいと願うのであれば、確かに、「今まで歴史上の問題点」に着眼するのは必要なことですが──同時に、「よく知らないものを、安易に批判する」という姿勢もとどめるべきだと、私はそんなふうに感じる昨今です。
●多くの方に、「真剣な目で地球人類の進化に意識を向けて欲しい」と、強く願っています。
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