今回記事にする内容は、昨日軽く触れました
「体内離脱」についてなのですが、多少特殊──というか、様々な前提、喩え話をおきながら説明する必要があると判断した為、今回も数回にわたって連載しながらお話します。(一番最後に、私が離脱先に至った経緯とその先で見た世界、言われた言葉などをご紹介します。)
世の中には
人間の想念も思考も、すべては脳の電気信号に寄るものだと叫んでいる学者さんもいらっしゃいますが──それは
とても古い考え方だと思います。
今、海外の学者達はそういった旧世代の考え方を改め、
もしかしたら、最初に何かしらの意識体があって、それが脳神経を通じて三次元的に具現化されているだけなのではないだろうかという考え方が主流になりつつあるようです。
以前このブログでもご紹介しましたが、面白い実例なので、もう一度ご紹介します。
前の職場の同僚が、有名インテリアデザイナーの友人からこんな話を聞いたそうです。
彼は世界的に有名なデザイナーだったので、招かれる招待客もみな「一流レベル」の人達です。そこに、かつてのソ連で「宇宙飛行士をしながら、宇宙物理学を研究している」という人に会ったそうです。
彼は、そのデザイナーさんに
「君は、ダライ・ラマを知らないか?」と、そう聞いたそうです。
唐突な質問で驚いた上に、勿論知り合いではないので、彼は「知らない」と正直に答えました。
すると、その飛行士兼宇宙物理学者は、こう言ったそうです。
「もう、我々の宇宙物理学では『どうやって宇宙が誕生したのか』まで分かってきている。でも、問題は誰が、その宇宙を創ったのかということだ。ダライ・ラマなら、その答えを知っているかもしれない──と思ったのだが……」と。
某番組で頭っごなしに否定しているO教授が聞いたら、何て答えるのでしょうね(笑)。
※余談※某教授も実際は国際科学研究に関するディスカッションやパーティに参加されているはずだから、色々な方をご存知のはずでしょうに──それでも、彼のあの頑なな「否定派」の姿勢は、彼のポリシーなのか、或いは、「ただのパフォーマンス」なのか。一体、どちらでしょうね。
前者であれば、私は納得します。それはO教授の価値観なので、それを貫こうとする信念はどんなに方向性が違えど、その信念は敬服に値するからです。
しかし、ただのパフォーマンスやお金稼ぎの為に「人々の真理探究に対する情熱を削いでいる」のだとしたら、これは許さざるべき行為ですね。 このように、日本ではまだまだそうした研究を真剣にしている方が少数──もしかしたら「皆無」かもしれませんが、世界のあちこちには、アカデミックな視点で「研究をしよう」としている人達も大勢います。
そうした人達にとって、もはや
「想念は脳の電気信号だ」なんて考え方自体が旧世代すぎて、ナンセンスになりつつあります。
例えば──皆さんに、ひとつ質問をさせて頂きます。
目の前に、リンゴを想像してください。 さて、浮かびましたでしょうか?
目の前に「想像してください」となった時、概ね人はヴィジョンが「まるでスクリーンに映る映像」のように見えて、目の前がおろそかになることが多々あると思います。
目の前にはPCや、エディターファイルが開かれているのに、それはあたかも「目に入っていない」かのように見えて、「想像物」に意識を集中させているはずです。
想念が脳の電気信号であるとするならば、
何故、そこまで明確に「人の視界」までをも左右する程の力があると言うのでしょうか? 私はむしろ、
「想念はもっとべつのものから派生している為、あたかもそれが三次元に具現化しているように見えてしまう」ということの方が答えとしてしっくり来る──そう思えるのです。
では、次にもうひとつ質問です。
先程あげたリンゴの色は、何色でしたか? 中には「みどり」と答える人もいるかもしれませんね。
真っ赤──とか、津軽リンゴ、とまで答えてくれる方がいるかもしれません(笑)。
でも、もしこれが「脳の電気信号に過ぎない」とすれば、
こんなに多種多様の答えが、果たして出てくるでしょうか? また逆に、常に「リンゴはスーパーの安売りのしか買ったことがない」という方がいたとして、その方が生まれて初めて「信じられないぐらい美味しいリンゴ」を食べたとしましょう。
「なんてことだ! リンゴって、こんなに甘かったのか!」
そう感じたとき、電気信号でしかない場合はそこで「どのようなシナプスの変化が起こる」というのでしょう?
また逆に、その人は「すごく甘いリンゴ」を食べたのがその時1回限りで、あとはずっと「いつものスーパーのリンゴ」に戻ってしまったとしましょう。
その時また、シナプスは何らかの動きをするのでしょうか?
そうやって理詰めで行けば行くほど、「想念は電気信号だ」という考え方には
大きな矛盾が生じるのです。
これらを矛盾なく、分かりやすく説明しているのが、
ルドルフ・シュタイナーです。
以前、軽く紹介しましたが、彼は「肉体・エーテル体・アストラル体・自我(と日本訳は書かれていますが、本来は霊的個性と言うべきかもしれません)」の四種に分れており、その中でも
アストラル体は、「悟性魂・感覚魂・意識魂」の三種に分れる──と説明しています。
まず、「リンゴ」を認識するのは「悟性魂」です。
その後に、それを食べて「美味しい!」「すっぱい!」「かたい!」色々な感情を生み出すのが「感覚魂」です。
そして、「あの美味しいリンゴを、また食べたい」とか、或いは「私ひとりじゃ勿体ない。みんなにも食べさせたい」そのように、
「ひとつの行動に対して、どのような反応を示すか」が「意識魂」の働きです。
こういう流れで行けば、「違うリンゴを食べるたびに、シナプスの動きに変化が生じて云々」という矛盾は解決します。
むしろ、シュタイナーの言う「アストラル体」を視野に入れれば、
無限大に記憶が広がると言っても過言ではありません。
よく、年をとると「物覚えが悪くなる」「記憶力が悪くなる」と言いますが、実際にそれは
「脳は電気信号だから、許容範囲を超えると入らなくなってくる」と勘違いしている科学者の言動に惑わされているに過ぎない──そう思います。
脳細胞の成長は25歳までで、そこから先は「下降する」という──あれも違うと、私は思います。
何故なら、
私の記憶力や速読力、習得率は、25歳を超えてからの方が、より大きく成長したからです。
霊の成長は肉体の衰弱と必ずしも比例しません。私たちが記憶したり、何かを体験した場合それを心の中で掴んでいるのは明らかに
脳ではなく、アストラル体(霊体)なのです。
脳は、喩えて言えば
端末でしかなく、メインコンピューターではありません。
メインコンピューターはむしろ「霊的個性(シュタイナー日本語訳で言うところの自我)」なのだと思います。
勿論、端末を大切にしておかないと、どんなに高度な電算処理をしたくても出来ないので、脳の健康を保つのはまず第一条件ですが……。←自分自身への戒めの言葉:
「想念は脳の電気信号だ! 夢も、電気信号でしかない!」
「死んだらすぐに人は無になる。死後の世界なんて存在しない。死んだら終わりだ!」 そういう考え方が、今、まさに「時代のどん詰まりを生んでいるのだ」ということを、そう叫んでいる方々は自覚がないのかもしれませんね。
でも、実際は
意識というものにも階層(振動数・或いは周波数)があって、それはある一定の三次元枠にはまっていたとしても、仕組みとしては霊界やその上の次元と大差ないということを、私は自分の体感で実感してきました。
明日はそのあたりのことも、詳しくご説明したいと思っています。
●多くの方に、「真剣な目で地球人類の進化に意識を向けて欲しい」と、強く願っています。
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