KY──という言葉を耳にするようになってからさほど経っていませんが、短期間でこれほど周囲に浸透した言葉も珍しいように思います。
もともと流行語にはあまり興味のない私ですが、何故かこの「KY」に関しては割と普通に使っているような気がします。テレビでコメンテーターなどが的の外れたことを言ってたりするのを見ながら「KYなコメントだよなぁ」なんて呟いたりなど、利用頻度はかなり高めかもしれません。
おそらく、みなさんも同じではないでしょうか。通常の流行り言葉よりも、何故か自然に使ってしまう「KY」という言葉。
実はそれほど、日本人が「空気」というものを身近に感じていることの証なのかもしれません。日本人ほど「空気」という言葉に敏感な民族性も、そうそういないのではないかと思える程です。
先日、「空気の研究」という論文を発表した山本七平氏のことをご紹介しましたが、日本人が「空気」というものにどれほど従順だったかについては、特筆するまでもないでしょう。
また、以前の記事で「日本人は伝導体気質(液体気質)」と書きましたが、結局この「伝導体気質」になるには
取り囲む空気に敏感である必要性があったからなのかもしれません。というよりも、「伝導体気質」であるが故に「空気を読む」のか、「空気を読んでいた」から「伝導体気質」になったのか──どちらが先かは、分かりかねますが。
そして面白いことに、戦後を境に教育や文化、生活スタイルがまったく変わっても、日本人の中にある「空気を読む」という習性は「変わってない」から不思議です。特段そういう教育を受けたわけでも、家庭環境の中で「空気を読みなさい」と教わったわけでもないのに、何故、私たちは無意識のうちに「空気を読む」という習性を身につけたのでしょうか?
民族の特性は、「文化だけに馴染むのではなく、風土や言葉に馴染む」と、私は考えています。
私たちは母国語として日本語を使いますが、日本語を使っている以上
日本語の文法を無視した論理構造を思い浮かべることは不可能ですし、また
日本語の単語にないものを表現するということも不可能です。その理由は、私たちが何かを表現したり伝えようとする時にはどうしても
言葉に頼らざるを得ず、そうである以上、
自分が使っている言語による拘束というのは自ずと受けてしまうからです。(そういう意味で、文章書きは真理を伝えるのに制限が多いです。むしろ画家などの方が、率直に表現出来るかもしれません。)
日本人がいつのまにか身につけた「空気を読む」という特性も、もしかしたら「日本語」や「風土」の中に芽生えさせる要因が含まれているのかもしれません。英語などの場合ですと非常に文法がしっかりしていて、語順が違うだけでも相手に通じないことがあったりします。しかし、日本語は多少語順が違っても、雰囲気で──それこそ
空気で相手の言いたいことを理解することが可能です。
そう考えると、この「空気を読む」という習性は、日本語を使っている時点で自ずと身についたものなのかもしれませんね。風土の生み出した「季節感」もまた、日本人の「空気に敏感な感性」を生み出すことに一役買っているような気がします。
今の時代のように「何かが変わっていく流れ」にある中で、日本人の持つ「空気を読む」という習性は、うまく活かせばとてもいい働きをするように思えます。
しかし、逆に「悪い廻り」の方で感受してしまうと、悪循環になってしまう危険もあります。固形物に汚泥を落としても一点の染みだけですみますが、液体に汚泥を落とすと瞬く間に浸透していくのと同じことです。
いいものも浸透が早く、悪いものも浸透が早い──それが、「空気を読む」特性を持った日本人のサガと言えるものかもしれません。
そうした「液体気質」をうまく活かすには、
「深海の意識」でいることが大切だと思います。
先に挙げたように、液体気質の特徴として「いいものも、悪いものも浸透しやすい」というのであれば、もうひとつの特性である「流す」という作用を活かすことも出来るはずです。嵐の中、水が濁ってしまう時には深海の意識と繋がり、平常心でその嵐を受け流す──まるで「柳の強さ」のようですが、それが元来「空気を読む日本人」の、もっとも分かりやすい長所なのではないでしょうか。
KYという言葉が流行った根源には、「空気を読める感受性」を持った自分たちの民族性が描かれているのだと、私は思います。
その良さをうまく活かしながら、これからの時代──国の在り方、そして、国際社会との在り方を考えられるような生き方をしていきたいものですね。
●多くの方に、「真剣な目で地球人類の進化に意識を向けて欲しい」と、強く願っています。
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