最近私は、アメリカのドラマ「
スーパーナチュラル」にはまっています。
とはいえ見始めたのがつい最近の為、40本以上に渡る全作を通して見ることは難しいので、あらすじを読んでは全体のストーリーに関係ありそうなところだけをピックアップして視聴している次第です。今はそんなつまみ食い状態ですが、機会があればいずれは全作通して観てみたいと思っています。
スーパーナチュラルは、本来ドラマに興味のない私でさえ名前を知っていた程メジャーな作品故、ご存知の方も多いことと思われます。
簡単に説明しますと、サムとディーンという二人の兄弟が、母親の不審死をきっかけにいわゆるゴーストバスター(映画の中ではハンターと言っています)的に悪霊や怪物と戦っていく──という話です。オムニバス形式で一話ずつ完結していますが、全体を通して流れるひとつの「計画」みたいなものが存在し、各シリーズを通して少しずつその計画が明かされていく──というものです。
その内容だけを見るとよくありがちな完全懲悪もののように思えたので、最初は食指が動きませんでした。しかし実際に観てみると、悪魔の計画とは別の流れで神々の計画があったり、その神々の計画の全貌も途中まで不透明だったりと、視聴者を引っ張る要素が個々彼処に散見されました。流し観程度で終わらせるつもりが、その要素にすっかり引っ掛かってしまい(ミイラ盗りがミイラになりました;)──時間を作ってはDVD視聴をしているという有様です。
しかし、こうした西洋における
「神 対 悪魔」という図式を改めて眺めていると、いくつか疑問点なども湧いてきます。
西洋においては悪魔祓い──エクソシストやオーメンなど、オカルト映画には決まって「悪魔」という文字が見え隠れしています。
そこに出てくる悪魔は恐怖の対象であり、同情の余地さえない「絶対的な悪」です。
逆に日本の怪談などと比較してみると、日本ではこうした悪の権化とも言うべき「絶対的な悪」というものが存在しません。耳なし芳一にしろ、お岩さんにしろ、どこか身近で、かつ誰でもなり得る可能性を秘めた存在が怪談に出てくるケースばかりです。
反対に、西洋では悪魔の存在にそんな身近さを感じさせません。
むしろ神との対極として悪魔を描いているケースの方が多い為か、人間はもっぱら抗うことが出来ず、殺されるか、或いは従うだけという図式がほとんどで、そこに人間側における選択の余地すらありません。(ただし、西洋で悪魔と呼んだ存在には、教会が絶対的権限を持っていたが故に口実として悪を利用した部分もある為((魔女狩りなど))一概にすべてが神との対極──と言えるわけではありません。その為ここでは、純粋に悪を「概念」としてだけ捉えて掘り下げたいと思います。)
この差はおそらく、西洋が
唯一絶対神という一神教だったのに比べ、日本の民間信仰が八百万の神として、神の存在をひとつに絞らなかったことが起因しているのでしょう。
神がひとつでないならば、悪もひとつであろうはずがないからです。
日本人はひとりの神に絶対権限を与えなかった分、悪にも絶対権限を与えないという背景があったのだろうと考えられます。
これは欧米人と日本人の違いを考えるに、とても分かりやすいものです。
日本の場合は八百万として「
身近なものが神になる可能性を秘めている(氏神様などは、まさにそうですね)」のと同時に、「
身近なものが良くないもの(悪霊など)になる可能性も秘めている」という、善悪表裏一体の関係性を無自覚ながらも認識していたかのように思えたからです。
善も悪も紙一重で、神か悪かの境目は皮一枚に至るぐらいのとても薄いものである──そんな日本人の感性が、そうした思想の背景に伺えます。だからこそ、人の子供をさらって喰らう母親が鬼子母神として神になったり、厄を呼び寄せる存在さえも疫病神と呼んだのかもしれません。
従来の西洋的考えにおいて「悪」というのは、常に外部に存在していました。
しかし私は本来、
悪は、自分の内面にある──そう思っています。
また同様に、
神性もまた、自分の内面にある──そうも思っています。
私たちは否が応でも「自分の内面世界」の中で生き続けなければなりません。
どんなに客観的なデータを持ち出したところで、その客観的なデータを認識するのは「自分自身」です。自分の認識を他の人に任せることなど、到底出来ません。
そうである以上、認識をするに至る判断も、私たちは「自分自身」でしなければならないのです。
だとしたら、ある某かの存在を認識しようとした際、その存在を「善か悪か」と判断するのは、自分自身以外「誰もいない」ということになります。
すなわち、外部に悪の要素があったとしても、結果的にそれを受け入れるかはね除けるかは「個人の選択の領域」となり、それはとどのつまり
自分の内面に、呼応する悪が存在するか否かで決定づけられてしまうのではないか──私はそう思えるのです。
UFOコンタクティーであるマオリッツオ・カヴァーロ氏やハワード・メンジャー氏は、「高次元にも好戦的な存在(悪の部類に含まれるような存在)が少なからずいる」ということを述べています。
また、膨大な霊界日誌を残したスウェーデンボルグは、「悪は、最低限においては神にとって必要なものである」という発言もしています。
私自身、完全なる神の領域以外には少なからず「相対する力関係の存在」はいるだろう──そう思っています。
何故なら、絶対的唯一だけの領域になってしまえばそこには認識が働かず、ただ「存在するだけ」となり、成長もなければ発展もないからです。
宇宙が常に発展を繰り返す存在であることを思えば、少なからずそこには成長を促す要素が必要となってくるのでしょう。
私たち人類の段階では、まず「自らの内にある悪」を除外することの方が先決のような気がします。
昨今はイルミナティや闇の組織といった考え方が多いですが、某かの団体や集団に対してその判断を下すことよりも、まずは「自分の内面にある悪」を締め出し、容易に外部の意見に染まらないようにすることの方が先決だと、私には思えるのです。
イルミナティや闇の組織といった外部に悪の存在を見出すのは、欧米諸国の従来の思考法に準じているかもしれません。
しかし、日本人の本来の特質で考えれば、
「悪は自らの内部にも存在し、人は容易に正しい道を踏み外す。だから、自分をいつでも律する必要があるのだ」という考えに至ることでしょう。
善悪は対極にあるのか──もしくは、表裏一体の関係なのか。
善悪は外部にあるものなのか──もしくは、自分の内面にあるものなのか。
似ているようでありながらも、そのどちらを選ぶかで、思考の方向性が変わってくるのかもしれませんね。
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