自由意志──この問題は、西洋においてとても重大なテーマでした。
それはカルヴァンの予定説からも窺い知れるように、キリスト教圏内においては「神がすべての重要事項を握っているのか否か」ということが、議論のテーマにあがりやすいものだったからかもしれません。
「すべてはすでに、決められている」という宿命論は近代において覆されましたが、未だに「人類は自由か、否自由か」という問題の明確な答えは出されていません。
東洋においても、孫悟空の話などはそのテーマに付随したものでしょう。私たち人類も孫悟空同様、「お釈迦様の手の内」の中でこそは自由であっても、それ以上の自由が果たして与えられているか──と言えば、答えはNOなのですから。
ですので、ここで挙げる「自由意志」は、
選択の幅と定義することにします。
自由という命題はとても深いテーマで、簡単に述べられるようなものではないからです。
自由という問題に焦点を宛てたら、まず
「完全な自由は、本当の自由と言えるのかどうか」という問題から始まり、究極的には
「否自由とは、はたしてどういうことを言うのか」「現代は本当に自由なのか」というところまで派生します。それではこの連載でテーマにしている的から外れてしまいますので、今回は
選択権を与えられているという前提でもって「自由意志がある」という条件にすることとします。
実はこの「選択権を与えられているか、否か」というのは、とても身近な問題としても考えられるテーマだったりもします。
子供を育てている親の立場にある方は特に、この問題を痛感するでしょう。
親心としては、将来安定した職について欲しい──とか、ある程度経済的に余裕のある職種を選んで欲しいとか、色々な思いがあるかもしれません。しかし、子供が果たしてどんな道を選ぶかというのは、あくまでも
子供次第です。
仮に、創造主達(親)にとって「こうなって欲しい」という人類(子供)への願いがあったとしましょう。しかし、子供である人類は選択権がある故に、親の立場たる創造主達の思い通りにはならないかもしれません。聖書にある「放蕩息子」ではないですが、そういう意味では本当に人類は「親の心、子知らず」なのでしょう。
さて、ではその視点を逆に変えて、第二の地球──私たちが「親」の立場である世界で考えてみます。
みなさんは、
第二の地球人類に、どのようになってもらいたいでしょうか? たぶんほとんどの方は、
「幸福で、平和な世界を築いてくれればそれでいい」──そう願うように思います。聖書に出てくる「産めよ、増やせよ、地に満ちよ」というのは、意外に創造主の本音なのかもしれません。
と、言うよりも、
生命の基盤たる原動力は、種の存続と繁栄、ただそれだけなのでしょうね。そこには何の恣意も策略もなく、ただ新たなる生命が満ちることへの喜びだけが存在する。
それこそが、親心──「神心」なのかもしれません。
前回の記事に「新たな世界を築こうとする動機こそが、重要になってくる」という話をしましたが、それこそがここにかかってきます。
例えば新たな人類を奴隷や、もしくは植民地化させることを目的に創造するのであれば、
まず間違いなく、「産めよ、増やせよ、地に満ちよ」とは思わないでしょう。 何故なら、支配はある程度限定された人数の方が扱いやすく、数が増えれば増える程、叛乱分子が産まれてくる危険性が増すからです。そのような危険を、支配者側がとるでしょうか?
前回のシミュレーションの枝分かれで、このブログでは「愛の受け皿」として第二の地球を想像していくこととしましたが、もし読者の方の中で「支配・奴隷」を目的としてシミュレーションを続けている方がいらしたら、この「道程の差」について考察頂けますと幸いです。おそらく、興味深い差違が見られるような気がしますので──。
そうした前提を踏まえて考えてみたとしても、俗に言われる
「地球人は宇宙人の奴隷説」は、「理論的に否定出来る」ということが、お分かり頂けると思います。
少なくとも、この地球は私たちが第二の地球に施しているのと同じように
愛の受け皿としての目的意識が少なからず入っていたのだ、ということが実感出来ます。
そして、そうであるからこそ創造主達は「人間に自由意志」を与えてしまったわけですが──。
冒頭に書いたように、その自由意志が「完全なる自由と言えるのか、否か」という問題は抜きにしても、いずれにせよこうした「選択権」が、皮肉にも母なる地球の命をも脅かしているという、諸刃の刃になってしまっている現状があるのです。
私たちは、この「諸刃の刃」を第二の地球人類に与える時、どのように気をつけていけば良いのでしょうか。
さて、みなさんだったら、「進化と発展における選択権」を第二の地球人類に与えた後、
どのように彼らを誘導していくでしょうか? 自由放任でしょうか? それとも、陰ながら誘導をしていくでしょうか?
ここでひとつ、大きな謎が残ります。
というのは、
選択権を持つ人類を放置しておいた場合、何故、悪化してしまうケースの方が多いのだろうということです。
これは古代中国の思想で、「性悪説」「性善説」の問題にも絡んできます。荀子は「性悪説」を唱え、人間の本能はあくまでも「欲望的」であると考えていました。その為、後天的な習慣による矯正や努力が必要だ──と提唱したのです。
一方、孟子は「性善説」を唱え、人の本性は最初から「善」であるが、放任することで欲望に引きずられることが多くなるので矯正が必要──という考え方を提唱しました。
この二つ、一見対峙しているように思えますが、言ってる内容は同じ……すなわち
人間は規制がなければ、悪に傾くということを両者共に言っています(注※ここで悪と言っているのは必ずしも犯罪などではなく、怠惰や堕落といったことを示しています)。
そう考えると、まるで
自由意志(選択権)を行使する際、人間は必ず「怠惰」の方にしか使わないとでも言っているかのようですよね。
勿論、それは極論とは言えますが──必ずしも否定は出来ません。何故なら、今の文明がそれを如実に証明しているからです。
人間は「便利さ」を追求し続けてきましたが、その結果、生み出された現代の特徴は如何でしょうか? かつて昔に生きた人々よりも「怠惰になっている」と言うことが出来るのではないでしょうか?
何故、自由意志(選択権)は必ずといっていい程、荀子が言うような「悪」の方に傾くのでしょうか?
私は、この理由につき
DNAに刻まれた、太古の記憶が原因なのではないか、と考えています。
ジュード・カリヴァン博士は、エハン氏との対談本の中で「人のDNAには、カタストロフィーを受けた時の記憶が刻まれている」ということを述べていました。
「DNAに記憶が刻まれている」と言われると「??」と思われる人もいるかもしれませんが、私は総じてあり得ることだと思います。いえ、それどころか「科学的に、普通に認められていること」でもあると思うのです。それは、胎児が子宮の中で変貌していく姿を思い浮かべれば、すぐにご理解頂けることでしょう。生物の形態をDNAが記録保存しているのであれば、「太古に起きた事象の影響を、記録保存していても不思議ではない」そう思えるのです。
私たちの地球では、多くのカタストロフィーがありました。その詳細については諸説分れますが、総じて「大きな天変地異があった」ということについては、どこの伝承でも認められています。
だとしたら、それが人類規模の記憶としてDNAに残っていても不思議ではありません。そして、集合無意識にインプットされた「カタストロフィーの恐怖」が、いつしか人類に「根源の恐怖」として刻み込まれ、それがゆくゆくは「刹那的な衝動」へと移行していったのではないか──私は、そのように考えています。
だとしたら──。
仮に、第二の地球に「カタストロフィーが『ない』」としたら、同じ自由意志を持っていたとしても、地球人類とはまったく異なる進化を経ることになるはずです。
「自分たちにないもの」を想像するというのはなかなか至難の技ですが、「自由意志があっても、欲望に傾かない人類」が誕生したらどうなっていくのか──次回以降、想像していきましょう。
(お詫び)
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