私が幼少だった頃は今程スピリチュアルな概念が浸透していなくて、もっぱらホラーやオカルト要素の強いものばかりが流行っていました。
四次元という言葉が流行ったのもその頃のことで、当時、四次元をテーマにした海外のオムニバス形式ドラマが放映されていたのを覚えています。
また、今では考えられないことでしょうが、自殺の名所にカメラが潜入するということもやっていました。私が6歳頃に見た番組では、華厳の滝の水底にカメラが潜入するという──今では放送倫理的に絶対あり得ないような番組もあった程です。しかも、途中で溺死したと思われる人の遺体まで放映されていたのだから、改めて考えるとすごい時代でした……。
あの頃、「死」というのはどこかダークで、生の輝きから見捨てられたものという概念が浸透していました。
心霊写真や幽霊物語というのもおどろおどろしいものがほとんどで、死後の世界について正当に語られたものはほとんど無かったように思います。それどころか、そうした番組に出てくる霊媒師は決まって霊に対して叱りとばすように怒鳴るので、何だか霊が気の毒に思えた程です(礼儀として、そもそも「どうよ」と思っていました──)。
私自身は体験談でも書いたように、そうではない者達(光の輝きを持った存在)との交流もあった為、こうしたダークなイメージに対して嫌悪感がありました。
しかし年齢が進むにつれ、「自分の方が、おかしいのではないか?」「世の中の多くの人が言っている以上、目に見えない世界はすべて暗い世界なのではないだろうか」という疑念も持つようになってしまったのです。
そう思うと、情報の力というのがどれほど影響力を及ぼすのか──改めて考えずにはいられません。
あの当時に比べたら、今は遙かに変わってきた──そう思います。
少なくとも、
「死」という概念そのものが変わってきたというのは大きなポイントだと思います。何故なら、「死」という自覚を持つ霊が増えるということはもっぱら、正しく魂の故郷に戻ることの出来る霊が増えたということに繋がるからです。
目に見えない世界──不可視の世界は、何も霊だけの住処ではありません。私たちが生きている上で抱く想念もまた、不可視の世界に存在しています。現実世界は、そうした想念の表出した氷山でしかありません。そういう意味で考えれば、死者の霊も生きている霊と共に存在すると考えることが出来るかもしれません。
死者の霊は肉体を持っていないだけで、想念の部分においては生きている人と何も変わりません。だからこそ、憑依などといった現象も当然起こるのでしょう。
スウェーデンボルグは「人間は誰でも霊の影響を受けており、まったく受けていない人は存在しない」と著述に書いていましたが、想念を液体のようなものと考えればそれは至極当然のことと言えるでしょう。(逆に言えば、だからこそ私たちは自分の心根がどのようであるのかを、常に意識しておく必要があるのだとも言えます。そうでなければ、私たちは自分の抱いた負の想念だけでなく、多くの目に見えない霊達の負の想念にも共鳴反応してしまうかもしれないからです。)
ただ、少なくとも「霊とは何か」「死とはどういう意味か」「死後の世界は実在するのか」そうしたことを本や情報から学んだり、考えたりすることで、生きている間に
霊の進化は自ずと進むのだろうと、そう思えます。
死後の世界や不可視の世界を考えるのは、現実逃避でも何でもありません。
実相の世界に意識を投じるということは、想念の表出であるその人の人生そのものにも、望ましい影響力があると思えます。 現実社会において様々な問題が浮上している今だからこそ、死の意味について──霊の存在について──そして、自分という霊体についてなど、あらゆる不可視の世界に思いを廻らせることは大切なことなのかもしれません。
●多くの方に、「真剣な目で地球人類の進化に意識を向けて欲しい」と、強く願っています。
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