非常に緊急性を感じた為、今回もまた臨時に内容を変更します。
昨今、古事記や日本書紀に出てくる神々の名を語り「神託」を受けたとしてブログなどに記事を書いている人たちが多々見受けられます。
私はもともと宗教学、哲学などアカデミズムな方面から入っている為、元来の宗教に対する抵抗はありません。
しかし、安易に「神託」として言葉を発する行為に対しては、甚だ怪訝視しています。
もっとも、そうした人たちが
本当に、人類みなにとって平和になるような発言をしているのであれば、私もこのように反旗を掲げるようなことは絶対にしません。そうではなく、
多くの日本人に誤解を植え付け、間違った方向に先導しようとしていることが垣間見られるからこそ、危機感を感じ、また、猛烈な憤りを感じているのです。 こうした日本の神々の名を語り、神託を述べる人たちのひとつの特徴として言えるのは、
日本民族の特別視です。日本民族は神性をもっていて、優れた民族だという考え方です。
でも、みなさん──ちょっと待ってください。
今の日本をみて、
本当に優れた民族だと思えますか? 日本が貧困国に寄付する年間食糧の何倍にもあたる食料を大量廃棄をしているという事実が周知のこととなっているのに、いっこうに現状が改善されないような国が、優れた民族の国なのでしょうか?
「調和性がある」といいますが、いじめで自殺していく子供達が依然続くこの国のどこに、調和があるのでしょう?
「愛国心」と言いますが、日本だけをえこひいきするのは「愛国心」とは言えません。
本当の愛国心というのは、
他の外国人の人たちも同様に、自分たちの国に対する愛国心があるのだということを理解出来ることこそが、本当の愛国心ではないでしょうか? 国を大切に思うことは、家族を大切に思うことと同じです。
しかし、
もし、自分の家族が間違ったことをしていたら──罪を犯していたら、どうするのでしょうか? 涙を流してでも、その間違いを正そうとするのが本当の家族愛ではないでしょうか?
同じように、今の国の在り方が「正しいと思えない」のであれば、それを「正したい」とするのが、本当の愛国心ではないでしょうか? 第二次世界大戦時、非国民と罵られ、拷問を受けても「戦争反対!」と叫び続けてきた人たちの方が「愛国心があった」と思えるのは、私だけでしょうか?
ブログで神託を受けているという人たちの多くは、そうした社会的現状に言及することなく、曖昧模糊とした言葉の中で「愛国心」を唱えていることに、私は甚だ疑念を持ちました。
繰り返しますが、愛国心というのは
他の国の人たちも同様に持っているという、他国の人々への尊重がなければ、ただの「国粋主義」でしかないのです! 自分たちの民族を「誇り」に思うのは、いいことです。私もここで何度も書いているように、日本民族に生まれたことそのものは、誇りに感じています。
しかし、
それを「特別視」するのは間違いです! それでは、「白人優越主義」と何も変わりありません。 私たちは、
誰もがみな平等に「神の子」であるはずです。
イエス・キリストは、一言も自分のことを「神の子」とは言っていません。「人の子」と言っていました。神を「私の父」とは言わず、「私たちの父」と言っているのです。
そうした謙虚さを、神託を書く人たちも学ぶべきではないでしょうか?
神託に頼るのは、他力本願の姿勢です。
本来神性は
誰にでもあるもので、
個々人の努力と研鑽によってのみ開かれるもののはずです。
人間が生み出した「言葉」如きに、翻弄されるべきではありません。
それならば、
行動で示した方が遙かにいい──私はそう思います。
スピリチュアルなんかまったく知らなくても、
アセンションなんて言葉をまったく知らなくても、
ましてや神々の名になんか、まったく興味がなかったとしても、
それでも、自分たちよりも恵まれない国々の人たちの為にボランティアをしたり、
お年寄りの介護をしたり、
「助け合う」という行為を実践している人々の方が、
「遙かに神性があるのではないか」私はそう思います。
今の時代に本当に必要なのは「神の言葉」ではなく、「神に似せた行動」──いわば
「愛の実践」であろうと、私は思っています。
そして、私は願わくば「後者でありたい」──常に、そう思っています。
●多くの方に、「真剣な目で地球人類の進化に意識を向けて欲しい」と、強く願っています。
また、毎日の記事を書く為の「大きな励み」になっていますので、クリックのご協力をお願い致します。(いつも押して下さっている皆様、本当にありがとうございます。)


◇メインサイト◇